これまでの「今日のコラム」(11月分)

2000年11月1日(水) このところ、柄(がら)にもなく何か焦りを感じることが多い。 人生の残り時間を計算する訳ではないが、時間は有限。「今のままでいいのか」が気になるところだ。自分の自由時間を考えても何に時間を使うかが問題だ。パソコンというのも時間を使う。キーボードに手をのせている時は、絵筆をとれない。そういえばしばらく「今日の作品」は新作が出来ていない。一方でやはりインターネットにも時間はとりたい。これは明らかにこれまでにないコミュニケーションとなる。・・そんなことで一念発起、これまでのペースを変えようと今夜は絵を一枚を仕上げた。そして明日は早起きをして出勤前にパソコンの 一仕事をする。これがいつまで続くか。これからの「今日の作品」をみてのお楽しみだ。
2000年11月2日(木) 昔ある時期に「棚からぼた餅」は落ちてこないと自分に言い聞かせたことがある。聖書の「求めよ、然からば与えられん」はもう少し意味は広く、今になっても含蓄深い言葉だと思う。人は結局「何が欲しいのか」。流れにまかせて何かを求めているような気になっているが実は自分で求めるものとは別 のドアを叩いていることもある。英語版のマタイを記しておこう:Ask and it will be given to you; seek and you will find; knock and the door will be opened to you . ( MATTHEW 7-7 )
2000年11月3日(金) 大リーグが来日して、日米野球をやっている。日米野球というと、もう半世紀(!)近く昔になるが、小学生の頃、父に連れられて甲子園球場に観戦に行ったことを鮮明に記憶している。当時は姫路に住んでいたが、甲子園に行くことは父の大サービスであり、大リーグの野球が見られるというので、胸躍らせた。ミッキー・マントルなどが試合の前から練習する姿が別 世界のように眩しく思えたものだ。当時はサッカーも、テニスも、水泳もない。小学生はみんな狭い道路で暗くなるまで野球をやったことが懐かしい。
野球の話題のついでに、かつて、ジャイアンツファンというより、長島ファンであった者として、長島監督について勝手な意見を書かせていただく。監督としてはどう見ても今回が引き時ということ。外野やオーナーが何を云おうとも敢然として引退を宣言すべきである。これ以上続けて老残、老害の姿をさらして欲しくない。長島人気など所詮中年族へのサービス。野球は新しいスターを作らなければ潰れてしまう。”惜しまれて止めるタイミング”を逸してはならない。

2000年11月4日(土) クリヴィヌ指揮のヨーロッパ室内管弦楽団の演奏会にいった。クリヴィヌはフランス生まれの指揮者(ただし、父はロシア人、母はポーランド人)で現在の世界のトップ指揮者の一人。(息子がクリヴィヌの指揮法と音楽に心酔していて、我が家のe-mailのアドレスはkrivineの文字の入った:krivine@dd.catv.ne.jp となっている。mail 下さい)一方、ヨーロッパ室内管弦楽団は、15の国籍におよぶ50人のメンバーが集まって、ヨーロッパを中心に活躍しているオーケストラ。人によってはウィーンフィル以上という評価もあり、これも世界のベストの一つ。このメンバーに更にマイスキーという最高のチェリストがソロを弾くチェロ協奏曲も加わった。演奏会は、このような機会に「たまたま」巡り会った幸せを心底感じさせるものであった。クラシック音楽といってもそれは明らかに現代に活きた音楽である。ベートーベンにしても、フルトベングラーやトスカニーニの指揮とは全く別 物。今現在の聴衆に十分な刺激と楽しみを与える音楽なのだ。こうした音楽会で自分で納得するのは、これも「一期一会」ということ。クリヴィヌとマイスキーとこのオーケストラメンバーとの共演に立ち会う機会は、今後私の一生でまず二度と来ないであろう。
