これまでの「今日のコラム」(2001年 10月分)

10月1日(月) 下期のはじまり、今日10月1日の朝はスポーツの明るいニュースでスタートした。昨日のベルリンマラソンで高橋尚子が世界で初めて2時間20分の壁を破り、2時間19分46という世界最高記録で優勝。イチロー選手は今季通算234安打を放ち、大リーグの新人最多安打記録を90年ぶりに更新。(今日、235本目の安打はホームランだった)いずれも世界に誇れる大記録ですばらしい限りだ。更に、もう一つの大ニュースとして取り上げられているのが、長嶋監督の最後の試合。こちらは、ただ監督が交代するだけの話であるが、マスコミのニュースの扱い方を非常によく教えてくれる。長嶋が現役を引退したのは1974年10月14日。何と27年も前だ!長嶋については、大記録保持者でもなし、名監督記録もない。ましてや、世界的な記録などとはほど遠い。けれども、商品は、その内容や質の善し悪しではなく、人気という商品価値だけで十分に売れる。長嶋には不思議な人気があるのだ。私も長嶋さんは好きなので、勝手な分析をしてみると、一言でいえば浮き世離れしているところがいい。スポーツマンらしく権謀術数とは無縁にみえる。また、データ野球だ、理論武装だと言わぬもいい。野球の監督業を企業経営と同列視したりしない。「感」が働けばそれで十分。・・みんな幻かもしれない、それでも夢を見てみたいのが人間。これが人気の源泉だろう・・。

10月2日(火) 「秋風や あれも昔の 美少年」(一茶)  テレビでかつての美少年や美少女が登場しているのを見ると感ひとしおになる。木村拓哉や浜崎あゆみの30年後など見たくもないのに、見ることになったらどうしよう・・そんな心配がテレビでは現実となる。そのとき、「昔の美少年や美少女」たちが、あー、いい歳の取り方をしているなと思えるのは、何とも気持ちがいいものだ。アイドルは過去のこととして、昔とは全く別の生活基盤をもっていて、考え方もしっかりと地に着いているという姿はすがすがしい。過去の栄光が大きい人ほど、美しく歳を重ねるのはそう容易なことではない。秋風を感じさせるか否かは生き方そのものであろう。「芸術の秋」。上野の美術展で見た高名な画家の絵に余りにも精気がないのに愕然とした。画家でも意欲がなくなると”秋風”はすぐに押し寄せる・・。
10月3日(水) 「ケセラセラ」(=スペイン語 Que Sera Sera)は時として救いの言葉となる。物事を余りに真面目に、また深刻にとらえても何も解決しないことは多い。そこは開き直りでケセラセラ=「なるようになる」と思うのが一番。ケセラセラは40年ほど前の映画「知りすぎた男」の主題歌である。映画自体は駄作だったが、主題歌を、映画の中ではドリスデイが、日本語ではペギー葉山が歌い、「ケセラセラ、なるようになる、先のことなど分からない・・」は誰もが口ずさむ大ヒットとなった。(どういう訳かこの曲の楽譜が手元にあるが、作詞・作曲は、Jay Livingston & Ray Evansだ)歌詞もスペイン語そのままQue Sera Sera と歌い、その後、Whatever will be will be. The future's not ours to see. ・・What will be will be.と続く。この場合、やはり英語では、”ケセラセラ”の語感がでないから不思議だ。そういえば、「アスタマニャーナ」(=明日また、明日があるさ)もスペイン語。スペイン語圏の「ケセラセラ」と「アスタマニャーナ」は即効性のある精神安定剤として大いに愛用できる。
10月4日(木) 昨晩は犬達を連れて外にでると、建物の間のわずかな空間に見事な丸い月が見えて思わず立ち止まってしまった。余りに美しかったので調べてみると、この日は陰暦で17日の月、立待月(たちまちつき)。満月十五夜はその二日前、前日が十六夜(いざよい)で、いずれも東京は天気が悪く名月を見損なったことに気が付いた。立待月は月のでるのを立ったまま待つことから名前がつけられたというが、待つこともなく見ることができたのは幸運。そうすると、今晩は居待月(いまちつき)だが雲が厚く見えそうにない。明日の寝待月(ねまちつき)は寝て待てば見えるだろうか・・。今は月など眺めるのは風流な贅沢であるかも知れない。それにしても、これだけ多くのネーミングがあり、それぞれに情緒あるところは正に文化の香りを感じる。
