これまでの「今日のコラム」(2002年 6月分)

6月1日(土) 「今日の作品」に「コラージュ・ヴォーグ=Holier than thou 」を入れた。(言葉については、5月30日コラム参照)これは"VOGUE"という雑誌の記事や写真を切り張りして作った「コラージュ」。5年前の雑誌を捨てる前にリサイクル利用したものでもある。"Holier than thou"の文字も雑誌の記事から切り取った。我々の周囲にはすばらしいカラー写真の素材が満ちあふれ、また消耗品として捨てられている。考えてみると、昔ならば専用の絵師を抱えた貴族でないと手に入れられないような質の高い画像を当たり前で身近に置くことができ、次々と新しくするとは実に贅沢なものだ。コラージュの材料は山ほどあるが、実際にコラージュをやってみて材料に圧倒されて自分の主張がどこまで出せたか、欲求不満なところが残るがこうした切り張りも結構楽しい。自分で描いた文様がコンピュータ画像では余りに小さくなってしまったのも少し残念だが、イメージは伝えられるだろう。これから新たなコラージュを更に試みたいと思っている。

6月2日(日) サッカー・ワールドカップがスタートして3日目を迎えた。今はスエーデン対イングランドの好カードが始まったところだ。あらためてワールドカップの参加国をみると全32カ国の内、アジアの国は主催国の日本・韓国を除くと中国とサウジアラビアの二カ国しかない。これに対してアフリカは5カ国出場している(南北アメリカ8,ヨーロッパ15)。この機会にアフリカの参加国がどこにあるか調べたがアフリカについて認識が低いのには我ながら恥ずかしい思いをした。チュニジアや南アフリカは地図で示すことができるが、セネガル、ナイジェリア、カメルーンとなるとあやふやになる。ナイジェリア(首都アブジャ)は大西洋側の凹んだ喉元=中西部に位置する人口1億6千万人もいる多民族国家であるとか、カメルーン(首都ヤワンデ)はナイジェリアの東南に隣接する国で人口1400万人とか、セネガル(首都ダカール)はアフリカ最西部の国(ギニア、モーリタリアなどと国境を接する)で人口840万人とか、色々なことを教えられる。それにしてもアフリカの地図を見るとまだまだ白地図に国名を書き込めない。ワールドカップは世界中の国に親しくなるだけでも意味があるだろう。恐らく、ヨーロッパなどでは、エー! 日本、韓国ってチャイナと別の国なんだなどと初めて知った人も多いに違いない。
6月3日(月) 先月末に「ハナエモリ」が民事再生法の適応を申請して受理されたという報道があった。負債額は101億円。森英恵さんの裏方として長年経営を仕切ってきたご主人が数年前に亡くなられていたことと考え合わせると、ビジネスの難しさをあらためて思う。いまでこそファッションでもまた他の業種でも日本人が世界に認められることはめずらしくないが、森英恵が世界に進出した当時は、いま大リーグで野茂やイチローが活躍する以上の快挙に見えたものだ。倒産は海外ブランドの攻勢に押されたためとか色々云われるが、ビジネスという儲け仕事とデザインセンスとか高級な品質とは簡単には両立しない。「芸術」の分野ならビジネス上手は単なる世渡り上手。歴史に残るのは別物・・と評すればいいが、ファッション業界ではそうもいかないだろう。デザイン分野で是非ともまた復活して欲しい。
6月4日(火) プリンタのマニュアルにエラーが発生したときの対処法として「エラーの原因を取り除く操作をしてください」とある。ところが、エラー表示もなくランプだけが点灯するので、何の説明にもなっていない。この手のマニュアル(手引き書)ならば何でもできる。象さんを冷蔵庫にしまう方法というのがあった。まず、冷蔵庫の扉を開ける。次に象さんを中に入れる。その次に冷蔵庫の扉を閉める。これで象を冷蔵庫の中にしまうことができる。・・いま、ワールドカップ、日本ーベルギー戦は2−2の引き分けで終わった。2点の得点を挙げたのは特筆すべきことだろう。サッカーで勝つ方法は、味方のゴールにボールを入れられた回数以上に、相手のゴールにボールを入れること。云うのは簡単だ・・・。
