これまでの「今日のコラム」(2003年 3月分)

3月1日(土) インターネットでたまに孫に童謡を聞かせたり、芥川龍之介の小説や方丈記など、名作の朗読を聞くことはあった。けれども、尊敬する文芸評論家、小林秀雄の講演まで音声で聞くことができるとは知らなかった。著作権はからむが音楽の取込は信じられないほど広範囲なジャンルのものが簡単にできる。インターネットはますます便利になってきている。こんな時にまだまだ未解決の広大な分野にみえるのが「言語」だ。日本の中ではインターネットで日本の古典も読めるし聞くこともできる。一方、言語と無関係の音楽の分野では国境がない。インターネットそのものが国境を取り払ったが言葉のバリアは大きい。それぞれの言葉という文化は永遠になくなるものではないから、ある種の翻訳システムが課題かも知れない。アラビア語が即、英語に変換されて読めるし聞ける・・。世界中の言語が相互に翻訳されたり、また同時通訳される。異なった文化圏の相互理解が底辺から広がると世界は変わるだろう。

3月3日(月) 昨日から一泊で温泉に行ってきた。秋田県雄勝郡の稲住温泉。秋田県、宮城県、山形県の三つの県境に近い場所にある。この稲住温泉(ここ)は武者小路実篤が長期に滞在して書画を残していることで知られているが、芳名帳をみると多くの有名人のサインがみられた。中川一政や佐藤栄作があると思えば、若き頃の吉永小百合がある。多岐川裕美の「恋爛漫」とサインしてあるのがよかった。この温泉の建築(別館)は建築家、白井晟一(1905-1983=ここ)の設計によるもので、50年前にできたこの建物を見るために訪れる客も多いという。私たちも二組の建築家夫妻の案内でこの温泉に行ったのであるが、細かい建築の解説を受けて温泉で休養しながら物知りになった。帰途、温泉巡りのダブルヘッダーで、鳴子温泉の早稲田桟敷湯(ここ またはここ)にも行った。この温泉も建築家、石山修武(1944-  、紹介はここ)が設計したというユニークな温泉。私などはこちらの温泉建物がすっかり気に入った。温泉はお湯に入って身体を休めるだけでなく、眼の元気を取り戻すこともできることを知った。
3月4日(火) 昨日は温泉巡りの後、もう一つ行事があった。帰途、仙台に寄り、「せんだいメデイアテーク(smt)」の建物を見に行ったのだ。smt(ここ)は伊東豊雄(1941- 、紹介はここ)の設計による仙台市の公共施設であるが、その斬新な構造(従来にない鉄骨独立シャフトとハニカムスラブ構造の組合せ、独特の二重ガラスの多用など)とデザインが建築中から世界に注目されたという。2001年のグッドデザイン大賞も受賞し建築界では話題の建物だ。この建物は私の好みにも一致してうれしく見学した。建築についても感動を伝える媒体としては絵画などと全く同じである。その前にいるだけで幸福感に浸り、創作へのエネルギーを得ることができる。秋田の秘湯にも高い文化があり、また仙台にも世界トップの建築がある。
「今日の作品」に雪山スケッチを掲載した。温泉の側の山並みを描いたが雪山を間近に見たのは本当に久しぶりだった。

3月5日(水) 職業に貴賤はない。けれども目立つ役割と縁の下の仕事があることは確かだ。昨日のコラムに書いた「せんだいメデイアテーク」は伊東豊雄氏の建築設計ばかり目立つが、この独創的な構造デザインは、佐々木睦朗という構造設計者の協力なしには実現しなかっただろう。同じように、東京オリンピックに合わせて建築された「代々木国立屋内総合競技場」(ここ)は建築家、丹下健三の傑作とされるが、当時、実績のないシェル構造の強度計算を担当した坪井善勝の役割は建築デザイン以上に重要だった。私はたまたま学生時代にシェル構造を勉強したことで、シェル・空間構造の権威である坪井さんの名前を知っていたが、一般的には丹下健三ほど著名ではない(その道では知らぬ人はないとしても)。めざましい独創感覚も貴重ではあるが、しばしば人間の優れた頭脳は陰に隠れて見えない。華々しくスポットライトを浴びる人を見るとき、必ずいる「縁の下の力持ち」にこそ焦点を当てたいと思う。
