これまでの「今日のコラム」(2002年 7月分)

7月1日(月) 「覆水盆に返らず」とう言葉があるが、絶対に元に戻らない変化を、うっかりすると見過ごしてしまうことがある。こぼれた水ならば器に新しく水を汲めばいい。また、温度は高い方から低い方へ移動し、水も低きに流れるという物理法則に対して、新たなエネルギーを投入すれば、暖房で温度を暖めることもできるし、ポンプを使い水を高い位置の貯水槽に揚げることもできる。絶対に元に戻らないものというと「時間」であろう。時間はどのようにしても戻せない。一度過ぎ去った瞬間は二度と戻ってこない。宇宙が始まって以来、時間は蓄積され常に増大する一方だ。(時間と同じような概念で、「エントロピー」という概念がある。エントロピーは常に増大するという熱力学の法則があり、温度は常に低い方に移ることなども説明される)悠久の時間の流れを考えると、私たちはほんの瞬間を生を受けているようなものでもあるが、それだからこそ個々人の生きる時間は貴重だ。時間は全ての人に平等に与えられるが、時間の使い方は個々人で異なる。自分のために時間が使えれば幸運だが、他人のために時間を使うとしても、それはすばらしいことだ。貯めることも、戻すこともできない時間のことを時々思いだしたい。

7月2日(火) 我が家の紫陽花はすっかり花が落ちてしまった。相変わらずの梅雨空をながめながら、紫陽花のいい俳句がないかと思ってインターネットで検索してみたら、先ずは芭蕉の作がでてきた:「紫陽花や帷子時の薄浅黄(うすあさぎ)」。帷子(かたびら)は麻のひとえもので、夏の衣替えの季節感があるのだろうが、現代ではいかにもピンと来ない。好きな蕪村や一茶の「紫陽花」は見つけられなかった。俳句というのも絵と同じで好みが分かれるのだろう。私は伝統俳句もいいものはいいが、やはり今の時代の視点がはっきり出ているものに親しみを覚える。現代の人が詠んだいくつかの作をみていて、どうも自分の本性として子供っぽいのに目がいってしまうようだ。無断転載をお許しいただいて好きな句を一作:「紫陽花に でんでんむしむし かたつむり」(きのこさんの息子さん作)
7月3日(水) 私の生まれは山羊座。以前から「今日の山羊座の運勢」というe-mailが毎日配布される。運気が10段階で総合運、恋愛運、仕事運、健康運、金運についてポイントが示されるが、運勢には殆ど興味がない。余りにデタラメだからだ。こういうものを本気で気にすることは勿論ないのだけれど、ある時から二日間は全く同じポイントが付けられることが続いている。毎日の運勢が何らか変化していれば、遊びとして今日の運勢を見ようかとも思うが、今日明日は同じというのでは見る気にもならない。恐らくはコンピュータの管理ミスなのだろう。それでも、毎日来るe-mailを見ることがあるのは、「今日はなんの日」とか「今日誕生日の有名人」などの欄があるからかも知れない。ちなみに、今日は「波の日」だそうだ。単に「な(7)み(3)」の語呂合わせ。運勢と同じく知らせてもらっても何も意味がない。吉田兼好が徒然草91段でいいことを云っている:「吉凶は人によりて、日にあらず」
7月4日(木) 今朝の天声人語(朝日)をinternetで読んだ後、新聞の本来のコラムをみたところ、同じ文章ながら画面と新聞紙の感触の違いに驚いた。新聞ではコラム独特の枠と文字で権威あるお説のように思えるのが、internetで読むと隅々まで筆者の魂胆が素通しで見えるような感じだ。更に、internetの情報と新聞のニュース記事を比較すると、新聞の見出しの大きさが異常に目立つ。見出しの大きさというのは新聞社が情報(時に事実)に対して意図的に価値判断をして見出し活字の大小を決めたものだ。(売るために目立たせる意図もあるが)我々は印刷物、特に大新聞には何か権威を感じて、意識せずにその発行者の作為に影響される。ところが、internetのニュースというのは、どの記事も同じ文字の大きさで、ニュース本文だけを読むと新聞の大活字の情報とかなり異なったニュアンスとなる。