これまでの「今日のコラム」(2001年 11月分)

11月1日(木) 今年も11月、霜月となってしまった。何をやっても、またやらなくても、時間だけは確実に経過していく。霜月というのは霜降月が変化したものと云われるが、11月は霜月以外にたくさん呼び名があったようだ。いわく、神帰月(神無月に出雲に出かけていなくなていた神様が帰ってくるのだろう)、神楽月、雪待月、などなど・・。一方、Novemberの語源は「9番目の月 」。古代ローマの暦で一年を10ヶ月としていた時の名残で 、今のグレゴリオ暦(12ヶ月)でも呼び名を変えずに、3月からの9番目の月という言葉がそのまま使用されているとのこと。そういえば、イスラムの断食月(ラマダン)は「9番目の月」と定められているので、やはり11月になるのだろう。いよいよ「9番月」だねなんて云うより、もう「霜月」だというほうが情緒があるが、考えてみると南国でも南半球でも「霜月」は使えない。グローバル化は ローカルな感傷を捨て去らなければならないとみえる・・。

11月2日(金) 毎回同じような繰り返し、坊さんの念仏、偉き人のお説教、教師の授業、サラリーマンの日記、それにこのコラム。・・などと云いたくなるように、このところコラムの内容に悩んでいる。何となく、毎日書けばいいというものでもないかという思いがまた頭をもたげる。どうも周期的に自己嫌悪になるところがある。「今日の作品」の方は迷いがない。毎日作成の習慣は続いているので、「作品」はたまる一方だ。今日は「Note &CD」を入れた。こちらはただ練習のみに徹して、見たままを描くことにしているので 雑念が湧かないのがいい。
11月3日(土) 「今日はそのことをなさんと思へど、あらぬいそぎ まづ出で来て まぎれ暮し、・・・思ひよらぬ道ばかりは、かなひぬ」(徒然草189段)今日が図書館で借りた「徒然草」の返却期限だったが、雨の中、自転車を飛ばして急ぎ帰ることとなり、図書館に寄る時間はとれなかった。思っていた通りにいかなくても、思ってもいない方面ばかりがうまくいくのは今も昔も同じ事のようだ。大体、予定通りのものより予想外のsituation に面白味があることが多い。situationには状況とか事態の他、勤め口という意味もある。自分で予定できるsituationなど、たかが知れている。「思いよらぬ道」はいわば神に導かれた道、運命的な出会いかも知れないと思うと、予測しない事態も希望に変えることができる・・。
11月4日(土) 毎日のスケッチの中にときどき近所の景色も加えている。これまで教会などを「今日の作品」に掲載したが、今日は「夜のブテイック」を入れた。毎日通る犬の散歩コースにあるのだが、早朝はほとんど目に付かない。先日たまたま夜の8時頃に前を通ると華々しい明かりがみえて絵の対象となった。KATHARINE HAMNETTというこの店は「代官山ショウウィンドウ」のページでも紹介しているが今年4月7日にオープンした。ところが犬を連れて前を通るだけで、これまで一度も中に入ったことはなかった。今日の日曜日快晴につられて妻とこの店にもいってみた。ロンドンブランドのこのブテイックには絵の中にも描いているのだが(掲載したサイズでは見えないが)大きな赤い文字で「NO WAR」のテーマがある。NO WARと胸にプリントしたTシャツなども売っている。私どもの手が出ない高価な商品が並ぶ中で、NO WARのテーマでよく商売ができるものと妙に感動してしまう。美しいこの店がいつまで続いていくか野次馬根性で見守っている。
