これまでの「今日のコラム」(2003年 5月分)

5月1日(木) 一昨日、緑の日に本門寺の植木市で買った「ナスタチウム」(4月29日コラム参照)をスケッチして「今日の作品」に掲載した。ナスタチウム、和名では「金蓮花」と呼ばれるハーブの一種。花や葉は生でそのままサラダにして食べられる、実はおろしてわさびの代わりに使えると解説にあった。絵を描く前に花弁をとって味わったりした経験は余りない。茎も食べてみたが、わさびに似た少しスパイシーな珍味であった。「ナスタチウム」は、飾ってよし、食べてよし、防虫効果など周囲に対しても役立ち、もう一つおまけに、描いてよしとくると言うことなしだ。これからはナスタチウムの他にも実用的なバーブの栽培をしてみようかと夢は広がる。

5月2日(金) 日本で一番長い川は「信濃川」・・とこの種の知識をたくさん持っているかどうかで格付けされる子供をみて、昔のことだが考え込んでしまったことがある。世界で最長の川は「ナイル川」というのならともかく、日本以外の国では最高の知識人でも「信濃川」は知らない。知識とは何の意味があるのだろう。「人があることを知っているとはどういうことか」(知識とは何か)はソクラテスの時代から哲学のテーマでもあった。知性の求道者であったソクラテスは「無知の知」(自分が無知であると言うことを知っていること)を悟る。現代の議論では、「知る」を「信」「証」「真」の3条件(真実であることを知っている、真実であると信じるにふさわしい証拠を有している、真実である)とする考えもあるようだ。また、知識は身体と遊離した精神(頭の中)だけの存在でないとするアプローチもある。「知識」を論ずれば際限ないが、現代は情報と知識とを混同してはならないと思える。有り余る情報洪水の中で、本当の知識をどこまで見極められるか・・。見極めができなければ、自分は「無知だ」と思っている方が間違いない。
5月3日(土) 咳のでる風邪が全快したと思っていたら、近来にない「後遺症」で苦闘している。この2−3日、風邪薬を止めてもまだ身体全体がだるく特に胃腸がスッキリしない。それでもいつもの習慣で、早朝ふらふらしながら犬の散歩にも行き、自転車でテニスにもでかけた。長年の経験ではどんなに体調が優れなくてもテニスをやると頭が緊張して身体も復調する。ところが今日は最悪で、立ってプレーするだけでどれだけ頑張らなければならなかったか。仲間から、風邪薬で胃腸が不調になったり体調を崩すことがよくあると聞いた。そういえば、今回のように8日間も風邪薬を飲んだことはこれまでないかも知れない。薬を調べると、アプレース錠100という薬が胃炎・胃潰瘍の治療に用いるとある。他には咳を鎮める薬はフスコデ錠、痛みや炎症を鎮める薬がスルガム錠200。何がどう作用したのかよく分からないが、これからは自力で回復を目指すことにしよう。お陰で、休養100%の連休スタートとなった。
5月4日(日) 最近のニュースで若者の自殺志願者があげた死にたい理由として「このまま同じ事を40年も続けるのは耐えられない。この後なにをやっていいか分からない・・」というのがあった。日本の若者は封建時代のような身分制の不満はなく、全体主義国家のように強制される枠組みもなく、あり余る自由の中で、やるべきこと、やりたいことが見つからない。せっかく供与された自由の有り難さや自分で考えられる幸運に気がついて欲しいと思うが余計なお世話かも知れない。理由であげられた「同じ事の繰り返し」に見えるものは、実は「リズム」として極めて重要であり決して退屈なものではない。心臓の鼓動のごとく繰り返しは生きることそのもの。そのリズムをベースにして人間は新しい可能性に挑戦できる。自分自身、同じような繰り返しの日々を送りたくないと思うが、毎日は同じにはなり得ない。同じような生活のリズムはあるが中味は異なる。若者に限らず全ての人にとって2003年5月4日のこの時間はこの瞬間以外にあり得ない。
