これまでの「今日のコラム」(2001年 12月分)

12月1日(土) 師走の声を聞くと時間の流れを思い知らされる。昨夜の冷たい風のせいか、神宮外苑の銀杏並木の銀杏の葉はほとんど散ってしまっている。その代わり、路上は銀杏の葉の絨毯だ。2−3週間で、緑の葉が紅葉し、そして落ちていく様は変化するものの美しさを教えてくれる。11月10日、17日、そして今日12月1日の写真を下に入れた。午後3時には皇太子妃、雅子様に女の子お生まれの報。これも新しい若葉の誕生。時は流れていく。

11月24日
銀杏の色づきが最高の時
デジカメは故障・修理中で
写真は残せなかった

12月2日(日) 自分の子供にプレゼントなどされるといささか複雑な気持ちになるが、昨夜は娘にもらった切符を素直に頂戴して、妻と「Mr.マリックの超魔術LIVE」をみてきた。自分ではまずチケットを買うことはないが親の興味ある催しを子供はよく知っている。超魔術と名前が付いても所詮「手品」じゃないかと必死に”種”を考えた。けれどもさすがにマリックさん、あざやかな手並みで種も仕掛けも分からない。具体的な収穫が一つあった。全員に配られたスプーンを云われるままに曲がれとやると私のスプーンも曲がったのだ。今日になって別のスプーンを「柔らかい、柔らかい、曲がりましょう、ハイ・・」とやるとまたまた曲がってしまう。私のハンドパワーも捨てたものではない、といいたいところだが、そこは元エンジニア。これは細長い柱に圧縮荷重をかけたときに、バックリングという横に潰れる現象があるが、これを上手く使っているように思える。横方向に曲げようとするのでなく、長手方向に瞬間的に力をかけるのがコツだ。私のハンドパワーのおかげで、我が家のスプーンは何本も使えなくなってしまった。

12月3日(月) 今日の作品に「」を入れたが、こうした生ものを描くのはそれなりに工夫がいる。まず、始めたら一気に終わりまで描ききらなければならない。時間が経つと蕾の花は咲き始め、咲き誇った花は萎れてくる。今日は実際には、紅葉したモミジとか葉っぱを取ってきて、外出する前の1時間ほどかけて大急ぎで描いた。(これはまた後日掲載予定)美しい葉っぱも、部屋にもってくると見る間に水分が乾燥して、葉っぱが丸まってしまう。水を浸したテイッシュペーパーの上に葉っぱを置き、水分を補給しながら描く。何日かすると生きていた植物は形がなくなり、ただ描かれた絵だけが残る。それが分かっているので、出来る限り植物のいいところを残そうと待ったなしの時間と格闘するのが楽しいところだ。
12月4日(火) テープで自分の声を聞くとギョッとすることがある。兄弟とそっくりなこんな声・・! テニスやゴルフのフォームをビデオで撮ってみると自分の不様な姿に愕然とする。他人のプレーに文句をいっても、大抵は自分も同じ事をやっている。自分自身のことは左様に分かりにくい。自分でも他人でも、また絵などの作品にしても、ある種の「フレーム」をはめてみると、いいこと悪いこと含めて第三者的な見方ができる。フレームとは枠、そのものだけを際だたせて詳細を観察する場を作る。「今日の作品」に「山茶花(サザンカ)」を入れた。こうした作品も、やはり「フレーム」が付いたとたんに、自分のものではない別物となる。世の中にはフレームをつけて、集中して見ると意外な側面を発見できて面白いものがいくらもあるようだ。