3月6日(木) 「社会で成功するためにはIQではなく、EQだ」といって、EQが話題になったことがある。例によって、アメリカの心理学者がビジネスマン向けに、人生に必要なのはIQではなくEQだという本を書いてベストセラーになったのが発端らしい。EQ(=Emotional Quotient, 心の知能指数と訳す場合もある)は「自己の感情に気づきコントロールする力」と「他者の感情に気づき周囲とうまくやっていく力」の尺度を測る(internetで簡単にEQテストを受けることができる)。それはいいとして、NETでのテストをリンクしなかったのは、この種の指数を真面目に考えることもないと思うからだ。まず、IQ(=Intelligence Quotient、知能指数)は確かに「人生、社会の成功」と直結するものではないだろう。しかし、EQの点数が高いと「成功する」というほど単純でもない。「成功」とは何なのかもはっきりしないが、成功が全てという価値観が見え隠れする。人格と成功は全く別物だ。むしろ、Emotional(感情的)な対応は訓練とか努力でいくらでも改造できるから、自己の完成といった面でEQを向上させるのはいいことかも知れない
3月7日(金) 雨の中、メトロポリタン美術館展(@渋谷・Bunkamuraザ・ミュージアム)にでかけた。行きたいと思いながら機会を逸してきたが、9日までの開催期限と知り、時間をつくった。会場には列んで入場する。案内のお兄さんが、「前の人に続いてゆっくり進んでください」と声を張り上げていた。まだ、こういう過剰親切が生きている。電車の案内で「電車が止まりましたら押し合わず順序よくお乗り下さい」とか、「揺れますのでつり革によくおつかまり下さい」、「忘れ物のないようにご注意下さい」といった親切案内はかなり減ってきたと思っていた。外国ではこんな注意を大人にしたりしない・・と外国を引き合いにだすこともないが、幼児に言い聞かすような案内ではある。自ら考え、自己責任で行動するという基盤が弱いのかなどとも思わないでもないが、ただ仕事熱心で親切なのだろう。・・美術館の方は、やはりピカソ、それにモデイリアニが強く印象に残った。モデイリアニは図版などでみるよりはるかに力強く、いい。それにしても、「ピカソとエコール・ド・パリ」が既に「近代」絵画となり古典的にさえ見えてくるのは感慨深い。「現代の絵画」は何だろう・・。
3月8日(土) 昨日、「日本アカデミー賞」の授賞式が行われ、「たそがれ清兵衛」(山田洋次監督)が13部門中、12部門で最優秀賞を獲得したというニュースをみた。比較する材料はないが、主演男優・清兵衛役の真田広之、主演女優・宮沢りえは無条件によかったし、何より監督の感動を創り上げる手腕がすばらしいと思った。この映画は2月の下旬に再上映のものを妻と見に行った。退職前との大きな違いの一つに、退職後、妻と映画を見る機会ができたことがある。「千と千尋」も見たし、「ハリーポッター」もみた。退職前の20-30年間(!)は映画館に行った覚えがない。それをいえば、「今日の作品」に雪の稲住温泉のスケッチを掲載したが、温泉には退職前60年間行ったことがない、ということになる。自慢でも、卑下でもなく、それが体験した勤め人の現実であった。だからこそ、これからの人生、やりたいことが限りなくある。
3月9日(日) 「人は環境の子なり」という。人はその時代や社会の情勢を超越して生きることは出来ない。そうした環境が人を形成する側面は確かにある。幼児・子供についてこの言葉が語られる場合も多い。両親(特に母親)や家庭が幼児に及ぼす影響は絶大であるし、子供は学校や教師により如何様にも左右される。成長過程によい環境に恵まれるに越したことはない。けれども、この言葉を逃げる口実にしてはならないと常々思う。成人した人間は全て自己責任で自分のことを処理すべきで、間違えても、20歳を越えた人が境遇や育った環境に愚痴を言ってはならない。大体、過ぎ去った時空の環境に恵まれなかったといって嘆いても何も始まらない。もし、自分が恵まれた環境で育ったと思えれば、大いに親や周囲に感謝すべきだし、逆に、恵まれなかったと思えば、だから自分に境遇を乗り越える力が付いたと考えればいい。長い長い時間のスパンでみると、人はその人以上でも、以下でもない。結局は本人が自らを作り、磨き上げるものであるように思える。