新聞で大袈裟に書き立てていても、大して重要でないと見なせることも多い。それから、以前、毎日新聞が遺跡発掘者のインチキを暴いて日本の考古学の見直しをさせたような、新聞の大功績もあるが、総じて、新聞には自分以外全てを白けて論評するだけで純粋な理想や自らを律する姿勢・行動力も見られないように思えてならない。(新聞にも色々あるというべきか・・)internetの情報の形体はこれからどんどん変化するだろうが、少なくとも情報の多様性は新聞を凌駕している。・・当分は画面と紙を比較して楽しもう。
7月5日(金) このところ「今日の作品」の更新周期が長くなってしまった。半年前には毎日でも更新できるストックがあったのが、今日は10日も前の絵を掲載したままだ。昨年の10月頃、日記の代わりに毎日スケッチでもいいから何か作品を作り、頻繁に更新することを始めた。その後、陶芸が面白くなったのを契機に、毎日、作品の形を残すことができなくなった上に、絵まで描かなくなってしまった。特に最近は、工事の打合せとか管理仕事の時間が多かったので、忙しい割に掲載できるような自分の成果は何もでてこなかった。絵筆をとるのも一つは習慣だ。一日1時間でも日記をつけるように何かを残す。この初心に返ることが必要なのだろう。有言実行:明日からの「今日の作品」をまた更新しよう・・なんて云って大丈夫だろうか・・。
7月6日(土) 「今日の作品」に「自在一輪挿し」(陶芸)を入れた。この作品は二個の角形の輪を自在に動かすことができる。もう一つ右下に見える別体のブロックは、黒い輪の転倒防止と白い輪を横にした場合のサポートを兼ねるが、単独で門型の飾りにもできる(構造や使用例は「陶芸コーナー」に設計図を掲載)。複雑な構造なので、自分で窯(かま)に入れた。その時二個の輪を接触しないように支点を決めるのも一つの技術だ。数日後に丁度窯から出す時に立ち会ったが、焼き物としてまだ暖かい状態で自分の作品に触れた時には本当に感動した。大成功!と叫びたいような感激は滅多に味わえるものではない。四つの水室に分かれた角形の輪を組み立てる時や、釉薬を付ける際の工夫など全ての苦心した事が完成した焼き物に触れたとたんに嬉しさに変わる。何より100%のオリジナル。世界に二つとない花瓶だと喜んでいる。・・そうは云っても、これも自己満足の作品か。誰も他人には見てもらえない。HPで掲載するチャンスがあって幸せだ・・。
7月7日(日) 「七夕の 逢わぬ心や 雨中天」(芭蕉)・・雨の七夕の時にはこの俳句と思っていたら、東京地方は久しぶりの晴れ間で日中は焼け付くような太陽が顔をみせた。今夜は、織姫と彦星は、「逢わぬ心」どころか、たっぷり逢瀬を楽しめるだろう。
珍しく女声合唱団の演奏会にいった。フォーレの小ミサ曲などと合わせて、金子みすずの詩による童謡歌曲集「ほしとたんぽぽ」(作曲、中田喜直)もあり興味深く聴いた。中田喜直が金子みすずの詩に曲を付けたのも知らなかったし、合唱を聴いたのも初めてだった。正直言って、よく知っている詩が合唱曲として歌われると歌詞がはっきりと聞き取りにくいこともあり、詩は活きていない感じを持ってしまう。金子みすずのような詩は一人の朗読とか歌でも独唱が合うのでないだろうか。詩に作曲するというのは本当に難しいものだと思う。自分ならばどんな曲にするかなど勿論云えないが、大抵は詩に負けてしまうだろう。みすずの詩「星とたんぽぽ」:「青いお空のそこふかく、 海の小石のそのように  夜がくるまでしずんでる、 昼のお星は眼にみえぬ。 見えぬけれどもあるんだよ、 見えぬものでもあるんだよ。散ってすがれたたんぽぽの、 瓦のすきに、だァまって、 春のくるまでかくれてる、 つよいその根は眼にみえぬ。 見えぬけれどもあるんだよ、 見えぬものでもあるんだよ」

