8月2日(月) その気になれば毎日確実に「懐メロ」を聞くことができる。朝の犬の散歩で6時30分に西郷山公園(東京・目黒区)に着くとラジオ体操の音楽が流れ始まる。「新しい朝が来た 希望の朝だ 喜びに胸を開け 大空あおげ ラジオの声に 健やかな胸を この香る風に開けよ それ 一 二 三 (藤浦洸作詞・藤山一郎作曲)」。以前は余りに純粋で影のかけらもない時代錯誤の歌詞に戸惑いを覚えていたが、何度か聞いているうちに少年時代のストレートな思い出に結びついて“懐かしさ”がこみ上げてくる。今朝などはアール(コーギー犬)と一緒に歌詞を口ずさんでいた。私自身は皆と一緒にラジオ体操はやらない。自分なりに朝は柔軟運動とかストレッチ系の筋力トレーニングをするが、音楽に合わせて一斉に体操することが嫌だった。それがラジオ体操の歌に抵抗がなくなってから、その辺りのこだわりもなくなってきた。丁度体操の時間に着いたのだから一緒に第一体操でもやっていくか・・。これがもしラジオ体操の「懐メロ」がなければこんなに変わらなかっただろう。ナツメロ音楽恐るべしだ。毎日「新しい朝が来た 希望の朝だ」と云えればこんなにいいことはない。 8月3日(火) 「今日の作品」欄に「ヘロンの噴水」の上部の文字写真を掲載した。石庭で有名な京都の竜安寺にある蹲(つくばい=手水鉢/チョウズバチ)で中央に口の字を置き、四方に吾・唯・足・知(=われただ足るを知る)の文字を配したものがあることから(ここ参照)、ヘロンの噴水の噴出し口の穴を英文字の"O"に見立てて、何か英文を書くことを思いついた。はじめは、LOVE , HOPE , NOW など、"O"を入れた単語が浮かんだが、実物の噴水には、中央の噴出し口だけでなく、給水穴、上下空気貫通の穴、呼び水用穴など他に"O"が3カ所ある。考えた末に、それぞれの穴も活かして以下の文章とした。"Do to others as you would have them do to you." (己の欲するところを人に施せ)。聖書のマタイ伝第7章の有名な言葉だ。こういう説教臭い言葉は余り仰々しく主張すると嫌みであるが、噴水を使っている時には水の下でほとんど気にならない。噴水の文字はこれで完成したが、この聖書の言葉にも素直に従わない人がいる。英国の戯曲家バーナード・ショーは先の文を否定文とした。「自分のして欲しいように人にしてはいけない」と。なぜなら、"Their tastes may not be the same."(人の好みは同じでない)。 8月4日(水) 早朝、犬(コーギー犬)の散歩で公園に行ったとき、猛烈な蝉の鳴き声を浴びてしばし立ち止まった。蝉時雨などというものではない。樹木の下にいると土砂降り雨のような蝉の声以外に周囲の音は一切聞こえない。ここで一句などと優雅な感傷にひたる心持ちにはならないが、自分なりにある種の興味が沸き上がった。まず、連続した音声は多くの蝉の合唱の結果だと思われるが、よくも同じ音が途切れることなくコンスタントに続くと感心する。この音の周波数はどれくらいだろう。蝉の声を録音して周波数分析器にかければ直ぐに解析出来るのでやってみたいな。蝉の発声器官は腹にある筋を伸縮して腹の共鳴箱で大きな音を出しているのならば、蝉はほとんど同じ周波数を発生する共鳴装置を持っていることになる。それにしても蝉は鳴くのはオスだけだというが、どうして早朝からこれほど激しく鳴き続けるのだろう。成虫になるまで10年の歳月がかかったのに、数日鳴いて命を終えるのは何故。・・子供のような疑問であるかも知れないが、夏の風物詩としての蝉の声も掘り下げると興味はつきない。<あの声で露が命かあぶらぜみ(詠み人知らず)> 8月5日(木) インターネットでは膨大な情報がフリーに得られる。その代わりに、貴重で有益な資料からインチキ情報に至るまで何が含まれているか、その内容を疑ってみて吟味することが必須となる。ネット情報についてはまず誰もが一度眉に唾して考えてみる。ところが家庭に配布される購読料を支払う「新聞」に対しては一般にはほとんど無防備で絶大なる信用をおいている。朝日新聞の発行部数は実に830万部、日々(!)家庭で830万人の何倍かの人が朝日のコラムや社説を読む。