これまでの「今日のコラム」(2003年 2月分)

2月1日(土) 今日は「テレビ放送記念日」。丁度50年前、1953年(昭和28年)の2月1日に日本でテレビの本放送が始まったという。この半世紀をみるとテレビと自動車が我々の生活に変革をもたらした双璧に思える。けれども、テレビがもの珍しい時代は過ぎ去り、一億総白痴化などと云われてからも久しいが、番組の内容は白痴化(この言葉は差別用語で今は適当でない)路線とそう変わっているとも思えない。出演している本人たちばかりゲラゲラ笑ってふざけているけど全然面白くない内容が余りに多い。テレビ局が開局50年の提灯番組を組んでいるが、功罪半ばするなどと言わず、罪の方に目を向けた自己反省もほしい。国による規制とかコントロールはどこかの国のように思想統一となるから、自由な中でもっと工夫した新鮮な番組がみたい。テレビの最も優れたところは、世界中の生の姿を映像でみせることができることだと思うが、加工せずに(”やらせ”などせず)ありのままを伝えるのは案外に難しいものだ。いずれにしても、テレビやインターネットで世界中の個々人が国境に関係なく情報を自由に取り込むことができるようになれば、世界は間違いなく変わるだろう。

2月2日(日) 40年近くの勤め人生活で何に自信がついたかというと、少々の失敗とトラブルに驚かなくなったことかも知れない。トラブルとは、予定通りに進まない、売れない、利益が出ない、性能がでない、動かなくなった、壊れた、怪我した、死んだ・・などもろもろの問題である。予めどんなに綿密に検討し計画を立てて実行しても必ず成功するとは限らない。特に新しいことに挑戦する場合は、失敗により進化するとさえいえる。・・こんなことを思い起こしたのは、今日のトップニュース、アメリカでのスペースシャトル、コロンビアが大気圏に突入の際、空中分解した事故。アメリカーNASAという大組織が英知を集めた結果でさえ事故の確率は零にはなりえない。痛ましい事故だが、徹底した事故調査と再発防止でまた大幅に技術の進歩がみられるか。最も犠牲者を鎮魂することになるのは、この事故が人類の進歩にとって極めて貴重な経験と位置づけされることだろう。
2月3日(月) 今日は節分。「節分」は季節の分かれ目で、立春の前の日にあたる。春はすぐそこまで忍び寄っている来ているという季節を見事に感じさせる行事だ。節分の豆まきをテレビなどでみる度に、私の家庭では豆まきに冷淡であったと後悔する。私が子供の時には、家で豆まきをやった。「豆まき」というと、不思議に父が溌剌と豆まきをしたシーンを思い出す。夜の8時過ぎ、「鬼は外、福は内」を二回唱えて扉をぴしゃりと閉める。その後、家の中にまいた豆を拾って食べる。年の数なんて云わずにもっと沢山食べたものだ。子供達が独立してしまった今の時期になって、我が家でも毎年豆まきをして子供に楽しい思い出を作ればよかったと思うが後の祭り。次の代にはまた家庭でも豆まきをして節分文化を復活してほしい
「今日の作品」に「ぐい呑(陶芸)」を入れた。自分で飽きず眺めてはいい、いいと自己陶酔しているお気に入りだ。

2月4日(火) 白隠禅師の呼吸法というものがある。白隠(1685-1767)は臨済禅の中興の祖とされるが、「夜船閑話(やせんかんな)」という著書があり、これが健康法として注目されている。私はかなり前に「白隠の呼吸法」という解説本を読んだだけであるが、最近、本棚から取り出して目を通すと現代でも参考となるところが多い。全体としては「病は気から」の考えで、自分の身体が持っている回復力や気力を如何に活性化するかといった訓練法が書いてある。基本になるのが「呼気性丹田呼吸」、つまり、出る息で腹圧のかかるようにする腹式呼吸。肺の中に空気を取り入れようとするのでなく、肺の中のもの(老廃物)を極限まで吐き出し空の状態にしてできるだけ長い時間保つと、必要なものが自然と効率よく吸収されるという理屈だ。白隠の呼吸法はまた生活全般にも応用できる。なんでもかんでも自分に取り込むのでなく、何も持たず、求めず、身軽にしておくと自然とやる気が出る。元気のもとは空きっ腹だ。