3月10日(月) 今朝、アール(コーギー犬)の散歩でいつもの交差点を通りかかったところで、陸橋の柱や横桟に新しい巨大な落書きが加わっているのに気がついた(陸橋からみた風景はこのHPに掲載してある=ここ)。大体、この近辺には落書きが多い。スプレーで手当たり次第、やりたい放題といった落書きは一向になくならない。教会の美しい石壁が無惨に汚され、所有者が落書きの上に塗装で仕上げ直したとたんにまた落書きするなどかなり悪質だ。同一人物が書いたと思われる落書きが何カ所も、何度も繰り返されるのに、犯人が逮捕されたという話をきかない。警察は落書き犯など追跡しようとも思わないのかも知れない。落書き犯罪をバカにしてはいけない。ニューヨークで「破れ窓理論」に従って、小さな犯罪を取り締まったら街全体の犯罪が減少したという事例がある。「一枚の破られた窓を放置すると、ビル全体が荒廃する」というのが「破れ窓理論」。小さな種を取り除かなければ、大きな犯罪に繋がりかねない。ニューヨークが「破れ窓理論」で対策のモデルにしたのは日本の「交番」だという。ところで、落書きされた陸橋の直ぐ脇には交番がある・・。
3月11日(火) 忙しい日常に流されていると周囲が見えなくなる。「豚の尻尾は終日せわしく動いているが何もしていない」と忙しさを皮肉られることもある(私は豚の生態を追求していくと実は尻尾が動くことに非常に深い意味があるのでないかと思う)が、とにかく忙しく動き回るのが日常である人は多い。一方、ロウテンポのリズムで繰り返す日常もある。どちらにしても「日常」は生活そのもので、何もしていないように見えようが、内容が充実していようが、繰り返す事による疲労が生じる。私自身の場合、この疲労を最小限にする方策は日常の中にできるだけ「非日常」を取り込むことだと思っている。それはどんな些細なことでもいい。今朝、犬の散歩の時に辛夷(こぶし)の蕾が膨らんでいたとか、ハッとする店が新たに開店したとか、何でも非日常のネタになる。勿論、普段はお目にかからない美しい対象(美人でも、美術でも、あるいは美文でも、美しい心とか)に、ほんの瞬間でも巡り会えばそれが非日常となる。せわしく動き回りながらも、非日常は発見できるものではないだろうか。
3月12日(水) 人間は歳を重ねると共に上達したり、進歩したり、あるいは利口になるかというと、必ずしもそうはいかない。若者もそのことを知っているので、ある年齢からは、歳をとるのを嫌がるし、年寄りを(衰えた対象として)いたわる。体力勝負のプロスポーツで限界が見えれば即引退となるのは退化する現実を教えてくれる。けれども、例えば画家などは若い頃の絵の方が勢いがあっていいというケースもあるが、年齢と共に独特の味がでてくるという場合も多い。経験による進化はバカに出来ない。それにしても、「何もしないでいて」時間が経過するだけで進歩することはあり得ない話だ。・・リピートで作った陶芸の「ぐい呑」が焼き上がってきたのをみて、前の制作分と比べてこんなことまで思いが広がった。最初の「ぐい呑」の方がずっと上出来に見えたのだ(「今日の作品」に新作を掲載。前との比較は、陶芸コーナー参照)。今回のはあえてゆがみを付けたが、わざとらしさが見えて駄目。むしろ前回の素直な形態の方が品格があるように思える。経験を積むといいものができるなど大間違いということを思い知らされる。初心に帰って出直さなければならない。
3月13日(木) 良寛の書に「一生成香」の言葉がある。「生涯いい香りを発しながら生きる」とはすばらしいことだが、そう簡単にできることではないだろう。良寛(1758-1831)は僧侶の世界でも野心のない人物であったからこそ、この言葉を実践できたと思われる。「世の中に まじはらぬとには あらねども ひとりあそびぞ 吾は楽しき」。良寛にとって「ひとりあそび」とは書や詩歌を作ることであったが、良寛の書や詩は、現代もなお多くの人を楽しませ、勇気づけている。生涯どころか死後170年以上を経てまだ清香を発している! 有名な一句:「山路きて 何やらゆかし すみれ草」。「何やらゆかし」とみる良寛の見る眼はやさしい。一生成香はこれからの自分の座右の銘にしたい・・。