12月5日(水) 贋作というのは犯罪になるが贋作者の心理はどうも測りがたい。20世紀最大の贋作事件は二次大戦終了時にフェルメールのサインの入ったオランダ・国宝級の絵画をヒットラーのドイツに売り渡したとして逮捕された画家の自供にはじまった。このメーヘレンという贋作者は売ったのは自分が描いた偽物だ、そして他のフェルメールの名作とされている絵画も自分が描いた言いだした。だれもがこれを信用しない。ついにはメーヘレンは法廷で実際に絵筆をとってそれを証明したという。5年前にハーグで開かれたフェルメール展を見た時に、直ぐ側でメーヘレンの贋作展が開催されていたのを思い出す。本物と同じように描くことができる実力のある人間がどうして自分のサインを入れた独自の作品を描かないのか。偽物作りの方が手っ取り早くお金になるということもあるだろうが多分に性格の問題であろうか。絵の練習として私も模写をしたことがある。手本をそのまま写し取ると、見るだけでは分からなかった原作者の意図が非常にはっきりとつかみ取れる。ただ模写の過程で自分ならこうしたいと個性を主張したくなるのが普通だ。ゴッホが浮世絵やミレーの模写をしたものをみると、どうみてもゴッホでしかない。独創の天才は贋作の名人にはなれないのだろう。
12月6日(木) 呼吸法の極意がまず肺の中にある空気を出来る限り残らず吐き出すことにあるのと同じように、頭に中を空っぽにすることが新しい閃きを得るには一番の早道のように思える。雑念を取り去り、リフレッシュすると自ずから次の考えが湧いてくる。頭の中をクリアにするには、きっちりと座禅を組み瞑想するのが本道かも知れないが、「歩くこと」もまた有効な方法だ。自分の生活の中では、早朝と夜に習慣として続けている犬と一緒の散歩がリフレッシュタイムとなる。目的も義務も無く歩く。時には都会のビルの間に顔を覗かせた満月にしばし見とれたり、決まって小さな神社にお参りをする。何をお願いする訳ではなく頭が無になればよい。ボーとして歩いている時に新たなアイデイアが浮かんだり、エネルギーをもらったように感じたりする。以前は散歩など無駄と思っていたこともあったが、今はこれほど貴重な時間はないと思うようになった。
12月7日(金)「今日の作品」に「ベニスの思い出」を入れた。これは、水彩であるが、先ずはじめに下地として別の色を厚塗りしている。水を一切使わずに絵の具のチューブからそのまま画用紙に塗りつけて指で広げた。右上は緑、右下は白、左上は黒、左下は赤が地の色だ。その絵の具が乾いた後、表の色を同じくチューブから出して素早く指で広げて塗る。それから先の尖ったキリで細い線を描き模様をいれた。線の色は実際には下地の色となっている。このような絵は幅が300pixelでは何も見えなくなることが今回分かった。何かをありのままにスケッチするのは無心で描く楽しさはあるが、一方、こうした試みは別の面白味がある。けれどもこうした一見好き勝手にやっているように見える絵の方が時間が掛かるし苦労も多い。少し苦労をアピールして、緑色の線が少し見えるようにクローズアップした部分を掲載しよう:

12月8日(土) 朝、8時前に自転車でテニス場につき予約取りをした後、そのまま30分ほど散策をした。こんな目的のないサイクリングはめずらしいが、神宮外苑から青山通り(国道246)を 赤坂、豊川稲荷の側までいった。自転車が通る4-5m幅ほどの歩道は、この時間ほとんど人がいない。塀越にみえる緑地帯の美しく紅葉した木々を眺めながらしばしサイクリングを楽しんだ。帰りは権田原方面に廻り、また神宮外苑に戻った。それにしてもこの辺りは木々が豊かだ。運動を終えて、12時過ぎに家に戻りテレビをみると、皇太子妃雅子さまご退院の生中継をやっている。皇太子ご一家が東宮御所へお入りになる映像をみてはじめて、この日の朝みた元赤坂の紅葉や木々が愛子さまのお庭だと気がついた。これだけのことで、何か東宮御所が非常に近しいものに思えるから不思議だ。
12月9日(日) 旧石器時代の洞窟壁画と合わせて数多くのネガテイプハンドというものが発見されている。手を壁に押しつけて廻りに色を付けて手の部分をブランクにして浮き上がらせたものだ。不思議なことに指が5本揃っていないものが多くあり、型をとった目的も明確ではない。反対に手のひらに塗料を塗って型を取るポジテイブハンドは、相撲取りの手形などでお馴染みだが、旧石器時代にはネガテイブハンドばかり発見されるらしい。「今日の作品」には「ポジテイブフィンガー」を入れた。はじめに自分のネガテイブハンドを制作したが(後日掲載したい)、単純に指のポジテイブの型をベースにして模様を作った。こういうものは、理屈をいうとおかしいので沈黙しよう。
