これまでの「今日のコラム」(2003年 12月分)

12月1日(月) 今日から師走。12月1日、am11:00にテレビの地上デジタル放送が開始された。テレビにとって歴史的な瞬間というが我が家では当分の間デジタルの高画質、高音質、文字情報は関係がなさそうである。いくらハードが進んでも放映される中味(質)が問題であることはこれまでも言い尽くされているが、質を落として視聴率を稼ぐ方式などこれからの時代には通用しないだろう。デジタル化と合わせて番組の質がよくなることを大いに期待はするものの、我が家のデジタル化は何年後になるだろうか。デジタル放送開始の今年がアナログテレビ開始の1953年から丁度50年目というのも感慨深い。小学6年最後の頃か、高い高いアンテナを立てテレビを設置した近所の家へ大勢で押し掛けていき初めてテレビを見た情景を今も思い出す。ふと50年後、孫のMちゃんはどんなテレビをみるだろうと思う・・。 節季候の来れば風雅も師走なり(芭蕉)

12月2日(火) 先週、10月に急逝した友人宅をあらためて弔問した。学生時代の同好会仲間であったが、彼がエンジニアでありながら書道の師範だったことは今回の訪問で初めて知った。奥様は夫が亡くなるまでの一年余の戦いを静かに語ってくれた。それまで病気一つしたことのない夫が身体の不調を訴えて病院で検査した後、夫婦で結果を聞きに来るように云われた。いきなり非常に重大なお話です・・とはじまり、10万人に一人の難しい病気で現代の医学では治療法がないことなど、最後には、あと1年と思ってください・・。仕事を続けるか、奥様と旅行にでもいくかお考え下さい・・とも云われたという。それからは病院だけに頼らない療法を試みながら、旅行もしたし温泉にもいったけれども、好きなことは続けた。一年後、まだ大学で教える方の仕事は続けられたし、一方で書道にも励んでいた。結果的には一年数ヶ月で命は途絶えた。最期の入院期間は1−2週間だったという。・・もし、あなたの命はあと1年ですと云われた時、私なら何をするだろう。今と同じ事をするだろうか、何倍も時間を凝縮して生きられるだろうか・・。
12月3日(水) 最近、人間の脳に関するTVをみる機会が多い。先日は恐怖心を全く感じなくなった人を取り上げた番組をみた。脳の扁桃体と呼ばれる部分に欠陥を生じたこの人は、日常の生活はほとんど正常にみえるが、恐怖映画だろうが高所だろうが何も反応しない。それだけでなく、喜びや怒りなど他人がどのような感情であるのか認識できなくなっている。テレビでは実際に怒っている表情をみても笑いと区別できなかった。これを機会に脳の仕組みをもう少し調べてみた。知覚情報は脳の前頭葉と扁桃体、それに海馬に送られる。前頭葉では知覚情報を認知し意識的な判断がなされ、扁桃体では喜怒哀楽の情動を生じる。海馬は記憶と情動の抑制に係わる。つまり、人の心は意識にのぼる心(前頭葉)と情動(喜怒哀楽)の心(扁桃体)の独立した機能があるけれども、これらがスムースに反応するので一つの心に思えるだけである。子供が成長する過程で前頭葉は成熟し判断力がつく。一方で老人になると脳の神経細胞が減ることによりアルツハイマーになる場合もある。・・・我々が物事を判断するときは勿論のこと、喜びや悲しみでさえ脳神経の極めて微妙なバランスの下に成り立っていることを知ると、今ある状態が一層有難く思える。
12月4日(木) 11月30日にオープンした銀座のアップルストアで遊んできた。この店は銀座3丁目の超一等地にあり、ビルの4フロア全てをアップル製品で埋め尽くしている。宣伝文句を引用すれば”最もエキサイテイングでアメリカンスタイルのショッピング・エクスペリメンスを東京で実現します”(カタカナばかりだ!)。iPod(=数千曲をポケットに入れて持ち運べるという音楽用キット)をいじってみたり、最新機種を操作してみるなど、実際に製品に触れることができるのがこの店のいいところだ。私が気に入ったのは全面透明ガラスのエレベーター設備。それに機種ではPower Mac G5に接続された大型デイスプレー。あえて「Webデザインワークショップ」を聴講したが、Dreamweaver(ホームページ作成ソフト)Fireworks (画像・図形処理ソフト)Flash(動画ソフト)の三つ、私のHP制作で使用しているソフトの解説ばかりで新味はなかった。このアップルストアにはトイレの案内がどこにもない。実際には3Fの特別扉をあけるとあるのだがこれは不親切だ。いずれにしても、昔から自分用には名機SE30からはじまりMacばかり使ってきたMacファンとしては、Windowsが余りに強力になる昨今、リンゴマークが元気にみえるこのアップルストアは喜ばしい。