2月5日(水) 年齢の差にこだわり過ぎると何かおかしい。歳が下だからという理由だけで「小泉君はまあよくやっている・・」といってみたり、70歳の人が一つ歳が下の後輩に「○○君お早う」、一つ年上の先輩に「××さんお早うございます」という。最近みたTVで89歳の老人が86歳の仲間に先輩面していた。私は、20-30歳を過ぎたら人間として年上も年下もないとする主義だが、そのためには年上、年下に関係なく丁寧に対応しなければならない。大体年齢を重ねたから尊敬すべきなどということは決してない。若い人でも立派な人は多いし、年寄りも人によりけり。老人が弱者となった場合は、老人でない弱者と同じように援助すべきだが、それは年齢のせいではない。年功でなくお互いに人間としての敬意を示すためにも、「○○君」は取り下げて欲しい。
2月6日(木) 昨日の夕方から体調が優れず何もやる気がせずにただ眠くてしようがなかったのが今朝まで尾をひいた。インフルエンザではない。犬の散歩にもきちんと出かけて、朝日を浴びた富士山をいつものように西郷山公園からみることもできた。不調の原因がなぜだか分からないままに朝食をとりながら妻と話をしている内に、突然その謎が氷解した。それは、シンナーの軽い中毒に違いない。このところ、自分の仕事部屋で特別にシンナーを使う作業を続けた。私の部屋は防音のため二重窓になっているが、はじめは注意して窓を開けて作業した。東京といっても外の気温は10度以下の寒い日。途中で窓を閉めて暖房をしてまた時々は換気するという繰り返しをしながら一日過ごした。そう思うと肺の中が何か毒されているような気になって、今日は外出しても大きな息で深呼吸ばかりしていた。部屋からは、シンナー蒸気の出そうなもの(塗料以外に、布とか筆、画布そのものまで)を全て外にだして、空気清浄機もいれた。きれいな空気を吸ったお陰で身体は復調したようだ。思わぬところで「シンナー遊び」は気力をなくすことを体験してしまった。
2月7日(金) 受け身の遊びは好きではない。はっきり云うとコンピュータゲームは嫌いである。コンピュータゲームで何時間も遊ぶ子供をみると、人類が退化する兆しでないかと大袈裟に考える。その延長上で、コンピュータも「受け身」一方になると危ういと思うことが多い。画像処理なども余りに便利な操作で決まった印刷が出来てしまうと応用がきかなくなる。面倒でも自分の意志でやりたい形で処理する方が「人間的」と思える。全てが自分の意志でなく、道具やソフトでコントロールされている状態は便利という名に隠れた奴隷と代わりがない。本来は”道具”は自分で作って使うと間違いがない。昔はよかったなどとは云わないが、私達の子供の頃には貧しい中でまずラジオ作り(それも鉱石ラジオから真空管式へ移った)、電話作り、無線機作りなどが工作の常道だった。それがテレビ、コンピュータ時代になって簡単には自分で手出しができなくなった。自動車はまだ自分で修理できる(欧米では日本以上に素人が自動車を修理する)。けれどもデジカメの故障は手が出ない。道具はあくまで「しもべ」で自分がコントロールできるものであるべきだが、作ることも修理も出来なければ、あとは道具の正体をはっきりつかんで使いこなすことだろうか。中味の分からぬ道具に振り回されることだけは避けねばならない。
2月8日(土) 中川一政(画家、1893-1990)のコレクションの中にゴッホの初期の油彩画がみつかったと、昨日のニュースで報道された。今日、東京・銀座で競売にかけられて、この41*35cmの農婦の絵は6600万円で落札されたという(今聞いたホッとニュース)。競売の依頼を受けていたオークション会社はゴッホのカタログ図版と比較して似てはいるが別物と評価して、1−2万円からオークションをスタートする予定だった。それを念のためアムステルダムのゴッホ美術館に鑑定をだしたら真作との判定がでたというから面白い。ゴッホは37年の生涯の間ただの一枚も絵が売れなかったことが知られている。ゴッホの弟の画商テオの奥さんがゴッホ兄弟の死後何年もしてゴッホを世界に認めさせた。ゴッホ美術館を以前ゆっくりと訪れたことがあるが、ある意味で生前売れなかった理由は理解できた。当時の金持ちが自分のサロンに飾って美しく輝かせるという絵とは明らかに違う。それが100年以上を経て有名な「向日葵」など確かに我々絵を見るものを限りなく元気づけてくれるのは、絵というものの不思議な魔力だ。今回の「農婦」は大幅に加筆・修復の跡がみられるというが、絵としての真価はどんなものだろう。このオークション騒動は絵の「価格」の作り方を教えてくれる。
