これまでの「今日のコラム」(2002年 8月分)

8月1日(木) 昨日のコラムは眠くてどうしようもないところを叱咤激励して「オカリナ」の話を書いた。今日はまだ元気いっぱいなので、また「オカリナ」の続きを書こう。オカリナは楽器としては口笛やリコーダ、尺八と同じように口で吹く気流そのものが音源となる。これに対して気流によってリードが振動して音を発声させるのが、草笛やクラリネット、オーボエ、ハモニカ、チャルメラなど。また、マウスピースを使って唇の振動を音源として気柱を共振させて大きな音をだすのが、トランペットやホルン類。私が秘かに(?)計画しているのは4個の立方体を共鳴箱とする楽器なので、オカリナのように小さな音しかでない音源は全く適していない。結論として「オカリナ」はあきらめて、マウスピース型かリード型に変更することを考えている。それにしても音源から発生した音波が円筒の中を伝わるのでなく4個の四角い容器内を(絞りを介して)伝わるとどうなるか・・これは陶芸でなく楽しい物理実験となりそうだ。

8月2日(金) 東京では今日の夕方4時頃に空が急に暗くなり、続いてもの凄い雷雨に見舞われた。しばらくピカピカ、ゴロゴロやっていたが6時半過ぎに外出しようとすると雨は止んでいた。雨上がりの美しい夕焼けを見ながら、ライブのコンサート会場に歩いていく。ホームページが縁でバンドのライブに妻と招待されたのだ。ハイエロファントというバンドのワンマンライブだったが、強烈なエレキ音のライブは新しいもの好きの私に十分刺激を与えてくれた。耳から聞く音でなく肌に突き刺さる音圧を感じる。この音のシャワーは若者のためだけでなく年寄りのボケ防止に有効でないかと余計なことまで考える。演奏についてグレイと比べてどうとかいう材料もないのが残念。観客の若者がもっと”燃える”かと思ったら意外に行儀のいいのにまた驚いた。それにしても、インターネットは情報収集が容易になるだけでなく、こうした交流により全く新しい世界が広がるのがうれしい。
<ところが、このインターネットが落雷のためか接続不能となってしまった。このコラムも何時掲載できるか分からない・・>

8月4日(日) 一昨日(金曜日)の雷雨の後、インターネットが不通となった。今日の日曜日にケーブルTVのサービスの人が来宅しケーブルモデムを交換して、ようやく復旧。サービスマンは雷で破損したモデムの交換に昨日だけで100件以上対応し、今日また休みなしに巡回サービス中という。我が家では雷来襲の時にそれぞれのパソコンの電源は切ったもののモデムまで手が廻らなかった。インターネットが接続できない、メールも見られない、出せないとなると、これらが我が家でも随分生活に密着していたものと改めて気がつくこととなった。第一、新聞も止めているので、ネットの記事も見られない、辞書代わりの検索もできない、毎日の習慣であるメールチェックもできない。このHPのコラムを書かないで済むのは楽だけれども、何かいつもと違う手持ち無沙汰。・・その結果、家庭内サービス(道楽かな?)でスリッパに絵付けをしたものを「今日の作品」にいれた。半年が命のスリッパに絵を描くのもキャンバスに絵を描くのも心意気としては何も変わらないものだとやってみて初めて分かった。このスリッパ作品は雷様の御陰、インターネットの不通も時にはいいのかも知れない・・。