7月8日(月) 「 絵というものは不思議なものだ。以前よく見たはずなのに、まるで新しい絵を見るようだ・・」といったのは小林秀雄だが、自分の絵を時間を置いて見直すとどうにも加筆したくてしようがなくなることがしばしばある。「今日の作品」に入れた「鷹幻影(加筆分)」も以前描いた絵に加筆したものだ。前に、このコラムで書いた覚えがあるが、マチスが一枚の絵を完成させるために、20回、30回と描き直した話や、ルオーが売った絵を持ち帰って加筆した逸話には非常に勇気を与えられる。天才達でさえそこまでやっている! 「鷹幻影」は何となく部屋の隅に置いてあったのだが、ある時からこの絵を見るのが嫌になった。そのままでは残したくない衝動は抑えきらずに加筆したものだ。一方で、加筆すると必ずしも前より良くなるかどうか分からないところが絵の面白いところ。最近はどういう訳か、手当たり次第みんな描き直したい・・と思う時期になっている。加筆するにしても新作を描くにしても、誰の迷惑にもならない。自分の好きなようにできるのが一番いい。
<今日はまた陶芸コーナーに「自在一輪挿し」の特別コーナーを作った。このコーナーを見ながら”ひとり悦に入る”> 

7月9日(火) 「今日の作品」に「花2001-2」を入れた。昨日に続き、今日も”加筆”した絵だ。正確には加筆と多少違うのは、この絵は2001年2月に描いたが、ずーと未完のまま放置されていたものを、今回、一応、完成させたところ。まだサインもしていないし、これからまた加筆があるかも知れない。何故、未完成のまま筆が止まってしまったかを思い出してみると、単なる花瓶に生けられた百合などを具象的に描くのでは面白くない、何で自分らしさを出すかなどと考えている内に描けなくなってしまったのだろう。何故、完成させたのかというと、ただ、こだわりを捨てて好きなように仕上げただけだ。そのきっかけで思い当たるのは、陶芸で「自在一輪挿し」という革新的な(自分で云うのはおかしいが・・)作品ができたとたんに、絵の具象を描くことに抵抗がなくなったような気がする。抽象でも具象でも自分流に描くしかないと開き直るきっかけが「焼き物」。一つのことが上手くいくと他もできるように思ってやる気が出るから不思議なものだ。
7月10日(水) 毎日なにかを綴るこのコラムには、何を書いてもいいのだが、たまに途中まで書き進めて止めてしまうことがある。今日のコラムもそんな有様。読み直してみて、説教クサイのが嫌になったのでやめた。どこかの新聞のコラム様とは違うぞ・・と全く別の話題を探す。そうだ、今日は「納豆の日」。7月10日のただの語呂合わせであるようだ。といっても、私はもともと関西の出身で子供の頃は納豆とは無縁だった。東京に移り住んで納豆をはじめて口にしたのは高校生のころだから納豆に特別なこだわりはない。英語では、fermented soybeans、語原は、平安時代に寺の納所(台所)で 大豆を原料に作られたから「納豆」と単純。どうも、納豆に蘊蓄を傾けるにはネタ不足だ。こんなことを書いているうちに、コラム欄が埋まってしまった。こんな日もある。でも、自分にとっては今日一日は充実したとてもいい日だったのだけれど・・・。
7月11日(木)「便利」とは「個人の束縛とか管理」と表裏一体をなすことを覚悟しなければならない。携帯電話ではどこにいても呼び出しを食う。運輸会社の運転手は、以前ならば交通渋滞がなくて早く配達が終われば、ゆっくりお茶でも飲んで息抜きすることもできたが、今は車の位置は全てGPS(Global Positioning System, 地球的測位システム=複数の衛星からの電波を受信 することにより、地球上の自分の位置を知ることができる 装置)で正確に把握されていて、管理センターから直ぐに次の指示がでるだろう。自由が束縛されるのとは意味が違うが、万引き防止用の小型タグも最近のものは格段に進歩してきている。直径0.3mm、長さ4cmの極細の針金状のタグが本の背表紙に埋め込まれたり包装紙に取り付けられたりして、現品の動きが管理される。防犯の面では盗まれた宝石が容器に付属した発信装置によって犯人が捕まったニュースを思い出す。携帯電話でGPS位置情報サービスが受けられるほどに便利になってくると個人の行動も相応に”開示”されるだろう。何よりinternetの便利さに慣れてくると次にはどのような”裏”があるかも考えておく必要がありそうだ。