6月5日(水) 毎日、「今日の作品」が入れ替わるのが理想だが現実はなかなかそうはいかない。今日は4日振りにコラージュ・巨樹に入れ替えた。コラージュの第二弾。巨樹は余り切り刻んだりふざけた写真との組合せはできなかった。コラージュの中央の樹はグアッシュで描いた。下には巨大な木彫の像を配していたが色を塗ったら殆ど見えなくなってしまった。上部中央には赤い色の和傘。上部の左右は木々の白黒写真を配した。原板の写真は素敵な写真なのだが、私の取込用のデジカメ撮影が下手で現物を再現できていない。下部の左右は巨木の写真そのまま。巨樹には何か神聖な雰囲気が漂う。それは1000年もの間生き延びた運の強さから来るのだろう。土壌や太陽の条件に恵まれた以上に、人間に伐採されずに成長を続けられたのは強運としか云いようがない。このコラージュも強運を呼ぶ絵であって欲しい・・。
この機会に、図書館で巨木の図鑑を借りて調べてみたが日本中の天然記念物など巨樹の写真を見るだけで圧倒された。いずれ巨木巡りをするのも面白いかも知れない。

6月6日(木) 現在、学校で幾何学がどう教えられているのか知らないが、幾何学は数学的な考え方とか創造性を触発するのに非常に重要な教科の一つであると思われる。コンピュータやデジタルの時代に図形の美しさを教えてくれるのも幾何学だ。直角三角形をはさむ2辺と斜辺の長さの関係を示すピタゴラスの定理(三平方の定理)を見事に図形で証明されるのに感嘆した覚えが誰にもあるに違いない。キーボードを叩いたり、液晶画面を見るよりも、自分の手で線を引き、図形パズルを解く方が、はるかに子供の感性を養うような気がする。数学や物理学が美しいと思い、また図形や幾何学に美を認めるのは人間独特の自然な感性でもあるようだ。イスラム教では、偶像を礼拝することを 禁じたため、神や人間が描かれずに、幾何学模様や 抽象的な模様が発達したといわれる。アラベスク模様の美しさは人間が幾何学模様に美を求めた極致に思える。私は絵の中に四角を入れるのが好きだが、幾何の基本である△も□も○も全て美的になるところが面白い。
6月7日(金) アイデイアというのは突如ひらめく。それは意識しないでも潜在的にいつも考えている結果なのだろう。最近は、朝起きる直前に陶芸の造形のアイデイアが湧き出ることがある。また、犬の散歩の最中などに思いついたアイデイアを忘れないように家に帰るとすぐメモをとったりする。陶芸というのは2次元の絵とは異なる3次元の世界だ。立体の造形は無限といえるほど可能性があるので、自由に何か作るとなると次々にやりたいことが思い浮かぶことになる。お茶碗とか、お皿を作ると収納スペースがないところに「余計なもの」を加える気兼ねがあるので、実用には余り興味がない。どうせ無用なものなら世界に一つしかない形状にしようと潜在意識は活発になる。それにしても、いまは絵を描くことについてそうした意識が少ないのが寂しい。コラージュなどの方向ではなくて、絵画についてもっと挑戦する指標がほしい。そう・・自分自身の目標が曖昧なのだろう・・。