8月5日(月) 行動する場合のフットワークが軽いか否かで年齢が計られるという。とかく年寄りはできない理由を並べ立て行動に移らない。別にそれを意識したわけではないが、このコラムで7月18日に寺田寅彦を、7月25日にプルーストを読みたいと書いた手前、数日前に図書館から両方とも本を借りてきている。有言実行。ここまでは行動が早かったのだが、その後、読了するまでが問題だろう。寅彦は「日本近代文学大系」の一冊、プルーストの「失われた時を求めて」は有名な大著。十冊以上の分冊もあったが、分厚い上下巻に分かれた上巻だけを借りた。 寅彦は昔読んだことがあるので懐かしく読み返している。けれども、あの寅彦が20歳で15歳の妻と結婚していることなど、寅彦の生涯については何も知らなかった。その妻は20歳で病死し寅彦は後に再婚しているが、エリート科学者でまた文学者でもあった寅彦の人間的な側面がかいま見られるところでもある。私の歳には何をしていただろうと年譜をみると、・・そう58歳で既に鬼籍に入っている。寅彦の初期(23歳)の作を一つ引用しよう:「神について」/「God を逆さにすれば Dogだ」。・・<私ならこうする:「犬について」/「Dogをひっくり返せば Godだ」>
8月6日(火) 声をだして読む本が評判で、最近は続編も発刊されている。(「声に出して読みたい日本語」・齋藤孝著・草思社)私もこの本のファンの一人だが、古事記や万葉集から、早口言葉、歌舞伎のセリフ、北原白秋、金子みすずの詩にいたるまで、暗唱・朗誦するために編集されたという「日本語」が並んでいる。実際に声を出して読んでみると、言葉がこんなにリズムがあり情感があるものかと自分で名調子に酔いそうになるものばかり。前に速読を学んだことがあるが、速読の対極として「声を出して読む」心地よさがとてもよく分かる。ファーストフードに対してスローフード、使い捨てに対してリサイクル。あるいは、営利一本槍企業に対して非営利団体といった時代の要請が言葉にも及んだかと思わせるところもある。速読の後には、こんな言葉を大声で読んでみると疲れも吹き飛んでしまう:「・・夏はよる。月の頃はさらなり、やみもなお、ほたるの多く飛びちがいたる。また、ただひとつふたつなど、ほのかにうちひかりて行くもおかし。雨など降るもおかし。・・(枕草子)」
8月7日(水) 気温が体温より高い38度となった地方のニュースがあった。東京でも昨日36度、今日も35度と暑い日が続く。暑い暑いと愚痴をいっても何も涼しくはならない。炎天下にコンクリートの道路を歩きながら、”夏は暑いに限る”と無理に暑さを気にしないように努めてみる。丁度、蝉がわずかな残り少ない命を謳歌して鳴き続けるように、夏の盛りもあと半月。せいぜい今の内に太陽を楽しもうとやせ我慢の論理。昔の人は「心頭滅却すれば 火もまた涼し」、夏の暑さなど問題にしないと、精神面で暑さを感じないように努めた。「心頭滅却すれば・・」の言葉は、織田信長が武田信玄の菩提寺である甲斐の恵林寺を焼き討ちにした時の逸話からとされる。100名以上の僧侶達が寺に押し込められて火を放たれた際、寺の住職の快川(かいせん)禅師が”心頭滅却すれば火も自ずから涼し”と唱えて炎の中に消えた。全員がまた取り乱すことなくこれに続いたという。・・まあ、その気になれば、夏の暑さなど天然サウナと思えばまた心地よしか・・?