5月5日(月) 「屋根より高い鯉のぼり 大きい真鯉はお父さん 小さい緋鯉は子どもたち 面白そうに泳いでる」・・と女の子だけれど娘の子供が歌うようになった。そこで「屋根より高い鯉のぼり」をどこかで見ることができないか、外出した際、その気で探してみた。近所の西郷山公園には水平に紐を引っぱり鯉のぼりを横に並べたものはあったけれども、屋根の上には泳いでいない。車で第二京浜国道(国道1号)を都心から川崎方面にいくまで鯉のぼりを注意してみたが、何とただの一つも鯉のぼりの姿を目にしなかったのはいささかショックだった。「屋根より高い」どころかマンションのベランダにも鯉のぼりは見当たらない。同じように、「柱の傷はおととしの 5月5日の背くらべ ちまき食べ食べ兄さんが計ってくれた背の丈」の童謡は私が子供の頃は実感とピッタリしたものだが、今は、傷を付けるような柱がないし、ひょっとすると兄弟もない。・・言葉の意味は時代とずれてしまっていても、今の幼児がこれらの歌を歌っていること、そのこと自体に感動する。
5月6日(火) 「今日の作品」に「男」を掲載した。衝動描きという言葉があるとすればそれに該当する「考えてもいなかった作品」。描いたあと色々な意味で感慨深かった。まず、自分が家族以外の「男」を描いたのは初めてではないかと思う。この2−3年は孫以外に人物も描いたことはなかった。男を描かない事については心理分析をすれば何と云われるだろうか。男は好きではないというと単純すぎるが、以前は、妻をはじめ雑誌モデルなどの女性をよく描いた時期もあった。このところは女性も全く描かなくなってしまった。今回、「男」を描いたのは先週体調を崩したときに、創作作品は”自然体”でいこうとの思いを強くしたことにきっかけがある。このところ抽象が描けない。それならば素直に好きな具象を描けばいい。そして突然の閃きで、これまでの”禁制”を破って「男」を描いたのだが、これは一つの進歩かも知れない。
5月7日(水) バラのことを薔薇と表すと何か秘密っぽい雰囲気になったり、クラシックな重みが感じられたりする。ワープロで「薔薇」を選択できるのは当然だろう。ところが、今時「ロンドン」を「倫敦」と表記したい人などないと思うのに、倫敦もしっかりワープロ(パソコン)で変換されることを発見した。英吉利(イギリス)もでることに味を占めて打ち出したのが以下:仏蘭西(フランス)の巴里(パリ)、独逸(ドイツ)は伯林(ベルリン)、亜米利加(アメリカ)は紐育(ニューヨーク)、伊太利亜(イタリア)は羅馬(ローマ)。こうした字面を見るだけで、夏目漱石や森鴎外の世界に浸ってしまうから不思議だ。<去らんかな、羅馬を去らんかな。・・我が沸きかへる血を鎮むるならん。さらば羅馬、さらば故郷(即興詩人/森鴎外)>・・ところが同じ「即興詩人」の中で使われている「拿破里(ナポリ)」や「希臘(ギリシャ)」は私のパソコンでは変換できなかった。パソコンだって何から何まで変換するのでは際限がない。私にとっては「羅馬」が変換できればもう十分だ。
5月8日(木) 出処進退の判断ほど難しいものはない。大抵、人は自分は例外と考える傾向が強い。特に責任問題とは関係のない年齢による引退は複雑だ。先に東京六区での衆議院議員の補欠選挙で越智通雄氏(74歳、大蔵省出身、元衆議院議員、元金融再生委員長、福田元首相の娘婿)が54歳の小宮山洋子氏(民主)に惨敗して話題になった。私たちの感覚ではいくら実績のある人でも74歳でまた選挙にでるの?と不思議に思うけれども周囲と本人はそう思わなかったのだろう。それはそうでしょう、中曽根康弘84歳、宮沢喜一82歳、相沢英之83歳、野中広務77歳、土井たか子75歳・・の皆々様を見ている訳だから。元首相まで務めた先生方まで”第一線”にこだわって引退できない現象をどう分析するか。猫に鈴をつける人がいないのもさることながら、裸の王様にしたのは周囲や家族の責任が重大だ。個人的には名前をだした皆さんに全く何の感情もないが、社会のためには「引き際の清さ」を非常に遅まきながらでも見せるべきだろう。自分の老害に気がつかないで他国の個人独裁を論評する資格があるだろうか。