3月14日(金) もし、今の(日本の)若者に何を望むかと問われれば「勇気」と答える。また、自分も含めた熟年(&老年)世代に欲しいものは、やはり「勇気」である。最近は何かというと「やさしさ」などソフト路線ばかりが強調される。けれども、例外を除けば、人間は本性優しさを持っている。だから、強い意志で勇気を奮い起こさなければ、「逃げ」に行ってしまう。現状を維持したままで、争い事を避けるには、何も行動せずに逃げていれば一番楽だ。「勇気」を辞書で引くと「普通の人が不安・恐れを懐いたり躊躇・恥ずかしさを感じたりする所を屈しないで、自分が正しいと思った通りやってのけようという積極的な気力」とある(三省堂・新明解/上手い解説だ!)自らに言い聞かす勇気は以下の如し:自分の欠点を見る勇気。相手が正しいと認める勇気。教えを乞う勇気。考えたことを直ぐに実行する勇気。自ら変わる勇気。許す勇気。過去にこだわらない勇気。新しいものに挑戦する勇気などなど・・。
3月15日(土) このところ部屋の改装やら掃除ばかりしている。大抵のことは自分で出来ると思っているから他人に頼むことはない。この場合、「道具」が一番のポイントとなるようだ。壁のペンキ塗りもペンキを受ける容器とローラーを準備すれば楽に出来てしまう。塗りたくない部分のマスキングはやはり専用のマスキングテープを使うのが簡単でやりやすい。屋外の床や塀・雨戸などは最近はやりの高圧水を噴出する道具を使えば極めて短時間に清掃できる。部屋の中の汚れ取りと保護・つや出しを同時に出来る強力クリーナーもいい。多分たまにやるからであろうが、これらの道具を楽しんでいるうちに掃除や作業が終わってしまった。ふと考えると、道具がこれほどに便利だと感心するのは、全て道具なしあるいは最悪の道具を経験しているからだ。はじめから今の道具を当たり前で使っていると、有り難さを感じないに違いない。自動車やパソコンなど今では有り難いとも思わない「個人用の道具」も時々は、ホメテアゲタイ!
3月16日(日) 「今日の作品」に「角皿」(陶芸)を掲載した。一辺27cmの四角皿だが、裏には約1cmの球形の脚を16個付けた。この角皿には妙な思い入れがある。表面の釉薬にムラがあるとか売り物にはならないなど周囲の雑音が聞こえるに連れ、俄然、出来る限りいいものに完成させたいと、脚の玉にヤスリをかけたり仕上げに気を入れた。そうしている内に、手を加えることのできない表の塗りむらは木立の間にきらきらとひかる木漏れ日の情景に見えてきた(写真では少し見難いー陶芸コーナー参照)。ナルシシズム(自己陶酔)とはこういうものか。そうなると表も裏も、塗り残しも濃淡も全て趣があるように感じられる。けなされると少しでもいいところを見つけようと思うし、始めに褒められると逆に欠点を見つけようとする勝手な性分であることは分かってはいる。まあ今のところ一人悦に入って夢をみているのも悪くはないだろう。一晩寝て明日になれば夢が覚めるかもしれない・・。
3月17日(月) 「わざ」の習得には「盗む」プロセスがあるという記述を目にした。単に「教える」「学ぶ」プロセスと異なるとする見方は同感だ。「わざ」とは「人並み以上の習練を経て得られる技術・技法(三省堂・新明解)とあるが、柔道などのスポーツは勿論、音楽演奏、工芸、美術、あるいは指圧まで至るところに「わざ」が活きている。人間には達人との接触によりほとんど無意識に「わざ」を吸収する能力が備わっていると思えるが、それを「盗む」といえばその通りかも知れない。単に真似する以上に優れたセンサーを備えた人は「わざ」の神髄を感知できる。「秘伝」が伝承され、さらに新たな達人が後進の見本となるのが「わざ」の世界だろう。・・こんなことを思ったのは、我々は一人では想像力も、創造力もともに「弱い」と痛感するからだ。いい「わざ」に接して刺激を受けることにより進化する。そのためにはまずいいものを見なければならない。いいものを探そう!