11月5日(月) 今日は我が家の母親コーギー、アンの10歳の誕生日。アンが我が家のメンバーとなったのは生後6ヶ月だったが、当時は「コーギー」という名前すら知らなかった。胴長、短足の犬をいただく話があり、ダックスフントとコリーのアイノコのような犬と聞いた覚えがある。利口で敏捷なこの犬はすぐに我が家の中心となった。その数年後、internetが普及し始めた頃、親戚の家で初めてinternet検索(yahoo)をやったのが「コーギー」だった。「コーギー」をいれたか、「corgi」としたか・・。日本では奈良の「さくらさん」が検索された。コーギーのホームページを見たのはこれが初めてだったのではっきりと記憶に残っている。今日、すっかり日常化したインターネットで犬の年齢を調べると(google)、犬の10歳は人間の56歳とでた。なんだ・・アンはまだまだ若い。散歩に行くのを嫌がるなどとんでもない。今日はアンとアールには特別に美味しいごちそうにして、その後また散歩に行こう・・。
11月6日(火) 来年の資料にしようと旧石器時代の「馬」の壁画を模写(鮮明な写真から)していると、何とも云えない感動をおぼえた。100年前の本を読んで人は変わらないなと思うことはよくある。また、700年前の徒然草を読んでも共感をもつことができる。それが、3万年ー5万年前だ!!ラスコー洞窟の壁画は有名だが、南フランスには同じような旧石器時代の壁画が他にもたくさんあることを知った。その中の一つを詳細にスケッチしたのだが、線の構成、配列、写実性など現代の作家の絵とほとんど変わらない迫力がある。人類の始まりの頃と3万年後のいま、美的感覚を共有できるとは真に驚くべき事だ。洞窟暮らしの原人たちも我々と同じ視覚イメージで壁画を描いた。直ぐに結論はでないだろうが、人間の感覚の成り立ちや、見ること、描くことの意味を改めて考えてしまう。 <今日の作品>には「油絵の具」をいれた。
11月7日(水) 人はイメージを創造することができる。自分の知っている自然物(人間、動物、植物などすべて)をイメージするには完全な形状は必要としない。何でもない石に、人や動物の顔を見たり、壁のシミにでさえ意味のある姿を想像する。星座のパターンを見るだけで獅子や神話の物語を思う。「ロールシャッハ・テスト」は描かれた絵が何に見えるかで人の心理を測ろうとする。イメージの創造には心は反映するが正解はない。洞窟の中にできた自然の造形物をみて、ある人は今晩のおかずを想像し、またある人は、そこに神の姿をみて啓示を受けるかも知れない。絵画のイメージもこうして成り立つところが面白い。
11月8日(木) 「今日の作品」に「携帯絵の具」を入れた。このところの絵は練習用のスケッチであるが、消しゴムや修正ありにしているから、あえて余分な線は出していない。けれども、一方でデッサンの本質として多くの線の反復と選択、構築というプロセスをみせる絵にも非常に魅力を感じている。そこには感情や気分そして偶然性も含めた生の線がでるはずである。「携帯絵の具」のような絵は写実的になればなるほど写真に近くなるだけで、それでどうしたの・・となる。掲載した絵とは真反対の、原始的なイメージ、偶然の力を追求する遊びごとも面白いだろう。そんなことで、本日は絵画でない造形を試みたりした。また、その内に「今日の作品」に載せられるだろうか・・。
11月9日(金) 毎日の散歩の道はできるだけ別の道を選ぶ。気心の知れた人とだけ喋るのでなく、初めての人と話す機会をもつ。自分の馴染みでない店を開拓する。・・などなど、頭と身体を活性化するには決まり切った生活や固定した考え方を改める必要があるとはしばしば云われるところである。出来れば新たな刺激を与えてくれる人に出会えればそれは幸いであろう。けれども最も確率よく新鮮な啓示を受けるのはやはり書物が一番と思える。最近、全く偶然にであるが、「洞窟へ-心とイメージのアルケオロジー」(港千尋著)を読んだ。アルケオロジーとは考古学。私は考古学にはこれまで興味はなかったが、イメージの起源とか認識のステップを論じ、認知科学まで考古学が関連するものと知り、大いに興奮させられた。こんな醍醐味を読書から得られるのはやはり幸運というべきであろうか・・。
