これまでの「今日のコラム」(2004年 2月分)

2月1日(日) 仕事一筋の時代と比べて明らかに違いを感じる一つに「植物への興味」がある。以前は園芸や盆栽は云うに及ばず鉢植えや草花にもほとんど興味がなかった。それが自分で花やハーブの面倒をみるようになると生き物としての植物の不思議さに今更ながら驚かされる。例えばシクラメン(鉢植え)は花をしぼむ前にどんどん抜いてやることにより(その花は別の花瓶に挿して飾ることもできる)新しい若い花が成長してくる。剪定や新陳代謝がなければ若い芽は育たない。植物には環境に恵まれれば自然のままで育つものもあるが適当な世話をしなければ生きながらえることができない種も多い。天気という”天の気”(=光、音、風、温度、湿度、嗅い、電磁力、大気圧その他?)を植物がどう感知しているのかも非常に興味深い。植物のDNAなどの研究をはじめ光合成など解明されているものはかなりのレベルとは思うが、植物全体からみればほんの一部しか分かっていないのでないか。感覚や神経を制御する能を持たずに植物は実にデリケートに環境に反応する。ひよっとすると美しい音楽と騒音を人間以上に聞き分けているかもしれない。植物は周囲の人間をも観察しているかも知れない。もしこれから30-40年仕事をするとすれば食糧問題とからめて”植物の研究”をするのも面白いだろうなどと思いは飛躍する。
「今日の作品」欄に「1990年女性C」を掲載した。

2月2日(月) 東京は久しぶりに冷たい雨。そんな中、露天風呂に浸かって周囲の木々を眺めていると東北の山の中にいるような錯覚さえおぼえる。・・東京・練馬区の「豊島園/庭の湯」にいった(netではここ)。我が家からドアtoドアで一時間もかからずに温泉という別世界に入り込み、また家へ帰ると日常の生活に戻る。いま東京は天然温泉ブームだという。温泉を掘ることは勿論制限があるが東京の地下層の構造はほとんど解明されているのでリスクなく温泉を掘り当てることはできるようだ。都内で商売をしている知人の奥様が一年中休みなしで働きながら、たまに近所の温泉にいくことが唯一の休息になると話していたことを思い出す。往復の交通や宿泊を伴う温泉旅行はとてもできないけれども身近な温泉ならばいきたいというニーズは確かに多いように思える。「庭の湯」は温泉に入るだけの場ではない。水の特性を利用して「楽しみながら体づくり」をするためのプール、リラクゼーションエリアと称するくつろぎコーナー、併設した1200坪の庭園などが一体になっているところが特長。次には桜の季節にまた来てみようと思わせるところがうまい。
「今日の作品」欄に「1990年女性D」を掲載した。昔描いた女性シリーズをいつまで続けるか考慮中。

2月3日(火) 「今日の作品」欄に「 1990年女性E」を掲載した。1月26日から毎日以前描いた女性の絵を入れ替えて今日で8日目になる。”今日”描いたものではなく以前のストックを掲載するだけであるので手間はかからないが、やはり飽きてきた。毎日、この日に掲載する必然性はないし今現在格闘しているという緊迫感がない。過去の思い出に酔う老人にはなりたくないので、この辺りで考え直そうと思う。香月泰男(画家、1911-1974)の本を読んでいると次の文章があった。「私はいつまでも青年になりたてでありたい為に、真上の青空を眺めることにしています」。今日は生憎曇り空であるし、東京の空は狭いけれども、真上をみることはできる。文章は以下に続く:「私の神経を古代につながらせる為に月の光を浴びたいと思っています」。今夜は節分の行事もなくこれから犬の散歩。今週の月は6日の満月に向かってかなり大きくなっているはずだ。今夜は月が見られなくても明日から月の光を浴びてみよう。香月泰男の文章は続く:「私の存在を小さく小さく思い込む為に星座を探すこともあります」。星座を見るのは東京では絶望的だ。せめて西の空に宵の明星=金星を探すことにしよう。
