これまでの「今日のコラム」(2002年 5月分)

5月2日(木) 今日の昼にはまだ京都の東寺で仏像をみていた。新幹線に乗ると3時間足らずで東京に帰ってくるけれども、旅は実際の距離と時間とをはるかに超越した非日常を提供してくれる。46年振りの中学同窓会ではみんな昔の面影が残っていて、年輪を重ねた姿と昔の面影をダブらせて見ているとそれぞれがもつ歴史の迫力のようなものを感じた。よき刺激を受けて爽快だった。それに続く関西旅行では、光の教会(ここ、安藤忠雄建築設計)、太陽の塔(ここ、万博記念公園の岡本太郎作)が印象的。たまたま両方とも大阪・茨木市にあるが全く違うタイプのデザインセンスながら、造形物の不思議さに感動する。「旅をしている人間は考える」といった人がいるが、非日常だから考えるのだろうか。たしかに考えそして新たなやる気をもらった旅行だった。
「今日の作品」に「夢02」を入れた。<夢01の続き>

5月3日(金) 「風薫る五月」というそのままの休日。アール(コーギー犬)を連れて屋外で何するではなしに数時間を過ごす。ただ風に当たっているだけで清々しい。さらに「風光る」なかに浸ってきた。「風光る」とは「風のために若葉が動いて光るように見える」春の季語(俳句)と解説されている。(新明解、国語辞典)今年はどうして五月の風や新緑をこれほど意識するのだろう・・。風を感じるのも心のゆとりかも知れない。以前は無為に思えた時間が無駄ではなく思えるようになった。アールも充実した時間を過ごしたのだろう、帰宅したとたんに直ぐ側で横になって眠ってしまった。
5月4日(土) 土曜日の午後には陶芸教室にいく。今日は本焼きが完了した小皿4枚と素焼きした陶板1枚が出来ていた。小皿は裏をヤスリで仕上げ完成。4枚にはそれぞれに自分なりの新しい試みをした。白化粧、黒化粧、呉須・鬼板・弁柄の色比較、マスキングの手法、釉薬の比較などなど。黒化粧などイメージしたものと全然違う仕上がりだったが、思い通りにいかないところが勉強になる。素焼きのできた板には、アルミ、銅線、押しピン(銅製)、色ガラスの破片(おはじきを使った)などを好き勝手に貼り付けた。そのためにはお得意のところで材料の溶融点なども調べ上げた。鉄の溶融点が1530度に対して、アルミは(約)660度、銅は1083度、銀は960度など。(ガラスは加熱していくとだんだん柔らかくなるので溶融点がない)ちなみに、本焼きは1280度まで10数時間かけて温度をあげる。材料も豊富だが釉薬も奥が深い。造形の可能性は無限・・とは面白さが止まらない。
5月5日(日) 先週の関西旅行のとき京都の苔寺にもいった。上桂という駅から一人1.5kmの道をあるいて門前までたどり着いたけれども寺の中にはいれて入れてもらえない。見学するのは予約が必要なのだ。京都でも御所や修学院離宮、桂離宮などは参観申込み制なことは知っていたが苔寺については本にも出ていなかった。ヨーロッパの予約制の美術館でも早朝に並べば入場できるのに・・と怒ってみても森閑とした境内から反応はない。これと対照的だったのが「光の教会(安藤忠雄設計、大阪・茨木市)」。internetのhomepage で調べると見学には要予約と書いてあったので電話をしたら、その日は何の行事も予定がありませんからどうぞ・・といわれた。行ってみると、受付にノートが置いてあるだけで、名前、住所を書いて自由に見学することができる。その間、教会関係者には一人も会わない。十字に切ったスリットからさしこむ陽の光にみとれながら、しばし瞑想にひたるのも全く自由だった。「遺産」管理をするお寺と活きた活動をしている教会・・という構図を考えてしまった。
5月6日(月) 「今日の作品」に「夢03」を入れた。今のところこんなバックの色彩模様+線の組合せに大きな可能性をみている。色や線の組合せを試行錯誤しているだけで自由の羽ばたきのようなものを満喫できる。禅画に○△□(丸・三角・四角)というタイトルの墨絵があるが、この墨跡に人が色々な思いをめぐらせるのと同じように、色と線によって精神までを伝えることができないかをという思いもある。もっともっと面白く、そして大胆に、その上に落ち着いた精神性が欲しい・・などと欲張りながら可能性を探るところが楽しい。当分の間、夢シリーズを続けてみたい。