2000年11月5日(日) 昨日のコラムに「一期一会」を書いた。広辞苑によれば「(茶会の心得から)生涯にただ一度まみえること。一生に一度限りであること」と記されている。しかし、人が一生の間にだれかと「まみえる」確率は極めて少ない。一体、人が一生の間に、何人と会う機会があるかを考えてみると、これはやはり、何か縁があると見なすのが分かり易い。まず同時代に生きている「縁」がある。 今というこの瞬間に地球に存在していること自体が特別 なことである。しかも、60億人もいる人の中で、同じ場所にまみえること、声を交わすこと、メールを交換することが如何に”めずらしい”ことか!これを「縁」と言うわけだ。この人と同時代に生きてよかった、この人と同じ場所にいてよかった、この人と親しくしてよかったと言える人を持つことが生きる幸せであろう。それが妻や夫であってもよい。あるいは事物であってもいいと思う。全ての縁とは、それを発見することから始まる。自分自身で縁の不思議さを見つけることが人を豊かにするのでないだろうか。
2000年11月6日(月) 「今日の作品」にビードロの絵をいれた。ビードロは細いガラスの筒の先端に口を当て軽く息を吹き込むと、底の薄いガラス部分が変形して「ポコ」と音がする、ただそれだけのオモチャである。こんなビードロも種類は多く、高級なものは作者の名前まで表示される。絵の横たえている小さい方のビードロはこの種類で、ガラス筒の口にはカバーまで付いていて、「ポコ、ポコ・・」という音にも品格がある。ビードロという名前はポルトガル語のヴィドロ=vidroからきたもので、江戸時代には「ギヤマン」と同じ「ガラス」(この言葉はドイツ語からの外来語だ)を意味したようだ。今でもガラス細工をビードロということもあるのでオモチャの方は「ぽっぺん」ともいうこともあるらしい。またいつか長崎に行くチャンスがあれば新しいビードロの名作を手に入れたい・・・。
2000年11月7日(火) 「知行合一」という言葉がある。「知っている」ということは「実践、行動」を伴って初めて完成する。行動が伴わなければ、知っていることにはならない、というような意で「行動」の重要性を強調するときに使われる。出典は陽明学。三島由紀夫が陽明学の説く「知行合一」そのままの実行力で生涯を閉じたように、行動を信奉する思想の原典となる場合が多い。理屈だけを言う学者を軽蔑する経済人や政治家が「知行合一」を好むのも分からぬ でもない。しかし、中坊公一も言うように、行動の前に「理念」こそ必要でないだろうか。理念のない行動なんてない方がよい「何のためにやるのか」が行動の価値を決める。ところで「心即理」(理はその心の中にある)という言葉もこれまた「陽明学」のテーゼである・・。
2000年11月8日(水) 人は変わることができるか・・というと、容易に変わることができる。今、外部から見える姿がその人だから、しばしば人は変わる:  昨年の12月にこのコラムをスタートさせた時には、毎日2ー3行を書くつもりでいた。先がどうなるか全く見通 しがないままに始めた。それがまもなく一年を迎えようとしている。自分ながら何にしても一年間、毎日書き続けることなど想像もしていなかった。これまで、自分自身が考えもしなかった世界にいる感じをもつこともある。多くの知人はこのホームページもしらない。もし、誰かがこのページをみると別 人のように変わったと映るだろう。変わることもまたいいのではないかと思うこの頃だ・・・。
2000年11月9日(木) 理性に麻酔がかかると普段にはない感覚が表れることを実感することがある。今晩は出張先で適度にお酒を飲んで、ほろ酔い加減で空いた電車に乗った。こちらは半分眠っていたが、立っている乗客もなく、何となく向かいに座っている人達に目がいった。それから、一人ずつキャンバスの枠を想像して顔に当ててみて、”絵”になる顔はないかを調べてみた。そうすると、眠っている人、本を読んでいる人、すましている人、瞑想している人・・どの顔をとってみても残らず味のある「絵」になることを発見したのだ。こんなことは「まともな時」には感じない。何か作品を作るときは、理性は多少居眠りをしてくれた方がいいのかも知れない・・。
2000年11月10日(金) 当たり前だと思っていることが、別 の目でみると「普通ではない」ことがよくある。毎晩犬を連れて散歩に行くが、夜の10時でも11時でも危険がないということも貴重な例外だと思うが、今回の話題は「ショウウィンドウ」のこと。東京の(というか日本の)ショウウィンドウというのは夜中でもシャッターをしないということで外人が驚く。さすがに宝石店などは閉店後シャッターを下ろすけれども、大部分の店はシャッターなしで夜中にデイスプレーを楽しむことが出来る。自分で外国の都市をいちいち確認したわけではないが、外国の人から指摘されると、はじめてこれは特別 のことなのかと納得する。四季がこれほど鮮明にある国もめずらしい・・などこうした事例を拾い出すのも面 白い。自分のことを知るには他の世界を知ることからはじまるのだろう。
