これまでの「今日のコラム」(2003年 10月分)

10月1日(水) 「千三つ」という興味深い云い方がある。1000の内3、即ち0.3%の確率。落語では千の言葉の中に真実は三つの大うそつき、ほら吹きのこと。不動産屋さんは「千三つ屋」、これは千の物件の内3件しか取引にならない職業、それと落語に準じてほら吹き仕事からとされる。賭(宝くじ、石油を掘り当てるなども同様)で大儲けするのは「千三つ」と云われる。日本語には「万一」という言葉もあるが、千三つは「万三十」と可能性は万一よりずっと大きい。面白いのは、落語でも使われる千三つが、正規分布の事象で3σ(シグマ)に相当することである(統計処理する場合の標準的理論分布、標準偏差をσとして3σの範囲に99.7%が含まれる)。いわば3σをはみ出す事象は例外ととらえることが出来る。製品の品質管理でも不良が3σを越えると異常事態とみなす(逆に、千の中に、三個は不良品が混ざる/最近は6σの管理法もあるが)。私たちは、千三つの幸運にはなかなか恵まれないが、一方で、千三つの不運にもそう簡単には遭遇しない。人が1000人集まれば、相当の才能や突出した人が三人程度はいるだろうが、また、悪い奴も三人はいてもおかしくない。社会の出来事は千三つの原則で眺めると、たいてい納得できる。それにしても、人口の比率から改めて「千三つ」をみてみると、はみ出た三つの累計は意外に多いのに愕然とさせられる。

10月2日(木) 秋らしさが日増しに深まってくる。一年前に「秋の七草」を全部描こうとしたが、葛花と藤袴が見つからず、結局、五つまで描いて終わってしまったことを思い出す(昨年の作品)。七草にちなんで、今日は七の数値を考えたい。考えると云っても「何故七か」は自分でも全く納得できていない。まず、七づくし:七福神、七賢人、七宝、七書、七難、七色(七彩)、七曜・・。まだまだある、七味唐辛子、七面鳥、初七日、七転び八起き、北斗七星、七変化。ここまで「七」ばかりなのは、昔の中国の数占いでも関係するかとも思うが、竹林の七賢人に対して、ギリシャ七賢人があるように中国の起源とも限らない。七色の虹や北斗七星は物理的な実体であるし、一週間七日は西洋の暦でもある。そういえばラッキーセブンは誰が云いだしたのだろう。数字の7は確かに基本数値である。素数(2,3,5,7,11・・・)のはじめの2は”双璧”などと使うのでさておき、次は3,5。正三角形、正五角形を図形で描くことができるが、正七角形は描けない。そして(24n+7)型の素数の中ではじめ(n=0)の素数が7である。・・とにかく「七」は神秘的な数だ。七の起源はそれでも不思議。「七不思議」というのもあったっけ・・。
10月3日(金) 「今日の作品」に「ススキ(グワッシュ)」を掲載した。先日、伊豆高原にいった時に描いたもの。油絵風にグワッシュを厚めに重ねたが、もっと抽象的に表現しようとしたのが主役のススキを崩せずに結局具象が強くでてしまった。ススキは漢字では「薄」(または「芒」)と書く。秋の七草の一つで「尾花」とも呼ばれるのは、花穂が動物の白い尾のようにみえるから。それでは薄(ススキ)の語源はというと、「すぅーすぅーき=swu(より揺れる)」という説や、「すくすく育つ木」という説などあるがはっきりしない。薄の字にサンズイが入るのは海の波を連想させるからだろうか。ススキは逆光の花だといった人がいる。逆光の波の美しさをどう表現するか、次回、もう一度ススキの抽象画に挑戦したい。「山は暮れて 野は黄昏の 芒(ススキ)かな(蕪村)」
2003年後半の絵=ここ

10月4日(土) 私の自転車はブレーキをかけると適度の音がでるように調整してある。車輪を両サイドからブレーキシュウが押さえつける構造であるが、調整が悪いと片方だけが強く当たり異常な音がするしシュウが片減りする。勿論、うまく調整して油を吹き付けておくとブレーキは正常にきくし音はほとんどでない。ある時、余りに静かに走行するよりも、ブレーキをかけた時に”適度に”音をだして接近を知らせた方が歩行者に対して親切と考えて、あえて「微調整」をして無音でないようにした(チリリンと音を鳴らすこともできるが”そこのけ”と云っているようで好きでない)。確かに自転車は静か過ぎて後ろから近づいてきても気がつかない。自転車によるひったくりの被害が多いのも納得できる気がする。近未来の有望株、燃料電池自動車は電気自動車の一種であるから、これまでのガソリンエンジン駆動の自動車と比べるとエンジン音がしない。騒音がでないという理想型が、一方で「静かな凶器」という新たな問題をかかえることが予想される。私は毎朝6時前に道路を通る自動車の音で目が覚める。電気自動車になると朝寝坊するかも知れない。