8月8日(木) 「今日の作品」にスリッパ絵ばかり毎日入れ替えていたら飽きてしまった。今日は目先を変えたくて「花」の絵を入れた。これは新作ではない。裏をみると1998-11月とある。これまでgalleryにも掲載していないけれど自分では上手く描こうと思っているところが微塵もないのが好きだ。妻は枯れかかった花ばかり描くといって嫌がる。もう15年以上前になるが、「烏瓜(カラスウリ)」油絵を買った。(この時には自分で絵を描くことなど考えてもいなかった。)これが後にも先にも自分でお金を出して買った唯一のものだが、居間に飾ってあったこの絵を見た知人から「家には烏瓜がはびこって始末に困るのよ」と云われたことがある。見る人によって絵は観賞すべき対象でなく生活の対象物となる。「花」の絵を久しぶりに眺めてみて、最近は”無心さ”が足りないのでないかと思えてきた。無心のなかに燃えるようなエネルギーの入った絵を描いてみたい・・。
8月9日(金) 使いもしないものをいつまでも持っているので部屋が片づかない。「一茶俳句百句」というカセットテープ全5巻(幼児教育用)を処分しようと中を開けてみると、これがなかなか面白い。大体このテープを子供に聞かせた覚えは全くないのがひどいものだ。あらためて一茶の俳句百選をみると今の自分には楽しめる句ばかりが並んでいる。夏の句を少し挙げてみよう。「わんぱくや 縛られながら 呼ぶ蛍」 「手に足に おきどころなき 暑さかな」 「暑き夜や 子に踏ませたる 足のうら」 「朝顔の 数えるほどに なりにけり」(朝顔は秋の季語だとか、ただ実感としては夏)。どれもが一茶の視線や情感が素直に伝わってくる。誰でも知っている「やせ蛙 負けるな一茶 これにあり」なども他の誰も詠めないすばらしい句と思えるようになった。・・こんなにいいテープを捨てるわけにはいかないので、娘の子供用にプレゼントすることにしたい。ただ、考えてみると今時カセットテープの再生装置を持っているかどうかが分からない・・。
8月10日(土) デパートでアクリルの板に直接絵を描いて、それを裏返しにして見る絵の販売と実演をやっていた。直ぐに影響されて自分でアクリル板に描いてみたのが「今日の作品」/魚。250mm幅、2mm厚さのアクリル板が手元に有ったところが工作好きの自分らしいなどと自慢して・・。初め戸惑ってしまったのは一度絵の具が付いた箇所はその上に上塗りしても意味がないこと。いつもの絵を描く調子で上塗りをして感じをだすことができない。板上におく絵の具が一発勝負なので、図案的な模様が適しているのは作品を描いてみて分かった。「作品」のブルーのところは一面に色紙を重ねたもの。このブルーの色を変えたり、紙に模様をつけると色々な種類のバック(背景)ができる。毎日バックを入れ替えれば雰囲気の変わった「作品」をしばらく続けられるという魂胆。これはまるでパソコンの画像処理の感覚だ。サインは反対文字をそれらしく綴った。
8月11日(日) 我が家のコーギー犬アールは5歳9ヶ月になるが、産まれてから5歳まで母親のアンと片時も離れたことがなかった。何をするにしてもアンが第一。アールは元気にはしゃぐけれども寝るときなどは隅っこに小さくなっていた。昨年の11月に親のアンが急逝して以来、この9ヶ月でアールはたくましく変身した。はじめはアンのいない散歩に行くことさえ戸惑っていたが今は散歩先で他の犬たちとも対等につき合える。自分で先頭になり散歩の道を選ぶ。飼い主にべったりくっついていることも覚えたし、大人の犬らしく落ち着きまで感じられるようになった。そうすると顔つきが親のアンに似てくるところが面白い。アンが亡くなったのは残念至極だが、アールにとっては親離れの転機となった。これから先にアールが更にどう変わるのか楽しみにみていたい。