7月12日(金) 今日は表紙の「作品」を改訂する予定だったが、故あってこれまでの絵を継続とした。何事もなかなか思うようにはいかない。自分一人で何かやる場合には2時間でできるだろうと思っているのが3時間かかることなど時間のズレが顕著にみえる。集中して息抜きをせずにやっても、気がつくと3時間経過などということがしばしばあると、自分ながらにもっと時間が欲しいと思う。世の中、自分だけが一番忙しいから、相手は自分に合わせるべきだと考える人は多い。一般社会では力関係で強い人に時間を奪われる。その時間が世のため、人のために使われるならそれもいいが、必ずしもそうとは限らない。他人の金を奪うと犯罪だが、時は金なりと云いながら、他人の時間はタダと思っている人が何と多いことか。・・そんなことを云いながら、自分が遊ぶ時間は 見つけたようだ。明日から小旅行。二日ばかり、コラムはお休みだ・・。
7月15(月) この週末、土曜、日曜を白樺湖(長野県中部)の山荘に泊めてもらった。義兄が仲間と一緒に30年以上前に購入したという山荘だが周りは木々に覆われており、自分たち以外に人影は全くない場所だ。断続的な雨続きで快晴には恵まれなかったけれども、気分転換には最適だった。キツツキが雨戸に丸い穴をあけるところまでは愛嬌だが、その穴から蜂が入り大きな巣を作ってしまったのには大騒ぎ。コオロギが服の中に入ったり、羊羹に一日で蟻が群がってしまったり、こうしたことが全て非日常で楽しい。都会の生活で忘れていた小動物達との付き合い方を思い出したり、周囲の樹木の一つ一つが珍しく見えたりする。「今日の作品」に掲載した「落葉松(からまつ)」もその場で描いたもの。あるがままに写したペン画だが、素直にこんな絵が描けるところが山のいいところだろう。
7月16日(火) 今朝からニュースといえば日本列島の太平洋側を縦断した台風7号ばかり。東京では午後になると台風一過、晴れ間もみえて蒸し暑くなった。夕方、用事があって渋谷の街に出かけた。荷物を持たなければならないので自転車は使わず、久しぶりに電車と歩き。街はもう台風の余波さえ感じさせない若者で賑わっている。すれ違う若者達に視線をやりながら、日本の天下太平を思う。不景気風など行き交う若者には全く無関係のようにみえる。それでも若者自身はこんな”平穏な”世の中という実感はないのだろう。実は表には見えない制約が山ほどあったり、不満もいっぱいあるだろうが、少なくとも、形だけはみんなと画一でなく、工夫したスタイルで自分を表現している若者も多い。そうだ、この街には何か自由を感じさせるものがある。渋谷の街を歩くときはこうした若者と自由に出会えるのが楽しみでもある。
7月17日(水) このホームページの表紙「Today's Work」には絵とかhandicraft、陶芸作品などを掲載している。けれども、”今日の作品”はそれらに限ったものでなない。例えば天窓の開閉装置を作ったり、ゴミ箱の蓋を作ったり、台所の流し台を改造したり、何らかの作品が毎日蓄積される。作品といっても、ものつくりなどのハードに限らずに広く解釈すれば、誰もがそれぞれの”作品”を残していることだろう。作詞や俳句作り、作曲、作文の部類から、法律作りや政策作り、美味しい料理作り、洋服作り、清潔作り(掃除・洗濯)、人間作り(教育)、お客作り(営業)、合意作り(説得・根回し)、友達作り、技量作り、体力作り、精神作り、役作り、お金作りなどなど。今日どのような作品を残すかを考えると、当たり前の生活の中で、「やり甲斐」がプラスアルファされる。さて、私の場合、作品作りで多いのは=体力作りにエネルギー作り・・休養と充電によるこんな作品もありと思っている・・!?