「今日の作品」に「シクラメン」を掲載した。最近購入した若々しいシクラメンを描いた、文字通りの”今日の作品”。

12月5日(金) 舞台に立って歌ったりピアノを演奏したりする時に足がガクガクするほどあがってしまったという同年代の人の話を続けて聞いた。あがり症は若い人に限らず人生のベテランにしても同じだ。私の経験でも回数を重ねることにより人前での話しやパーフォーマンスが苦にならず平気になることはあるが、一方で他人を特別意識したり結果が重大である状況では、極度に緊張することに変わりはない。「あがり症克服の技」がいくら解説されても現実はそれほど単純ではない。最近、注目すべき記事を見つけた。20世紀を代表するソ連の指揮者、ムラヴィンスキー(1903-1988)が 「私は本番の舞台に出る時、死にそうに怖い。・・リヒテルやギレリスの恐怖だってすさまじいものだ。私はそれを感じる。・・」と述べている。リヒテル(ソ連のピアニスト、1915-1997)自身、「ピアノが怖い」といいながら極度の緊迫感の中で完璧な演奏をした。大ピアニストや指揮者でさえ舞台に立つ時は毎回真剣勝負で臨む。我々常人は緊張でふるえても当たり前と思うべきなのだろう。
12月6日(土) 今日の東京はいつ雨が降ってもおかしくない曇り空ながら、ついに夕方まで雨粒をみることはなかった。神宮外苑の銀杏並木はようやく真っ黄色に色を変えている。神宮球場の隣にある秩父宮ラグビー場ではトップリーグ(実業団ラグビー)が開催中。センターポールに掲げられたラクビー旗は半旗である。イラクで殺害された外交官、奥氏が元早大のラガーマンであったので、この日の半旗と思われる。そのイラクで殺された奥氏と井ノ上、二人の葬儀・告別式が行われていた青山葬儀所の前を通った。午後の1時過ぎであるから葬儀の後、告別式の時間であったが長蛇の列は引きも切らず。列は青山霊園の中まで続いていた。並んでいる人の中に女学生を多く見かけたのが印象的。時々この場所を通るがこれ程多くの人が参列している葬儀には出会ったことはない。何もしない有象無象の評論家でなく第一線の実行者であった二人に心の中で哀悼しその場を通り過ぎた。先行きに晴れ間が見えないイラク情勢であるが、せめて雨粒を見ることのないように祈りたい。
12月7日(日) 先週はNHKテレビでスペインの世界遺産(トレド、セゴビア、アビラなど)・ハイビジョン生中継を堪能した(ただし我が家は普通のテレビ)。いまは家庭に居ながら南極からの皆既日食でさえ生中継をみることができる時代になった。しかし、このように映像情報が便利になればなるほど、一方で現場で現実の姿をみる意味の大きさを感じる。私の場合、外国にいって以前本や写真で見たことのある風景や街並みに接し現地の人々に会うと、想像していたよりも数倍は感激する事も多い。本物をみるのと見ないではそれほどに差が大きい。忘れられないのは南フランスのセント・ヴィクトワール山。この山は画家、セザンヌが最も愛した対象と云われるくらいセザンヌの絵によくでてくる(東京・ブリジストン美術館には常設展示)。絵では見慣れたセント・ヴィクトワール山は余り面白味のある山とも思えなかった。それでも南仏・プロヴァンスをドライブした際、あえてセント・ヴィクトワール山の麓の田舎道を走った。そうすると絵からイメージしていた山とは大違い。いくら車を走らせても途切れない巨大な山並みだった。セザンヌが何度も描きたくなった山の魔力まで理解できるような気がしたことを思い出す(フランスでは大きな岩山は極めて希)。・・テレビの映像の質が上がることはいいとしても、どんなに鮮明な映像でも、受け身では情報としては偏りがある。現地にいって自分の意志で見る、自ら調べ考える、それではじめて本当に見たことになると心したい。