3月18日(火) ウィーン生まれの動物行動学者、ローレンツ(1903-1989,1973年にノーベル賞を受賞)が発見した「動物のインプリンテイング(imprinting)=刷り込み現象」はよく知られている。ある種の鳥(ガンやあひるなど)の雛は卵からかえって最初に見た動くものを親と思いこむという現象だ。実際に雛の前でローレンツがはじめに動いたために、ガンが成長しても群れを成してローレンツの後を追う映像をみたことがある。雛の脳に予めプログラミングされた本能に従って記憶された情報は簡単には消えないときいても、人間を親と思って追いかける鳥たちの行動は神秘的にさえみえる。ちなみに、カラスにはこの様な刷り込み現象はなく、育ての親の愛情に反応するのは人間と同じだという。また人間の「表情」は幼児期の刷り込みという説をみた。親のちょっとした表情が子供にそのまま焼き付けられるし、日本人でも外人に育てられると外人の仕草になる。ところで、我が家で生まれたアール(コーギー犬)。何がインプリントされたか定かでないが、自分のことを犬と思っていない。どうみても人間家族の一員のつもりでいるようだ。
3月19日(水) コンピュータ・グラフィックのコンテスト(埼玉県主催)で小学校5年生が大人を退けて「クリエーテイブ大賞」を受賞したという情報が定期メールの中にあった(ここ)。子供が才能を発揮すると将来この子がどういう道を進むのか興味半分、心配半分となる。例えば、既存の芸大などはこの子の能力やCGアートなどを認知するのだろうかとか、古い芸術権威も問題だ。グラフィックの才能は優れているとしてまだまだ幅広い能力もあるに違いない。コンピュータの技術でも一人前になれるだろうし、案外に経済学部で学ぶなどの道を選ぶかも知れない。子供の進む道はどれがベストであるかは他人はもとより親も即断はできない。子供の人生は成長した本人自身がつくる。
「今日の作品」に掲載した「mieuスケッチ」は孫娘を描いたスケッチ。人物の絵はこれまで一切出したことはなかったが今回初めて掲載した。この子の将来はまたどのような可能性があるのだろうか・・。

3月20日(木) 最近、渋谷の東急ハンズに自転車で通うことが多い。「東急ハンズ」は値段が安くはないのとレジで待たされるのが欠点だが他では手に入り難い工作の材料が大抵そろっている。「東急ハンズ」では年に一回「ハンズ大賞」を実施しており明日3月21日から月末まで受賞作の作品展示(Bunkamuraザ・ミュージアムにて)が行われる。一足先にinternetでその入賞作を見た(ここ)。以前の大賞は自分でもやればできるという程度のものもあったが、グレードがどんどん上がってきているように見える。今回の入賞作はみんな機能(面白さ)とデザインが双方際だっている。こういう工作にプロというのがあるのかどうか知らないが芸術品ともいえる作品がそろっている。アイデイア、センス、工作精度などみな私の趣味と一致しそうだ。・・今日は「アメリカのイラク攻撃開始」とマスコミが俄然張り切りはじめた。こういう時はあえて静かに「ハンズ大賞」の名作でも見に行くことにしよう。
3月21日(金) 「明日のことを思いわずらうな。明日は明日自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は一日だけで十分である(マタイ伝第6章)」 この聖書の言葉と比べると品格は落ちるかも知れないが、一昔前はやった「ケセラセラ」の歌も同じ事を言っている。「Que Sera Sera、なるようになる、先のことなど分からない・・。」ドリスデイが明るく歌うと心配事も吹き飛んだものだ。「ケセラセラ」の裏には自分の力は弱いが神は悪いようにはしないというかすかな希望がある。どんな人もどこかでは「ケセラセラ」を思い出してゆっくり眠りにつくことがあるだろう。公には絶対に「なるようになる」と云えない立場の人であっても個人的には神の加護を祈るのが普通だ。自分が神となった独裁者に果たして神頼りはあるのだろうか・・。