2月9日(日) 「不易流行」は芭蕉が奥の細道の旅から帰って弟子に伝えた言葉とされるが、示唆に富み一般的にも使われることが多い。「不易」は「時代が変わっても変化がないこと。不変の法則や真理」、俳諧でいえば5-7-5のルールや季語などの基本であろう。「流行」は「時代や環境に応じて変化すること」、俳諧では新しい題材や新規の表現であろうか。芭蕉は不易と流行は相反するものでなく、基は一つと教えたとされる。変化することにより不易もまた意味を持つという見方はあらゆる分野にも応用できる。伝統や規則だけに安住していては見るべきものは生まれない。これまでの法則を知った上で新しい試みに挑戦することを心したいと思う。
「今日の作品」に「大皿(陶芸)」を掲載した。昨年に制作したが時間遅れをもって作品が焼き上がってきたもの。はじめは表面は黒一色にするつもりが、作り始めてから大いに悩んだ末にこんな絵をつけてしまった。妻からは、絵があると料理は盛りにくいと評判がよくない。どうも「流行」は簡単にはいかないようで・・。

2月10日(月) 日の出前にいつものように犬の散歩にでかける。西郷山公園(東京・目黒区)では紅梅、白梅がそろって花を咲かせていた。公園をでようとしたとき鶯の鳴き声が聞こえたので、振り返って鶯を探したが見つからなかった。帰路、柴犬を二頭連れて散歩する西欧人に出会った。外人が「日本犬」を連れていても、別におかしくはないのに思わず微笑んでしまう。この散歩コースではよく外人に会うことがある。三頭のチワワを連れて散歩する外人さんもお馴染みだが、この人は電柱に汚らしく針金で貼り付けてある不動産の広告(不法広告だ)を、犬を散歩させながら外していく。早朝で気がつく人は少ないが、お陰で街の美観が保たれている。こういう実行力はやはり外人と妙なところで感心する。そういえば、この前、自転車で青山近辺を走っているとき、西欧人の男性が道路工事の旗振りをやっているのに出会って、これも思わず笑みがこぼれた。最近は女性が旗振りをやっているし、東南アジア系の外人が道路工事現場で働いていても当たり前ではある。それが見たところ西欧人というだけで違和感を覚えてしまう。外見で予断を持つことはない。けれども、私が「コーギー犬」を連れて散歩している姿を英国人がみたら、やはり珍しく見えるのかも知れない。
2月11日(火) 「君子は多能を恥ず」という(論語、芭蕉も引用している)。こんな言葉があるから、自分の新たな能力開発もやらなくなる。君子でもないのに地位や名声を得るとパソコンやら細かい仕事などを下々に任せるばかりでなく、新しい分野への挑戦もしない。一方で職人はこの道一筋で脇見もしないのがよしとされる。しかし、考えてみると「多能」な人などそういるものではない。自分のことをみると、パソコンもやるし、あれこれとモノを作ったり創造することは好きで手を出すが、一つの能力でさえ不十分な上に、例えば、相場(株取引)能力とか金儲け能力など極めてオソマツだ。器用貧乏は多能ではなく能力不足であろう。多能といえるほどの能力があれば云うことはないだろうが、君子というのは便利にできている。いわく「君子は豹変す」、「君子の過ちは日月の食の如し(日食、月食のように欠けても直ぐに戻る)」。君子を参考にしていてはいつ云うことが変わるか分からない。多能を目指して努力することを何ら恥じることはないと思っている。
2月12日(水) 「ルサンチマン」という言葉がある。フランス語(ressentiment)では「恨み、遺恨」の意であるが、「復讐的な憎悪、恨みや憎しみの鬱屈した感情、積もり積もった嫉妬の感情」といったニュアンスで使われる。元来は、ニーチェ(1844-1900)がヒューマニズムや人権思想のことを強者に対するルサンチマンが基にあるとしてこの言葉を使ったとされる。ニーチェの時代とは社会環境も条件も異なるが、現代も人間の微妙な感情を分析する場合にルサンチマンは一つのキーワードとなりそうだ。マスコミの政治評論をはじめ、批評家、権力指向者にルサンチマンが潜んでいることは多い。深層心理としてルサンチマンが強すぎると、いくら理屈をならべても建設的な提案ができない。しかし、私は個人の場合、ルサンチマンをより昇華させた形で飛躍するバネにするのは悪くはないとも思える。「いまにみておれ・・」と発憤して大成した人は昔の恨みなど忘れてしまう。この方が気持ちがいい。