2月4日(水) 昨日は春の節分そして今日は立春。犬(コーギー犬)の散歩で訪れた西郷山公園(東京・目黒)の梅も咲き始めていた。昔は”立春には生卵が立つ”という言い伝え(?)がありこの日卵が主役になったこともあった。「コロンブスの卵」は卵は立たないことを前提にして一部を潰せば簡単に立つという発想の転換であったが、わが中谷宇吉郎博士(物理学者1900-1962)はエッセー(「立春の卵」)の中で卵は立春にかかわらず丁寧に、根気よく重心を求めれば(潰さなくても)「卵は立つ」ことを実証してしまった。もはや誰も立春の卵に興味を持たないのも当然だが、立春に食卓で卵をいじってみるばかばかしさもまた懐かしく思える。=梅が香に追ひもどさるる寒さかな (芭蕉)=
2月5日(木) 東京・日比谷の帝国劇場の並びにある出光美術館には他の美術館にはない特徴がある。一つは9階の美術館から皇居のお堀や桜田門などが一望できる眺めがすばらしい。その休憩所では紅茶やウーロン茶、緑茶などがセルフサービスで自由に飲める。私の好みから云えば出光美術館のルオーコレクションは秀逸で特別展の際もルオーの数点が展示してあるのはうれしい。現在の特別展は「富岡鉄斎」(3月7日まで、net案内はここ)。富岡鉄斎(1836-1924)は最後の文人画家といわれ、国学者、歌人、書家でありながら格調高くしかも自由奔放な独特の鉄斎画を多数残している。中国の南画をはじめ古今東西の絵画を研究し、後世の中川一政(画家)には「鉄斎は人に餌を与えられる家畜ではなく、原野に出て餌をあさるような勉強をしている」と表現された。自らを画工でなく儒者だといった鉄斎の絵には名誉とか野心を超越した洒脱さに溢れていてジメジメした暗さがないのがいい。89歳まで描き続けた鉄斎の絵の勢いをみていると60-70歳などまだ小僧っ子と云われているような気になる。
2月6日(金) Excelについてはいささか自信があった。この表計算に関したコンピュータソフトはMicrosoftの標準装備にもなっているが本当によくできたソフトで奥が深く高度な関数処理までできる。以前私はExcelを使ってデータとグラフを関連させてデータ処理に活用していた。時々のデータをインプットすれば年度ごとあるいは経年のグラフが直ちにアウトプットできるなど、非常に重宝した思いがある。今年になって私自身の小遣帳をExcelでまとめようと昨年の資料をもとに作りはじめたが、Excelが思い通りにならないので愕然とした。この数年間でExcelは進化し私は退化したようにみえる。苦労の末にできあがった”支出データ”にまた目を見張った。決して無駄遣いした覚えはないし贅沢もしていないが、数値をみるといたるところに反省する材料が並んでいる。精密な体重計で体重を計って記録するだけでダイエットできるのと同じ論法で、小遣帳をつけるだけで節約ができるかも知れない。やはりExcelはとてもいいソフトなのだろう。
(追記)今夜は満月。犬の散歩で見た月が余りに美しいので追加して書きたくなった。東京は雲一つない澄んだ濃紺の空に満月が輝いている。寒空の中でもこの満月を一分間凝視するだけで一ヶ月分のエネルギを充填されたような気になる。

2月7日(土) 「今日の作品」に「四季」を掲載した。これは全部が”今日”の作品ではない。昨年の5月に「composition-square」のタイトルで掲載した作品(2003-1-6月今日の作品参照:ここ)に、四季の草花を加筆して完成としたもの。 2003-5-25のコラム(ここ)にも書いているがバックの四角は漆塗料仕上げに、銀粉、鉄粉を蒔くとか実験的に描いたものだが物足りなくて”つい”土筆、福寿草、鷺草、朝顔、桔梗、女郎花、水仙、椿を具象で描き込んでしまった。抽象模様だけの方がいいとか具象との混在が気になるとかはどうでもよくなって、自分でやりたいようにやった結果に悔いはない。ただし工芸の領域の漆技法はデザイン的な美しさであって、「生の息づかい」を表に出したいのであれば別の素材を使って作品づくりをした方がいいかも知れない。この「四季」の絵を掲載してみてもっと油絵を描きたくなった。