5月9日(金) 「今日の作品」に「ハシブトカラス」を入れた(ここ)。何年前か分らないけれど油で描いて中途になっていた絵(F10サイズ)がでてきたので、仕上げてサインをしたものだ。確か以前この絵を知り合いのドイツ人に見せたら嫌な顔をされた記憶がある。何でこんな不吉な鳥を描くの?という。シューベルトの歌曲集「冬の旅」に「からす」がある(私はこの曲が大好きだ・・)が、歌詞を読むとからすは黄泉の国からきた不吉な鳥として扱われている。ドイツではこれが当たり前なのか。英語の「からす」もいい語感はないようだ。からすの英訳crowはeat crowと使えば「敗北を認めること」、わたりがらすを意味するravenは不吉の兆しとされる。みやまがらす(深山烏)を表すrookは詐欺師の意味で使われる。からすさんもさんざんだがこれは 真っ黒な外観で随分損をしているのだろう。それとからすは頭がよい上に生命力が旺盛だからかわいげがなく思われる。私は子供の頃、からすを雛から育てたことがあるが、からすもまた集団でなく個体はとても愛嬌がありかわいい。
5月10日(土) ゆえあって一夜漬けでガーデンデザインを始めた。実際に自分の庭をデザインするとか知人の庭を改造するといった具体的な案件でなく、全くの空想上のデザインなのだが、やってみて分かったことは、とにかく植物に関する知識が貧弱なことだ。例えば、花壇の後方に配置する背の高い宿根草として、ジギタリス、サルビア、アカンサス、秋明菊、トリトマ、アガパンサス・・と云われてもイメージが浮かばない。更に植栽する時期、花期、日陰でも育つのか、土壌に対する強さ、耐寒性など、まだまだ学ぶ事が山ほどあり、とても「一夜漬け」でデザインできるのものではない。それでも、花や樹木のカタログを見ているとそれぞれの植物は個々にはみんなとてもよくできた美しいものばかりで選択に苦労する。ガーデンデザインとは膨大な数の特徴ある植物の中から意図する方向に沿って使用する植物を選別するのであって、それは極めて個人の好みの強い作業であることを実感する。植物の世界は私にとって未知なる分野で奥が深い。
5月11日(日) 外出のついでに「NORITAKE KINASHI」の展覧会(@代官山 ヒルサイドテラス)にいった。家から歩いて数分のところでの、ご存じ芸能人の木梨憲武の絵の展覧会ということで余り期待をせずに入場料700円を払ったが、これがとんでもない思い違いだった。絵がどれもすばらしい。センスが良く、しかも思い切りのよさとデリケートな感性がうまくバランスしている。これは本物だ。以前、ビートルズのジョン・レノンの絵を見たことがあるが内容はレノン以上と思う。こういう芸能人の作品をみると本職の画家のことを思ってしまう。先日、上野で展覧会をみたがそうそうたる名のある画家の絵の何とインパクトのないことか。寸暇を惜しんで描いたのであろうKINASHI の絵の方がはるかに心を打つものがある。伝統あるパリのアンデパンダンテ展に出展しカタログのメインを飾っているKINASHI の実力は外国でも認められているとは知らなかった。予想外にすぐ近所でこんなに元気をもらって、今日はハッピー。
