これまでの「今日のコラム」(2001年 3月分)

3月1日(木) 「梅咲いて 身のおろかさの 同じなり」(一茶) 今日のコラムの曜日をよく間違える。昨日のコラムが何と月曜日になっていた。自分の書いたものを自分で読み直すというのは、ミスを見落とすことが多い。「チェック」をするというのは、一字一句印を付けながら確認することをいうが、物を作る図面 のチェックは、何百、何千の数値を全て残らずチェックマークを入れて確認する。一つの間違いがあると物を作ることが出来ない。時には、別 の 物ができる。一番いいのは、書いた人と別の人がチェックをすること。・・今日、もしコラムにミスがあれば、チェックした人の責任にしようというのは虫がよすぎる?・・。
3月2日(金) 小学生の頃、父がアメリカでGEの洗濯機を買ってきて、使えるようになるまで知り合いのエンジニアを動員して1週間ぐらいかかったことが鮮明に記憶に残っている。また、アメリカでは掃除機というものまであるときいて興味津々であった。その頃は、自分の車を持って自分で運転するなんて考えもしなかった。妻は結婚した後、車の免許を取ったが、自分が車を運転するなど想像すらできなかったという。いま、5000万台と云われる車の生産は、10-20年後には、中国など開発途上国向けの生産量 の方が多くなると見られている。中国の若者が車を持つという夢は直ぐに実るだろう。日本の若者は、いま一体どんな夢を持つのだろう。大人的にいえば、欧米の生活のゆとりは何とも羨ましい夢だが、これは大量 生産ではできないのだ・・・。
3月3日(土) 孫娘の雛祭りを祝うという現実世界は幸せであるが、一方の進行しつつある世界のことを書く。30数年以上の勤めに関連したファイルや資料を整理していくと、山頭火の「焼き捨てて 日記の灰の これだけか」という句が実感として分かる。日記とは歴史であり、灰はこだわりのないことであろう。しかし、考えてみると、どういう事情かで「日記」を焼くことにしたから、この句ができたのであり、日記を焼かずに保存した以上に後世の人に衝撃(インパクト)を与えたのでないかと思う。焼き捨てて灰にした意味は大きい。山頭火の句ではまた、「ふりかへらない 道をいそぐ」というのが、これまた、現在の自分の感覚とピッタリである・・・。
3月4日(日) 長年の生活パターンを変えるために、まず、古い本を思いきって処分しはじめた。何年間も読み直すことがなくても、愛着があった本というのは捨てにくいものである。けれどもこれも自己満足で他人にとってはほとんど価値がない場合も多い。以前、本のバザーがあって、身を切られる思いで愛蔵書を何冊も提供したら、一冊100円で展示され、それでも買い手がなかったのをみて、ショックを受けたものだ。妻が買ってきた本によれば、捨てるか、捨てないかを迷うものはまず捨てることだという。無条件で取っておくべき物だけを残すのが整理のコツと教えられた。ところが、絶対に捨てられないと思っていた本が、気分が変わると直ぐにでも捨ててもよくなるところが面 白い。今日は、何でもかんでも捨てたい気分の日であった。
3月5日(月) 待ちに待ったPowerBook G4が届いた。MACのチタンフレーム新型ノートパソコン。1月19日の夜、家族で合議して、インターネットで申し込んだものだ。還暦祝い、かつ卒業記念、かつi-macの修理バックアップ用、かつ積極設備投資用。3月1日に出荷通 知があり一週間以内に届くと云われた。つまり、台湾を出荷してから日本へ、そして配送される、こういうのが今や当たり前になっている。自分としては、ノートも、液晶画面 も、トラックパッド(マウスの代わり)も初めての体験で、何だか久しぶりに胸をときめかしている。これは当分の間、睡眠時間が少なくなるかも知れない・・。
3月6日(火) 逡巡なくはじめの一歩がでるのが若さの証だと云われる。あらゆる組織も何か新しいことを始める場合に、直ぐに一歩が出るかどうかで若さ度が測られる。あれこれ、やらない理由を付けることは簡単だ。若さとは年齢だけでは決まらない。元気な組織体というのは、年月を経ても素早い行動に移れる何かを持っている。私が見聞きした範囲では、「何か」というのは、人を信頼し、やらせるべき人に思う存分、好きにやらせていることではないかと思える。衰えゆく組織体は丁度その逆だ。個人としても、若さを維持するポイントはこんなところだろうか。