10月5日(日) 「今日の作品」に「ペパーミル(修理)」を掲載した。一連の修理ものの一つ。何が作品だと云われそうだが、オリジナルはプジョー製(フランスのプジョーは自動車や自転車だけでなくペパーミルも作っている)ペパーミル。上部の蓋の部分をアール(コーギー犬)の母親アン(2001年11月に10歳で死去)が子犬の頃、オモチャにしてガサガサに歯形をつけてしまっていた。それを、まず傷の部分を削り取って波型の凸凹をつけて作り替えた。同時に胡椒(ペパー)を挽く機構を調べて「細かい均一な胡椒」がでるように調整し直した。そのため、焼肉屋でペパーミルの裏を覗いたり、余計に胡椒を出してみたりするなど、事前調査と称して肉を食べることまでした。内部のミル(挽き器)部分は寸法調整が意外にデリケートであった。外側には得意の漆塗装をし模様もつける。出来上がってみると20年前に購入したときと遜色ないと妻のお墨付き。テストで挽いた胡椒は細かなきれいな粒が得られた。明日はこのペパーミルが使えるようなビーフステーキが家で食べられるかもしれないと秘かな期待を抱いている・・。
10月6日(月) 第50回日本伝統工芸展をみた(日本橋三越本店にて開催中、入場無料10月13日まで、その後全国を巡回予定、netではここ)。工芸は木工、金工、塗り物、籠類、陶芸、着物など広範囲なワザの世界だ。それに「伝統」の名がつく。現代の工芸家が伝統とどう絡むかに興味があったが、全体についての所感をいえば「きれい過ぎる」。一見汚く不統一でガサガサしている中にエネルギーを持った「美しさ」があるという種類の”美”とは明らかに違うのが「伝統」なのだろうか。造形も極めて伝統的で100年前に作ったと云われればそうかと思うものが多かったが、備前焼で40mmほどの厚肉の平板を曲げただけのシンプルな形が目に付いた。見ると作者は外人だった。どうも私は伝統を突き破る美の方が好きなようだ。展覧会場の入口に、楓や薄、葛などの花木が活けられていた。しばらくこれらの自然の美に見とれながら、人間が甚大な労力と時間をかけて創り上げる工芸の美とは何だろうと考えてしまった。
10月7日(火) 本屋に「文学全集」がない・・これに気づいたのは先日日本橋・丸善に行ったときである。読書の秋、少し堅い古典でも読んでみようかと丸善に立ち寄り、ドストエフスキーを捜したが「外国文学全集」のコーナーすらない。家の近所の本屋さんや恵比寿駅のビルの中にある有隣堂などは新刊書の類しか置いていないことは承知していたけれども、丸善よお前もか・・と本屋さんの現状を再認識した。貴重な展示スペースを使って売れもしない本を在庫しておくことはできないのだろう。そういえばインターネットでの本の販売がもっと普及してくると本屋そのものも消えていくかも知れない。今でも欲しい本はネットで十分に、かつ簡単に手に入る。けれども、買う本を決めていないときに、新しい本のタイトルを順にみていき、これはと思う本を手にとってパラパラめくってみる楽しみは本屋でないとできない。いっそ、新刊書は喫茶店の一角に展示し、家具の書斎コーナーに「外国文学全集」を並べて販売するなどはどうだろう。本屋さん自身がどんな工夫をして構造改革を成し遂げるかしばらく「本」を注目してみたい。
「今日の作品」に「伊豆高原にて(水彩)」を掲載した。先週の日曜日、伊豆高原で描いたスケッチ。
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10月8日(水) 米カリフォルニア州の知事選で俳優のアーノルド・シュワルツェネッガー氏(1947年生まれ、56歳)の当選が確実になった。知事としての評価はこれからであるが、こういうニュースを聞くとアメリカの若さと可能性を感じる。ニュースキャスターと俳優で有名であったレーガン元大統領は1966年に同じくカリフォルニア州の知事になった。しかし、シュワルツェネッガー氏はオーストリア生まれ、21歳で渡米し勉学のかたわらボデイービルで名をあげやがて映画の世界に入った経歴。おそらく英語の習得にも必死で励んだであろう移住者が、日本の国土の1.1倍の面積、フランスに次ぐ経済規模といわれるカルフォルニア州のトップになるのは、やはり可能性の国でしか成し得ないアメリカンドリームである。ロナルド・レーガン(1911-)は知事の後1980年アメリカ大統領となった。けれども、アメリカ生まれでないシュワルツェネッガー氏は憲法で大統領の被選挙権はないという。まず、知事としてのお手並み拝見。政治家はその人間の理想と実行力と結果で評価される。前歴は俳優でも作家でもまたプロレスラー、官僚など何であっても構わない。
