これまでの「今日のコラム」(2002年 9月分)

9月1日(日) 9月1日ー東京ではまだ厳しい残暑が続くが木陰にはいると風は秋の気配を感じさせる。この数日、アールの朝の散歩時に公園で妻がラジオ体操を始めた。毎日、朝6時30分から20−30人がラジオに合わせて体操しているが音楽を聞くだけで懐かしい。考えてみると50年も前の体操スタイルがよく続いているものだ。私は皆と一緒に合わせた体操はやらずに自分でストレッチや柔軟体操をするが、周りにそんな人はいない。みな子供の頃に体操したのと同じようにリズムに合わせて腕を振っている。私は何時の頃からか、全体主義の国でみせる一糸乱れぬ行進やマスゲームを嫌悪するようになって、ひいてはラジオ体操も大人はもう少し自由にやるのがいいと思うようになった。太極拳などもそれぞれのペースで動いていてそれは気持ちがいいものだ。ラジオ体操は大人にとっては懐かしのメロデイーに浸るところがいいのかも知れない・・。

9月2日(月) 幕張メッセ(千葉)で開催されている「恐竜博」をみた。1億5千万年前の恐竜が今現在もまだ発掘されているという。地球上を動き回っていた生物の骨が1億年という時間のスケールを経て現代にそのままの姿をみせるということ自体に、驚異を通り過ぎて神秘的な不思議さを感じた。石に形が彫り込まれた「化石」を発見するというのはまだ分かる。ところが昔私たちが習った「始祖鳥」の化石のレベルではなく、色々な恐竜の骨がそのまま発掘されているのは真に感動的だ。人類が1億5千年前の生物の探求を続け、今なお新しい発見がある。これは考えてみるとただ一部の学者の仕事という以上に意味が大きいように思える。恐竜は地球環境の変化によって絶滅した。鳥に進化して現代につながるとの見方もあるようだ。恐竜は我々が生活している時間の尺度を一時忘れさせる、そして地球規模の生き残りを考えさせる。人類がごく最近になって地球環境のことを考え始めたのが象徴的に思える。
9月3日(火) 何かを「行動」に移す場合、時間の要素が非常に重要になる事は多い。ビジネスや駆け引きなど相手との競争をベースにしているものは、今日実行することが勝利を呼び、明日では遅い。特許とか発明、学者の論文などについても他人より一日でも早く権利を取得したり、発表することに意味がある。また「期限」をもうけて自分でプレッシャーをかけなければ安易にズルズルと延期するのが普通の人であろう。一方で、「アスタマニャーナ(明日また)」、「明日があるさ」と思うから心健やかになるという面がある。明日できることは今日やらないのは生活の知恵でもある。、早さが必要でなければ急ぐこともない。・・自分の生活パターンで最近考えることは、いくら早く行動しても「拙速」ではしようがないなということだ。内容のあることを少しじっくりとやらなければ、早さだけでは時間を経てみると何も残らないとつくづく思うようになった。完成を急がずに質を追求する。期限は死ぬまで。そういうことをやってみたいが、はて、そんな行動計画を立てられるか・・?
