これまでの「今日のコラム」(2004年 4月分)

4月1日(木) 4月1日のエイプリルフールはほとんど話題にならなくなった。四月バカだから今日はウソが許されるなんていうのは、毎日がバカなことばかり、嘘なんて珍しくもない昨今、流行らないのが当たり前だ。ところで、今日、桜が満開の目黒川沿いの通りを歩いているとレストラン・クキ・ローザが「本日エイプリルフールにつき面白いネタで他のお客様を笑わせていただいた方(3名まで)には5000円のお食事を無料とさせていただきます」という看板をだしていた。また、internet情報によれば、「今日4月1日をもってマイクロソフトのビル・ゲイツ会長は全てのIT事業から引退することを表明した。同氏は米国市民権を放棄し、今後エリザベス女王から授与された爵位 に則りサー・ビル・ゲイツとして慈善事業に専念する」。またまたinternet情報によれば、「新型のコンピュータウィールス・スケルトン3号は・・・」((もう止めた=以上全てウソ/念のため))。・・自分でやってみて、面白い”ウソ”を作ることは難しいことがよく分かった。虚(きょ)の世界にも素養がいるようだ。
「今日の作品」に「伊豆にてB」を掲載した。先日の伊豆旅行した折のスケッチ。

4月2日(金) 久しぶりに半日陶芸をやった。12時から夕方6時まで全く休みなしで真剣勝負に臨んだ感じ。くたくたになって家に帰ると下着からシャツまで汗びっしょりだった。まだ制作途中のところで結果は出来上がってみないと分からないが「ヘロンの噴水」を作っている。呼び水をすると動力はなしに何時間も噴水が出続けるという「ヘロンの噴水」については古代にヘロンが見いだした原理とされる。江戸の”からくり”などでもお馴染みだが、最近は中学の理科の授業などで圧力を応用した機構のモデルとして使うこともあるようだ。ヘロンの噴水を計画する段階で、またインターネットのお世話になった。いま制作中のものは噴水時間を数時間は欲しいのだが、そうすると水槽の容積とヘッド(水の高さ)の関係で、直径が30cm、高さ50cm程度のデカイ陶芸となる。しかも陶芸は後で穴の加工したり高さを変えたりすることはできない。いわばやり直しのできない大型陶芸でネット情報は実に有難かった。陶芸教室では正体不明のデカ物粘土が組みあがっていった時、外人のおばさんが”すばらしい”と言ってくれて疲れがとれた。どういう訳か日本人のおばさま方は無関心。陶芸の最終結果が見られる二ヶ月後が楽しみだ。
4月3日(土) NHKテレビ番組で土曜特集「火の鳥からのメッセージ」を見始めると止められなくなり最後まで見てしまった。手塚治虫の漫画は私の成長と共にあり、中でも「火の鳥」は大人になっても長年全巻本棚に保存していたので特に懐かしい。友人から「火の鳥」は永久保存用、保存用、読書用の三部を持つべきだと言われたのが40年ほど前だろうか。手塚治虫はストラヴィンスキーのバレー音楽「火の鳥」からヒントを得て、フェニックス(不死鳥)伝説や不老長寿の鳳凰伝説を研究の上、漫画「火の鳥シリーズ」をスタートさせたとテレビ番組で解説があったが、私は手塚作品をベースにしてストラヴィンスキーに興味を持った。「火の鳥」がアニメ化されて復活するようだが、その哲学とスケールの大きさは時代の古さを一切感じさせない。思えば手塚漫画はものすごい遺産である。日本から世界中に文化を発信することができる宝の山がそこにはある。手塚治虫はまさに不死鳥のように蘇った。
4月4日(日) To be,or not to be,that is the question. シェークスピアのハムレットに限らず、どちらの道を選択するか迷う場面は我々一般人もしばしば経験する。4月の新入生や新入社員なども進路について大いに悩んだことだろう。私は個人的には(組織的な方針決定も同じ事だが)まず決断すること、そして進んでみることだと思っている。誰も先のことは分からない。やってみて方向が違うと思えば方向転換すればよい。どうすべきか悩みながら何もしないのが最悪だ。行動すると必ず新しい何かが見える。・・自分にもそう言い聞かせてとにかく動き始めたり手を動かす。間違っていても素早く修正すればいいと割り切るが、さすがに昔の人は上手い云い方をしている:過ちては則ち改めるに憚ること勿れ(論語)。
