これまでの「今日のコラム」(2004年 10月分)

10月1日(金) 今日から10月、神無月。秋晴れとともに心機一転新しいことに取り組みたいところだがそうもいかない。以前から期待していた陶芸作品の「噴水・第二弾」が焼き上がったが何カ所か割れが入ってしまった。粘土の板を張り合わせて形をつくる”板作り”の手法は余程注意しないと割れが入りやすい。粘土板同士の密着性も重要だが、熱による歪み(変形)を考えて板の接続形状を決めることも大切だ。言葉ではそれを云うのは簡単だが、初めて作る大きな形状の場合にはなかなか完璧にはいかない。私の場合、「噴水」を売り物にする訳ではないので、ひび割れ部分を接着剤で手当てして実用的に使うには全く問題はない。欠陥があるものほど可愛くなる心理は焼き物にも当てはまる。この噴水第二弾を何が何でもいい作品にしようと仕上げに奮戦中だ。陶芸は1300度に達する火の力で産み出される。粘土の性質の多様性と相まって、未熟な自分の思い通りにならないところが、なんとも面白い。
10月2日(土) 今日は歴史的な日となった。米国時間では10月1日夜、イチローが米大リーグで年間最多安打記録を達成した。これまでの記録が1920年の257本(ジョージ・シスラー)で84年ぶりの記録更新だ。更に84年前の野球と比べるとピッチャーの技術は現在の方が格段に優れているという。昔は豪速球とカーブ、ドロップ程度であったのが、いまはフォークボール、スクリューボールなど変化球が加わり、一般的には打率の記録も84年前よりかなり下がっている状況の中での最多安打でその偉大さは比類がない。今日のゲームで、259安打を記録。後2試合を残している。歴史的な偉業を成し遂げたイチローを思うとき、大リーグに行くことが出来たのが幸運であった。日本のプロ野球でも勿論イチローは第一人者であった。日本野球でのシーズン最多安打記録は1994年オリックスのイチローの210安打である。それにしても日本国内のマスコミの扱いは実に冷淡というか一般紙などではニュースにもならなかった。同じイチローが大リーグで活躍し始めると俄然大スター扱いになったのは周知の通り。ヒョットするとイチローの大リーグ行きを了承した当時のオリックス、仰木監督(今度の合併新球団、オリックス・バッファローズの監督に内定とか)がイチロー活躍の功労者かも知れない。
10月3日(日) 「今日の作品」に「噴水/水盤(陶芸)」を掲載した。以前、陶芸で制作した「ヘロンの噴水」(このhpでここ)が動力なしに2-3時間、噴水し続けるのに対して、最新技術を使って24時間連続稼働できる噴水を計画した。”最新技術”というのはできるだけ小さなミニチュアポンプを目立たないように取り付けること。結果的には掲載したようなそこそこの噴水付き水盤が出来上がった。陶芸の形状はミニポンプの型式を決めてからデザインした。写真でみる水盤の下部にミニポンプを埋め込んでいる。このポンプは回転式のモーターではなく、圧電素子を駆動源とした超小型ポンプだ。二枚の圧電セラミックを使ったバイモルフと呼ばれる構造だが、電圧を印加されると歪むという圧電セラミックの特性は、例えばインクジェットプリンタやエンジンの燃料噴射装置など多くのハイテク部品に応用されている。このミニポンプを噴水に使う場合、吐出圧力は十分であるが(=20kps)、容量が非常に少ないという問題があった。そのため噴水として高く、華やかに噴出すためには噴出しノズルを小さくしなければならない。結局、内径が0.2-0.3mm程度の極細銅チューブを使って、噴水の高さ450mmを達成している。写真では噴水の水の先端部分が少し見難いが、この噴水の高さ、水の散り具合が我ながらうまく出来たと、今日、雨の日曜日、いつまでもながめている。