11月10日(土) 今日の土曜日は一日中雨。外出も出来ずに予定は全てキャンセルして、その代わりに考えてもいなかった仕事がはかどってしまった。他人様のホームページを久しぶりに作成させてもらったのだ。ホームページも絵を描くこともただ時間をかければいいものができる訳でもないが、今回は随分と最短で作り上げた。改めて思ったのは、自分のHPを含めて、HPというのもやり方一つでもっと独創的なページができるのに随分遠慮してしまうこと。絵画の世界で、ピカソやゴッホがインパクトを与えたように、HPでも衝撃的な構図とかもっと生々しい力のあるページができる可能性は十分にあるはずだ。何億とあるページの中には既にそういうものがあってもおかしくない。結局、いいものを見つける術(すべ)を知らないということだろう・・。
11月11日(日) 今日はとても考えたコラムなど書く気が起こらない。自分の肉体の不調のせいではなく、我が家のコーギー犬の病気。アンは、この11月に10歳になったが、日に日に身体が衰弱し、今日は食べることも歩くこともできない。苦しそうな息を続けたかと思うと、次には口を堅く閉じたまま目だけ大きく開けて、ただ横たわっている。獣医さんで血液検査をした結果、肝臓が相当に悪くなっていることは分かった。即入院のところを、我が家は獣医さんから徒歩1分の距離なので自宅療養となり、いつも私の側にいる。苦しそうでも何もしてやれないのが悔しい。 せめてHPを明るく、「今日の作品」に猫ちゃんの「釣り」を入れた。

11月12日(月) アン(コーギー犬、母)の症状は悪化の一途をたどる。昨夜から数度の引きつけを起こすまでになった。獣医さんによれば肝臓機能は「体内で発生する有害物質を分解したり、体内の老廃物を処理したりする」 この機能がなくなると有害物質が脳にまわり、引きつけを起こすこともあるという。急転直下の症状の変化だけれど医者は異常の兆候がもっと前に分かったとしても、肝臓については手当のしようがないといわれる。ただ延命の点滴をするばかり・・。いま(月曜日夜)は少し小康を保っている。静かに横たわっているが、カット目を見開いて何を見ているのだろう・・。

上記コラム投入直後、pm8:45 アンは急遽心臓停止、永眠いたしました
しばらくコラムはお休みします


11月17日(土) アールを散歩に連れてでるときに、いつものアンが続いてこないのでアールはしばらくはアンを待っていた。今はアールも様子が変わったことは感じているようだが元気よく散歩にもいく。
元気よく再出発するためには、今回のアンの急逝の際にこのコラムを中止したのは失敗だった。普段は風邪一つ引かないと自認している私が、すっかり風邪で体調をくずしてしまったのも、やるべきことを止めてしまったことと関連しているようにも思える。今日はようやく復調したが、要は、アンもなし、コラムもなし、絵もなし・・の気の弛みだろう。これまでアンからもらっていた元気を維持するには 、とにかく何か身体と頭を動かすこと。これを今回ほど痛感したことはない。「何もしないというマイナスが、やることのマイナスよりはるかに多い」。アンのためにも、前向きに、何でも行動することで再スタートしたい・・。

11月18日(日) 今日、日曜日の午後、アンの子供が全員、我が家に集合してくれた。アールを含めて4頭が 一堂に会したのは、5年前にそれぞれの飼い主へ分かれて以来はじめてである。雄1頭、雌3頭の元気な5歳のコーギー犬が集まるだけで相当なにぎやかさになる。一緒に生まれた兄妹・姉妹ながらそれぞれに個性があり、どの子の顔にも、またそれぞれの幸せな生活を送っている様がにじみでている。アンもいい子供たちに恵まれ、そして子供たちは申し分ないご主人様方に恵まれたとあらためて感激した。犬を通しての人間の付き合いも気持ちがいい。新たな勇気とか活力が湧き出てくるような一日となった。アンは最後まで飼い主孝行だ・・。
