これまでの「今日のコラム」(2002年 4月分)

4月1日(月)  「菜の花や 月は東に 日は西に」教科書に出てくるこの有名な蕪村の俳句がなるほど名作だと思えるようになった。4月の始まり。菜の花の季節だが、4月は卯月と呼ばれる。卯の花(白い可憐な花、ウツギの別称)の咲き始める月で4月が卯月と云われるのか、卯月に咲くから花の名前が卯の花になったのか、どちらにしても旧暦の季節感なのだろう。(卯の花は俳句では夏の季語になる)Aprilも春らしい美しさを表すようだ。ギリシャ神話の美の女神、アフロデイーテはローマ神話ではヴィーナス(ラテン語でAprilis)で、これがAprilの語源と解説されていた。Aprilは美の女神に捧げられた月である訳だ。4月そして春という声をきくだけで何か浮き浮きするから不思議だ。さあ、4月のカレンダーに楽しい予定を書き込もう・・。

4月2日(火)  4月もまだ二日目というのに今日の東京は春を通り越して初夏を思わせる陽気だった。(ニュースでは気温26度の夏日となったとか)この陽気で頭がぼけたか、延べ1時間以上探しものをしてしまった。パソコンの移動やら部屋の模様替えという事情はあるが、少し前まで使っていたノートがどうしても見つからなくなってしまったのだ。仕事部屋以外に、居間とか寝室を含めて探したが見つからない。そんなはずはないと、もう一度散らかり放題の仕事部屋を掃除し片づけることから始めた。その内捜し物はどうでもよくなって整理を徹底的にやる。さすがに机の周囲は整頓されてきたので最後は机の上を片づけようと、ふと机の上を見ると探していたノートが置いてある!ノートははじめからあるべきところにあったのだ。幸福の青い鳥にしても真理にしても求めるものは最も身近なところに隠れている・・なんてもっともらしいことを以前このコラムで書いた覚えがあるが云った本人がこの始末。これは陽気のせいだけでもないかな・・?
4月3日(水) 「今日の作品」の「くちなし(山梔子)」は、四角シリーズの続きだが、真ん中に「くちなし」を描いてしまった。これはもう衝動的で、こういう絵には具象の形を入れたくはないものだが突然に白い花を描きたくなったのでしようがない。従って「くちなし」には特に思い入れはないけれども、描いた手前「くちなし」について調べてみた。くちなしは「山梔子」(サンシシは乾燥した果実の生薬の名前、果実は紅黄色で染料にも使われるという)と書く。難しい字だ。語源は果実が熟しても口が裂けないことからくる。花言葉は、沈黙、純潔、私は幸福。英名、Cape Jasmine。ジャスミン、そう、くちなしは何と云っても甘い花の香り。・・といって、絵についてこういう風に理屈っぽく、イメージを限定してはつまらない。ただ白い花で想像を広げることができればいい。
4月4日(木) プラド美術館展を見た。(東京・上野 国立西洋美術館にて6月16日まで開催中)「スペイン王室コレクションの美と栄光」(サブタイトル)というこの展覧会にはそれほど期待はしていなかった。王室コレクションの名画というのは、自分にとっては余りに世界が違いすぎて、ただ観賞するだけならいいが描き手として何もインスピレーションを得られないことが多いからだ。ところが、今回は思いの外楽しんだ。全部で77点の出品があったが、見ているだけで元気をもらったのは、エル・グレコとゴヤだった。グレコは400年も前に当時の名画の枠をはみ出した現代にも通用する自由さを見せているし、ゴヤは宮廷画家といいながら、こんな絵が許されたのかと思うような個性を出している。二人ともいわば宮仕えの身でありながらはっきり自分のやりたいことを主張しているところが今の時代の我々にも力を与えてくれるような気がする。多くの画家の中で歴史の評価を得たのはそれぞれの時代の常識を突き破った個性ある画家であるところが面白い。
4月5日(金) 法律とは恐ろしいものだと思うことがある。法律の名の下に何もしない小市民でも罪人になる事例は歴史を見れば枚挙にいとまがない。正確には「何もしない」のでなく罪を犯したことにされる。今でも裁判官や弁護士は自動車の免許を持っていても運転しない人が多いときく。交通違反で「前科者」にならないようにである。自動車を運転する人に、汝ら、交通違反を犯していないという者は前に出なさいと云われて、進み出られる人がいるのだろうか。法定速度40km/hのところを45km/hで走れば違反である。45km/hの違反者を取り締まるのに多くの労力を費やしているのに遇うと、もっと凶悪犯を逮捕するのが先なのにといいたくなる。最近の政治の駆け引きをみていて、こんな法律談義を思い起こしてしまった。巨悪の方は、密かに微笑んでいるかも知れない。