2月13日(木) 幼児を見ていると人間の知能の発達というのはすごいものだといつも感心する。犬も利口だけれども幼児の知恵にはかなわない。幼児が成長した大人の実績もすばらしい。1969年にアポロ11号で月面着陸を行った(この時私はインドに出張中で現地でも大騒ぎしたことを思い出す)ことなど、いま考えても驚嘆する人類の英知だ。人間の知恵はその後30年以上蓄積を重ねられている。一方、こどもは生育に伴い社会性が求められるようになると、知能を素直に伸ばすよりも対人関係で葛藤がおきる。能ある鷹は爪を隠さなければならないこともあるし、周囲で足の引っ張り合いも演じることだろう。人類もこれほど科学技術が発達している時代に、「社会」の問題は一向に解決しない。人間の際限ない知恵を世界社会の問題解決にもっと活かせないものか・・。
2月14日(金) バレンタインデーとか。息子の嫁と娘と娘の娘(?)からチョコレートをもらった。自分で買って食べることもあるくらいチョコレートは好きだ。プレゼントされたチョコは有り難く頂戴し、それぞれをしばし眺めたあと時間をかけてゆっくりと味わった。息子からは「USBメモリー」をプレゼントされた。大きさは小指の長さ程度、厚さ5mmほどの超小形メモリー装置。パソコンのUSB端子に差し込んで即座に64MBのデータを取り込むことができる。これを他のパソコンにつなぐとwindows-mac間でも簡単にデータのやりとりができるという優れものだ。こういうメモリーがあることさえ知らなかったが、以前macからwindowsへの接続で苦労したことなど忘れてしまいそうだ。このUSBメモリーははじめキーホルダーかと思った。紐がついていてキーホルダーにしてもなかなか格好がいい(ここ参照)
2月15日(土) 確定申告の時期、赤字ながらいつにない帳簿作りをやってみると、自分は案外帳簿のまとめや法律も好きだったかも知れないと思うことがある。元来が、理工系、工業系に進んだのは、育った環境ではその方面の山が高くそびえて見えたからに過ぎない。法律や文学が目前にそびえ立っていたらその山に登ったかも知れない。山を下りてきて見直すと、どの山が自分の一番の適性であるかなど考えた訳ではないことに気がつく。それでも「そこに山があるから登る」で十分であろう。縁あって結ばれた以上のものはない。若者も「この道」と思ったものがベスト。ただ難しい山に挑戦して欲しい。趣味で何をやるか、第二、第三の人生をどう過ごすかなども悩むことはない。そこにある好きな山に登る贅沢ができる。計画通りの人生など面白くもない。成り行き人生だから可能性を楽しめる。
2月16日(日) 夕刻から甥の結婚式・披露宴で代官山のレストランテASO(ここ)に招待をされた。犬の散歩でその店の前は毎日通る場所だ(表通りはここ)。人気のレストランと話には聞いていたがこれまで一度も中に入ったことはない。結婚式ではバブテスト教会の牧師話が上手だった。子供が結婚して親は夫婦二人の新生活に戻ると云っていたのが印象的。料理は阿曹シェフにメニューの説明をうけた後、評判通りの味を堪能する。会場の雰囲気や料理の素敵さ以上に、新婚の二人が爽やかだったのが一番気持ちがいい披露宴だった。宴が終わって帰る頃には、降り続いていた霙もあがり、寒空に満月が美しく輝いていた。
2月17日(月) 「今日の作品」に「ニャンとかなりますように・・」の絵を入れた。久しぶりの水彩画。何がなんでも今日「作品」を更新したいと、身の回りを眺めて、猫の置物を見つけだして描いた。本来は椅子に腰掛けて釣りをしている猫ちゃんだが、足をひざまづかせると、丁度「神様、わたしがニャンとかなりますようにお守り下さい・・」とお祈りしているようにみえるので気に入った。・・少し前の話であるが、アメリカ生まれのバーナード・フュークスという画家の展覧会にいった(@代官山、ヒルサイドテラスにて)。アメリカのモダンアートと正反対の画風で、全米屈指の画家ということだったが、私は名前を知らなかった。このフュークスが何でもない風景や事物を画家の目で表現するとたちまちに活き活きとした絵に仕上がっていたのに少なからず影響を受けた。何も無理してテーマを探さなくても、自分の身の回りで目についたものを自分流に素直に表現すればいい。・・今日描いた猫ちゃんもそう思うと気楽に一時間で描けてしまった。