10月9日(木) 今日は「道具の日」。10・9の語呂合わせで「道具」というのもバカげているが道具について考える機会にはなる。今は、人が「道具」に対して抱くイメージは千差万別であろう。昔は武士の槍が道具であり、それから弓や鉄砲の「飛び道具」という言葉ができた。料理の好きな主婦には道具といえば包丁など台所道具。私には大工道具が一番身近だ。ノコギリ、鉋(かんな)、ノミ、ペンチ類などが道具箱の中に入っている。私にとっては大工道具ほど道具の価値を教えてくれるものはない。工作の道具に関しては「弘法筆を選ばず」は当たらない。名人と云われる人は、多くの専用道具を持ち、またその切れ味がずば抜けている。現代の道具といえばパソコン、デジカメ、携帯電話だろうか。これらは通信道具、記録の道具、検索道具、遊び道具など機能が多すぎて道具の有難味が薄れている。道具を拡大解釈すれば、コミュニケーションの基本である「言葉」を道具とする見方がある。この道具があるから相手と意志疎通できるし仲良くもなれる。けれども、この道具の使い方を間違えると喧嘩や戦争を引き起こす。言葉という道具にも熟達が必要である。
10月10日(金) 「今日の作品」に「伊豆高原=2=」を掲載した。色鉛筆の作品を掲載するのは初めて。最近、銀座の伊東屋でアート用の中間色の色鉛筆を3本バラで買った。今までは色鉛筆にはほとんど関心なかったけれども、パステルの種類が250色以上あるように色鉛筆にも非常に多くの種類があり、微妙な中間色を単品で買えることを知った。掲載した絵はタイトルの通り伊豆高原のススキがメインであるが、前に準備した17個の四角模様の用紙にそのまま描いてみた(以前の同じ四角模様を使った作品はここに掲載)。このところ絵の描き方は陶芸からインスピレーションを得ている。陶芸は全く自由に自分が考えた造形を作って楽しむ。従来と同じような茶碗やお皿も作るがそこには自分の好みが鮮明にでる。絵についても抽象とか具象とか、主張とか思想とか、あるいは他人の好みとか、そんなことは構わずに自分の思うように表現すればいいとあらためて思う。何時の日か、子供の大好きな、そして誰も作ったことのない絵本を一冊作りたい。
今日はこれから大学時代の友人の通夜にいく。8人の仲間の内、既に3人が亡くなった。幸運にも生かされている自分は彼らの分も含めて何を社会に還元できるだろうと思う・・。

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10月11日(土) 中曽根康弘・85歳、宮沢喜一・83歳の共に総理大臣経験者が衆院選に出馬の意向が強いと報じられている。ここでは政治の話題は極力だしたくないけれど、私は本人の見識や健康、行動力など全ての条件は無視して、歳を理由に引退すべきとの意見である。「年齢なんて関係ない」は公職以外であれば大いに結構。ポストを占拠する場では身を引くが美学である。見識があるはずのこの方々(勿論、土井社民党党首75歳を含む)が何故自分の姿が見えないのか不思議ですらある。裸の王様をつくるのは周囲が悪い。・・自らが一番分からない事に関して、いつも思い出すことがある。私はテープレコーダーで録音した自分の声を聞くとゾッとする。嫌でしようがない。けれどもそれが周囲の人が聞いている本当の声らしい。口からでた音波が耳に入って鼓膜を通して聴覚の中枢に届けられるのが普通に聞く声の伝達経路であるが、自分の声はこれとは別に声帯を振動させてできた音が直接体壁の振動として内耳から聴覚の中枢に入る。メカニズムとして自分の声は他人が聞く声とは別の種類として聞こえていることになる。声一つでもこんな調子。自己評価はそれほどに難しい。
10月12日(日) 毎日このコラムを書き続けていると「蓄積」の頼りなさを実感できて面白い。私は勤め人の頃から感銘を受けた言葉とか気に入った文章、考えた事など何でもノートにメモしていた。例えば著名人の”享年(=死んだ時の年齢)”などを年齢毎に書き留めたこともあるし、「気」のつく言葉を思いつくまま100個ほど書き出したりもした。はじめはコラムにこの蓄積してあった話題を綴ることも多かったが最近は昔のノートを見ることはほとんどない。少々の貯め込んだ知識など毎日どんどん減っていく。貯金でいえば数年で全部使い果たしたという感じ。ところが蓄積した知識は元金以上の利息というべきあらたなアイデイアとか新分野の興味を引き起こしてくれる。わずかでも湧き出る泉があれば古いたまり水など頼りにすることはない。泉の源泉である好奇心を大切にしたいと思う。Art is long,life is short. やることはまだまだ多い。