2000年11月11日(土) 犬が子供を産んだときに、赤ん坊から子犬そして成犬にアッという間に成長してしまうことを後になって実感することがある。かわいい、可愛いといっている間に直ぐに成犬となり、赤ん坊の頃の写 真をもっと撮っておけばよかったと思っても後の祭り、二度とその時代は戻ってこない。我々の子供との付き合いも過ぎ去ってみるとこれと似ている。特に父親は、忙しい忙しいといっている間に、子供の方はどんどん成長して後になってこういう付き合いをすればよかったと思っても二度とそのチャンスは訪れてこない。自分も子供とは十分の付き合いが出来なかったと思う中で、これはやってよかったというものに「永平寺への家族一日参籠(さんろう)」がある。子供達が中学生のころであるが、永平寺に泊まり、朝は3時半に起きて寒風の中で座禅を組み、講話を聞くという経験をした。これは親にとっても、多分子供にとっても忘れられない 体験となり、後で考えると、家族でのこの種の共同 体験としてはこの機会を除いては得ることができないものとなっていた。子供が小さいときに、父親は少々無理をしても二度と来ない付き合いをすることを是非お奨めしたい。
2000年11月12日(日) 人のパソコンで自分のホームページを見ると画像が重すぎたり、配列が思うものと違っていたり、欠点ばかり目に付くことがある。絵とか文章にしても、他人から指摘されてはじめて納得することは多い。自分の意志でやっていることが理解されないこと、波長が合わないことを一々気にする必要はないが、自分自身では気が付かなかったことを教えられる「善意ある」批評は貴重だと思う。人は大体において独善になりやすい。あんなに立派な人がという人間が地位 を得て他人からのアドバイスが耳に入らなくなると、始末におえない独善(信念でない)と老害に陥ったりする。先進的なもの、オリジナルなものに取り組むときは、雑音となる批評を気にせずかつ本人だけの自己満足とならぬ ようよき批評には耳を傾ける謙虚さも必要だろう。云うのは易く難しいことだ。
2000年11月13日(月) 駅の売店でめずらしく週刊誌を買った。先ず驚いたこと第一:お値段300円。高〜い!週刊誌ってこんな値段だった?気が付いたこと第二:表紙が以前とすっかり変わっている。テニスのナブラチロアなんかを表紙にしてこれで買う人がいるんだ?不愉快になったこと第三:売店のおばさんはこちらがお金を払ったのに、「ありがとう」も「どうも」も「はい」も「へ」も、とにかく一言もしゃべらない。ひょっとして声のでない障害者かと改めて顔をみたがそうも見えない。いい年をしたオバサン、世の中楽しいことはあるのだろうか?  結論:週刊誌は自動販売機で十分。お金を払うと「ありがとうございまーす」ときっちりしゃべらせよう。
2000年11月14日(火) 「今日の作品」を「水飲み鳥」に入れ換えた。「水飲み鳥」も色々な種類を持っているが、これはワイングラスの水を飲むもので比較的めずらしい。「水飲み鳥」とは一種の物理オモチャというべきもので、温度の差を利用して鼻先を水に浸けたり離したりする運動を繰り返す。何も動力を使わなくても、永久運動をするかと思わせるほど連続して動くよくできたオモチャだ。夕食の後に、身の回りにあるものを描くとこんな絵になった。はじめに鳥とテーブルクロスを描いたが、何か退屈なので、上にいたずら描きをしてしまった。こうした好き勝手なことをするのが一番たのしい。
2000年11月15日(水) 「既視感」(デジャ・ヴユ)という言葉がある。実際には経験したことがないのに以前体験したと感じたり、初めての場所でも非常に懐かしく思えたり、はじめて会った人であっても昔からの知り合いのように感じたりすることをいう。錯覚というのとは少し違う、何か心の底の不思議さを思い起こさせる感覚だ。デジャ・ヴユという言葉を知る前に、自分でもデジャ・ヴユを体験したことがある。ある細道を歩いているとき、ふと、その時歩いていることや周りの景色が、前から決められているシナリオそのままであるよう に感じた。丁度、前世にリハーサルをした芝居を演じているような明瞭な感覚を覚えたので何故このような感じを持ったのか真面 目に分析を試みたものだ。深層心理は専門家に譲るとして、人は自分で気が付いている以上に広大な意識の中に漂い何かを求めているのでないだろうか・・。