5月12日(月) 4月22日のコラム(ここ参照)で「スーパー楕円」の皿を陶芸で作る話を書いたが、このお皿が出来上がったので「今日の作品」に掲載した(二枚ほぼ同等のものを制作したものの一枚・陶芸コーナー)。四角の皿なら一辺が25.5cmの中皿相当の大きさ。直径が25.5cmの丸皿よりもかなり大きいのがスーパー楕円のいいところだ。一辺が25.5cmの正方形とすると対角線の長さは約36cmであるが、このスーパー楕円では対角の最大長は約26.8cmであるので面積が広い割に角がぶつかることもない。・・とスーパー楕円皿のPRをしているが、このお皿、自分でも結構気に入っている。使いやすく収納もしやすいので、これからもプレゼント用にスーパー楕円シリーズを作ってみたい。ところで、スーパー楕円という形状は、幾何公式:(x/a)^n+(y/b)^n=1 ,n=2.5の場合スーパー楕円なのであるが(デンマークのビート・ハインという数学者が考えた)、前段の説明に合わせて、円の面積、正方形の面積、そしてスーパー楕円の面積を比較するためには、スーパー楕円の面積が必要だ。ウーン、楕円の面積ならともかくスーパー楕円の面積?・・また課題が増えてしまった。
5月13日(火) 最近の経済記事より:「 NTT、減収もリストラで最終益2333億円確保 」、「JR東日本、金融収支改善で過去最高益 」、「TOTO、リフォーム伸ばし連結純利益3.6倍 」、「セコムの前期、経常益過去最高 」、「トヨタの連結純利益9446億円、3期連続最高更新 」。不況から脱出できないと嘆いている同じ国のニュースかと思うような記事はいくらでも拾うことが出来る。勤め人時代にいわゆるバブル景気も通過したが、バブル期も含めてただの一度も経営幹部が「十分の利益を得ることが出来た」などと云った事はない。「今期は何とか順調に業績をあげることができたが、他社と比べるとまだまだ不足。この先困難も予想されるので一層の奮起を期待する」・・と、まあどんなに業績がよくてもこのパターン。苦しい苦しいといって組織を引き締めるのが経営者だ。経営者のコメントならともかく、冒頭の記事をピックアップしてみると、不況が長引く一要因は、マスコミが「苦しい、苦しい」という悪い所ばかりに焦点を当てて宣伝し、明るい材料は無視する点にあるとも思えてくる。日本の社会は悪い奴ばかりで真っ暗という論調が、どこか別世界にユートピアがあるのかと勘違いさせる危険性があるのと類似しているが、マスコミの社会に対する悪影響は無視できない。「良いところ」「明るいところ」に焦点を当てる報道ができないものか・・。
5月14日(水) 私は絵を描き始める前(10年以上前)から安野光雅の本が好きで何冊も絵本や画集を所持している。安野光雅(1926-) の絵本は皆ひとひねりしてあり、科学的、数学的、創造的、空想的などと形容詞の選択に困るくらいにユニークなところが工学畑の自分の趣味に一致していた。ただし画家としての興味はなくその巧みな文章と合わせて読み物として楽しんだものだ。最近、デパートで安野光雅の展覧会をのぞいた際、今度は画家として見直し、絵本の原画を楽しんだ。自分でも色々なスタイルの絵を試みてきたが、安野光雅のような無理のない自然体の絵というのは見ていて心が落ち着く。ヨーロッパの伝統画風であるが陳腐な絵ではなく至るところに工夫がちりばめられていて、やはり尋常の人では描けない。刺激を受けたついでに図書館で「起笑転結」という安野の古い文庫本を借りてきた。この本の中で、20年前にブームとなったルービックキューブについて安野が考案した独特の呪文(ある種の文言・複雑でここでは説明仕切れない)による完成手順が紹介されていた。昔、ルービックキューブで悪戦苦闘した私もこの完成法には脱帽。世の中には本当に多才な人がいる。