5月7日(火) 世の中、善意だけでは片づかないことは数多い。元来、インターネットも学問情報の交流などに便利な道具として善意を基本として発展した。そのためコンピューターウィールスをまき散らす悪意までは想定せずに、セキュリテイー面は穴だらけであったといわれる。ウィールスが発生しセキュリテイーに配慮するようになってもまだ完璧なウィールス対策はできない。新種のウィールスが次々に蔓延する様をみていると、コンピュータ技術者全てに善意の倫理感を求めることなどとても無理なのだ思う。能力と倫理は残念ながら別物だ。可能性としては、ごくわずかなものであっても、万一の悪意に備えて安全対策、リスク対策に膨大な費用を余儀なくされる。一方で、ウィールス犯人の倫理や心理を研究して発生源に対する予防対策をできないものかとも思うが、難しいかも知れない・・。
5月8日(水) 月が変わったところで毎回ブリューゲルのカレンダー絵を紹介してきたが、5月のページも非常に興味深い。ブリューゲルが1560年に製作した「こどもの遊戯(遊び)」というタイトルの絵で、246人の子供たちが91種類の遊び(数えた人がいるのだ!!)をしているところを描いている。(internetサンプルはここ)飛び馬、独楽回し、竹馬、チャンバラ、竹とんぼ、輪回し、風車などお馴染みの遊びも多く、目の前のカレンダー絵を見ていると、440年も前とは思えない子供たちの活気が感じられる。internetで調べると、このブリューゲルの絵は、西洋では「罪深い大人のさまざまの愚行を反映した”倒錯した世界”の表現であるとする解釈」がなされたというが、これに対して、日本で森洋子さんが論文(1989年にこの絵についての考察でサントリー賞を受賞したもの)で、新しい視点を示したとある。(ここ)ここに描かれているのは飽くまでも「大人」とは別の「子供」の世界であり、「遊び」を通して見た「子供のユートピア」の表現であるとする解釈というが、幅寸法がわずか40cmのカレンダー絵で見る限り私もこの見方に賛成だ。描かれた遊びの一つ一つの道具から遊び方、歴史までを調べ上げたこの論文を是非読んでみたくなった。
5月9日(木) 先日の関西旅行で京都に寄った。京都では竜安寺や仁和寺など世界遺産のお寺を訪れるのもうれしいが、更にわくわくする場所がある。京都駅ビル(netサンプルはここ)である。原廣司設計のこの京都駅の建築を見ているだけで半日は楽しめる。室内の空間全体がモダンアートの展示場のような中央コンコース、イベントが行われるときには観客席として利用されるという171段の巨大階段、地上45mの空中経路などなど。しばらくじっと眺めて目に焼き付けておきたくなるような景観や造形物の連続だ。私はパリの歴史ある凱旋門以上にガラスとスチールのイメージのモダンな新凱旋門が好きだし、ルーブル博物館よりポンピドーセンターという好みではあるが、京都の駅ビルもこれらの建築と同じく、その現代性が古い文化財を引き立たせるものではないかと感じた。いかにも口うるさい方々が多そうな伝統と遺産の街がこのような建築を実現させた英断に拍手。
5月10日(金) 我が家ではインターネットをケーブルTV経由にしたら使いやすさが全く別物のようにすばらしく改善された経験がある。それもあって、知人にISDNをADSLに変換するよう薦めているが実際には思いのほか煩雑で分かり難い。ISDN(Integrated Services Degital Network=サービス総合デジタル網)は一時期NTTが大々的に宣伝した。以前の標準モデムの通信速度(33.6kbps)に対して64kbpsと倍近く速度が速く、デジタル通信のためアナログ2回線より安いなど、INS64を売り込んだものだ。