これまでの「今日のコラム」(2001年 1月分)

1月1日(月) あけましておめでとうございます! 巳年の年が明けた途端のコラムだ。巳は動物では蛇。易の意義としては「四月の陽気、陰気は全くかくれ、万物が表面 に現れ出るとき。蛇が地中から外に出るときで、「巳」の字は、蛇が曲がって尾を垂れた姿をかたどる」(吉野裕子著「十二支」より) かく言う私も巳年生まれ、山羊座。今年は個人的に大転機の年。地表にでて少しでも太陽を浴びたい!!!
1月2日(火) 正月というのは行事が多くて時間がない。・・と云いながら、昨日(元旦)も今日もお節料理を食べる前に、お節の絵を描く時間を取ったりしているから、やはり気分にゆとりがあるのだろう。・・元旦の衛星放送TVでの"New Year Concert"(ウィーンフィル・生放送)を親戚の家で見た。TVも外国からの生の中継は迫力がある。いま、この時間に世界中の人がこのコンサートを一緒に聴いている。そして地球上の色々な場所で、指揮者の仕草に笑い、感動し、拍手するということは素晴らしいことだ。今日はたまたま見たTV「世界の百名山」(写 真家、白川義員の撮影記録)が良かった。私は「仏教伝来」という写真シリーズ(約15年前に撮影)以来の白川義員のファンであるが、その後のキリストシリーズ、南極シリーズ、そして百名山シリーズと飽くなき挑戦を続ける姿勢には感動を覚える。こういうスケールの大きい、世界で誰もやったことのない仕事をする人に対しては、世界的な逸材としてもっともっと評価するべきではないかと思う・・
1月3日(水) 人工衛星から撮影した地上の情報が人の顔までを判別 できるほどに精密であるという話を聞くことがある。軍事用のスパイ衛星などの例ではそういうこともあるだろうと思っていたが、身近にインターネットで使用出来るようになると、改めてその凄さに感激する。地球上のある一点、日本、東京・・・と次々とクローズアップを続けて、ついには我が家の屋根や、庭木を見つけたときは、これは一種、世界観を変革させるようなショックである。ここを是非みてみることをお奨めする。パリ・凱旋門の屋上などそれぞれの思い出の場所を空の上から見ることもできる。今日見たものは2ー3年前のデータ(写 真)であったが、これがリアルタイムの映像となるともう世界人類同じ町に住んでいる感覚となる。日本の中なんて云うのはお隣同志ですね!
1月4日(木) 自分のパソコンの背景にパウル・クレー(スイス生まれの画家/1879-1940)の絵を入れた。4種類のクレーの絵が起動の度に入れ替わってあらわれる。クレーの事をコラムに書くために調べるとクレーは60歳で亡くなっている事が分かり感ひとしお。クレーは私の大好きな画家の一人だが、両親が音楽家で自分も音楽の道を進もうとしただけあって、作品にはリズムやハーモニーが聞こえてきそうなものが多い。クレーが作品を作る過程を記した次の言葉が興味深い:1)まず厳密に実物を模写 する 2)次に1)と反対のことをする。感じたままに線を強く描く 3)全てをはじめの状態に戻し実物と画の統一を試みる。・・・ 理屈はともかく、起動の度に「黄金の魚」(クレーのリンクあり)などの絵が見られるのは楽しいことだ。
1月5日(金) 昔、学生時代に電子計算機というものが丁度導入され始めた時期に遭遇した。一年前の先輩はタイガー計算機(手回しの計算機)を使って計算していたけれども、我々の年は、当時はじめて設置された大型コンピュータNEAC2203を使うことが出来た。そうすると、数年分の卒論に相当する計算が一年で終わる。成果 は歴然としていた。けれども、計算結果を出すまでには、大変な(とても楽しい)工夫を重ねたものだ。膨大な量 の紙テープのデータ(穴あきテープ)を読ませるときに少しバックテンションをかけると通 りやすいとか、インクで穴データの周りを濃く色を付けると間違えないとか、コンピュータにデータを読み込ますまでのテクニックがあった。徹夜をしながら何時間も計算させたのも懐かしい。・・・こんなことを思い出すのは、今、私のパソコンが調子がおかしく、なだめすかしながら使っているからだ。システム終了させても電源は切れないので一度コンセントを抜く、起動の時は上手くいくようおまじないをかけて祈る。こんなこともパソコンの楽しき思い出になるなるだろうか・・・。