9月4日(水) 人は自分のことが一番見えないといわれる。私も時に自分をみる機会があるとギョッとする。テニスのプレーをビデオで撮影したときとか、ショウウィンドウに写ったハゲオヤジを見たときとか、もらった写真に姿勢の悪いオジサンを見つけたときとか(更に兄弟の話し方が自分の鏡だったり)・・こんなはずではなかったと思ってもそれが実物だ。声や歌、楽器の演奏などについても自分はみえない。元来自分が発生させた音を聴くのと他人の音を耳で聴くのは機能的に異なっている。録音をして自分の歌や演奏を聴いてみると大抵は落胆する。同じように絵の場合も、一度自分の手を離れてみたとたんに描いたときには気がつかなかったことが見えてくることが多い。ホームページに掲載する絵などもスキャナでパソコンに取り込んで見るとアラだらけにみえる。自分の作品についてアラがみえるのは有り難いことで誰にも気兼ねせずに加筆すればよい。それでよくなれば云うことはない。自分自身の欠点をみることができるのも貴重なことだ。今は第三者として自分をみる方法がいくつもあるのがいい。自分も他人と同じと割り切れば、自分をじっくりと観察してみるのは面白いことである。
9月5日(木) 雪印、日本ハムは特別かと思っていると、東京電力、三井物産まで伝染した。企業の最高幹部が責任をとって交代する事態だ。10年前ならば恐らくは担当部長程度が注意処分を受けて落着したものが今は経営のトップの責任が問われている。そろって内部告発が発端というところがまた時代の象徴にみえる。直接の被害者はいなくても企業倫理の問題を告発してここまで見事に最高幹部の交代劇が進むとなると告発者はどうしているのかなど余計な心配までする。意外に告発者が裏で新しい幹部に”ご苦労・・”と声をかけられていたりするとドラマチックだけれど・・。こういう事態は一体なにがイイモノで、誰がワルモノなのか即断できないところがある。無責任な老害幹部は引退するに越したことはないが、実は高潔な人材が引責するケースもある。どのようなケースなのかはマスコミ報道だけでは分からない。ただ、トップが本気で現代の商人のあるべき倫理観を構築していないと、まだまだ同種のことは続くだろう。
9月6日(金) 「今日の作品」に「アール09」を入れた。このところ毎日アールのスケッチを更新し続けて今日は九日目となる。今日の絵が典型的だが最近アールは私の仕事場の足下に寝そべって時間を過ごすことが多い。そこでアールをスケッチすると「アールのスケッチ」のようにだらしなく横になった姿ばかりになる。毎日アールのスケッチを更新しようと思うと何か描いてみるところが自分ながら上手くいった。けれども室内でのアールのリラックスタイムばかり描くのもそろそろ飽きてきた。こういうものは日記と同じで余り意義を考えると続かなくなる。ワンパターンでもいい。会心作でなくてもいい。続けるところに意味があると自分を慰めている。次のテーマはハツラツとしたアールを描くことかな・・?早朝の公園でアールを遊ばせながら素早くスケッチする・・これができれば楽しいなと思いつつ、また別のことをするかも知れない。
9月7日(土) 昨日は「宇多田ヒカル電撃入籍」のニュースがAP電で世界に流された。19歳の歌手、宇多田ヒカルが、写真家(34歳)の紀里谷さんと結婚したというニューヨーク発のニュースは日本人の活動範囲がすでに国境と無関係であることを改めて感じさせる。紀里谷さん(本名、岩下さんとか)も中学を卒業後アメリカに渡りアートや建築を学んだという国際人であるようだ。彼と宇多田ヒカルは作家夏目漱石が好きという共通点があるときいて、二人の雰囲気が分かる。我々の年代だと宇多田ヒカルの母親、藤圭子(歌手)が親しい。「圭子の夢は夜ひらく」では、なぜか二番の歌詞をよく覚えている。「十五、十六、十七と、私の人生暗かった 過去はどんなに暗くとも 夢は夜ひらく」 藤圭子の歌と、宇多田ヒカルの歌のギャップがあるからこそ双方が輝いてみえる。宇多田ヒカルは私個人としてはたまたま誕生日が同じなので一層親しみがわく。ヒカルさん、結婚おめでとう!