それが、一般のアナログ電話回線で音声信号で使っていない高周波数帯域をインターネットの通信に使う、ADSL(Asymmetric Degital Subscriber Line=非対称デジタル加入者線)方式が開発され、アメリカ、韓国など、早くからADSLを導入しているのに日本だけが導入が遅れる事態が生じた。ADSLの通信速度が桁違いに早く、理論的には1.5Mbps(ISDNの24倍)、8Mbps(ISDNの実に125倍)となれば、NTTも非常に遅まきながらADSLサービスをやらざるを得なかった。それにしてもADSLを申し込んでも簡単には接続できない。ADSLの”D”はデジタルだのに、ISDN設置のときにアナログからデジタルに変換した電話回線を、またアナログにも戻さなければならない。通信速度の改善も相当に産みの苦しみを伴うものだ。
<今日の作品>に「夢04」を入れた。

5月11日(土) 先日(4月末)46年ぶりに中学のクラス会に出席したことを前にこの欄で触れたが、その時意外だったことが一つある。それは集まった男女21名の中で、e-mailを自分でやる人がわずか2名ということだ。私ともう一人はホームページも持っているのが、e-mailは漠然と3−4割はやるものと思っていた。そこで思い起こすのは私の周辺でも、e-mail, internetを自分で活用するのは女性が多いということだ。男性で特に他人に何でもやらせれば事が済み、指示だけすればいいという立場に安住していると、ある時ふと気がつけば自分では何もできない。若造にmailだとかinternetなど頭を下げて教えを乞うなど沽券にかかわるということになる。その点、知る限りでは、女性は考え方に柔軟性(フレキシビリテイー)がある。新しい環境への対応力は女性の方が優れているのではと思うことも多い。同年代の男性は黴臭いプライドなど捨て去ることから始めなければならないのだろう。・・・そうは云っても、e-mailでなくて昔ながらの封書やはがき、生の声の聞ける電話もなかなかいいものだ。
5月12日(日) 前向きの気分が強いときには他人のどうでもいいことを気にもしないけれども、このところ、嫌でもマイナスの部分ばかり目に付き話題もプラス指向とならない。コラムもどうもそういう傾向になってしまう。今日、母の日だからと言うわけでもないが、父母の墓参りにいった。墓のあるお寺では何か人が入ることを歓迎する雰囲気がなく冷たい空気ばかり感じる。このお寺は名刹であるが、最近、激烈な跡目争いが展開され、暴力団による殺傷事件まで起こした経緯がある。部外者はどちらがイイモノであるか全く分からないが、冷ややかに整備だけされたお寺の境内を通りながらお坊さんの世界を思う。ついでに、この前行った京都の東福寺境内には何と自動販売機が置いてあったことや、美しい石庭を見せるべき縁側の直ぐ目の前にブリキ製の樋が二本、屋根から連なっていたのまで思い出してしまった。お坊さんは解脱できないならば、せめて周りの人への真のサービス精神だけでも習得してほしい・・。アア、もっとプラスの話がしたいのに・・・。
5月13日(月) マザー牧場(千葉県富津市)の「羊を追わせる体験講習会=君のワンちゃんに羊の群れを追わせてみよう!」という催しに 参加した。 我が家のアール(コーギー犬)とアールの姉(つまり我が家にいたアンの子ども)の他、3頭のボーダーコリー、合計5頭が羊を相手に奮闘した。一頭づつが交互に数頭の羊を追いかける訓練を受けるのだが、大抵は本能的に元気に羊を追いかけ、吠える。ところが我が家のアールときたら、はじめは羊には興味を示さず、枠の外にいる私の方ばかりを見ている始末。2ラウンド以降は私が率先して羊を追っかけるとようやくアールも全力で走るようになった。それにしてもアールの都会育ちの甘やかされた体質は野生もたくましさも見られない。遅まきながらもっと広い場所で自由に走り回る機会を作ってやらなければと反省。飼い主の方はよき汗をかいて爽快だった。(ただし、この日の最大の被害者は羊さんたちか。本当に付き合ってくれてありがとう!)