2月18日(火) 試験の場合には”もう少し時間があれば・・”と思うこともあるだろう。けれども「制限時間」が有り難いことも多い。絵を描く場合など時間制限がないと終わりがない。昔描いた絵に加筆することなどがしばしばおきる。今日はどうしても手直ししたくてある水彩画に手を加えて裏をみると10年前に描いたというサインがあった。これなどは自分がやりたいようにやったまでであるが、一般的には絵も制限時間の中で気力を集中して描く方がいいと思っている。人の一生も制限時間があるから充実する。制限時間が緊迫感を作る。一期一会という考え方も、お互いに会っているこの瞬間は二度と戻ってこないからこそ貴重な時間とみる「限られた時間」の感覚であろう。何にしても制限時間の中で思う存分にやってみる、できなかったものはそれまで・・。別に落第させられる訳でもないから気楽なのがいい。
2月19日(水) このところ「ヒトは如何なる生物かー等身大文明の顛末ー」という本を読んでいる。著者の生島さんは学生時代の友人だが、数学の先生をしながら哲学やら舞踏にご執心だったりして、私とも妙に気が合うところがあった。今はこの本を評するものではないが、読みながら色々に思いを馳せる。人間の遺伝子の97%がチンパンジーと共有することも知った。大体、生物としてのヒトは犬より劣るところも多い。人間は3%分の進化した知能を持ち、それが極めて大きな違いになるということだろう。しばしば指摘されるように、これまで拡張一直線できた人間の文明は、ごく最近になって地球という規模で限界が見えてしまった。人口問題も含めて、限られた地球のなかでヒトはどうなるか、どうするべきかを知りたい。有限の中での生き方に、弱肉強食という動物の理屈でない人間の知恵が試されるのはまさにこれからだろう。
2月20日(木) この前、インターネットオークションで大型のイーゼル(画架)に目を付けた。娘がオークションでよく買い物をするので便乗したのだがオークションでは締切時間の5分間が勝負だとは聞いていた。この時は、最後の一分で勝負を付けようと本気でねらったが、数分前には全く接続ができなくなってしまい、最後まで競り合うこともなく他の人に決まってしまった。自然の成り行きか、誰かが競り合わぬようなテクニックを使ったのかは分からない。今日、インターネットで確定申告用紙に打ち込みしようと思って国税庁のサイトに接続したが全く使いものにならない。一週間前に試しにやってみた時にはこれは便利になったと正直喜んだ。それが今回は回線が混雑してほとんど進めないのだ。国税庁では「接続が困難になっています・・夜中にサーバーの拡張をやります・・」などのコメントを出しているが時間の損害は大きかった。考えてみると、この用紙書き込みのシステムはただの閲覧とは違い、一人一人の接続している時間が異常に長いものだろう。回線の想定違いとするとお粗末だ。・・待ったなしの勝負をするにはインターネットはまだまだリスクが大きい。
2月21日(金) 電車で移動する時に山口瞳(1926-1995)の「山梔子(くちなし)の花」という単行本を借りて読んでいる。私などは山口瞳というと「江分利満氏の優雅な生活」の直木賞作家、そして、柳原良平のイラストと共にサントリーのコマーシャルの全盛を築いた人というイメージを持つ。ただし、サラリーマン時代には、サラリーマンもの専門の山口瞳を読んだことはない。いまこの作家の短編集を読んでみると勤め人の哀愁、男のほろ苦さのような感覚が何か別世界のようにみえる。安定した毎日の生活が続く中でサラリーマンが哀感を味わうというシチュエーションは、よき時代であったのだろう。あるいは同じ勤め人でも千差万別なのだろうか。短編集のどのページも同僚と飲むシーンと、それに喫煙するシーンばかりでてくる。”たそがれ清兵衛”(山田洋次監督の映画、原作は藤沢周平、同僚との付き合いを必ず断って、 たそがれ時に、まっすぐニ人の子供と老母が待つ家に帰る父。 同僚たちに陰で”たそがれ清兵衛”と呼ばれた)は山口瞳の世界にはなかったのかも知れない。・・まだ上映が続く内に、是非、「たそがれ清兵衛」を見たいと思いつつ・・。