8月12日(月) 今日は夜8時過ぎにアール(我が家のコーギー犬)と散歩に出かけた。残暑ではあるが夜風が気持ちいい。まず細道でアールが出すべき物をだしてしまった後しばらく歩き、東横線・代官山駅の真上を陸橋で渡って、代官山アドレスに入る。アドレスの小広場で手をつないだ老夫婦に出会った。八幡通りにでて信号を待っていると今度は若いカップルがアールのことを可愛がってくれた。女の子はアールに顔をなめられても平気だった。細い路地を経由してヒルサイドテラスF棟の脇道に出る。旧山手通りを西郷山方面にしばらく歩き、信号を渡ってUターンする。旧山手通りの交通がいつもより格段に少ないのはお盆休みのせいだろうか。ただ、この時間でも歩道を走る自転車には気をつけなければならない。途中、オープンカフェ、ミケランジェロの前を通る。めずらしく屋外のテラスに人はいなかった。皆冷房のきいた室内にいるようだ。ヒルサイドテラスD棟の猿楽神社には毎朝お参りするが、夜はそのまま通り過ぎる。この辺りからはアールが先頭になって弱い下り坂を急ぎ足で下りる。最後にコンビニで用事を済ますまで5分間ほどアールをコンビニの入口で待たせた。今夜の東京の空は厚い雲に覆われている。明日の未明にかけて見られるというペルセウス座流星群も東京では望み薄のようだ。
8月13日(火) 新宿・高島屋の10Fに鼎泰豊(デイン・タイ・フォン)という中華レストランがある。高島屋に隣接した東急ハンズに用事があり、昼食をとりたいと思いそこに寄ってみた。以前、台湾の台北で「鼎泰豊」に連れて行ってもらいとても美味しく食べた思い出がある。東京の新宿に出店があるときいたので、その後、機会がある度に高島屋の10Fをのぞくのだが、どんな日でもどんな時間でも1−2時間の待ち時間は当たり前で、これまで一度も入ったことがない。お盆休みの今日、高島屋のデパートはガラガラ。こんな日はチャンスということで、鼎泰豊にいくとそこだけはやはり行列ができていた。それでも20分程度待ってはじめて中に入ることができた。「'93ニューヨークタイムス紙で世界10大レストランに選ばれた”鼎泰豊”」(店の宣伝)で、肉汁スープたっぷりの小籠包にありつけたのは幸運というべきか。味と価格の両方で評価をすればお奨めなのだろうが、待ち時間のコストがゼロである人でないと合わない。食事を終わって店を出るときには「60分待ち」の看板がでていた。
8月14日(水) 「春高楼の 花の宴  めぐる盃 かげさして 千代の松が枝 分けいでし  むかしの光 いまいずこ 」・・日本歌曲の第1号ともいわれる「荒城の月」。冒頭の作詞は土井晩翠、作曲は滝廉太郎だが、最近意外なことを知った。土井晩翠(1871-1952)は81歳の長寿を全うしたが、滝廉太郎(1879-1903)は23歳の若さで早逝し、「荒城の月」は廉太郎22歳の作品という。自分がよく知っている歴史に残る作品を作り上げた人が想像外に若く世を去っている事例を知るたびにある種複雑な心境になる。私はその倍以上もこの世にいる・・。今日、もう一人早逝した人を知った。「来年の今月今夜になったらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が・・月が・・月が曇ったらば、宮さん、寛一が何処かでお前を恨んで、今夜のように泣いていると思ってくれ。」(金色夜叉)・・作家、尾崎紅葉は35歳で亡くなったという。
8月15日(木) 終戦記念日。私の戦争の思い出といえば、防空壕の屋根が間に合わずに畳を屋根代わりにする騒ぎや日本が勝つといっていた祖母の姿などあやふやな記憶以外は、全て敗戦後の記憶しかない。終戦の日はまだ5歳足らず。無理もないが戦中、戦後の境目は全く知らない。いつの間にか、焼夷弾の殻あそび、進駐軍のチョコレートなどお決まりの敗戦体験。貧しかったが暗さはなかった。勤め人時代は広島県の呉に関係があったので幼児期に広島駅で原爆にあったとか原爆手帳を所持している同僚が多いので驚いたこともある。実体験として語ることができるものは少ないが、あらためて太平洋戦争をみると、日本の戦死者180万人余(内、民間人67万人)、米国および連合軍兵士戦死者26万人余。実にこの数値を見直すだけでもこの記念日の意味になろうか。
