これまでの「今日のコラム」(2004年 8月分)

8月1日(日) 「ヘロンの噴水」(陶芸作品)がギャラリーから我が家に戻ってきて、平常の生活パターンを取り戻した。秘蔵っ子は手元に置くに限る。今日の作品には「ヘロンの噴水3」(別写真)を掲載したが、今日は噴水と別の話題を書きたい。昨日のサッカー・アジアカップ準々決勝での日本ーヨルダンの壮絶なPK戦(@中国、重慶)は二度とこのようなPK戦は見られないのでないかと思われるほどドラマチックだった。PK戦は5人が交互に蹴りゴールを成功させた数が多い方が勝ちだ。日本はいきなり中村、三都主がゴールを外し、ヨルダンは二人成功。この時点で日本は0−2。誰でもが奇跡でも起きない限り日本の負けだと思う。次の福西は成功したがヨルダンも成功で、 1-3。中田(浩)が成功の後、ヨルダンがゴールすればヨルダンの勝ちとなる。ここからゴールキーパー川口が神懸かり的な動きを見せる。ヨルダン四人目がキック。川口がはじいた球はバーに当たって外に。ここで日本の2-3。五人目は鈴木が成功させた後、ヨルダンが何とゴールを外した。これで3-3。これからはサドンレス勝負。振り出しに戻ったと思ったら六人目中沢が外す。またも絶体絶命。これで終わりかというヨルダンのキックを川口はまたまた絶妙のセーブ。七人目の宮本が成功させた後、ヨルダンは川口の気迫に押されたのか球がバーの外へ。結局、4-3で日本は逆転勝利した。諦めなければ奇跡は起こる・・。この中国・重慶でのサッカー試合は露骨な反日の大歓声を浴びる異常事態であるが、川口の言葉はさすがに守りの神様だ:「日本が勝って黙らせる以外ない」。

8月2日(月) その気になれば毎日確実に「懐メロ」を聞くことができる。朝の犬の散歩で6時30分に西郷山公園(東京・目黒区)に着くとラジオ体操の音楽が流れ始まる。「新しい朝が来た 希望の朝だ  喜びに胸を開け 大空あおげ ラジオの声に 健やかな胸を この香る風に開けよ それ 一 二 三 (藤浦洸作詞・藤山一郎作曲)」。以前は余りに純粋で影のかけらもない時代錯誤の歌詞に戸惑いを覚えていたが、何度か聞いているうちに少年時代のストレートな思い出に結びついて“懐かしさ”がこみ上げてくる。今朝などはアール(コーギー犬)と一緒に歌詞を口ずさんでいた。私自身は皆と一緒にラジオ体操はやらない。自分なりに朝は柔軟運動とかストレッチ系の筋力トレーニングをするが、音楽に合わせて一斉に体操することが嫌だった。それがラジオ体操の歌に抵抗がなくなってから、その辺りのこだわりもなくなってきた。丁度体操の時間に着いたのだから一緒に第一体操でもやっていくか・・。これがもしラジオ体操の「懐メロ」がなければこんなに変わらなかっただろう。ナツメロ音楽恐るべしだ。毎日「新しい朝が来た 希望の朝だ」と云えればこんなにいいことはない。
8月3日(火) 「今日の作品」欄に「ヘロンの噴水」の上部の文字写真を掲載した。石庭で有名な京都の竜安寺にある蹲(つくばい=手水鉢/チョウズバチ)で中央に口の字を置き、四方に吾・唯・足・知(=われただ足るを知る)の文字を配したものがあることから(ここ参照)、ヘロンの噴水の噴出し口の穴を英文字の"O"に見立てて、何か英文を書くことを思いついた。はじめは、LOVE , HOPE , NOW など、"O"を入れた単語が浮かんだが、実物の噴水には、中央の噴出し口だけでなく、給水穴、上下空気貫通の穴、呼び水用穴など他に"O"が3カ所ある。考えた末に、それぞれの穴も活かして以下の文章とした。"Do to others as you would have them do to you." (己の欲するところを人に施せ)。聖書のマタイ伝第7章の有名な言葉だ。こういう説教臭い言葉は余り仰々しく主張すると嫌みであるが、噴水を使っている時には水の下でほとんど気にならない。噴水の文字はこれで完成したが、この聖書の言葉にも素直に従わない人がいる。英国の戯曲家バーナード・ショーは先の文を否定文とした。「自分のして欲しいように人にしてはいけない」と。なぜなら、"Their tastes may not be the same."(人の好みは同じでない)。