2月8日(日) 内田朝雄という名前を知ったのは図書館でもらってきたリサイクル本、「私の宮沢賢治」が面白く、どんな著者か興味を持ったことにはじまる。内田朝雄(俳優、1920-1996)は任侠映画で主に悪玉の親分などを演じる役者として有名であったが映画で実際に顔を見るチャンスはなかった。ところが、この俳優は「宮沢賢治に関する研究」では玄人はだしで並みの道楽や趣味の領域を越えている。私などには専門の研究者よりも内田の宮沢賢治論が分かり易い。賢治の研究については自ら素人と謙遜しながら決して手抜きをしていない考察や爽やかな文章も気持ちがいい。この人をみていると本職とか副業の区別をすることは意味がなく思える。映画の世界では全く縁がなかったが、著作により没後もなお私たちとつながっているのが不思議でさえある。「さあここで種を蒔きますぞ(賢治の手紙より)」・・どこで芽が出て花咲くか分からない。
2月9日(月) 「今日の作品」に「綱シリーズ(陶芸)」を掲載した。陶芸としては間奏曲的な遊び作品。ロープ(綱)というのは力学的に非常にうまくできた材料だ。瀬戸大橋など吊り橋の強度を保持するのも鋼鉄製のロープ。瀬戸大橋のケーブルは太さが約100cm、このロープは直径約5mmの高強度の素線(鋼)34000本あまり(!)を束ねて作られている。一本ではできない強度、形状を可能にするのが何本もが束ねられてできる綱(ロープ)である。以前から興味があったこうした綱を陶芸で作ろうと思った。陶芸の場合強度が欲しいわけではなく形の面白さ、自由さを目指すことになる。もうひと味工夫しようと思い、粘土で数ミリの素線を四本作って、それを4mmの鋼線の廻りに当てた後、鋼棒を芯にして捻り粘土の綱を作った。直線の状態で鋼棒を引き抜き、できた粘土の綱を材料として結び目形状などを作ったものが掲載した「綱シリーズ」だ(合計5個作成した)。つまり、これらのロープの中心には4mmの穴が貫通しているのである。問題はこれらを何に使うか。一つはキャンドルスタンドにできるが他は決まっていない。掲載した写真では一輪指しとしたが、線香を立てるか、ボールペンスタンドにするか、また大型のスプーン台になるのか、これからは用途開発で頭を”捻る”ことになる。
2月10日(火) 泥棒に入られたことが分かってから14時間ほど経過してようやく冷静になりつつある。今朝は警察や鑑識の調査で朝食も抜きになった。被害は娘のショルダーバッグと妻のバッグ。昨夜は娘が我が家に泊まった。娘が家に泊まるのは二年振りぐらいになるのだろうか、前にいつ泊まったか思い出せない。たまたま今朝早くに成田空港経由で夫の待つアメリカにいくために交通の便利な我が家を拠点にしたに過ぎない。更に私は夜の戸締まりは特に気を付けて玄関の鍵も二重にかける習慣にしている。それが昨夜に限って確認をしていない。そしてこの日二つのバッグを一瞬のスキをついてかすめ盗られた。しかもこの日に限って妻は現金の入ったバッグを居間に置きっぱなし・・。犯罪も事故と同じくいくつかの偶然が重なった時に成立するにしても、確率的には我が家には深夜の訪問者が頻繁にいてこの日”当たり”となったとしか考えられない。せめて娘のパスポートや航空券が無事であったこと、人身の被害がなかったことを幸いと思うばかり。頼りのアール(コーギー犬)は最近私の布団の中でぬくぬくと眠るのを常にしている。これは防犯対策を考え直さなければならない。