「今日の作品」に「瓶」を入れた。今日はじめて掲載したが1998年に描いたノーサインもの。昨日までの「魚」が派手すぎるので今日の日には落ち着いた絵に入れ替えたくて古い作品を持ってきた。

8月16日(金) 「形式主義=内容はともかく外形だけは型にはまっていなければならないとする考え」(新明解) 。私は形式的なものは嫌いだが、世の中には形式を金科玉条として尊重する人は案外に多い。特に自分の実践してきたやり方や考え方に凝り固まって柔軟性がない年寄りに遭遇することが多くなったのは自分の歳のせいだろうか。極めて限られた狭い範囲の経験を全体験と勘違いし、深く考察することもなく自分の思いに固執するのは歳をとった証拠と考えている。いい意味の信念とフレキシビリテイ(柔軟性)は並立する。歳をとればとるほど考え方は柔軟でなければならないと思っている。形式主義は未熟もの。”大人”になれば「内容主義」。「人のためになっているのか」の内容でほぼ全ての判断基準ができると思う。
8月17日(土) 今日も朝の7時45分に自転車でテニス場に向かった。自転車はもうすっかり日常の必需品となっている。丁度1年前の8月中旬にこの自転車を購入した。一年前のこのコラムには新しい自転車のことばかり書いているのがご愛敬。以前はテニスの行き帰りだけで往復交通費が540円かかった。東横線の電車が一駅分で110円、渋谷から地下鉄で160円というルートの往復料金だ。一年間52週として週一回のテニス往復だけで、540*52=28080円の節約。自転車のメンテナンス費は今のところゼロで、自転車の購入費用は何ヶ月も前に償却済みの計算となる。交通費だけでなく、所要時間は電車の待ち時間を入れると 自転車の方が5−10分早い。しかも自転車の気分が 最高で身体の運動にもよいとなると云うことがない。自転車の事故の確率が高い?それは確かかもしれないが、事故のないように注意し先を予測しながらスマートに(ぶっ飛ばして、かつ安全に)自転車を走らせるのはまた特別な爽快感がある。最近の認識では中でも一番注意すべきは無法な自転車。これからの新たな2年目を安全運転でいこう。
8月18日(日) NHKの今晩の番組で「苦悩する”家電の巨人”−松下電器再生への模索ー」が放映されるという予告をみて感慨深い。(番組はどんな内容かまだみていない)松下電器グループ300余社は昨年度の連結決算で4300億円という巨額の赤字を計上し話題となった。番組は、グループで売り上げ高7兆円、従業員30万人といわれるこの松下をレポートしたものだろう。(2002年第1四半期には売り上げ1兆7565億円、営業利益146億円で復調の兆し?)一昔前であるが「松下」には 有名な話が知られていた。それは2番手商法といわれ、巨額の開発費をかけて他社にない新製品の開発などはしない。その代わり、他社がいいものを開発したら直ぐにそれを改良し大量生産で安く提供をするという松下方式だ。「マツシタ」でなく「マネシタ」だと揶揄された。当時はさすがに商売のうまい松下とある意味で感心をされたものだが、私などはそんな松下で働くエンジニアは不幸だろうと思った。世の中にない新製品を作り上げるソニーの方がはるかに魅力的にみえたものだ。松下得意の販売店をいくら拡張しても商品に魅力がないと売れない。エンジニアに本当に夢を与える企業が生き残るといいたい。現実はそれほど単純でもないかもしれないが、マネシタが一番稼ぐというのは許したくない。
8月19日(月) 「今日の作品」にパステル画の「瓶」を入れた。久しぶりのパステル。描いた「瓶」は、ウィスキーを入れると3段に分かれて溜まるという遊び要素のある瓶だが最近は余り中身が入っていることがない。こういうものを描くのが正に「今日の作品」としては適当なのかも知れない。油絵のように構えずに日記と思って描いた。絵を描く度に、大袈裟に云えば、生き方を教えられることが多い。絵を描くときのポイントがそのまま生き方とのアナロジー(類推)として成り立つ。一つ、仕上げが肝心。仕上げ前に見ると平凡なありきたりの絵が最後の仕上げで見違えるように生き生きした作品になる。二つ、自分がやりたいことを全エネルギーを使って表現する。人真似、人の指示でなく全て自分の責任。三つ、他人の評価を気にしない。自分が満足したかどうかがポイント。勿論、上手、下手は問題ではない。・・そう思ってはいるが、今日の「瓶」などは、まだまだ思い切りが足りないとか、満足する作品にはほど遠い。私の場合は、これからの人生の仕上げにどのようにエネルギーを注力するかがポイント。仕上げにやることは多い。