講習会で ボーダーコリーの人たちが初めて会ったのに、偶然ホームページの知り合い同士ということで感激していた。犬を通しての交流はコーギーもボーダーコリーもそれぞれに活発であるようだ。

5月14日(火) 風薫る5月。風には特別に興味がある。風そのものは姿も見えず音もしない。けれども人は微妙な風の気配を感じるし、風を聴き、見ることもできる。木々のざわめきなどは古代人も同じ音を聴いただろうし、風鈴など風による楽器まで考案されている。わずかな室内の空気の動きを見えるようにしたモビールは私の好きなコレクション。街の広場などに風で動くアート作品をみつけると動きを眺めてしばし時間を忘れることもある。(昔から好きな「新宮 晋さん」の紹介ページはここ)風を動力としたヨットの帆や風力発電の風車の形状も追求すれば面白い。風を見たり、聞いたり、利用する材料はこのように沢山あるが、最近は風を自分の身体いっぱいに浴びながらただボーとして自然の音を聴いているのが一番好きだ。意識をして風を感じているだけで、新たなエネルギが体内に送り込まれるような気になる。5月のせいかも知れない。
5月15日(水) また色の付いた矩形をバックにした線描パターンの「夢06」を「今日の作品」に入れた。一連のシリーズでワンパターンであるようでも描き手としてはまだこのシリーズ続けてみたい気持ち。直線っぽい線とか矩形はコンピュータで描くと極めて簡単に描けるので、こうした絵は人間が描いた痕跡が残らなければ面白くない。極力コンピュータで描けない線や面を作りたいと思っている。整ったスキのない線や面は無条件にコンピュータの世界であるが、不思議に表現上の弱さ、稚拙さは人間の特性のように思える。余りによくできた最近のCG映画をみると、感心はするけれども、昔の白雪姫の手書きアニメが懐かしくなるのも人間心理の複雑なところ。完璧な写真技術ができあがり、コンピュータを駆使できる今の時代に、どのような表現をしたいのかが問われる。絵には何らか感動が伝わるものがなければ意味がない。こうした絵でどうすれば感動が表現できるかを模索するという楽しさを味わっている。
5月16日(木) 「雪舟展」(没後500年特別展、東京国立博物館で5月19日まで開催ここ)にいった。こどものころ「涙で鼠の絵を描いた」という伝説の画僧雪舟についてはこれまで多くの解説メデイアに接しているが、やはり展覧会で見る”本物”には力がある。今回の特別展では雪舟の直筆以外に、雪舟が影響を受けたと思われる先人の水墨画や中国の画家の絵、それに雪舟作品の「写し」が多く展示されていた。そこで気がついたのは、名人、上手の絵はいくらでもあり、雪舟が決して一番丁寧であったり、細密であったり、写実的であったりする訳ではないというところだ。現代の目で見ると、極めて精緻な部分があるかと思えば、ズバッと抽象を思わせる省略もする、強弱の面白さを作るなど、自由な筆さばきが雪舟には際だっている。雪舟は当時としては異常に多くの弟子を抱えたが、誰一人として雪舟の枠を越えられなかったという。雪舟という個性を模倣するだけでは所詮「写し」以上のものができないのはよく分かる。先生を超えるのもまた個性であろう。
5月17日(金) 「エピメニデスの逆説」というのがある。紀元前5−6百年頃アテナイの予言者エピメニデスが「すべてのクレタ人は嘘つきだ」といった。ところが、エピメニデスはクレタ島生まれのクレタ人。そうすると彼がいったこともウソで実はクレタ人は正直者になる。そうするとまた「クレタ人はウソつき」というのは正しいことになり・・・と無限に話は循環する。バートランド・ラッセル(1872-1970,英国の数学者、哲学者)はこのエピメニデスの逆説を数学の集合論で説明した。ここで簡単には解説しにくいが、ラッセルは,実際に存在する事物と,それを要素とする集合(エピメニデスを含む観念上のクレタ人)とは,別の存在の仕方をしていて,両者の「タイプ・階型」は異なる。「集合」とその要素は「階型」が異なるので集合がそれ自身の要素であるかどうかという問い自体が真でも偽でもなく,無意味(nonsense, meaningless)とした。エピメニデスの逆説と同じようなパラドックス(逆説)は色々なところで見かけることがある。貼り紙禁止の貼り紙ならまだいい。事実を確認するときに相手がウソを付くこともあることが分かったら、さて事実は何となる?