10月5日(金) 「草の名は知らず珍らし花の咲く」。名前を知らぬ草が可憐な花を咲かしているのに、意味もなく感動するようになったのはどうしてだろう。出来れば草花辞典で名前を調べたいと思うが、「雑草」には名前の分からないことも多い。何より「雑草」」という言い方が気に入らない。人間の場合は、「雑兵」というのもあるが、個々は全く関心がない集団としての名称で「雑」とは失礼な言葉だ。そこの雑日本人さん、雑黄色人さんと呼ばれるのと同じで感じが悪い。ところで、文頭の俳句は「くさのなはしらずめずらしはなのさく」で文の逆から読んでも同じ「回文」でできている。この作も詠み人知らず。名前は知られていなくてもキラリと光るものを発見することは楽しい。
10月6日(土) 土曜日はラグビー場の駐輪場に自転車をおいて隣のテニスコートで汗を流すので、今日はラグビーのことを書こう。ラグビーは実際にプレーをしたことはないが、以前から一目置くといったスポーツだった。身体をぶつけ合って、思う存分に力勝負をするところもあれば、またあえて不確実なバウンドをする楕円ボールを扱うテクニックも必要とするゲームは非常に魅力的だ。また、何よりラグビーというと必ず引用される、"One for All, All for One"(一人はみんなのために、みんなは一人のために)という精神がいい。これほど的確に個人と集団の意味を表現した言葉を知らない。更に、ラグビーはプロチームのいない純粋のアマチュアスポーツであるところもユニーク。自分のチームメイトに限らず、かつて戦った相手チームを含めたラグビー仲間という絆が一生涯続いているという話を聞くのも、よきアマチュアリズムが活きているからだろう。数年前にはラグビー界もプロの解禁をしたというが、サッカーのようなプロチーム化は期待しない。(個人がプロ宣言した例もあるようだが、これは結構。プロでなければ、CMにもでられぬというアマチュア規定そのものがおかしい)ボールの形も、精神も、アマチュアリズムもラグビーの独自性があるところが好きだ。
10月7日(日) このところ毎週日曜日に「今日の作品」を改訂としている。今日は「鷹幻影」を入れた。妻の友人で絵を描く人がいて、最近、私が自分で油絵用のキャンバス張りを始めると、彼女がいらなくなったという絵を届けてくれた。古い絵の描かれたキャンバスは外してフレームを再利用して頂戴という訳だ。私はどんなに未完成な絵でもその内に描き直してやらなければ絵が可愛そうと思うたちであるが彼女は気前がいい。折角の好意であるので、絵(いわば練習用の絵)はいただいたが、キャンバスを剥がすのはもったいない。古い絵の具をナイフで削り落とすのも手間ばかりかかる。・・で、厚塗りしてある古い絵の具の色と構図を活かして上塗りして作成したのが「鷹」となった。いわば他人が築いた土台を利用して自分の好きなものに変身させたのであるが、このやり方も意外に面白い。また他の人はこの絵を全く別物に変えることができるだろう・・。
10月8日(月) 誰もが欲しがるものを収集するのは競争を生むが、他人にはほとんど価値がないものを集めて喜ぶのは周りに迷惑をかけない。私のそんなコレクションに「立方体」がある。サイコロ(小さい物から大きなからくり箱まで)、ルービックキューブ(これも大小ある)、アクリル製のブロック、金属製のブロック(銅、アルミ etc)、木製ブロック(紫檀、欅 etc)、各種立方体パズル、キューブ型オカリナ、キューブ時計など手に入ったものを捨てずにもっていたら相当数集まってしまった。立方体というのは、六面が全くの均等であるが一面が真上にあると反対面は真下で見えない、前後、左右の面もまた同じ・・平等と評価の典型・・といった”哲学的な”意味づけをして喜んでいたこともあったけれど、いま改めてがらくたを眺めてみるとシンプルな形状だけで視覚的にも捨てたものではない。その内、このホームページでSpecial に "CUBE CORNER" を作ろうかと思ったりする・・。