8月4日(水) 早朝、犬(コーギー犬)の散歩で公園に行ったとき、猛烈な蝉の鳴き声を浴びてしばし立ち止まった。蝉時雨などというものではない。樹木の下にいると土砂降り雨のような蝉の声以外に周囲の音は一切聞こえない。ここで一句などと優雅な感傷にひたる心持ちにはならないが、自分なりにある種の興味が沸き上がった。まず、連続した音声は多くの蝉の合唱の結果だと思われるが、よくも同じ音が途切れることなくコンスタントに続くと感心する。この音の周波数はどれくらいだろう。蝉の声を録音して周波数分析器にかければ直ぐに解析出来るのでやってみたいな。蝉の発声器官は腹にある筋を伸縮して腹の共鳴箱で大きな音を出しているのならば、蝉はほとんど同じ周波数を発生する共鳴装置を持っていることになる。それにしても蝉は鳴くのはオスだけだというが、どうして早朝からこれほど激しく鳴き続けるのだろう。成虫になるまで10年の歳月がかかったのに、数日鳴いて命を終えるのは何故。・・子供のような疑問であるかも知れないが、夏の風物詩としての蝉の声も掘り下げると興味はつきない。<あの声で露が命かあぶらぜみ(詠み人知らず)>
8月5日(木) インターネットでは膨大な情報がフリーに得られる。その代わりに、貴重で有益な資料からインチキ情報に至るまで何が含まれているか、その内容を疑ってみて吟味することが必須となる。ネット情報についてはまず誰もが一度眉に唾して考えてみる。ところが家庭に配布される購読料を支払う「新聞」に対しては一般にはほとんど無防備で絶大なる信用をおいている。朝日新聞の発行部数は実に830万部、日々(!)家庭で830万人の何倍かの人が朝日のコラムや社説を読む。日本の世帯数が4900万ほどであることを考えると、日本全体に恐ろしいほどの影響力を及ぼしていることになる。そして発行部数が多いと宣伝・広告のスポンサーがまたお金をだすので大新聞は潤う。不思議なのはこうした寡占メデイアの構造に変化の兆しが見えないことである。役所も銀行も出版業界も、どの業界でも大変革を行おうとする中で、新聞メデイアだけは安閑にみえるのはなぜだろう。”変革を望まぬ”読者と既得権というぬるま湯が心地よいメデイアは常に安定領域にいるのか。一つの新聞の読者が2000万人(仮)という状態がいつまで続くのかインターネットと共に見つめていたい。
8月6日(金) 自分で意識していなくても傲慢になっていることがある。そんな時ハンデイを持った人の作品に出会うとハッとして我が身をただす。野崎耕二さんの「一日一絵」は大家の絵画と全く別種の感動を与えてくれた。地図の編集やイラストの仕事をしていた野崎さん(1937年生まれ)は46歳のとき(1983年)進行性の筋ジストロフィー症と診断された。原因も治療法も分からず手足の筋力が少しずつ弱る難病と宣告され、失意のどん底に突き落とされた野崎さんはその年の秋から「一日一絵」を始めたという。最近、「一日一絵 第10集」が出版され評判となっている。一日1時間を絵を描く時間に当てるといっても、20年間一日も欠かさず、入院をした時には点滴の機材を描き、自分の不自由な足を描く。絵筆を握ること自体が苦労なしにはできない。野崎さんの画集に「きょうも一日ありがとう」というのがある。身体は自由に動かず外出は車椅子の生活をしながら、絵を描ける一日に感謝する。時間を大切にして精一杯生きる。そんな姿と何千枚という清々しい絵とが見事に一致する。自分で描けない理由などを言い訳していると恥ずかしい・・。(野崎さんの画集の紹介はここ
8月7日(土) 「今日の作品」に「マルチボックス(陶芸)」を掲載した。作品名としてはMulti-purpose Box(多用途箱)というところを簡略化したものだ。制作を始める時に意図したのは夏場の「蚊取り線香スタンド」であった。制作しながら夏に限らず一年中何かに使えることを考えた。まず筆立てにもできる、それから花瓶にも出来る箱にすることにした。ポイントはサイドに丸や四角の穴がいくつも開いているが全て箱の中に水を入れても外部に漏れることのないようにパイプ付きの穴としたことだ(外観写真は陶芸コーナー参照)。掲載した写真に車がついているのは、この貫通穴に”レゴ”の車とシャフトをつけてみたもの。完成する前にはこんな車輪など装着する構想は全くなかったけれど、車をつけた形は意外に気に入っている。車付きの花瓶もできることになる。陶芸教室の若い先生はセロテープの台にいいと云ってくれた。自分では考えつかなかったアイデイアが出てくるのがまたうれしい。他にも何か使う用途はないか上下左右にひっくり返したりしてまだ楽しんでいる。     8月9日分