9月8日(日) 最近、またパステルを使う機会が増えた。アールのスケッチにもパステルを使うことがある。今も使っているパステルのセットは私にとって思い出深い。絵を描き始めた当初、ある日妻が予告なしに大きなパステルセットをプレゼントしてくれた。242色のパステルなど当時は自分ではとても買えなかった。今ではパソコンの色の選択は256色とか32000色とか平気でいうけれど、実際に自分で着色する色を242色選べるなんて、贅沢の極みに思えたものだ。一本一本のパステル棒を選ぶときに「色には優劣はない」といつも感じる。242色のどれを使うかは周りの色調とかその時の好みとかで決まるが、どの色も使い方一つで引き立つ。目立たぬ場所に使った色も貴重だし、色には無駄がない。社会の人も色と同じというのがパステル棒を見る度に思い起こすことだ。何万、何百万の種類があってもそれぞれのニュアンスが社会でどう活かされるかで、無駄なものは一つとしてない・・。
9月9日(月) 今日の作品に「アール10/アールの水浴び」を入れた。西洋バスタブの中にアールを入れてシャワーをかけて犬用のシャンプーで洗ったときのスケッチだ。時々はこうして洗ってやるがアールも心得たもので少しも嫌がることがない。むしろ水浴びを待ち受けて喜んでいるようにみえる。犬も水をかけると人間ならば服を全て脱ぎすてたときのような裸の肉体が現れる。胴や尻がスッキリすると別の犬種でないかと思うくらい変わるから面白い。いつも描くのは「着衣のアール」、今日のは「裸のアール」というところ。ただし、この裸のモデルはジッとすることがない。数分間でスケッチした裸のアールはなかなかスマートだった。
9月10日(火) 作家出身の東京都知事、長野県知事が 存在感をもって話題になるかと思えば、猪瀬直樹が道路関係四公団民営化推進委員となり期待されている。こういう状況をみていると、作家とは一体何なのかと考える。政治家としては勿論知名度とか考え方が知られるとかあるだろうが、閉塞感を突き破り新たな展開を求める場合に、少なくとも「想像力」の面では作家は政治にも適性があるのでないかと思われる。一般論で云えば論理的な思考とか思想の構築にも適性がありそうだが、それらはいずれも旧来の政治家の臭いとは違ったものであろう。変革を推進するのは「専門家」ではない。米国人に圧倒的に人気があったレーガン大統領はよく知られているように俳優だった。これからは作家に限らず、「政治だけしか知らない専門家」でなく、視野の広い、理想をもった、品性ある、適性を持った人材(ずいぶん並べてしまった)がもっと政治家を目指して欲しいと思う。
9月11日(水) 2歳になったばかりの娘の子供が来ると絵をかいて遊ぶ。リクエストは先ず「象さん」に決まっている。孫娘は私の仕事机を占領してこちらが象さんを描くのと合わせて自分でもマジックペンをはしらせる。そんな中で落書きを何とか最小限に留めた「象」を「今日の作品」とした。少し前にこの孫娘は井の頭公園ではじめて本物の象(花子さん、50歳を過ぎている)をみた。この時は絵本でみる象さんのイメージと余りにかけ離れていたのだろう、母親にしがみついて離れなかった。それでも、その後も象さんのリクエストは変更がなかった。自分で描くときは「・・ぞうさん ぞうさん お鼻が長いのね そーよ かあさんも長いのよ・・」と気持ちよさそうに歌っている。
9月12日(木) 昨日は「今日のコラム」の日付を変更するのを忘れて前日10日と記載のまま24時間を経過してしまった。こんなミスはめずらしくない。セルフチェックといって自分で自分のやったことを見直すときはしばしばチェックが甘くなる。他人のミスは直ぐ見つけるけれど自分のミスは見逃す。それはともかく、最近HP作成に関してどうも私個人の技術進歩がない。もっとソフトの勉強をやりたいとの思いが強くなってきている。このページの画像はphotoshopというソフトで加工した後、fireworksというソフトで「最適化」して書き出したものを取り込んでいる。パソコン画面で見る場合必要以上に画質が高くても容量ばかり大きくなって読み込むのに時間がかかる割に見え方は画質を下げても変わらない。