これまでの「今日のコラム」(2002年 10月分)

10月1日(火) 価値観の相違を理由にすると問題は解決しない。「自分にとっての神は他人にとっての悪魔である」・・国際的な紛争などが解決しにくいのはこの言葉がうまく表している。価値観の相違は自分のごく身近でも毎日のように経験する。私はなにか作品を作る場合、他人と同じものではほとんど価値を認めずに、オリジナルな何か、気力のつまった何かを求めたいと思う。ところが世の中の多くの人はオリジナリテイなど関心がない。過去の名作や経歴のある人の作品にいかに似ているかに価値をみつけたりする。生き方にもそれぞれの価値観が反映する。正直や誠実に価値をみとめずに、お金や地位のみに重きを置く人もまた多いのは確かだ。価値観によって何が善で何が悪か見方が変わるので、善悪の議論をしても噛み合わない。けれども、そういうだけでは「問題は解決しない」。それでは解決策はどうすればいいだろう。お互いの信ずる神(価値観)を相手に説明すること、そして同時にもしかすると相手の神も信ずるに足りるかも知れないと、心にフレキシビリテイ(柔軟性)を持っておくこと、こんな程度しか思いつかないが・・。

10月2日(水) スイスで開催された国際児童図書評議会(IBBY)創立50周年記念大会で9月29日(日本時間30日)に美智子皇后陛下がスピーチをされた全文(日本語版=ここ)を読んだ。英語でのスピーチなので英語版はないかと探したが見つからなかった。TVニュースなどの一部抜粋の記事ではなく、全文の詳細をじっくり読んでみると見事な内容で感慨深い。社長や代議士が秘書とか事務局に書かせた作文を読むのとは別次元で、このような立場の人が、このような自分の言葉で世界中のどの人にも聴かせたいような内容を発表できるところに時代の進歩を感じる。日本のすばらしさを思う。もしケチを付ける人がいたらその人のスピーチと比較してみたい。子供の教育に右往左往する前に親はまず静かにこのスピーチでいう本を与えればよい。パソコン・TV教育の時代でも本の貴重さは決して変わらないという視点も同感だ。それにしても新聞紙上には全文の掲載はないという。また英文も見つからない。なぜだろう・・。
10月3日(木) 早朝、メールをチェック。コーギーリンク、「もも&さくら」の吉田さまより、昨日コラムに書いた国際児童図書評議会での皇后さまの英文版スピーチの場所(ここ)を早速にお教えいただいた。コラムを読んでいただいた上のレスポンスは本当にうれしい。続いてテニス仲間の谷口さんからも別の英文サイト(ここ)をお教えいただいた。みなさまに感謝、ありがとう!  昼、気の張る会合も問題なく終わる。 夕方、時間がとれたので陶芸教室で世界に一つしかない創作。これは無条件に楽しい時間だ。帰路、女の子がバーニーズ・マウンテンドッグとシェルテイの2頭を連れて散歩中のところに行き会いしばらく話す。コーギーもカワイイですよねと云ってくれた。マウンテンドッグがすぐ近所にいることを初めて知ってうれしくなった。 夜、千葉純子さん(バイオリン)と野原みどりさん(ピアノ)のデユオリサイタル(浜離宮朝日ホール)。私の音楽の聴き方は単純だ。終わった後に創作意欲が湧き、やる気になるといい音楽会とみる。今宵もとてもいいリサイタルだった。 こうして多くの人から元気をもらって、今日という一日が終わろうとしている。