5月15日(木) 「今日の作品」に「wataridori」を掲載した(ここ)。F10号サイズの油絵。これも先日(9日)に掲載した「ハシブトカラス」の油絵と同じく、以前(裏をみると1994年1月とあった)に描いて中途半端のまま置いてあったものを仕上げてサインをしたものだ。このところ昔描いたがサインのない中途の油絵を他にもどんどん仕上げている。今ならまた別の絵を描くだろうと思いながらも、仕上げ工程は割り切れば結構楽しい。今回の「wataridori」は、描き始めた当初の心意気と挫折して完成できなかった迷いの両方を思い出す。この絵は当初渡り鳥など入っていなかったのを、途中で、具象っぽく鳥の陰を描いてしまい、その後、動きがとれなくなってしまったものだ。年月を経てみると自分のことであるが描く姿勢に問題がある。描くときには雑念が大敵。To be or not to be・・・と考えすぎるのが一番よくない、集中して一気呵成に描きあげることが必須・・などと、いまは評論家のようなことを云える。それにしても寸暇をとらえて懸命に描こうとしていた当時が懐かしい。
5月16日(金) 「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり・・」。男である紀貫之(870-945)が女性のスタイルで綴った「土佐日記」は性的虚構文学の走りだろうか。歌舞伎の女形(おやま)もまた男が女を演ずる日本独自の文化だ。そうかと思うと、近年は宝塚歌劇団があえて女性が男役を演ずるというユニークな世界を創り上げた。西洋人の男性バレリーナがスカートをつけて白鳥の湖を踊るとグロテスクでゲテモノになるが、日本の性的虚構文化は虚構の性の方が本物よりもより美しくさえある。どうして日本にこのような独特の文化が育つのだろうか。時に思うのだが、男女の性差(差別観、肉体の差を含んで)は日本では云うほどに大きくはない気がする。勿論、個人差があるにしても、それぞれの考え方の違い、価値観の相違、さらに、信条や感覚の違いの大きさと比べると、男女の性による違いは小さい。だから相手の性を理想的に演じる虚構の美が生まれやすいというと飛躍しすぎかな。・・外国や他民族と何が違って、日本に女形、男形文化が誕生するのか知りたい。
5月17日(土) ミロとかカンデインスキーの絵は一見素人が簡単に描けるようにみえる。けれども、ミロの世界、カンデインスキーの画風が確固としてでき上がっているので他人が同じ作風で描くことはできない。模倣は不可能なところが天才たるゆえんだろう。パウル・クレー(Paul Klee 1878-1940 参考リンクここ)の絵もまた同じようなところがある。クレーの絵は、子供でも描けそうであるが、その単純無垢な中に奥行きが深い。昔からクレーは私の大好き画家の一人だった。「認知科学への招待」(J・ライバー著、新曜社)という本の表紙の絵が面白いので調べるとクレーの「眼」という絵だった(私が持っているクレーの図版では見たことがなかった)。家のイグサのランチョンマット(使っていないもの)に、このクレーの「眼」を模写したものを「今日の作品」に掲載した。「作品」などとはおこがましく、クレーファンの人には申し訳ないが、模写してみるとあらためてクレーの絵のすばらしさが分かる。この単純な構図と色の組合せの表現はクレーでないとできない。無造作な黒の棒をみているとおかっぱ頭の女の子が見えてくる。眼は一つでも意志が強そうだ。
5月18日(日) 友人に影響されて図書館で(古今亭)志ん生落語集のCDを借りてきた。いま、パソコンのキーボードを叩きながら「火焔太鼓」を聞いている。私はこれまで落語とはほとんど縁がなかったが、噺の間とか構成の巧みさは分かる。噺に引き込まれて笑いの中に意外な緊張感があることも発見だ。TVでは古典落語を聞く機会は極めて少ない。テレビには笑いがあふれ、お笑いタレントは大流行であるが、名人芸とは無縁にみえる。落語家もテレビで売れっ子となると芸能人と化す。絶えざる鍛錬と努力なくして名人芸はできないだろうが、芸能人でなく噺家による本物の芸をテレビでもっと見てみたくなった。

明日から4日間(22日まで)北海道旅行でコラムは休みます。パソコンを持たない旅行を満喫するつもり!