2月11日(水) 今日は「建国記念の日」で休日。朝日新聞の天声人語はこの日を「イランの革命記念日」としてコラムを書いているが「建国記念の日」については一言も触れていない。建国記念の日を軍国主義復活と短絡する論調さえある中で一切意見を出さないところが天声人語らしいところだ。「国を愛する心を養う」というこの記念日の目的からいえば、私は若者に外国をみせることが一番であると考える。安全が保証され、何を言っても生命の危険はなく、そこそこに生活も出来るぬるま湯の中で、湯加減が悪いと文句ばかり言う若者を外国に出すと瞬く間に日本という国を見直す。複雑なのは人間の愛するが故に憎しみが倍加する心理だ。愛する人に裏切られ、好きだった故郷から疎外され、信頼していた国に冷たくされると憎しみが生まれる。過度に盲愛することなく非は非とする一方で、是は是とすることができれば少なくとも感情的な憎しみは生じない。どんなに愛する人でも欠点はある。それでも良いところをあえて見ようとするところが「愛する心」となるのだろう。
2月12日(木) 一昨日の泥棒被害の中に玄関の鍵が入っていた。このままでは気持ちがよくないので新橋の堀商店まで出かけていき新しい錠前を購入し自分で交換した。堀商店は1890年(明治23年)創業という錠前の老舗で新橋にある堀商店の建物は有形文化財に指定されている。錠前を買いに店に入るだけでも何か美術館に入るような気分になるし実際に展示してある錠や鍵のコレクションを楽しく見ることが出来る。この機会に錠(=lock、開けられないようにするための金具)と鍵(=key、錠の穴に差し入れて開ける道具)の区別も覚えた。堀商店の当主が世界中から集めた錠のコレクションのパンフレットをもらえたのも収穫の一つ。シリンダー錠の原型が古代エジプトで使われていたとか錠の歴史資料も興味深い。<堀商店HPはここ、columnという項目にコレクションあり> 交換した錠前はピッキングし難いという新型。これだけのことで玄関の出入りが何となく新鮮に思えるから面白い。
「今日の作品」に「深茶碗(陶芸)」掲載。プレゼント用手捻り作品であるが気に入っている。

2月13日(金) MSN Messengerを使ったテレビ電話を体験した。ニューヨークと東京の間あぞでお互いの顔を見ながら直接会話できる。勿論、顔でなくて、”ニューヨークで売っている味噌”とか”東京の売れ筋バレンタインチョコレート”とか目の前にあるものは何でもリアルタイムの画像となる。何よりインターネットの回線で電話代がかからないのがいい。テレビ電話というと一昔前に企業内で地方の工場と本社とをテレビでつないだテレビ会議を思い出す。出張費と時間の削減を目的としたテレビ会議も結局永続するほど効果があったかどうかは疑わしい。その点、個人ベースまで実用化されたテレビ電話の方が個人の工夫で用途は無限に拡大する可能性を予感させる。今日体験したのはWindows版。我が家のMSN Messenger-Mac版では画像のやりとりはできない。テレビ電話機能は未だ発展途上か。Mac版でのversion-upが待たれる。
2月14日(土) 我が家のアール(コーギー犬)は7歳と3ヶ月だから人間でいえば45-50歳程度の年である。それが最近は私の布団の中に潜り込む。湯たんぽ代わりに一度布団に入れてやったのが癖になってしまったのだ。おまけに朝の6時30分に散歩に行くぞと声をかけても出てこない。昨冬までは散歩の気配で飛び起きて催促もした。今も一歩外にでると元気よく走り出すが、起き抜けが年寄りじみているので歳を数えたらまだ冒頭の歳。本棚から「デキのいい犬、わるい犬(文春文庫)」をとりだして見直すと、「服従・作業知能における犬の順位」でアールの犬種、ウェルシュ・コーギー・ペンブロークは79犬種中、11番ランクされている(ちなみに一位はボーダー・コリー)。こんな順位を信用するつもりは全くないが、どんな利口な犬でも飼い主の教育(躾)で如何ほどにも変身するのも確か。アールは夜の散歩に行こうといま(pm9時前)催促する。これまで気にもしなかったがアールも壮年から熟年にさしかかっているとなると、あらためて一緒に体力・知力作りにとりかかろうと思う。