10月4日(金) 「今日の作品」に「小皿(陶芸)」を入れた。同時に陶芸コーナーに追加した茶碗のセットと同じ電動ロクロ作品。こうした形状としては何の変てつもない小皿や茶碗は、せめて釉薬や模様の実験をやってみたいのでみなバラバラの図柄となり同じものがない。それはいいとして釉薬をかけ模様を描いているときにイメージしたものと大部分はかなりずれている。似ても似つかぬ仕上がりのものもある。けれども結果的にそれでもいいかと思えるところが陶芸の優れたところだ。経験もなく知識も貧弱だから思うようにならないのだけれども、例えば図柄とのコントラストをもっと強烈に出したかったけれど結果は淡く収まりのいい調子になっているなど、もしかすると意図した通りになるよりベターと思えることも多い。全てが自分の思い通りにできたとすると案外に面白味のない作品となるかも知れない。・・人の人生もまた同じ、なんていうとチョイと気取りすぎか・・。
10月5日(土) いささか堅い話題であるが、コンピュータのソフトウェアを作成するプロセスを評価するのに「能力成熟モデル=Capability Maturity Model(CMM)」が使われる。プロセス(作成する工程)の成熟度を管理能力により5段階で評価するもので、例えば米国国務省の入札はレベル3以上が条件になる。そのステップは以下とされる:1)初期状態(混沌的)2)反復可能な状態(経験的)3)標準化された状態(定性的)4)管理状態(定量的)5)最適化できる状態(継続的な改善ができる最適化)。ソフトウェアは個人の能力に依存するところが大きいだけに欠陥をいかに見つけだすかの問題とからんで管理が非常に難しい課題であることは理解できる。この成熟モデルは、幼児の成長や陶芸、バイオリン、ピアノ、更にテニスなどの習得についても適応できるように思える。自分がいまどのレベルにあるか考えてみると面白い。学ぶ場合に、定性的に理解したものを、ある数値で定量的に(要は具体的な目安を付けて)とらえ直すとワンステップ進歩したことを実感する。個人の能力の場合「最適化」というのは自分の意志を貫くことか。人は反復できる技能や標準的な手法を取得した後でも、最終的には”継続して”より高度なレベルを目指したいところだ。
10月6日(日) 友人がロシア旅行をしたというのでCDに焼き付けた写真集いただいた。「サンクト・ペテルブルグ(旧レニングラード)ーモスクワ間1900キロ運河の旅」記録になっている。サンクト・ペテルブルグで船に乗るとネバ河を通りラドガ湖、リビンスク湖、ヴォルガ河などを経てモスクワまで、12日間の船旅。その間ホテルである船の停泊する場所を観光しながら旅行荷物を移動させることもなくモスクワまで至るという。船が通る運河の水門は合計17,水面の高度差は162mもあり水門毎に平均でも10mほどの高低差をパナマ運河方式で移動する。私は以前フランスのパリ市中を巡るパリカナル(運河)/半日コースを経験しただけで感激したが、運河や船の規模としてはロシアはまた桁違いに大きい。ロシアの運河はモスクワから更に南下して、黒海やカスピ海までつながっていることを今回の友人の説明ではじめて知った。CDをスライドショウにして見ていると、自分の日常と全く次元の違う別世界が広がっている。他人の旅行写真というのは、本人以外は余り面白くないことも多いが、この旅行記は一枚一枚の写真のすばらしさと普通の観光では見られない被写体のユニークさで飽きることがなかった。(サンプル画像
10月7日(月) TV「何でも鑑定団」はいわば”市場価格”の鑑定なので不満はあるが時々面白くみる番組だ。昔から骨董品の鑑定はとにかく「本物」に多く接して見る目を養うことと云われる。骨董品に限らず、絵や音楽、文学などの芸術分野でも、見るスポーツなど何でも本当にいいものに接すると高度な価値基準が養われるのはよく分かる。けれども権威ある価値だけを見ていると新たな価値を無視しがちとなることもまた確かだ。既存の美意識を突き破るような仕事をした多くの先人たちは市場価値などを気にもしなかっただろう。・・最近、楽焼き茶碗「長次郎 」に興味がある。internet(参考サイトここ)でも簡単に見ることができる。画像や写真を見ただけでも、いまは一級の権威となっている長次郎であるが、作った時の初々しい意気込みや革新的な美への信念を感じとることができる。けれども、この際、やはり本物の長次郎独特の黒茶碗を目前にみてみたい。。