10月13日(月) 連休ムードでNHK学生合唱コンクールのテレビを続けてみてしまった。昨日は小学生の部で金賞をとった大岡山小学校が親しく(=初めて東京に来た時、大岡山にいた)興味を持ったし、今日の高校生の部も面白くて最後まで引きつけられた。新聞の社会面では高校生の非行が取り上げられるが、一方で合唱に打ち込む爽やかな高校生がいる。・・合唱にちなんで今日の話題は音。オーケストラは演奏のはじめに「ラ音」で音あわせをする。この国際的にも決まっているラ音=440Hzの音を何故ベースにするのか疑問に思って聞いてみるのだが明確に答えてくれる人はいない。これとは別に赤ちゃんが生まれてはじめてオギャーと産声をあげる音の周波数は440Hz(振動周期が1分間に440回)と知った。これは日本人も外国人も同じだという。たまたま今日見たTVで赤ちゃんがぐずって泣いている時、スーパーでくれる買い物用レジ袋をすり合わせてその音を赤ん坊の耳元で聞かせると直ぐに泣き止み寝てしまうという実験をみた。解説では赤ん坊が母親の胎内で羊水に浸かっている時に聞こえる音にすり合わせの音が類似しているのでないかとあった。そこで実際にレジ袋をくしゃくしゃにしてすり合わせ音を出しながらピアノのラ音(440Hz)もだして比較してみると明らかにラ音とマッチする!そこで感激的に納得した。音あわせのラ音は私たちが母親の胎内で聞き慣れた最も安心できる音(血液の流れ音)だったと思われる。産声は聞き慣れた音に合唱したことになる!
10月14日(火) 「少年老い易く、学成り難し 一寸の光陰軽んずべからず。いまだ覚めず、池塘春草の夢。階前の梧葉は既に秋声」 昔習った朱子の漢詩が妙に懐かしい。後半は余り馴染みがないが、池塘(ちとう)とは池の堤、春草の夢とは(池の堤で)春の草木が萌え出でる頃に楽しくまどろんだ夢、階前とは階段の前(庭先)、梧葉(ごよう)はあおぎり(梧桐)の葉。若者に少しの時間も無駄にするなよと鼓舞するなかなかいい詩だ。私はこの詩から逸脱して後半を少し別の読み方をしたい。桐の一葉は大きな音を立てて落ちて秋を知らせる。時は移り時代は変わる。「桐一葉落ちて天下の秋を知る」と嘆くのは権力者か「池塘春草の夢」に浸っていた者に限られる。いつまでも昔と同じ夢を見ていてはならない。落葉は没落や衰退を意味するものではなく、やがて新たな芽吹きをするための準備、再生のための変化である。・・いよいよ秋本番。この秋を楽しもう。(アオギリのある小学校はここ
10月15日(水) 「キリンアートアワード2003受賞作品展」をみた。会場が家から歩いて数分の場所であるのがうれしい(東京・代官山ヒルサイドテラスF棟、NET紹介はここ)この賞は「新鋭アーテイストとの出会いと育成を目的として創設された(14回目)」とある。今回は最優秀作品賞は該当なしということだが、優秀賞の一つは「VACUUM PACKING」。「人間が真空パックされるとどんな感覚なのか実体験するインスタレーション作品」とか。私も体験してみたが、まず靴を脱いで狭い部屋に入りヘッドギア(ボクシング用か)を付けてスイッチをいれる。そうすると部屋の空気が真空ポンプで引かれて、風船ゴムのような材質でできた四方の壁が身体に徐々に張り付いてしばし全身を押さえつける。直ぐに真空は元に戻り終わり。それだけの「作品」だ。優秀賞のもう一つは「火山焼」。これは粘土で作った彫刻をハワイの火山で素焼きにする様をビデオで撮影した作品。どろどろと流れるマグマの中にワイヤでつないだ作品を何度も押し込んでは引っ張り出す。「地球の熱エネルギーを利用した素焼き」だそうだ。これらの優秀作に「今までのアートの概念を越えるものに出会えた」と審査員のコメントがあるが、私にはそれほどに思えなかった。余りに安易で軽い。これらの系列でみると本物の技術(=ART)、例えば、宇宙空間の模擬訓練機やロケット(航空機も)など全てアート以上の感激が味わえる。何でもありのアートの世界でもオリジナルなアイデイアは枯渇しているとみえる。案外に最先端の科学技術の中に新しいアートのインスピレーションを呼び起こす宝の山があるかも知れない。