6月8日(土) 金属材料には「疲労強度」というのがある。疲労強度以下の荷重であれば、百万回以上の繰り返しが付加しても破壊しないが、疲労強度を超える荷重がかかると繰り返し回数に応じて破損に至る。一般に材料の強度と云われるのは一回だけの負荷で破壊する強さをいうので、疲労強度より何倍も大きい値となる。逆に繰り返しによる疲労は、本来の強度よりはるかに低いところで見ておかなければならない。・・前段が長くなったが、サッカーはいわば選手の疲労強度の争いという一面があるのに対し、野球の試合は、繰り返し疲労は関係のない全強度だけで戦う競技だと気がついた。テニスもサッカーと同じく長丁場の疲労の要素は大きいが、野球だけはピッチャーを除いては休み休みやっている。サッカーはまたチーム全体の疲労限度がポイントとなる。メンバー全体のレベルが高くないと穴ができる。試合の終盤にゴールが多いのはお互いに疲労限度ぎりぎりで壮絶な戦いを続けている証明でもあろう。まだ疲れのない試合はじめの動きも見所だが、疲労が限度となった最終盤もまた非常に面白い。今は、ブラジルー中国戦を見ている・・・。
6月9日(日) ワールドカップ日本代表の第二戦、日本ーロシア戦がいま終わった。1−0で日本のワールドカップ初勝利。稲本がゴールを決めた時には、その時間がらがらの都心の道路を自動車で走りながらラジオを聞いていた。日曜日とはいえこんなに道路が空いているのは珍しいと思っていると、突如、車道まではみだして集まっている一団に出会った。直ぐにこの人達も屋外の大画面TVでワールドカップをみているのだと分かった。家へ帰り着いてすぐTVをみたが、最後の5分間、なんと時間を長く感じたことだろう!それにしても確かに日本サッカーも上手くなったと感動する。今日はこの記念すべき日をそのままコラムにメモすることで十分幸せだ。
6月10日(月) 朝から忙しい一日だった。・・といっても、ワールドカップの韓国ーアメリカ戦(1−1引き分け)も自動車の中でラジオ放送をしっかり聞いている。このところ日本中が愛国者になったような応援フィーバーで、日本ほどひどい国はないというニュアンスの記事を日頃ことある度に書いているA新聞がなんとなく遠慮がちに応援報道をするのがおかしい。それにしても、スポーツの力はものすごいものだ。政治家や外交官が苦労する国際交流をいとも簡単に達成したかと思うと、景気さえ改善するかも知れない。昔、中国との卓球外交が時代に変革をもたらしたことを思い出させるが、スポーツでの愛国的な応援は、一方で相手の国を理解し尊敬する基ともなる。自分の国を応援しなくて相手の国の立場を理解することは考えにくい。・・いま、ポルトガルがポーランドを4−0で勝った。韓国ーポルトガル戦を残す韓国にすれば決勝リーグ進出のためには何とかポーランドに追いついてもらいたかっただろうに・・。とはいえ毎日のサッカードラマが日本ー韓国に膨大なエネルギーを産み出しているのを実感できる。
6月11日(火) ワールドカップに酔っているうちにアッという間に日が過ぎていく。「今日の作品」に「mieu記念皿」を入れた。一歳8ケ月の孫の手形をネタにして記念皿を作ったもの。手形を陶器で残すとことにしたけれども、いざ具体的に作るとなるとどんな形体とするか相当思案した。皿の表に手形を付けるのは面白くないので、表は普通の皿模様として、裏に記念の手形を配置することにする。手形を付けた皿の裏側には高台を三カ所付けてこれを使って子供らしい絵模様を描いた。私の絵はもともと子供っぽいので実は地のままの絵。この孫を観察していると自分の子供では全く気がつかなかった色々なことを教えられる。自分の子供の場合、2歳になる前に遊んでやった記憶さえないけれども、孫とはよく遊ぶ。一歳半ば頃から、毎日、目に見えて知恵が付き進歩する一日と、自分が漠然と過ごすのも24時間とは同じ時間の尺度であることが不思議に思えたりする。早く手形をとらなければ直ぐに大きな手になってしまうとあわてて手形の陶皿を作った。この記念陶器皿をいつ頃孫にプレゼントするか考えている。