4月6日(土) 古いファイルを整理していたら「どんぐり」の絵がでてきた。裏に「1993年9月 久々に東京を直撃した台風の翌日、神宮の銀杏並木の下はギンナンの山、中にどんぐりの塊が落ちていた」とある。古いこの絵をあえて「今日の作品」欄に掲載したのは、丁度いま現在試みているような「この日の作品」であるからだ。何でもいいからその日に目に付いた身の回りのものを描いてみる・・こんなことを以前にもやったことを思い起こさせる。当時はhomepageに掲載するなど露ほども考えていない。見にくいが、右上と左下に水玉があるのが愛嬌。自分で云うのもなんだが、無心でどんぐりの姿を残そうとした痕跡が今でも面白いと思った。
4月7日(日) 初期トラブルがあったものの「みずほ銀行」が発足した。銀行の中身がどう変わるかはこれからのお楽しみ。構造改革、政治改革など改革ばやりだが、個人の場合、人間の性質とか人間性を「変える」ことができるだろうか。元来、持って生まれたDNAに基づく性質があるかも知れないが、何でその人の”人となり”と見なすかは定義が難しい。一念発起して私は変わりましたといっても外からみた変化がなければ何も変わっていないのと同じだ。心を入れ替えましたといっても誰も心を見ることができない。反対に、その人の行動、態度が変わればその人は変わったことになる。つまり人間が変わるのは容易である。外から見えるものが変わるようにすればいい。心の底は鬼だという人間がいたとして、死ぬまで他人のために善行を重ねたとすれば、それは既に鬼ではなく仏なのかも知れない。口先でなく見える行動をしなければならないと、時に自分にも言い聞かせている。
4月8日(月) 私はファーストフードが大好きだ。自分一人で外食する場合など進んでマクドナルドに入る。ある時ファーストフードは若者のもので自分たちは行かないというのが同年輩の大多数の意識だと知って逆に驚いたことがある。安くて美味いものを何で敬遠するかといいたいが、相手はいい歳をしてハンバーグを食う気が知れないという。ついでにイタリアンもフレンチも好きだが、やはり、ご飯でなくちゃあという同年輩組とは話が合わない。こちらは勿論ご飯も好き、要は美味しいものは何でもいい。自分が当たり前だと思っていることが実は少数派だと分かると寂しい、けれどもおいしいものは美味しい。
4月9日(火) 「今日の作品」に「じゃこと桜えび」を入れた。いずれも我が家のカルシュウム補充源で通常の絵のモデルさんでないが今回は特別にご登場願った。じゃこは漢字では雑魚。これでは”ざこ”で食べ物としての”じゃこ”と少しニュアンスが違うが、いずれにしても○○いわしなどと名前も付けられていない。その点桜えびはまだ名前があるだけいい。絵に描こうとよく観察すると、そこには干からびた死骸がいくつも並んでいる。一瞬描くことをためらったが、これも供養と思い直して描き進めた。絵を描き終えると全てのモデルさんは腹の中に収まった。そして合掌。
4月10日(水) 人間は耳で聞き目で見ることになっているが、どうも違うと思うことがある。声はあっても,また音はしても耳では聞こえていないこともあるし、目をあけていても見ていないことは多い。音の微妙なニュアンスを聞き分けるときには額(ひたい)で聴くように心がければよいという話があるが、詳細に対象物を見る場合も「額でみる」意識で見ると頭に入る。視覚、聴覚ともに脳でコントロールされるものであるから、結局脳に近い額に焦点を当てると脳が活動しやすいのだろうと合点している。また勝手な解釈かもしれないが、釈迦の眉間にある白毫(びゃくごう)といわれるものが丁度額で見たり聞いたりする機能をもっと明確に現しているのでないかと思っている。白毫は白い光を放つという毛で、仏像では珠玉をちりばめてこれを現すとされているが、仏は光を放ち、普通の人間は同じ白毫の位置で脳から情報を得る。こう考えると納得した気になる。白毫ポイントで聴き、見ると新しい発見がある。
4月11日(木) このところ絵を描くことについては気が入らない。勢いがある時はやりたいことが次から次に思いつくものだが、アイデイアが枯渇してとても大作には取り組めない。こんな時に東京国立近代美術館の「カンデインスキー展(ここ)」にいった。この同じ美術館で1987年にもカンデインスキー展が開催されたが、この時もやはり妻と一緒に見に行き、大いに触発された思い出がある。(この頃は私はまだ絵を描き始めていない) 今回のカンデインスキーは前回の幾何学的な三角やら四角、丸、直線の組合せの絵と違い、曲線を主体としたより自由な(といっても決して雑ではなく調和と抑制がある)作品が多く、これまでのカンデインスキーの認識とはひと味違った抽象画を堪能した。いつもの事ながら感動する催しは時間を忘れるし疲労も感じない。美術館を出る頃には、描くエネルギーが満タン。家をでた頃とは全然気持ちが違う。自分一人の想像力は弱い、外からの刺激がどれだけ新鮮なイメージと元気を与えてくれることか!