4月5日(月) 昨日の朝日新聞・社説は学校の卒業式で「日の丸を掲げない、君が代を歌わない」ことを貫いて東京都から処分を受けた教師を例によって一生懸命弁護している。「日の丸を掲げない、君が代を歌わない」自由を認めるべきだと朝日は言うがそんな自由は元より認められている。教師個人が日の丸に背を向けようが朝日の論説委員が甲子園の開会式で君が代を歌わなくても自由である。ところが教師が公式の儀式で影響力を行使すれば話は違う。一部の教師のクラスは全員が君が代を歌わぬように教えられ起立もしない。教師の影響力は絶大であり、純粋な若者は教師に従う。師の一存で若者が国のため宗教のため自らの命さえ投げ出す事例はいま世界に満ちている。朝日のいうところの「自ら学び 自ら考える」教育を受ける機会を逸して「君が代を歌わない」教育を強制されている生徒が一番の被害者だろう。自ら考える訓練には朝日の論説はいい材料かも知れない。そのレトリック(美しく巧妙な言い回し)にごまかされず、論旨に疑問を呈する・・新聞の読者はみなこうした考える自由を持っていると信じる。
4月6日(火) 「今日の作品」に「四つ足ちゃん(水彩)」を掲載した。 油絵が思うように描けず悪戦苦闘している時に身の回りの気に入った造形物をスケッチすると不思議に心が落ち着きホッとする。この「四つ足ちゃん」の絵もそうして出来上がった一つだ。このオモチャはゼンマイを巻いて床の上に置くと四本の足をバタバタさせてしばらく踊り狂う・・ただそれだけの動作をする。回転軸の先端にある頭の部分がアンバランスに(中心をずらして)取り付けられているため、頭が大きく揺すられながら回転して四本の足をバタバタする単純な構造である。私はこのオモチャをたまたま丸ビル(東京駅前)2階にある雑貨店で購入したが、踊る四つ足シリーズのオモチャは確かニューヨークの近代美術館(MOMA)でのオリジナル土産品のはずだ。美術館で扱うほどにデザインが優れているのは、ただ一点、靴だけをリアルにした以外に余計なものを一切付けていないところだと思われる。ゼンマイもねじ回しも歯車も全てむき出しのところがいいのであって、もし、衣服をつけていたら何も面白くない。最近の高性能なロボットなども無理にリアルな外観を装うのは好きではない。シンプルで機能的な構造はそれだけで美しい。
4月7日(水) 誰もが予想もしていなかったドラマチックな松井稼頭央の大リーグデビューをテレビの生中継でみた。大リーグ開幕戦、一番バッター、大リーグでの初打席、初球のホームランなどシナリオを書きたくてもこれ以上夢のような場面を想像できないくらいだ。しかも、メッツがブレーブスを7-2で破ったこの試合で、松井は3打数、3安打、5打席、5出塁という大活躍だった。ニューヨークの新聞、New York Postは大きな松井の写真に”Fan-Kaz-tic ! ”(すばらしいカズ!)という造語を添えた。本文では以下に続く:”One pitch was all Kaz Matsui needed. (ただ一球が松井カズに必要な全てであった)”(netにて)。この歴史に残る記録がどれだけ多くの人の気持ちを明るくしたことだろうか。かつてアメリカで知られた日本人の名前はホンダとスズキであった。自動車とオートバイで親しくなったこれらの名前に、これからは野球の”マツイ”(秀喜and稼頭央)が加わるのは間違いないだろう。
4月8日(木) 一昔前、”小さな親切、大きなお世話”という言葉がはやったことがある。相手は善意でやっていることでも受け手は煩わしく感じることは多い。電車での”お忘れ物ないようにご注意下さい、・・おつかまりください、閉まる扉にご注意下さい・・”と幼稚園児にでも言い聞かせる調子の車内放送はさすがに最近はなくなった。時々、うるさい放送を聴かない自由はこれほどすがすがしいかと、静かな車内を有難く思う。けれども同じような”お世話”はまだ随分と多い。”退職後の生活指導”やら”いかにして生涯の趣味を持つか”などを還暦間近な大人に講義する企業まであるというから信じられない。電車内の忘れ物にしても、いかに生きるかにしても自己責任で対処すればいいことだ。スエーデンの友人家族などをみていると福祉の先進国でも個人の自立の精神は日本人より強いと思うことがある。自分のことは自分で責任を持つ、その上での福祉であり親切であろう。さらに自立した上で”他人のために尽くす”ことが成熟した社会での理想かも知れない