6月12日(水) 元気がでないときに中川一政の本(例えば、文庫本では「画にもかけない」・講談社)を読む。簡潔なエッセイに目を通すだけ身体全体にエネルギーが充満した気になる。中川一政(画家1893-1991)の絵も”大好き”の部類に入る。真鶴(神奈川県)にある中川一政美術館にいって「本物」を見るのは何よりも楽しいことだ。98歳まで活躍をしたこの画家はよく知られるように、絵は独学。美術学校をでていないから・・というべきか、広い教養を身につけ、本当に真面目に求道生活を送り、真の美を追求した。高い精神性を保ち続けながら、権威を嫌いざっくばらんな性格にもみえる。一政語録を少し引用しておこう:「画はあくまでも人間がかくもの。画に縛られてはつまらない。画をかくことが生きること・・」「画は芸術ではない。画の中に呼吸し、うごめいているのが芸術なのだ。問題は生きているか死んでいるか」・・「画」のところを「生活」とか「勤め」などに置き換えて読むこともできる。こういうのもある:「君子は豹変す。生きているから美しく変化する」・・とにかく、プラス指向で気持ちがよい。
6月13日(木) 最近、「スローフード」という言葉を聞くことがある。「ファーストフード」の”ファースト”(早い)に対して”スロー”を掲げる運動で、イタリアから始まり世界各地に協会を持つまでに発展してきているようだ。要するに、規格化された食物を安く、早く供給できるファーストフードに世界の隅々まで席巻されそうな情勢に危機感を持った人々が、「伝統的な食材や料理、質のよい食品や酒を守る。良質の素材を提供する小生産者を守る。消費者(子供を含める)に味の教育を進める」という指針のもとに活動をするものらしい。早くて安いファーストフードを時に愛用する私としては、贅沢なグルメ指向ではないかと初め警戒したが、「美味しいものを食べよう」というのではなく「美味しく食べよう」ということを考える・・というのでホッとした。確かに、時にはファーストフードは便利であるが、極端に偏るのは元より好ましくはない。画一化に対する抵抗も十分理解できる。良質の食文化が巨大資本によって壊滅するのを防ぐのも大いに賛成だ。それにしても、ファーストフードと比べると、伝統的な料理はいかにも高価すぎる!
6月14日(金) 今日という日はやはり日本のサッカー選抜チームのワールドカップ決勝トーナメント進出の話題しかない。所用で集まりに参加していたが午後2時頃から帰る人が続き3時には殆ど誰もいなくなってしまった。私も引き上げて3時半から始まった日本ーチュニジア戦(大阪・長居スタジアム)をTV観戦。2−0でチュニジアを破り歴史的な日本の一次リーグ突破が決定した。ここまでくると真面目なコメントは不要。戯れ歌でいこう:一次リーグ突破とは「驚き桃の木山椒の木」、トルシェ魔力には「恐れ入谷の鬼子母神」、チュニジアの逆襲など「その手は桑名の焼き蛤」、日本は地力もあるのよ勝って「あたりき車力よ車引き」、といっても運もついていた有り難い「蟻が鯛なら芋虫や鯨」、今度はトルコ戦もガンバレと「おっと合点承知之助」。
6月15日(土) 男は大胆で女は小心という類型的な云い方は全く意味がないことは与謝野晶子の歌をよむと分かる。生涯で3万首とも5万首ともいわれる歌を残した与謝野晶子(1878-1942,大阪・堺生まれ)は実に5男6女を産み育てた(6男は死亡)肝っ玉母さんであるが、何と云っても時代を超越した大胆な歌がすごい。あらためて自分でその歌に触れると今更さがら感動する。晶子が与謝野鉄幹と21歳で結婚した1901年の歌集「みだれ髪」よりかの有名な歌:「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」・・道学者など真っ青という感じ。更に、3年後の1904年のこれまた有名な反戦歌:「ああ弟よ、君を泣く、君死にたまふことなかれ、末に生まれし君なれば、親のなさけはまさりしも、親は刃をにぎらせて、人を殺せとおしえしや、人を殺して死ねよとて、二十四までそだてしや」・・明治37年にこんな歌を発表する勇気、胆力!1921年の歌集「太陽と薔薇」の巻頭歌:「凋落も、春の盛りのあることも、教えぬものの中にあらまし」・・これなど随分とおとなしく感じられるがしばしその意味を考えてしまう。