10月4日(月) 今回、陶芸で制作した噴水(昨日のコラム&「今日の作品」参照)にはまた「シシオドシ=鹿威し」を取り付けた。前の陶芸作品「ヘロンの噴水」のシシオドシが好評だったので新噴水のために二種類のシシオドシを作ったもの。シシオドシの正式名称(?)は「そうず」という。元来は案山子の古称、ソオドが変化した呼び名のようだが、添水や僧都の文字が当てられる。竹筒の中央を支点にしておき、斜めに切った切り口を受皿とする。流れ落ちる水を受けて、傾いて水をこぼす反動で竹の反対側が石などを叩き音を発生させるという巧みな仕掛けもすばらしいが、私は日本庭園の静寂な中に”カン”とこだまする添水の音がたまらなく好きだ。私が作った添水は竹の代わりにアルミ管を使い、竹の節に相当する仕切を中央部に組み込んだものだが、この添水について色々と学ぶところがあった。今回、陶芸作品との大きさのバランス上、アルミパイプを内径5mmの非常に細長い形状の「添水」を計画した。ところが、細長いパイプの場合、傾いて水を流す時に底の方が真空になって水を落とさないように作用するので、うまく水が流れ落ちない。更に、前に制作した内径9mmのアルミパイプの場合には、徐々に傾斜した場合にはまだ水を流せるが、内径5mmの場合には表面張力も加わり一層条件は悪くなる。こうした”技術的な”問題解決の過程を誰に話すこともできないが、私は特別な感慨を持って、カチン、カン、という添水(シシオドシ)の音を聴いている。

10月5日(火) 東京は今日で三日続きの雨。犬の散歩もできないし、そろそろ太陽の顔がみたいが・・、傘をさして街を歩きながら「天気」への不平や不満は人間が如何に身勝手なことばかり云うかのシンボルだと思った。天気とはよく名付けたもので、天に神様がいて、その”気”で雨にしようか晴れにしようか考えたとする。ある人間が「晴れが欲しい」というので晴れを続けると、その内に暑いとか水が欲しいとかいいはじめ、最後には農作物が枯れてしまうと雨乞いまでする。雨を降らせたら降らせたで、今度は早くお日様が見たいとくる。人間の好き勝手な不平や不満にもかかわらず、お天道様は忍耐強く、適度の中庸を保ちながら晴雨を繰り返してくれる。東京ではこの夏、雨が少なく、植物にとっては恵みの雨、また水源にも水が貯えられるだろう・・そう思ったとたんに、激しく降り続ける冷たい雨も何かありがたい水滴に見えてきた。「雨なれば雨をあゆむ(山頭火)/秋もはやはらつく雨に月の形(芭蕉)
「今日の作品」に「噴水/水盤3(陶芸&工作)」を掲載した。シシオドシを移動型に改良している。

10月6日(水) 国立西洋美術館(東京・上野)でマチス展をみた(12月12日まで、netではここ)。私にはこれまで色々な美術館で見た覚えのあるマチスにあらためて出会うことができて懐かしさもひとしおだった。ポンピドーセンターやニースのマチス美術館など外国でみたもの以外に、日本の大原美術館やブリジストン美術館、池田美術館でみた絵画など、マチスの作品はどれも印象が強烈で一度見たら忘れられないものばかりだ。今回のマチス展では、マチスの作品を過程(プロセス)と変化(バリエーション)という視点から見直そうという企画が明瞭に示されていて面白かった。マチス自身がその製作過程(プロセス)を意識して写真で残しているし、一つの主題を多くのバリエーションで表現した作品も多い。いかにもラフにさらさらと描き上げたように見えるマチスの一枚の絵が何ヶ月も試行錯誤を繰り返しながらベストの構図と色彩が選択されているのを知ることだけで私などは勇気づけられる。あらためてマチスの成し遂げた一連の作品群をみると、マチスには従来の絵画の伝統を打ち破る革新的な意志に加えて、極めて研究熱心な一面を感じた。感性を理論で裏付けることのできる、実行力のある理論家でもあったのでないか。とにかくも、このようなマチスの作品を目の前にすると、やはり絵画というアートの可能性はまだ無限にあるのでないかとテンションが高まる。