2000年11月16日(木) 夜、犬の散歩にでる。ヒヤリと寒さを感じる季節となった。急ぎ足で2匹の犬達と一組の夫婦は街を駆け抜ける。途中でショウウィンドウのクリスマスの飾りに目をひかれた。もうすぐ年の暮れか・・。クリスマスカンパニーというこの店の直ぐ側に、猿楽塚古墳がある。ここの「盛土」と小さな森は夜でも貴重なオアシスの風情をしめす。一休みしてまた速歩。最後には50mほどを全力で走る。そして、気持ちのよい汗をかいて家に帰り着いた。
2000年11月17日(金) 週末、花金だ!張り切ってホームページ用の壁紙の絵(線の風景)を描いた。構想としては実際にバックに使って「ここを見てください」とやりたかったのが、タイムアップ。今日はあきらめて絵を取り込むまでとした。ホームページの壁紙は縦、横に繋がって貼り付けられるので、つなぎを計算したつもりだが、どうなるか使ってみなければ分からない。色も少し薄くした方が壁紙としてはうるさくなくていいかも知れない。それに、どのページに使うか、うまく合致するページを選ぶのがこれからの仕事となる。何はともあれ新しい試み。さあ、週末も忙しくなりそうだ・・。
2000年11月18日(土) 久しぶりの雲一つない快晴のもとテニスで心地よい汗を流した。スポーツは作戦や理論があるとしても基本は身体で覚える動物的な感覚である。身についていない理屈をいっても何の役にも立たない。「身体で覚える」ことが基本となるのはスポーツ以外の分野でも同じ事がいえる。今朝、船員の訓練用の帆船「日本丸」のニュースをみたが、最新のボタン一つで遠隔操作される船に乗る前に、”帆船”で汗をかく意味はとてもよく分かる。「技術」の分野でも「身につける」ことが大きな課題になっている。コンピューターに頼りすぎると大きな間違いに気が付かないことがある。頭で暗算をやれば桁数まで間違えることはないが、コンピューターはインプットを間違えるとどんな答えでも信用されかねない。暗算をやり、手で製図を書き、また手で微調整をして旋盤加工をすることは、人が技術を身につけるために必要なことと見直されている。その後でいくらでもコンピューターという便利な道具を使うことはできる。道具以前に人間が必要なのだ。「身体を使う」ことは何よりその人個人が生きている証のようにも思える。
2000年11月19日(日) 気真面目な説教師は「今日出来ることを明日に延ばすな」と云い、気楽なラテン系の人達は「アスタ・マニャーナ」(明日また)という。「明日出来ることは今日やらない」という思想も考えてみると面 白い。「明日また・・」で「今日」は何をするのか、といえば好き勝手なことをするに決まっている。それを人は怠け者という。それでは、今日やることをやった人は明日に何をするのか、明日がないときにはどうするのか。もし、癌で余命が3年と宣言されたら何をするかという話題に対して、何も思い当たらないから今のまま過ごすという人が結構多い。やりたいことがないから今日も明日も命じられるままというのもさびしい。どちらにしても、時間は限られている。自分のやりたいことについては、今日(日曜日だ)やらなければ明日は出来ないと考えた方がよさそうである。
2000年11月20日(月) ホームページの背景に使える絵(というか図案)を考えていて、昔から好きだったエッシャーの絵を思い出した。M.C.エッシャー(1898ー1972)はオランダ生まれの版画家、アーテイストで平面 を周期的に敷き詰めていく作品(エッシャー図形)や、トリックアート(だまし絵)など独創的な作品で知られる。当初、彼の作品は奇妙な画風ということで美術界では無視されたというが、その後独特な画面 構成に数学者、科学者から注目され広く知られるようになった。今では世界中にファンも多い。HP用の壁紙は正に「平面 に周期的に敷き詰める」構成からなる。エッシャー的コンピューター壁紙を考えると新しい世界が広がる。「手作り」プラスコンピューターの図式は案外面 白いかも知れない。