5月18日(土) 土曜日、午前中に雨は止んだけれどもいつもの運動ができない。少し身体を動かしたくて、午後、めずらしく犬を連れずに妻と近所の代官山を散歩した。週末の代官山という街は原宿と同じになったかと思うような若い男女で賑わっている。新しい店ができていたり、以前知っている店もすっかり模様替えしていて全てが物珍しい。この近辺は毎日犬を連れて朝晩の2度は散歩している。だから裏の細道だとか人の通りそうにない道はよく知っているが、とにかく、早朝と夜の遅い時間の散歩なので店の中身は全くのブラックボックス。今日のようにいくつか店の中に入ってみると近所と云っても本当に何も知らない。美味しい店も、安い店も、しゃれた店も雑誌に掲載されて初めて知るだけだ。灯台もと暗しは褒められたものではないだろう。今日は昼間の犬のいない散歩も大いに刺激になることを再認識した。・・そういえば最近はこのホームページの「恵比寿・代官山コーナーここ」も停滞しているナ。
5月19日(日) 先日、NHK-TVで「青い薔薇」の話題を放映していた。BLUE ROSEは英語で「ありえないこと」の意とされるように、昔からいくら交配を重ね、品種改良をしても「青い」バラを作ることは不可能とされている。それが最近の遺伝子組み換え技術でこの2−3年の内に「青い薔薇」は現実のものとして市場に出てきそうな気配だというような内容だった。薔薇の遺伝子には花弁の細胞内に青の色素を作るための酵素がないため、交配とか突然変異でも「青」はでないものらしい。それをバイオテクノロジーを使って青の酵素を導入することにより青い薔薇の可能性がでてきたようだ。(カーネーションも青がないところペチュニアの遺伝子を使い青ができた)青い薔薇の特許だけで数億円、市場は5−6百億円などといわれるが、どうもスッキリしない。薔薇の色などあるがままがいいと思える。紫陽花や菖蒲、テッセンの花などの青があれば十分。せっかく自然界に色の分業体制ができているのに、これを覆す必然性が分からない。個人的には薔薇が何故青ができないのか、どうしてそのような自然の仕組みが出来上がっているのかに興味がある。
「今日の作品」に「夢06」を入れた。夢シリーズもよく続く・・。

5月20日(月) 街で後ろに手を組んでゆっくり歩いてくる人に出会ってハッとした。その格好だけで年寄りと分かる。実は私も時々無意識に後ろに手を組んで年寄り臭いと妻から指摘されることがある。考えてみると、若者で後ろ手の姿をみるのは、学生服応援団のリーダーか、そうでなければ、手錠をかけられた犯罪者か。大人であれば、絵に描かれたナポレオン像が想起されるし、昔、校長先生が後ろに手を組んで訓戒した姿も思い出す。面接試験では後ろ手でドアを閉めると不作法とされる。どちらにしても、後ろ手は若々しい格好ではないことは確かだ。姿勢はもちろんだが、手の組み方がこれほど年格好を表すとは思わなかった。自ら納得すれば癖であっても正すことにはやぶさかではない。これからは一切後ろで手を組まないと決意した次第・・。
5月21日(火) 褒められてうれしくない人はいない。子供ではあるまいし大人はお世辞など喜ぶことはないという人が「見え透いたおだてに載らないところはさすが立派ですね・・」と云われて気持ちよくなっていたりする。私もおだてや褒められることは大好きだが時に複雑な心境になることがある。数枚の絵の中から、「これはいい」と云われたものが、自分としては一番不出来と思っていたものだった場合など、「それ以外はもっとよくない」と評価されたようで落ち込む。こういう時は「私はこれが好き」といってもらうとホッとする。好き嫌いは善し悪しとは別で、10人の好みが違っても当たり前だ。このように、自分の好き嫌いを、絶対評価でいいとか悪いというニュアンスで話をされることが結構多い。マスメデイアの論評など実はほとんど「好みでない」だけの話であったりする。時には褒めてやる気を起こさせるなどの配慮があれば社会が変わるかも知れない。人は褒められるとそれ以上を目指す習性があるのでないだろうか。