12月10日(月) グローバル化と民族意識の兼ね合いがこれからの地球社会で大きなテーマとなることはしばしば指摘される。民族意識というと大きく聞こえるが、人間が社会を構成する一つの単位としての意識と考えると、自分たちの集団を最優先させる意識はどこも同じだ。他のグループから受ける不利益を集団として如何に防衛するか、また仲間としての既得権をどう維持するかで結束を固める。生活に密着した実感としても、郷土愛、同窓会の愛校心、愛社精神、小さなグループ活動に至るまで民族意識と同根のものは多い。極端に排他的で無ければ悪いとはいいきれないが、一昔前に、薩摩が・・、長州が・・、と大喧嘩したことと同じように、アフガンの中でも民族間で争う。世界中の民族と称する集団が対立し始めると収拾がつかないだろう。民族(仲間)の意識は集団本能を刺激する教育により高揚される。逆に、和合への道は、民族教育に代わる世界教育でないかと思われる。次世代に向けて広い世界をみせる教育をする。それと情報化(手段としてのインターネットなど)。この辺りがキーワードでないだろうか。
12月11日(火) 最近の物価は価格破壊なのか、バブルの継続か訳が分からぬことが多い。たまたま他より安いというスーパーの価格を見た。ざくろ・大玉500円(1個だ!)、オーストラリア産マンゴ780円(1個)、ぶどう一房1000円など、何が他より安いのだというものばかり目に付く。一方では、先日、渋谷の布専門店で思わず目的もなく買ってしまった布生地がある。幅が1200mmの上品な模様のついた生地が1M当たり、何と5円!! 10mも買って50円だった。いくら目玉商品とはいえ布生地を作った人たちが可愛そうにさえなる。ざくろ1個の値段で、生地が100m買うことができるなど、どこか狂っている。スーパーの食料品は全般に高すぎる。そういうと、妻にはそんなことを云うと何も食べることが出来ないわよと軽くいなされてしまった。
12月12日(水) 「今日の作品」に「ネガテイブハンド1」を入れた。ネガテイブハンドは12月9日のコラムでも書いたように、手を壁に押しつけた状態で描かれた外形塗りの手型をいう。ヨーロッパの・旧石器時代の洞窟に多く発見されている「ネガテイブハンド」にヒントを得て、現代の私と孫のネガテイブハンドを描いたものが「今日の作品」だ。自分はともかく、1歳になったばかりの孫の手形を取るのは意外に難しい。手に絵の具を塗りつけて型をとる「ポジテイブ」な型ならば判を押すように一瞬で終わるが、手の外側に沿って型を取るのは簡単ではない。ようやく出来たのがこの作品。成長過程の1歳児の手形は二度と同じものはできない。21世紀のネガテイブハンドの意味は何か など考えないことにした。いつの日か、数秒間の間手を押さえられていた本人一名が少なくとも作品を楽しんでくれればうれしい・・。
12月13日(木) 親や教師が子供の適性を見抜き、進むべき道をアドバイスするのは非常に難しい。自分は進路を相談されるという機会はもうなくなったが、親を含めて他人の忠告は所詮その場の適当な思いつき、要は本人が全て責任をもって決めると割り切った方がよい。図書館でこれまでの私に最も縁が遠かった分野ということで、植物生理学の本を借りて読んでいるが、これがなかなか面白い。自分の専門の選択方法は周囲がみなエンジニアだったところで、当時一番難しかった機械工学を専攻しただけのように思える。勿論、自分でメカは好きであったし、初期の電子計算機もよく使ったが、植物学とか遺伝子学、更には、法学、文学、芸術とくると可能性すら考えなかった。誰でもたまたまの成長期の環境や教師との出会いなどで自分の適性をとらえるが、”可能性”となると若者には無限の分野がある。云えることは、その時点の花形で人気がある分野は先に行くといずれ花は散ってしまうことだろうか・・。