10月7日(木) 「弘法筆を選ばず」という。勿論、これはある種の逆説的な言い方である。どんな分野でも名人、達人ほど「筆」を選ぶ。世界一流のピアニストは厳密に調律された最高のピアノを選び最高の演奏を聴かせる。バイオリニストが世界の名器にこだわるのも理由があることだ。画家にしても絵の具や筆を決して疎かにしない。絵画の場合分かりやすいが、絵筆にこだわる達人は、その上で、ただの棒やナイフを使っても他人にはできない名作を描くことができる。弘法が竹箒で書いた書ならばどんなにすばらしいだろう。英語では何と云うか:「People with real talent don't complain about their tools. 」では全然面白くない。「A bad carpenter quarrels with his tools.(下手な大工は道具に文句ばかりつける)」には私自身の経験から異論がある。大工仕事や工作仕事は道具が80%出来映えを決める。道具を選ぶのが鉄則である。・・今日から私は新しいテニスラケットを使い始めた。テニス仲間からは古道具とさんざんバカにされたラケットを10年以上愛用してきたが今度はウィルソンの最新型だ。テニスのラケットについては「筆を選ばず」の心境に達しているが、筋力低下を考えて肘(関節)に少しでも優しいラケットを選択した。これがまたいい「筆」を選んでよかったと気に入っている。
10月8日(金) 「ブログ=Blog」という言葉が目立つようになった。元来はWeblog(ウェブ日誌)からきた言葉で、日々更新される日記的なWebサイトのことだ。このコラムなどまさにブログであるが、このようなホームページの中の日誌でなく、インターネットの日誌専門に場所を提供するサービスが盛んになった。最近、マイクロソフトがBlogサービス=MSN Spacesを 始めたのに伴い、米国マイクロソフトの副社長兼マイクロソフト執行役最高技術責任者である古川享(ふるかわすすむ)氏がブログを始めたというので話題になっている(氏のブログはここ=今日の日誌までしっかりとある)。氏の肩書きを見るだけで、楽天やライブドアのオーナーとはまたスケールが違う大金持ちであろうが、その経歴がユニークだ。氏は1954年生まれの50歳。和光大学人間関係学科中退の後、アスキーに入社、1986年アスキーを退社と同時にマイクロソフトを設立。パソコン・インターネット業界の実力主義のシンボルであり、神話的な成功者である。しかもブログの文章も爽やかだ。日誌には善かれ悪しかれ人間がそのまま出てしまう。マイクロソフトの独占は気に食わないが氏の活躍には応援したい・・これはブログ効果なのだろうか。
10月9日(土) 台風22号が首都圏を直撃している。東京は朝から雨。夕方4時頃、伊豆半島に上陸した台風の接近に伴って、今、午後6時30分には東京はまさに暴風雨に曝されている。台風には緊張するが、たまには「ノー天気」もいい。語源でみると「脳天気」(もと能天気・能転気と書いたとある/新明解)。「行動が軽はずみな様子や軽薄な人をいう」。今は「のうてんき」というと侮辱的な言葉であるが本来は「天をも意のままにするかのような気持ち」でもある。日本人はとかく引っ込み思案で周囲を気にし過ぎる。昨日コラムに書いた「ブログ=ウェブ日誌」やホームページなども多少「ノー天気」気味でないと続けられたものではない。格好をつけて行動しないと一生が終わってしまうと思うようになった。世の中には、未熟な自分の作品を他人の目には触れさせない、文章など他人には見せない、人の前では絶対に楽器を演奏しないという人が結構いる。けれども、高名な画家の絵よりも無名の人の作品の方が魅力があるとか、ノーベル賞作家の文章より普通の人の書いたものに感動するとか、優しい演奏に涙するとか、特別でない行為に共感し、感激することがあるのも確かである。「のうてんきに」が云い過ぎならば、「自分の意のままに」行動したい。これができるのは生きている間だけだ。・・明日、アール(コーギー犬)を連れて台風の上陸した伊豆半島(伊豆高原)に一泊旅行に行く。台風一過、秋晴れを期待して・・。