1月6日(土) 今の時代はあらゆるジャンルで「大家」が消滅してしまったような印象を受ける。今の日本を代表する画家は誰だろうと云うとき、直ぐに返事ができない。「世界を代表する」としても同じだ。世界を代表する、ピアニストは?指揮者は?哲学者は?作家は?思想家は?経営者は?・・日本の財界なども随分スケールが小さくなり、思想のかけらも感じられなくなった。しかし、考えてみると特に「大家」を期待する根拠は何もない。情報化の時代には神格化されたカリスマは成り立たない。ピラミッドの頂点という階級性はもう結構。正に多様化の時代。高い山並みが連なるのはそれはそれで美しい。時代とマッチしないものは無くなって原っぱになってもこれもまた良しとしよう。
1月7日(日) 一般的にはそれほど知られていないが、戦後アメリカを代表する画家とも云われる「マーク・ロスコ」について書く。ロスコ(1903-1970,ロシア生まれであるがアメリカに移住)は、カラー・フィールド・ペインテイングと呼ばれる作品群で知られる。例えば、3m*5mというような巨大な画面 (というかスペース)に2ー3色の色を塗って(時には境目をつけた一色のみで)おしまい・・という絵を描く。ロスコに云わせれば:「私の絵が色彩 の関係だけで描かれているなんて、どうして思えるのか。私は悲劇、恍惚、運命といった人間の根本的な感情に興味を持っているだけだ。多くの人が、私の作品の前でしょげ返ったり、泣いたりすることは、それが伝わっていることになりはしないか」。・・千葉の川村記念美術館にロスコの作品がある。全ての作品が成功作とは思わないが、色がそこにあるだけでとても新鮮だったり、元気付けられるものがあるのは確かである。こうなるともう絵画は受け手の感性の問題となる。最初は具象画を描いていたが一向に認められず、50歳頃になってようやく独自の色と形式を見つけたロスコは、ニューヨークの近代美術館を飾る作品とともに自らの感性が理解された幸せを味わったに違いない。
1月8日(月) 久しぶりに大きな油絵に手を入れようとしたら絵の具が足りない。ない色は混ぜればできることにして、かまわずに描きはじめた。筆の代わりに指で塗りたくる。そして、キャンバスの前に立ったり、離れて眺めたりしてみるとあることに気がついた。それは、パソコンに向かってちょこちょこキーボードを叩くときと比べると、格段に姿勢がよくなるということだ。パソコンを使うときは、余程注意しないと背中が丸まってしまう。大きな絵を描くときは立って離れて見るのが、身体にとっては誠に具合がよい。立って作業をすると気分まで爽快になるのが分かる。そこで一つひらめいた。これから長時間パソコンをやるときには、立ってキーボードを打つように、高い台を設置するのがいいかも知れない。これは冗談ではなく、流れ作業の仕事に携わる女子の作業者の場合、座ってやるより、立っている方が腰痛などの予防になることが定説で、今は立ち作業は当たり前なのだ。・・私の場合はパソコン健康法よりも、もっと絵を描く機会を作る方が先決かも知れないが・・。
1月9日(火) パソコン画面 の色調やフォントの大きさは、各人の設定に任されている。いつも使う i−MACは今、妻が使っているので、家庭内のLAN(Local Area Network)でつなげている ウィンドウス版 COMPAC でこれを書いているのだが、背景や絵の色調が i−MAC と余りに違うので驚いてしまう。インターネットで画像をみる場合、自分のパソコンの色が本物かどうか解らない。色調を調整するのは個人の好みの領域で自由である。・・・人間の生き様も本物は何かはすぐに分からないことが多い。フィルターを通 してみているものは、本来の姿とは違う。世評や他人の評判でなく、生の本物に接して見ると全く違う印象を受けることもあるだろう。一方で、人はある種の虚像に生きている場合がある。本人自身、本質が分からないこともある。そこに映し出されたものがすべて本物と開き直ることもいい・・。