3月22日(土) 「気」は大昔から人の重大関心事であったが今なお完全に解明されてはいないように見える。「気のパワー」「気功」から「気韻生動」(気韻=作品がかもしだす崇高な何ものか)に至るまで「気」の範囲は非常に広いが、人間のエネルギーとか気力(やる気)という面に私は最も興味がある。「やる気」は極めてデリケートに周囲の状況に反応するようだ。本来はやる気を喚起すべき「学校」とか「会社(上司)」とかが逆にやる気をなくさせるように作用することも珍しくない。「友人」が元気づけるというパターンもあるが、友人の一言ですっかりやる気をなくしてしまうこともある。気の鍛錬はこうした外界からの雑音に左右されずに本人の気力を維持向上する工夫であろうが、「他人の気を励起する」ノウハウはは余り聞かない。他人に元気というエネルギーを与えられるとすればそれはすばらしいことだ。考えるに、まず相手に対してやる気をなくさせることを言わない、そして相手を認める、その上で自分に気力があることが気のパワーを相手に伝播させる第一歩かも知れない。
3月23日(日) 昨日の寒さが嘘のように暖かな日曜日、電気ドリルでコンクリートを削るという作業をわずか2時間続けただけで肉体疲労を感じるのを体力の衰えとみるか、当たり前なのか・・。どちらにしても、手先にふるえがくる前に止めて、次に「花ニラ」のスケッチをした(「今日の作品」に掲載)。花ニラは実物は直径3−4cmの可憐な花だ。これを一輪だけ10数センチの大きさに描いた。実はこれまで花ニラという名前そのものも知らなかった。野に咲く花は名を知らなくても美しいものは数知れない。「馬を走らせながら花を見る。馬から降りて花を見る」という言葉がある(中国)。馬の上から大局観を持つことも場合によっては必要だが、馬から降りなければものは見えない。花を実物以上に大きく描く時、多くの発見と共に花の神秘に触れるような楽しみがある。花ニラの花ことばは『別れの悲しみ』とか・・。
3月24日(月) 「麒麟(きりん)も老ぬれば駑馬(どば)に劣る(どば=のろい馬、才能の乏しい者の意で自分の謙称として用いられる)」は景清(かげきよ)の述懐とされる。景清にとっては我が事として実感があった。能の「景清」でその経緯が見事に演出されている。平(悪七兵衛)景清は屋島の戦いで武勇が知れ渡った猛者であったが源氏方に捕らえられた。鎌倉の頼朝の前に引き出され士官を薦められたとき「源氏の世などみたくない」と自らの目をくり抜き頼朝にさしだし、日向の国に流される。能舞台はこれから・・。景清の一人娘が鎌倉から日向の国に父の行方を訪ねて旅に出る。日向で偶然、乞食同然の姿をした老人(景清)に「景清なる者」を尋ねるが、老人は我が身を偽り別れる。結局はまた会うことができるのだが、奇跡的な父との再会の後、娘は年老いた父に屋島の合戦の手柄話を聞きたいとねだる。父が生涯で最も輝いた時期の話を聞く意味が娘には分かっていた。「昔忘れぬ物語、衰え果てて心さえ乱れけるぞ恥ずかしや・・」と盲目の父は、自分が麒麟だった頃の話を語り終える。後は娘との永久の別れだ。・・能の物語としては面白いが、私ならそんな昔話はしないなどと思う。もっとも、元来、麒麟でも何でもない私などには冒頭の言葉は関係がない・・。