12月8日(月) 図書館にいったついでに「片岡鶴太郎画集」を借りた。鶴太郎は専門の画家ではないが私は以前から彼の描き方が好きだ。日本には画家と呼ばれる人は有名、無名、数限りないが、画家の中でも好き・嫌いの相性がある。私は自由な精神、独自な発想、それに品格を絵の中に発見するとうれしくなる。鶴太郎の絵にはそれらにプラスして緊迫感が伝わってくる(鶴太郎HPはここ)。演劇人でやはり完成された絵を描くのは米倉斉加年(1934年生まれ)であろう。この人の絵も一度みると忘れられない独自な世界を持っている(斉加年HPはここ)。最近ではこの5月11日のコラム(ここ)でも触れた木梨憲武が忘れられない。これらの人の作品そのものをじっくりと味わい、それぞれに全身全霊を傾けて創作に没頭する姿をみると、絵描きに専門家とアマチュアの区別はナンセンスだとの思いを強くする。人は100 %の時間を与えられて成果をだすものではない。別の仕事を持っていても寸暇の中からすばらしい作品が生まれる事実は専業画家でない人に勇気と希望を与えてくれる。
12月9日(火) 「今日の作品」に「横長花器」(陶芸)を掲載した。日記帳で調べるとこの花器は丁度2ヶ月前の10月9日に作り始めている。粘土をこねた後、厚さ一定の板を作り、寸法取りをしてそれぞれのパーツを切り出す。その後、板を組み合わせて接合して形を完成させるまで、3時間余で一気に作り上げた。まだ柔らかい板の粘土を変形させないように立てた時の苦心を今も思い出す。更に適当に日をおき粘土を半分乾かした状態で形を整える”削り”を何度か施す(四角の遊び穴もこの時にあける)。それから工程としては素焼き(約750度で焼成)ー釉薬かけー本焼き(約1250度で焼成)を経て今日の完成となった。横寸法が50cm、久しぶりの大物陶芸である。完成品を観察するといつも意図したものと違うところを発見することができる。この花器でいえば、「いらほ(伊羅保)」という釉薬をベースに使ったが、思ったよりも焦茶色に黄みが強い部分がある。これは”いらほ”が分厚く付きすぎるとこうなることを知った。思い通りにいかない個所が全て新たな経験となり知識も増えるのが「ものつくり」の楽しいところだ。
12月10日(水) 昨日のコラムには陶芸作品の制作経緯を書いた。毎日コラムを書き続けていると、文章を綴るよりもモノツクリの方が自分に向いていると思うことがある。今日は何としてもキーボードを叩きたくない心境。書く気が全く起こらない。なぜかは分からないが周期的にこういう気分になる。そんな日であるが、作品の成果はある。「今日の作品」には掲載できないのが残念だが年賀状の下絵など何枚かを描いた。それにしても、来年の干支「猿」は難しい。長谷川等伯が描くような手長猿は余りにポピュラーで賀状には恥ずかしいし、猿の形を面白くは描きにくい。結局、参考にしたのはこのHPのギャラリーに掲載した自分の絵(ここ)だった。「真理は手許に隠れている」・・ではない、この場合は「捜し物は手許にある」かな?
12月11日(木) 柳宗理といえば日本の工業デザインの草分けとして著名で世界的にも評価が高い。一般には、スプーンやフォーク、皿などのテーブル用品、鍋やケトルなどの台所用品と身近な道具でそのデザインに親しむことが出来る。勿論、椅子などのインテリアデザインの分野でもよく知られている。柳宗理(1915年生まれー)は民芸運動で有名な柳宗悦の息子として生まれ、若い頃は父親への反発もあり東京芸大の油絵科へ進んだ。後に工業デザインを研究し、庶民が使う素朴な道具に価値を発見した父親と同じように、浮き世離れした”芸術”ではなく人間生活に原点を置いた道具にこだわったところが面白い。一般的には余り知られていないが、私が注目するのは、東名高速道路の防音壁(東京料金所近辺)や歩道橋(大阪くずはニュータウン)、地下鉄の駅(横浜市営・横浜)など柳デザインの公共施設である。いつも不様な歩道橋や画一的な駅舎を見る度に、役所や鉄道の施設担当には柳宗理のことを知っている人がいるのだろうかと思う(柳宗理のHPはここ)。公共施設の建造費からみると設計費などたかが知れている。機能と美しさを合わせたデザインにお金をかけるようになれば日本の都市景観も変わるに違いない。
12月12日(金) 車でしばしば通る道路沿いに「犬貸しだします」の店がある。散歩用に犬をレンタルする商売である。借り手がいるので貸し手は商売ができる。借りる方は好きな犬を選んで数時間遊んだ後、はいサヨウナラ・・。金を出すから何でもできるというのは、水商売の女の子を相手にする感覚と同じだが、犬は水商売をやっているつもりはないだろう。犬の精神状態は知るよしもないがデート料は全てレンタル屋の独り占め。こんな商売は繁盛させたくない。一方で、近所の犬屋さんで聞いたところ、最近はスター犬もいるという。コマーシャルで評判になったチワワにならって、雑誌の撮影、テレビの取材などもてもてのワンちゃんはスケジュールがびっしりつまっていて飼い主の家族と一緒になるのは夜だけとか・・。犬にもいろいろな生活があるねえ・・と足下のアール(コーギー犬)の頭をさすったら眠そうな顔を起こしただけでまた気持ちよさそうに目をつぶった。アールには平々凡々が似合っている。