3月7日(水) このところ「好きな女性に邪険にされた」ような気持ちで(云うだけはいえるな・・)いらいらしている。念願の新パソコンPowerBook G4のバッテリ充電が出来ないなど、なかなか本格稼働まで進まない。こうした実用品は、基本的な性能品質がまずガッチリ固まっていないと姿形だけ磨きをかけても空しく思える。まだ愛情が失せない間になんとか健康体になって欲しいものだ。一時的な病ならば我慢しよう。
3月8日(木) 目を開けていても見ていない、耳はあるが聴いていない、食べるけれども味わうことはない・・ということは多い。音楽家は、自分でだす音をどこまで細かく聞き分けられるかで演奏が決まる。画家は対象を見た上で、また感じた上で、自分の描くものをどれ程きっちり見ることができるかを問われる。大体、自分自身の五感能力を最大に使うことは出来そうでできない。けれども、持っている感度は出来る限り活かせた方が人生面 白いはずだ。こんな事を考えると、息をしていても生きていないなんていうことはないか、改めて見つめてみようかという気になってきた・・。
3月9日(金) 今晩は外でのお酒が入ったので11時頃に犬達の散歩となった。いつも前を通 るオープンカフェにはまだ客が混み合っている。その先にある食事処はこれから明け方にかけて客が増えるという。世の中生活パターンが違う人も多いものだ。3月5日と7日にコラムに書いた「powerbook G4」はついに全交換となりそうだ。どうしてもバッテリ充電機能が動かない。またまた本格稼働はオアズケとなる。楽しみを待つ期間が延びていると思っておこう。
3月10日(土) 夜、犬の散歩にでると満月が美しい。思わず立ち止まって見つめるほど、丸い月に感激するのは何故だろう。それは、月に満ち欠けがあるからだと思う。いつも満月であれば何の感動もない。月といえば必ず思い出してしまう歌がある。45年前、中学生の頃、庭球部(テニス部でない・・!)の引退式で女子部員が歌ってくれた:「月がとっても青いから遠回りして帰ろ あのすずかけの並木路は思い出の小道よ 腕をやさしく組みあって 二人きりでさあ帰ろう」 犬と一緒にこんな歌を口ずさむ・・。
3月11日(日) 日曜日でもあるし、少ない髪でものびると気になるので散髪をした。このところ妻に髪を切ってもらっている。電気バリカンで髪を切りながら、このヘアカッターはモトを取ったねなどと話しながら収納箱の覚えを見ると、何と昭和60年に購入したものだ。(バリカンという名は元来フランスのメーカーの名前からきているらしいが、この器具を何と呼ぶのだろう)25年間は散髪屋(理髪店あるいは美容院というべきか)にいったことがないことになる。子供達が小さい頃は母親がやはりこの器具で髪を苅った。この電気バリカンはいまだに非常によく切れるし故障もしない。なんだかこれを作ったメーカーに申し訳ないような気になってきた。これだけ品質のよいものを作るメーカーのものは何か別 の品物でも買ってあげたい。
3月12日(月) 寒波来襲。朝、粉雪が舞っていたが、夜の犬の散歩に出かけるときは冷たい小雨。小走りでいつもの散歩コースを急ぐ。途中で「マレー大使館はどこ?」と聞かれた。これは答えることができたが、レストランの名前などを時々聞かれるが答えられないことも多い。犬を連れているとこういう質問をよく受ける。途中から雨も本降りになってきて、全力で走り帰った。
3月13日(火) 今日は送別会・・というように、コラムが段々日記のようになってきたのに気がつく。昨日のコラムもまるで日記そのもの。毎日何かを書くときに、最も簡単なことはその日にあったことを書くことなのだろう。熱がある、酒が入って頭がボーとしている、くたびれている・・など色々な条件で理屈っぽい話が書けないときには、日記が一番てっとり早い。こうなると何か意地で毎日続けているだけで、内容がないようでもある。けれども、続けることで初めて分かってくることも多い。もうしばらくは、これを続けてみようと思う。