6月16日(日) 親戚のお宅でワールドカップ(決勝トーナメント)のTVを見ていて遅くなってしまった。韓国でのスペインーアイルランド戦は延長戦前半が終わってもまだ決着が付かない。その間、お酒でいい気持ちになって半分眠りながら見ていたのが、ようやく目が覚め、後半戦にはいったところで帰途につく。PK戦でスペインが勝った結果は車内のラジオできいた。家に着いたのは11時30分過ぎ。留守番のアール(コーギー犬)はお腹をすかして待っていた。・・今日の日曜日もよく動いた。日記帳には沢山書く項目がありそうだ。コラムの話題はワールドカップだが充実感ある「父の日」だった。
6月17日(月) 馴れ親しんだ古い童謡の歌詞を,あらためて文章でみるとドキッとすることがある。野口雨情作詞の赤い靴。「赤い靴はいていた女の子 異人さんに連れられていっちゃった、横浜の波止場から船に乗って 異人さんに連れられていっちゃった・・」 大好きなメロデイーであるが、この歌詞の不思議なシチュエーションは際限なく想像を駆り立てる。雨情にはこうした歌詞がよくある。もう一つ、「十五夜お月さん 妹は 田舎へもられてゆきました、十五夜お月さん かかさんに も一度私は会いたいな・・」 別の意味で今はなかなかできない発想の歌詞もある。久保田宵二の作詞:「山寺の和尚さんは 毬は蹴りたし毬はなし 猫をカン袋に押し込んでポンと蹴りゃニャンとなく・・、入り婿の旦那さん 酒は飲みたし酒はなし 渋茶徳利に詰め込んでグッと飲んでペッとはく・・」 動物虐待だとか汚いとか云わずに楽しい歌詞だし、子供に迎合していないところがいい。・・なんとなく浮き世離れをしてみたくて「童謡」の話を書いてしまった。現実に戻るとワールドカップは、決勝リーグの好試合、ブラジルーベルギー戦の真っ最中。まだ結果は分からない。
6月18日(火) ワールドカップ決勝リーグ、ベスト8進出をかけた日本ートルコ戦は0−1で敗れてしまった。残念無念。負けたのでサッカーの話題は止めにして、「今日の作品」に陶芸設計図という訳の分からぬものを入れて気分転換とした。同時に「陶芸コーナー」を新設した。「自在一輪挿し」とタイトルを付けたのは上、下、横どの位置にも一輪の花を生けることができ(水室はそれぞれを独立させる)、もう一リング同型のものが縦横自在に配列できる構造としたものだ。(説明では分かり難い。陶芸コーナーに立体の絵を入れたので参照方)初めにデザインをこうして紙に書いてみると次々に別のアイデイアが浮かぶことも多い。頭の中にあるものを目で見えるように表現するのは自分の考えを別の視点でみるのに有効だ。それにしても、設計図はいくらでもできる。現物がどのように出来上がるかが問題で、やはり作るのが楽しい。作りながら構想した図面とどんどん違うものになっていくのがまた面白い。こんな勝手なことを云えるのが自由陶芸のいいところだろう・・。
6月19日(水) 肉体的に疲れ切った時には名文でも書き写して元気を取り戻したい。「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし」(お馴染み、方丈記=鴨長明=より、1212年作、源実朝の時代)平家物語の「盛者必衰」と共に、無常観文学の双璧だけあり、何度読んでも気持ちがいい名調子だ。変化の時代といわれながら、今の世の中、なかなか流れは変わったようには見えない。けれども、こんな見事な文章に出会うと、変化に気がつかないのは自分が見ていないだけだと教えられる。「もとの水にあらず」の通り、同じに見えても内容は違っている。人がやることも全てに同じではないそれぞれの意義があるとも云えそうだ。