10月16日(木) 義姉夫妻と奥日光に紅葉を見に行った。私はスケッチブックを準備し描いた絵を早速このHPの「今日の作品」に掲載しようと甘い思惑を抱いていたが、見事にはずれた。早朝に自動車で出発したが東京から片道4時間(往復8.5時間)の奥日光では一個所でゆっくりとスケッチをする時間はなかった。そうは云っても奥日光の秋を満喫できた。小一時間、色づいた林の中を散歩(小田代原近辺)。昼食をとった中禅寺金谷ホテルの近辺は言葉を失うばかりの見事な紅葉。このような紅葉風景を短時間でスケッチするなどとても不遜と思われる。今回は自分で車を運転しなかったので、窓からみる山の景色や雲の形もまた脳裏にしっかり残っている。< 裏を見せ表を見せて散る紅葉. (良寛)>
10月17日(金) 「今日の作品」に「枯葉」を掲載した。自然教育園(東京・白金台、HPはここ)でスケッチしたもの。枝先に残った落葉寸前の葉の姿が面白いと思って何カ所かを断片的に描いたところで、ふと地面をみると樹から離れて地上に到達したばかりの落ち葉があるのに気がついた。拾ってきて今描いたばかりの画用紙の上に落ち葉を置いてみると現物の落ち葉は絵よりもはるかに迫力がある。そこで今度は原寸大で落ち葉を並べて仕上げたのが「今日の作品」。それにしても枯葉あるいは落ち葉の何と風情があることか。最後に華やかに色を付けた葉が、虫に食われ、穴があき、やがて土に帰る。その後に新たな芽吹きを見るために自らは散っていく落葉の美学とでもいうべき自然の摂理の美しさだ。・・阪神を優勝させた星野仙一監督が健康上の理由で引退するとか。道路公団総裁の老害が目立つ昨今、星野のすがすがしさが余計に際だつ。人も落ち葉となってなお愛されるタイプがある。
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10月18日(土) 天声人語(朝日)、産経抄(産経)、編集手帳(読売)、余録(毎日)、春秋(日経)と各新聞のコラムを毎朝インターネットで読むのを習慣としている。同じ話題でもそれぞれの切り口や主張が異なり新聞各社を比較できて面白い。一番明確に自分の主張をするのは産経抄で一貫した姿勢は気持ちがいいほど。編集手帳は意外にはっきり意見を云うこともあるし世間話などのとらえ方もうまく、私には(文章について)一番馴染みがいい。余録や春秋もいいけれど春秋は時々日経も随分大新聞様々になったのかと思わせるような偉ぶった表現があり戸惑うこともある。問題は天声人語。期待が多すぎる反動かもしれないが、読後なんとも釈然としない気持ちになることが多すぎる。奥歯に物が挟まったような云い方、ある人はこう云った、数字ではこう・・という言い回しで筆者はどうしたいのかを逃げているようにも受け取れるし、知識ばかりで感情が読みとれない。こんなはずでないと、図書館で昔の天声人語(英文対訳付き)を借りてきて読み始めた。昔の荒垣 秀雄さん (1903〜1989、戦後17年間天声人語を書き続けた)の時代のものは見当たらず、借りてきたのは1989年の天声人語(白井健策氏筆)。当然であろうがこの時代も文章は名文でそれほど違和感はなかった。全く独断かつ感覚的な感想であるが、荒垣さん、白井さんの時代は一新聞記者の視点で土臭いところに安心感があった。それがいまはスキを見せない超エリートの書き方にみえる。泥をかぶる、弱みもみせる、相手には暖かい眼差し・・こんな文章の巧みさ以前の姿勢がどこかに欲しい・・。
10月19日(日) 犬(コーギー)を連れて散歩する都会の一角にも秋の気配が感じられる。ハナミズキの赤く色づいた実は地上に落ちて可愛らしい模様をつくっている。紫式部(サイト例ここ)を見つけたが実はまだ白い。白の実が色づき紫の球が映えるには更に冷え込みと時間が必要なのだろう。街路樹のえんじゅ(槐)には豆がたくさん実をつけてえんじゅがマメ科であることを教えてくれる。散歩で通る旧山手通りは槐(えんじゅ)の街路樹が始まる個所で特に並木が美しい(散歩個所はここ)。槐(えんじゅ)とは難しい漢字だが、仏教伝来と共に渡来した”えんじゅ”に中国名の「槐」をそのまま当てたもの(槐のサイト例ここ)。普段は気にもしない街路樹が新鮮に思えて、名前の由来まで調べたくなるのも今の季節のせいだろうか。目の前まで垂れ下がったえんじゅのマメと葉をチョッピリいただいて家に持ち帰った。早速に画用紙に槐(えんじゅ)のマメ・葉・花を写し取り、今日の作品が完成(追って掲載予定)。「えんじゅ」は「延寿」を連想させる目出度い名前でもある。何はともあれのどかな日曜日だった。