3月14日(水) 有間皇子(ありまのみこ)というオペラのコンサート形式での上演にいった。作曲が別 宮貞雄(べっくさだお)、オーケストラは若杉弘指揮の新日本フィル、歌は福井敬、大島洋子ほか。大化改新の時代の中大兄皇子、中臣鎌足らもでてく、いわばクーデター未遂事件の物語だが、見ていてシェークスピアのリチャード三世を思い出した。リチャード三世の方は、悪役が最後にはやっつけられて拍手喝采というパターン。これに対して、有間皇子は人気のある善人が、権謀術数に長じた悪い奴に負けて涙をのむという、何か現代の政(まつりごと)まで伝統があるのではないかと思わせるストーリーでこれはこれで面 白い。 けれども、やはり、リチャードや水戸黄門式の爽快さのほうが物語としては好きだな。
3月15日(木) 以前書いたことがあるかも知れないが、白隠禅師の呼吸法というのがある。白隠の呼吸法は考え方が好きで、思い出してはやってみたりする。この呼吸のポイントは出る息を長くして肺の中を空にすること。本来は肺の中に酸素を取り入れるための呼吸であるが、普通 の呼吸であると 、幾分かの酸素を取り込む一方、捨てるべき炭酸ガスも全ては捨てきらない。息を吸うことばかり気にしていると実は古い炭酸ガスばかり再使用される。「いらないものを全て吐き出すと、必要なものは自然と入り込む」この原理はあらゆるものに適応できる。貯め込むことより一度無にすること。食べるより食べないこと。難しくてもその方が”元気”になることは間違いない。
3月16日(金) 毎日やることが、これは二度と来ない瞬間だという緊張感を感じるようになった。考えてみるとこれは中学生か高校生の頃に体験した新鮮な生活感に似ている。今日は昨日とは違う。明日も今日とは別 物だという感覚である。逆に考えると、これまでは知らぬ間に、毎日の新しい感覚がなくなっていたことになる。今日も「振り返らない 道をいそぐ」(山頭火)の心境を使ってしまった。新しい道をいそがなければならない。
3月17日(土) 年をとるということは、年が多いこと自体殆ど何も価値とならないことを学ばせる。昔は大兄貴と思った先人がなんだ自分の弟かという年で亡くなっていたりすると自分の未熟さを思い知らさせたりする。ジャン・コクトーが57歳の時に書いた「存在することの難しさ」(日本訳=ぼく自身あるいは困難な存在」)を読んで、いまもし自分で本を書くとしてもこんなスカシタ書き方はできないなと感服した。57歳といえば、ベートーベンも北原白秋もこの年で他界。日蓮や森鴎外が60年の生涯で残した物も偉大だ。それにしても、現世では70歳の兄はいつまでたっても兄の気分、姉は80歳になっても妹を叱るなんていうこと(あくまで事例)がまかり通 っているのは何故だろう・・。
3月18日(日) 「小人閑居して不善をなす」かどうかは知らぬが、時間的な余裕があると日頃やりたいと思っていたことがはかどるかというと、そうとは限らない。時間を捻出して短時間に作り上げたものが、多くの時間をかけて作ったものより、結果 としていいということはしばしば経験するところだ。暇になったらやろうというのは、概ねろくなものはできないと思った方がよい。「安楽なくらしをしているときは、絶望の詩を作り、ひしがれたくらしをしているときは、生のよろこびを書きつづる。」(太宰治) 確かにこういう一面 がある。生のよろこびを味わうには、ひしがれた体験も、時間の少なさも悪条件にはならない。
3月19日(月) 我が家のコーギー犬アンは、ロン毛で正式なコーギーコンテストなどには出られないと聞いた。(どちらにしてもコンテストに出す気はさらさらないけれど・・)それでも顔は美犬系で性質も良い。ある人は、ウェールズの100年ぐらい前のコーギーの彫り物にはアンと同じ顔、形があると教えてくれた。最近、アンも9歳半の年になると、これから”容色”が衰えるかも知れないと気がついた。今の内に出来る限りアンことをスケッチして残しておこうと決心して寝顔を描いたのが、今日の作品。(3月19日付) 家人は、本物のアンの方が可愛いよ・・という。
3月20日(火) 「花咲くや 欲の浮き世の 片隅に」(一茶) 花と欲は、いつの世も変わらぬ ものとみえる。犬の散歩に行った公園には彼岸桜とハクモクレンが咲き誇っている。こちらの片隅では沈丁花がまだ続いているという感じ。モクレンの白い花には今日初めて気がついた。以前はハクモクレンと辛夷(こぶし)の区別 がつかず、白い花を見ると辛夷だと思っていた。今は辛夷もモクレン属であることや、同じモクレン属で辛夷とそっくりな花を咲かせるタムシバという花も覚えた。花は絵に描いてみると一番よく覚える。昔、沈丁花(ここ)を描いたことがあり、まだ形が頭の中に残っている 。ハクモクレンも早く描かなければ終わってしまう。