5月22日(水) 妻がトースターで食パンを焼いたとき、バターを塗った上にチーズの粉を乗せて焼くのでトロリと溶けたチーズができると思ったら溶けないチーズだった。食べ物についてはめっぽう弱い私のこと、これまでチーズというのは溶けるとばかり思っていたので溶けないで焦げるチーズがあると聞くとこれは新知識。早速にinternetで「チーズ・溶ける・溶けない」のキーワードで検索すると直ぐに情報が集まった。説明を流用させていただくと、「溶けるチーズはナチュラル・チーズ、溶けないチーズはプロセス・チーズ」 「ナチュラル・チーズは、組織をつくっている脂肪、蛋白質、水分などの粒が大 きく、構造もゆるいので、加熱されると壊れやすい。加熱されるとまず 脂肪が溶け始め、表面にできた膜によって熱や水分が閉じ込められて、たんぱく質 もゆっくりと溶けて糸を引くやわらかさになる。一方、プロセス・チーズは、ナチュラル・チーズを加熱していったん溶かし、それ から固め直したもの。その過程で、均一に混ざるように機械で処理され、乳化剤を加 えているので、組織の粒が小さく、詰まった構造になっている。そのため、加 熱しても、壊れにくい。熱を加えても、水分がとび、さらに固くなるだけ」。なるほど、確かに焼き物の釉薬だって、一度加熱して固まってしまうと次には同じ温度で溶かすわけにはいかない。今日は一つ利口になったような気になった・・。
5月23日(木) 昨日のコラムで柄にもなく「溶けるチーズと溶けないチーズ」の話など書いたので今日はその修正をしなければならない。粉状にしてパンの上にかけたチーズはトロリと溶けるものではなかったがプロセスチーズではなくパルメザンチーズという「ナチュラルチーズ」だと指摘された。パルメザンチーズはナチュラルチーズの中でも「超硬質」で粉にして使うのに適するとか。ついでに、ナチュラルといっても、例えば、エダムチーズやチェダチーズは硬質、ゴーダチーズやゴルゴンゾーラは半硬質、カマンベールチーズとかモツァレラチーズは軟質とか。普通の糸を引いてとろけるのは堅さとは関係ないようだ。教えてもらったのはいいけれども、こちらは全く現物のイメージも湧かなければ味も知らない。これは次の休みにチーズ屋さんに通ってぜひ本物を見てみよう。この際、奥深いチーズの世界を覗いてみるのも面白いかも知れないと思い始めた。
5月24日(金) 「今日の作品」に「風力計・改訂」を入れた。久しぶりのhandicraftだが以前の改造版というところ。前の半球型の風力計はありきたりで、半球の裏と表の風抵抗の違いだけで回転する仕組みなので、風がある程度強く吹かなければ回転しない。そこで半球の代わりに翼型の部品を付けてみた。翼は風の力を少しは効率よく利用することができる。性能だけでみると4枚羽でなく8枚としたいところだが今回はここまでとした。翼は発泡スチロールを使い微妙な翼型をナイフと紙ヤスリで仕上げるという正にhandicraft。風で廻るところを見るだけで何も役に立たないけれど絵とか彫刻と同じように楽しむことはできる。少なくとも知る限りではこんな形の風車はないという自己満足の作品だ。
