これまでの「今日のコラム」(2001年 7月分)

7月1日(日) 月が変わって7月、そして日曜日。一週間が7日で区切られているのは今の生活習慣としてもぴったりの感じがする。どうして「曜日」(七曜)ができたのか調べてみた。曜日の起源は古代メソポタミアにあると云われる。既に一日の時間を24に分割する暦はできていた。その上で、1時間毎に、太陽と月と惑星の神々が時間を支配するとして、太陽ー金星ー水星ー月ー土星ー木星ー火星ー(太陽に戻る)の順番を定めた。つまり、はじめの日の1時間目は太陽、次の1時間は金星、・・と順に行くと24時間目は水星、そして25時間目、即ち、次の日の1時間目は月となる。はじめの日を太陽日(日曜日)とすると、次の日は月曜日・・と順番の曜日が決まった。・・・現代でも、7日の曜日の中で日曜日の意味は大きい。自分にとっての日曜日は、安息日というよりわくわくする自由時間という感覚がまだ抜けきらない。 

7月2日(月) 自分でこういうことを云うのもおかしいが、昨日「今日の作品」に掲載した「リアルト橋(ヴェニス)の絵がどうもピントこないので落ち込んだ。観光名所などを取り上げたせいか、写真構図で面白味がないのか、中途半端な具象のためか・・。改めて考えてみると、要は自分らしさが出ていない、他を意識した思い切りのなさ、素直さの不足が不満なのだ。テニスでいえば、ただミスをしないように球を繋いで勝った(負けたか?)試合、大過なく過ごせましたという勤め人の一生、そうした物足りなさを感じてしまう。絵の世界でよかった・・。新しい絵はいくらでも描き直すことができる・・。
7月3日(火) 昨夜のNHK-TV「地球・不思議発見」は感動的な番組だった。ハシボソミズナギドリという渡り鳥の生態を追った内容だが、鳥の足に識別リングを付けて行動を調べ、発信器を取り付けて人工衛星で追跡するという研究(オーストラリアの学者)まで加わり迫力があった。春にはオホーツク海に数千羽が群れる。それも何と海の中10数メートルにこの鳥たちが潜って一斉に餌を捕る。夏には12000km離れた南オーストラリア・タスマニア島の繁殖地に戻り子育てをする。タスマニア島から南極大陸までの4000kmを一週間で往復することも人工衛星で確認されているという。これだけの長距離を短時間で移動出来るのは、自分で羽ばたくことを最小限にして、専ら風を利用してグライダーのように飛ぶことだ。省エネ風力移動のメカニズムは人間もまだまだ学ぶべきところがあるなど工学部的発想まで浮かぶ。この渡り鳥にとっては地球全てが住処、グローバリゼーションなどの言葉は今更必要ないだろう・・。
7月4日(水) 新聞を止めてインターネットで情報を取るようにすると、今まで以上に各新聞社の社説やコラムを見る機会が増えたことに気がつく。こんな状態でコメントすると的がずれるが、世の中には印刷された新聞(あるいは雑誌)の論調に影響される人が多いのに驚くことがある。記事を書いている人もただのサラリーマン、上司もいるし社長の意向に逆らえない。取材をするときに、自分をちやほやしてくれなければ、コノヤローと記事で報復することもある。(業界紙など恐喝まがいのものさえある)真実か否かなど裁判沙汰にならない限り(裁判になっても・・?)誰も分からないし、記事の責任をとることなどまずない。こうして出来上がっているものを、天の声でもあるようにありがたがるか、あるいは、記事にされる方は、触らぬ神に祟りなしの手で逃げる。瓦版の精神もないマスコミ天皇こそ構造改革を考えなければ、時代から置いて行かれるのでないだろうか。
7月5日(木) 梅雨明け宣言はまだでないが、猛烈な暑さが続く。庭に八重のクチナシの花が咲いた。本によれば、原産のクチナシは6個の花弁からなる一重の花であるらしい。八重咲きのクチナシは果実ができず香りも少ないともある。我が家のは八重咲きであるが、それでもほのかな香りは夏の到来を心地よく告げてくれる。クチナシの花言葉は”清潔”。今日も朝から強烈な太陽が照りつけている。さあ、シャワーを浴びて木曜日がスタートだ。