10月9日(火) ニューヨークの世界貿易センターテロによる犠牲者5000-6000人のうち米国人と英国人を除けば、インド人が際だって多い。日本人が20数人のところ、300人を越すインド人の犠牲者がいることがデータベースに記載されていた。インドは米国からのコンピュータソフトの受注は世界一で日本以上といわれる。ハイテク、エリートの企業しか入れないあのビルに日本人の10倍以上のインド人が働いていたのは、改めてインドの強さを思い起こさせる。今日の新聞では、コンピュータ、半導体などハイテク製造業について、これまでの製造拠点をマレーシアなどから中国へ移す動きがあることが報じられている。少しでもコストの安いところを求めて世界中に工場は移動する。中国の次に、パキスタン、アフガニスタンに移ってもおかしくはない。明らかに世界の”境界”はなくなりつつある中で、タリバン情勢とテロ対策がボーダーレスの社会にどんな影響をもたらすか注目している。
10月10日(水) 10日は元体育の日で、快晴となる特異日のはずだ。ところが今日は休日の指定を外された恨みのような本格的な雨が終日続く。その日に何をしたかを毎日ノートに書いているが、記録していないと2-3日過ぎると何をやったかも思い出せないことがある。大体このコラムは毎日書いているが、コラムの内容と仕事とは結びつかない。突如思いついて即日実行するのが自分流なのだが、今日から毎日なんでもいいからアウトプットとして見えるものを残すことにした。何らかの形の見える作品1個以上をノルマとする。コラムの文章などは数に入れない。ノルマという言葉を使ったが神に誓ったりする訳でも何でもない。やってみてできなければそれまで、といういい加減流でいく。目的はあれこれ深く考えずに自分の手を動かすことだけだ。今日は既にアウトプット(スケッチ)がある。この調子ならノルマは2倍でも大丈夫かな?
10月11日(木) 数年前、娘がフランスにいた頃、チュニジア人の若者と結婚していた友人(日本人)の話を聞いたことがある。チュニジア人はイスラム教徒。彼女も最終的にはイスラム教徒となった。結婚生活は案外に普通だったらしい。イスラム暦の九月に行われるという「断食」(だんじき)も厳しい戒律に思えるが意外に柔軟性があるようだ。断食は日の出から日没までの昼間のみであって、夜間は親しい仲間との会食でむしろ楽しい雰囲気だというし、幼児、病人などは断食は免除されている。体調の悪い人が病人になるか断食するかは自分が判断すればいいという健全な個人主義があるとも聞く。いまイスラムが注目されている。現代のイスラムは非常に多様で一概には云えないが、1000年以上時代を逆行する思想がある一方、想像する以上に現代的、合理的な側面もあるようだ。
10月12日(金) 広義の「余白」をどうとるか、これは非常にデリケートで難しい。文章では改行や段落が余白になるし、句読点も一種の余白かも知れない。音楽の余白は音のある部分と対等の聴かせどころになる。絵画では余白そのものが絵の価値を決める場合もある。余白は無駄ではなく、余白のすばらしいものにこそ感動する事も多い。人生に余白があるかどうかは分からないが、いっときは無駄のように思えた余白のような時間が、後で考えると実に貴重な意味があったということはしばしばある。余白といわずに無の空間あるいは無の時間と呼べば、一番贅沢なものにもなろう。スペースも時間も余分で無駄なものにするか、あるいは貴重な宝にするかは、結局自分自身がどうしたいかにかかっている。
10月13日(土) 昨夕は「スペイン国立バレエ団」にいった。バレエといってもクラシックバレエでなく、伝統あるスペイン舞踏やフラメンコをベースにしたバレエだ。演目の一つに「ボレロ」があった。以前このラベルの曲に20世紀バレエ団を率いるモーリス・ベジャールが振り付けをしてジョルジュ・ドンが舞うという「ボレロ」を見た印象が強烈で、それ以降バレエというものに対する見方が全く変わってしまったという経験がある。それは踊りとかバレエという感覚でなく、神がかり的な創造の世界であった。この日のボレロも(またボレロに限らず、他の舞踏も)これまで接したことのないスピード、切れ味、安定感、音、間、などなど衝撃の連続だった。頭の中にあるフラメンコというイメージは一新され、従来フラメンコと思っていたものはただの真似事だったのかとさえ思わせられる。(ソリスト=ヒメネス、ベラスコ、コルドバなど男性陣)世界は広い。この世界の一流に直に触れられる幸せをあらためて感謝した。