4月9日(金) 「おくやみ」欄で加山又造が亡くなったことを知った。記事には「日本画壇を代表する・・、現代の琳派、文化勲章受章者・・」などの文言が並ぶ。享年76歳。いまの時代、この歳でもまだ早すぎるという感じになる。これを機会に久しぶりに加山又造の展覧会の図版を取り出してみた。「加山又造屏風絵展」に行ったのは1988年9月18日であった(購入した図版には日付を記入している)。この年、加山又造が還暦を迎えたのを機に開催されたものだが、この展覧会で私は加山又造のファンとなり、現代日本画を新しい目で見ることとなった。絢爛・豪華という表現が加山の絵画にしばしば使われるが、私は「裸婦習作」などにみられる斬新さ、才気ある切れ味というところに引かれた。その後現代の日本画家の作品に接することは多いが加山ほどにインパクトのある画家には出会えなかった。それにしても現代の人気画家は幸せだ。昭和・平成の琳派・加山又造は名誉も地位もお金も、全てに恵まれ、華々しく生涯を終えたー合掌。
「おくやみ」欄での追記:加山又造とならんで報道されている人(死亡記事)の歳をみると、元○○社長=99歳、元××常務=93歳、元△△副社長=97歳 ・・。30年前が現役であったそうな。この激変する時代に新聞は一体何を伝えようとしているのかよく分からない。

4月10日(土) 「今日の作品」に「猫のベンチ」を掲載した。猫の人形達が座っているベンチは昨年製作した陶芸で実は花瓶を横に倒したもの(陶芸の原型は陶芸コーナーのコンポジション参照)。タイトルは「ベンチ」だがもう一つの花瓶に活けたシクラメンを描きたかったところもある。我が家の鉢植えシクラメン本体は昨年11月に購入したものが、まだ元気よく咲いている。初めよりも更に花数も増えて隆盛を誇っている理由は、花を適宜剪定することにある。まだ精気が残る花であって根本でねじりとり、花瓶に活ける。いわばシクラメンの花は第二の命を花瓶で過ごすことになるが、水を吸い何日間も人を楽しませてくれる。一方、鉢植えでは新たな芽がどんどん大きくなり新たな花が咲く。一挙両得である。花瓶の下部の黒い部分には鉄粉を、左上の白っぽい部分には銀粉を使った。
4月11日(日) 野球(ナイター)に酔って先ほど帰ってきた。東京ドームでの巨人ーヤクルト戦。ドーム内の野球は音と光の交錯するライブ舞台を見ているような熱気、試合は大熱戦、気温は初夏のような蒸し暑さでまさに酔いがまわった。試合の結果は巨人が7-5で逆転勝ち。初先発の巨人・桑田は5回までに4点を失ったが、6回に阿部が満塁逆転ホームランを打ち5-4に逆転した。ヤクルトが8回にスクイズで同点としたが、その裏、巨人はローズと阿部のホームランで突き放した。終わってみると両軍でピッチャー8人を投入、ホームラン6本という乱打戦だった。印象的だったのはヤクルトのショート宮本の華麗な守備。グローブの巧みなさばきと投球のスピードはテレビでは感じることのできない鮮やかなものだった。・・久々の生の野球に接すると、日頃、慣れ親しんでいる新聞やテレビなど間接的な情報は決して”本物”ではないことに気がつく。やはり何でも出来る限り現物をみなければならない・・。