8月8日(日) 犬(コーギー犬)の散歩途中、建築中のカルピスの新本社社屋(恵比寿駅より数分)の前を通ったら雰囲気が変わり以前よりずっと感じがよい。何が変わったのかを考えると、周囲の「塀」が違っている。前は高く分厚いコンクリートの塀が連なっていたのが、新しい塀は中が透いてみえる格子型のフェンスで高さも低い。部分的に背の低い磨いたコンクリート塀も使っているので質も高級にみえる。最近の傾向として「塀」は境界として設置するが、目隠しはあえてしない「内部公開型」が増えている。塀の中で何をしているかは外部からみえるが防犯的にはむしろこの方が安全に思える。外から見えなくすることは内部での「犯行」をも隠すことになる。勿論、重厚な盲の塀と比べると隙間のある塀の方がはるかに空間が広く感じられるメリットもある。一般の「情報開示」と同じく、隠す必要のないものは極力オープンにするのは大いに賛成だ。オープンカフェに続いてオープン型塀もこれからどんどん増えていって欲しい。帰宅後いつものアイスコーヒーに代えて今日はアイスカルピスをおいしくいただいた。
8月9日(月) グッゲンハイム美術館展(@東京/Bunkamuraザ・ミュージアムにて、10月11日まで、net=ここ)にいった。ニューヨーク/グッゲンハイム美術館は旧帝国ホテルを設計した建築家ロイドの設計としても有名で、今回その美術館の収納品、ルノワールからウオーホールまで79点をみることができる。グッゲンハイムというとモダンアートの分野で他の美術館にない絵画作品が多いと思っていたが、ルノワールやセザンヌ、ゴッホ、ルソーなど1800年代の作品もきている。それでも大部分は1900年代の近代ものだ。私は最近油絵の「額縁」を自作し始めたので、絵画を見る以前にまずグッゲンハイムが使っている額縁を一生懸命に研究してしまった。モダンな絵画にはシンプルなフレームがうまくマッチしていて参考になった。これくらいの額縁なら自分でも出来そうだと思ったが、同じものは作らないだろう。ピカソ、ブラック、モンドリアン、カンデインスキー、レジェ、クレー、ミロなどお馴染みの画家のオリジナル作品を目の前にして楽しむ一方、偶然性の抽象画を描く画家と思ったポロックが意外に綿密な構成の絵を描いているとか、ロスコもやわらかい輪郭の抽象画を描くこともあるのだとか、新発見もする。これまで名前を知らなかった”ピエール・スーラージュ”の絵(絵画というタイトルの黒白の対比が強烈な抽象画)には一番といっていいほど感銘を受けた。それにしても、猛暑の中であるが、ほんの少しの時間をとれば世界の宝というべき作品群に接することができるのは本当にありがたいことだ。
「今日の作品」に「マルチボックス3(陶芸)」を掲載した。今朝咲いた朝顔を生けたもの。

8月10日(火) 娘が持ってきた「 話を聞かない男、地図が読めない女」という本を拾い読みした。著者は米国のAllan Pease、Barbara Peaseという夫妻で、ベストセラーの翻訳本であるようだ(net情報はここ)。タイトルの「話を聞かない」は私が妻から年中云われている言葉なので興味を持ったが、妻は「地図が読めない」ことはない。本の内容は特別に目新しい見方とか知識になることはなかった。卑近な事例を出して面白おかしく書いてあるのが受けるのかも知れないが、ベストセラー本というのは何故売れるのかよく分からない。こういう男と女の性差を不思議なものと捕えるのか当たり前と思うのかで関心の深さも変わるだろう。30数年前に結婚間もない会社の上司が自分の奥さんのことを「女というのは人類でない」と言いふらしていたのを思い出すが、同種の人間としか付き合いがないと本能的な性差にショックを受ける人もいるようだ。男女の特性に差異がなければつまらないとは思わないのだろうか。一方で個々人の考え方の違いをみると性差など小さい。ましてや、国・宗教・イデオロギーによる考え方のギャップを考えると男女の感覚の差なんてNegligible-smallに思える。