1月10日(水) 今年になってほとんど毎日、神社にお参りしている。・・というと大層なことだが、実のところは前にこのHPでも触れた猿楽塚(ここ)が去年の12月1日に「猿楽神社」としてオープン(!)したのだ。「神社」となるにはきっちりした条件が必要で、神社となってしばらくは発足次第が掲示してあった。都会の中の直径10数メートル、高さ3M程度の小さな塚であるが、周囲のコンクリートと違って樹が茂り落ち葉が積もる。ワンちゃん達が寄り道をするには絶好の場所でもある。最近は夜の犬の散歩の時、ここに寄るのが習慣になっている。・・かつては神に頼んで済むことならば物事苦労しないという方であったが、運命については神のみぞ知るであると思うことが多くなった。死亡災害などの調査報告をみると死ぬ か「あぶなかったなー」という境目は、ほんの瞬間の差である。我々が今元気に生きていること自体、神に感謝すべきかも知れない。艱難は、神が汝を玉 にする試練でもある。猿楽神社は小さくても本物の神社なのだ。
1月11日(木) 「言葉を友人に持ちたいと思うことがある。それは、旅路の途中でじぶんがたった一人だということに気がついたときにである」(寺山修司)こんな言葉をみつけると、最近このコラムを書くことにむなしさを感じていたのがちょっぴり元気付けられる。日常の繰り返しの中に埋没していると、ほんの短いこんなコラムを綴る意欲も失せてしまう。それが、本の一ページ、一枚の絵、音楽の一フレーズ、あるいは人からの一言で俄然調子に乗ったりするから面 白い。寺山修司に感謝。最後にもう一つ好きな画家の言葉を:「ただの雲がデルラ・フランチェスカの雲に見えたことは、絵を描いていた私のしあわせでもあり唯一のなぐさめであった」(香月泰男)
1月12日(金) 今日は、典礼聖歌を紹介したい。「ごらんよ空の鳥」という歌。賛美歌らしく単純なメロデイーで歌いやすく、歌詞が気に入ったので、以前、妻の伴奏でよく歌った。(こんなことを云うのははじめてだ)「ごらんよ空の鳥、野の白百合を。蒔きもせず、紡ぎもせずに、やすらかに生きる。こんなに小さな命でさえも心をかけるちちがいる。・・・」 信者でも 何でもない自分にとっても発見があった。確かに、空の鳥も野の百合も、成績を競うこともなし、金儲けに必死でないけれども、誇らしげにちゃんの生きている。そういえば、「ごらんよ我が家の犬」君達にも心をかけるちちがいるよ!?
1月13日(土) サザンカ(山茶花)が咲いている。椿よりも控えめで、冬にホッとする色を添える好きな花だ。花言葉は「理想の恋、ひかえめな心。学名「Camellia japonica」日本原産の花だ。椿が散るときはまとめてボテッと落ちるのに対して(昔の武士はこれが斬首を連想させるので椿を嫌ったとか・・)、サザンカは一枚一枚はらはらと散るという。サザンカの散る瞬間は見たことがないが、椿は何年か前に、蜷川演出の芝居で、椿が続けてボテッ、ドサッ、ボテッ、ドサッと山のように積もるシーンを見た。芝居の名前は忘れたが、この情景だけは忘れられない。花の名前も歌に詠まれると印象が何となく定着するから面 白い。サザンカは勿論「たき火」。シクラメンは「布施 明」、山吹は「太田道灌」、辛夷(コブシ)は「千 昌夫」・・アカシアの「西田佐知子」なんていうのもある。
1月14日(日) 朝、思いついて鎌倉に出かけた。鶴岡八幡宮の冬ぼたんが見頃。前の源平池には氷が張っていた。建長寺の柏槙(びゃくしん)という樹齢750年の古木にこの場所の歴史を思い起こす。あじさい寺で有名な明月院には今は蝋梅(ろうばい)の可憐な黄色。今年一番の寒さでないかと思う冷たい風の中、妻もよく歩いた。浄智寺、東慶寺、最後は円覚寺。冬の鎌倉、寒さはこれからだが、一部ではもう梅のつぼみもふくらみはじめていた。今度は梅の時期に訪れよう。
1月15日(月) コンピューターに関連した取扱説明書(あえてマニュアルと云わなかった)は分かりにくいことに相場が決まっている。手元にある WEB DESIGN の本は比較的親切な方であるがそれでもこういうのがある。「ビヘイビア」の構成:「Java Scriptの知識を必要とせずインタラクテイブな設定を簡単に行うことができるビヘイビアについて解説しています」。こういうものを 取りあげて、若者の表現能力を嘆いてみたり、本を投げ出すのは中高年の駄目父さん。ベテランのおじさんが解説書を書いたとしても大抵変わらないものだ。私は、こういう文章には、抽象画を見るようにただ感じるだけにする。具象画の内容を一つ一つ正確に理解しようと云う態度で接するとくたびれるだけである。 いいかげんにして済ましていると、その内、いい加減 に分かってくる。いい加減主義バンザイ。