11月19日(月) 日本人は愛犬が亡くなると「今は天国で安らかにしているだろう・・」などと勘違いすることがある。犬は天国には入れない。先日、アンが亡くなった時、「虹の橋」という死亡したペットに捧げる詩(原作は米国人?、作者不詳)を紹介して下さった方があった(お礼申し上げます)。そこでも「天国の少し手前(入口)の虹の橋」にいったペットのことが詠ってあり「手前(入口)」が目立っていた。砂漠の宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)では人間と動物には厳然たる区別がある。また、信じる者と信じない者も大違いなのは云うまでもない。狭き門を通って天国に行くことができるのは、信じる者だけであり、一方「滅びに至る門は大きくその道は広い」。仏教思想では人間も動物も一緒に極楽浄土で相まみえる。人間も動物も同じ輪廻の生まれ変わりだ。自分にとっては、仏教の「悪人なおもて往生す・・」の考えの方がホッとするが、こうした死生観一つとっても、世界の価値観の多様さを思い知らされる。何となく、現在のアフガン情勢も思い起こし溜息がでてしまう。
11月20日(火) 秋の爽やかな季節が続くと思っていたら師走がそこまで迫ってきている。あわてて10月に旅行に行った時に描いた「ススキ」を「今日の作品」に入れた。この時は、はじめに箱根・仙石原の「ススキが原」に行ったが、まさに全山見事なススキの大波、小波であった。けれども、ススキに挟まれハイキングをしたものの、とても絵を描く余裕はなかった。「今日の作品」に入れたススキは、その後、伊豆高原に廻ったところでのささやかな花穂。携帯用の絵の具で色を付けていたら、雨がぱらぱら降ってきたので引き上げたことを思い出す。旅行中に絵を描くのはいくつもの条件が満たされないと不可能だ。私の好きな安野光雅(画家・絵本も描く)が、北イタリアの田舎でどっしり腰を下ろして、風景をスケッチしているTV映像などをみると、これは最高の贅沢の一つでないかと憧れてしまう・・。
11月21日(水) 「観る」ということは奥が深い。目を開けていても観ていない場合があるし、目をつぶっていても多くのものを観る。開いた目をつぶった直後や瞼を指で軽く押さえたときに瞼の裏に現れる模様を研究した学者がいる。瞼の裏に観るパターンは、面白いことに様々な幾何学模様であり、この模様は時代や文化の影響を受けない生理的な現象だという。いまは人為的な幻覚をみる薬があるが、幻覚映像(こちらの体験はないが)もまた幾何学模様だろうか。3万年前の人類が壁画とならべて描いた不思議な幾何学模様が知られている。この模様が「瞼の裏に観る」映像と関連しているという説をみた。自分が独創したつもりの抽象形体が、実は何万年も前の人類が瞼にイメージして描いた”幾何学模様”と同じであったというのは正に衝撃的だ。
11月22日(木) TVで「筋力年齢」を測る方法を教えていた。30秒間に椅子から立ち上がり、また座る繰り返しを何回出来るかを数える。やってみると、30回できた。これは筋力年齢27歳だと・・? 以前、歩く速度(時間)と、前屈寸法、屈伸の回数などから、体力年齢を算出する行事があったが、50代半ばで「あなたの体力年齢は30歳です。昨年は25歳でしたから体力低下に気を付けましょう」と注意されて苦笑したことがある。別に、自慢しているのでない。こういうものを真に受けるのは調子者だ。私の母には3人の弟がいたが、この叔父様がたはそろって今の私の年齢前後で亡くなっている。むしろ、こちらの方が自分の体質かも知れない。意地悪な奴から「それより精神年齢は20歳ね・・」などと言われたら、12歳と言われなかったことを光栄に思おう。人間にとって20歳の精神はほぼ完璧。精神は歳と共に必ずしも向上はしないようだ。
<「今日の作品」に、20日に続いて、旅行のときのスケッチ「伊豆高原にて」を 入れた>