「今日の作品」に「お皿 for Naho(陶芸」)を掲載した。娘が来月からニューヨークで生活することになり急遽プレゼントとして制作したもの(他を陶芸コーナーに掲載)。私の作品ではじめて海外に渡るのでチョッピリ感慨が新た。

    8月11日 分
8月11日(水) 甲子園の高校野球にはプロ野球にはない面白さがある。一度負けると終わりというトーナメント試合、ひたむきなプレー、調子に乗ると実力以上の力を出すところ、一期一会の真剣勝負・・など色々あるだろうが、私は”ミス”に伴うドラマを注目していると飽きることがない。別にミスを期待する訳ではないが、凡フライに打ち取ったと思うと外野が落球する、内野ゴロをエラーする、キャッチャーの牽制球が暴投となる、肝心なところでパスボールをだす・・とドラマは次から次に展開し試合の流れがガラリと変わることもある。しかしミスが必ずしも悪い連鎖を引き起こすとは限らない。ミスによる集中力の断絶は最小限で試合が盛り上がることも多い。どんな分野でもミスはある確率で起こる。ミスを責めるのでなく積極的に次のステップに目を定めているとミス以上の成果がでるのは実社会と高校野球の共通点ともみえる。若く元気な企業ほど挑戦した結果の失敗に対しては許容度が大きいことなど、高校野球の若さをみて思い起こす。完璧でないところにしばしば美が存在するが高校野球にはそんな美しさもある。(今日の第3試合の結果:日大三がPLの反撃をかわして8-5で勝利)/「今日の作品」に「お皿3(陶芸)」掲載。昨日の続き作品。

<明日から15日まで信州にでかけます。「コラム」はお休みです>

8月16日(月) 白樺湖(長野県)にある親戚の山荘で静養してきた。猛暑の東京と比べると海抜1350Mの高地はさすがに涼しくやる気を取り戻すには絶好だ。アテネオリンピックが始まり、高校野球も続いているが、家の中にいるだけでは勿体ない。霧ヶ峰高原を友人夫妻と一緒に山歩きをしたとき高山植物に囲まれて耳にしたのは鶯の鳴き声だった。絵も数枚描くことができた。「今日の作品」に掲載した「白樺湖にて1(水彩)」はその中の一つ。から松林をこれまでと多少違うスタイルで描いてみた。山荘にいると一日一枚以上の絵など容易にできるのはどうしてだろう。・・と考えると、そう今回はパソコンなし、メールも、インターネットもなし。これでテレビがなければもっと成果がでたに違いない・・。

8月17日(火) 7月23日のコラム(ここ)で「植物の葉の形」がなぜ色々な形状をしているのか不思議だという趣旨のことを書いたが、白樺湖で植物に囲まれて、この”なぜ”を考えてみた。まず、葉の形状を左右する要素として、太陽と風雨を考える。太陽の光を効率よく取り入れて光合成するという点からみれば、空間の中で最大の面積がとれる丸い形状が最適だ。この基本となる円形の葉は「はぎ」などでみられる。一方、風を受けた場合、しなやかに受け流すには飛行機のプロペラを思えばよいが、笹の葉のように細長く尖った形状が適しているだろう。楓の葉のような裂け目のある手のひら型は丸形に笹型が加わった中間とみる。楕円型の葉も丸と尖った形のいいとこ取り。先端の尖りや葉の途中にギザギザがあるものは雨や露などの処理に適した機能。葉が枝に強固に取り付くために葉の根元部分の形状がそれぞれ最適化されている。そうはいっても葉は日陰になったり、風雨で飛ばされたり、虫に食われたりするので、樹木や草花は生き残りのために多くの葉数をそろえる。葉が全て絶滅しない限り残った葉があれば光合成を続けることができる。水分の補給路が安定しているかどうかで葉の厚みや形状に影響がでるだろう。・・この種の考察は単なる推測というか無責任な独断であって、夏休みの楽しい頭脳トレーニングになる。