12月13日(土) 朝6時50分頃、西郷山公園(東京)についた。公園の楓は赤く色づき、その紅葉の背景に朝日を浴びて薄桃色に染まった富士の姿がみえる。犬ともどもしばし富士山を眺めて小休止。アール(コーギー犬)の散歩の際に公園に寄り富士山をみることは早朝の楽しみでもある。ところが、毎回、公園に来る度に不愉快になることがある。この公園は東京・目黒区公園課の管轄であるが、管理をする役所自身が公園の美観をひどく損ねている。まず公園の入り口にはどーんと看板が6個、緑を覆うように立てかけてある。小さな公園であるが幅50cm,高さ200cmほどの大看板だけで公園には10個以上(一周する間に数えきらなかった)。「花火は近所の迷惑になるから禁止」、「犬はリードを付けなければ入園禁止、フリーリードは駄目<余計なお世話だ!>」・・その他、幼児に注意するような内容を何度も何度も繰り返して、公園中を警告板で覆っている感じだ。しかも、立て看板でない恒久的な注意銘板は別にあり、その中でも同じ内容が書いてある。別の目黒区の公園では偉人の格言を書いた板をあちこちに並べてあり辟易した覚えがある。公園は役所の専有物とでも思っているのだろうか。公園課というセクションがあるから余計な仕事をするのかも知れない。不動産案内のような大看板を見る度に、”役所仕事”は何とかならぬかと思う。
12月14日(日) 「今日の作品」に「顔つき花器(陶芸)」を掲載した。友人が手持ちの花器と同じペアを作って欲しいとのことで、モデルの花器を目の前において制作したもの。私は他人と同じ形を作らない主義であるので、ペアといっても個性をだすことを条件に引き受けたが、自分では作ることのない造形を試みて得るところも多かった。モデルは顔から首部まで白の釉薬をかけ台座は釉薬なし。それに対してこちらは黒粘土で制作し全体に透明の釉薬をかけた。台座部分は首から連なる胸元の感じとするようにモデルと形を変えた。モデルの花器は縦に二つ割りとした型作り用(量産用)の継ぎ目があるが、粘土を積みあげていき、削りにより形を整える黒ちゃんには継ぎ目はない。削りにより顔を仕上げるところは、彫刻の像を造り出すような面白さがある。自分はこのスタイルの絵しか描かないと決めつけずに他人を真似て描いてみると意外にこれまで知らなかった表現法に巡り会った・・そんな感じの陶芸制作だった。今日、友人が引き取りにきて、今は白、黒ペアの顔が友人宅で並んでいるはずだ。”娘が婿を迎えたみたい”と云ってくれたのがうれしい。
12月15日(月) 私はデジカメやスキャナから画像をパソコンに取込み、パソコンの中で色々な種類の写真をアレンジして最期にA4程度の写真紙にプリンタで打ち出して整理するのを楽しみにしてきた。それは、写真の解像度を設定したあと、印刷用紙のサイズに応じてそれぞれの写真のサイズを決めたり色調の補正を行ったり、面倒だけれども自分のテクニックが活かせる面白い場でもあった。けれども最近のプリンタはパソコンがなくてもデジカメのメモリーチップやスキャナから直接印刷が出来る。それも単純な印刷であれば下手に自分で色調整をするよりもバランスのよい綺麗な色調で印刷できてしまう。写真印刷に関しては、もはや専門の写真屋さん、ベテラン、素人の区別はないに等しい。写真のなかった時代には肖像画家が人の姿を後世に残す役割を担った。写真の表現はありのままの姿を残す意味で革命的だったが、現代ではありのままを残す価値はほとんどない。写真も印刷も誰でも出来るようになったが、何を被写体として撮るか、何のために、そしていかに残すかは個々人の意志による。どんなに自動化技術が進化しても”感情”をどう表すかを考えると今の時代も自分でやることは多い。