11月23日(金) 今日は休日。朝の8時頃、妻とアール(コーギー犬)と一緒に散歩にでかけた。いつも通る道路際に見かけないものがある。「あなたの服と同じ色の板を入れてください」というガイダンスと合わせて、縦横が10cmほどの色板が何種類も、かつ何枚も取り出せる箱。色板を差し込む装置は縦1m、横10mほどか。一枚しか色板が入っていないので、面白がって2枚色を選んで差し込んだところ、側に寄ってきた若者が「ありがとうございます。差込方が分かるかどうかと思って・・・」。これは、今日から始まる「代官山インスタレーション」(internetリンク参照)という催しものの一つだった。若者はこのインスタレーションの入選作の作者で、初日の朝8時から様子を見にきていたのだ。「都市とアートの新しい関係の構築と共存の可能性を探る」のサブタイトルがついた「インスタレーション」の案内を若者からもらい、この後は他の展示品巡りの楽しい散歩となった。
11月24日(土) 「一つの対象とかテーマで、10枚の絵を描いてみなさい。そして、その中で自分が一番好きなものを選ぶことが描く上で勉強になる。」・・という話を聞いたことがある。勉強になるかも知れないが、私はどうもこのやり方は好きでない。どんな作品であれ、一期一会でないが、世の中にこれしかないという出会いのようなものを感じて、捨てられない。専門の画家は売れ筋のスタイルができると、同じようなパターンの作品ばかり描くのをよく見かける。ご自身は本当にやりたいことをやっているのだろうかと他人ごとながら心配することもある。売れるものを優先するのはどの業界でも同じかも知れない。自分のスタイルを造り上げるのは容易ではないが、これを打ち破り新たなスタイルに変えるのは更にエネルギーを要する。どんな業種にしても、変革のエネルギーの見えるものが私のモデルとなる。
11月25日(日) 毎日描くと云うことは題材が必要だ。原則としては短時間のトレーニングのつもりで、なにも考えずに目に付くものをスケッチすることにしている。「今日の作品」に入れた「香辛料」は台所で見つけたもの。この絵と同じ瓶が合計12個並んでいたので、その内5個を持ち出して描いた。掲載した絵では読めないが、右から以下の文字がある。PEPPER(胡椒),MUSKAAT(ナツメグ/ニクグスを粉末にした香辛料),PAPRIKA(パプリカ/甘とうがらしの香辛料),ROZEMARIJN(ローズマリー ),DILLE(デイル/ イノンドの葉、ピクルスなどの香辛料)。ペパーだけが中身がなく空になっているのが象徴的。こんなに香辛料があるのに、私は料理での違いが全く分かっていない。奥様、申し訳ありません・・。
11月26日(月) 義母が亡くなってしばらくそのままになっていた部屋を片づけたとき、義母が晩年に描いたスケッチブックがでてきた。何となく私が引き取ることになって今はわたしの手元にある。義母は92歳で大往生したが、主には70代で描いていて私は義母が絵を描いていることさえ知らなかった。形見といってもいつまでも大切に保存するようなものではないので、思いついて義母と私の絵のコラボレーション(共同製作)をすることにした。まず、スキャナで原画はそのまま保存したあと、鉛筆で描かれたスケッチに、私が好きに彩色するという訳だ。時代を超えたコラボレーション(collaboration)はやってみると思ったより面白い。義母が自分の作品を冒涜されたと思わぬように、こちらも気を入れて色を付ける。12月の義母の三回忌に親戚に披露するのが楽しみだ。