4月12日(月) コンピュータは素直にいうことを聞く時にはこんなに有難いものはないと思う。いや、有り難さを通り越して、まともに機能することが当たり前の生活必需品といった方が良いかも知れない。それが一旦調子がおかしくなると大きなリスクの上に生活していることを気づく。昨晩から私のMac-power bookG4は画面の最上部のコントロール項目をクリックすると全て「デイスクを挿入してください」のコメントがでてその先にいかない。 幸いキーボードの命令は問題ないので、このホームページも、リンゴキー(=Macのコントロールキー)+S でファイルを保存したり、リンゴ+C でコピー、リンゴ+V でペースト などを駆使してかろうじて改訂している。今日は万一やり直すことを考えてハードデイスクの内容を一式外付けハードデイスクにコピーした。昨日、友人のパソコンがウィールスに犯されて、全部再設定することになり、特にメールアドレスのやり直しが大変だという話を聞いたばかりだ。なんでもいいように解釈すれば、トラブルがあると新しいことを覚えて進歩する。私のパソコンはまだ未解決。今回は何を学習できるだろうか・・これから気を入れて対応を検討する。
4月13日(火) 横須賀線でのこと、比較的混雑している電車におばあさんが二人乗ってきた時、サッと立ち上がって席を譲ったのは、ポロシャツをラフに着た腕っ節の強そうな西洋人の若者たちであった。ほかの座席には中学生の男女が大勢座っていたが、席を譲る気配など全くなく、居眠りをしたり足を伸ばしてふんぞり返っている。この生徒たちが数年後に年寄りに席を譲るようにするためには何をすればいいのだろうか。その対称が余りに際立ってみえたので、思わず中学生の教師の顔や生徒たちの将来が脳裏をかすめた。成るように成るのかも知れないが少しさびしい。
昨日のコラムに書いた私のパソコン対策は結局この際MacのOSを9から10へバージョンアップすることにより解決した。更新の手間はかかったが、新しいパソコンを手に入れたような興奮を感じながら今これも新Dreamweaver(ホームページ作成ソフト)を使ってHPの改訂をしようとしている。妻のパソコンはOS10、私のPower Book G4もようやくこれに追いついた。やはり「トラブルは進歩の元」となったのがうれしい。

4月14日(水) 現場工事をするときに毎日ミーテイングの際に「危険予知」をするのが常識である。KIKEN-YOCHIの頭文字をとって"KY"と称する。例えば、高所作業があるから安全ベルトを着用することを徹底するなど、その日の作業で少しでも危険な要素を皆で指摘し合って事前に対策をとる。KYミーテイングを徹底させても100%事故を防ぐことはできないが、安全確保のためにはそれほどに手間をかけて事前に注意するものだ。それは一般人の場合であるが、太平洋を一人で渡航するなど、いわゆる冒険家にしても自分の命とリスクを天秤にかけて危険な中にもあらゆる場合を想定した対策を講じて行動するだろう。いま未解決のイラクでの人質事件は分かりにくいニュースだが主な新聞/テレビは危険予知についての観点で解説してくれることはない。被害者にはいつもやさしい。リスクの可能性が50%以上であれば予知でなく計画となる。
4月15日(木) 先日、春の鎌倉を散策した。鎌倉は「切り通し」の多い地域である。「切り通し」とは「山や丘などの一部分を溝のように削り取って、両側から崖に挟まれた形に作った道路」(新明解/三省堂)のこと。そのような形状にした意図は”一朝ことある時”(いまの言葉では”有事”)、自分の領域(国)を守る防衛線として有効な道路を作ることにあったことは明らかだ。大軍を通すことができない隘路は敵の侵略を防ぐには必然の構造であろう。「亀ケ谷切り通し」や「化粧坂切り通し」を通りながら、現代の切り通しは散歩道として絶好だと思った。何より自動車が通らない。崖に挟まれた狭い道路も情緒あるものだ。周囲は目の覚めるような新緑の波、そして山吹の黄色、カイドウの鮮やかな赤がアクセントをつける。八幡宮やお寺だけが歴史遺産ではなく、鎌倉にとって、この「切り通し」もまた立派な遺産であるように思える。