4月12日(金) 以前、本屋で正式な名前は忘れたが「入選する絵の描き方」といった本を立ち読みして驚いたことがある。著者はプロの画家ではないが、公募展に入選するために、どういう絵を描くかという解説書だった。例えば、風景画には黄金分割を応用し比率を正確に合致させるとか、審査員の好みを考えて静かな絵がよいとか、穴場の公募展はどことか、全編が入選するための作戦書であるわけだ。このような本が存在すること自体が不思議に思えたが、考えてみると案外現実のニーズがあるのかも知れない。自分が何をどう表現したいかというより、わずかばかりでもこの世の栄誉を望む。何かを達成したいのでなく周りからちやほやされたい。世間ではよくある話で、絵を描く人も例外はないのだろう。他人のことをとやかく云わずに、going my way 。入選できないような独創的な絵が描ければ本望だ。
4月13日(土) 最近焼き物を習っている。陶芸をやってますというのもおこがましいし、作品を見せるなど先生陣に不遜かもしれないので、掲載するにはいささか躊躇したが「今日の作品」に焼き物1を入れた。教室では基礎的なこと以外は自由に形や模様、釉薬を選べるのでこんな作品をいくつか作った。いまは次のステップで好きなことをやっているが、立体の作品が出来上がるので本当に楽しい。画家が作陶をした例としてピカソや池田満寿夫を思い起こすが、私は池田満寿夫のものは好きだが、ピカソの焼き物は好みではない。形は奇抜で、色鮮やかであっても絵画のように気の入った芸術作品には遠く及ばないお遊び作品が多いように思える。名前がなければ誰も見向きもしないだろう、やはり本業とお遊びは違う・・と評論家のようなことをいったが、こうした大天才も絵から陶芸を始めたのがよく理解できる、粘土をこねて好きな造形を作り出すことは本質的に面白い。ものつくりの原点が粘土細工であることは確かなようだ。
4月14日(日) マスコミの論調などを聞いていると今時の日本の若者や子供は学力は低下する、体力は低下する・・で将来の夢も希望もないようなことを書き立てる。たまたま今日、小学一年生から大学生までの子供のピアノ演奏を聴く機会があったが、冒頭のマスコミとは全く逆の感想を持った。恐らくは世界中どこに出ても恥ずかしくない子供が喜々として育っている。私たちの年代では特別な人種しか持ち得なかった天才的な技能や感情表現を多くの人が当たり前のこととして身につけている。マスコミがある意味で子供に警鐘を鳴らすことは分からないではないが、自分以外何でもけなす論者たちはどんな立派な子供だったのか、どんな親なのだろうと思う。子供が駄目だというのは大人が駄目にしているに過ぎない。ピアノの演奏に限らず、特に幼児の吸収能力などを見ていると、人間には無限の可能性があるのではとさえ思うことがある。子供は親次第、大人次第、環境次第。子どもの芽を摘み取らなければ将来は明るい。
4月15日(月) 今日、東京は気温28度の夏日になったとか。汗をかきながらのあわただしい一日をコラムに書くこともないので、焼き物の話を今日も書こう。焼き物をやってみると、絵を描くことと本質的に違う点が多く非常に興味深かった。まず陶芸は仕上がりの結果が直ぐに見られない。土からの形作り、削り、装飾、施釉、焼成に至るまでのステップを経て結果を見るまでに一ヶ月以上日数がかかることもある。また、やきものは自然任せの要素が多い。自分の思うままに表現する絵画と違い、どのようなニュアンスに仕上がるかは火の神様の知るところ。やり直しのきかないところなどは油絵などより厳しい。焼き物には歯痒さ、まだるっこしさなどがある一方、自然を相手にした奥深さがある。自分に向いているかどうかはまだ何とも云えない。今のところ贅沢であると思うがとにかく面白い・・。