10月20日(月) 大リーグ・ワールドシリーズで松井が3点ホームランを放ち、ヤンキースが勝利した。ゴルフでは丸山がUSAツァーで優勝したのも今日のニュースだ。日本人が世界を舞台に活躍するのは珍しいことではなくなった。けれどもマスコミで華々しく取り上げられる有名人はごく一部に過ぎない。Ichiro Suzukiといえば誰でも大リーグで活躍するイチローを思うが、先日リサイタルにいった鈴木一郎さんは海外で活動するクラシカル・ギターの名手である。Isabel Rey(Soprano)&Ichiro Suzuki(Classical Guitar)デユオ・リサイタル(@東京文化会館、次回は神戸にて10月21日@神戸新聞松方ホール)では、ソプラノとギターの絶妙の組合せを楽しむことができた。残念ながらリサイタルに行く前、私は二人とも名前を知らなかった。スペイン生まれのソプラノ、イザベルさんは弱音がすばらしくきれいで表現力豊か、心が洗われる。鈴木一郎さんのはったりのない美しい音づくりに私はクラシックギターとはこんなものかと目を開かされた。バルセロナに居を定め、ヨーロッパ、南北アメリカ、カリブ海諸国、アジア、オーストラリアなど広く演奏活動を続けているというIchiro Suzukiの名は、遅まきながらスペインの歌姫Isabelと共に忘れられない名前となった。
10月21日(火) 「平々凡々、来る日去る日が同じである方がよいと思っている。・・山野の花々を見るがよい。何も来年は今年より美しく花を咲かせようなど務めてはおらぬようだが、それでも咲けば美しい」。香月泰男(画家、1911-1974)は晩年こう云いながら絵筆をとった。いまは私もこんな気持ちが分かる。香月が戦争中に軍務のかたわら満州ハイラルから日本にいる妻子に毎日一通便りをだした軍用はがきが残されている(香月美術館はここ)。絵入りのはがきは実に361通。その頃は後にシベリアに抑留される運命までは予測できなかった。私のHPの絵はがきシリーズ(ここ)は香月の自作はがきに影響されて娘にだしたことを思い出す。久しぶりに「春夏秋冬」(香月泰男絵&文、谷川俊太郎編、新潮社)をひもといてみて新鮮な刺激を受けた。
「今日の作品」に「槐(えんじゅ)葉・花・実」を掲載した。経緯は10月19日コラム(ここ)の通り。

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10月22日(水) 成果(アウトプット)はまだ先の話しであるがアイデイアだけをこらえきれなくなって披露するなど子供じみているが、今日は最近閃いた陶芸の「秘密のアイデイア」を公開する。それは建築家、ガウデイーの使用した曲面を陶芸に応用することだ。スペインの生んだ天才建築家、アントニオ・ガウデイー(1852-1926)はSagrada Familia という教会建築など(バルセロナ、net例ここ)で有名。過去の建築様式とは全く異なった曲面構成とか自然主義の思想が特徴だが、一方で幾何学的な形状をベースとして構造物として最適化(剛性分布を最適化、位相を最適化)を図るなど、単に奇抜な形状というのでなく極めて合理的であると知った。私は話しを聞いただけでワクワクして直ぐにノートを取りだして陶芸用に曲面の設計をした。粘土をこね回してそんな曲面を削りだしている時は至福の時間だが、だんだん形状が出来上がってくるに従って不安が募ってきた。どうも自分一人で酔っているような気配だし、ガウデイーの応用など何百人、何千人も考えたかも知れない。ともあれ「ガウデイー曲面花器」の完成は、そう・・恐らく11月の終わり頃か・・。
10月24日(金) 昨夜は山形でピアノのリサイタルを聴いた。須田真美子ピアノリサイタル@山形テルサホール。須田真美子さんのピアノで私が忘れられないのはローマで聴いたコンサートだ。バスを乗り継ぎ苦労の末にコンサート会場にたどり着き演奏を聴き終わりタクシーでホテルに帰ったのは真夜中だったのも楽しい思い出となっている。須田真美子さんはいま最も油が乗り切った実力派のピアニスト。私などが感想を云えるものではないが、とにかく完璧なテクニックの上に、音色が多彩であらゆる種類の音が美しく心に響く。桐朋学園でピアノを教える先生であり私は一度東京でのリサイタルも聴いたことがあるが、東京ではあまり演奏を聴くチャンスがない。むしろ外国での演奏活動が多いようである。今回の山形の演奏は気力が充実した名演奏のように感じた。イタリアでの演奏会と同じく山形での”音”はいつまでも私の記憶に残るであろう。それにしても、山形で珠玉の演奏を聴きながら、どの場所でコンサートを聴いているのかなど考えもしない。山形、東京、またローマ、パリ、どの演奏会もいまや質的には全く変わりがない。安易に東京一極化などというが、実は地方の文化は東京とそれほど変わらないように思える。