11月27日(火) 「ほととぎす」を今日の作品にいれた。ホトトギス(杜鵑草)の名前の由来は、花全体にある白地に紫色の斑点模様が、ホトトギス鳥の胸にある模様と似ていることというが、肝心のホトトギス(鳥)の方をじっくり見たことがないのが残念だ。紫の色は華やかではないが人をハッとさせるものがある。桔梗、紫式部、そしてホトトギス(杜鵑草)それぞれ紫の草花には高貴な雰囲気さえただよう。ホトトギスは日照時間が無くても日陰で育つ植物らしい。2−3週間前に、我が家の小さな庭の隅っこに咲いていたものを取ってきて写生したが、今はもう寒さで花も終わってしまった。花言葉は「永遠にあなたのもの」。
11月28日(水) 人間は環境の子供だ。特に幼児期の環境が重要といわれる。例えば幼児の頃に、絶対音感を身につけた子供はなんの苦労もなく音を聴くと周波数としての音符(440HZがラの音)と結びつく。絶対音感が身に付かずに、大人になってから努力しても相対的な音の判別しかできない。同じように、幼児から子供の頃の成長期の環境(自然環境、家庭環境、友人環境、教育環境など全て)がその人の人格と能力に大きく影響することは確かであろう。・・だがしかし、最近は、大人自身の環境作りことこそ重要ではないかと思い始めた。私たちは、幼児期なんて食べることだけで精一杯だった。多分、音痴の子守歌で育ったので、すっかり音痴になった。けれども、自分の幼児や子供の頃の環境を、大人になって嘆いてみても何の意味もない。むしろ、恵まれなければハングリー精神が育つと云うもの。成長期(これに、学生時代を入れてもいい)より、はるかに長い大人としての時間をどういう環境に身をさらすかは自己責任だ。大人自身が自分がどういう環境に接したいか、作りたいかという意志を持つこと、これが出来れば、幼児、子供など自然と親を見て育つだろう。
11月29日(木) 昨日のコラムで大人にとっても環境が重要だといった。新しい環境作りには、旅行するとか、今まで知らなかった世界に接して刺激を受けることがあるが、家の中で新世界に触れるには、読書がある。(今は、家庭でインターネットにより新世界と接する方法もあるが・・)最近読んだ本の中に、印象強い言葉があったので記しておこう。孫引きなので原作の真偽は分からぬが、ある歴史学者が云ったという言葉:「人間の価値は60歳から90歳までに何をしたかで決まる」。人間が他の動物と大きく異なることの一つは、子孫を残す役割が終わっても、その後長期間生き続けることにある。つまり、60歳までは、ほかの動物と同じく、子孫繁殖のための行動であり、60歳からが本当の人間になる期間だという訳だ。弱肉強食の生存競争は、全ての動物がやっている。60歳を過ぎて動物とは違う人間として意味ある行動ができなければ、人間を経験せずに終わってしまう。・・これから先の自分がどうなるかは何とも分からない。けれども、ようやく人間としての生活が始まったとは嬉しいことだ!
11月30日(金) 昨日に続いて年齢のことを書こう。年齢といっても、平均寿命の話。いつも本などでみる数値を紹介する場合、どれだけ信頼できるか自分でも疑問に思うことがあるので、それを断りたくなる。以下の数値もあくまで参考までだ。ネアンデルタールとか石器時代人は、平均死亡年齢は20-25歳と推測される。(骨資料からの算定であり子供の骨の回収率が悪いので、一般に年齢は多目となる)もう少し身近なデータをみると、江戸時代の日本人の平均寿命は36.7歳。(随分と細かい!)大正時代の日本人の平均寿命は、42歳。江戸時代でも、近世でも70-80歳の長老のことはよく聞くのに「本当か?」という感もするが、幼児期の死亡率が高いとか平均を下げる要素が色々あるのだろう。今の時代に問題は多いかも知れない。けれども、一昔まえの平均的な寿命の6割ー7割増しを我々は生かされていることになる。「人生は余りに短い・・」と多くの先人たちが嘆きながら世を去ったのと比べて、現代人はそれだけやりたいテーマをもっているだろうか。 <今日の作品に「カラー」を入れた>

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