6月20日(木) 信心があるかないかは別にして、宗教には人類の知恵が凝縮している。他人にどう接するかについても宗教はそれぞれの教えを説く。イスラム教では、喜捨(ザカート)として「持っている人が出し、持っていない人が受け取る」という単純な原則。キリスト教では「隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ10-27)、「あなたのして欲しいように隣人にもしなさい」と教える。では仏教はなんだろう。「因果応報」という大枠では隣人、他人にしたことが自身にも報われると見ることができるだろうか。仏教では利己心や執着心といった「煩悩の魔」を修行により自己改造する(自己のとらわれからの解放)という側面が大きいので自らの解脱の問題になるのだろう。現代的な感覚では単に自己の中に閉じこもる修行=我慢という構図ではなく、積極的な他人への奉仕の思想が仏教にもあってもいいと思われるが、まだ解釈不足かも知れない・・。
6月21日(木) 日本人が情緒ある響きとして聞く鈴虫や蝉の鳴き声が西欧人にはただうるさい騒音に聞こえるそうだ。騒音はゼロであることが望ましいが、機械の音を含めて音のレベルが余りに低すぎるのは必ずしもよくはない。例えば自転車は音もなく背後から近づいてくるので危険を感じるし、そうかといって、そこのけそこのけとベルを鳴らされるのも嫌なもの。自転車に爽やかな運転音ができればいいのにと思う。また、最近は大抵、カラスの鳴き声で朝目を覚ます。(以前は可愛らしい小鳥の鳴き声だった!)その後、ゴミ収集車か新聞配達のバイクの音が続く。うるさいと感じることもあるが、もし一切の音がしなければ朝の時間が分からなくなる。適度の生活音はむしろ好ましい。無響音室の中で全く音のない状態に置かれた人は決して休まらないのに、川のせせらぎの音や波の音を聴いていると落ち着くというのは非常に象徴的だ。
6月22日(土) 手紙を「拝見」したり、プレゼントを「いただく」など適度な謙譲語は言葉として気持ちがいいものだ。けれども、現代の感覚では過度の謙遜に思える表現は何かおかしい。使わずに死語としてもいいのでないかとも思う。例えば、豚児・愚息・愚妻など。身内の人間を、「拙宅」とか「粗品」と同じように品物扱いにして謙遜の情を表すのは、私などは逆に使う方が何様と思っているのだろうという感じを持つ。まあ、こんなことは、使わなければすたれるもので、自然にまかせればいいことかも知れない。「小生」の「駄文」として読み流していただこう。
本日のニュースはワールドカップ・決勝トーナメントで韓国がスペインをPK戦の末に勝利し、ベスト4に進出したこと。これで日韓関係にもいい影響がでれば万々歳。本当にうれしいことがあると周囲にも嬉しさを分かち合いたくなるものだから・・。

6月23日(日) 「高砂や、この浦舟に帆をあげて、月もろともに出潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住之江に着きにけり」(謡曲)。「・・たとえ預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも・・愛がなければ無に等しい。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、高ぶらない。不義を喜ばず真実を喜ぶ。・・愛は決して滅びない。」(コリントの信徒への手紙13) ・・以上、結婚式の定番を挙げた。今日は息子の結婚式&披露宴。我が家の行事が一つ終わった。思ったより、疲れない、うれしい、清々しい。出席者のお陰さまであることには間違いがない。感謝。