7月18日(木) 寺田寅彦全集を読みたいと思って本棚を探したけれど見当たらない。本棚の収納スペースが少ないこともあり、どうも他の本と一緒に処分してしまったらしい。寅彦全集は私が高校生の時に祖父から譲り受けた若き日の愛読書だった。祖父は学者として寅彦とも交流があった人で、寅彦の手紙なども見せてもらった覚えがある。寺田寅彦(1878〜1936)といっても今は余り知る人も少ないかもしれないが、「天災は忘れたころに来る」の警句で知られる随筆家でもあった。寺田寅彦記念館には以下のように紹介されている:「その生涯は科学と芸術が渾然一体となった人格の発露であった。 事物の本質を見抜く直感力は、科学において従来の決定論的な枠組みに入りきれない日常現象に法則性を発見する新しい分野を開拓した。 漱石に文学の才能を見いだされた寅彦の随筆は、科学の観察・発見・分析と、詩人の直観・連想・詩情が渾然と融合され、随筆の世界に新しい分野を切り開いた。」 後には、雪の研究者、中谷宇吉郎の随筆も有名だったが、最近は寅彦のような科学者の眼で綴られた文章を知らない。・・寅彦全集は今度図書館で借りることにしよう。
7月19日(金) 久しぶりにコンピュータを教えにでかけた。、PHOTOSHOPや基礎的な手順を復習し、絵はがきの印刷ができないというので調べた。これまでは問題なく印刷できたのに、プリンタが受け付けなかったり、受け付けたと思うとメモリが不足と表示されたり、不可解な反応をする。結果的には自己流にあれこれいじって解決したが、さて、これが原因でこうしたので直りましたというにはいささか自信がない。コンピュータの場合、他人がどのようなソフトをインストールし、何をしたかもわからず、真の原因を特定しなくても結果がよければオーライとする。修理の専門家ならはったりをきかせて、自信たっぷりに原因を説明すると素人はさすが・・と感心するのだが、私など、本当のことを言い過ぎるので逆に相手に不安を覚えさせることもある。メカニックな故障のケースなども、80%はこの原因、20%はこちらの原因の可能性もあるという場合、100%これ!と断定した方が有能とみられたり、信頼されることなどしばしば経験した。相手は真理が知りたいのでなく、安心を求めているだけ。・・政治的な問題など、正にこのようなケースが多いようにみえる。真実を正しく説明されると不安に思う体質を少しづつでもあらためないと、はったりが一番分かり易いことで終始してしまうと思うのだが・・。
7月20日(土) このコラムなどは毎日思いつくままに綴る文章で、厳密に推敲を重ねることはない。それにしても、自分で書いたものを読み直してみると、何か理屈にこだわったり”常識”にとらわれすぎて、自由な発想を抑えすぎていると思うことがある。文字で記録するということは感覚よりも論理を優先させる作業であって非常識な見解をぶつけるには適していない。もし、非常に聞き上手な相手がいて、あるテーマについて「対談」をしたならば、文章にするのとは別の言葉でもっと自由な思索ができそうな気がする。そのまま文章にすると話があれこれ飛んで、一貫していないかも知れないが、ありきたりでない感覚的な議論が可能となるだろう。「感覚的な」議論が意味があるかどうかは、これまた議論のあるところだろうが、飛躍した発想はしばしば感覚的だ。絵画において余りに論理的な絵はおもしろくないのと類似させて、筋道が通らなくてもいいから、感覚的な文章ができないものかと思う。・・いま気がついたのだけれど、「なんとなくクリスタル」なんて正に感覚的文章かな。そうすると著者は従来にない発想ができて、案外に現状打破にはいいのかも。