12月14日(金)「秋の終わり」を今日の作品に入れた。今年の紅葉も そろそろ終わりに近づいている(東京にて)。紅葉が日照時間(短日条件)や気温(低温条件)により促進される「植物の老化」のメカニズムであることはよく知られているし、黄色や赤に染める物質の化学成分まではっきりと解明されている。植物にとっては、紅葉から落葉にいたる器官や細胞の老化の過程は植物の種という個体の生活上必要不可欠な現象であるという。葉の老化にはタンパク質と、核酸の分解が伴い、これらの分解で生じた化合物(N化合物、P化合物)が老化しつつある葉から若い葉(または残存する器官)へと運ばれる、つまり、老化の意義は 、死を迎える器官からN,Pの回収がなされていることと本で読んだことがある。黄色や赤色の見事な紅葉は自然がプログラムした葉っぱ最後の華やかな舞台なのだ・・。
12月15日(土) 昨日の紅葉にからんで、色が”何故”黄色や赤色に変わるのかはよく分からない。「何故、赤でなければならないか」は物理や化学の領域を越えていく。虹の7色、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫は光の波長の長い順に並んだ可視光線のスペクトラムであり、人間にとって可視光線の外側にある赤外線、紫外線、それに電波、電磁波はみることはできない。他の動物や植物が人間の可視の範囲でないセンサーをもっていても不思議ではないと思われるが、人間以外の生物もまだまだ未知の分野は多いのだろう。植物にモーツアルトの音楽を聴かせると元気になるという研究を以前きいたことがあったが、楓は青が好きとか、欅(けやき)の好みはピンクなどがあると面白い。ところで我が家の犬は、私の強烈な色の絵を見せても全く関心がない・・。
12月16(日) 「西吹けば 東にたまる 落ち葉かな」(蕪村) 歳末の慌ただしい行事の合間に、落ち葉を掃きながら、古びた木の株を動かしたところ、小さな蛙がひそんでいた。冬眠を邪魔しないでくれというように、のそのそと動いたので、あわてて落ち葉を山ほどかぶせておいた。こんなところに蛙が生き延びているとは感激である。近頃は我が物顔のカラスが他の生き物をみんな食ってしまったのでないかと思うほど、小動物を見なくなった。冬でなくても、でんでん虫や、芋虫や、ヤモリはみかけない。蛙だけでも来春に卵を産んでたくさんオタマジャクシとなって欲しい。落ち葉ならいくらでもかけられるから・・。
12月17(月) 今日はこれまで何度手を洗ったか・・。10回はくだらないだろう。「手を汚す」仕事をやると、お茶を飲むにも軽石でごしごし手をこすって洗わなければ汚れが取れない。今日の汚れは、主にはアルミ材料のペーパー研磨と油を使ったドリル仕事だ。それに、気分転換で絵の具をいじる場合も、筆を使わず、手で直接描いたりした。パソコンの方は、汚れ仕事ではない。キーボードを叩き文章を書く、NETで情報を得る・・これもまた日常の作業であるが、手を汚さないで済む。自分自身としては「手を汚す」仕事の方が圧倒的に達成感があるのが面白い。命令されてやるのでなく、自分の思う存分にやりながら手を汚す。どうもそれは子どもが泥遊びをしているような感覚だ。コンピュータによるスマートできれいな仕事ばかり増えているが、泥遊びをする楽しさを失わないようにしたい。
12月18(火) 二週間ほど前にみたTVで、二十歳前から日記として毎日絵を描き続け、生涯で3万点近いスケッチを残した日本画家が紹介されていた。一年365日で70年間(!!)続けて、25550枚などと計算したものだ。この10月から毎日何でもいいから1点以上絵を描いて作品を残すと云うことをやってみて、自分はとても冒頭の人の真似は出来ないと思い知った。また自分自身、 そうしたいとも思わない所がある。例えば、今日の作品に「テイーセット」を入れたが、これは難産だった。その日のスケッチをしたのだが、クロムメッキの金属光沢というのは質感が難しくかつ面白い。きっちり描いてみたいと、その日で完了とせずに持ち越しとした。その日に終わらせるルールはない。その後何日もこの絵に加筆できず、とにかくも、「今日の作品」に取り込んでしまったという次第。これは後日また加筆するかも知れない。毎日のノルマでなく気楽に作品ができればいい。