10月8日(火) 「声に出して読みたい日本語」(齋藤孝著)が愛読書となって、風呂に入るときなど「声を出して」読んでいる。これに影響された訳でもないが、今度は「声がよくなる本」(米山文明著)を読み始めた。発声法の説明が詳しく、トレーニングのやり方も具体的でなかなか面白い。発声のためのトレーニング文章には笑ってしまった。「カ行」:「貨客船の旅客、中小商工業振興会議、乗客の訓練、栗の木の切り口、規格価格が駆け引き価格か、危険区域区画区域」。これは中でも私にとっては一番の苦手なものだった。(目で読むと簡単だが発音すると結構難しい)「ヤ行」:「闇の山、謡曲熊野(ゆや)、雪の夜景、ゆずゆの夢、八日の夜の夜回り、夜通しよろよろ」。・・声を出すことは健康のためにもストレスリリーフ(発散)のためにも、とてもいいことが実感できる。
10月9日(水) 先日、親戚の家で久しぶりにラブラドール・レトリーバー犬に会った。この犬君は我が家のアン(アールの母親、昨年11月に10歳で亡くなった)とほぼ同じ歳で子犬のころによく一緒に遊んだ。(このHPにも、「ラブラドール油絵」や「アンの思い出スケッチ集」に黒い姿をみせている)この犬を見る度に「盲導犬」のことを思う。ラブラドールは利口なので盲導犬として選ばれることが多い。以前、親戚のこの犬も盲導犬の選抜に落ちたものをもらったときいた。いい飼い主に恵まれて幸せそのものの生活を送ってきたが、もし、盲導犬に選ばれる栄誉を受けていると、とてもその甘ったれた優雅な生活はできなかっただろう。この日も30kgもある身体を飼い主の膝の上に預けて抱いてもらっている。(このスタイルは初めてアンに会ったときにアンがする格好を学習したものだという)ソファーの上で寝そべっている様を見ていると本当に盲導犬にならなくてよかったねと云いたくなった。一方で、けなげな盲導犬の晩年はどんな待遇なのだろうと気になってしまう・・。
10月10日(木) 今日は色々な初体験をした。サントリーホールでの”昼休みの無料パイプオルガンコンサート”に行ったのだが、サントリーホールに入場料なしで入ったのも初めてなら、パイプオルガンのコンサートも初めて、おまけにGパンをはいて自転車でコンサートに出かけたのも初めてだった。このコンサートはサントリーホールがダイキン工業(冷凍機や空調設備のメーカー)をスポンサーとして、月に一回無料でパイプオルガンを聴かせるというサービスで、近くの勤め人も来られるように12時15分から30分ほどの昼休みに開演される。何ヶ月も前から行きたいと思って毎月カレンダーに印を付けてチャンスを狙っていたが、秋晴れの今日、出先から戻ると直ぐに自転車でサントリーホール目指して出発。途中、西麻布とか六本木など繁華街の混み方はそれほどでなく、六本木の再開発の大工事を横に見ながら、開演4分前にホールに着いた。後は、30分余、オルガンの世界に浸る。真っ昼間のコンサートというのは、疲れをとるというより、オルガンの音をバックにして頭の中で考えている諸々のことがらについて次々と新しいアイデイアが浮かんでくるという体験もした。音楽の聴き方としては邪道かもしれないが、演奏会の後、新たなやる気がでてきたのは確かだ。次のコンサートは11月14日(木)。この日も最優先でサントリーホールにいくことにしよう。(ホールの席は半分空いている!)