7月21日(日) 先日、TVをみていたら、佐藤陽子さん(ヴァイオリニスト)が夫の故池田満寿夫さん(私の好きな画家の一人)と結婚した際の話をしていた。二人とも再婚でこれまでの(何度もの)失敗を踏まえて極力一緒の時間を過ごすようにこう誓ったという。@3日以上一緒でない日をつくらぬことA一緒の時は5m以上離れて過ごさないこと。これで思い出したのは、30年も前であるが数ヶ月インドに滞在した時に、2ー3年現地に単身赴任していた先輩が云った言葉だ。彼は、「夫婦といっても元は赤の他人、一緒にいないと他人と同じになるね・・」などと自嘲的に話した。その後会ったいろいろな夫婦を思い起こすとき、二人とも何が悪いというのでないけれど分かれてしまったというカップルは大抵一緒に過ごす時間が余りに少なかったのではないかと思い当たる。勿論、日本的な奇妙な風習の単身赴任でも、離ればなれの二人が涙ぐましい努力でコミュニケーションをとり、絆がより強くなったという例も知ってはいる。逆にそれだけ努力なしには気持ちも離れてしまう可能性もあることか。・・私は今、妻と直線距離でほぼ5mの距離にいる。
7月22日(月) 夕方、サンシャインシテイー(東京・池袋)の10Fにある水族館にいった。娘の子供にペンギンを見せるのが目的だったが、2歳足らずの孫よりも自分の方が楽しんだかも知れない。話には聞いていたけれども、水族館というのは百聞は一見にしかずで、本物を見るとやはり感動的だ。「えい」の泳ぐ姿の見事さ!クラゲがこれ程に美しいとは!どうして頭だけというようなマンボウの形ができるのか!木の葉の形をしたタツノオトシゴの不思議さ!・・そこには人間の想像する世界などをはるかに越えて現実の生命がある。一つ一つが、神の造形物の神秘性を教えてくれる様な気がする。水族館は、子供のためというより、むしろ、若者や忙しいビジネスマンが海の動物たちと静かに面会して、人間以外の生物の神聖さを見つめることができる絶好の場所であるように思える。
7月23日(火) 「今日の作品」に「ランプ(陶芸)」を入れた。一昨日(前の日曜日)に本焼きが出来上がったものであるが、”作品”としては8ヶのブロックを組み立て、中に電球の台または蝋燭台を設置しなければ完成とならない。その意味では「ランプ」としては完全に出来上がっていないが、待ちきれずに「今日の作品」に掲載してしまった。更に完成させたものを後日「陶芸コーナー」に追加していきたい。このランプはアイデイアとしてはこの4月に見学した「光の教会」(安藤忠雄設計)の十字型スリットから触発されたものだ。「今日の作品」に掲載した写真は中に蝋燭をいれて、ブロックを一個外した状態のものなので十字の光は見えていない。撮影が下手で蝋燭の炎が写らなかったのが残念。これからは中に電球を入れる場合に取付台をどうするかなど、完成までのうれしい悩みはつきない。世界に一つしかないものを作る楽しさを存分に味わっている。
7月24日(水) 最近、アールの顔がアンとそっくりになって、思わずアンと声をかけそうになることがある。アンは昨年11月に亡くなった我が家のコーギー犬。アールはアンの娘で我が家の寝室で産まれて以来いつも母親のアンと共にいた。今は毎日、早朝と夜にアールを連れて散歩にいくことが日課になっているし、普段、家にいる時、アールはほとんど私の足下にいる。(今も私の足の甲を枕にして寝ている) アンを思い出したことにより、今では当たり前のこんなアールとの生活が、ほんの一年前にはほとんどアンと一緒の生活で、アールは付け足しのようであったことに気がつく。アールは大抵母親に遠慮して部屋の隅で小さくなって いた。アンがいるときには私たちがアールのことをそれほど気配りをしていなかったのも確かだ。現に、アールのスケッチ作品はほとんどない。(アンの絵はHPに掲載できるほどある・・ここ)これからはもっとアールと一緒に遊んでおこうと今更ながら思い直したのも、アンがそうさせたのかも知れない・・。