12月19(水) 歴史上に名を残している 思想家や後世に影響を及ぼしている人々は、大抵、弟子が尋常ではない。あるいは弟子でなくても強烈な心酔者が欠かせない。キリストがいかに救い主であったとしても、12使徒といわれる弟子たちがいなければローカルな教えで終わったかも知れない。はじめはイエスの敵であったパウロの回心後の働きなどがあったからこそローマにキリスト教が伝わった。お釈迦様が開いた仏教も弟子の阿弥陀様ばかり名前を念仏でとなえる。生前にはだれもその絵画を認めなかったゴッホは弟の奥さんが信念を持ってゴッホの絵を世に紹介して世界的な画家の仲間入りをした。金子みすずなども、本人は不幸に早世したが、ある人が発掘して知らしめてくれた。このような弟子や発掘者たちを私は尊敬する。ときどき、キリストや仏陀・・とまでいかなくても、ゴッホや金子みすずが自分のすぐ廻りにいるかも知れない・・と思うと、周囲を見る目が変わるものだ。
12月20(木) 街でクリスマスのデコレーションが華やかな時期になると感無量になることがある。それは、クリスマスツリーの電球や飾りの配色が上手になったこと。クリスマスの飾りもこの半世紀の変化は大きい。私たちが子どもの頃も、クリスマスは浮き浮きする行事だった。ツリーには、赤、緑、青、金、銀の丸い玉を吊し、点滅する電気はやはり5−6色のオンパレードだった。それはそれで懐かしく楽しい思い出ではある。それがある時期から、飾りには色を余り多く使わず、電気も小さな一色の豆電球をたくさん並べるなど、洗練されたデコレーションに入れ替わった。クリスマスの飾りも時代を反映する。今日は犬の散歩のついでに「代官山アドレス」の飾りを写真に撮った。ここは建物上部からスポットライトを当てて舞台を作っている:

12月21(金) 今日は金曜日であるが金(きん)にはとんと縁がない。それでも今の金価格を調べてみると、1200円/グラム前後であるようだ。金価格は安定しているという漠然とした意識があったが、30年ほど前は2200円/gr、20年前のソビエトのアフガン侵攻時、金の価格が5000円/gr以上に高騰したとのメモがある。メモは当時関係していた機械設備の重量単価と他の単価を比較するためのデータを作ったものだ。今話題の牛肉価格は下がったといっても、2.5-15円/gr程度。金は問題外としても、重量単価でみると素材や機械・電気製品がいかに安価であるかが分かる。鉄鋼素材などはトン当たりの重量で取引されるがグラム当たりにすれば、1円未満の27銭とか50銭、自動車は1-2円(最新データではもっと高いかも知れない)。これがハイテク製品ほど高くなり、ようやく牛肉を追い越す単価となる。自分の周りの全く異なる分野の重量単価を算出してみると、ものの価値を見直すことになり面白い。私の今使っているノートパソコンは牛肉の10倍程度はするが、デスクトップ型の方は神戸牛程度だ・・。
12月22(土) 最近のデータは知らないが、以前、心理学の授業で広い意味の「躁鬱病」というのは10人に1人はいるものだと聞いた覚えがある。何をやっても浮き浮きするような「躁」と、気分が沈んでしまう「鬱」の状態が交互に現れるというのをどの程度から病的なものと判定するのかはあるが、多くの人が躁と鬱の繰り返しを経験するようだ。躁鬱とは異なるが、自分のことを観察してみると、絵を描きたい時、物作りをしたい時、パソコンソフトを作りたい時などなど、その時々の「創造的にやりたいこと」が交互に入れ替わる。節操がないが一つの物だけを継続出来ないところがある。何の条件でこれが入れ替わりまた元に戻るかは明確でないが、色々な波をリズムととらえればいいと割り切っている。・・このところしばらく絵のペースが落ちていたので、そろそろ描きたくなってきた・・。