3月21日(水) 「建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係りの職に就こうと考えるような人間は、すでにその瞬間から敗北者であると。それに反して、何人にあれ、その胸中に建造すべき伽藍を抱いている者は、すでに勝利者なのである。」(サン・テグジュペリ/堀口大学訳)・・翻訳は古いが好きな言葉だ。現実には建造すべき伽藍の構想などひとかけらもなく、既に出来上がった建築の中で安穏に過ごそうとする敗北者が何と多いことか。もし子供達あるいは若者の半数が、サン・テグジュペリの言葉に共感すれば社会はアッというまに変革されるだろう。これを教える教師が欲しい。
3月22日(木) 定年退職する直前あるいは直後に身体をこわして療養したという人を何人も知っている。趣味も持たなかったからとか、会社人間だったからなどと云われそうだが、私の知る限りでは、そういうことと体調を悪くしたことの相関関係はほとんど見当たらない。スポーツマンで幅広く活躍していた人が入院したかと思うと、会社以外の生活のなかったような人も元気いっぱいだったりする。人の心と身体の調子は単純には計り知れない。「健全なる精神は 健全なる肉体に宿る」というのは嘘っぱちで、身体の悪い人を愚弄するものだとする論がある。その通 り、身体の好不調は精神の善し悪しとは別個に発生すると思いたい。
3月23日(金) 「動物は決して奉仕しない」という言葉がある。犬を可愛がる人には一部抵抗があるかも知れないが、人間が動物ともっとも異なる”人間の尊厳”を言いたい言葉だととらえたい。生存競争や食うための殺しあいは動物の自然の行為と見られる。人間も同じく権力闘争に明け暮れる。それでは人間が動物と異なるところは何かというと他人のために無償で働けるということというのが冒頭の言葉の裏返しになる。他人のために奉仕することは、自分にとっても一番難しい。だからそれを実行する人を私は無条件に尊敬する。奉仕する人の人数には制限がないところがこれまたすばらしい。
3月24日(土) 休日の習慣で犬達を連れて西郷山公園にいって驚いた。公園といっても元は西郷従道の屋敷跡で、都会の中の小さな小さなオアシスという感じのもの(写 真はここ)であるが、その公園の中に、巨大な仮設ゴミ集積所が二個所も出来ている。幅6m、奥行2m、高さ(パイプの組立高さ)3.5mという大きなゴミ入れが何を意味するかはじめは分からなかったが直ぐに気がついた。来週にでも始まるお花見のゴミ集積用(分別 用)なのだ。つまり、お花見をする人達は、一等地を醜悪なゴミ集積施設に占領され、その横にゴザを敷いて花を愛でるといことになる。目黒区の公園課はまた自分のゴミ片づけ仕事の段取りだけを随分効率的に考えたものだ。その発想には花見を楽しませることなどカケラも入っていない。これは、部分最適化が全体最悪をもたらすというサンプルとなる。今年は是非とも西郷山公園に花見に行ってみなければならない・・。
3月25日(日) power book G4 は結局バッテリのインジケータが不良で新品と交換することとなったが、納期が更に1ヶ月かかる。代品が届くまでのつなぎに、昨日、未修理のままpower bookが戻ってきた。今日はDVDを借りてこのノートパソコンで「ウルトラマンのお花見」の映画をみた。何も知らずにお薦めDVDを見たのだが、実によくできていて、ウルトラマンのファンになりそう。平和がつづき地球防衛軍が暇になってやることがなく、お花見に出かけるというストーリーもいいし、一つ一つのシーンや画像が、黒沢映画のカットを思い出させるような名品なのだ。子供相手のお手軽さがなく、作り手の意欲が伝わってくるし楽しめる。3−4年前に制作されたときには、制作費がかさみ、TV用としては大赤字をだしたと聞いた。こういう作品は、どんどん世界に輸出してほしい。日本の文化を伝えるものとして、赤字を埋めて余りある意味があると思われる。