1月16日(火) 今日覚えたこと=ADSL 息子が導入して「別 の生き物だ」といって感激していたのでこちらも調べた。Asymmetric Degital Subscriber Line=非対称デジタル加入者電話回線。電話用のメタル回線(これは光ファイバーではない従来の銅線の回線をメタルと称している)で高速のデータ通 信を行う技術。非対称とは、ユーザーからサーバーに向かう「上り」とサーバーからユーザーに向かう「下り」の速度が違うものをいう。通 常のアナログ電話回線では音声帯域の0-4khzを使うが、これに使われない高い周波数を利用することにより、既存の電話回線を高速データ回線にした。これまでの通 信速度が56kbpsに対し、上りが64kbps-1.4Mbps、下りが1.5-8Mbps。通常Web Siteをみるのは下りであるから、いままでの百倍以上の通 信速度でインターネットが見られることになる。しかし、このADSLは韓国などでは当たり前らしい。日本が遅れているだけで、次世代の光ファイバーへのつなぎとも云われる。こういうものがあるのにNTTはISDNをまだ売り込んでいるとはどういう訳だろう・・・。
1月17日(水) 毎日なんでもよいからちょっぴりでも新しい事を覚えたい、昨日と違うプラスアルファが欲しい。それが創造的なことならばベストであるが、ただ”学ぶ”ということだけでよしとしよう。・・ということで、昨日の続きで、パソコンの通 信速度を整理してみる。従来の通信速度が56kbps。bps=bit per second(T秒あたりのビット数)。8bit=1byte。56kbps=56キロビット/秒=7キロバイト(byte)/秒。そこで、フロッピー1枚の容量 は1.4Mbiteであるから、56kbpsで送るフロッピー1枚分の通 信時間は、1.4*1000/7=200秒。 半角英数字で1byte, 漢字一文字で2byteというから、英数字なら、一秒間に7000文字、漢字なら、7500文字を送る速度か・・。どうもこうした常識がないもので遅い早いの感覚が分からない。いずれにしても我々はコミュニケーションの道具として理屈抜きで使いやすければよい。ユーザーの立場に身を置くのは楽なものだ・・! 
1月18日(木) 「他人に読んでもらおうとか、良いところを見せようとかを意識せずに、自分のつぶやきのように書くのが一番よ」とコラムを読む妻がいつも云う。絵でも上手に描こうと思ったものはつまらない。無心で描いたものがずっといいとも云われる。その通 りであるが、何にしても無心とか私心なくやることほど難しいことはない。心のどこかで他人の評判を意識して格好をつける。カッコウをつけるということは、分別 くさくなり、デタラメや奇抜さがなくなる。ふと思うことがあるが、一体完成された人格者が絵画を描いたらどういうものができるだろうか。完璧なものなど面 白くない。確かに、生の苦悩や落胆、透明さや清純さといったものが表現されたものは力がある。無心の境地はまだまだ遠いな・・。
1月19日(金) 朝、目を覚ました時から何かこれまでにない緊張をおぼえた。舞台にでていく直前の俳優のように・・といっても自分で実感がないので言い換えると、公式試合にのぞむテニスプレーヤーのように・・。よし、これから本気でやってやる・・という張りつめた気持ちになるとは、還暦の誕生日を迎えるまで考えていなかったことだ。これまでのいつの誕生日にもこんなことはなかった。わたしの人生これからだという、新たなエネルギーのほとばしりを60にして感じることができたのはうれしい。
1月20日(土) 午前中は凍てつくような寒さの中、テニスを存分に楽しんだ。夕刻から東京にはめずらしい雪。予報では、明日の朝まで降り続くという。・・今日の作品にコンピュータ画を入れた。最近になってこういうものに挑戦しようとしているが、まだまだテスト段階だ。コンピュータを使って描いても、手描きには所詮及ばないとか、CGも結構・・それがどうしたの・・とか、デザインはともかく、絵を作成する道具としてのコンピュータを完全には納得していない。けれども、何にしても、とにかくやってみないと分からない。使ってみて、作ってみて、体験してみなければ評価はできない。コンピュータ画を続けるかどうかは、製作過程が面 白いかどうかにかかっている。