10月11日(月) 崖崩れや家屋の倒壊など伊豆半島の各所で台風22号の残した爪痕を見せつけられながら、伊豆高原・ドールガーデンで「古田文人形創作展」にいった(案内はここ、10/31まで)。人形というのはポーズや仕草、表情そして衣装のそれぞれが統合した芸術であるように思える。絵画の中の人物像は平面(二次元)空間での表現である。その絵画でも納得のいく創作は容易ではないことを実感するのに、彫刻や人形は更に立体(三次元)の表現となる。そして人形は彫刻と比べても服装の材質や色調など極めてデリケートな要素が多い。古田文さんの創作人形は、そのような仕草・表情・衣装のバランスを見事に創り出しているだけでなく、何か静かではあるが永遠に生き続けるといった力強さを感じさせる名品揃いだった。これまで真剣に鑑賞しようという人形に出会うチャンスがなかったが、人形も絵画と同じだと思った。いいものは、いつまで見ていても飽きないし、何度見ても新しい発見がある。台風に少なからず影響を受けた今回の伊豆旅行では、人形とそして人との出会いが新鮮だった。
10月12日(火) 「今日の作品」に「MIEUへの絵はがき(ペンと色鉛筆)」を掲載した。ニューヨークにいって生活を始めて間もない4歳になる孫向けの絵はがきである。ローマ字を人間の形で表すやり方は全然珍しくはないが、はじめて自分で描いてみるとアイデイアが意外に難しい。今回のは余り深く考えずに思いつくままに描いたので恐らく同じようなパターンで描かれたものは山ほどにあるに違いない。大体、人間の発想は似たりよったりであることが多い。けれども、難しいからこそ他人がやっていない形を考えるのも面白いと思った。昔、安野光雅の「Anno's Alphabet」というアルファベット26文字を頭文字のつく物の形で見せていく絵本がアメリカ、イギリスなどで評判となり安野はこの絵本で多くの賞を受賞して世界的に認められた。私も安野光雅の絵は好きであるが、これまでは全く別世界だと思っていた。今回4文字を描いてみて、こんなイラストも頭を使って工夫するのでなるほど描いていて楽しいものだと見直した。MIEUへの絵はがきをチャンスとして色々な新実験をできるのがうれしい。

10月13日(水) 久しぶりに渋谷(東京)から京王線の電車に乗ると何かいつもと違う雰囲気を感じた。原因は直ぐに分かった。車両の内部に吊り広告はあるが両サイドに一切広告がないのだ。車両の内部全体の広告を一社に貸し出すシステムで、ある企業が車両を借り切っているのだが吊り広告だけ使い、他の広告スペースには何も掲載しなかったのだろう。車内が随分すっきりして落ち着いているし、広告できるのにあえてスペースを残している企業はどこかと改めて吊り広告の名前を見たりした。これで吊り広告もせずに、一カ所だけにでも企業名を入れてあったりすると一層その名前を覚えて寄付でもしたくなるかも知れない。この手の「広告」が他でも出てこないものだろうか。新聞の一面が真っ白で隅っこに小さく広告が入っていると余白の部分には用途が広がる。テレビのコマーシャルタイムに何もしゃべらずに画面には静止画像で小さくスポンサーの名前を入れるだけにすれば注目されるだろう。騒々しく名前を連呼するだけの選挙運動は禁止されたのに、相変わらず連呼を続ける広告の世界にはまだまだ工夫の余地があるのでないか。
10月14日(木) 代官山ヒルサイドテラスでマイケル・デュダッシュ作品展をみた(入場無料)。この中に、何点か「ジグレ」の展示もあり考えてしまった。「ジグレ」(ジクリーあるいはジークレーともいう)はフランス語のgiclee(=インクの吹き付けの意)からきた言葉で、最新の版画制作法である。版画といえば最近は木版画や銅版画は少なく、リトグラフ(石版画)とかシルクスクリーン(絹布枠張を使用した印刷)を目にすることが多いが、ジグレはこのような「版」を一切使用しない高画質デジタル印刷のことである。特殊なプリンターでキャンバスの表面にもインクの粒子を噴射して7万色以上の色をつけることができるという。これまでになく繊細な色調を再現できるといわれ、「最も原画に近い版画制作法」としてアメリカ版画を中心に普及しているそうだ。デュダッシュのジグレはそれに作者自身がポイント部分に絵の具で加筆しているとの説明だった。それぞれのジグレには普通の版画と同じように50枚作った中の何番目と書いてあったが、加筆部分など全く他と区別出来ない印刷技術であるから、1000枚でも2000枚でも印刷できると思われる。絵画もデジタル印刷の時代になると、多くの人がほとん原画と同質の絵画を部屋に飾ることができる。それにしても、CD売り上げ何百万部というのと同じスケールで「流行(はやり)絵画」が部屋に飾られるのは何か奇妙な感じではある。