10月11日(金) 今週は日本人が二人ノーベル賞を受賞したというニュースが続き、何となく世の中明るくなったような気分になる。1949年、日本人としてはじめて湯川秀樹博士(当時42歳)がノーベル賞を受賞したときは、敗戦から間もない時期の日本にどれだけ影響を及ぼしたか計り知れないと云われるが、私の年代でさえこの「大事件」を子供心によく覚えていて、湯川効果で理科系に進んだという”仲間”は数知れない。今回は毎年ノーベル賞候補にノミネートされていた物理学賞の小柴昌利俊氏(76歳)と、本人も周囲もまさかと思ったという化学賞の田中耕一氏(43歳)が対照的で興味深い。中でも、全く無名であった田中さんが選ばれたというインパクトは大きい。社会的な地位や学会の経歴と関係なく業績本位で田中さんというサラリーマンを発掘できるノーベル賞の選考方法がすごいと思う。心情的にはTVなどでみる田中さんが本当に邪念がない”いい人”に見えてうれしい。これから先に田中効果がでてくれば日本はいい方向に少し変わるかも知れない。
10月 12日(土) 「今日の作品」に角皿(陶芸)を入れた。14cmの角皿、中央部の模様はコバルトの象嵌。一部には白化粧の象嵌もしたのだが写真ではよく見えない。周辺は色釉薬にした角皿3枚はプレゼント用だ。陶芸はロクロを廻して丸ものも作るがどうも自由制作は四角が好きなようで、四角ばかり作っている。これには昔「立方体」の形状をしたものを蒐集した習性が尾を引いていると思える。ルービックキューブは大小各種、オルゴール、時計、アクリル製ブロック、銅製ブロック、各種木製ブロック、各種パズル、サイコロなどなど立方体のものは何でも集めた。陶芸の創作をやるときに何かと四角のアイデイアが湧くのは立方体コレクションからきているとみてもおかしくはない。その内に陶芸で立方体の制作を試みようかと秘かに(?)案を練っているがどうなるだろう。
10月 13日(日) 最近「3D絵本」をプレゼントされてまた3Dの不思議な世界に浸っている。またというのは数年前に3Dがはやった時にA1版の大きなポスターを購入して3Dを研究したことがあるからだ。3D(=three dimension、三次元)は絵や写真を特殊な見方で見ると普通では見えない立体的な画像が浮かんで見えるというもの。まず目の焦点を遠くの景色をみるように意識する。その状態で3Dのイラストを顔面におき目の焦点はそのままに遠くに保っていると、しばらくして突然立体画面が浮き上がってくる。立体が見えてくる瞬間はただの模様が突如意味ある立体絵で表れて劇的でさえある。確かに立体的な画像が隠れているけれども普通に絵をいくら細かく見ても見えない、目の焦点がずれているときに明瞭に立体に見えるという仕組みは、視力とは何なのか、見るとは何かを考えさせる。ある人が神の姿をみるとか、神の啓示を受けるというのは、この様なものかと思ったり、いや、焦点がずれて見るのはマインドコントロールされて別世界だけしか見えなくなっているのと同じかも知れないとも思う。同じ現実が目前にあっても焦点の置き方で見方が全く違ってくる。両方が目に映った事実ということもあるものだ。
10月 14日(月) 一本の矢は簡単に折れてしまうが三本束ねれば折れないと息子兄弟の団結を説いたのは毛利元就。広島のサッカーチームがサンフレッチェ(SANFRCCE)と日本語・イタリー語のチャンポンでこの三本の矢の逸話から名前をとったのはうまいネーミングだ・・。一人一人の力は小さくても大勢が同じ方向でまとまると一人では及びもつかない大きな力を発揮できると、コーラスを聴きながら感想を持った。冒頭の逸話はコーラスから更に脱線して連想が飛び交った一つである。合唱はソロでは絶対に不可能なボリューム感とかハーモニーの美しさをだすことができるし、集団のいい面をみることができる。人間の社会そのものが個人の弱い力を補うために成り立っているとも云えるだろう。一方で、グループの力とか組織の力が大きいことを思い知らされると個人の力を逆に考える。一本の矢は簡単に折れるかも知れないが、一本の矢が放たれて大将に命中すれば戦況が一変することもある。個人の力が社会に及ぼす影響も決して無視できない。・・フォーレとかヘンデルを聴きながら、個人の力を最大限に発揮させてしかも全体としてバランスよくハーモニーを奏でるコーラスのような「組織」が一番いいのでないかと思った・・。
「今日の作品」に「ご飯茶碗(陶芸)」を入れた。このところ陶芸作品ばかり続いていることを反省。