日本の世帯数が4900万ほどであることを考えると、日本全体に恐ろしいほどの影響力を及ぼしていることになる。そして発行部数が多いと宣伝・広告のスポンサーがまたお金をだすので大新聞は潤う。不思議なのはこうした寡占メデイアの構造に変化の兆しが見えないことである。役所も銀行も出版業界も、どの業界でも大変革を行おうとする中で、新聞メデイアだけは安閑にみえるのはなぜだろう。”変革を望まぬ”読者と既得権というぬるま湯が心地よいメデイアは常に安定領域にいるのか。一つの新聞の読者が2000万人(仮)という状態がいつまで続くのかインターネットと共に見つめていたい。 8月6日(金) 自分で意識していなくても傲慢になっていることがある。そんな時ハンデイを持った人の作品に出会うとハッとして我が身をただす。野崎耕二さんの「一日一絵」は大家の絵画と全く別種の感動を与えてくれた。地図の編集やイラストの仕事をしていた野崎さん(1937年生まれ)は46歳のとき(1983年)進行性の筋ジストロフィー症と診断された。原因も治療法も分からず手足の筋力が少しずつ弱る難病と宣告され、失意のどん底に突き落とされた野崎さんはその年の秋から「一日一絵」を始めたという。最近、「一日一絵 第10集」が出版され評判となっている。一日1時間を絵を描く時間に当てるといっても、20年間一日も欠かさず、入院をした時には点滴の機材を描き、自分の不自由な足を描く。絵筆を握ること自体が苦労なしにはできない。野崎さんの画集に「きょうも一日ありがとう」というのがある。身体は自由に動かず外出は車椅子の生活をしながら、絵を描ける一日に感謝する。時間を大切にして精一杯生きる。そんな姿と何千枚という清々しい絵とが見事に一致する。自分で描けない理由などを言い訳していると恥ずかしい・・。(野崎さんの画集の紹介はここ) 8月7日(土) 「今日の作品」に「マルチボックス(陶芸)」を掲載した。作品名としてはMulti-purpose Box(多用途箱)というところを簡略化したものだ。制作を始める時に意図したのは夏場の「蚊取り線香スタンド」であった。制作しながら夏に限らず一年中何かに使えることを考えた。まず筆立てにもできる、それから花瓶にも出来る箱にすることにした。ポイントはサイドに丸や四角の穴がいくつも開いているが全て箱の中に水を入れても外部に漏れることのないようにパイプ付きの穴としたことだ(外観写真は陶芸コーナー参照)。掲載した写真に車がついているのは、この貫通穴に”レゴ”の車とシャフトをつけてみたもの。完成する前にはこんな車輪など装着する構想は全くなかったけれど、車をつけた形は意外に気に入っている。車付きの花瓶もできることになる。陶芸教室の若い先生はセロテープの台にいいと云ってくれた。自分では考えつかなかったアイデイアが出てくるのがまたうれしい。他にも何か使う用途はないか上下左右にひっくり返したりしてまだ楽しんでいる。 8月9日分 8月8日(日) 犬(コーギー犬)の散歩途中、建築中のカルピスの新本社社屋(恵比寿駅より数分)の前を通ったら雰囲気が変わり以前よりずっと感じがよい。何が変わったのかを考えると、周囲の「塀」が違っている。前は高く分厚いコンクリートの塀が連なっていたのが、新しい塀は中が透いてみえる格子型のフェンスで高さも低い。部分的に背の低い磨いたコンクリート塀も使っているので質も高級にみえる。最近の傾向として「塀」は境界として設置するが、目隠しはあえてしない「内部公開型」が増えている。塀の中で何をしているかは外部からみえるが防犯的にはむしろこの方が安全に思える。外から見えなくすることは内部での「犯行」をも隠すことになる。勿論、重厚な盲の塀と比べると隙間のある塀の方がはるかに空間が広く感じられるメリットもある。一般の「情報開示」と同じく、隠す必要のないものは極力オープンにするのは大いに賛成だ。オープンカフェに続いてオープン型塀もこれからどんどん増えていって欲しい。帰宅後いつものアイスコーヒーに代えて今日はアイスカルピスをおいしくいただいた。 8月9日(月) グッゲンハイム美術館展(@東京/Bunkamuraザ・ミュージアムにて、10月11日まで、net=ここ)にいった。