8月20日(火) 今日は良寛のことを書こう。本やnetからの受け売り知識かもしれないが、先人を知ることがまた自分を豊にする。良寛(1758-1831、越後生まれ)といえば、子供と手毬(てまり)をして遊ぶお坊さんのイメージだが、すぐれた歌や書と合わせて生き方に現代でも惹かれるところが多い。良寛は専門家くさい作為的な意識が嫌いだった。つまり、風雅くさき話、悟りくさき話などを戒め、書家の書、料理人の料理をよしとしなかったという。70歳のときに30歳の貞心尼に出会い契りを結んだエピソードがまたいい。初めて貞心尼が訪れたとき良寛は不在で、貞心尼は手毬と歌を託す。「これぞこの 仏の道に遊びつつ つきやつきせぬ みのりなるらむ」 これに対して良寛の返歌。「つきてみよ ひふみよいむな やここのとを とをとおさめて またはじまるを」・・一緒に手毬をつきましょう、1,2,3・・と10までついたらまた繰り返し、夢中になっているときに仏の世界が開けるとそれとなく教える。良寛の生き様は「一生成香」。生涯いい香りをしながら生きよとはいい言葉だ。74歳での辞世の句は「散る桜 残る桜も 散る桜」 。
8月21日(水) 月がとってもきれいな夜にこんなことを思った。・・他人様にはいらないものでも我が家では貴重なものがある。まず、古新聞。インターネットでニュースをみるから新聞はとらないことにしたのはいいけれど、古新聞がないと不便でしょうがない。塗装をする場合の下敷きにしたり、絵や工作をするときの敷物には古新聞が必要となるので、我が家では時々古新聞の束をもらってくる。もう一つ、ビニール袋が必需品。これはアール(コーギー犬)の朝晩の散歩の時に使う。一日2枚必ず使うと結構多くの袋がいるものだ。ご丁寧な親戚からきちんと折り畳んだ袋の束を定期的に頂戴するのが有り難い。考えてみるとこんなところまでひと様に助けられている。お互いに与えるものといただくものがあるだろうが、take ばかりでなく、give をもっと作りたい・・。
8月22日(木) 「今日の作品」に「木彫」を入れた。大袈裟なことを考えずに日記代わりに「今日の作品」を作成しようとしても、対象がなければならない。抽象画もいいが目の前にあるものを描くのは日記としては自然だ。画材を探す場合に大抵は自分のオモチャ系のコレクションとか身の回りの持ち物に目をやるが、今回はいままで目を付けなかった鹿の木彫を描いた。この置物は元来は指輪架けなのか、ただの飾りなのか知らない。何となく居間に置いてあるが、最近は、この雄鹿の角の上にコーギーのヤジロベーがいつも乗っている。描くためによく見ると首が捻れていたりフォルムがよくできている。電灯で照らされると壁に映った影も面白いので一緒に描いた。先ず足下を見渡すと画材はまだまだ見つかりそうだ。
8月23日(金) 「年々歳々 花相似たり 歳々年々 人同じからず」 花は毎年散ってしまうが翌年にはまた似た花が咲く。それを見ている人はいつも同じ人とは限らない。「人同じからず」というと、人がいつかは亡くなるとか他の人に変わるという面もあるが、私は同じ人でも中身が変化するととらえるのが好きだ。「変化する」をあえて「進歩する」とはしないけれども、今年の自分は去年までと違うと思いたい。ましてや30年、40年の歳月を経ると人はそれぞれに変わっているだろう。・・同窓の友人に久しぶりに再会して昔の面影や特徴がそのまま残っているのはうれしいことだ。一方で、皆、外見と同じく昔と同じでないからこそ話をしていて楽しい。私は昔はよかったなどとは間違えても云わない。学生時代、サラリーマン時代より今の方が充実感があるのは確かだ。「人同じからず」がいい。