10月14日(日) 「今日の作品」に「My bicycle」を入れた。10月10日のコラムで書いたようにこの日から毎日一つ以上何でもいいから目に見えて残るものを作ることにした。「My bicycle」はその中の一つ。身の回りにあるものをスケッチするのが一番簡単なのでこんな作品ばかり溜まる。つまり、草花や風景といった題材は見つけにくいので、素直に身近なものをスケッチすると「自転車」とか「おもちゃ」ばかりになってしまう。描いてみると目の前にあるものを普段は如何にきちんと見ていないかを実感する。デジカメで撮影すれば自転車など一瞬で画像を残せるが、自分で描いていくと「自転車のスポーク<車輪を支える放射状の棒>がこういう構造になっていたのだ」などとはじめて納得できる。それから対象をみてあるがままに描くということはストレスにならない。ただ無心に念仏を唱えているような開放感がある。毎日のノルマでなくて面白い楽しみが増えてしまった・・。
10月15日(月) 毎日コラムを書いていると、本を読んでいても、パソコンを操作していても、町を歩いていても、また電車に乗っていても、このネタはコラムに使えるなと無意識に考えていることがある。今日はそう言いながら全くのネタなしでキーボードに向かう。このところ毎日簡単なスケッチ作品が出来上がっているけれど、絵を描く対象も毎日となると明日は何を描こうかと気にするようになった。今朝は犬達の散歩の時に近所の風景を描くのもいいと思いついて、いつもと違う画材探しのウオーキングをした。そうすると今まで毎日犬と一緒にあるく散歩コースにいくらでもスケッチのネタが転がっていることに気が付いた。その気になれば風光明媚ではない都会の景色でも絵にはできる。その内に身の回りの雑物スケッチに混ざってご近所風景を掲載できるのが楽しみだ。
10月16日(火) 最近、ものの値段というものが分からなくなった。100円ショップにいくと時計が100円で売っている。デザインはともかくムーブメントはクオーツだ。先日は100円ショップではないが、近所のアウトレットの店で時計付きのスケジュールボードを250円で買ってしまった。こちらはボードの地の色が黄がやや強い利休色(灰黄)と薄紫の組合せでシックな配色。ボード上部に取り付けられた時計の秒針が外れていたがそこはお手のもので修理したら完璧に動く。今はわがホームオフィスの必需品として定着した。一方では、シルクロード専門画家の簡単なスケッチがいまでも何十万円(いっときは何百万円?)で売れるらしい。いいモノならばそれも結構。自分では欲しいとは思わないが、いくら名前だけで買う人がいるといっても価値と値段が乖離している。本当の価値は何であるかを論ずればキリがなくなるが、少なくとも自分にとっては、値段が安いモノが価値が低い訳ではない、高いモノが価格に相当する価値とも限らない・・。
10月17日(水) たまにテレビで「水戸黄門」をみると素直に楽しめない場面がある。最後の印籠をだして「このお方をどなたと心得る。恐れ多くも・・・」とやるところはいい。その前に必ず悪代官(あるいはそれ相当の悪役)が「かまわぬ、ぶった切れ・・」と号令を発し下っ端どもが助さん、角さんに切ってかかる。そして当然の事ながら、バッサバッサと切り捨てられるのは下っ端。テレビでは不思議に死体の山を築かずに場面は展開するが、切り捨てられた方が可愛そうで仕方がない。悪い上司や親分を持ったばかりに、命令に忠実に行動すれば即刻切り捨てられるのは現代でも同じ。助さん、角さんもその辺を承知の上で、「峰打ち」としているに違いない・・。
10月18日(木) 「今日の作品」に「飛行機オモチャ」を入れた。フィレンツェの土産物で買ったもの。日本製か中国製かとも思ったが、この種のオモチャには初めてお目に掛かった。下の丸い玉を引っぱると糸で繋がったプロペラが廻る。同時に柔らかいスプリングで吊っているので、スプリングの上下にしたがって両翼がパタパタ動く。これだけのものだがモビールの一種として天井からぶら下げてある。こういうものの絵を描いていると一番楽しい。このところコラムであれこれ書くのも飽きてきたので、2−3日毎に「作品」を入れ替えて、これを紹介していくつもりだ。
10月19日(金) パリの凱旋門から連なるシャンゼリゼ通りには電柱や電線が見えないことはよく知られている。街の景色が随分とすっきりした感じになる。けれども、この景色もはじめからこうであった訳ではない。昔の写真をみると、蜘蛛の巣のように電線がシャンゼリゼを横切り、電柱が林立している。地下にこれらの設備を潜らせるために、それなりの大工事を実施したのだ。最近、近所(東京)の街の建物をスケッチしようとするとき、決まって電線・電柱を無視して描く。建築そのものを描きたいというのがその理由。ところが、ふと今度は電柱だけを描いてみたいと思い始めた。一見不様な姿をさらしているように見える電柱も、何年か先には見たくても見ることが出来ないかも知れない。そう思うとトランスや分配機をいっぱい抱えた電柱がいとおしく風情さえ覚える。今の姿を残してやりたい・・。