目には分からない程度に画質を落として読み込み時間を短縮するのが「最適化」なのだが、どこが最適かは微妙なところがある。fireworksではオリジナルの画質に対して何%低下をさせるとどういう画質になるかを連続して比較確認できて、同時に読み込み時間がどう変わるかも見ることができるという優れものだ。このfireworksはもっと非常に幅広い画像処理もできるソフトなのに、私は昔からphotoshopに馴染みがあるため画像処理にfireworksを使い切っていない。色々やりたいことがあるが、一つはfireworksを活用すること、それから動画ソフトをもっとうまく使うこと・・その辺りが当面の目標だ。
9月13日(金) 陶芸初心者としては電動ロクロでの失敗は大抵最後の段階にしでかす。息をひそめて集中し、慎重に作り上げてうまくできたと思った直後に形を崩したり、ロクロから土の作品を糸で切り離そうとしてひっくり返したり、ひどいときにはできた作品を板の上に置くときに前に作ったものにぶつけて両方へこませてしまうとか、とにかく難しくない作業のときに失敗することが多い。ものつくりは失敗で学ぶことをあらためて実感する。失敗をできるということは学んでいることになるが、人は歳をとっても適度の失敗は刺激になって成功のもととできる。けれども油断をして晩年に人生の大失敗をする事例は余りにも多い。「過ちは繰り返しません」を実行するのは余程の緊張の継続が必要となることがよく分かる。
9月14日(土) 今日の週末テニスではいささかショックを隠しきれなかった。どうみても動体視力の低下とみられるミスが何度も続く。元来は反射神経には自信があり速いボールほど得意なはずなのだが、スピードボールに以前ほど目がついていかないのが自分でも分かる。余りのショックに「動体視力回復」を日課に取り入れようと思い早速インターネット(google)で検索した。そうすると便利になったものだ、色々と教えられた。まず、うれしいことをいってくれる:「動体視力は鍛えられる!」。動体視力というのは2種類あるという。一つは、水平方向に動く対象のもので、これは静止視力とは無関係。もう一つは、直進してくる対象にたいする動体視力でこれは静止視力と関連があるらしい。私の場合は後者の動体視力の低下だ。「眼球運動を鍛えればいい」。そのためには「周辺視野」と「瞬間視」の能力を鍛えればよい。・・これはまるで速読法のトレーニングと同じではないか!イチローは動体視力が他の野球選手と比べても極めて優れているという検査結果があるという。イチローの検査方法と同じような動体視力のチェックを自分でもやってみた。まずは初級編。パソコン画面に0.1秒だけ4桁の数字がでる。これを当てるのだが4桁ならほとんどできた。次は中級。6桁が瞬時に出て消える。これはなかなか正解できなかったが、たまに正解すると「プロ野球選手並み!」という表示がでた。(tryしたい方はここ)・・こんな調子で明日から動体視力向上トレーニングだ!
9月15日(日) 久しぶりに「今日の作品」に陶芸作品を入れた。陶芸はこれまでどちらかというと他にはないユニークな形状のものをあえて制作してきたが、今回は息子の家庭のリクエストで地味な醤油皿を作った。土は初めての伊賀・上野の土。写真の左側一群、線描の部分は彫り込んだ跡にコバルトを象嵌してみたもの。残りの三個は釉薬の組合せを変えて自分なりに新しい試みをしてみた。こうした単純な形状の場合、素材が同じでも模様や釉薬でどのように表情が変わるかが非常に興味深い。考えてみると、絵画の場合はどんな大天才、大名人でも使用するのは四角いキャンバスと絵の具、我々と何も変わらない素材から感動的な絵が生まれる。陶芸でも形状が単純な小皿といっても無限の表現ができるはずだ。作る度に新しい経験をして、また次の可能性を考える。こうして小宇宙を作り出すのは楽しい。
9月16日(月) 敬老の日ということで100歳の老人がTVに出演していた。長生きの秘訣は何ですかと問われた返事がいい。「それは”はたらく”ことです。”はたらく”とはハタ(傍あるいは端、側か)の人をラクにすることです」とおっしゃったのだ。これは長寿の秘訣というより老人のあるべき姿ではないかと思う。他人を頼らず、そうかといって自分勝手でなく、周りの人を少しでも楽にすることをする。ラクとは喜び楽しむ方のラクともとればこんなすばらしい生き方はない。・・早速に自分も明日から心を入れ替え、しっかり”はたらく”ことにしようと思ったけれどそれほど簡単ではなさそうだ・・。