3月25日(火) 今日、3月25日はバルトークの生まれた日という記事をみて懐かしくなった。バルトーク(1881-1945)はハンガリー生まれの作曲家。後年ユダヤ人迫害を逃れてアメリカに渡り米国で亡くなったが、20世紀の代表的な作曲家の一人だろう(息子は米国人で確かクラシック音楽の録音技師)。私は学生時代にマーラーとバルトークのレコードを特別に蒐集した。40年も前だからレコードも限られていたが、バッハもベートーベンも持っていないのにバルトークとなると無理してレコードを購入した覚えがある。バルトークの音楽はハンガリーの民族音楽風のものから透明感のある独特の音階まで当時の「現代音楽」という感覚であったが、12音階のシェーンベルクなどと比べるとより親しみやすく思えた。絵画では「黄金比」を持った形状が最も美しく視覚に反応するとされるが、バルトークは黄金比を音楽に適応して音階を構成した。黄金分割から「フィボナッチ数列」(1,1,2,3,5,8,13・・)という数列を作ることができ、これを音程に使い従来の西欧音楽にはない「透明な音」を表現した。考えてみると20世紀前半の音楽界も色々な試みをしたものだ。・・久しぶりに「弦楽・打楽器とチェレスタのための音楽」(バルトークの代表作)でも聞いてみたい。
3月26日(水) 「横浜港大桟橋」の見学にいった。この横浜港大桟橋国際客船ターミナルは昨年6月に全面改装されてオープンしたもの。前から行ってみたいと思いながら機会がなかったが、今回は期待通りに大いに楽しむことが出来た。桟橋の幅70m,長さ400m,高さ15mの空間には階段、柱がなく、木造の床が曲線とゆがみの不思議な世界を創り上げていてうれしくなる(ここ またはここ)。設計は国際コンペで勝ち抜いたfoa(foreign office architects)。foaは、アレハンドロ・ザエラ・ポロ(スペイン生まれ)とファーシド・ムサビ(イラン生まれ)が主宰し、オランダ人建築家の下でロンドンで設立されたという国際性豊かな建築家集団だ。いい建築については言葉でいくら説明をしても表現に限界を感じるが、その空間に浸ると今までにないインスピレーションが湧きそうな気分になる。この大桟橋も当初予算をオーバーして追求を受けながら完成したとか現実的には苦労も多かったように聞くが、他のお金をかけた建造物よりはるかに価値があると思える。横浜というと、みなとみらい地区にそびえ立つランドマークなどが目立つが、この一帯の建物は、建築家達からは、「醜悪な」とか「スイカを切ったのやら(ホテル)ただ高いだけのやら」と酷評を受けるのも分かる。「大桟橋」はその点、遠くからはほとんど目立たず、主張はしていないが、そこに行くと豊かになることができる場所だった。
3月27日(木) 「教育」が子供の成長にとって極めて重要なことは異論がないだろう。ただ教育の中味となると皆思っているところにズレがある。私は教育は何より学び、考える環境を与えること、そして自ら考える力が付けば子供に判断を委ねる(独立させる)ことだと思っている。受験教育など学びのほんの一部に過ぎない。そして成長の段階で得た、「自ら学び、自ら考える習慣」は一生続かなければならない。最近は、子供の教育というのでなく、熟年、老年の世代の「学び、考える」習慣について深刻に思う機会が増えた。自分自身に自戒することがらでもあるが、ある年代以上になると意識して自分が脱皮する必要があると思う。それまでの命令調とは縁を切り、また他人(あるいは組織)の御輿に乗るのを止めて、改めて独立することである。他人は元より、妻(夫)や娘、息子をも頼りにしないこと、それがまた周囲に迷惑をかけないことにもなるだろう。自分が企業の重役で、なくてはならない存在だと自認していても、実は部下にとってはただ老害にすぎないなんていうことがいくらでもある。歳をとって「自ら学ぶ」ということは頭脳を衰えさせないことにも役立つ。そうは云っても「何を学ぶの?」という人には、日野原重明さん(聖路加国際病院 91歳)の「新老人運動」とか、何でもいいから興味のあることを自分で調べてみてはどうだろう・・。