5月22日(木) 北海道旅行から無事帰宅。千歳空港を夕方6時30分発で8時50分には我が家で待ちかねたアール(コーギー犬、娘が面倒を見てくれていた)の歓迎を受けた。それならホームページも改訂しようとパソコンをひらく。まずは旅行での思わぬ経験を一つ・・。知床の半島巡りの観光船でウミネコとオオセグロカモメの大群が船にいる我々乗客と一緒に並んで飛ぶ姿に感激(中には船のデッキに留まる鳥もいた)。乗客が投げ与えるスナック菓子を狙って追っかけてくるだけであるが、まるで映画WATARIDORI(2003-4-28コラム参照)の世界だ。鳥たちと始めから終わりまでずーっと共に船旅をしたのはうれしい初体験だった。
  

5月23日(金) 今は日本中のどこに住んでいても家庭の中で観光地の映像と親しく接することができる。だから観光旅行の半分は頭の中では承知している風景の再確認のようなところがある。けれども、実物をみることはTVや写真でみるのとは全く異なる感動を呼ぶ。特に意外性の面白さ、楽しさは格別だ。北海道のバス旅行中に、えぞ鹿に何度もであった。一度であるがキタキツネもみかけた。北海道だから当たり前と云われても突然に 野生の鹿や狐に出会うと興奮する。画像や想像上のできごとでなく、現地で、現実に、現物を目にすることが旅のすばらしいところだろう。

5月24日(土) 今日現在でSARS(重症急性呼吸器症候群)の死者は689人に達した。感染症では中世のヨーロッパで大流行したペストのことを何かにつけ話にきくが、あらためてペストについて調べてみると愕然とする。中世のことで数字は明確でないが、1346-1351年(日本では足利尊氏の室町時代)に当時ヨーロッパの全人口の四分の一に当たる2500万人から4500万人の死者があり人口が激減したといわれる。14世紀初頭のパリの人口は約8万人と云われた時代に、ペストによる死者がフィレンツェ6万人、ヴェネツィア10万人、パリ5万人、アヴィニヨン6万人、ロンドン10万人・・!!ペストはネズミの蚤に吸血されて感染する場合と患者の咳や痰などによって感染する場合があるようだが、中世のこの時期に大流行した原因の一つに、開拓により元来ヨーロッパの森にいた鼠の天敵である動物までいなくなり鼠が大発生したことがあげられていることも知った。 現代でさえWHOで指定されているペスト汚染地域がある。SARSの発生原因はこれから解明されるだろうが、感染症も人類の大いなる戦いの一つで戦争の歴史に終わりはない・・。
5月25日(日) 「今日の作品」に「composition -Square 」を掲載した。これは漆塗装の技法を試すために、油性漆塗料(カシュウ)を使いF10キャンバスに描いたもの。漆技法というのは確かに絵画でなく工芸であることが実際にやってみて分かった。一つの工程(下塗りとか粉まきなど)のあと10時間、20時間の乾燥時間をおいてから次工程に移るということが当たり前なのだ。一気に描きあげる油絵とは大違いになる。上の二つのブロック地は玉虫塗りを試みた。途中の工程で銀粉を蒔いている。中程に白く見える四角の帯は銀粉を表面に多く残してみたもの。右下の地には鉄粉を蒔いた。このような「工芸」は、完成した後ほんの少し見る角度が変わると色の輝きが変化するのが面白い。逆に、この様にデジカメで撮影した画像を掲載するとその面白さが出ないのが少し残念。とにかくも、何でもやってみると今までは知らなかった世界を覗くことができて楽しい。