2000年11月21日(火) 「巧言令色、すくなし、仁」(論語/口先がうまくて愛想のいい人には、真実の心を持っている人は少ない) という言葉を中学生の頃習って、上手くしゃべる人間は中身がないと誤解したのか、口下手だった。後年、本家の中国というのは言葉としゃべりの国であることを知る。口先一つが100万の兵に相当する力となるのだ。一方で、西洋文明はこれまた「はじめに言葉ありき」(ヨハネの福音書)の伝統があり、言葉の重みは大きいし、社会生活では、文字通 り「巧言令色」や言葉、しゃべりの力を思い知らされることは多い。大体、日本ではスピーチの教育が不足している。デイベートやスピーチコンテストをやっていれば、自分も本当は結構しゃべるのが好きだったかも知れないなどと思うことがある。・・といっても、今更教育のせいにする訳にもいかない。しゃべることは、聞くことにも通 じる。「しゃべりと、聞くこと」は、これからの生涯のテーマになりそうだ・・。
2000年11月22日(水) 「あの日から、風もふしぎ、花もふしぎ」。あの日に何があったのだろう。”ふしぎ”の感覚は 子供のものに思われがちだが、実は大人になるほど、「ふしぎ」はより深く感知できるように思える。ただし、生活や実業の世界は「ふしぎ」を必要としない(そして、しばしば余計なものとなる)から不思議の感覚を忘れてしまうだけである。ある時、何かをきっかけに、あらためて「ふしぎ」に気がつくと、これまでと別 の世界が見えてくる。大人が不思議に気がつけば、それが子供に伝わる。今、子供がふしぎを不思議と思わないとすれば、大抵親か大人の影響であろう。人間だけが持つことができる「ふしぎの感覚」をもっと磨きたいものだ。(はじめの言葉は、確か数年前の永谷園のコマーシャルです)
2000年11月23日(木) 今日は、今世紀最後の「酉の市」。酉の市は東京近辺の鷲(おおとり=大鳥)神社で11月の酉の日に行われる祭礼だ。「一の酉」といわれる初酉は11日、今日23日が「二の酉」で、今年は三の酉はないので最後の酉の市となる。江戸時代中期頃から「とり」は「取り込む」につながるとして客商売の人達が多く集まるようになったといわれる。今日、日が暮れた頃、少し遠いが歩いて目黒の大鳥神社に行った。(混雑するので犬達は残念ながら留守番)人混みの中で商売の人が大きな熊手を買う度に一斉に景気の良いかけ声が響く。お金の方は逃げて行くばかりなので、せめて、少々の幸運を取り込めるように、こちらは小さな小さな熊手を購入した。もうすぐ年の暮れということを教えてくれる風物詩だった。
2000年11月24日(金) 普段の雑用(ではなく仕事というべきか)に追い回されていて、他の、より大切なことを忘れてしまったということを何度も経験した。20年も前だが自動車の免許更新をせずに再度免許を取るためにものすごく苦労したものだ。親の死に目にも間に合わなかったが、今考えるとそこで半日仕事を休んでも何も変わりはしなかっただろう。父母会などというのは優先順位 が下げられるが、その時を除いて参加するチャンスは来ない。それぞれの時点では他に変えられない仕事であったかも知れないが後で見ると大抵自己満足だったに過ぎない。・・・今日が自分たちの結婚記念日ということは、忙しさとは全く無関係に失念していた。コーギーリンクのHOT母さんが教えてくれて、我が家の夕食は即席の記念パーテイーとなった。HOT母さんありがとう・・。
2000年11月25日(土) 今日は土曜日であるが23日が休日だったので出勤日。それでも早く帰宅し、夕刻には犬達を連れて西郷山公園に行くことが出来た。この小さな公園は、都心ではめずらしく南西の方向が大きく開けていて夕日を見るのに絶好の位 置にある。(冬の晴れた日には丁度富士山の脇に日の入りが見られる)今日の沈み行く太陽はいつになく美しかった。真っ赤な太陽というが、色は赤ではなく、橙色、それも微妙に色調が変わっていく。不思議なのは太陽の周り全体には灰色の雲があること。雲に隠れるのかと思って見ていると、太陽はまん丸のまま、雲の手前に浮かんでいるように見える。しばしその理屈を考えたが、どうも正確なところはよく分からない。(どなたか、教えてください)太陽を見ながら、首を90度横に傾けると、それまでと別 の風景のように雲や木々が新鮮に見えることも楽しんだ。実のところ、散歩に出る前は相当にくたびれていたのだが、夕日を見ているうちに元気がでてくるのが自分でよく分かった。やはり、散歩はワンちゃん達以上に人間様のためになっている・・。