10月 15日(火) 一週間ほど前に三日月が美しいと思った。先週末に夜、妻とアール(コーギー犬)を連れて散歩に行ったときには、半月を見ながらこれは上弦の月だねと月談義をした。今夜は半月のお腹がふくらんで凸型月が輝いている。凸型の十三夜は、はらんだ豊穣の月として縁起もいいようだ。今週末は満月か。・・都会の狭い空であるが月を見つけるとハッとしてしばらく眺めてしまう。月の満ち欠けを見ていると、現代のパソコンゲームやインターネット、携帯電話など何もなかった昔の人はさぞや退屈な夜を過ごしただろうなどというのは非常に不遜な云い方であることだと気がつく。変わりゆく月を眺めて物思いにふけったり、その面白く規則性のあるメカニズムを考えているだけで退屈することなどなかったに違いない。古来、月が詩歌のテーマであったのがよく分かる。最後に尾崎紅葉の名場面を一つ、「・・月が・・月が・・月が曇ったらば、宮さん、寛一はどこかでお前を恨んで、今夜のように泣いていると思ってくれ」(金色夜叉)
10月 16日(水) 米国ではことある毎に「自由を守る」ことが大前提として叫ばれる。時々、日本人はそれほど「自由」を望んでいるのだろうかと思うことがある。強制や指導にすぐ馴染んでしまうし統制には抵抗が少ない。自由を望むかどうかは「遊び」が好きか否かでも計られる。「遊ぶ」とは、「命令・強制や義務からではなく、自分のしたいと思う事をして時間を過ごす」(新明解)とあるが、この意味で遊びができるのは少数派で遊びがまだ罪悪のような感覚が残っているように思える。(もっとも、「狭義では遊興や出歩くことを指す」という遊びは大多数は好きかも知れない。)私の定義では、「遊び」は、@経済からの自由(金儲けでない)A世間からの自由(名声のためでない)B未来からの自由(将来役に立つことと無縁)という三つの自由からなる行動とみているが、遊びもなかなか容易な事ではない。自由と遊びを享受することは、いまはまだ見果てぬ夢の様なものかも知れない。
10月 17日(木) 以前から八木重吉という名前は知っていた。「祈り」という歌の歌詞「ゆきなれた路の なつかしくて耐えられぬように わたしのみちをつくりたい」。この短い歌詞の作者が八木重吉で昔ピアノ伴奏でよく歌ったことがある。最近、八木重吉の詩「草にすわる」に出会った。「わたしのまちがいだった わたしのまちがいだった こうして草にすわれば それがわかる」 こんな詩を書けるのはただものではないと、遅まきながら調べてみると、八木重吉は1898年生まれ、1927年に結核で29歳の若さで亡くなっている。この早逝の詩人はキリスト者で2000余の詩稿を残したという。難解な言葉を使わない分かり易い詩は今でも非常に新鮮に心に響くものがある。「今日の作品」に「秋の花」を掲載したので、八木重吉の花の詩を引用しよう:「 花はなぜうつくしいか ひとすじの気持で咲いているからだ」 「花が咲いた 秋の日の こころのなかに 花がさいた」
10月 18日(金) あり余るお金の使い道を悩むことなど夢でもできないが、お金については現在の乏しきを分かちあっている程度が幸せかもしれない。勤め人時代、自分の使える時間が限られている時には時間の使い方にも緊迫感があった。このHPの「今日の作品」に入れた多くの作品も、夜の10時過ぎて30分の時間があればその時間をフルにスケッチに使ったことを思い出す。今、時間は自分の一存でコントロールできるけれども今しかないという緊張感なしにはスケッチの一枚も描けない。時間を自分で自由に、贅沢に使えるようになればなるほど時間の貴重さを意識する。何にしても「あり余る」とか「満足」は望むものではないだろう。満たされないからこそ使い方を工夫する。「白と黒とさえあれば傑作を作るのに十分である」(ドガ)。
明日から三日間近畿(鳥羽、琵琶湖)方面に小旅行にでかける。旅行もまた一期一会。瞬間瞬間を楽しむ旅行としたい・・。

10月 21日(月) 今日の午前10時頃には彦根城(滋賀県・井伊家の居城)内の茶室で「埋もれ木」という和菓子と抹茶をいただきながら庭園(玄宮園)をみていた。12時頃には長浜(琵琶湖の北東)の黒壁スクウェアでのっぺいうどん(あんかけ)を食べていた。午後3時頃には伊吹山(岐阜県の境にある滋賀県で最も高い山・日本百名山の一つ・頂上1377m)の標高1260mの場所で霧の中に紅葉を求めていた。そして夕方の7時には東京にいる。トレン太くんというJRのレンタカーシステムを使っての小旅行も無事に終わったが、この様な時間と移動が当たり前と思ってはならないと自分に言い聞かせている。これは極めて恵まれた条件がないとできないことだ。高性能の自動車と新幹線に感謝。