5月26日(月) 昨25日に第56回カンヌ国際映画祭が終了した。今年は米国の映画「エレファント」がパルムドール(=黄金のシュロ/最高賞)を受賞したことなどが報道されている(グランプリがトルコの映画)。たまたま2002年カンヌ映画祭グランプリ(=審査員特別賞)・主演女優賞ダブル受賞「過去のない男」という映画をみた(恵比寿ガーデンシネマで上映中)。フィンランドの映画で記憶を失った男の生き様が細やかに描写されている。この映画を見ていて先に見た「ミレー三大名画展」との奇妙な符合があることに気がついた。ミレー展(Bunkamuraザ・ミュージアムにて開催中)はミレーの「晩鐘」「落穂拾い」「羊飼いの少女」の三大名画以外に、ヨーロッパ自然主義の画家達の副題の下、ミレーに影響を受けた多くの画家の作品もみられる(クールベやルパージュは分かるが、ゴッホ、ゴーギャン、ピサロ、それにピカソまである!)。ミレー以前は絵画というと神話や宗教、英雄、貴族など高貴で美しい題材を描くことが主流であった。ミレーが描いたのはそれまでは無視された敬虔な農民であり、その後、時代は庶民の貧しさ、汚さ、泥臭さなどをそのまま描くことに新しい絵画の道をつくった。「過去のない男」は森と清潔な国という私のフィンランド観をくつがえすものであった。最下層の、貧しく、汚れた、やりきれない生活・・。笑顔が全くない、若者もいない・・。けれども人間の温かさ、本質的に大切なものが漂う。カンヌ映画祭の潮流はいま庶民主義なのだろう。
5月27日(火) SARSで院内感染が問題になった際、医者は防護服を着ていたがウィールスの付着した服を脱ぐときの扱い方を間違えて感染してしまったことが報道されていた。これでクリーンルームのことを思い起こした。「クリーンルーム」は半導体や液晶の製造設備あるいは医療やバイオの設備に広く使用される、空気中の浮遊状物質(ほこり)を規定以下に管理された部屋である。通常その清浄度を一立方フィート(28.32リットル)当たりの粒径0.5ミクロンの数で規定する。普通の街中ではその数は数百万個と云われる浮遊状物質を、 高性能の空調用フィルターを使うことにより、1000個(クラス1000)とか100個、10個(それぞれクラス100、10)など用途に応じてコントロールされる。花粉の大きさは数十ミクロンであるのでクリーンルームの中では花粉症は無縁となる。また菌(数ミクロン)も大部分除去することができる。クリーンルームに入る人は塵やほこりを持ち込まないように特殊な衣服に着替えなければならない。クリーンルームの中のものは衣服も含めて純水(脱イオン水)・超純水で洗浄されたものを使用する。こうした清浄度を保つ一連の技術が半導体などの製造を支えていることになる。・・多くの人がクリーンルームの中を職場とし、人にとっては過度に清浄な空気を吸って働いている、一方で、私たちは500-600万個の塵に囲まれてもへこたれない強靱な身体を作らなければならない・・。
5月28日(水) 新聞の記事(インターネットのニュースも同じ)には「おくやみ」とか「訃報」という欄がある。まずは有名人や社会的な地位があった人が亡くなったことを伝えるものであるが、時々、○○社長の母とか××理事長の妻といった本人でない死亡も伝えられる。社会的な地位ある人の身内に不幸がありましたと伝えるのが新聞社の意図なのかよく分からないが、少なくともニュースの価値はない。ニュースの価値が無いという意味では、10年前、20年前に在職した肩書きで元△△常務の死亡を伝える記事も同じ事だ。おくやみ記事については新聞社は突如社内報レベルの親切な身内記事を掲載する方針となるようだ。町内会の訃報公告と同類と考えると、いっそある地域(ex.東京都)全体で、「今日の死亡者リスト」として報道したらどうかとも思う。そうすると、ニュース性のない偏った訃報よりも考えさせる記事ができるかも知れない。