2月22日(土) 世の中には自分のことを棚に上げて他をけなしたり批評する御仁(や機能)は数知れないが、一方でいつも自分の愚痴を云ったり、できないの、駄目だのと云ってみる人もまた多い。後者は日本人の場合に特に多く感じる。他人と比べて出過ぎないことに気を使い、出る杭は打たれる事を未然に防止するのか。自分を弱く見せて相手の同情をかう、あるいは油断をさせる方便に思えたりすることもある。自分を卑下し過ぎる人は、目標が高いとも解釈できる。そこそこの美人が、私なんか鼻も低いし背も低いできそこない・・などと云えば、絶世の美女を基準に置いていることだろう。「愚痴」を辞書で引くと「言ってもどうしようもないことを、くどくど言うこと(新明解)」とある。容姿は勿論、才能や幸福度、身体など「そこそこに」恵まれている人の愚痴をきくと、いわば「神への感謝」はどこにいったかと思ってしまう。「言ってもどうしようもないこと」を云うよりも、感謝の言葉をいうべきでないだろうか。
今日2/22は、「ニャン・ニャンニャン」で猫の日とか。朝には今日のコラムは「猫」と決めていたのにグチってしまった・・。

2月23日(日) 「代官山アドレスの終焉」を考えるのは寂しいが、期待はずれからそんな言葉が頭をかすめる。「代官山アドレス」というのは代官山駅の脇にあった同潤会アパート(日本で初期の鉄筋アパート)を取り壊し再開発された地区の名称で、このホームページでも建設経過を細かく掲載したりして個人的にも思い入れがあったものだ(私のHPはここ)。完成した後2年間、代官山方面に犬を散歩する際にはほとんど毎回このアドレスの通路を通っている。・・といっても、誰も人のいない早朝か夜の遅い時間に走り抜けるだけである。最近になってアドレス通路の入口に、犬はだめです、自転車はだめです、スケボーはだめです、公序良俗に反するモノは入ってはだめです・・という看板が出された。先日、こんなバカげた看板を無視して早朝犬を連れて走っていたら、たまたま守衛さんが通りがかり、お互いに「おはようございます」と挨拶を交わした。その直後、忠実な守衛さんは「犬は禁止されています、だっこして通るのはいいのですが・・」。守衛さんが悪いわけではなく、こんな看板をあえてだすアドレスの管理責任者の問題であるのはいうまでもない。犬を公序良俗に反するものと同等に考えるセンスも「代官山」らしくない。この近所には犬と一緒に入れるカフェーや犬を歓迎してくれる広場も多いので来るなといわれれば行かないまで。といっても、ただでさえ閑散としてきたアドレスが本当に終焉とならぬように、この際、責任者は再考して看板を撤去できないものか。
2月24日(月) 便利になるのは大いに歓迎するが、ますます「心」を置き忘れぬように気を付けねば・・と青臭い説教を自分にするほど最近の通信やコミュニケーションの変化は目まぐるしい。私のこのホームページをはじめに作成した時のメインはコーギー犬ともう一つ、娘が留学中に私が手作りしてだした「絵はがき」であった。当時、ほんの7−8年前であるが、国際電話を如何に安く済ますかに苦心したほどで、余程のことがなければ海外に電話などはできない。ニフテイーのパソコン通信も上手くいかず、結局手作りの絵はがき(表に妻が文章を書く)が最良の通信手段となった。今ならE-MAILで好きなときにやり取りができるだろう。先ほど、また新製品が加わり、妻と娘の間でインターネットを利用して相手の動く姿を見ながら同時に話をしていた。これなら海外とテレビ電話相当のコミュニケーションがインターネットと変わらず極めて安価にできる。けれども、こんなに便利になると、手紙やメールでは相手が見えないから心のやりとりができるのに顔を見ながらだと日常会話しかできないとか、身なりを整えてステージにでも上がるようにパソコンに向かうなんて面倒くさいとかいって臍を曲げてみたくなる。案外に、手作り絵はがきはこれからも使えるかも知れない。