8月18日(水) アテネオリンピックのTV観戦も楽ではない。男子体操団体で26年ぶりに金メダルをとった競技など結果が分かっていてもドキドキさせられた。それが生中継となると精神的なストレスは倍増する。おかしなもので、自分がどんな格好で見ようが、あるいは見なくても、結果は何も変わらないのだが、ある格好をしている時に日本がミスしたとか失点したというだけで姿勢を変えてみる。調子がよければ、そのままの姿勢を保つ。たまたま見ていないときに結果がいいと見たいのに見ないでいるというバカなこともやる。今晩の野球、オーストラリア戦はいま見始めたとたんに福留の逆転ホームラン(3ラン)がでた。こうなると安心してLIVE中継をみることができる。野球は勿論応援するが、ただ一つ、”長嶋ジャパン”などと意味のない呼び名は止めてほしい。ガンバレ・ジャパン。<この後しばらく野球を見ないでいたところ、終わってみれば、再逆転されて4−9で日本完敗。まあ、これは予選だ・・>
「今日の作品」に「白樺湖にて2(水彩)」を掲載した。植物の名前が分からないのが残念。

8月19日(木) 陶芸作品で「ヘロンの噴水(ここ参照)」が大成功だったので、今度は「現代の噴水」の陶芸を計画している。ヘロンの噴水は2000年前に発明された原理による自動噴水であったが、現代の噴水は現代の技術を使えば如何に簡単に噴水ができるかを示そうと考えた。ところが、このミニチュア噴水は意外に難しい。不細工な水中ポンプを水の中に沈めて100Vの電源コードを結んで噴水を吹きださせる「噴水キット」なら市販されている。そんな大袈裟な装置を表面には見せずに小型の噴水を作るには超小型のポンプが必要となる。オモチャのモーター類や金魚用の空気ポンプなどを見て回りカタログを調べてみると、求めている超小型のポンプなど安価な量産分野では需要がないことが分かってきた。技術的には簡単でも需要がなければ市販品を見つけることができない。ところが一方で例えば心臓の代わりをするポンプのようなハイテク高級分野では色々な超小型の特殊ポンプがあることも知った。安価に自分で作るか・・、高級ポンプも捨て難い・・、いまや計画は陶芸以前の段階で楽しい岐路に立っている。それにつけても、あらためて何も動力を使わない「ヘロンの噴水」のすばらしさを思う・・。
8月20日(金) アテネオリンピックは今真っ盛り。今日、会期半ばで日本は金メダルは9個と”予想外”の活躍が目立つ。4年毎のオリンピックはそれぞれの時代の思い出を作ってくれる。私が記憶にある一番昔のオリンピックは「メルボルン大会」(1956年/48年前)だ。その前のヘルシンキ大会(1952)はほとんど覚えていない。どうしてか考えてみるとヘルシンキ大会はまだ小学生の3−4年生。メルボルン大会では中学生になっている。その4年の差は大きい。ラジオから流れるオリンピックの実況中継は雑音入りで、いかにも遠方から生で放送している実感があった。ラジオで3段飛びでは15Mをとぶときいて、部屋の隅から距離を計ってみたら二部屋でも足りなかった・・。いまアテネでの競技は、走り、泳ぎ、戦う姿が鮮明に映し出される。まるで観客席でみているように・・。これなら小学生でもはっきりと記憶に残るに違いない。それと、現代の競技は相手のこれまでの戦い方をビデオで再現しながら研究出来ることが昔とは大きな違いだろう。王者、井上康生が柔道で敗退したのも然り。強者は徹底的に分析される。アテネオリンピックを見ながら、アテネの48年後はどんなオリンピックになるだろうと考えようとしたが、どうも想像力が貧困だ。夢のある48年後を語るのはこの猛烈残暑が過ぎてからにしよう(東京の気温36度を越す)。
「今日の作品」に「白樺湖にて3(パステル+水彩)」を掲載した。