8月24日(土) 早朝の庭で蝉に変わって鈴虫の鳴き声が聞こえたと思っていたら、午前中のテニス場では赤とんぼをみかけた。東京にも秋が迫ってきている。秋もやがては冬を迎えるつなぎにしか過ぎない。人が何もしないでも確実に季節が変わる。そして日本には独特の無常観がある。「盛者必衰の理」「おごれる人も久しからず」の平家物語から「人の住まいは世々を経てつきせぬものなれど・・昔ありし家はまれなり」の方丈記まで無常の響きはサイクルの早い季節の移り変わりが根底にあるのかも知れない。四季をそれぞれに味わうことのできるのは地球上ではむしろ数少ない地域に限られる。徳川幕府300年の例外はあるが権力者も日本では入れ替わるサイクルが短い。その代わり他の国で見かけるような大権力者が構築した歴史的な「住まい」や建造物も少ないといえる。日本では、大建造物をあえて望まず、四季のデリカシーを活かした文化(他にない文化)を定着させることが身の丈に合っているような気がする。
8月25日(日) 「今日の作品」に「オカリナ(陶芸)」を入れた。7月31日と8月1日のコラムにオカリナのことを書いている。そのころ土いじりしたものが、今日になって本焼きが完成した。早速にデジカメで写真を撮りわくわくして「今日の作品」に取り込んだものだ。写真、手前上部のブロック右上に吹き口がある。空気の通路は8ヶのブロックを順に伝わって最後は写真の左上ブロックからでる構造だけれども吹き口(笛)のあるブロック左の穴で大部分の音程は決まってしまう。オカリナとしては一個のブロックだけで音が十分でるが、吹き加減で低音の共鳴音がきこえるので8ヶのブロックをつなげた苦心が少しは報われている。音の出し方はなお調整中だ。吹き口の板と青、茶の色を付けた蓋は取り外しできるので、これからも適宜穴径を変えた蓋で音を調節してみる。吹き口板(笛)は合計3枚作成した。少なくともオカリナの笛の作り方だけは今回十分納得できたのがうれしい。8ヶのブロックの構造については追って「陶芸コーナー」で詳細を紹介したい。
8月26日(月) コラムを毎日書くということは毎日何か新しい話題を探すことになる。以前は先に書いた話とダブってないかとか、同じネタの繰り返しでないかとかを気にしたものだが、最近は考えを改めた。同じ事の繰り返しでもかまわぬことに割り切った。繰り返すことにも意味があると思い直したのだ。以前、「蓮如」の本を読んだ時に、蓮如が40代から80代まで書きつづった「お文」とか「御文章」というメッセージをみると、ニュアンスは違ってもただ「仏法を信じて」「一念の信まことなれば」「すくわれる」に全て集約されるという記述をみた覚えがある。宗教家の毎日の説教は同じ事の繰り返しが当然といえば当然だ。また、自分の体験でも、他人とのコミュニケーションは一度話すだけでは伝わらないと思うことが多い。何度も何度も同じ事を繰り返して話すと相手に少しだけは伝わるというのが実感だ。・・なんだか、コラムが同じネタとなった場合の言い訳のようになったが、むしろ「繰り返すこと」もそれほど簡単ではないと自分にはいいきかせている。
8月27日(火) 今晩のTV番組、ドラマスペシアル「明智小五郎vs怪人二十面相」が盛んに宣伝されている。タイトルの名前を見るだけで懐かしい。自分が中学生の頃、怪人二十面相の本は全部読んだ覚えがある。明智小五郎の謎解きに胸ときめかしたものだ。それでも予告編で見る限り、見慣れたビートたけしと怪人二十面相のイメージがどうしても一致しない。田村正和の明智小五郎も適役かもしれないが、古畑任三郎と勘違いする。本で読んだイメージを大切にするならば今夜のこの番組を見るのは止めた方がいいかも知れない。この江戸川乱歩の作品から、アヌセーヌ・ルパンやシャーロックホームズの探偵物に興味が移ったが、これらに共通するものは、盗人と探偵の対決がどちらにも応援したい雰囲気があったことだ。盗賊の首領、日本駄右衛門が「白波五人男」でしゃべる口上、「盗みはすれど非道はせず」の通り、盗人の方にも残酷さがないので安心できた。・・こんなことを綴っているうちに、今晩のTVをやはり見てみようかと思い始めた・・。