12月16日(火) 人間は満たされないところがあるから励み、努力する一面がある。ところが「満足」というのは永遠にあり得ないのだろうか。総理大臣まで務めた人が85歳になってもオレの議員ポジションを取り上げるとはけしからんと怒り、何億も稼いだタレントニュースキャスターが己のことを棚に上げて今の社会はどうなっているのかと首をひねる。これほどに最高の幸運に恵まれた人間でさえ感謝する素振りがみえない。こう云う時に反語として思い浮かぶのが「吾唯足知」の言葉である。「われただたるを知る」と読む。この言葉は石庭で有名な京都・竜安寺の手水鉢(ちょうずばち=蹲<つくばい>という)に書かれていることを知っている人も多いだろう(netではここ)。「吾唯足知」は全ての文字に「口」がつくので、真ん中に四角(口)を書いて、上下左右にその他の字画を加えた配列が面白く、竜安寺で一生懸命に手水鉢の写真を撮ったことを思い出す。この言葉には「足(たる)を知るものは富む」という仏教的な思想があるが、西洋でも全く同じ格言がある:He is rich that has few wants. 世の東西を問わず、”足を知る”ということは、生かされていことへの感謝が基本にあるのだろう。富みを求め、幸せを探す・・。求めるものは心の中。
12月17日(水) 棟方志功を知っていると思っていたのは間違いだった。”わだば日本のゴッホになる”と油絵を志したが、後に川上澄生の版画に魅了されて版画の道に転身したこと、柳宗悦らに認められ名を知られるようになったこと、ヴェネチアビエンナーレ展に出品した版画でグランプリを獲得したこと、それに強度の近視のため目を板すれすれに近づけて彫刻する姿やデパートなどでみるふくよかな女性の版画など、断片的に「棟方志功」についての知識は持っていた。けれども、「棟方志功展」(@東京・渋谷Bunkamura ザ・ミュージアム/2004-2-1まで、net案内はここ)で本物の棟方版画をみて、いままで棟方志功を分かっているつもりだったのが恥ずかしくなるほど感動した。まさに目が見えずに象の鼻に触って象を知ったつもりでいたようなものである。棟方の実態は想像以上に偉大だ。私は、後期の鮮やかに彩色(裏から絵の具をしみ込ませる裏彩色)したものもいいが、それ以上に白黒を強調した前期の作品群が好きだ。「観音経曼陀羅」や代表作の「釈迦十大弟子」などいつまで見ていても飽きない。他人がやっていないことに挑戦する独創性、精神性、鋭さなど、ほとんど他に類を見ないのではないか。棟方は日本のゴッホどころではない。真に20世紀を代表する世界のアーテイストだ。しばしMUNAKATAに接することができた幸せに浸っている。
12月18日(木) 「今日の作品」に「ガウデイ曲面皿(陶芸)」を掲載した。前の「ガウデイ曲面花器」(陶芸コーナー参照)に続く”ガウデイ曲面”の第二弾だ。11月30日に「花器」を掲載した時のコラム(ここ)にも書いたが、アントニオ・ガウデイ(スペインの建築家・1852-1926)が建築に使用した曲面を陶芸品に応用することを思いついた時には興奮したものの、現実の作品となって目にすると「何がガウデイなの?」という感じで、制作者だけ曲面の面白さに酔っていたところがある。この皿を制作した時には、位相をずらして配列した二つのサインカーブからなる曲面(ガウデイ曲面)をそのまま皿にすると、汁物がこぼれることになりかねないので、皿の端を持ち上げて造形した。そのために余計ただの波板にみえやすい。いずれにしても、花器と皿にガウデイ曲面を応用した二つの結果をみることができた。ここにきて、ガウデイ曲面は更に別の陶芸への可能性を予感させる。これからも自己満足でいいから何でもやって見ようと思う。先の「花器」をなかなかいいと云ってくれる人がいてうれしかった・・。
12月19日(金) 陶芸教室の忘年会があった。職業も年齢も性別も異なった人々が同じ場で学ぶということだけで集う。それは考えてみるとなかなか得難い集まりだ。年功序列の男集団の会合や気配り優先の忘年会にはない気楽な雰囲気がよい。陶芸は一人でもできないことはない。けれども教室で他の人たちが造る様をみるのは非常に刺激になる。周りの人はみな自分とは違うそれぞれの流儀で自分にはない特徴がある。時にハッとして目を開かされることもあれば、ガツーンと一撃食らう作品に出会うこともある。それが年齢や性別と全く無関係に影響を受ける。まさに教室は善し悪しを問わない個性の展示場である。・・今日の忘年会には親しいアメリカ人も参加していた。彼とは教室だけでなく毎朝犬の散歩の時に路上でも会って挨拶をする。こちらはコーギーを連れ、彼は二匹の柴犬を連れている。柴犬の名は、葵ちゃん、富士子ちゃん。彼はアメリカ国籍だが京都生まれであることを今日はじめて知った。