5月29日(木) 絵画における写実主義(レアリスム)は伝統的ないわば上流階級の絵画芸術にたいして社会派の見方を押し進めるものであった。その”虚飾なき”真実、”現実に忠実な”写実は、農民、職人、労働者、飢えた大衆などあらゆる階層や職業を対象に選んだ。しかし、写実主義のブームで生まれた多くの絵画作品を、歴史的な意味でなく、一つの絵画として見直してみると、結局は作者の視点や精神的な焦点の当て方で作品の質(価値)が全く異なってくるように思える。ミレーは従来、描かれたことが希であった農民を敬虔なところをとらえて高貴に描いた。同じ農民を対象としても画家によっては醜悪な個所をただ「写実」だけする。・・”真実を伝える”マスコミについても何が視点になっているか受取手で十分に見極める必要がある。悪行も事実、美談も事実。ともすると、細長いチュウブ状の鼻だけ、可愛い目だけを見せられて象だと報道されるかも知れない。個々人が事物のよしあしを評価するときも、何に焦点を当てるかで、”良くもなるし悪くもなる”。
5月30日(金) アジア諸国の英語力調査(青少年を対象)の結果、日本は最下位に近い低レベルであったことが少し前に報道されていた。子供の学力調査でも日本は決してトップではない。話に聞くと東南アジア諸国での学習熱はものすごい。教育こそが各国にとっての最重要課題でありまた勉強した優秀者はそれだけ報われる。夢はインターネットなどで世界に広がる。日本の「ゆとりの教育」などをみていると、どこかで日本を駄目にする謀略に乗っているのでないかとさえ思うことがある。子供の可能性と個性を引き出す教育に甘えは許されない。問題は教える内容で、確かに時間ばかり拘束する下手な教育ならばない方がいいこともある。駆けっこの早い子供を一着にせず、みんな並んでテープをきるなども何か勘違いをしている。思いやりの気持ちはそんなことと違った教育だろう。これからは日本でも当然、世界で通用する人材が要請される。文部省教育でそれができるだろうかと懸念を覚えないでもないが、日本は昔から官製教育にまさる個別教育の土壌があるから、多分大丈夫だと思う。近所のアメリカンスクールでは小学生がオサマ・ビン・ラデインについてデイベート(役を分担した討論)をしているとの話をきいた。子供を未熟扱いにしないのは教育の重要なポイントだろう。
「今日の作品」に「mosha2(クレーより)」を掲載した。ランチョマットに模写(油絵)した遊び。

5月31日(土) 「人生80年」が冗談でなく現実となってきた。戦前は「人生50年」と云われたが、江戸時代の平均寿命は37歳程度、縄文人・弥生人は30歳ほどであったようだ。人間は生理的寿命を全うできる希有な動物という見方がある。生理的な限界である生理的寿命をのぞめるのは、犬猫や動物園の動物のように人間が飼育する動物に限られる。野生の動物は子育てなど生物としての役割を果たすと一生を終えるケースが多く、この生態的寿命は生理的寿命のほぼ半分と云われる。縄文人は寿命に関しては野生の動物と同等であった訳だ。「現代の人間の価値は60歳から何をしたかで決まる。60歳までは他の動物と同じ」といった学者がいる(以前このコラムでも書いた覚えがある)。子育ても終えて、本来なら生態的には幕を閉じるところで、新たな人生の生き様が問われる。人それぞれに考え方があるだろうが、私が心しているのは、まず、60歳までの過去を決して振り返らないこと(過去に酔わないこと)、現役の若者には全てを任せ干渉しないこと、それに前向きな好奇心を持つことだろうか。できることなら、プラスして他人が喜ぶことをするのが一番いい。自分でやりたいこと、面白いことがなくなったら、もはや生物的にも生存したいとも思わないが、やりたいことはまだ50年分くらいはありそうだ・・。

 

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