10月15日(金) 陶芸で四角い大皿が焼き上がったと思ったら想像していなかった仕上がりだった。大皿と書いたけれども制作中には、それは何に使うのですかとか、素敵な陶板ですねとか云われたように、自分でもどんな用途に使うのか決めていない板であるが、吹き付けた釉薬が薄すぎたのだろう、表面の仕上がりがムラムラで完全な失敗作となってしまった。それでも板の形状そのものは歪みがなく上々の焼き上がりではある。このまま失敗作で放置するのは忍びない。この陶板を思う存分手をかけて復活させる決心をした。トラブルとか巧くいかないアクシデントは、いわば「神のプレゼント」と思うようにしている。順調でなかったから、工夫していいものが出来たとか、予想もしなかった別の幸運に出会ったとか、貴重な体験をして結果が吉となったことは数知れない。世の中すべて順調なら面白くないと思っていれば気楽だ。問題は「陶板」の再生がどうできるかである。結果が良ければ全てよし。このホームページの作品に掲載出来るのを期待して、さあ、今からやるぞ・・。
10月16日(土) この前のNHKーTV「(コメデイー)道中でござる」という劇にもでてきたが(ちなみにこの番組の脚本が毎回よくできているので感心する)、人を二種類に分類する考え方がある。犬が好きな人ー好きでない人、パソコン・インターネットが好きな人ー好きでない人、お金が好きな人ーこだわらない人、朝日新聞の好きな人ー好きでない人・・など好みでも分類出来る。また、他人を信じる人ー信じない人、神を見る人−見ない人、料理を自分で作る人−作らない人・・などなんでも二つに分けてみる。これは世の中、最低で二つの考えや価値観があることを象徴していて面白い。二つの分類は極端過ぎるというのであれば、その中間の分類を入れて三種類にすることもできる。三分類の場合、好きか嫌いかを問うと、三分の一が好き、三分の一が嫌い、三分の一がどちらでもない、というのが自然であろう。全体主義の国家ならば100%の支持となるが、全員一致は極めて歪んだ状況であることは云うまでもない。二人、三人が集まってみな意見が異なるのは不自然ではない。基本的な二種類、三種類の分類からそれぞれの人の個性や感性が表現されるのは「色」と同じだ。白と黒から灰色の色を創り出すこともあれば、三原色の組み合わせにより、12色、256色、32000色、更に、1670万色の個性がだせる。多様な色が存在出来る世の中が豊かなのだろう。
10月17日(日) 「今日の作品」に「指<MIEUへの絵はがき>」を掲載した。この絵はがきは難産だった。ある朝、寝床の中で<MIEUへの絵はがき>のテーマとして、ジャンケン(グー、チョキ、パー)を描くことを思いついた(色々なアイデイアは朝、目覚めた時に閃くことが多い)。いざ描く段階になって自分の左手をモデルにして構図を考えると、グーもチョキもパーにしても形が面白くない。それで左手を閉じたり開いたりしている内に絵のような親指を立てた形をスケッチしてみた。指(手)を描いた後、特に欧米では、指を上げたり、下げたりする仕草には意味があり、変な風に誤解されないかと心配になった。親指上ならOKマークだからいいことにして、とにかくも背景も描き完成させた。ところが、この絵は絵はがきとして4歳の幼児にだすには重過ぎる気もする。妻に渡していた絵はがきを(宛名と文章は妻の担当としている)あらためて見てみると今度は全体の配色まで気に食わなく思えてきた。そこでまた加筆して作り直したものが今回掲載した作品だ。「今日の作品」のギャラリ(ここ)には、はじめに描いた絵と最後の絵を並べて掲載している。この絵がMIEUのところに届いたときにMIEUがどんな反応をするか見てみたい。