2000年11月26日(日) そろそろ年の暮れも迫ってきているので、古いファイルを整理していると、昔懐かしい絵がでてきた。「絵を描き始めてもう10年になるのだ」と感慨を新たにする。 自分で云うのもおかしいが、初期の頃の絵はそれなりに初々しい初心が見られて好ましいところがある。「今日の作品」に掲載したこの絵は、オランダの画家ヤン・トーロップ(1858-1928)の「子供肖像」という絵の模写 をして、当時のICチップをその周りに配置しようとしたものである。絵をはじめたころは、気に入ったものをよく模写 した。セザンヌからピカソまで、模写してみると目で見るだけでは気がつかない作者に意図らしきものが納得出来たりする。それに、模写 だけでなく、何かその時点の自分しか出来ないプラスアルファを付け加えようとした。このヤンの絵は1990年に描いたものだがICチップを分解して描いたのを覚えている。(残念ながら未完だ)面 白いのは、その時、最先端の電子部品をあえて描いたのだが、10年後の今、同じ性能のICを描けばIC一個で済んでしまうということだ。2000年のICを描き込んで置けば2010年にはどうなっているだろう・・・。
2000年11月27日(月) 名門、日立製作所の女子バレー部が廃部になるという。企業の中の運動部なんていうのは土台無理をしないに限る。新日鐵・釜石のラクビー部がなくなったのはいつだったか。どちらにしても、日本人の99.99%の人は廃部もなにも関係がない。サッカーをみるまでもなく、今は企業丸抱えのスポーツは流行らない。大体、企業名がついたチームを応援するのは前時代的だ・・と言いたいところ。・・アレレ、そうすると、今のプロ野球はどうなるのだ。読売、ダイエー、ヤクルト・・そうか、やはり、野球は21世紀には、文字通 り、前世紀の遺物と云われる運命なのかもしれない。スポーツでも、一企業に属するなどと言わずに、今は世界中を視野に入れる時代だ・・。
2000年11月28日(火) " To improve is to change ; to be perfect is to change often. " ・・これは、ウィンストン・チャーチルの言葉だという。上達し、進歩することは変わることであるということは、いつか自分の信念にもなった。人はある年に達すると変わらぬ ことが貫禄のように思うことがあるが、とんでもない間違いだ。変わらないということは進歩がないことになる。物事が順調なときには、余程変わることを意識して学ばなければ、惰性で時が流れるだけで変わることができないが、問題が多い場合には、それを乗り越えるだけで変わり、進歩する。思う存分新しいことに挑戦し、思い切り変わろう・・。それと同時に、一方では、理想というか、何か純粋なものを一つなくさないで持っていたい・・。
2000年11月29日(水) 以前、画家は目を細めて絵を見るという話を聞いたことがある。細かいところを見ないことが、大枠の構図や印象を掴むためには必要らしい。人間関係や特に夫婦の間なども同じ様なことが云えるかも知れない。余り細かいことを気にしすぎると肝心なものが見えなくなる。大切なところが理解しあえばよいということである。私が絵を見るときの判断基準は、遠景、中景、近景がどれもよいこと。つまり、離れた所で細かいところを見なくても引きつけられる魅力があり、更に近寄っても良く、詳細に見ても更に感動を与えられるものが良いものと決めている。・・とすると、この場合は人間同士、細かく見ても魅力的でなければならない。どうも人間関係とのアナロジーは難しい・・。

2000年11月30日(木) ボーナスのカミを見ると涙がこぼれそうになるが、これには触れぬ が美学・・。アメリカの話であるが、航空機の年間販売数と使用されている台数(機数)の比は、1:150であるという。自動車の場合は、年間販売台数1500万台に対し、約2億台が稼働しているので、1:13の比となる。そうするとどうなるか・・。新しく物を作るよりも、これまでに納入したもののサービスやら流通 、メンテナンスという「川下事業」の方は利益を生むネタがあるが、今や、成熟産業である製造業の方は物を作るだけでは儲けがないということになる。今までの世の中にない物を供給するなどという業界は極めて限られている。大部分の物作りはリピート作りで構造的に儲けとは結びつかなくなる訳である。考えてみると、画商でもこれまでの評価の定まった作品や歴史物で商売をする。新製作の作品は儲けとは関係がない。所詮。発明品や独創の作品作りは金作りより先に価値作りが楽しいのだ。


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