3月26日(月) 「草の葉に かくれんぼする 蛙かな」(一茶) 朝のうちは雨で、思わぬ ところで蛙の鳴き声を聞いたが姿は見えなかった。このところ、会社でも家でも片づけばかりやっている。オフィスで何百枚かの名刺を処分するのも、周囲に気をつかってなるだけ静かに破って捨てる。家は家で、10年以上見もしない雑物をやや感傷的に、しかし思い切りよく処分している。スクラップブック(新聞などの切り抜き類)やカタログ、雑誌類については、見直すと、この頃はよく集めたなと感心するものと、何故こんなものを持っているのだろうという2極に分かれて面 白い。時が経っても変わらぬ価値観もあれば、がらりと見方が変わる場合もある。大体において、後で役に立つだろうと期待したものはほとんど役に立たず即処分。ただ綺麗とか愉快とか感動して保存したものは、今も同じ感覚のものが多い。まず徹底的に”無くす”ことから、次に、新しいものが入ってくるものの場所ができる。今度は他人の資料でなく、自分のものを置ければよいが・・。
3月27日(火) 眠い・・眠いながらに今しか書けないことはないか・・。大手町のあるビルのエレベータ事情について書こう。日本のビジネス中心部ともいうべきオフィスビルのエレベータでは、奇妙なエチケットが徹底している。大抵は若い女の子(そうでなければ若者)がエレベータの扉が開くときにボタンをキープし、年長者が先に出るまで待つ。私など、外見だけでいやでも先に降りることとなる。レデイーファーストで「どうぞお先に」を奨めているとかえって混乱を起こしてしまう。ニューヨークで大手町流を期待するとヒンシュクをかうこと間違いがない。エレベータの中まで職場を持ち込む”作法”からはグローバル化への道など開けないのではないだろうか。
3月28日(水) 「あの本はどこへいった・・」と探したがでてこない。「チーズはどこへ消えた」という本を宣伝に釣られてうっかり買ってしまったが、この本が最近のベストセラーだという。深みもない、情緒もない、特別 に新鮮味もないこの本が何故ベストセラーかと問いたいが、自分が買ったのも「なぜだ」となる。所詮、ベストセラーとは内容の質とは全く無関係であるということだろう。他人に奨める本ならば、「ヴェネチアの宿」(須賀敦子/文春文庫)の方がはるかに面 白かった。「チーズ」は最早どこかに処分してしまったのかも知れない。
3月29日(木) 門前仲町の地下鉄の階段をのぼり地上に出たとたんに、満開の桜が目に飛び込んできた。この辺りにももう来ることはないかも知れない。バスを待つ間に、深川不動尊にお参りをし、ついでに豆大福を土産に買った。退社の挨拶回りをしながら、明日が今日と同じでないということがこれほど気持ちのよい緊迫感を持たせるのかと、桜が一気に花開くような気分になる。一つ一つの瞬間が非常に貴重なものに思えたりする。400日間のこのコラムの中で、昼間(会社)の出来事は決して書かない方針を崩して、最後にこういうことを記すのも、この経験は今しかできないと思うからだ。家で妻と大福を食べながら、「後一日ね・・」
3月30日(金) 退社の手続きと行事を終えて午後はフリーとなった。帰宅すると、妻と娘、それに息子全員がそれぞれにスケジュールをやりくりして顔を揃えてくれていた。夕方、息子の提案で犬達も連れて目黒川沿いに満開の桜を見ながらゆっくり散歩。夜はホテルニューオータニ40Fでの食事に出かける。このレストランは昨日インターネットで予約したのだが、インターネットでの申込みは2割引ということだった。久しぶりの家族での外食を楽しみながら、新たなエネルギーが沸き上がるのを感じる。HAPPY RETIREMENT!というより、「卒業おめでとう!」というのが実感に近いものだ。こんなにうれしく、希望に満ちた感覚は本当に久しくなかったものだ・・

3月31日(土) 満開の桜に冷たい霙が降りそそぐ。散歩にも行けないので、ホームページのプログラムを改めて勉強した。エクスプローラとネットスケープで、またそのバージョンの違いでこうも差がでるものかと再認識。知らぬ が仏で、今のこのHPも沢山の欠陥があるかも知れないが、これから徐々に改良しよう。しかし、同じプログラムでも使用する側の条件で別 物になるのは象徴的だ。人間というプログラムも使用環境の条件で全く違うように見えることがある。

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