「今日の作品」に「唐辛子」を入れた。唐辛子の樹をこんなに細かく観察したのは初めてだ。この唐辛子の樹が生け花として使われていた。

10月 22日(火) 「秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびおり) かき数ふれば 七種(ななくさ)の花   萩の花 尾花(=ススキ) 葛花 なでしこの花 女郎花(おみなえし)また 藤袴 朝がほ(=現在の桔梗)の花 」<万葉集・ 山上憶良より>・・秋の七草をスケッチして順次「今日の作品」に掲載しようと思うが、いざ、どこで写生できるかと考えると簡単なことではないと気がついた。家の周囲にはほとんど草花がない(ただし、今は小さな庭先にホトトギスの花が盛りだ)。いつも犬の散歩で行く公園には女郎花はあるだろうか。別の公園には撫子がありそうだが、くずの花は姿が思い浮かばず、自分でも見つける自信がない。ともあれ、この秋、七草スケッチを試みてみたい。こういうことは宣言することでプレッシャーをかけるに限る。有言実行だ。
10月 23日(水) 「生誕100年記念展 小林秀雄・美を求める心」(渋谷区・松涛美術館にて、11月24日まで。その後、新潟、香川、広島、滋賀に巡回予定)に行った。家から自転車で15分、小さな美術館で開催されているので、評論家の書いた評論文や趣味の絵画などが展示されているかと思ったら大違い。小林秀雄が評論した絵画の本物(!)が多数展示されている。中川一政や梅原龍三郎など交流があった画家の絵やルオーの版画など自分で所持していたものもあるが、個人や美術館から借りた展示品も多く、評論文と並べて実物を観賞できる希有の美術展となっている。それにしても、富岡鐵斎、セザンヌ、ピカソ、ルノアール、ドガなどの名品がこう身近に見られるとは想像もしていなかっただけに大感激であった。小林秀雄の評論は本当に本人が楽しみ、味わっている感覚が伝わってくるので好きだ。それと作者に対する暖かい眼差しがある。盃や茶碗などの骨董にも眼があった小林秀雄のこと、「ピカソの陶器」には厳しい言葉がでるかと思うと、実に的確な表現をしている。「・・火と土は、絵の具や刷毛のようには、ピカソのいうことを聞くものではない。現に聞いていない。あんまり思い通りになる自在の才能に疲れた人間が、一番思い通りにならぬ美術を楽しむに至っている」
10月 24日(木) 先日のドライブ旅行の際、旧東海道の関宿に寄った。滋賀県との県堺、鈴鹿峠に近い三重県の関町は江戸時代の宿場町の姿を保存していて興味深かったが、関の直ぐ隣の亀山も古い城下町だ。たまたまこの亀山を舞台にした通し狂言をみた。国立劇場、十月歌舞伎公演 霊験亀山鉾ー亀山の仇討ちーは鶴屋南北の名作とされ、敵役の藤田水右衛門を片岡二左右衛門が演じる。藤田水右衛門は石井右内を逆恨みから闇討ちにし、仇討ちにくる兄弟、女、子供を次々に毒殺、謀殺など非道な手段で返り討ちにするという悪役だが、最後には亀山で仇をうたれるという芝居。江戸時代にはやはり人気役者が悪役を演じたようで、かの写楽もこの芝居の役者絵を多く描いている(江戸歌舞伎では、敵役は藤川水右衛門=ここ)。芝居のことで深刻になることはないが、実際の関宿での仇討ちを果たし石井家が本懐をとげたのは、石井右内が殺されてから実に29年目のことであったとの解説をきくと溜息がでる。ふと24年ぶりに帰国できた拉致被害者が思い起こされてしまった。
10月 25日(金) 「風船唐綿(ふうせんとうわた)」を「今日の作品」に入れた。絵を描いた時にはこの植物の名前を知らなかった。いただいた花束の中に混じっていた面白い形に惹かれてスケッチをした後、昨夜、犬の散歩の途中、花屋さんで同じものを見つけたので、名前を教えてもらったのが「風船唐綿」。早速にインターネットで調べると、ガガイモ科の熱帯性植物とある。この絵は正確には「フウセントウワタの実」で、フウセントウワタは白い可憐な花を咲かせることも分かった。はじめに風船唐綿の花は10月25日の誕生花だとの記事を見つけたので「今日の作品」にピッタリと勇んで掲載したが、後で更に調べると、10月29日の誕生花の説もある。いずれにしても、今は生け花用にも使われるという風船唐綿の実はユニークでいい。花言葉は、風船唐綿の花=「隠された能力」、風船唐綿の実=「いっぱいの夢」。1−2週間後には夢がはちきれんばかりに詰まっているかどうか、風船の中味を見てみたいと思っている。