7月6日(金) 金曜日というのは、一週間の中でも特別な意味合いを感じさせる。勤め人は「ハナキン」と呼び、この日に花(華のほうか)をもたせる。金妻、13日の金曜日、フライデイー、硬派週刊誌の名前など金曜日のタイトルをつけたものも目に付く。確か、一週間の中で、自殺者が一番少ないのが金曜日という話を聞いたこともある。(奇妙なデータをとるところがあるものだが、インチキかも知れません)週末の休息を迎えるまでもう一息、新たな土日には何がおこるか胸ふくらます。金曜日はひそやかな変化への予兆を期待する日であるのだろう。
7月7日(土) アフリカの奥地に靴を売り込みに行った商社マンが現地では皆裸足の生活をしているのをみて、ここでは靴など売れませんと報告をした。また別の人は、誰もが裸足(はだし)だからこそ靴を売るチャンスだと商売を始めた。・・以上は、商機を如何にとらえるかの古典的たとえ話である。この話は、ただ商売の話だけでなく、事実や環境に対する自分の取り組み姿勢について示唆するところが多い。ある状態に置かれた場合、それが自分の不運とみるか、チャンスとみるかは、考え方一つ。とらえ方で落胆は希望に転化できる。条件が悪いところからこそ新しいエネルギーが生まれるのは、大袈裟に云えば歴史が証明している。自分がハダシならば、靴を履くための力が湧くだろう。七夕さまにお願いするのは、元気の素。これは自分の中の裸足にあるかも・・。
7月8日(日) 夏風邪か二三日少し体調がすぐれなかったが、昨日の土曜日、テニスで炎天下に思う存分汗をかいたら治ってしまった。いつもこんな調子で、薬は飲まず汗をかくのが一番いい。このところ「コラム」は早朝書いてきたが、今日の日曜日は8時半から書き始めている。9時のNHK・TV日曜美術館の時間までにコラムは書き終わらせなければならない。確か今日は大好きな中川一政(画家)の特集番組のはずだ。予定としては、この番組を見ながら「今日の作品」を一つ描き始める。午前中に描き終えて、今日中にはホームページの"Today's Work"を改訂したい。午後はどうしよう・・。妻と一緒に原宿にでも遊びに行くか?(これ冗談) 天気予報ではこの日は雨であったが薄日がさして風がさわやか。どこかにでかけたくなる日曜日だ。
7月9日(月) この時期、ウィンブルトンTVを見ると寝不足になる。・・「今日の作品」に遺跡(ローマ/コロッセオ)を昨日、日曜日の昼に掲載したが、パソコンの中で見るとどうも迫力がない。改めて原画をじっくり見直してみた。遠くに離れてみると、丁度パソコンで見るように物足りなさを感じることが分かった。直ぐ目の前で見ている時には細部の調子で気にならなくても、離れてみると全体のバランスや勢いの至らなさが見えてくる。この絵はグアッシュで加筆した後、再掲載とした。自分が満足するまで、毎日加筆改訂などもHP題材としては面白いかも知れない・・と思ったが、それでは終わりがなくなるだろう。
7月10日(火) 昨夜、衛星放送TVでウィンブルトンテニスの男子シングルス決勝戦をみた。イワニセビッチ(クロアチア)とラフター(オーストラリア)が互いに譲らず大接戦。セットカウント2-2となり、最終5セットもゲーム6-6で決着がつかない。決勝戦なのでタイブレーク(7ポイント先取)はなしで、どちらかが2ゲーム取るまでエンドレスの試合となる。第5セットの14ゲーム、イワニセビッチはサービスゲームに0-30とリードされた。ラフターがあと2ポイント取れば、次はサービスゲームでラフター断然有利。ラフター絶好のチャンス。ところがイワニセビッチは強烈なサーブでかろうじてこのゲームをキープした(7-7)。次の第15ゲーム、何とラフターはゲームを落とした(7-8)。第16ゲームはイワニセビッチのサーヴィス。ついにマッチポイントとなるが、優勝を決めるべきサーブはダブルフォールト。再度、マッチポイント。イワニセビッチは胸に手を当て神に祈る。・・がまたもダブルフォールト。決着がついたのは、4度目のマッチポイントであった(9-7)。この時は、イワニセビッチは何も神に祈る仕草をしなかった。自分だけを信頼し集中、そして勝った。近来にない好試合の後、敗れたラフターの爽やかな態度が印象的であった。
7月11日(水) 東京は早朝から真っ青な空、焼け付くような日差し犬達の散歩は日陰を選ぶカラスがゴミを食い散らしている■■犬を連れた人と会うと”おはようございます!”久しぶりに妻と犬達とそろって散歩今日(日本時間) 2時間後にアメリカ・大リーグ野球のオールスター戦開幕イチローがアメリカンリーグの一番で先発出場する。ある意味では歴史的な日だ。ガンバレ,そして楽しもう!