8月21日(土) 私は「ゼンマイ仕掛け」のオモチャが好きだが最近はほとんど目にすることはない(「今日の作品」に”四つ足ちゃん”というゼンマイオモチャを描いた絵=ここ=がある)。そして、今の子供にとってはゼンマイの言葉自体が死語になりかかっているという。確かにもうゼンマイ時計のねじを巻くこともないし、コンピュータオモチャにはゼンマイは不要だ。その上、ホンモノの(語源である)薇(ぜんまい=ワラビに似たシダ植物)を山野で見たり摘んでくる機会もないのだろう。そんなことを話していると、日常用語の「匙(さじ)」さえも死語になりかねないと聞いた。親が「スプーン」という言葉しか使わないので子供は覚える機会がない。この場合は単語として匙がスプーンになるだけの話ではない。「匙加減」という微妙な調整のニュアンスも伝わらなくなる。匙が「茶匙」から変化したことはともかくとして、毎日目にする「さじ」の言葉は大人が諦めて「匙を投げる」前に伝承する工夫ができないかと思う。私は孫が来た時には、スプーンと云わずに「匙」と云うことにした。
8月22日(日) アテネオリンピックの陰に隠れて少しかわいそうだったが、今日の甲子園での高校野球決勝戦はまれに見る好試合だった。日大三や横浜など強豪に打ち勝って決勝に進んだ駒大苫小牧が春夏連覇を目指した済美(愛媛)を13-10で破り優勝した。両チームで合計39安打という打撃戦であったが決してピッチャーが悪いとも思えない迫力ある内容だった。やはり高校野球は面白い。今年はこれからオリンピックの後半戦。夏はスポーツTVを見ているうちに過ぎ去りそうだ。
「今日の作品」に「白樺湖にて4/フシグロセンノウ(水彩)」を掲載した。フシグロセンノウ(節黒仙翁)は先週白樺湖に行った時に名前を覚えた花の一つ。節が太く黒紫色を帯びる特徴があり、仙翁は中国のナデシコ科の花の名ときくと字で覚えることが出来た。掲載した絵の「葉」は他の実物の葉を電子レンジで乾燥させて貼付けたもの。こうして押し葉(花でない)を作ってみると具象の絵とは何ものか考えさせられる。

8月23日(月) 昨夜早く寝たせいか今朝は5時過ぎに目が覚めてしまった。TVをつけるとアテネオリンピック女子マラソンで野口みずき選手が一位の報。シドニーの高橋尚子に続いてアテネでも金メダルを期待はしてもマラソンで勝つなどそれほど簡単でないことは誰でも知っている。それがなんと現実に日本女子が連続して金メダルをとった。しかも他の二人の選手も、土佐礼子が5位、坂本直子が7位と共に入賞というすばらしい成績だ。私の個人的な”ひいき”から云えば野口が金メダルをとったことが何よりうれしい。野口は三人の中ではいわゆる専門家とか元マラソン選手などの解説者、評論家筋から一番きびしいコメントを受けていた。大きなストライド走法はマラソンに向かない、ムダが多い、高低差の大きいアテネには不向きなどなど・・。日本の専門家というのはただ理屈を言うだけで個人の特性や創意工夫を無視することが多い。それはマラソンに限らず他のスポーツや音楽、絵画などの分野でも同じだ。野口は自分に最も適した走法を貫き、訓練を積み重ねて一位になった。今のコーチや監督でなければ、逆に素質がつぶされた可能性は大きい。野口の小さな身体で大きなストライドで走る姿をVTRで見ながら、これはただ金メダルを獲得した以上の意味があるのでないかとうれしくなった。ジミー・コナーズがバックハンド両手打ちで世界一のテニスプレーヤーになって以降、日本のテニスコーチが両手打ちを認めたことを思い出す。
8月24日(火) 「万国博覧会の美術展」を見た(@東京国立博物館平成館、8月29日まで、ここ)。いまアテネで開催中のオリンピックがスポーツの祭典とすると、万博は世界の文化・技術を競うもう一つの祭典であろう。日本が世界を意識してはじめて万博に出展したのは1867年のパリ万博。このとき日本は一つの国で参加したのでなく、幕府・薩摩藩・佐賀藩がそれぞれに工芸品などを出品したというから面白い。その後明治時代になって1873年のウィーン万博ではじめて日本として参加し、西洋にジャポニズムのきっかけを作ったと云われる。今回の美術展では日本が国の威信をかけてパリ万博、ウィーン万博、シカゴ万博などに出品した工芸や美術品が多く展示されているが、それぞれの時代の意気込みやエネルギーが感じられて気持ちよかった。何より日本国に西洋諸国と比べても見劣りのしない工芸や陶芸技術、美術品が存在していたのがすばらしい。オリエンタルな雰囲気をもっていても中国のコピーでは見るべきものはない。日本オリジナルな表現を世界に認めさせることは、オリンピックの金メダルをとるのと同様に簡単なことではない。先人達の”気合い”の入った万博出品作をみていると、こちらまで創作意欲を刺激されてボヤボヤできない気分にさせられた。