4月16日(火) 幸田文の全集で「父ーその死」を読み色々な思いが駆けめぐった。名作、五重塔を書いた明治の文豪、幸田露伴が1947年に80歳でこの世を去る際に、娘の幸田文(作家、この時43歳)が詳細の看病・終焉記を残したものだ 。当時であるから、病院ではなく自宅で全て看病し最期を見取る壮絶な記録でもある。私の場合は父が45歳のときの子どもであるので、90歳の父を看取ったのはもう10数年も前の話になる。しかも病院で面倒をみてくれたのだけれども、その頃を思い出すだけで今も身体から疲労感がにじみ出る。私などはまだ楽だったほうで、姉や妻たちがみな具合を悪くした。文さんと同じく寝る時間をどうとるかが問題だった。今現在、同年代の知人には老齢の親の看病に苦労している人も多い。心の通う面倒をみたいけれども、きれい事では処理できない。病院や施設も足りない。文さんが格闘した半世紀以上前と比べて終焉への対応はどれだけ進歩したのだろうか・・。
4月17日(水)「今日の作品」に「小宇宙」を入れた。我々は誰でもちっちゃな小宇宙に住んでいる。どんなに大仕事をしている人でも、宇宙規模でみると、お隣付き合いで頭を悩ます庶民世界と同じ時空のミクロコスモスにいることには変わりがない。けれども一方で、今は大宇宙をすばる望遠鏡で現実に覗くことができたり、internetではこの瞬間の地球の裏側の姿をみたり、地球を廻っている衛星からの映像を生で見ることさえできる。可能な限り個人が世界を広げることが容易になった。このグローバルな環境と身の回りの相変わらずの小宇宙を同時に味わえる今の時代はやはり幸せと思うべきなのだろう。「小宇宙」の絵は下絵的な小品であるが余りあれこれ考えずに好きに描いてみた。先日みたカンデインスキー展の影響があるかも知れない。描くときには正に自分だけの小宇宙を楽しんでいる。
4月18日(木) 今日は前から決まっていた行事があり天気を気にしていた。週のはじめの予報では、18日・木曜日は大雨の予想であったのが、昨日の強風もおさまり気持ちのいい晴れ。今回ほど天気予報のハズレがうれしかったことはない。天気予報といえば思い出すのが母方の祖母の話。母がまだ子どもの頃、祖父は気象台の仕事をしていた。気象台の天気予報がはずれると、近所の人から「お天気は下駄を飛ばして見た方が当たりますね(裏表で晴れか雨かを占う)」とからかわれたという話を祖母から何度も聞かされたものだ。週間天気予報などハズレがあっても気象庁には何もクレームを云いたくないし愛嬌があると思うのは、多分に祖母の影響かも知れない。天気予報が全て正確であったら、それは予想とは云えないし、第一、面白くもうれしくもないだろう。
4月19日(金) アイデイアがでないとか、やる気が起こらないというときには、とにかく身体を動かすことにしている。こういう時にはアール(コーギー犬)と散歩をするのもいい。夜の散歩は普通8時か9時に出かけるのだけれど今日は特別に夕方6時過ぎにアールに付き合ってもらった。久しぶりにいつもと逆方向の恵比寿ガーデンプレース(ここ)に向かう。まず、家を出るときから下を向かずになるだけ顔を上に向けるように心がけた。丁度初めて外国の街を訪れたようにきょろきょろと周りを見ながら歩く。そうすると近所の風景も物珍しく目に映る。ガーデンプレースでは犬仲間と挨拶をしたり、女の子から「カワイーね」と云われたり(アールがです)。ガーデンプレースというのはエビスビールの工場跡地につくられたので今でもサッポロビール(エビスビール)の社屋がある。サッポロビール前の芝生でアールと休息をとりながら、オフィスのロビーで20人ほどの社員の皆様が佐渡おけさか、東京音頭か、踊りの練習をしているのをしばらくボーと見ていた。帰りの道も今までに通った事のない路地を選ぶ。そして、家に着く頃にはすっかり気分一新しているから単純なものだ。さて、これから何ができるか・・。