6月24日(月) ある日、朝起きたときに「神は必要なのだ」と閃いた。特定の宗教の神というのでなく、人間を越えた絶対者としての神のイメージでの話である。なぜ、そのようなことを意識したのか定かではないが、人がしばしば歳とともに強情になったり、ただ歳をとっているだけで威張る理由を考えていたのかも知れない。年齢がいくつになっても、どのような地位にあっても、どれほどの金持ちや名人であったとしても、絶対的なものに対して謙虚になるために「神」が必要なのではないかと思いついた。所詮人間は「未完成」「未熟」であることを教えるのが「神」ではないか。未完成であるから目標をもって生きることができる。自分が完成したと思えば人は終わりだ。
6月25日(火) 切り花は直ぐに萎えてしまう。いや、切り花だけでなく花は全て盛りは短い。花の命は短く、美しさは長く続くことがないことを知っているからこそ、花がより愛おしく思える。最近は生花を何ヶ月も枯れなくする技術もできてきたようであるが、長い間、同じ花が飾ってないところがいいのだろう。「今日の作品」に「飾り花」を入れた。息子の結婚式でウェルカムボードに付けられた飾り花をそのまま描いたもの。ウェルカムボードは私が作った。何種類かのウェルカムボードを作ったが結局ウェルカムボードとして描いた絵ではない以前の絵を使った。花を描くときも、朽ちゆく前にその姿を留めたいという気持ちが心の底にはあるようだ。
ワールドカップは準決勝、韓国ードイツ戦の真っ最中。心情的にはドイツとも親しく、両方を応援している・・。

6月26日(水) この度のワールドカップで、どの日本選手も「ガンバリマス」などと云わなかったし、マスコミもガンバレ、頑張れなどと騒がなかったのが印象強い。若者はこんな変な言葉をもう使わなくなったか。私も最近はテニスのプレー最中にガンバレと云われれたとたんにやる気をなくす。ガンバレは命令言葉に聞こえて、本当の励ましや、褒め言葉にはならない。「ガンバレ」は今から66年前(1936年)のベルリンオリンピックでアナウサーが絶叫した「前畑ガンバレ」(200mの勝負の間に23回?ガンバレを連呼した)で、スポーツの応援言葉の定番になった。前畑は女子200m平泳ぎで一位という快挙を達成したが「ガンバレ」の応援が聞こえた訳ではない。大体、周りの傍観者が、厳しい鍛錬の末に精神を集中して戦いに臨もうとしている本人に対して、「ガンバレ」(命令形)など失礼であり余計なお世話以外の何ものでもない。サッカーを見ていると「ガンバレ」がなく、スポーツの応援も進化しているようにみえてうれしい。 今晩はブラジルートルコの準決勝。頑張りなど当然の好試合が見られるだろう。
6月27日(木) 毎日雨が降り続く。梅雨と思えば雨に濡れた庭木もまた情緒があるけれども、そろそろ太陽が恋しくなる。「つゆ」とか「梅雨」という言葉の語原を例によってインターネットで調べてみると、丁寧に解説されているサイトを見つけた。(ここ、このサイトは、鈴木健次氏の「万葉集から人類祖語に迫る前人未踏の言語学 」というHPの中にあるもので、他の言語の説明もユニークで非常に面白い。こうした独自の”言語学”に接することができるので、internetはありがたい) 語原はともかくとして、梅雨は恵みの雨であり、もしこのシーズンに雨が降らなければ農作物や水資源をはじめ生活全般にとっての一大事となることは云うまでもない。降り続く雨をみながら、これだけの水量を人工的に木々に水やりするとすればどれだけの経費がかかるか考えることもある。それでも長雨が続くと太陽が恋しいなどというから、人間は勝手なものだ。それなら、梅雨明けはまだ先にして、せめて今度の日曜日には梅雨にお休みいただくというのはどうだろう。ワールドカップ・サッカーの決勝戦(ドイツーブラジル戦)は梅雨の晴れ間としたい・・。