3月28日(金) 健康であることが当たり前であると、ほんの少し喉がいがらっぽく風邪気味になるだけで天地がひっくり返ったような大騒ぎをする昨日今日。といっても朝晩の犬の散歩やトレーニングに手抜きはない。散歩のコースを変えると桜の花が咲き始めているのに気がついた。いつも行く公園では辛夷と菜の花が盛りを過ぎようとしている。そう、既に春は始まっているのに、真冬と同じ衣服を着ていたので風邪を引いたようだ。この前は犬とランニングをして帰ると汗びっしょりになった。変化に対応するなどと分かったようなことを云ってみても、季節の変化にさえ適合できないのは我ながらお粗末。これからは毎日桜をみる散歩コースをとることにしよう。・・ さまざまの事思ひ出す桜かな(芭蕉)
3月29日(土) 時々、咳をするし関節が重い感じがする。こうした体調がよくないとときにテニスをするのも貴重な経験となる。仲間には身体の調子が悪いことは一言も云わないが、いつになくミスが多くゲームも負けが多かった。無理をせず慎重にボールをつなごうと思うと中途半端な相手のチャンスボールとなってしまうし、思い切って力一杯打ち込もうとすると気ばかりあせってネットにかける。みじめな思いをしながら身体は思うように動かない。勝つのはパートナーに助けられたときだけ。これからは、パートナーや相手が余りにミスが多いときには体調が悪いのだろうと思うことが出来る。
3月30日(日) 昨年の暮れに鉢植えのシクラメンの花を二つ買った。赤と白、二鉢とも同じように華やかに花を咲かせたまま年を越し、その後も並べて水をやり日光に当てるなど均等に手入れをした。それが最近になって赤の花と白の花では随分違いがでてきている。赤い花は3ヶ月前とほとんど変わらず花は中央にまとまって上を向いて咲き誇っているのに対し、白の花は古い花を取り除くと上を向いている花はほとんどなく、数本の花が横に垂れながらかろうじて残っているだけ。けれどもよく見ると白い花の鉢では若い新しい芽がいくつも育ちつつあるのが分かる。どちらがいいとか悪いの問題でなく植物もそれぞれに個性が違っていて面白い。シクラメンの別名「篝火花(かがりびばな)」(牧野富太郎命名)はいかにも見たとおりの名で納得できる。もう一つの別名「豚の饅頭」は花の名前の「珍名さん」になりそうだ。これはただ原産地(トルコ、イスラエル)で野生の豚がシクラメンの球根を食べることからきたというが花のイメージとは合わない。花言葉は「清純、内気、はにかみ」。「恋文は短かしがよしシクラメン(桜桃子)」
3月31日(火) 昨日のコラムで「シクラメン」のことを書いたので今日はシクラメンの絵を描いた(「今日の作品」参照)。このところ「今日の作品」に掲載した絵はほとんどトレーニング用とでもいうべき詳細スケッチが続いていた。自分でも少し退屈していたので今回は詳細にこだわらず自分の描きたいように描いてみた。昨日コラムで書いたように白のシクラメンは鉢植えとしてのまとまりはなくなってしまったけれども個々の花や葉っぱがけなげに生命を保っている様が絵心を誘う。自分はうつぶせになってシクラメンの花を見上げるアングルで写生した。これまでは描く道具は細い黒インクのマジックペンを使うことが多かったが、今日はペン先の幅が1mm以上あるアートペンを使い、青のインクをつけながら下絵も一切なしで形を描いた。全く構想なしで描き始めてペンと筆を動かしていると小一時間でそれなりのアウトプットはでる。考えているだけでは何も生まれない。何事も試みてみると何かは得るところがある。今日の作品でまさにそんな感じをもつことができた。

 

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