8月28日(水) 「芸術には進歩も発見もない、それらはただ科学のなかにあるだけだ」とプルーストはいった。けれども科学の発達により芸術もまた変化することは間違いないだろう。写真の発明により従来の絵画は大変身した。忠実に姿を写し取ることはほとんど意味がない。コンピュータの進歩はまた芸術にも広く影響を及ぼしている。写真の芸術が絵画とは別に新たに発展したように、コンピュータを使う画像や音楽、メデイアアートなどが進化しつつある一方で、コンピュータでできる芸術は意味がないととらえて、旧来の芸術もまた変身する。メタモルフォーゼという言葉がある。Metamorphose=広辞苑によると「変身、変態」、新明解によると「外形・性質・状態の完全な変化、狭義では伝統にとらわれない全く新しい発想に基づく芸術の形態を指す」・・と親切な解説。芸術はメタモルフォーゼにこそ魅力と活きる道があると思える。
8月29日(木) 「今日の作品」はめずらしくアールのスケッチとした。アールは我が家の寝室で産まれた。いつも母親のアンと一緒で昨年の11月にアンが亡くなるまで単独で絵のモデルになったこともなかった。このHPでもアンの絵はいくつもあるけれども、アールといえばほとんど母親と一緒に写った写真ばかり。これからはアールのスペシアルバージョンのページを作ってあげようと先ずは毎日スケッチすることにした。この絵の格好はアールのお得意のポーズ。アンはこのスタイルをとることはなかったが、アールはほとんど対象型に脚を広げてうつ伏せになる。スケッチのためにアールを観察すると骨格はもちろんちょっとした挙動が子犬ではなく立派な成熟犬であるとあらためて思う。今度の11月には6歳になるからいわば落ち着きのある中堅という歳だ。絵を描くということは観察すること、そして眼差しをむけること。スケッチだけでもアールとよりコミュニケーションができているような気になった。アールもいつもより安心して足下で休んでいるようにみえる。
8月30日(金) キリスト教で「人間は生まれながらに罪人・・」などといわれてもピンとこないが、「七つの大罪」を挙げられるとそんなものかとも思う。"Seven Cardinal Sins"は大罪というより原罪と訳すべきだろうが、傲慢(高慢)、嫉妬、暴食(大食)、色欲(肉欲)、怠惰、貪欲(強欲)、憤怒が「七つの大罪」。これをみると私なども罪を犯した懺悔のネタには事欠かない。それぞれの罪を司るデーモンは巷にあふれている。資本主義の勃興期に「怠惰」以外の6つの大罪を司るデーモンが資本家を生みだしたという小咄があったが、最近のニュース種をみていると現代人は昔と比較にならぬほど多くの、強力なデーモンから狙われているように見える。罪を「悔い改める」のもいいかも知れぬが、あえてプラス側に注目する方が気持ちがいいので、「七つの美徳」を示そう:正義、分別、節制、堅忍、信仰、希望、慈悲。
8月31日(土) 「コラム」とは「(新聞・雑誌などで)短い評論などを書く欄」というが、このコラム欄も短いが故に自分の考えを伝えるには限界を感じることがある。絵を描くことと対応させると丁度「アールのスケッチ」並の簡単なスケッチかも知れない。プルーストの「失われた時を求めて」を読んでいると、これは宮殿の大広間全体に描かれた絵画群のような印象だ。作者の全ての思想がちりばめられた文章にショックを受ける。小説という分野のインパクトもすごいものだと今更ながら思う。日頃、新聞(internetでも)や雑誌で読む文章も、いわばスケッチレベルの絵を見ているようなもので、全精魂を込めて描かれた本格的な絵画に相当する「文章作品」とは絶縁していたことに気がついた。時には文学に親しむことも続けたい。

 

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