4月20日(土) 「春立つや 愚の上にまた愚にかへる」 これは小林一茶が還暦を迎えた時詠んだ句。「愚痴にかへりて極楽に生まる」というそうだが、当時は今よりはるかにご隠居気分が強かったと思わせる句でもある。一茶は64歳(数えで65歳)で亡くなっているが、晩年家庭の不幸は絶えることがなく、61歳で24歳年下の妻を亡くし、63歳でまた再婚したという。この句を詠んだ時にはこれ程早く自分が極楽にお世話になるとは思ってもいなかったのだろう。現代の還暦はご隠居どころではない。少なくとも私の場合は自分の人生のスタート気分だった。スタートは遅くても、やりたいことをやらずに終わるよりはまだましだ。極楽からの招待は当分お断りしたい。
4月21日(日) 最近は絵でも陶芸でも「正方形」ばかり描いている。四角はころがっても、反対にひっくり返っても形が元のままだから好きだ。以前は立方体が好きで、立方体なら何でも蒐集した時期もあった。正六面体である立方体は6面が全く平等であるが、ある面が上にくると反対の面は床に隠れて外界には接しない状況となる。どの面が上部になり、どの面が下部になるかはサイコロを転がすように運次第。こんな哲学的(?)直方体の延長で正方形にも執着した。他人にとっては価値のない屑でも自分にとっては宝物、そんなものの一つだ。・・ここまで書いてこのテーマ、以前にもコラムに綴ったかも知れないと思い出した。確か、このHPに立方体シリーズを掲載するアイデイアもあったっけ・・。
4月22日(月) 「今日の作品」に「ミクロコスモス2」を入れた。用紙は画像では分かりにくいが友人からもらった手製の和紙。中央に半折にして綴じるように二個の穴が開いている。はじめは和紙だからもっとにじみを出してみたいと思ったが、意外ににじまないものだった。絵の方はカンデインスキーの影響から抜けきれないでいるが、作者としては絵の意味するところを単純に解説し難いものだ。自分自身で想像したものが次々に変容していくこともある。抽象の絵の世界は100人が100通りの物語を作る事が出来ればそれでいいのだと思う。模範解答が用意されているものは概して面白くない。自分の絵とは別の理想を云えば、何分間も絵と対峙して話のつきないものが欲しい。それが究極の目標であるかも知れない。
4月23日(火) 23日はふみの日とか踏切の日だとか駄洒落でこじつけたものもあるが、4月23日はシェークスピア・デイと、もう一つ「本の日」であるという。INTERNETで検索して本の日について調べてみた。その中に、本の日は「男は女へ一輪の花を女は男へ本を贈るという愛する者同士の記念日でその起源はスペイン」とあった。男性が本を贈られるところが意味深長であるが、がさつな男性としては本でも読むと少しは落ち着くことは確かだ。INTERNETで情報や知識を入手するやり方は一時代前と一変したが、これからも本の必要性は下がることはないだろう。INTERNETがあるからこそ本が貴重になる。ところが本と名のつくものが余りに多すぎて当たりはずれがあるのも事実。じっくりと時間をかけて味わうことができる本と巡り会いたいと切に思う。ところで、今日は本を贈ってもらえるのかしら・・?