ニューヨーク/グッゲンハイム美術館は旧帝国ホテルを設計した建築家ロイドの設計としても有名で、今回その美術館の収納品、ルノワールからウオーホールまで79点をみることができる。グッゲンハイムというとモダンアートの分野で他の美術館にない絵画作品が多いと思っていたが、ルノワールやセザンヌ、ゴッホ、ルソーなど1800年代の作品もきている。それでも大部分は1900年代の近代ものだ。私は最近油絵の「額縁」を自作し始めたので、絵画を見る以前にまずグッゲンハイムが使っている額縁を一生懸命に研究してしまった。モダンな絵画にはシンプルなフレームがうまくマッチしていて参考になった。これくらいの額縁なら自分でも出来そうだと思ったが、同じものは作らないだろう。ピカソ、ブラック、モンドリアン、カンデインスキー、レジェ、クレー、ミロなどお馴染みの画家のオリジナル作品を目の前にして楽しむ一方、偶然性の抽象画を描く画家と思ったポロックが意外に綿密な構成の絵を描いているとか、ロスコもやわらかい輪郭の抽象画を描くこともあるのだとか、新発見もする。これまで名前を知らなかった”ピエール・スーラージュ”の絵(絵画というタイトルの黒白の対比が強烈な抽象画)には一番といっていいほど感銘を受けた。それにしても、猛暑の中であるが、ほんの少しの時間をとれば世界の宝というべき作品群に接することができるのは本当にありがたいことだ。 「今日の作品」に「マルチボックス3(陶芸)」を掲載した。今朝咲いた朝顔を生けたもの。 8月10日(火) 娘が持ってきた「 話を聞かない男、地図が読めない女」という本を拾い読みした。著者は米国のAllan Pease、Barbara Peaseという夫妻で、ベストセラーの翻訳本であるようだ(net情報はここ)。タイトルの「話を聞かない」は私が妻から年中云われている言葉なので興味を持ったが、妻は「地図が読めない」ことはない。本の内容は特別に目新しい見方とか知識になることはなかった。卑近な事例を出して面白おかしく書いてあるのが受けるのかも知れないが、ベストセラー本というのは何故売れるのかよく分からない。こういう男と女の性差を不思議なものと捕えるのか当たり前と思うのかで関心の深さも変わるだろう。30数年前に結婚間もない会社の上司が自分の奥さんのことを「女というのは人類でない」と言いふらしていたのを思い出すが、同種の人間としか付き合いがないと本能的な性差にショックを受ける人もいるようだ。男女の特性に差異がなければつまらないとは思わないのだろうか。一方で個々人の考え方の違いをみると性差など小さい。ましてや、国・宗教・イデオロギーによる考え方のギャップを考えると男女の感覚の差なんてNegligible-smallに思える。 「今日の作品」に「お皿 for Naho(陶芸」)を掲載した。娘が来月からニューヨークで生活することになり急遽プレゼントとして制作したもの(他を陶芸コーナーに掲載)。私の作品ではじめて海外に渡るのでチョッピリ感慨が新た。 8月11日 分 8月11日(水) 甲子園の高校野球にはプロ野球にはない面白さがある。一度負けると終わりというトーナメント試合、ひたむきなプレー、調子に乗ると実力以上の力を出すところ、一期一会の真剣勝負・・など色々あるだろうが、私は”ミス”に伴うドラマを注目していると飽きることがない。別にミスを期待する訳ではないが、凡フライに打ち取ったと思うと外野が落球する、内野ゴロをエラーする、キャッチャーの牽制球が暴投となる、肝心なところでパスボールをだす・・とドラマは次から次に展開し試合の流れがガラリと変わることもある。しかしミスが必ずしも悪い連鎖を引き起こすとは限らない。ミスによる集中力の断絶は最小限で試合が盛り上がることも多い。どんな分野でもミスはある確率で起こる。ミスを責めるのでなく積極的に次のステップに目を定めているとミス以上の成果がでるのは実社会と高校野球の共通点ともみえる。若く元気な企業ほど挑戦した結果の失敗に対しては許容度が大きいことなど、高校野球の若さをみて思い起こす。完璧でないところにしばしば美が存在するが高校野球にはそんな美しさもある。(今日の第3試合の結果:日大三がPLの反撃をかわして8-5で勝利)/「今日の作品」に「お皿3(陶芸)」掲載。昨日の続き作品。