6月28日(金) 今日は空気の話。「空気のような・・」というと、実は大変貴重な存在であっても、普段は存在していることが当たり前で、存在自体さえ気にしない状況を云うのだろう。魚が水の中に棲むように、人間は意識はしていないが空気という窒素78%,酸素21%ほかの気体の中で生活している。空気の役割の中でも「音を伝える」媒体としての空気は興味深い。人がお互いに言葉を交わすのも空気という媒体を通して音波が伝搬するからできる。ワールドカップに合わせて横浜で世界の3大テナー(ドミンゴ、パヴァロッテイ、カレーラス)の美声を聞けるのも空気があるからだ。音速は約340m/s(時速=約1200km/h)であるから、仮に100mも離れているところでパヴァロッテイの肉声をきくことができるとすれば、実際の発声の0.3秒後に聞いていることになる。そんなことはどうでもいいが、飛行機が音速で飛ぶと音の波は重大な意味を持つ。普通の旅客機は900km/h程度の速度で飛ぶので、自分で出す音より少し遅い速度で音を追っかけている。これが音速に近くなるに連れて、空気の波は飛行機の速度に追われて圧縮される。音速に達した瞬間にはドカーンと衝撃波という大音響を発生させる。音速を超すか越さないかで、空気中を飛行する条件が大きく異なる。音より速く進む飛行機の形体もそれに合わせなければならない。コンコルドという旅客機がマッハ2という超音速で飛行しているのは、あらためてもの凄いことだと思う。一秒間に700m飛行する体験を多くの旅客は「空気のように」感じているのだろうか・・。
6月29日(土) あらゆる材料は伸びたり縮んだりする。引っぱられると伸びる性質を延性というが、例えば鉄鋼材料は延性が大きい(ガラスや陶器などと比べて)ので使い易い。ゴムを考えると分かりやすいが、ある限度までは(弾性限という)伸ばそうとする力がなくなると元の寸法に復帰するが、限度を超すと力を抜いても初めの寸法にはならない。永久ひずみが残り、初めより少し伸びた長い寸法が新たな原寸法となる。ところが、延性があるといっても、更に極限(破壊点)を超すまで伸ばされると材料は破断する。・・人間を材料の一種とするつもりはないが、人間も余りにやさしい、楽なことの繰り返しでは伸びないと思える。自分には少し難しいと思うものに挑戦すると、前と違った大きくなった自分になる。幼児を見ていると無意識で常に自分の限度より少し難しいことを試み、一度クリアするとそれができて当たり前で次のことに挑戦しているように見える。今までの限界を少しオーバーして難題に挑むことにより進歩し、大きくなるのは、大人でも同じでないかと思う。(人間の場合、限界は次々に上昇する)ただ、一気に余りにハードルの高い無理難題に挑んで挫折(破壊)してしまっては意味がない。ポイントは、自分自身の限度を見極めて、適度に難しい課題を課すことであるようだ。
6月30日(日) 今日は6月最後の日、そして日曜日。個人的なスケジュールでは遅くても6月中には全て片付く予定であったものが山ほど持ち越してしまった。思い通りにいかないことばかりであるが、ワールドカップは予定通り、今日が最終戦。今夜8時からのブラジルードイツの決勝戦を待ちわびている。開会前にはそれ程関心もなかったがすっかりお祭り気分にさせられたのも、大会が大成功であった証拠だろう。審判問題などはサッカーにつきものだ。サッカーが始まる時間は、ブラジル本国では日曜日の朝、ドイツは午後。日曜日に観戦できるとはスケジュールの設定がうまい。世界中が今日の日曜日、日本に目を向け、楽しむことだろう。今は、6月30日(日)日本時間午後6時44分30秒。いつもはアール(コーギー犬)の散歩は9時過ぎにでかけるのだが、サッカーのスタート8時を考えて今からワンちゃんとお散歩だ。

 

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