2月15日(日) 「今日の作品」に「Collaboration with Mieu」を掲載した。Mieuとしたがミユは私の娘の子供で、この絵はミユとの共同作品。このところ3歳半のミユをあずかる機会が多く一緒によくお絵かきをする。この絵はミユが描いた黄色ベースに私が線を入れた。ミユのいないところで私が線を描いたので後でこの絵を見せたところ”せっかくミユがかいたのに・・”と不満をもらされた。最近のミユは具体的な形を描くこともありこの黄色も自分では何か意図するものがあったのかも知れない。Collaboration<共同製作>はあくまで相手が承知の上で加筆しなければならないのだろう。これからもこの楽しいコラボレーションを続けてみたい。
2月16日(月) 「鍛錬」の字面をみるとハッとする。モノつくりにおいては”鍛”も”錬”も素材をより有効に活かすためには欠かすことができない工程を表す文字である。金属素材では「鍛造」という加工を施す事が多い。「鉄は熱い内に打て」という言葉通りに、鉄(あるいは相当の金属)は叩かれたり加圧されることにより結晶粒が微細化し均一な組織となる。そしてこの鍛造により叩かない材料よりはるかに強い、安定した材料を得ることができる。昔の日本刀作りで知られているように鋼は叩き上げられてはじめて用をなす。一方、陶芸の基本は粘土の”練り方”だろうか。上手に練ることにより気泡をなくし均質で丈夫な粘土が得られる。最近は「人の精神や能力の鍛錬」を前面にだすのを敬遠する傾向にある。けれども繊細な神経はいいにしても、ガラスのような壊れやすい精神は必ずしも喜ぶべきものではない。どんな時代においても人間という素材は練りあげ叩き上げる鍛錬を経て一人前になる。しかも人間はその後生涯を通じて自己鍛錬できるという驚異の特性があるように思える。
2月17日(火) 昨日のコラムで鉄を鍛える「鍛造」のことを書いたら、もっと鉄のことを書いてみたくなった。以下、工学関係では常識である。鉄は大雑把に鋼と鋳鉄に分類され、鋼は炭素(C)が0.02-2.1%、鋳鉄は炭素が2.2%以上と炭素の成分で区別される。炭素の成分が0.02%より少ない材料は純鉄と呼ばれるが純鉄は磁気材料など特殊な用途以外には使用されない。鋼も鋳鉄も炭素以外に微量の珪素、マンガン、リン、イオウの元素を含み、それ以外は鉄=Feの成分である。わずかな炭素含有量の違いで鉄の組織が変化し材料としての機械的性質が大きく変わる。鋼は延性(伸び縮)に優れ強度も強い、鋳鉄はもろく硬いが鋳造性がよい。・・こうした95%の純鉄が数%の添加物によって全く性質が変わってしまうという 物理現象を考えると、世の中の仕組みもただの多数決でないと思うことがある。数%の少数派が全体に影響を及ぼし社会の活力になるケースはいくらでもあるということだろう。
「今日の作品」に「Collaboration2」を掲載した(経緯は2-15コラム参照)。

2月18日(水) 早朝に少し取込があり今日に限ってE-mailをみたりInternetで各新聞をチェックすることをしなかった。落ち着いたところでパソコンを開けたがメールもインターネットもつながらない。これは”例によって”サーバーのトラブルかとあきらめた。我が家のinternet(& mail) はケーブルTV経由であり、テレビは正常にみることができる。昼、更に午後になっても我が家のどのパソコンからも(部屋別にLANでつながっている)internetがみられない。今日のトラブルは長いなと思いながら、暗くなる頃にこれはもしかすると我が家の不具合か・・とラインを調べる。原因は直ぐに判明した。我が家の単純なミスで丸一日通信が途絶えていたのだ。”サーバーのトラブル”はこれまで何度か経験しているが、それにしても先ず我が身を疑うことをしない。「自分のことを棚に上げて」自分のやっていることをやり玉に挙げたようなばつの悪さを感じながら、ようやく接続したhomepageのコラム改訂をしている・・。