「今日の作品」にアールのスケッチ12を入れた。掲載してみて気がついたが、アールの子犬の時(puppyはここ)の表情とそっくりなところがある。

9月17日(火) ある意味では歴史的な日。早朝から日朝会談のニュースが続き15時間を経過したいま何か重苦しい雰囲気で会談結果の解説をきいている。飛行機でわずか2時間の北朝鮮とのトップ会談。小泉首相が朝の6時半にでかけていまはもう帰路の飛行機という日帰りの日程ながら、北朝鮮が長年存在さえ認めなかった「拉致問題」を謝罪するという大進展をみせた。会談前にinternetでは4名生存との情報をみたことがある。人数はその通りだったが推測氏名はみなはずれた。死亡確認6名までを発表されるという情報もなかった。分かってしまうとやはり家族の気持ちを思って気が重い。国家レベルの犯罪行為に対して甘チョロいヒューマニズムがかすんでしまうことは歴史の教訓であるが、少なくとも歴史はまた新たに進展している・・。
9月18日(水) 今は昔というべきか、5−10年前、勤め人時代に企業・組織の経営理念を集めてみたことがある。日本の大企業の場合は概して特徴のない「理念」が多かった。いわく「顧客第1」「技術重視」「人間尊重」・・。それでもオーナー社長系の企業はさすがにユニークな表現をとるところもある。例えば「三つの喜び=作って喜び、売って喜び、使って喜ぶ」(本田技研)「個と全体の融合」(前川製作所)など。一方、米国系はハッとする表現が目立った。例えば、TI(Texas Instruments)のEthics:Know What's Right. Do What's Right.=何が正しいかを知り、そして正しいことをしよう、NASA哲学:Return to Baseline.=基本に戻れ、初心に帰れ。・・作文としての「理念」がいかに表現されていても実際に活かされる土壌がなければ意味はないが、米国も日本も企業の倫理が問題視される事件が頻発する折、今現在、企業の経営理念はどう変わったのか、あるいは変わらないのか知りたい。
9月19日(木) 時間が経過するだけで何らかの勤務実績になるという勤め人をやめると、毎日が自分との勝負となる。そうすると以前よりやる気の周期的な波動をはっきりと感じるようになった。今日は、仕事がはかどらぬ、筆も進まぬ、集中できないという最低状態にあった。こんな時の「今日の作品」=「idea-3」を自己評価してみよう:指で塗った黒の線を主体にして全体に華やかな色はない。何かやりたい気持ちはあるがエネルギーをどこにぶつけるか迷っている。やりたいことを思う存分やったわけでもない。自分自身に制約をつけている。無心に描きたいのだが無心に徹することもできない。はしゃぎたくないのだ、しばらく静かにしていたい、落ち着きたい、といった感じ。絵というのはその時の感情を素直に表してしまう。最近は無心とは本当に難しいと思うようになった。もっと無心にと言い聞かすのはまた意識過剰となる。家人は絵の上下が逆でもいいのではないかといった。こういう発想の方がidea-3の発展性があるかも知れない。
9月20日(金) 先週の土曜日(14日)のこのコラムで書いたが、動体視力の中でも周辺視野の計測法はほとんど速読のやり方と同じだ。6桁の数字が0.1秒だけ画面に表示されてそれをどれだけ判読できるかを計測するのと同じように速読法では瞬時に本のページ全体を眺めて内容を理解する。人間は一つのものを「見る」という視力だけでなく、視野にある全体を瞬時に感じて状況を把握する能力があるところが興味深い。動体視力の回復訓練を兼ねて、毎日の犬の散歩中に「周辺視野」を意識することを試みてみた。道で行き交う人を見つめることなしに顔や洋服などの特徴を認識する、また街の景観や車の動きなど視野に入るものを同じく意識下で認識する。これはキョロキョロして記憶しようとするのとは違う。視野にあるものを一度脳裏に写すという感じで普通に散歩する。そうすると確かにいままでは目を開けて歩いたけれども何も見ていなかったのかと思うほど脳裏の画像が増えた感じになった。車を運転するときに同じ意識で「周辺視野」を捉えるようにやってみると、これも従来より注意が行き届いて安全運転ができる気になった。そんなことで知人との打合せにでかけたら、知人の車が追突されたという。後ろの車が脇見運転をしてブレーキなしで停車中の車に衝突したとか。「周辺視野」でも「動体視力」でも防ぎようがない事故もまた多い。