7月12日(木) 赤ん坊の面倒を見ることが時々ある。娘の子供をお互いの仕事の調整をして預かる訳だ。考えてみると、自分の子供よりはるかにスキンシップをしている。娘の場合、ハイハイをしたとか、つかまり立ちをしたのも見たことがない。この時期にはインドに海外出張中、気温50度の酷暑の中で働いていた。自分の子供については殆ど育児に関して直接手を下したことのないダメオヤジであったことに気がつく。モーレツな働きぶりというのは今の現役の若者も変わらない。いつの時代も直接手を出せなくても「雰囲気作り」で育児に貢献できるだろう。育児も教育もなまじプラスに加工しようとせず、マイナスとしないこと、優れた芽を摘み取らないことが一番と思える。無垢で可能性を秘めた赤ん坊とただ一緒にいて、何にも汚されていない人間を観察するだけでも楽しい。
7月13日(金) 今日のテーマ「切磋琢磨」を自分のノートにメモしようと思うと”漢字が書けない”。ひどいもので、パソコンだと全く頭を使わなくても漢字がでてくるので、脳味噌の方はどんどん劣化していくのを実感している。パソコンの絶対記憶力と付き合っていると記憶に関しては「切磋琢磨」されないという意味では今日のテーマと関連があるかも知れない。切磋琢磨で重要なところは一方だけが磨かれて玉になるのでなく、もう一方も同時に磨かれるところだろう。相互に身を削りながら、お互いによりグレードの高いものに変わっていく。一方だけが研磨剤になって相手を磨き上げるのではない。相手が強すぎても、弱すぎても切磋琢磨とはならない。自分の角を削り落としながら相手を磨く。この切磋琢磨の典型は、友人関係にみられる。パソコンではなく、生きた人間の真の友人が、特に子供や若者には必要だ。既に若者でない人は・・夫婦関係もまた切磋琢磨だろうか・・。
7月14日(土) 以前、このコラムで触れた気もするが、「遠景、中景、近景」のことを書く。絵をはじめたころ、この3つが揃っているのがよい絵だと本で読んだ覚えがある。今考えると、遠景用に出来ている絵画も多い。モネなど印象派の絵は遠く離れてみると味わい深いが、絵の直ぐ側でみると、何を描いているのさえ分からない。マチスの絵でも目の前、30cmくらいの距離で見たときには何でこれが世界の名画なのだと思ったが、離れてみたときにすばらしい色と構図のバランスに感服したという経験がある。勿論、直ぐ側で見たときにも、作者の筆の勢い、息づかいに感動することもあるだろう。この「遠景、中景、近景」を人や事物に当てはめて見ると面白い。富士山は遠くで見るもの、すり寄ってみるとゴミの山・・という調子で、有名人や地位の高い人に実際に会ってみると幻滅することも多い。家庭に帰ると離婚の危機なんていう経営者も近景がよくない事例。人の場合は近景にはその人の本質がでる。遠景は結果であって、絵を描くように遠景をはじめに意図するものではないのだろう。
7月15日(日) 小さなピアノの発表会をきいた。ユニークで気持ちが良かったのは、連弾があったところ。父親と娘が一緒にピアノを弾く。母親と娘、兄と妹の組み合わせ、自分の作曲した曲を友達と連弾するなど、皆がピアノを、そして音楽を楽しんでいるのがよく分かる。かつては外国の首脳が音楽の指揮もできる、楽器も演奏するといって、羨望をもって報道されたこともあったが、いまの日本でも、そういう下地ができているのでないかとまで思いは及んだ。格好だけの習い事でなく、生活を豊かにする道具として音楽が定着しつつあるのがみてとれた。世間的には見えない私塾の領域で音楽のグレードは確実に上がっている。ふと、ひるがえって、今、学校の音楽教育はどうなっているのだろうと思った。
7月16日(月) 今朝、犬の散歩の時舗装道路の上に大きな犬の糞が放置されているのにであった。ボリュームもたっぷり、さぞかし大型の犬の落とし物だろう。元気なときはこんな他人の糞を回収することもある。自分の犬のものの数倍もある落とし物を袋に取るのは複雑な心境である。犬を飼う同類として恥ずかしいが、なぜ糞を放置するのかそこのところの心理がよくわからない。都会も野原も区別が付かないのか、自分の家を一歩出れば全てゴミ捨て場なのか。数日前には我が家の玄関先に柔らかい始末の困る”落とし物”があった。こうしたことから、地球環境の保護など容易なことではできないとも思い至る。「常識」で誰もが分かるはずだという性善説は環境問題の解決にはならない。