2月19日(木) The child is father of the man.=「子供は大人の父である」。19世紀の英国の詩人ワーズワース(William Wordsworth)の詩の一部として知られる言葉だ。これをただ「三つ子の魂百まで」と解釈するとつまらない。ワーズワースは大人として子供のみずみずしさ、純粋さをいつまでも持ち続けたいと言っている。以下、詩の全文訳を掲載してみよう:「私の心は躍る、空に虹を目にする時   幼い時もそうであったし、 大人である今もそうだ  年をとってもそうでありたい  さもなければ、死んだ方がましだ 子供は大人の父 願わくば、これからの一日一日が 自然への畏敬の念で結ばれていますように(英語原文はここ)」。「今日の作品」に「Collaboration with Mieu 3 」を掲載した。三歳の孫とのコラボレーション第三弾。やってみると子供が先に作り上げた夢ある線を大人が関与していやらしくしていないか、かえって意識して難しい。子供の心を保つなんてそう容易なことではない。
2月20日(金) 結婚披露宴のスピーチで「靴を脱ごう・・」とはじまると、ほら、また来たぞと思う。定番のスピーチというものは直ぐに陳腐化するので恐ろしい。日本では家に帰ると靴を脱ぐ。当たり前と思っているが靴を脱がない生活に接してみると日本的な靴を脱ぐ習慣の方が心も開放されて気持ちがいい。スピーチでは「家庭では靴を脱ぐのと合わせて理屈、退屈、窮屈のクツも脱ぎましょう・・」と続く。今時の結婚披露宴ではこうした先輩然としたスピーチを聞く機会もほとんどなくなったが、以前この話しを聞いた時に、確かに家庭内の理屈では男はかなわないなあ・・などと妙に納得したことを思い出す。それにしても家の中で靴を履きっぱなしの生活はしたくない。世界中がどんなに均一化し文化が混交しても日本の「靴を脱ぐ」習慣は変わらないのでないか。
「今日の作品」に「Collaboration with Mieu4
」を掲載した。ミユは最近定規を使って直線を描くことを覚えた。線ばかり描いた原版に色を付けていたら横にいたミユが「何を描いているの?」ときく。「亀」とも答えられないので、「それはこちらが聞きたい」。
2月21日(土) 全身灰色の大きな鳥が梅の密を吸っているのに出会った。早朝にアール(コーギー犬)の散歩でいつも立ち寄る西郷山公園でのこと。本来は梅の木には鶯がよく似合う。この梅には鶯らしき鳥もよく訪れる。鶯らしきと書いたのは、羽が鶯色で大きさも鶯とほとんど同じ”目白”もやってくることがあり、目白と鶯の区別に自信がないからである。ところが今朝の鳥は鶯の数倍のボリュームをもつデカイやつ。「日本の野鳥」図鑑で調べたところではヒヨドリではないかと思える。梅を待っていたのは人間や鶯、目白だけではない。ヒヨドリを見た後、丁度日の出の時刻でビルのわずかな隙間から大きな大きなまん丸い太陽をみた。これほどはっきりと日の出の太陽を見たのは珍しい。これは今の季節独特の砂塵のせいだと後になって気がついた。砂埃が太陽に適度のフィルターをかけて全く眩しくなくなったのだ。日中はいつになく暖かくなった。春が直ぐそこまで迫ってきている。
2月22日(日) たまにではあるが外食で「バーミヤン」に行くことがある。「すかいらーく」の中華部門、バーミヤンは個人的な趣向では他のどの店より安くておいしい。それはともかく、バーミヤンの店の中には「桃李不言下自成蹊」の掛け軸がある。「桃や李(スモモ)は何も言わないが人々は美しい花や甘い実を慕って集まってくる。その木の下には自然に蹊(=小径)ができる」とよむ。桃や李は人格のある人のたとえで、人格や徳のある人物のもとには自然と人々が集まってくるという意味にとる。司馬遷の「史記」からの引用で、学校法人「成蹊学園」の成蹊の名前の由来でもある。学舎(まなびや)の名としてはなかなかいい命名だ。その成蹊の文字をバーミヤンでもみることができる。考えてみると、安くて美味しければ自ずから客は集まってくると店のポリシーをそのまま表すことにもなる。実にうまい言葉をみつけたものと感心してしまう。