4月16日(金) 「知りすぎたのね〜〜」という歌があった。知ること、理解することはいいことだが、どこからが”過ぎる”ことになるのか微妙だ。人間は想像力が豊かだから、ある一面を見ただけで自分勝手に思い込みをすることは多い。海外旅行で2週間程度の旅ならば、どんな国に行ってもその国が好きになるといわれる。浮き浮きした気分で欠点を見るよりも異国の文化の違いに興味を持っているうちに旅行は終わる。人や事物を好きになったり惚れたりするのも、相手を知った時点である種の思い込みから始まるのだろう。それが深く知れば知るほど更に好きになるのが理想。深く知るというのは欠点を含めて理解すると考えると「知り過ぎる」ことはあり得ないのでないかというのが今日の結論だ。所詮、人間や事物、文化や情報、どんなものでも、全てを知ることなどできない。人間関係でいえば、短所を知ったならば長所の裏返しとして許容することが深く知ったことになる。「知り過ぎ」はない。
4月17日(土) 先日、パソコンのOS(Operating Sysyem、基本ソフト)をアップしたのはいいけれど、まだ自分の道具としてマスターしていないのでパソコン生活は本調子にならない。例えば、Photoshop(画像処理ソフト)で作りかけていた写真の文字に隷書体を使っていたが新OSでは別の書体に変換しなければならないし、プリンタの色彩設定まで変わってくる。MacのOS10(新)にはOS9(旧)のアプリケーションをそのまま実行するCLASSICという機能があるので比較的救われるが、パソコンの基本ソフトを変更すると、蓄積した膨大なデータを新しいシステムにいかに引き継ぐか、多くの人が苦労しているところだろう。私にとっては、システム間の調整に手間をかけることはノートや画用紙の感覚で使っていたパソコンが”コンピュータ”であることを再認識するいい機会だと割り切って、なるだけ言うことをきかないOSを楽しむように心している。以前はパソコンに覚え込んでいる”志ん生”の落語を聴きながらキーボードを打っていたが、それもできなくなってしまった。その代わりに新たに取り込んだ”ベルリオーズのレクイエム”をいま聴いている。
4月18日(日) 「今日の作品」に「鎌倉/建長寺三門」を掲載した。先日、鎌倉を散策した折のスケッチ。ただし、毎度ながら旅先ではなかなか絵を完成させるまでの時間をとりきらない。この絵もデジカメで撮った写真をベースに家に帰って仕上げた。体験的にはその場で絵を完成させるには始めから1-2時間その場所に留まると決心をして臨まなければならない。あそこに行こう、ここも見たいとセッカチなスケジュールでは絵は描けない。今回はできなかったが、その内にじっくりとスケッチの旅をしてみたい。「建長寺」は正式名称は「巨福山建長興国禅寺」で我が国最初の禅宗の寺院とされる(創建は建長5年=1253年)。三門は壮大な構えで背景の山々より高くそびえて見えたのが印象的だった。
4月19日(月) 昨日から自分の部屋の大整理をしている。古いものを再利用するのは得意だが(このホームページにも空気清浄機のフィルタを画用紙とした作品がありました=ここ)、捨てるのは不得手である。そうかといって廃棄しなければモノはどんどん溜まる一方だ。書物は選別して処分する。愛着のあった本にも思い切って別れを決断しなければならない。アクリル板の使い古しとかボルト/ナットなど材料類はそれほど場所をとらないのでまとめて保管する。絵画作品は増える一方だが何とか保存場所を確保する。問題は電子機器。小さな部屋にパソコンが4台もあった。普段は専らMacのノートパソコンを使う。その他の重量級Windowsや古いMac,i-Macはもう使うことはない。それにしてもまだ使えるパソコンを”捨てる”のは忍びない。デジカメとかパソコン、携帯電話など最新機器を使いこなすためにはモノを大切にするという美徳は通用しないのか。処分することにはしたが、いわれのない罪悪感を覚える。人間ならば定年後に人生を楽しむこともできる。パソコンにしても第二の活用ができるようにゴミにはしたくないなどと思う。好むと好まざるにかかわらず現代は皆傲慢な消費サイクルに組み込まれている。  