7月17日(火) 「夏枯れ」とは「夏の暑いさ中に、水が不足して、草木が枯れること」(新明解)とある。毎日コラムを書いていて、人の書くネタもすぐに”夏枯れ”になることを実感する。続けるためには、水の補給が欠かせない。何か行動すること。それは読書でもインターネットでも良い。昨日と違う体験をし、頭に充電することが、モノを書き続ける原点となるようだ。一人の人間の力はどうも大したことはない。他人のエネルギーを取り入れてはじめて存在できることを改めて思い知る。真っ白なキャンバスに好き勝手に絵を描く際も、やはり、刺激を受け、感動する対象がなければ筆が動かない・・全て同じことなのだろう。
7月18日(水) 子供の頃カラスを育てたことがある。直ぐ側の山から拾ってきた雛に(悪童どもが巣から捕ってきた雛を引き受けたというのが正しいが・・)魚の切れ端など餌を与え続けた。賢いカラスは成長して外を飛び回るようになっても呼べば戻ってきて肩に止まるし、物干し竿にとまって餌を催促したりした。・・という経験もあり、カラスには非常に親しみを覚えている自分ではあるが、やはり今の東京のカラスは異常だ。早朝、犬の散歩をする時刻、既に防御用の網の中から引っ張り出して辺り一面にゴミを食い散らかしているのは当たり前。集団でたむろしていると不気味でさえある。東京(23区)のカラスの数は1985年に約7000羽、1999年には約21000羽に3倍増したという調査結果をみた。 都市生態系に組み込まれたカラスは、カラスの意志とは別に増えすぎている。カラスのためにもここは人間の方が過剰な餌を見せない工夫が必要だろう。適度の数のカワイイカラスになってもらいたいところだが・・。
7月19日(木) 今日のコラムは夜に書いている。この日、生まれてはじめて経験したことを綴ると以下:奥日光の自動車道路上にふらふらと現れた野生の鹿を見たこと。アザミの群生を見たこと。k−ホテルでスペシアルランチを食べたこと。東京から最も近い世界遺産を訪れたこと(日光の社寺が世界遺産に登録された以降、はじめてという意)。今日は特別かも知れない。例えば昨日の分を同じテーマで書くと次のようになる:FLASHソフトで動画レーヤー5まで使ったこと。PHOTOSHOPソフトで画像の部分回転技術を覚えたこと。DREAMWEAVERソフトで新フォーマットを試みたこと。娘の子供に絵を描かせたこと。・・・こんな初体験シリーズ毎日綴ってみるか・・・。
7月20日(金) パソコンをやりながらテレビの音声(FM)だけを流していることがある。最近は何となく選挙演説(政見放送)を聞かされる。みなさん推敲を重ねた原稿を読んでいるのだろうが、話される言葉に耳を傾けているとガッカリすることが多い。まず美辞麗句の羅列。一般論だけの主張。自分についてはいいことずくめで本音が見えない。一昔前に、ある政党幹部の話を生で聞いた時、政治家とはこんなに話し上手なものかと話術そのものにすっかり酔ったことがあるが、その後この人も消えてしまった。そういえば、中学生の頃、「巧言令色少なし仁」を学んだ。その時の影響か、ことば巧みなのは怪しげと思ってしまったが、実社会では仁よりも巧言が優先されることもまた体験した。政治家は話の内容も重要だが、同時に、姿、態度、行動、実績など全てがオープンされて評価されるべきだろう。個人のdisclosureが必要だが、所詮”仁”は期待しない方がいいかも知れない。
7月21日(土) 土曜日にはテニスで汗を流す。コラムのテーマとしてテニスを取り上げようと思うことがあるが、ゴルフ好きの人がゴルフの講釈をしても他人には全く面白くないことが多いことを考えたりして、いつも止めてしまう。趣味は能書きを云わずに楽しむだけで十分であろう。それでもこの際一言触れれば、この運動をして面白いところは、自分が天才でないかという瞬間と、超下手な、みじめな状態を同時に味わうことができることだ。思う存分挫折しても後を引かない。勝つことは目的ではないし、負けもまたいい。勝ち負けに固執せずに対戦することができる素人スポーツはやはりすばらしい。