12月20日(土) 西日本中心に初雪、北陸・東海地方では大雪が報じられている。寒さのせいでなく、”ハックション”とくしゃみをすると、誰か人に噂されているという伝承は、愉快な連想だ。一、褒められ、二、憎まれ、三、惚れられ、四、風邪ひく。四は”ヨ”と発音して「ヨカゼヒク=夜風引く」と洒落ている。三回くしゃみをして惚れられていると喜んではいけない。三、誹(そし)られと云う場合もある。自分でコントロールできないくしゃみを「人の噂」と結びつけた祖先達はさぞかし人の噂が生活の楽しみであったに違いない。今ならば芸能週刊誌なみの情報交換だろうか。一方で「人の噂は75日」と噂など所詮長くは続かないともいう。なぜ75日か、7や5の目出度い数字の日には消えてしまうとか、収穫までの一区切りの期間とかいう説があるようだが、深い意味はない数字であろう。「噂」という言葉を辞書ではどう説明しているか調べてみた:(1)そこにいない人を話題にしてあれこれ言うこと、(2)事実かどうか疑わしい事柄について興味本位に言いふらすこと(新明解)。ここで”ハックション”。事実かどうか疑わしくても一回だと嫌な気がしないのがおかしい。
12月21日(日) 独裁者は自分の生活を決してオープンにしない(現代の世に独裁が成り立つことが奇妙だが)。カリスマにしてもカミサマにしても日常生活は神秘の中に隠れているからカリスマであり得る。見えないところに人は想像力を働かせ好きな夢をみる。しかし、科学の力で解明された夢は更に新しい夢をみることが出来るのが人間のうれしいところに思える。月や火星について知れば知るほど、新たな疑問が湧き上がる。心理分析の発達はめざましいが100年前より人間関係がスムースであるかというと、そうはいかない。人の脳の研究が進み、天才の構造が解明されつつあるようだ。ある種の脳の欠陥と共に天才が発揮できるとなれば、天才もまた神秘のベールをはがした脳医学の患者となる。そうかといって人工頭脳はつくることができても、真の天才をつくるのは永遠に天の配剤であろう。自然は解明されればされるほど神秘の深さをみせる。一方で、人間の生活はオープンで神秘性などないのがいい・・と云いながら、そう・・、ホームページを持っていると確かにカリスマには成り得ないことに気がついた。
12月22日(月) 「木がらしや 東京の日の ありどころ (龍之介)」。東京の我が家は東側に隣接して5階建てのマンションができてから午前中には太陽をみることはない。それでも午後になると少し陽光が入ると思っていたのに、このところ終日晴天のお日様にお目にかかれない。太陽の位置が低くなって今度は南側の建物の影になっているのだ。今日は冬至。所用で外出し、遅くなったと時計を見ると4時過ぎ。4時半頃にはもう太陽は沈んでいた。冬至を実感したついでに、妻に今日は柚子湯にしようと冗談に言ってみると、何と知人からいただいたという柚子が三個準備されていた。・・ 「金たまる ことに縁なき 柚子湯かな(真砂女)」
12月23日(火) 「今日の作品」に「皿から照明へ」(陶芸)を掲載した。できたてのホヤホヤで、組立完成は後日となるが、やがて照明ができあがるという予告のタイトルである。今日、出来上がったばかりの角皿5枚を引き取って陶芸教室からの帰路、代官山のシェルイというケーキ屋さんでケーキを二つ買ったのは休日の余裕だろうか。早速にこのケーキをできたての皿にのせて写真を撮ったのが本日掲載版だ。皿の色に合わせてケーキを買ったのに写真でみると地味すぎた。赤や黄色の派手な色のケーキにすべきだったと思ったが後の祭り。今回の作品は、私の魂胆としては普段は皿5枚を実用に使いながら、カシャカシャと組み立てるとフロアスタンドに変身するというものを考えた。ところが穴あき皿はどうも主婦には評判が悪いようだ。二兎を追うものは一兎をも得ずと云われても、皿も照明もと二兎を追ってみたいのが制作者の意地であり、またモノツクリの醍醐味でもある。ともあれ、計画通りに皿の裏と横に磁石を埋め込んで組み立て式照明具はもうすぐ完成だ。こういう作品は陶芸を二倍楽しめる・・。