12月23(日) 久しぶりに「今日の作品」にhandicraft関連の「風力計」を入れた。故あって風力計と風力計を製作し実際に屋外で使用することになったが、これはその第一回試作品。昨日、東京地方には突風が吹き荒れたので外でテストした。下部の羽はラジコンヘリコプター用の部品で、普段は垂直に垂れているが、回転が上がるに従い水平に近くなる予定であったが、突風の中で軸は回転するが羽は風の方向にあおられてしまうことが判明した。こういうものは改めて仕組みを考えて作り直すところが楽しい。もう少し完成させて、風向計と合わせて"handicraft"のページに掲載したいと思っている。ただ、クリスマスというのに「今日の作品」には色気が足りないなあ・・。
12月24(月) 「 一人の嬰児、われらのために生まれたり。われらは 一人の子を与えられたり。 まつりごとはその肩にあ り・・」(預言者イザヤ)予言とともに生まれたイエスがクリスマスの商業的意義をどう思っているかはともかくとして、イブのこの日の夕方、犬の散歩で街を歩くといつになくカップルの若者で賑わっていた。信者でもなく最近は聖書に目を通すこともほとんどないが、一時期、娘の学校の父親クラスという集まりで聖書の講義を受けたことを思い出す。神父様が「神の存在証明」などを話すとき理論的にどう証明するかを必死で聞き取ろうとしたがついには理解できなかった。また、仏教とキリスト教の考え方の違いについて父親同士議論したりしたのも今は楽しい思い出だ。こんな経験があるので現代の神父様も立派な人格者が多いと比較的肯定的になった。今、教会では静かにミサが行われていることだろう。
12月25(火) 今日の作品に「デイソナーレ」を入れた。disonareとは「不協和に響くこと」。実は名前はどうでもよい。10月から毎日主に身の回りのものをスケッチして「今日の作品」に入れてきたが、何かスケッチとは別のものを作りたくて、試みてみたものの一向にうまくいかない。何かやりたい、けれども方向が定まらない。そのときは、後で方向転換しても、また無駄になってもいいからまずやってみることにしている。この絵もそんな中から出来たものだ。水彩であるのに絵の具ばかり厚く塗り、それで何が云いたいのと問われそうだ。水彩の爽やかさを採らないのであれば、やはり油にするべきなのだろう。不協和ばかりで、響きが聞こえるのかどうか・・。
12月26(水) ボールベアリングという機械部品がある。ボール(鋼球)で回転体を支持する軸受けの総称で、handicraftコーナーの風車や風向計には軸径3mm用のミニチュアを使っているが、大型の回転機(軸径100mmなど)にも多く使われている。そのベアリングには許容荷重がありこれを越える荷重が付加されると当然寿命が短くなる。ところが、逆に余りに負荷が少ないと直ぐに軸受けが損傷してしまう現象がある。荷重が少なすぎると玉が正常に回転せずに浮いた状態で遊んでしまうため、滑りを起こして異常な摩耗を促進させてしまうのだ。この現象からいつも人間についても「楽過ぎるのは、きつ過ぎるより害がある」ということを想起する。苦しいといいながら人は大抵それを乗り越えるが、何も心配がなく遊んで生活できるようになると危険だ。自分で意識してでも適度の負荷をかけるのが「設定寿命」も全うする秘訣かも知れない。