7月22日(日) 世の中には、専門家の意見というと、お釈迦様か、キリスト様のいうことのように有り難がる人がいる。専門家といっても、教育の専門家、経済の専門家、ロケットの専門家・・と言う調子で、政治、医学、歴史、体育、食物、報道、気象、植木の専門家などなど、あらゆる分野に膨大な数の専門家がひしめいている。専門分野を本当に理解している人ならば、自分の分野はいかに未知な事柄が多く、結論をだすには至らないと承知している。けれども、対外的に「専門家」が語るとそれが”定説”として権威となり通用したりする。そういう定説は時間を経るとしばしば大改訂される。しかも、専門分野の立場でみる主張が間違いのないことであったとしても、全体(人間全体、生物全体)からみるとそうすべきでないということも多い。部分最適が、必ずしも全体最適でない。専門家の意見はあくまで非常に狭い範囲の参考意見として、自分自身で判断する習慣がほしい。つまり”眉(まゆ)に唾(つば)すること”の勧め・・。
7月24日(火) 昨日の月曜日は、夜、このコラムを書くことが出来なかった。いま火曜日の早朝、キーを叩き始める。最近は暑さで疲労困憊などというほどのこともやってないのに夜になると頭が働かない。それが早朝は何と爽やかなことか。朝はまずinternetで各新聞をチェックする。久しくご無沙汰していた朝日の天声人語などにもこのところ目を通すようになった。しかし、朝日というのは奇妙な気配りをするものだ。早朝には当日の記事を見せない。天声人語の本日版は7時30分を過ぎた頃にようやくinternetに掲載する。つまり、新聞が配達される時間を見計らって、その日の記事をNETでオープンにする。有料でお金をだしている新聞購読者より先に、タダでinternetなど見せませんよという姿勢だ。読売の編集手帳、産経の産経抄、日経の春秋などどれも新聞配達前の時間でもinternetで見ることができる。朝日はまた芸が細かいというより、ただケチクサイ。
7月25日(水) 昨日、24日には関東地方は記録的な猛暑となった。前橋では気温40.0度、東京都心でも38.1度。しかし、暑さというのも慣れるものだ。今年は東京は35度といっても驚かない。渋谷の地下鉄(銀座線)のプラットホームは冷房がなく風通しも悪いので、じっとしていても汗がしたたり落ちる。それでも、お金を出してサウナに行ったり、運動して汗を流すことを考えると、これはお安い天然サウナ。人間様は汗をかくのもいいが、ワンちゃん達は炎天下の散歩はできない。今朝は5時過ぎに犬の散歩にでかけたら、H夫妻、俳優のF夫妻、その他顔なじみの人たちと行き会った。早朝に会うひとはみなさんハツラツとしている。今日もまた暑い日がつづく。汗腺を活性化して新陳代謝を促進するには絶好だと思おう。
7月26日(木) 息子から借りた「将棋の子」(大崎善生著)という本を読んだ。プロ棋士への登竜門である奨励会に集まった若者の夢と挫折の物語である。奨励会にはそれぞれの地方で天才とか10年に一度の逸材とか呼ばれた子供達が集まっている。みんなが将来の名人を夢見て生活の全てを将棋に捧げる。けれどもこの天才集団の中から本当のプロ棋士になるのはほんの一握り。年齢制限があって熾烈な戦いに敗れた20歳台半ばの若者は一般社会に出ていかなければならない。天才達が将棋の世界と余りにギャップの大きい社会で生きていくところに物語が生まれる。将棋に限らず、幼少の頃から天才達が競い、そして栄光と挫折のドラマが生まれるのは、プロスポーツや音楽界などにも似たようなケースは多い。けれども、本の筆者も言外に云っているが、人生は勝負事と違う。勝った、負けたで決められないから面白いのだ。プロになれなかった将棋の子が名人よりも充実した人生を送ることだって 十分にあり得る。そこが人生の妙味だろう。