10月 26日(土) 一昔前の話だが、大切にしていた何冊もの本をバザーに出したことがある。自分にとってはそれぞれの本と別れるのが忍びないけれども、他に出品するものもないので 思い切って提供した。ところが、バザーの会場にいってみると、そんな本が50円でも100円でも売れ残っている。タダでも欲しい人はいない。知人は枕の代わりにすると分厚い本を買っていった。それ以来、本は好きな人に譲るに限ると思い直した。売るならば漫画本の方が高く売れる。同じ本でも、それを宝物と思う人もいれば、ゴミ屑と思う人もいる。価値観とはそういうものだろう。・・最近は図書館に「ご自由にお持ち帰りください」というセクションがある。陶芸に関する本もここで手に入れたし、先日は山本七平の本(複数)をもらってきた。このリサイクルのシステムは非常にいいものだ。ゴミとして捨てるよりは誰か好きな人に読んで欲しい本の処分は、これからはこのシステムに便乗することにした。それにしても、山本七平の「空気」研究や「常識」の研究(約20年ほど前に出版)が少しも古さを感じさせない、むしろ新鮮な感じさえするのは、今これだけのことを書く人がいないせいだろうか・・。
10月 27日(日) モスクワの文化宮殿劇場が占拠され800人以上の人質となるという痛ましい事件が特殊部隊の突入でともかくも解決したが、その報道をみると朝日新聞のモスクワ特派員の批判的な書き方が際だっていた。いわく「多数の犠牲者が出たうえ、特殊ガスが使用されたことから、政府の強行策を手放しで評価する声は少ない 」 読売、毎日、産経など他の新聞はこういう論調を記事にしたところは見当たらず、NHKがモスクワ市民10人に聞いたという「評価」は朝日と全く逆であった。ニュースの記事というのは色々な形で主観が紛れ込む。一つのニュース記事だけでは「事実」は分からないと思った方がむしろ正確だろう。特に「評価」ほど当てにならぬものはない。ニュースでなくても10人がある事(または人)を評価すれば10人の見方がでる。180度反対の評価がなされるのも不思議ではない。新聞という印刷物であっても、所詮、記者あるいは編集者の好みが混ざった”風評”も多いと改めて思い知らされる。
10月 28日(月) 早朝、犬の散歩時に寄った西郷山公園(東京・目黒区)から雪をかぶった美しい富士山をみることができた。10月22日のコラムで「秋の七草」をスケッチすることを宣言したが、その後、七草を求めて早朝散歩は色々な(歩いていける東西南北の各方面の)公園めぐりをしている。はじめに見つけたのは「今日の作品」に入れた「白萩」。これは中目黒公園という今年オープンした新しい公園でスケッチした。今時の大きく派手な花々に見慣れていると、萩など見落としそうになるが、しばらく側で観察するとむしろ萩の地味なところにホッとさせられる。万葉の時代から歌に詠まれ続けた萩の雰囲気がよくわかる。「白萩のしきりに露をこぼしけり」(正岡子規、1893年=明治26年、27歳の作、35歳で死去する8年前) この句は、松尾芭蕉の句、「白露を こぼさぬ萩の うねりかな」を意識して詠まれたものだろうか。 萩の花言葉は「柔軟な精神」。
10月 29日(火) 何事も期待しすぎるとガッカリすることが多いが、期待もしていないのにいいものに巡り会うと、うれしさもひとしおとなる。昨日がそうであった。コンピュータや部屋仕事を続けると運動不足になるし、気分転換も必要と、昼食後に自転車で一走りした。東京都庭園美術館の前までいって入るかどうか一瞬迷った。開催中であるのは「フランス銀器の系譜ーピュイフォルカ展」。庭園美術館は旧朝香宮邸のアールデコ風な屋敷を美術館にしたもので、建築そのものも楽しめる好きな美術館だが、「銀器」にはほとんど関心がない。まあ、どうせ気分転換だと軽い気持ちで入場したらこれが意外に面白かった。ピュイフォルカはアールデコの銀器デザインの伝統を引き継ぐ工房だが、王朝時代の歴史的銀器と20世紀の革新的銀器を合わせて見ることができる。考えてみると、今やっている陶芸も食卓を飾るということからは銀器と同じ。様々な銀器を見ているうちに、陶芸のアイデイアがいくつも浮かんできて興奮してしまった。帰宅してすぐ忘れないようにアイデイアをメモ(デッサン)したら4−5枚の陶器デザインができあがった。教訓:異分野にも目を向けよう!