1月21日(日) 朝起きると、東京にはめずらしい雪化粧。天気は快晴、朝日がまぶしい。サクサクと雪を踏みしめながら犬達の散歩にでる。ほとんど人がいないし、車も少なくのろのろ運転なので、犬達のリードを外し、走って西郷山公園まで行った。(今日のAAに写 真掲載)公園ではまたリードをつけたが、やはり、犬達も自由に走り回る姿が美しい。・・・午後は姪の結婚式。華やかな披露宴であった。有名人が大勢出てきて驚いたが、これからは、お互いに「こころのなげきを、つつまずのべて」(今日歌った賛美歌より)二人で地道に幸せを作り上げてほしい。
1月22日(月) 昨日の結婚式の余韻をもって、新婚の若者にコメントする場合、自分なら何をいうだろうと考えてみた。説教は好まないが、ことばの遊びをしてみたい。まずはじめは、「か」:会話。つまり対話というか、コミュニケーションというか、意思の疎通 が第一。次は、「み」:認めること。お互いに相手を認めること、自分の世界以外を認めて許すこと。相手のいいところを見て自分が広くなること。「の」は、のんびりの”の”、野原の”の”。「い」:いっしょに住むこと。当たり前のようだがこれが案外に難しく、盲点になる。元は他人。一緒に住んでいなければ元通 りの他人になるので「いっしょ」は重要。「し」:信じること。相手を信じることは理屈の世界とは別 だ。・・以上、まとめると「神の意思」(カミノイシ)。これは全くのマイ・オリジナルだが、宴席でははずかしくて云えないな・・。
1月23日(火) 電車に乗る時間が長くあるので何か本を持参しようと本棚から「リチャード三世」を鞄にいれた。読み始めると、引き込まれて止まらなくなる。この種の本は読む年代によって感じるところが違って、いつ読んでも興味が尽きない。・・「文学的な」面 からは飛躍するが、英国が議会制民主主義の発祥の地とされるが、政治権力を失っても、命は失わないことが保証されて、はじめて議会による政権の交代制度が定着したという話まで思い起こした。権謀術数、策略、奸智、二枚舌などのテクニックは、命が保証された現代においてもまだ跋扈(ばっこ)している。権力の奪い合いの構造は案外に変わっていないようだ。
1月24日(水) 5日前の還暦誕生日に、実は大きな買い物をした。 集まった子供達とわいわい云いながら、インターネットでappleの新機種ノートパソコン、power book G4を注文してしまったのだ。チタンフレーム、15.2インチワイドスクリーン、400MHZ,重量 2.4kg,コードレスインターネットもできるよ・・なんて自慢したりして・・。もう幾つ寝ると届くかな・・と、うきうきしながら待っているのは精神的にもいいものだ。設備投資でこれからは本格的にパソコンに取り組むぞ・・などとはあえて云わない。最新の道具で楽しく遊ぶだけだ。はーやくこいこいG4ちゃん・・。
1月25日(木) 絵を少し描くようになって、<いい絵とは、上手い絵とは限らない>と教わったことがある。上手い絵でもいいと思わないことは多い。 同じことで、絵の大きさも良さとは関係がない。小さな小さな絵に 心臓がどきどきするほど、感激させられることもある。色々な好みがある中で、香月泰男さんの絵には随分感化された。この人にはシベリアに抑留された生活体験が生涯、影を落としているが、彼の描くどんなに小さな作品にも人の心に訴える強い力がある。絵だけでなく、文章も書く:「ものを動かす本流は、平凡と言われるような生活に耐え得る、人間の力から生まれてくるのでないかと思う」(香月泰男<春夏秋冬>より)画壇にはない、この画家の視点が爽やかだ。
1月26日(金) 朝、7時30分に勤め先に着く。40分から打ち合わせ。・・昼間に関連したコラムは書かない原則だが、このような出勤生活は後40日余りかと思うと、少し感慨深いものがある。もし仮に癌で余命40日、身体は元気というのであれば、思う存分その期間を意義あるように生きる自信はある。けれども、今の場合は後の時間にたいしてこの期間というのはいかにも中途半端である。期待されるものは何か、自分で何をしたいのか、社会的に何をすべきか・・。焦点が定まらないままに、云えることは、今まで人生で体験をしたことのない活力ある転換期にあるということ。これをじっくりと味わうことが自分で唯一やっていることである。