9月21日(土) 今日は「中秋の名月」。昨夜の東京は雲一つない空にすばらしい月が輝いていた。今夜はさぞかしと犬の散歩で月をさがすと雲の切れ目にかろうじて満月がみえる。15分ほど歩き、空の広い公園にいってあらためて見上げるとお月さんは厚い雲に覆われて丸い姿も見えない。。昨夜の月は完璧だった。満月をみるとこの季節に大昔から日本人は同じ月を愛でていたとの感慨が湧く。月の円は球体の投影であり、球はどろどろした物体が最も表面積が少なくなる場合にできる物理的な形状であることは現代の人は知っているが、この幾何学的な形状を美しいと感じる感性が大昔から変わらないのが感激的だ。古代人は円とか球を他に何に見たのだろう。露は球体に近いとか、樹木の切り株は円とか、いくつかはあっただろうが、月ほど見事なまん丸い自然は思いつかない。月は球体の形状だから、球の表面積=4*π*rの2乗、球の体積=(4/3)*π*rの3乗 なんていう公式を思い起こしながら、今日こそは、ススキに団子を供えなくても名月をみたかったと、しばし公園のベンチで雲の切れるのを待っていた。しかし今夜の月見ははずれだな・・。
9月22日(日) 「ミロ展1918-1945」(9月23日まで、東京・世田谷美術館)にいった。ミロは1893年バロセロナで生まれ、1983年に90歳で亡くなっているので、25歳から52歳までの作品を集めた展覧会だ。ミロは私の好きな画家の一人であるし多く影響も受けた。調べてみると、10年前の1992年に「生誕100年記念・ミロ展」が横浜美術館で開催されて、これを見にいっている。この時、本物のミロの絵を目の当たりにして、あらためてその無心な自由さに感動した覚えがある。またその当時付き合いのあったドイツ人にミロの絵を幼稚園児が描く絵と云われて憤慨した記憶が重なる。いま気がつくと「今日の作品」に入れている「2002-9-19/idea3」もミロの影響と云えないことはない。ミロの絵は真似をするとそれこそ幼稚園児の絵になってしまうし、ミロ以前に誰も描けなかったものだ。それでも、今日みたミロ展でも、ミロが20代の若い頃には明らかにセザンヌやゴッホ、マチス、キュビズム、フォーヴィズムなどあらゆる先人や様式の影響を受けて模索している様が顕著にみえて興味深かった。先人の遺産を吸収し後に独自な作風を確立する。これができるのが天才なのだろう。ミロはまた絵画理論や理屈と無縁だったところがいい。「考えることはイメージを殺すこと」・「私の作品に死はありません。私がいつも興味を持つのは誕生であり、成長や死ではないからです(ミロ)」
9月23日(月) 「今日のコラム」のキー叩きがスムースに運ぶことと、その日が充実していることの相関はほとんどないというのが、毎日コラムを書いてみての実感だ。自分のやったアウトプットが目に見えてはかどった日にコラムが何とも書けなかったり、逆に成果のない日にコラムだけはスイスイ書くことができることがよくある。今日は前者だろうか。こうした我が身の体験に照らし合わせてみると、能書きだけを並び立てて他人の弱点を論評するマスコミなどは、自ら実績も持たず実行者でもないので評論がうまい(?)のが分かる気がする。評論は実行者の良いところは認めてその上で更によくするために論評すべきだろうに、もっぱらあら探しに終始するのは、よほど自分の成果がないに違いない。昨日のコラムで、画家のミロが絵画理論とは無縁で感動的な絵画を残していることを書いたが、現代絵画の一部先進者が絵画理論を振りかざし、結局何も面白い作品を残さないことも思い起こす。コラムの善し悪しはさておき、理屈をいうよりも実行者でありたいと思う。