4月24日(水) 私が絵を見るときの評価基準は”自分にエネルギーを与えてくれるか、見た後に元気になるかどうかの一点だけ”と以前このコラムでも書いた覚えがある。作者が有名かどうか、構図がどうか、絵の販価がどうかなど一切関係なしで、要は感動したか否かの単純な鑑賞法ではある。最近は、縁があって出会うもの、人は勿論、本だとか風景だとか花など、あらゆるものについて、同じような考え方ができることに気がついた。出会った後に元気になればうれしいが、いいものを見ようと努め、エネルギーを頂戴しようと思っていなければ、何も見えず通り過ぎてしまう。格好をつけて白けていれば他人様や他の事物から何も吸収できない。自分以外の別の世界に触れると感動するものは何かしら見つけられる。感動とはまさに発見そのものであるように思える。
4月25日(木) 野次馬根性だけは衰えていないので、去年小泉内閣メールマガジンというの申し込んだら「首相官邸」の差し出し名で定期的にメールが送られてくる。今日受け取ったメールには、「総理就任一周年を迎えて」という総理のメッセージが掲載されていた。中に「毎日毎日、緊張と重圧 の中で・・・一路邁進たたかっています」という表現があったが、超過密なスケジュールと闘いの中で、とにかくも e-mailで何らかのコミュニケーションを試みているのは歴代総理では初めてのことであるのは間違いない。思い起こすのは、前のソニー社長の「出井伸之のホームページ」。1996年の4月からソニーグループの社員向けにホームページを開設し「社員との対話」をスタートさせたものだ。(後にその抜粋が本で出版された)社長自らが飛行機や新幹線の中でキーボードを叩き社員に考えを伝えるという姿勢が、当時在職中の我が周囲と余りにかけ離れていて、眩しくまた羨ましくてしょうがなかった。組織の幹部の思想・行動というのは、当人が考えるほど組織内の人間に理解されない。コミュニケーションがあってはじめて組織の力が発揮できることは誰でも知っているが、問題は実行だ。自分の言葉ではっきりしたメッセージを発信し、また他のメンバーの意見も受信する・・これにはe-mail,internetはやはり強力な道具であろう。
4月26日(金) スーパー歌舞伎と称するものを初めて見た。ご存じ、市川猿之助主演・演出の新・三国志/孔明篇(新橋演舞場にて)だったが、こういう世界もあるのだと面白く観劇した、。一度もスーパー歌舞伎を見たことのない人には何と説明するのだろう。歌舞伎と京劇とチャンポンにして、その上に、USJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)を加える、そして調味料に超魔術と曲芸を入れて味付けをする。まあ、そんな感じで「スーパー」の名がふさわしい。毎日食べていたらとても胃がもたないが、たまには豪勢な気分になる。大勢の人を楽しませるのは大変な事に違いない。その点、スーパー歌舞伎はどうやってお客を喜ばせるかを工夫している姿勢がよく分かって好ましい。こういうのが正にエンターテイメントというのだろう。4時間半の時間、退屈することがなかったのはすごいことだ。
4月27日(土) 「今日の作品」に「夢01」を入れた。このところこんな絵ばかり描いている。線とバックの色模様の組合せで結構感情は表現できるような気もしてきた。こういう絵はプライドがあると描けない。子供でもできる、幼稚かも知れない、他人はどう思うか、誰も評価しない・・などなど余計なことが頭をよぎると筆は動かなくなる。そう意味では自分だけの好き勝手な世界に浸るような精神コントロールも必要ではある。昨日も演舞場で見たが、高名な大家の描いたプライドに満ちた”当たり前の絵”にはいささか食傷気味なので、何かもっと別世界を覗いてみたいところもある。これからしばらくは夢シリーズを続けて見ようと思うが、どうなることか・・。ちなみに、題名は「夢」にはこだわらない。はじめ、DREAMLANDにしようと思ったが、連想するものがあるので止めにした。
4月28日(日) 私は過去のことをいたずらに懐かしがったり、昔はよかったなどという趣味はない。どうせ現実とかけ離れた世界を想像するならば、先のこと、未来のことを考えたいと思う。けれども明日生まれ故郷に帰ってクラス会にでるために、昔のアルバムを見ていると何とも懐かしさが込み上げてきた。中学を卒業した後直ぐに東京に出てきたので、当時のクラスの大多数とは46年振りに会うことになる。アルバムの写真を見て初めて昔の名前が次々によみがえってくるのは不思議な感じだ。意識をしていなくても、ある時期、少なからぬ影響を及ぼしあいながら、確かに皆がそこにいた。その後の人生はそれぞれに千差万別であろう。既に亡くなった人もいると聞く。それでも、クラス会というのは、現実をあえて見ることなしに、ただ過去に浸ることだけで十分意味あるように思えてきた。・・といっても、果たして現実の顔をみて名前が分かるだろうか・・。
<ということで、明日の29日、30日のコラムはお休みします>

 

これまでの「今日のコラム」(最新版)に戻る

Menu  + Today  + Corgi  + Puppy  + Gallery +  Ebisu /Daikanyama  + Links