5月25日(土) 先週、先々週は雨でできなかったが、今日は雲一つない快晴の下、久しぶりに土曜日のテニスを楽しんだ。週末のホンのわずかな時間であるけれども、最近はスポーツというものは本当によくできていると、今までにない感慨を持ちながらプレーするようになった。相手に打ち難いボールをだしたり意地悪ばかりして勝負を争う競技には飽きたと、ある年齢になってテニスを止めた知人もいるが、こちらは色々感じるところはあるがまだ競技を楽しむことができる。闘争心をもって頭と身体をフルに使って勝ち負けを争う機会はこういう時しかない。しかも自分一人の競技でなくパートナーに助けられたり助けたり。自分が調子悪くても相手の方が更に不調だったり。感情的になると駄目で冷静に相手と状況を判断することが第一と思うと、一方で考えすぎると絶不調になったり。体調がよすぎると返ってミスが多かったり。・・・プレーすること自体がミクロの社会経験を味わう気にもなる。今晩はサッカー・ワールドカップ前の練習試合最終戦:日本対スエーデン戦を見ていてコラムも遅くなってしまった。サッカーもまた凝縮された人生模様を見るようなところがある。
5月26日(日) 姪のバイオリンリサイタルにいった。音を楽しむと同時に、また多くの刺激を受けた。演奏自体が本当にすばらしかったこともあるが、彼女は3人の子供をしっかり育てながら博士号を取得し、その上本職の演奏家として40歳前でリサイタルを続けていることにも感銘を受ける。20歳の学生時代より格段に上達し年と共に演奏の深みが増しているのも感動的だ。世の中には若い頃に才能を開花させた人たちは多いが、その後10年、20年、更に40年後にも着実に進歩をみせることがより意味が大きい。それは60歳以降も同じ事が云えるだろう。40,50がピークでは寂しい。筋力が相当にものをいう週末テニスでさえ相手方は60歳過ぎても技術は上達し安定感も増しているように見える。ましてや体力勝負でないものは経験を糧にして本人の意欲と正しい研究心があれば進歩を続けることは十分に可能だという思いをますます強くした。
5月27日(月) 猿の社会と人間の社会の大きな相違は、猿は同時に複数の集団に属することができないのに対して、人間は同時にいくつものグループや組織に所属できることにあるという話を読んだことがある。夫婦、家族、勤め先、地域社会、趣味のグループなどそれぞれ別の仲間と同時に付き合い、活動できるのが人間としての特性であるようだ。この、”同時に””別の”集団に所属することができるのは、確かに非常に意味が大きいと思える。個人の自由とか尊厳を認めた高度の社会でないとこうした人間社会の特性を享受できない。ともすれば人間社会でもグループのボスは猿社会のボスと同じになりかねない。つまりメンバーを自分の集団の独占物として他の集団との交流をよく思わないことがしばしばある。個人や組織に「猿度指数」というようなものを想定して評価してみると面白いだろう。自分も含めてだけれども「猿度」は結構高いかも知れない。
5月28日(火) 他人のことをとやかく批評しても自分が何か作り出すものがなければ空しいと思う。このところinternetのおかげで毎日各新聞のコラムを読み比べるが新聞特有の批判精神があるのはいいが何も得るところがなくて空しいことが多い。特にかつては美しい日本語のサンプルとして取り上げられることもあった天声人語など二度と読み返したくない文章にも屡々お目にかかる。TVのニュースステーションの如くはじめからスタンスが見え透いていて予想通りのオチをつける。報道に徹すればいいものを随所に不相応な思い上がりが気になってしょうがない。こんな批評もしたくはないが要はもう少し美的なもの、爽やかなものに接したい。今TVで放映している「伊藤家の食卓」などの方が、はるかに前向きで人の知恵のすばらしさを見ることができる。