9月24日(火) 「今日の作品」に「湯飲み図案」を入れた。これは陶芸教室(電動ロクロコース)で作った湯飲み茶碗の図案だ。湯飲みの形状はありきたりで未熟だからせめて模様に特徴を持たせたいと思って、今回は事前に湯飲みにつける絵柄の「案」を描いてみた。陶芸の釉薬をかける場合に蝋を塗っておくと蝋の部分だけ釉薬がはじかれて模様を描くことができる。これと同じのやり方で、この絵の白い部分ははじめに蝋で描いた。後でバックの色を一面に塗って蝋の部分を引っかき具で表面の蝋をはがすと白い線が表れる。臈纈(ろうけつ)染めのように筆で描くニュアンスと異なった味わいになる。こうして「図案」まで作って湯飲みの釉薬をかけ模様を描いたが、実際にはこの図案とは全然似ていない形を描いた。同じではないが二段重ねにした釉薬を一段分削り取るやり方で好き勝手な模様をつけて楽しんだ。事前に構想したデザインは無駄ではなく、その場で自由に変更し構想したもの以上に発展させることができる。最終的にそれがどうなるかは焼き物が出来上がってみない分からない。結果を実物で見てみないと微妙なニュアンスや成功・失敗は判定できないところが陶芸の面白いところだ。
9月25日(水) 室町時代に「能」の基礎を完成させたとされる「世阿弥」は現代もなお強い存在感がある。一般には余り縁ない能の世界の世阿弥(1363?-1443)がこれ程まで注目されるのは、世阿弥が著した「風姿花伝」などの内容が能以外にも応用のきく秘伝であるからだろう。”その風を得て心より心に伝わる花なれば風姿花伝と名づく”「風姿花伝」の抜粋をみるだけでも納得する。有名な「初心忘るべからず」は、上手になり始めた頃が最も危険な時期、周りから誉めそやされるままに「時分の花」を「真実の花」と見誤る・・と教えたもの。「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」。更に、「花と、面白きと、珍しきと、これ三つは、同じ心なり」。これなど、私の感覚と全く同じだ。人のセンスというのは500年も600年も前でも変わらないところがまた面白き・・。これからは初心を忘れず、「誠の花」を求めて励むことにしよう。
9月26日(木) 普段は何も気にせずに使っている言葉が、ある時突然なぜそんな云い方をするのか気になってしようがなくなることがある。今日は外出先で「モンキースパナ」を借りるときになんだこの言葉は?と思った。「モンキースパナ」は、六角のボルトやナットを締めるための工具だが、相手のサイズに合わせてネジによって幅を自由に調整できるようになっている。調べてみると、英語では、"Monkey Wrench"(=自在スパナ)。正確には「米語」では、Wrenchを使い、「英語」ではSpannerとなる。"Monkey Spanner"という云い方は、「英語」である訳だ。日本語でレンチとスパナをどう使い分けているか混乱してしまうが、どちらでもいいことになる。モンキースパナは、形からは三日月型をしているので、Crescent Wrenchの一種で、アジャスタブルレンチ(Ajustable Wrench)とも云うことも分かった。けれども肝心の「モンキー」の語源は分からない。モンキーは軽蔑的なニュアンスで使われる。本来は相手のネジサイズに応じてスパナサイズを選ぶところを、自在に調整してどのサイズにも使えるので、猿でも使える簡単スパナということかな、と自分で推測してみた。それにしても、パソコン時代になって「モンキースパナ」を使う機会も少なくなったのが少し寂しい。
9月27日(金) 「茶の湯とはただ湯をわかし茶をたてて呑むばかりなるものとしるべし」。侘び茶で天下一の茶匠となった千利休の言葉だから重みがある。作法が細かく決められてはいるが、それは茶を呑むために、最もシンプルに、余計なものを省いた合理的な作法であるという自負がみえる。侘び茶の精神は、本来不完全の美を見つめるものだろうから、奢りを嫌い、未熟だから更に完成を目指すという姿勢もくみ取れる。「不完全の美」というと茶の世界につながる陶芸や石庭では日本人が優れた感性をみせたが、どういう訳か絵画では「完成の美」が主流であったように思える。絵画で自由な「不完全さ」が評価されたのは西欧が先であろう。これは日本の絵の世界では「茶道」に該当するような「絵画道」が発達しなかったせいかもしれないなどと思ってみるが、考察するには資料不足だ。とにかくも、「今日の作品」に「陶芸図案2」を入れた。この絵は、はじめに色模様を描きその上に蝋を塗った。続けて蝋で線を描き、その後背景の色を塗る。最後に蝋の部分を削り取ると白線と模様がみえて出来上がり。この種の絵は「不完全の美」を求めるなどと大袈裟なことは云わず、ただ心のまま描くので楽しい。