10月20日(土) 毎日のなかには息抜きも必要だ。今日の作品「牛のcandle stand」(ペンと水彩)もそんな一つ。形の切り口はカッターの跡をそのまま残してあるところが面白い。これを大量生産するには、3mmの板を10枚ほど重ねてガスで切るか、レーザーで切るかなどと余計なことを考えるのもラフな形がなせる楽しさ。土曜日は運動で体力を消費するので何でも重くない方がいい・・と軽い作品を掲載した。
10月21日(日) 近頃なんとなくすっきりしないこと・・。嘘をついて金品をだまし取ったり損害を与えると詐欺罪になる。ところが、嘘をついて名誉をだまし取っていた人間は何の罪も問われないのか。多くの名誉ある人のことを云っているのでなく、例の古代史の教科書まで改訂させることとなったインチキ発掘者のこと。日本の古代史研究の信用を失墜させた他、各方面に大損害を与えたにもかかわらず、本人が逮捕されたという話もをきかないし、損害賠償するよう告訴もされていない。今後は発掘にかかわらず、おとなしくしています程度で済むような問題ではないように思える。法律も一般の感覚と一致するようにならないのだろうか・・。 <今日の作品にヴェネチア土産のガラス飾りもの掲載>
10月22日(月) 今日の作品に「坂の下の教会」を入れた。近所の風景スケッチとしては初めてもの。教会の建築はどれもなぜか際だってみえる。この教会は坂の下の角地にあるが、屋根(というより屋上の覆い)は真っ直ぐの鋼材を何本も組合せることにより曲面形状をを作り出しているところがユニーク。建物は非常にシンプルで気持ちがいい。ただし、この絵は右手にある信号と電信柱を省いてしまった。描くためにあらためて観察していると教会の中に入って見たくなった。・・といいながら、その後もまだ一度も内部に入ったことがないのが少し心残りだ。
10月23日(火) 「つれづれなるままに日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」・・お馴染み「徒然草」の序段。図書館から「徒然草」の現代語対訳(絵付き)の本を漫然と借りてきて目を通している。この本が、”つれづれなるままに・・”を”退屈で退屈でしよーがないから・・”と訳しているがどうもピンと来ない。広辞苑によると、「徒然」=@つくづくと物思いにふけること、Aなすこともなくものさびしいさま、することもなく退屈な様とある。この現代の訳者は自分自身で「徒然なるまま」の心境など一度も経験したことがないに違いない。この序文では「退屈でしょうがない」という単純なニュアンスとは違う方が好ましい。自分も”退屈でしょうがないから”この本を読んでいる訳ではない。寸暇を惜しむ時間の中で、徒然なる気分に浸る瞬間があってもいいと思って拾い読みをする。対訳をみていると、700年前の原文がなるほどすばらしいと納得させてくれる。「あらためて益なき事はあらためぬをよしとするなり」(第127段)
10月24日(水) 昨夜は、アファナシエフのピアノでブラームスのピアノ協奏曲を聴いた(オーケストラは新日本フィル、@すみだトリフォニーホール)。アファナシエフはモスクワ生まれで亡命後いまはパリを拠点として活躍するピアニスト。小説を発表したり、道教思想、インド哲学にも精通する。鬼才とか現代のカリスマピアニストと呼ばれるが、生で聴く音楽はやはり世界の最高のものに接する至福を十分に感じさせる。特にあの弱音の微妙な美しさは比類がない。アファナシエフというといつも思い出すエピソードがある。日本に来る度に案内している人から聞いた話。京都などのお寺に行くと、アファナシエフは一カ所に立ち止まり、その場の全てを感じ取るように15分間ほどじっと動かなくなるという。そして、何年か後に同じ場所にいっても細部に至るまで全てを覚えているそうだ。この話は、目にみえるものだけでなく、歴史、文化、雰囲気を含めた全てを彼の感性の中に消化してしまう秘密の一端を表している様な気がして忘れられない。