4月20日(火) 3-4日前にNHKテレビ(ETV特集)で霊長類学者の伊澤さんと教育評論家の斎藤さんの対話番組を興味深くみた。「サルの世界と子どもの世界」のタイトルであったが、面白かったのは従来われわれが当然のように思っていたサル山のボスは人間が餌付けする特殊な環境で存在するものであって、豊かな食料に恵まれている野生の猿の集団にはボスはいないという指摘だった。人間が与える餌場で限られた食料を決まった時間に争って手に入れる状況では腕力の強いボスが発生するが、どの猿の身の回りにもいつでも食べ物がある自然環境ではボスは出てこないし、力が強いということ自体何の意味もない。猿たちは序列もなく、自由に毎日を過ごすという。状況によっては腕力の強さよりも知恵がある猿が出番になることもあるが、要はボスを先頭とする序列社会は本質的なものではないという話だ。対談では子どもの教育などと関連づけたが、これはむしろ大人の人間社会を連想させる。私はいま進行中の地球規模の経済圏、グローバリゼーションのことを思った。一見、時代の趨勢として当たり前の成り行きのようにみえるが、地球全体を一つの「餌場」にしてしまう危険性を感じる。餌場が限られればボスが全ての餌の分配を左右する。できるだけ多くの自然の餌場を確保するのはどうすればいいのだろうか。
4月21日(水) 映画「真珠の耳飾りの少女」(アカデミー賞3部門ノミネート、ここ参照)をみた。フェルメールの描いた少女を題材にしたイギリス映画でもっと早く見に行きたかったが諸々の予定を調整して今日になってしまった。フェルメールについて私は特別な思い入れがある。このホームページでもリンクをしているのはコーギー犬以外はフェルメールだけだ。オランダの画家フェルメールについてはこのページでも紹介しているが、ハーグにあるマウリッツハウス美術館でフェルメールの特別展を見たときの感動はいまも忘れられない。その時に思い出として買った「真珠の耳飾りの少女」のキーホルダは今も愛用している。さて、映画。何より17世紀のオランダ/デルフトの町や人々の生活が緻密に表現されているのに感心する。また人物や室内の調度品なども、フェルメールの色々な絵画作品の中にでてくるものとそっくり。フェルメール絵画の世界にすっかり浸って、懐かしさでいっぱいになった。シナリオも映像も演技も、きめ細かく、リアルに、そして心を込めて完成されている−まさにフェルエールの絵画のように。映画一本であるがこのような作品を作る英国という国の豊かさをあたらめて思った。
4月22日(木) 朝の6時半頃にアール(コーギー犬)の散歩で久しぶりに恵比寿ガーデンプレイスにいった。この場所は広くて気持ちがいいが草や土が少ないのでいつもは反対方向の公園にいく。4月には一度も来なかったなあと思いながらガーデンプレイスに着くと、見たことのない巨大な彫刻群に度肝を抜かれた。案内をみると、コロンビア生まれの現代彫刻の巨匠、ボテロの屋外彫刻展であった(7月11日まで、net案内はここまたはここ)。ボテロは馬や猫それに人体(裸体&着衣)などを独特にデフォルムした作品を作る。その丸々とした暖かみがある形はユーモアも感じさせる。それが頭だけで高さが3mと言う規模の巨大なブロンズ彫刻が並ぶので異様な迫力だ。恵比寿ガーデンプレイスの奥に高級フランス料理/タイユバン−ロブションの館がある(このHPで写真ここ)が、その側の伝統的な西洋彫刻がボテロの彫刻に挟まれるとまるで痩せっぽちのキリギリスのようにみえたから面白い。正統派も土着性には圧倒される。今晩のアールとの散歩でもう一度照明のついたボテロ作品をみてみたい。
4月23日(金) 裁判の審理に市民が参加する裁判員法案が衆院を通過したというニュースが報じられている。その内容については吟味しているものではなくノーコメントだが、どのようになるのか見極めたい。最近、弁護士や裁判官に不信感を覚えることがあり、司法制度全般が何かアメリカの悪いところを追いかけていないかという危惧を感じる。米国には日本と比べることもできないほど大勢の弁護士がいて、悪しき訴訟社会を作り上げていることはしばしば指摘される。米国で自動車のスピード違反をしても絶対にそのことを認めるなと弁護士からアドバイスを受けた話などもよく聞く。オウム真理教の裁判で作戦として裁判の引き延ばしを計り麻原を無罪と主張する弁護士や毒入りカレー事件でも決定的な証拠がなければ無罪とする弁護士など、証拠さえなければ真実は話さないという米国流(?)の害毒をどれだけ社会にまき散らしたか。米国の陪審員制度にしても怖いところがある。法律の専門知識に通じている弁護士や裁判官はもとより人格者とか常識人とは限らないが、一方で陪審員、裁判員がどうなのかも分からない。裁判に拘わる人はせめて真実を解明するという姿勢であってほしいがそれも無理なのか。人が人を裁くことは難しい。