10月25日(土) 「色は匂えど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為の奥山けふ越えて 浅き夢見し 酔(ゑ)ひもせず・ん」。ご存じイロハ四十八文字。あいうえお、かきくけこ・・の棒暗記調でなく、含蓄深い文章にすべてのカナを詠み込んだ名作だ。匂うばかりの美人であっても時がくればお婆さんになってしまうと暗にほのめかすところは、ロシア民謡「赤いサラファン」の歌詞(・・たとえ若い娘じゃとて 何でその日が長かろう 燃えるような その頬も 今にごらん 色あせる・・)の直接的な云い方とは違うが共通の発想がみえて何かおかしい。昔はパソコンゲームがない代わりに言葉遊びは驚くほどうまい。私が見つけたもう一つの名作。次の言葉は何と読むでしょう:「子子子子子子子子子子子子」(子が12個!)。子の読み方は「こ」「ね」「し」を使う。正解は、「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」(宇治拾遺物語/鎌倉時代より)。
10月26日(日) 長崎のハウステンポスを訪れたオランダ人は感嘆の声をあげる。それはオランダの街の精巧なミニチュアに驚くのでなく、自分たちの風景にはない山々が背景にあるからだという話しを読んだことがある。世界には何時間列車で走っても山影もみないところはいくらでもあるが、日本人にとっては山が原風景であり意識しないほど身近である。山を守り、山を司る神様である「山の神」は、別の意味で「恐妻の婉曲表現(新明解)、自分の妻の卑称(広辞苑)」とされる。山の神は杓子をしるしとするので、しゃもじは奥さんの持ち物、そして台所を支配する奥さんは山の神となった。また、山には衣食住の全てを満たすものがあり、山を支配する神は女神だというところが面白い。山の神についての昔話は日本中に多いと思われるが以下の山の神伝説(奈良)は本当に優しい。<むかしむかし、神無月(10月)には神様はみな出雲の国に集まり誰もいなくなるけれども山の神は一人留守番をすることとなった。村人がそんな山の神をかわいそうに思い、お餅をいっぱい山の神にお供えする。山の神はお腹を空かしていたので涙を流して喜んで全部食べてしまう。満腹になった山の神はぐっすり寝込んで霜月(11月)になって他の神様達が帰って来たのにも気がつかない。神様達は自分たちの食べ物を勝手に山の神が食べてしまったと誤解して山の神を懲らしめるため川へ流す。睦月を迎えて村人は心配して山の神を助け上げ結局は他の神様とも和解してメデタシめでたし・・(昔話全文はここ)>
10月27日(月) 東京でもようやく一部の樹木が色づき始めている。この秋には自分としては珍しく各地の紅葉をみる機会に恵まれた。「今日の作品」に掲載した「五色沼(毘沙門沼)」もその中の一つ。福島県・裏磐梯にある五色沼(猪苗代湖の北10km)の紅葉は真っ盛りだった。五個の沼の中で最大の毘沙門沼ではスケッチブックを持ったりキャンバスを立てかけて絵を描いているグループをいくつも見かけた。こんな場所で半日絵を描く幸せな人々を横目で見ながら、私は眼で楽しむだけで通り過ぎる。負け惜しみではないが全山色づいた景色とか眩いばかりの紅葉には多彩な色いろに圧倒されて絵筆をとってこの風景を描き残そうという気力が湧かない。余りに完璧な美人を目前にしたら絵に描くなど不遜に思えるのと同じ・・と云ってみたいが実体験がないのでこれは言葉だけ。とにかく誰が見ても美しいものを描くのは難しい。掲載した「五色沼」はデジカメ写真をもとに描いた。”絵のような”風景を描くはずかしさを感じながら、素直にあるがまま思い出のイメージを残してみた。
2003年後半の絵=ここ

10月28日(火) 終日雨が降り続く。我が家の庭では知らぬ間にホトトギスの花が50-60。ホトトギス(杜鵑草)はユリ科ホトトギス属の 多年草で日陰を好むとされているので、ほとんど日が当たらないこの庭に自生するにはピッタリかもしれない。何も面倒をみないのに毎年この時期になると決まって独特な斑模様の花を咲かせてくれる。ホトトギス(杜鵑草・net画像例ここ)の名は花びらの斑点が鳥のホトトギス(時鳥、不如帰、子規)の胸羽根の模様に似ているから名付けられたというが、本家の鳥にはまだ出会ったことがない。netで探すと(ここ)なるほど「特許許可局」の鳴き声まで聞かせてくれる。ちなみに杜鵑草の英名はJapanese Toad Lilyという。toadはひき蛙、がま蛙の意。これだけで名付けは日本語の方が繊細で優れているなどとは云わない。日本でも蛙手=カエデ=楓、のように蛙がつくいい名前もある。英米人はtoadの言葉にどんなニュアンスを感じるのだろうか。「草の名は 山ほととぎす 雨期長し(中村汀女)」 