2月23日(月) 「初心忘るべからず」は世阿弥の言葉として有名である。なぜ初心か。それは慢心がないからだろう。どんなに熟達しても集中力と緊張感は初心にまさるものではない。いつが初心か。それについては世阿弥は「花鏡(かきょう=1424年)」の中で初心の三つの時期を解説している。一つは「是非の初心=是非によらず修行を始めた初心」、次に「時々の初心」。注目すべきは、三番目に「老後の初心」とくる。「老後の初心を忘るべからず」はこれからの老齢化社会にもっと広めていい言葉ではないかと思われる。例えば、第一線を退くとか、退職をする、転職するなどの際に、「初心」をどれほど意識しているだろう。老後の初心の基本は「過去を振り返るな、過去の栄光を懐かしがるな、他人の世話を当てにするな」と唱えたいが、こんなことは今時当たり前かもしれない。なにより否定文だけでは前向きではない。私流の初心を思い出すと「フットワークを軽く、行動はすばやく」といったところだろうか(余り老後とは関係がない?)。一芸の道でさえ「老後の初心」を説く世阿弥の奥深さはやはりただごとではない。
2月24日(火) コーギー仲間「クレーメルファーム(HPはここ)」のHOT母さんからコラムにサッカーの話題が欲しいとリクエストがあった。影響を受けやすいので、久々に「中田英寿のホームページ」を訪れてみた。3年ほど前、中田が立ち上げたHPは大いに評判になった。それは単にスター選手自身が生の声をインターネット上にのせたというだけでなく、中田のクールな文章はマスコミ記者のでたらめな記事に反抗するようなところがみえて私も面白くみた覚えがある。さて、現在の「Hidetoshi Nakata Official Homepage =ここ」。日本語以外に英語、中国語、韓国語のバージョンがある。携帯電話でもアクセスできる。イタリアワインの購入までできるのは愛嬌として、Hide's Mailで中田が世界のどこにいてもこのHPにメールを掲載するというスタイルが崩れていないのは喜ばしい。日本語バージョンでは2月20日付けで、18日の日本ーオマーン戦についての中田のメールがみられる(英語その他では翻訳が間に合わないのか1月のメールしか掲載されていない)。戦った当事者としてオマーン戦の反省、課題など興味深い記述がある。中田のHPは今もサッカーをより面白くみる手段となりそうだ。
2月25日(水) このところ風邪気味で調子が悪い。考えてみると毎年春一番が吹くこの時期に喉を痛めて微熱がでることが多い。寒さが厳しい時期には風邪をひかない。毎年似た症状であるが、咳が止まらなくなるのは多分に精神的な”タルミ”と関連が強いのでないかと自己診断する。そうは云っても咳が出始めると苦しくて我慢しきれない。それが寒風の中を外出するとか冷たい水で顔を洗ったりするとしばらく咳を忘れたりする。以前は調子が悪いと裸になって冷水を浴び、風邪も咳も追い出すという逆療法をやったことがある。・・とこんなことを書いているうちに、今回も「逆療法」をやってみようかと思い始めた。そうだ、即、今晩就寝前に実行してみよう。身体へ刺激で緊張感を呼び起こす自己流療法の結果は明日の朝判明する。
2月26日(木) 今日の東京は花見頃のようなポカポカ陽気。気温の変動についていく身体も大変だ。咳が出始めると止まらなくなるのに閉口して昨夜は寝る前に冷水を浴びてみた。今朝も早朝散歩で汗をかいた後、もう一度冷水を浴びた。その効果があったのかどうか、今日は咳もなくなり、これまでの冬服を脱いで軽装として調子よく一日を過ごせた。身体にも刺激と厳しさは有効にみえる。
「今日の作品」に「スーパー楕円容器(陶芸)」を掲載した。注文は「梅干しを入れる容器」であったのだが、在り来たりの入れ物を作るのは面白くない。考えた末にスーパー楕円の形状を持った容器を作ることにした(スーパー楕円は円よりは面積が大きく、正方形と比べると角の無駄スペースがないという形状で以前陶芸の皿を作ったことがある=2003-5-12コラムなど参照)