12月24日(水) クリスマスになると毎年ホームページの”国際化”を考える。外国にクリスマスメールを送りながら、インターネットは日本語バージョンだけでは外国で見ることができない・・と、ホームページの英語バージョンを作ろうかとも思うのだが実行には至らない。世界のインターネット人口は今、約7億人程度だろうか(昨年12月で6億5000万人)。この内、米国が2億弱で世界一、第二位は中国の約6000万人、日本は2001年に中国に抜かれ世界第三位。約5700万人程度(現状のデータは半年〜一年後に確定する)。日本の場合、凄いのは人口1.3億人の実に半数近い普及度を示すこと。中国は世界二位のネット人口といっても、全人口が日本のほぼ10倍、12.8億人という膨大な数である。中国で1億人がインターネットを使ったとしてもまだ人口の十分の一にも達しない。中国の携帯電話人口が2億人でも普及率はまだまだ低い。それにしても中国でますます多くの人たちがインターネットを使い、外国を見られるようになれば最早全体主義は成り立たないだろう。クリスマスメールなどヨーロッパから便りをもらうと、ヨーロッパの中でどんどん国境が希薄になっている様子が分かる。ただ、国境はなくなっても言葉というバリアはいつまでもなくならない。英語で毎日コラムを書くなんてとても続かないなあ・・。
12月25日(木) クリスマスに贈り物をもらう楽しみはなくなった。教会でのクリスマス礼拝にいくこともない。それでも何かクリスマスのこの日にしかできないことをしたいと、聖書を繙(ひもと)いた。「マタイによる福音書・第一章」よりイエス誕生の個所を引用する:「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に聖霊によって身重になった。夫ヨセフは正しい人であったので彼女のことが公になることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。”ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリアを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである”。すべてこれらのことが起こったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。・・」。およそ2000年の間に、数えきらない多くの人が世界中でこの同じ文章に接している。クリスマスに静かに聖書を読むのは最高の贅沢のように思えた。
12月26日(金) 「組み立て式ランプ(陶芸)を「今日の作品」に掲載した。12月23日に掲載したケーキ皿を変身させたものだ。組立に使用した全部品は陶芸コーナー(ここ)に示した。陶芸の皿板ができてから組立完成まで意外に手間取ったのは、板が微妙に変形していることによる。板の四隅に一つは鉄板を、もう一つは磁石を接着して四個所で相互に固定させる計画であったが、板に変形があると四個所がピッタリと接触しにくい。このため微調整をすると同時に、上部には強力な磁石を使用した。外径8mm高さ4mmのネオジウムマグネットで3700ガウス(吸着力1.4kg)という超強力磁石だ。これで安定した思惑通りのランプが完成したが問題も残る。私は他にも磁石を陶芸と組み合わた作品をつくり他にはないと喜んでいるが、強力な磁石は磁気カード類やパソコンの側に近づけないように注意しなければならない。時計をして食事をするとなると強力磁石がついている皿はまずい・・。考え始めるときりがない。いっそランプの側に寝転がると磁気ネックレスよりも健康にいいかも・・と開き直っている。
12月27日(土) NHK交響楽団の「第九」演奏会にいった(@NHKホール/東京・渋谷)。23日から続いたN響の第九演奏会は今日が最終日。冷たい風が吹きすさぶ晴天の中、NHKホールに一歩はいると一瞬にして演奏会の熱気が漂う別世界になった。午後3時開演。指揮、バーメルト、合唱、国立音大。この曲を聴いていると何かこの一年の出来事が走馬燈のように脳裏を駆けめぐり、また来年のことに思いめぐらすから不思議だ。ベートーベンが第九を発表したのは1824年。フランス革命(1789-)に影響を受け、またシラーの「乞食が王侯と同胞になる」という詩に深く共感したベートーベンは、「全ての人々は同胞になる」と(ソフトに)改訂されたシラーの詩を「合唱付き」として「第九」を作曲した。オーストリア・ウィーンでの第九発表時は秘密警察の監視付きだったといわれるくらいに、ベートーベンの自由・平等思想は革新的だった。合唱の冒頭にはシラーの詩でなくベートーベン自身の作詞がある:「お友よ このような音楽(調べ)ではなく もっと快く もっと喜びに満ちた歌を歌おうではないか」(訳はN響パンフレットより)。そこには「王侯貴族や教会の音楽ではなく民衆の新しい音楽」という主張がはっきりとみえる。・・こんなドイツ語の歌詞を見ている内に気になることがあった。最近EU(欧州連合)の欧州憲法案で第九の最終楽章で歌われる「歓喜の歌」をEUの国歌とすることが盛り込まれたとのニュースがあった。この歓喜の歌が全ECで”ドイツ語で”歌われるのだろうか。音楽はいいとしても「言葉」まで統一できるのだろうか・・。