7月27日(金) 昨日のコラムで、勝負事の話に触れた。勝負というのは絶対的な強さではない。必ず相手のあることであり、勝った、負けたといっても、その時点での相手との比較に過ぎない。武蔵丸と雷電が相撲をとるとどちらが強いか比べることはできない。しかし、時間の記録が残る競技は残酷である。今、福岡で行われている世界水泳で、イアン・ソープ(豪州)が男子400M自由形で3分40秒17の世界記録をだして優勝した。フジヤマのトビウオといわれた古橋広之進が1947年にだした世界記録が何と4分33秒4であった。古橋は1500M自由形でも世界新をだしている。記録は、18分37秒0。古橋が先にゴールして、後からアメリカなどの選手が泳ぎ切るまで長い間プールの上で待っているという姿が思い出される。それが、今は1500Mの世界記録は、14分41秒66(キーレン・パーキンス/豪州)。かつての古橋の記録で泳ぐ人は何百人いるか数え切れないだろう。勝者は賞賛されてもよいが、謙虚でなければ滑稽である。明後日の世界水泳では1500M決勝がある。どんな記録が、そして、どんな勝者がでるか楽しみだ・・。
7月29日(日) 「夏の雲 朝からだるう 見えにけり」(一茶) 一茶にしてはつまらない句に思えるが、今日、日曜日の朝の雲はこんな風情だ。昨夜は隅田川の花火大会もあったが、こちらは神楽坂祭りに行った。神楽坂というと「芸者」を連想するが、飯田橋駅(東京)そばの商店街の夏祭り。駅前から毘沙門天の方向に続くなだらかな坂をいくつもの連が「阿波踊り」で練り歩く。地元の新宿区役所連も上手であったが、大田区役所連の阿波踊りは統制された見せるパフォーマンスが見事だった。東京の阿波踊り(変な単語です)の本場、高円寺の天狗連の参加もあった。花火大会と違い、それほど混雑をしない。好きなところで沿道に腰をかけると、直ぐ30cmほど目の前を踊りや太鼓が通り過ぎる。メインの通りから少し脇道に入ってみると、狭い路地が続き、芸者さんに出会いそうな料亭が点在していた。2001年、東京の夏の風物詩。
7月30日(月) 昨日の日曜日は参院選。今日はその結果のニュースで終日賑わっている。新聞のコラムと違ってこうした話題を取り上げないのがこのコラムの美学だ。床屋談義をはじめると泥沼にはまる。・・と一転して、「ゴッホの手紙」について触れる。突如として、「ゴッホの手紙」を通読してみたいと思い始めた。この夏休みに読まなければもう一生読めないのでないかと閃いたのだ。ゴッホが37歳で自ら命を絶つ直前までの18年間に弟のテオ宛に出した書簡だけで652通。ゴッホの死後24年を経て、1914年、テオの妻、ヨーが「ファン・ゴッホ書簡全集」をオランダで出版し、この膨大な手紙の全貌が世に知られるようになった。これまで断片的には色々な形でこの有名な手紙を目にしたことはある。(勿論、日本語訳で)しかし、これを通読すると何か相当のエネルギーが得られるのでないかというのが閃きであった。学生時代ならともかく、今更なんで・・というところだが、挑戦してみるのも無駄ではないだろう。Let's try!
7月31日(火) 原宿の竹下通りといえば、休日などには身動き出来ないくらい混雑する人気スポットであるが、この通りから40-50m外れたところに渋谷区の中央図書館がある。通りの賑わいが別世界のような樹木に囲まれた閑静なたたずまいには、いつきてもホッとさせられる。この図書館でゴッホ書簡全集を借りようと思ったけれども検索で見つけることができなかった。代わりに、小林秀雄の「ゴッホの手紙」を借りた。ついでに、この古典に対抗して書かれたとも云うべき「ゴッホ神話の解体へ」(木下著)も借りた。けれども、この日の収穫は坂崎乙郎著「エゴン・シーレ」を見つけたことだ。坂崎さんには高校時代にドイツ語を習った。当時は新進気鋭の美術評論家であることなど知らずに、猛烈に難解だった「ドンキホーテ」を一生懸命訳したことを思い出す。その後、美術評論家として時々名前を拝見することはあったがお会いする機会はなかった。オーストリア全盛の時代に、クリムトの弟子であったエゴン・シーレは28歳で亡くなっているが、これを書いた坂崎さんも随分前に50代でお亡くなりになった。こうして著作を通して再会すると、懐かしさもさることながら、内容の濃さに暑さも忘れてしまう。

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