8月25日(水) アテネオリンピックの野球は昨夜36%のTV視聴率のなか準決勝で日本がまたまたオーストラリアに敗れた。これ以降、メダルの勢いは衰えてしまったかに見える。少し前の話だがレスリングの浜口京子を応援する父、アニマル浜口(プロレスラー)のやりすぎとも思えるパーフォーマンスには辟易していた。ところが浜口が結局銅メダルに甘んじた後の父娘に対するインタビューでこの父を見直した。実に冷静に銅メダルを喜び、そして応援してくれた皆に感謝していた。短いインタビューの時間に親として人間としての偉大さを垣間見せたのはただ者ではない。娘の京子さんも爽やかだった。これに反して、というのは当たらないかも知れないが、野球の準決勝で敗れた後に中畑コーチが、”長嶋監督に申し訳ない・・”などと言ったのが気になった。申し訳ないとは長嶋が国民に言うべき言葉であろう。監督を辞退する自己管理も出来ず、監督なしでチームを派遣し、しかも名前だけは何が「長嶋ジャパン」だ。JOCはこんな呼び名を公認しているはずはないが、この呼び名を使ってはしゃぐマスコミはせめて4チャンネル(読売TV)だけにしてもらいたい。
8月26日(木) 自分でスポーツ(テニス)をやっていてスポーツのよさを実感することは多い。ルールのみが勝ち負けを決める。経歴も職業も、勿論、プレーの格好や人相・体形など勝負とは一切関係がない。素人スポーツではセルフジャッジとなるから微妙な判定の場合はやり直しをすることもある。スポーツの審判は実社会でのルールなき判定のことを思えばセルフジャッジでもまだ透明性はある。いまのアテネオリンピックで陸上でも水泳でも早いものが勝ちという種目は分かりやすい。また球技などルールに従った試合で競う種目も勝負は明瞭だ。けれども、体操とかシンクロ、飛び込みなど”技と美しさ”を競う競技はどうも馴染めない。これらをスポーツとして競うことがいいのだろうかと疑問に思うこともある。採点の基準は決まっているにしても、「美しさ」を競う種目はスポーツといえるのだろうか・・。こんなことをつぶやきながらも、シンクロ競技を楽しんでいる。
8月27日(金) 「私たちがコントロールできる行動は唯一自分の行動だけである(選択理論より)」。私は他人を批評ばかりして自分では何も行動しない人は好みではない。自分でもまず手か足を動かすこと、行動することを心がけているが、自分の行動でさえ的確にコントロールするのは容易ではない。他人に影響を与える行動は”何もしない方がいい”こともあるので行動の内容も問題だ。私の場合は大層な行動ではないが例えば手を動かせば大抵結果が残る。テレビをみる代わりに、とにかくも手を動かすと同じ時間内に必ずアウトプットが得られるので自分でも驚くことがある。逆に何もしないと何も出てこない・・。このところ、「今日の作品」の絵がもう一週間も更新されていないのが気になっている。はじめは三日で別の絵に替えるつもりであったのが絵のアウトプットがない。それこそ1時間でも2時間でも手を動かせば「今日の作品」は出来るだろうに、我が”行動”に絵を描くことを組み入れなければならない。「今日の作品」は行動によって得られたアウトプットのバロメーターになる。明日は是非ともこの絵を更新しよう。
8月28日(土) 「今日の作品」に「森の中で(グワッシュ)」を掲載した。「森の中で」は8月の中旬に白樺湖に行ったときに三つの渦巻状の形を描いたところで未完成のまま家に持ち帰ったものだ。直ぐに仕上げをするつもりでいたが、このような抽象は意外に完成させ難く苦心した。どうにでも出来るということは選択肢が多すぎて反って次の手がでない。特に抽象は描き始めた時点の気迫が継続している間に一気に仕上げるべきかも知れない。絵には解説は不要であるが、この絵を描き始めたのは非日常の森の中であったのでタイトルを「森の中で」とした。この絵をとにかくも完成させたとたんに、別の絵が描きたくなり、次には具象・細密画を描き始めた。台風接近で雨模様だと絵がはかどるようだ。