12月27(木) 「ともかくも あなた任せの 年の暮れ」(一茶) 「あなた任せ」は阿弥陀仏にお任せするというのであって、私のように奥様、あなたに任せますというのは、俳句の意味ではないらしい。ともかくも、今年中にやるべき項目を書いたボードの文字を二重線で消す楽しみも残り後一つになった。残り仕事の項目にはないが、年末用・今日の作品に「windows」を入れた。これも前回の作品と同じく名前に意味はない。こうした色の組合せをパソコン画像で掲載すると、それぞれのパソコンの色調の調整具合でどんなに見えているか全く分からない。以前、外部で自分のHPを見て、エー、こんな色に見えるの・・とびっくりしたことがある。それでも考えてみると、見る人、見るパソコンで微妙に変わって見えるのもまた一興。あなた任せ・・ではなかった、パソコン任せの色具合もまたいいかも知れない・・。
12月28(金) 先日「徹子の部屋」というTV番組で、両手を失った障害者の女性歌手(スエーデン人)が紹介されていた。彼女は自動車の運転も日常のことも全て足の指と口を使ってできる。明るく爽やかな女の子だった。その前に、両足首を切断した男性(米国人)が義足を付けて、北米大陸最高峰マッキン レー山に登るという番組も見た。日本でも星野富弘さんは口に筆をくわえて、見事な花の絵を描く。迫力のある絵とそれに添えられた詩の文字だけを見ていると、手足が使えなくなった人が描いたものとは想像すらできない。そういえば「五体不満足」の乙武洋匡君も信じられないバイタリテイがある。こうしたハンデイーのある人々の努力や苦労を思うと、我々は余りに楽をし過ぎている。特に若者は、ある時期、障害者と一緒に生活するのもいいのでないかとも思う。甘ったれた不平不満など一変するに違いない。
12月29(土) 「絵というのは不思議なものだ。以前よく見たはずなのが、まるで新しい絵を見るようだ。そういう経験をよくしていたが・・」と小林秀雄が書いている。16世紀、ベルギーの画家、ピーター・ブリューゲルの絵を集めた来年のカレンダーをいただいたので、部屋に掲げた。1月は「HUNTER IN THE SNOW=雪中の狩人」という絵。(この絵についてはNETで解説がみられる=リンクはここ)実のところはこれまでブリューゲルの本物の絵を何度か見たことはあるが、余り興味を持たなかった。ところがカレンダーの絵を改めてじっくり見ていると、これはなかなかよくできている。見せびらかすようなところが一つもなく、謙虚である。裸の自然は美しいという純粋な気持ちがそのまま伝わってくる。こんな絵をただ古くさいとして前には十分鑑賞しなかったとは自分の眼力も大したことはない。せめての慰めは小林秀雄の冒頭の言葉だ。絵には誰でもその時々の発見がある。
12月30(日) アンデイ・ウオーホルの「ぼくの哲学」を読んでいる。ウオーホルはキャンベルの缶スープをいくつも並べた絵やマリリンモンローの顔をこれもずらりと並べた絵が有名で、アメリカンポップアートの先駆者として知られる。こういう絵は後の人が同じ事をやるとウオーホルのコピーとされるので、初めてやることに価値がある。けれども誰もやったことがないものでも、誰も認めてくれなければゼロと同じだ。ウオーホルの哲学といっても、それは軽く、フラットで深刻ぶるところがない。芸術は職業の一つと割り切っているし、ポラロイド写真の素材を使い、ファクトリーで人に絵の製作をさせる。ウオーホルは死について以下のように云っている:「ぼくは死ぬと云うことを信じていない。起こった時にはいないから分からない・・」 58歳で亡くなったが今生きていれば72歳。60代でどんな絵を描いたか見てみたい気がする。
12月31(月) 早朝の犬の散歩は、猿楽神社から西郷山公園と定番コース。西郷山公園からは冬の富士山をくっきりと見ることができた。その後、張り切って動きすぎたのは確かだが、大晦日のこの期に及んですっかり体調を崩してしまった。働き過ぎでなく、気の弛みと不摂生に決まっている。そこで一句・・といって俳句をひねることができればいいが、この際一茶さんの句を借用しよう:「いざや寝ん 元日はまた 明日のこと」(一茶)

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