7月25日(木) 昨夜は「プルーストの音楽を求めて」というタイトルの室内楽コンサートにいくことができた。(東京の夏・音楽祭2002@紀尾井ホール)プルーストに造詣の深いピアニストのアファナシエフ が 自ら選曲し演奏もする。曲はバッハ、モーツアルト、ベートーベンなど。演奏はピアノ以外にはバイオリン=J.エーネス、チェロ=M.ブルネロ、クラリネット=高橋知巳ほか。アファナシエフについては今や小説家・思索家でもあるピアニストと紹介されているが、以前このコラムでも書いたことがある(2001年10月24日のコラム)のでここでは触れない。先週、たまたま日本人の優れたピアニストである須田真美子さんのコンサートの客席でアファナシエフを見かけたので何となく親しみも覚えて特別な室内楽を満喫した。ただ音楽を楽しみはしたけれど、何故これらの曲や演奏がプルーストなのかは理解を超えている。こんな機会にプルースト(1871-1922, フランスの作家,代表作「失われた時を求めて」は20世紀の芸術全般に大きな影響を及ぼしたとされる)を読んでみようかという気になった。演奏会以外にプルーストの本でも啓示を受けることができるかも知れない。
7月26日(金) 「今日の作品」に前回の続きで「ランプ<続>=陶芸」を入れた。表紙には組立状態でなく、全部品を並べた写真を掲載している。(組立写真は陶芸コーナー参照) 焼き物ブロックの本体は前回出来上がっているので、今回は上下のブロックを接続するためのパーツ、隣のブロックと隙間を保つためのデイスタンスリング、ランプの台(全体の台を兼ねる)など付属部品一式が”作品”だ。上下の接続用パーツはアクリルの棒とアクリルのパイプ(=隙間を保つための役目)を使用、隣同士の隙間設定用のパーツは、ニッケルメッキをしたスチールパイプとアクリルチューブの組合せとした。台はやはりアクリルの板。ランプを5mmの板にボルトで固定して、ボルトの位置以外は10mmの板厚になるようにアクリル板を接着した。このランプは使ってみると思った以上に自由に応用できることが分かった。昼間は単なるオブジェとしても楽しめる。ただし、自由に応用がきき、調整自在ということは問題もあるかも知れない。妻はいわく:このランプはとても他人には渡せないわね。作者しか組み立てられないなんて・・・。
7月27日(土) 「目にうれし 恋君の扇 真白なる」(蕪村) 蕪村の俳句は色彩が豊富だ。今は真夏でも扇子を使うことは少なくなったが、この句などをみると、真っ白な扇(おうぎ)などいかにも夏らしい。「扇」の風流はないが、暑い夏を冷房がないところで運動するのもまた健康法だ。土曜日にはどんなに炎天下であっても半日テニスで汗を流す。くたくたになって帰ってきて、昼食。その後、近所の陶芸教室に行く。不思議なことに土いじりをしている間は、疲れを忘れている。夜になってビールを飲みながら隅田川の花火を(残念ながらTVで)見ていると疲労も回復。今夜もぐっすり眠っていい夢が見られるだろう。「みじか夜や おもひがけなき 夢の告げ」(蕪村)