2月25日(火) 前にもこのコラムで書いた覚えがあるが、自分の絵には完成がない。描き上げた後、半年、一年後に加筆したり直したりしたくなる事は数え切れないほどある。マチスが注文を受けた絵を30回以上描き直したとか、ルオーは購入してもらった絵を取り戻してまた加筆したという大家のエピソードを知ると、自分流に後で描き加えてもいいのだと安心をする。勿論、短時間に勢いで描いて終わりにする絵も多いが、納得するまで悪戦苦闘して仕上げるのもまた一つのやり方であろう。・・たまたま「これまでのコラム」で2−3年前のコラムを読んでみると、コラムの文章も絵と同じで読み返すと直したいところがいっぱいでてくる。一方で、毎日待ったなしでとにかくもよく書き続けてきたと思うところもある。コラムはいわばその場の感覚で勢いに任せて短時間で仕上げた「作品」かも知れない。筋が通らなくても、下手であっても、修正もなしにそのままの文章を掲載しておくことにした。ところで、「生き方」はやり直しはきかない。昔のことをいくらこうすればよかったと悔やんでも「描き直す」ことは不可能だ。生き様は正に瞬間勝負で過ぎ去ったものは全てその人の「作品」。最後に後悔しないためには、いま自分がやりたいことと存分に格闘することだろうか。
2月26日(水) 「今日の作品」に「雛人形」を掲載した。季節モノを描きたいと妻に云ったらでてきたのがこのミニチュア雛人形。陶芸で作った皿に乗せて描き、最後に物足りなくて桃の花をいれた(もう少し大きな枝を描けばよかった?)。雛人形を描いたのは初めてだ。元来、男兄弟の中で育ったのと、時代の所為で、雛祭りは全く無縁であった。そのためか、いまだに、7段飾り、三人官女、五人囃など大袈裟な雛人形にはある種の嫌悪感があり、歴史博物館でみれば十分と思っている。このミニチュア雛人形は我が家のお気に入りだが、どういう訳か出所が不明。形はシンプルであるが塗りはしっかりしているし、顔や衣装のアレンジも好きだ。早速、今日、娘の娘が来るのに合わせてこの雛人形を飾った・・やはり自作の丸皿に乗せて。
2月27日(木) 昔、「ゲーテいわく・・」の決まり文句があった。偉い人(定義が難しいが、有名人でもいい)がこう云った、こういう意見があると他人の話ばかり並べて、本人はどう思うのか明確に表明しないやり方に出会うとまたかとげんなりする。今日の天声人語(朝日)などまさにこのスタイルだった。当事者意識がなく、あくまでも評論家の立場で自分はどうしたいというはっきりした意見を避けている。引き合いに出された人も断片的な文言だけを使用されて迷惑しているかも知れない。情緒的な散文ではなく、論理的な意見というのを”たまには”示してもらいたい。そういえば最近の天声人語を読んで書き手が楽しんでいるなという雰囲気がほとんど感じられないのも寂しい限り。他人の言葉で感動を伝えるのはよくあることだが、本人が共鳴しているという響きも聞きたい。・・と、確かに批評をするだけなら楽なものだ。
2月28日(金) 自転車に乗っていると他の自転車が気になってしようがない。一番の要注意は「姫」。特に若い女の子は怖い。ブレーキの反応が鈍いのにスピードをだす。おまけに最近は携帯電話をかけながら片手運転している女の子がやたらと多い。子供を後ろの席に乗せた「母姫」も侮れない。二人乗りは慣性がついて停止し難いのにブレーキのかけ方が遅いし、歩くスピードに合わせるような減速走行ができない「姫」が目に付く。今日、所用で渋谷まで自転車で行った時には「外人姫」が怖かった。私がかなりのスピード(といっても絶対に安全運転)で走っている時、後ろから猛烈なスピードで自転車が迫る気配を感じて先を譲ったら、これが若い外国の女の子だった。しばらく同方向で後を付けたが、歩行者の迷惑も考えぬ危ない運転で信号も無視して走り去った。自転車を使い始めてつくづく感じるのは、自動車の運転者は皆交通ルールをよく守るということ。一方で自転車の運転者は道路交通法も何も知らないと思った方がいい。自転車に乗るときには自転車にご用心!

 

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