4月24日(土) 疲れたときにひもとく本の一つに「小林秀雄」がある。文芸評論家の小林秀雄(1902ー1983、明治35年−昭和58年)は芸術全般についても優れた評論を残していることはよく知られている(戦争からの逃避とも云われるが)。少し長いが絵画について小林が書いたものを一つ引用させていただく:「画は何も教えはしない。画から何かを教わる人もない。画は見る人の前に現存していれば足りるのだ。美は人を沈黙させます。どんな芸術もその創り出した一種の感動に充ちた沈黙によって生き永らえて来た。どのように解釈しても遂に口をつぐむより外はない或るものにぶつかる・・・」。こうした文章を読むと心底ホッとさせられる。美は理屈ではないといつも思う。どんなに能書きを並べようが感動がなければ無に等しいから。テレビや新聞などメデイアのヒステリックで騒々しい表現に囲まれていると「沈黙」の文字が新鮮にさえ感じる。口をつぐんで内省する時間をとりたいものだ。新しいものを産むためには沈黙の時間が必須かも知れない。
4月25日(日) 「なぜ宗教は平和を妨げるのか」という本を読み終えた(講談社新書/町田宗鳳著)。知人が面白いからと貸してくれた本だがタイトルも刺激的だ。著者は14歳で出家しお寺で修行した後、渡米して神学修士号や博士号を取得した比較宗教学の学者。今も続く人類の残虐な紛争の歴史をキリスト教、ユダヤ教、イスラム教、仏教など宗教をキーワードとして分析し、この宗教学者の結論は「宗教は人類を救い得るか」の問いに対して「救い得ない」であった。すべての争いは「自分たちの神こそ唯一真実の超越的存在であるという信仰上の”とらわれ”からはじまる(宗教の中に”アメリカ教”を含めて)」という著者の見方には同感できるが、では”奇跡的”に平和な日本で何をすべきかのところが「紛争を”対象化”せず我が身に引き寄せる」ではピントがぼけて分かりにくい。日本は元来多神教で「いい加減さ」を指摘される。この本を読んで日本独特の「いい加減(加減が適当)」や「甘えの構造」は、むしろ貴重で、この”とらわれのない思想”を世界に発信する意味があるかも知れないと思った。
「今日の作品」に「chaos=混沌」を掲載した。前段の重いテーマも”混沌”であるが、私のいまのCHAOSは、新しいOS、新しいソフトウェアだ。

4月26日(月) 部屋の整理とあわせて以前息子が使っていた本棚の中身を見直している。息子といえども他人の本棚は自分と分野が違う本が多いのでしばし面白そうな本を拾い読みした。そんな本の一つに「想起のフィールド」(佐々木正人編、新曜社) がある。想起とは記憶心理学で使うリメンバリングであり、「記憶(メモリー)から想起(リメンバリング)へ」と考え方が変遷したようだ。つまり、どこかに貯蔵される記憶でなく、個人あるいは集団が繰り返し思い出すという想起の行為に焦点を当てる。「自白」などは想起を研究する重要な材料となることを知ったし、想起は誕生するとか、想起が過去と現在の二重性であるなど新鮮な表現に出会った。想起はどの想起でもかならず物語であることなど十分納得できる。自分でも昔の都合の悪いことはうまい具合に記憶から欠落している。心理学も次々に新しい分野が広がっているようで興味深い。これまで自分が無関心であった分野にも目をやると世界はもっともっと広くなりそうだ。
4月27日(火) 将棋の米長が現役の頃、次のように述べている:「思い起こせば六年前、19歳の羽生をお手本にして、46歳の私がそこに追いつくべく努力を積み重ねた。・・・おかげで50歳で名人と云う神様からのご褒美をいただいた・・」。羽生が米長の存在を知ったのは小学2年生のときだったという。これだけ年齢差のある羽生のことを米長は羽生先生と呼んだ。実力勝負という厳しい世界で生きた米長の清々しさ、そして人間性がこの逸話で十分に語られている。現実の世界は純な実力世界と異なるけれども、年齢差や性差はもちろん肩書き、ポジションを取り去って自分が何をできるか、人と何を話ができるかが問われるのは同類であろう。特に高齢者、これからの高齢準備者は米長を見習いたい。ところで、その米長さんはいまどうしているだろうと思うと、これまたホームページで毎日の日記を更新するなど相変わらずのご活躍だ=ここ