7月28日(日) 新型の航空機を開発したり、橋梁が強風でどのような影響を受けるかなどを調べる場合、実際のサイズでテストすることができないので、風洞を使って模型実験をする。このように流体の中での挙動を相似模型で試験をすることができるのは、レイノルズ数という数値が大きな役割を果たしている。つまり、レイノルズ数Re=Ud/ν(U=速度、d=直径、ν=粘性係数)で表される数値を同じにとれば巨大な本物でも、小さな模型でも同じ結果を得ることができるという理論により模型の実験ができる。レイノルズ数はまた、慣性力と粘性力の比(Re=慣性力/粘性力)とも表示でき、空気中を飛ぶ鳥も、水中を泳ぐ魚も、サイズが同程度ならばレイノルズ数がほぼ同じになるという研究もある。(体長が同じなら空中を飛ぶものは水中を泳ぐものより15倍早い)・・レイノルズ数を思い出させるのは、このコンピュータでのシミュレーションの発達した時代に、「景気浮揚」というテーマに対する対策と手法が余りに前時代的だからだ。幾多の経済モデルにはレイノルズ数のようなキーとなる数値があるだろうに、どのように景気回復に寄与しているのかよく分からない。そこは、こちらも余りに無知ではある・・。
7月29日(月) 古いがらくたを整理していたら「土鈴」がでてきた。祖父から譲り受けた記憶があるが出所ははっきりしない。子供が小さい頃、居間に飾って置いたところ、子供の友達が帰った後、この土鈴が必ず裏向きになっていたことを思い出す。子供心に土鈴からにらまれるのは怖かったのだろう。「今日の作品」の絵とするために改めてじっくり観察するとなかなか良くできた土鈴だ。ただし、仁王様の顔は、絵を描くためにじっと見つめていても一向に怖くない。土鈴を作った人の意図かどうか分からないが、怒った顔が何か笑っているようにも見えてくる。ゾッとするような恐ろしい顔というのは仁王様の顔にはふさわしくないのかも知れない。とにかくも、土鈴をスケッチして「今日の作品/土鈴」とした。・・「がらくた」といったけれども、今回はこの土鈴は処分しないことにした。
7月30日(火) ある著名な数学者が、若い頃に数学の道に進みたいと親に申し出たところ、商家で繁栄していた親はそんなに数学が好きならば家業を継いで数学者を雇えばいいと云われたという思い出話しを読んだことがある。同じような話はどの分野でもあり、音楽が好きであれば自分で血のにじむような練習と努力をしなくても音楽家を雇えばいい、絵が好きであれば絵描きの絵を買えば安いもの、お金さえあれば野球でもテニスでも存分に世界一流のプレーを見て楽しめる・・。商人の感覚では苦労の割に金銭で報われない”プレーヤー”の道を選ぶのはバカげていることになる。ところが、世の中よくできていて、”プレーヤ”であるからこそ味わえる楽しみや面白さもまた捨てがたい。また、プレーヤにとっての訓練は端から見ると死ぬほどの苦労にみえても、当の本人にとってはうれしい努力かも知れない。商人は商売人としてのプレーを演ずるのであれば、それはそれでいいとして、自らプレーをしなくなると単なる観客か野次馬(評論家とは云わない)となってしまうだろう。いずれにしても私はプレーヤーでありたいと思う。
7月31日(水) オカリナを作ってみて音を出す構造が意外にデリケートであることが分かった。手許に持っている2−3個のオカリナを見よう見まねで吹き口を作ってみたがスースーいうだけで音が出ない。早速にインターネットで「作り方」を検索すると、いくつかのサイトで音を出すポイントを丁寧に教えてくれている。吹き口の寸法から穴の大きさ、音を出すには吹き口の方向に合わせたエッジの削りが一番重要であることなど、インターネットがなければ、ノウハウとか秘密事項としてオープンにされないような事をいとも簡単に知ることができる。本当に便利な世の中になったものだ。その要領で吹き口を作り替えると見事に音がでる。オカリナの音を出す原理を遅まきながら理解すると、当初私が計画していた陶器の共鳴箱型オカリナは成り立たないことに気がついた。これからがオリジナルの工夫が問われる・・。

 

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