1月27日(土) 雪国の人には申し訳ないが、東京の雪は楽しい。アンとアールのコーギー犬親子も雪の中で大はしゃぎ。子供の(といっても4歳の立派な成犬だが)アールの喜びようはさすがに北国ウェールズの血筋と感心する。
今日のニュースによると、インドのグジャラート州で大地震があり死者は5000人に達するかも知れないという。思わぬ ところで懐かしい「グジャラート州」や「州都アーメダバード」の名前を聞いてしまった。32年前であるがグジャラート州、バローダに5ヶ月滞在した。肥料プラントのスタートアップにメーカーとして立ち会ったのだが、滞在中に体重が10kg痩せてスマートになって帰ってきた。これも今は懐かしい思い出だ。もしその時の体重減がなければ、醜い中年太りになっていたかもしれない。・・いずれにしてもインドの被災者に何かしたい・・。

1月28日(日) 東京にはめずらしく、昨日来の雪が積もっているが朝から快晴。早朝の雪は凍り付いている。ブーツを履いて滑らないように注意しながら犬達(アンとアール)を連れて、代官山の先の西郷山公園までいった。(今日のAAに写 真)遠方にであるがくっきりとした富士の姿にしばしみとれた。こんな雪の日なのに、公園のベンチに猫のカップルがいる。ワン公達は俄然元気を出して追いかけた。・・ 夜の犬の散歩も同じ所にいく。雪はほとんど溶けてべとべと。ただ空気は澄み渡り三日月がシャープに輝いていた。 今日の休日は雪のせいでもないが随分色々なことができた。休日に充実感があるときは犬の話題を書くことができるようだ。
1月29日(月) 変化の時代といわれながら、人は案外、変わることに臆病なところがある。いわゆる”保守”層が半数もあること自体が変わりたくない人達の多さの証でもあろう。新しい世界に未知の恐れを感じるか、新鮮な未来を見いだすか。人それぞれではあるが、人類の進歩そのものは、これまでと同じでは面 白くないとする変化願望から発しているように思える。座して死を待つのは嫌だ。インターネットでは今までは考えられなかった人々と交流が出来る。世の中には自分が知っていること以外に、まだまだ広い世界がある。新世界は変化と共にやってくる。・・日常生活で、少しでも変化になじむには、毎日新しい人と会話すること、散歩は違う道を通 ること、新しいレストランで食事をすること、インターネットでは新しいサイトを見つけること。一方で、古典を読むことなんていうのも、変化の時代に価値がありそうだ・・。
1月30日(火) 昨日のコラムで「散歩は新しい道を通 る」なんて書いた。これを思い出して、犬達の散歩はいつもと違う道を選んで、今、帰ってきたところ。昨日のコラムは覚えていたが、自分で書いたことでさえ直ぐ忘れるので、ましてや話したことなど何を言ったか覚えていないことが多い。人は大体が自分に都合のいいように覚えている。だから「書き記す」あるいは「描き残す」ことは、自分自身の証拠として思わぬ 発見になることがある。これまで意識しないで他人を傷つけたり、嫌な目にあわせたりしたしたことが随分あっただろうな・・と最近になって思うことがよくある。いいと思う音楽が聴き手によっては騒音となるように、人を本当に元気付ける言葉は難しい。

1月31日(水) 魚の絵を描くとき、意識しないと、頭を左、尾を右にしてしまう。確か西洋の有名な図鑑の絵が皆そうらしい。ところが、有名なクレーの「黄金の魚/リンクはここ」は頭が右である。考えてみると、右利きの人は頭を先に描いて尻尾の方を右につなげた方が自然だから、一般 には図鑑のようになったのでないだろうか。そうすると、クレーは左利きだろうか。これは調べていない。レオナルド・ダヴィンチは左利きであることは知られているが、クレーの利き腕なんてどう調べるのだろう。・・こんどの休日には右手で魚の絵を描こう・・。

これまでの「今日のコラム」(最新版)に戻る

 Menu + Picture + Ceramics + Gallery + Corgi + Special + Links