  <今日の作品に「坂道にある教会」を掲載>

10月25日(木) 国立劇場開場35周年記念の10月歌舞伎公演をみた。「殿下茶屋聚(むら)」という仇討ちもの。イヤホーンガイドを付けて、芸そのものと解説も楽しんだが、久しぶりの歌舞伎に色々な感慨を持った。一つは現代のアニメ映画なども同じであるが、本筋のストーリーとは関係がない細部への徹底したこだわりの見事さ。小道具一つ、ちょっとした仕草のひとこまなど、気が付く人にはたまらなく面白いが、大筋には無関係なところに生き甲斐を感じるようなところが見える。もう一つは、忠臣蔵やこの日の演目にみる仇討ちの人気の意味。事故や災害に対しては、「ハインリッヒの法則」というのがある。この法則によれば、表面に表れた1件の重大事故に対し、軽い事故や傷害は29件、また水面下には、怪我はしなかったけれどもヒヤリとした事故が300件潜んでいると云われる。これでいくと、評判になった仇討ち成功の影に隠れている返り討ちや無念の敗北は何百とあったことだろう。・・歌舞伎についてこんなことを考えるのは無用か。ストーリー性はシェークスピアに任せて、やはり様式美を楽しめばいいのかも知れない。
10月26日(金) 「犬の散歩用靴」の絵を「今日の作品」に入れた。靴の絵で直ぐに思い出すのが、香月泰男(洋画家,1911-1974)が「シベリア通信」で描いた軍靴。香月がシベリアに捕虜として抑留されている時に日本の家族宛に毎日のように自分で描いた絵はがきを送った中に、履き古した靴の絵があった。シベリア通信に刺激され、娘が留学中に絵はがきを描いたのがGALLERY-Postcardで、このホームページのベースとなっている。自分の身につけているものも案外によく知らないことも多い。この靴を改めてじっと見てみると、自分のためにすり減った様が目について何か申し訳ないような気になる。せめてその分、愛情を持って描きたいと思った・・。
10月29日(月) 週末から秋の旅行にいってコラムは2日間お休みとなった。旅行の話題は後日として、「今日の作品」に「30色のカラーペン」を入れた。また100円ショップの話をすると少しきまりわるいが、この30色の水性カラーペンが100円ショップで売っていたので買ってしまった。試し描きを兼ねて全部の色を使って、いわばカラーペンの自画像を配列したのがこの絵。きっちり色も出る。一本3.3円とは信じられない。調子に乗って、同じペンで水性の溶け方を見ながら描いた「」を「これまでの今日の作品」に並べて掲載した。
10月30日(火) 「もののあはれは秋こそまさる」。 急に暖房が欲しくなるほど冷え込むと”もののあはれ”の感度も上がるものだろうか。「もののあはれ」は、人間の魂の底から発せられるやむにやまれぬ感動のようなものとされるが、それは理屈や道理で定義できない美的感覚であると思われる。自分自身で「もののあはれ」を求めてみるが、どうも最近は日常の世事や雑事だけに流されて、感度が鈍くなってしまったようにも思える。何にしても感動がなければ新しい世界はみえない。「もののあはれ」を発見するためには、じっとしているだけでなく行動や努力も必要なようだ。「去年より 又さびしいぞ 秋の暮れ」(蕪村)
10月31日(水) 「今日の作品」に「My System-note」を入れた。システムノートは10年以上使用してきた。はじめの頃は、自分では贅沢品にみえて、余り他人には見せないようにこそこそ使っていたが、その内、若い人が私のよりはるかに立派な革ケースのものを当たり前で使っているのに気が付いた覚えがある。このシステムノートは長年使ったノートの表紙が傷んだので昨年の7月に購入したもの。(ダイアリー部分のみ毎年入れ替える)誰に遠慮することもないので、コバルトブルーの表紙のfilofax製ノートにした。退職の半年前に、気分一新して新しいノートにしたのは今考えても正解だ。毎日の予定とか日記以外に、アイデイアノート、覚え書き用としてこのノートは重宝している。このコラムを書くときにも、どうにも書く話題が無いときには昔からのシステムノートをペラペラめくっていくと、何かテーマが見つかる。描いたノートの右隅にある万年筆は会社の同僚から退職記念にいただいたもの。これだけが勤め時代の香りを残している・・。

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