4月28日(水) ゴールデンウィークを一日先取りして、檜原村(ひのはらむら)の「都民の森」にいった(netではここ)。東京都下(奥多摩)にこれだけ広大な森林が都民の森として維持されていることはうれしい。はじめは孫が遊んでいる間にのんびり絵でも描いて過ごすかと思っていたが、この3歳7ヶ月の孫はなんと2時間のハイキングコースを平気で歩いてしまった。幼児の力を侮ってはならない。目映いばかりの新緑に囲まれて大人どもも存分に森林浴を楽しんだ。帰路、青梅市沢井の「澤乃井」に寄って休憩。澤乃井は都内では珍しい地元の名前を付けた日本酒の蔵本(ホームページはここ)でお酒のほかに豆腐料理も評判である。車の運転は妻たちに任せることにして、私は真っ昼間にできたばかりの生酒を2合ほど飲んですっかりご機嫌になった。・・・非日常の週のはじまりだ。
4月29日(木) 東京・大田区の池上本門寺の植木市にいった。日蓮宗大本山である池上本門寺は日蓮上人が入滅した霊場とされる由緒あるお寺(参考hp=ここ)で、親戚の家が近くにあるので時々訪れる。本門寺の「オセンブ」と植木市は私にとっては同一語のような感覚である。コラムに書く以上は少しは内容を知っておこうと由来を調べてみた。親しく”オセンブ”と呼ぶ千部会は日蓮上人が4月28日(1253年)に初めて昇り来る朝陽に向かってお題目を唱えた記念の日として、4月27,28,29日の三日間に法華経千部を読誦して法要する行事であり、植木市は千部会に合わせてこの三日間の前後に境内で催される(ここ参照)。今日は丁度千部会の最後の日であり、読経しながら境内を練歩くお坊さんたちの行列とそれに連なるお稚児さんの行列に出会った。これは「世界平和祈願天童音楽法要」であることを知ったがこの祈願はいま誰もが望むところだろう。さて、植木市の収穫はいま自分の机の上に置いてある。小さなブルーの花、「ロベリア」の鉢が二つ。ロベリア(net写真はここ)はキキョウ科の一年草。花言葉は「謙虚」とか。瑠璃蝶草(るりちょうそう)という別名がいい。自分の室内に花を置くのは初めてだ。昼間は日の当たるところに移してやろう。いつまで花を見られるだろうか楽しみ・・。
4月30日(金) 「世界でタバコが原因で死亡する人は毎年490万人(日本では10万人)」と云われると、多くの要因がからむ死因を「タバコ」にどうやって特定したのかデータに疑問を持つが、数値は別にしてタバコが健康によくないのは間違いないだろう。いまの喫煙者はそんなことは100も承知で、「自己責任」でタバコを吸っている。それでも、ハンバーグがあまりに美味しくて50年間食べ続けて体重が120kgを越したおじさんが自分の心臓病・糖尿病はファーストフードチェーンの責任だとして損害賠償訴訟を起こすようなアメリカという国では、タバコ産業はもはや風前の灯火だ。一時、米国でのタバコ訴訟は辣腕弁護士の格好の餌場となった。大リーグのオーナーの中でも財力がずば抜けていると云われる人物はアスベスト訴訟で巨額の富を得た弁護士だという。この弁護士さんはタバコ訴訟でも活躍し巨額の賠償金を引き出した。ニコチンの依存性をタバコメーカーは知っていたという内部告発を機にタバコメーカーは敗訴するようになり、賠償金・和解金なども何兆円とスケールがでかい。タバコに比較的寛容であった日本でもようやく喫煙の規制は進んできた。私自身はタバコは吸わないが、喫煙者というのは他人から制限されるとますます吸いたくなるものらしい。喫煙の楽しみに勝る楽しみはこの世にはいくらでもある・・と非喫煙者が云っても説得力は弱いか・・。

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