10月 30日(水) 先週の小旅行で古い街並みが大切に保存されているいくつかの街を通った。伊勢は観光用であるが昔からの姿が維持されているし、東海道五十三次、関宿(三重県鈴鹿郡)は貴重な旧東海道の町並みを地域が一丸となって保存しているのがよく分かった(重要伝統的建造物群保存地区)。また琵琶湖脇の旧北国街道、長浜宿も古きよき町並みを保存しながら現代とマッチさせていた。思い出すのはスエーデンの町並みや田舎の景色だ。郊外にある農家の格好や色までが何とも景色にとけ込んでいるのに感心したが、聞いてみると新たな建物には役所からいろいろ制限をつけられて個人の勝手にはできないという。ストックホルムなど都会の建物も外観には規制が多いらしい。だから、外から見ると100年も前の建築群にみえるが、一歩建物の中に入ると最新式の設備が完備している。インテリアもモダンなデザインなど全く個人の自由。ただ、外観という公共に関する個所は全体としての統一を図るという考え方である。日本の場合も、もし関宿や長浜が小渋谷であったりしたら、行ってみようとも思わない。街全体でまとまった特徴を提示できるということは、つまり街の文化があるということだろう。これからは、どんなことでもいいからその街の文化の香りが欲しい。
10月 31日(木) 昨日のニュースで東京・表参道の青山同潤会アパートの立て替えが正式に決まったと報じられていた。古き良き時代を懐かしみ建築の取り壊しに反対する向きもあるようだが、問題は後に何ができるかだろう。立て替え建築の設計は私もファンである安藤忠雄。今から完成が楽しみだ(昨日コラムに書いた江戸の町並みとは違う)。このホームページの代官山再開発(代官山アドレス) の項目は旧代官山同潤会アパートの跡地の再開発経緯を掲載している。同潤会というのは関東大震災(大正12年)の震災被害救済機関として設立され、同潤会アパートは当時最新鋭の鉄筋コンクリート造りの集合住宅として知られる。いわば日本における鉄筋コンクリート製集合住宅のモデルケースであったわけだが、再度の大地震に対する強度確認をすることなく100年足らずで、設備の老朽化、建物の劣化、メンテナンスアップ、非効率など問題が多発し、それぞれが立て替えの時期を迎えている。シンプルな木造建築の方が耐久性に勝ることもあることが実証されつつあるのだろうか。それにしても、代官山アドレスは工夫はあるものの、建築デザインが物足りない。設計を安藤忠雄に依頼していたら雰囲気がいまと一変していただろうにとチョッピリ残念。
ところで、毎朝、アール(コーギー犬)を連れて代官山アドレスの中を駆け抜ける。今朝は朝日が真正面から照りつけてきて突如、アン(アールの母)のことを思い出した。ここで見るように、一年前の10月30日に朝の散歩途中で撮影した朝日を浴びるアンの写真が最後となった・・・。

 

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