12月28日(日) 機会があれば私のホームページを見てくださいとメールした外国の知人からメールをもらった。日本語は読めない人なので画像だけを見てくれたのだが、次のような趣旨のコメントがあった。「あなたはこれらの美しいものを創造するのに忙しくて世界中で起きている政治的な出来事にかまっている時間はないと思えるが、不幸にも世界にはネガテイブなニュースが蔓延し、また不幸にもほとんど個人的には何も出来ない・・」。こちらとしては時間がないわけではないがホームページには極力”政治”は出したくないし、自分自身、政治が見え隠れするHPは見たくもない。更にアートに政治が絡むとこれも嫌だ。今でも覚えているが今年の秋に上野の森美術館(東京・上野)にフセインと金正日とブッシュが手をつないでいる絵画があり反吐を出すほど嫌みだった。ピカソのゲルニカやベートーベンの第九は政治のための作品ではなく人間として高度に昇華した芸術であろう。冒頭のメールは全く悪意のない内容ではあるが、私の作品の意図を考えさせるところがあった。何をやるにしても時代をポジテイブにとらえるやり方を貫きたい。
12月29日(月) 年の瀬が押し迫るとテレビの番組はバラエテイーと懐古調に変わる。今日のコラムもそんな雰囲気。国際賞であるのに受賞してもニュースで取り上げられもしないし受賞者もそれほど喜ばない賞がある。「イグノーベル賞」といいアメリカのユーモア雑誌が本物のノーベル賞受賞者や大学教授などを選考委員にして世界中の”研究成果”を審査して受賞者を選ぶノーベル賞のパロデイー版だ。選考の基準は何の役にも立たない世界で最もばかばかしいと認められる業績であるという。ノーベル賞と違って受賞者にトロフィーと賞状は送られるが賞金は零。昨年はタカラが開発した「バウリンガル」(犬の言葉翻訳機)が平和賞を受賞した。受賞案件のタイトルだけ見てもこの賞は結構まじめで面白い。興味あるものを少しあげてみる。「金沢市内のブロンズ像がハトに人気のない理由の化学的考察(2003化学賞、金沢大教授)」、「象の体表面積を算出する研究(2002数学賞、インド人)」、「へそのゴマに関する研究(2002学際的研究賞)」、「力士から蛙まで浮かばせる磁力の浮力研究(2000物理学賞)」、「鳩にピカソとモネの違いを見分けさせる実験(1995心理学賞、慶応大教授)」。その他、私などがみると決してばかばかしいと思えないタイトルが続く。いま役に立たないことでも後に人のためになるものは限りなくある。頭が硬直していると感じたら「イグノーベル賞、Ig-Nobel Prize(ここ)」を覗いてみるのも楽しい。
12月30日(火) 年末の掃除というのはいつもどこで止めるか妥協点を思案する。今年は一点豪華、ではない一個所清潔主義とした。敷居周りの木製部に紙ヤスリをかけ痛んだ個所にパテ当て、その上で保護オイルを塗るだけで半日経ってしまった。これからは自分の部屋も少しは片づけたい。パソコンの掃除もしたい。パソコンの中に山と積もった不要なものも捨てなければならない。みんな年末押し迫ってからやらなくてもいつでもできるのに・・というのは理屈。一夜漬けの体質はなかなか変わるものではない。掃除とは別に、古い竹筒に模様付け(塗装)して正月用のオリジナル花器を制作した。どうも新たなモノづくり、ごみづくりは得意だが、片づけは不得手にみえる。何事も最後はケセラセラ、成るようになる・・だ。お正月はどこにも平等にやってきてくれる。
12月31日(水) 今日は大晦日。「みそか(=三十日、晦日)」は「月の三十番目の日。転じて月の月末をいう」と辞書にある(広辞苑)。つごもり(=晦、晦日)の字はツキゴモリ(月陰)の意で、「月の光が隠れて見えなくなること、またその頃。月の最終日のこと(同、広辞苑)」。どちらにしても、大みそか、大つごもりは、まさに年の最終日である。・・と、こんな事を書いているのはここに至ってジタバタしても始まらないと開き直った心境であるからだ。何が何でも今日中にやろうなどと思わなければ大晦日の何と静かでいいものか。トニモカクニモ、この一年元気に過ごせたのは感謝。元旦のホームページは気分一新、新しくスタートしたいと思いつつ・・よいお年を!。

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