5月29日(水) 図書館でもらってきた本(リサイクル本で自由に持ち帰ることができる)の中に旧約聖書の「ヨブ記」について書いたものがあり、懐かしく「ヨブ記」を思い出した。ヨブ記については難解で、旧約の神様とはそんなに残酷で理不尽のものかという感じが抜けきらなかった。神を畏れ敬い、道徳的にも信仰においても非の打ち所のない暮らしをしていたヨブは、男の子7人と女の子3人があり、家畜は羊7000頭、ラクダ3000頭・・などを持った大いなる者であった。ところが、ある時悪魔が神にささやく:もしヨブから財産や健康、家族を奪ったならヨブはあなた(神)を信じませんよ。あなたが生活を祝福しているから従っているだけ。試しにそれを取り上げてみなさい。こうして神から試練が与えられた。ヨブは、いわれなく全財産を失い、全ての子供とは死別し、ヨブ自身治る見込みのない大病にかかる。それでも信仰が揺るがなかったヨブは最後には前の二倍の財産と子供を与えられたとされるが何かとってつけたエンデイングでスッキリしなかった思いがある。昔これを読んでから10年以上の歳月が経っている。改めてヨブ記を読むと何か新しい見方ができるだろうか。今度はヨブ記を借りてこよう。
5月30日(木) 作成したコラージュ(完成後「今日の作品」に掲載の予定)に"HOLIER THAN THOU"というタイトルを付けようと思って調べると、この言葉は歌のタイトルとか多くの慣用語として使われていることを初めて知った。「汝の思う以上に信心深き」という意味かと思うが、自分のことは案外に自分はよく知らないことと合わせて興味深い言葉だ。子供や学生に対して、適性を見いだすとか好きな分野を見極めることを要求することがあるが、本人さえ気がつかない能力や適性が見えないところに隠れているということは非常に多い。これは神のみぞ知るところであろうが、幸運な人はたまたま自分が望む道が最適かも知れない。けれども大部分の人は汝が思う以上の道もある。汝の知らぬところで人は信心深くまた適性が存在していることは、本当であるように思える。You are holier than thou. それを知らないだけだ。
5月31日(金) 陶器で作った記念のプレートにヒエログリフで年月や文字、サインを入れてみた。(いつの日にか「今日の作品」に掲載予定)ヒエログリフは古代エジプトの象形文字で、現在は全て解読されただけでなく辞書もあるし、例えばローマ字と同じように自分の名前をアルファベットに従ってヒエログリフで綴ることもできる。(hieroglyphはhierarchy=階級、聖職階層と同源の「神聖」を「刻み込む」意で聖刻文字とも云われる)ナポレオンがエジプトに遠征したとき発見された石碑にヒエログリフとデモテイック、ギリシャ文字の三種類が併記されており、この石碑が「ロゼッタストーン」と呼ばれてヒエログリフの解読のきっかけとなったことはよく知られている。それでもこの文字の完全な解読にはその後20年の歳月を要したと云われる。その後の研究成果もあって現代は、I am happy. とヒエログリフで書けば世界中で意味が分かるということになる。残念ながら今のところコンピュータのフォントにヒエログリフはないが、この象形文字(表音文字も相当に含まれるようであるが)をコンピュータで書くことができればインターネット世界の共通言語として面白いだろう。(~ = ~)

 

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