9月28日(土) 「加藤知子と仲間たちー名手たちの室内楽ー」にいった(東京文化会館・小ホール)。三浦則子さん作曲の世界初演を聴きたいと思って出かけたのだが、ヘンデルやベートーベン、ブラームスとならんで三浦さんの現代曲が演奏されるというユニークな演奏会。三浦則子さんは1999年日本音楽コンクール作曲部門1位の若手作曲家で、この日は「光あるうち、進め=ヴァイオリンとチェロのためのー」という作品の委嘱世界初演だった。彼女を個人的に応援しているというだけでないと思うが、その前に演奏されたヘンデルはほとんど居眠りをしていたのに、この現代曲が始まったとたんに全神経は音に集中し最後まで緊迫感は途絶えることがなかった。一つ一つの音は無駄なものを全て削り落としたような精神性の高さを感じた。竜安寺の石庭を前に柔い光を浴びながら瞑想しているという雰囲気だ。その後のベートーベンも居眠りをし、次のブラームスはまた緊張するという聴き方をした。終わってみると、大作曲家の華麗な音符の中で、現代の作曲家である三浦則子さんの音は十分に存在感があった。中世の名画が羅列してある中に、ピカソやクレーの絵を見つけると本当にホッとしてうれしくなるような気分だ。望むらくはこうした現代曲の演奏の機会をもっともっと作ってほしい。
9月29日(日) 私のパソコンのデスクトップにはフェルメールの「デルフト眺望」がセットしてある。毎日、毎回、パソコンを立ち上げる度にまずこの絵に出会う。「デルフト眺望」(internetでの特集サイト例、ここ)はフェルメールの名画中の名画とされるが、リンクページでも紹介しているように、私も1996年にオランダのハーグで開催されたフェルメール展を見る機会があり、この絵は特別な思い入れがある。先日來読み続けているプルーストの「失われた時を求めて」の中に、2ページ以上(訳本で)「デルフト眺望」についての記述があるのを見つけてうれしくなった。解説によると、プルーストは1921年5月(プルーストが死去する前年)オランダ派美術展でフェルメールを観賞し、大いに啓示を受けてその経験を小説の中に取り込んだという。絵だけに限らないが先人が見て感動したものを我々がまた同じように見ることができるのは幸せだ。正に歴史遺産に感謝。もう一度あのマウリッツハイス美術館(オランダ)にいって「デルフト眺望」の本物をあらためてじっくりと見たくなった。
9月30日(月) 札幌のスーパー西友店で偽装肉を販売したお詫びとして購入金額を払い戻すことにしたら、わずか三日間で肉を売った金額の三倍以上の払い戻しがでて混乱しているというニュースをきいて考えてしまう。インターネットではあの西友にいけばレシートもなしに申告すればいくらでも払い戻しできるという情報が飛び交い5万円稼いだとか10万円もらったという書き込みが相次いだという。三日間に払い戻しを受けた人の少なくとも10人中7人が嘘を云ったという事実をどうみるか。西友側は性善説でレシートも身分証明もなしの払い戻しを決めたのだろう。性善説をとる場合にも100%の性善説でなく20%は性悪説を考慮すべきと云われる。恐らく西友もインチキ申請をある程度は覚悟したに違いない。けれども3日で売り上げの3倍以上の出費、これを1−2週間続けると90%以上の虚偽申請されるまでは予測できなかったのだろう。この際、西友は性善説と性悪説の実験をしたと考えると興味深い。それにしても、この90%が性悪説でも納まるかどうか分からないという現実に驚き、また落胆する。・・人を信用することは難しい。

 

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