。この場合は、まずスーパー楕円の座標を、Xの2.5乗+Yの2.5乗=5の2.5乗の式から計算して型紙を作った。その型紙に合わせて粘土を容器状に仕上げていくやり方。本体と蓋の合わせ部分が本焼きの際に収縮具合が変わるので意外に面倒だった。素焼き途中の組み合わせた形をみた教室の人から「ハンバーガーみたいね」といわれた。確かに遠目には苦労して作ったスーパー楕円とハンバーガーの円形との区別はつかない。それでも作る楽しみは満喫した会心の「梅干し入れ」だ。
2月27日(金) 「オウム・松本被告に死刑判決」が今日のトップニュース。けれども東京地裁のオウム裁判の一審判決は予想された通りでニュース性のない通過点にみえる。それにしても地下鉄サリン事件が1995年3月、麻原逮捕が同5月。こんなに年月がかかるのはどの国でも同じなのだろうか、よく知らない。オウム事件について皆がそれぞれの憤りや感慨を持つであろうが、私は一つには真面目で頭も悪くない若者が教祖から”マインドコントロール”されてしまう仕組みや、それを防御する方策がいまだによく分からない。 自分の人生を真剣に考えたり向上心のある人間が得てして引っかかる。免役がないせいだろうか、友人と議論をする習性がないためだろうか。事件後にも明確な対策案にはお目にかかれない。もう一つ、「地下鉄サリン事件」では個人的に危うくセーフとなり神に感謝のこと。サリン実行者達が乗り込んだ駅から私も地下鉄に乗って通勤していた。会社に着いて間もなくニュースが伝わった。いつも早めに出社するので事件の30分前に霞ヶ関を通過していた。通勤時に事件に遭い、築地の病院に通った同僚が何人かいた。・・運命と云ってしまえばそれだけだが、被害者を思うとなんともやりきれない。
2月28日(土) 昨日のオウム事件の判決に関して産経新聞と読売新聞が弁護団の裁判引き延ばし作戦について言及していた。国選弁護人として国が4億円も支払った弁護団が麻原を「本物の宗教家」と評価して無罪を主張、徹底的な裁判引き延ばしで麻原の延命を計るやり方に、特に産経は「弁護団の社会的責任」として糾弾した。同感である。最も納得がいかないのは、一審の判決を不服として即日控訴したうえで、弁護団全員が辞任する意向と報じられていることだ。これも裁判の引き延ばし作戦の一環かも知れないが、自分たちがやってきたことの責任をどうとらえているのか。辞任して済む話しではない。弁護士にも色々な信条、思想の人がいてもいいが、弁護士は黒を白と言いくるめるのでなく、犯罪者にも”弁護の余地”を見つけて裁判官にアピールするのが弁護士ではないのか。弁護団長さんは今度はオウム裁判の本をだして稼ぐという。とにかく正義の味方、真実の究明者という「よき弁護士」のイメージを崩したくない。
2月29日(日) 今日は2月の五回目の日曜日。閏年で29日が日曜日(=1日が日曜日)になる年は非常に珍しい。昨日の土曜日には確率的に更に珍しい体験をした。2kmほど離れた神宮球場隣のテニス場まで自転車で行く。その間に信号が10個所ほどあるが、昨日は家を出てからテニス場に着くまでの間、信号で停止したのが”ただの一回”であった。自転車は全て歩道を走る。信号の青・赤の時間がそれぞれ約1/2の大きな交差点が6個所はある。単純に計算しても信号待ちが一回しかない確率は100回、200回に一度(あるいはそれ以下)しか起こりえない。自転車を運転しながらこれば少しおかしいと事故のないように気を付けた。ちなみに、帰りに信号待ちを数えると通常の通り5回であった。信号待ちをしないことが幸運か否かは別にして、このような些細なことのなかに自然の摂理を垣間見る。神の意志にしても幸運にしても、ふと気がつくとあらゆる所に存在しているのかも知れない。

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