8月29日(日) 貝原益軒というと一般的には江戸時代の”健康書”を書いたおじいさんのイメージがあるが、まれに見るマルチタレントの大人物であったようだ。貝原益軒(1630-1714)は三代将軍徳川家光の時代に生まれ、いまでいえば、医者、儒学者、植物学者、農学者、民俗学者、教育家、旅行家・・と呼ばれる広い分野で業績を残している。また「民生日用の学」といって”実用になる学問”を志したとか、70歳で(藩を)引退した後、人に役立つ農学、植物学的な著述に専念したとか、妻の東軒を優しくいたわり長生きさせたとか、現代でもハッとさせられる逸話が多い。85歳で亡くなるまでに残した著述は実に270余巻!この益軒の有名な「養生訓」をインターネットで読むことができることを知った(ここ)。「人の身は父母を本とし天地を初とす。天地父母のめぐみをうけて生まれ、又養はれたるわが身なれば、わが私の物にあらず。天地のみたまもの、父母の残せる身なれば、つつしんでよく養ひて、そこなひやぶらず、天年を長くたもつべし。」・・こんな書き出しから始まる文章に接していると、頭がリフレッシュされて体調がよくなりそうだ。
8月30日(月) アテネオリンピックが終わった。日本は金16、銀9、銅12、合計37個のメダルを獲得する最高の成績であった。よかったよかったと喜ぶのもいいが、各国の獲得したメダル数をじっくりみるとこれまでの日本のメダル数が少なすぎたのでないかと思うところがある。極単純に考えればスポーツのずば抜けた人材は人口に比例するだろう。この点でみると日本の人口(12700万)の15%(1900万)の人口の豪州が金17、メダル合計47個と突出してすばらしい成績だ。人口比の見方であると、ドイツ(日本の65%人口)がメダル48個、フランス(日本の50%弱人口)が33個、韓国(同、40%)が30個などそろってメダルの獲得率が日本よりいい(他にイタリア、英国なども同傾向)。更に人口は日本の1.2倍のロシアがメダルは2.5倍(92個)、人口が日本の2.3倍(3億弱)のアメリカがメダルは2.8倍(108個)である。ただ人口比でみると日本の10倍(アメリカの4.4倍)もある中国だけはメダル63個という大成績もまだまだ少なく見える。10億の人口をかかえるインドが銀メダル1個とか、中国の例をみても国民の豊かさの要素が影響するから人口比だけでは無理があるだろう。それではと国民一人当たりの国民総生産(Gross Domestic Product)の比率を勘案すると、日本は豪州のGDP(一人当たり)の1.8倍、アメリカはほぼ日本並み、ドイツもフランスもGDPは日本より少ない。日本のメダル数は人口比、豊かさ比からみてどこにもこれで十分というデータはでない。勿論、ロシアとか中国など国家の意志でメダルを獲得しようする国家体制の違いもあるし、民族によるスポーツの伝統や適性の違いも大きいことは分かる。それにしても、フランスとイタリアを一緒にしたよりも多い人口を持つ日本という国は37個のメダル数では決して十分すぎることはないというのが私にとって新発見だった。
8月31日(火) 「今日の作品」に「皮むき機(水彩)」を掲載した。この皮むき機は娘のアメリカ土産。私のメカ好き、珍しもの好きを見通してか、我が家にないヘンテコ道具をプレゼントされたものだ。このリンゴ皮むき機は何と言ってもシンプルな構造が気に入った。必要な骨組み以外に駄肉が一切ない。それに下部のレバーを180度動かすと底のゴムが台を吸引して動かなくなるなど、細かいところにも結構配慮してある。それではリンゴの皮むき性能は?・・私はこれでも包丁でリンゴの皮をむくなど得意であって苦にはならない。面白がって2−3回、皮むき機を使ってみたが、何と言っても手の方が無駄なく素早くできる。つまり我が家のようにせいぜい一個や二個のリンゴの皮をむくのなら、準備や後始末の手間まで考えれば包丁で十分だ。この皮むき機は我が家ではオブジェとして居間に飾っている。今回のスケッチの対象としては絶好の素材だった。

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