10月29日(水) モネの「睡蓮」をはじめとした一連の絵を見ながらあらためてこの種の絵画をどうやって描くのか不思議に思えてしばし考えた(@国立西洋美術館、常設展示)。「この種」というのは、絵の前1mほどでみると荒い筆のタッチが目立つばかりで絵全体の息づかいも感じられないのに、5-10m 離れてみると実にリアルにそして生き生きと画家がとらえた対象が浮き出してくるというもの。印象派の絵画は全般に少し離れてみる方が分かり易いが、近くで見ても迫力があるものもある。前に、マチスの絵を見た時にもやはり離れて見ると別物のようにリアルにみえた覚えがあるが、離れてみるのがベストとなるのは印象派に限らない。画家が筆を持って描く時にはキャンバスの直前にいる。少々長い筆を特注で作ったとしてもせいぜい2m程度が限度だろう。絵の前で目を細めたり薄目でぼんやりと見る試みをしてみたが自分ではこの様な絵は描けないと思った。強いて云えば、広いアトリエで絵の具を一筆のせる毎に数メートル離れて眺めるやり方なら出来るかも知れない。そうすると激しい筆のタッチで描いているようにみえるが、時間をかけて綿密に計算しながら仕上げているのか。「睡蓮」(Monetのnet睡蓮シリーズ例:ここ)は狭い部屋では描けない。観賞する時と同じように奥行き10m以上の広いスペースを必要とするのだろう・・。
10月30日(木) 機能美と呼ばれるものがある。人間が作り上げた道具とか科学技術の成果の中で機能を極限まで追求した形には確かに独特の美を認めることができる。それは科学の進歩とは関係がない。日本刀に機能美をみることもあれば蒸気機関車、新幹線、ジェット機の形状などそれぞれの時代に特有な機能美をみる。何が美しいかといえば必要なものが最も合理的に配備され駄肉がない事であろう。最近、私は機能美の最たるものは「自然」だと思えてしようがない。自然のことは普通あえて機能美とは云わないけれど、自然は全く無駄がなく、全て美しい。鳥のあのすばらしい形状は、人間がいくら空気力学を応用しても作り得ない。魚の美しい形、花や樹木の一つ一つも全てが生物として機能を保つための最適な形状である。人間の形にしても、眼と耳は二つ、鼻は一つだけれど穴が二つ、口は一つで、手は二本、指はそれぞれ五本づつ・・。考えれば考えるほど必要な機能に対して最適な構造で出来上がっている。無駄はないが一つが不良になってももう一つで代用できる安全性(冗長性)の機能まで考慮されている。「自然に学べ」は大昔から人間のテーマであった。21世紀においても自然は変わらぬお手本のように思える。アイデイアがない時には自然を見つめよう・・。
10月31日(金) 公園では幼稚園児がハローウィンの仮装をして行進する。代官山のメイン通りでは魔法使いやお姫様の扮装をした一団が順番に店を巡り、Trick or treat! をやっている。今日、10月31日はハローウィン。私はハローウィンの行事など全く無縁に育ったけれども最近はこの「欧米キリスト教国」での習慣を身近にみるようになった。ハローウィンについては何も知らないので調べてみた。Halloweenのhallow=神聖なものとしてあがめる、神に捧げる、een=even=evening,つまり神に捧げる前夜祭。キリスト教で11月1日はあらゆる聖人を記念する日、万聖節(All Saints'Days)。この前夜祭として10月31日がHalloweenとなった。古代ケルト民族(紀元前数世紀)の風習が起源で、秋の収穫を祝い悪霊を追い出す祭り(収穫祭)であるが、元来は死者の霊と接する日本のお盆のような意味合いもあったという。アメリカではカボチャをくり抜いて目や鼻、口をつけた提灯(Jack-O-Lantern)を飾ったり、仮装して"Trick or treat !"(お菓子をくれないといたずらするぞ)と近所を回る習慣がある(カボチャ提灯はジャックさん用のいわば灯明。仮装は悪霊に対抗する手段)。ちなみにハローウィンは聖書とも関係がなく教会では何もしない。子供達にとっては宗教とはほとんど無関係で楽しい思い出になるのだろう。

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