10月18日(月) 「サウンドスケープ(音風景)」という言葉がある。landscape(景色、風景)に対して、音の世界にも環境の中に景色や風景に相当する音が存在するとして、作曲家シェーファーが提唱した造語だ。カナダの作曲家、Raymond Murray Schafer(1933生まれー)は武満徹などと共に20世紀を代表する作曲家の一人であるが環境の音に対して独自の考察をしている。マリー・シェーファーが提唱したサウンドスケープの原点は「静寂な時間と空間の回復」だという。云われるまでもなく、現代は余りに騒々しく音にあふれている。静かな環境、沈黙こそが安らぎをもたらす源であると”作曲家”が主張するところが面白い。音を聴く耳は静寂からはじまることは私もよく理解できる。小鳥のさえずり、川のせせらぎ、木の葉のざわめきに耳をかたむけると、音を聴く喜びの原点が分かるような気がする。それでは心が豊かになる音楽とは一体何なのか。マリー・シェーファーの素敵な合唱曲があるそうだが、まだ聴くチャンスに恵まれない。是非一度聴いてみたいと思っている。
10月19日(火) プロ野球ではじめてのストライキが決行された時に面白い話をきいた。昔、アメリカで医者が一斉にストライキをやったことがあった。病人にとっては生死にかかわる一大事だ。ところが、その時の統計を調べてみると、ストライキの期間中に死亡した人は減少したというデータがでた。医者が患者に薬を飲ませたり、注射をしたりしている時の方が死亡率が高かったとはなぜか、いろいろ原因を分析したけれどはっきりしなかったそうだ。医者がいない時の方が死者が減るということは非常に示唆に富んでいる。交通整理のお巡りさんがいない方が自動車はスムースに流れる、教師がいない方が生徒の独創性が発揮される、上司がいない方が仕事がはかどる・・など同類のことを探せばいくらでも事例が挙げられそうだ。自分が仕事をやめれば世界がひっくり返るように思うのは妄想であろう。何事もないように時は流れる。それを承知で自分でやるべきことをやる。このホームページで毎日のコラムがない方がアクセス数が増える・・と云われたとしても、コラムは続けるだろう。
10月20日(水) 「日本人は自分が何をしたいかではなく、相手は何をしたいのかをまず考える。言っていいことと悪いことをわきまえ、謙譲の美徳を持つ。外国人にはそんな感覚はなく、ここにすれ違いが生じる」と外国人(アジア人)が著書の中で指摘している。また日本人は普通「他人に迷惑をかけないように」子供の教育をするが、「他人には迷惑をかける」ことを前提として子供を教育する外国の話をきいた。私たちはみな周囲の人の世話になり迷惑をかけながら生活している。だから「思い切り迷惑をかけることを考えなさい」と親が注意したとたんに、子供は周囲の人たちに、これまでになく気配りをするようになったという。確かに自分は他人に迷惑をかけていない、不快を与えていないと云える人はいないだろう。本人が気がつかないだけである。社会の中で摩擦がない存在はあり得ないと認めると同時に、日本でも子供の頃から自分が何をしたいかをはっきり云えるような教育がもっと必要ではないかと思う。自分の主張があった上で「謙譲の美徳」が欲しい。「以心伝心」は最早通用しないと思った方がいい。「はじめに言葉ありき」。言葉が考えを伝える・・。
10月21日(木) 日本列島を縦断し平成になって最大の被害をもたらした台風23号は今朝ようやく太平洋上に去った。今日、東京は時々吹き返しの風を受けながら雨も残り、1日太陽を見る事なしに日が暮れた・・と思っていると、夜はくっきりとした上限の月がでている。明日は久しぶりに秋晴れだろう。**10月15日のコラムで焼き上がった陶芸品(四角い大皿)が失敗作だったので”再生”する話を書いた。「今日の作品」に掲載した「四角陶板」がその修復作品だ。釉薬が薄くまだら模様だったので全てに白の漆塗料を塗った。何の変哲もない板であり、能書きを並べても意味はないが、この陶板も自分なりには工夫をした。24cm*38.8cmの縦横比は黄金分割比(1.618)相当とし、対角線のある点(この位置も黄金分割比)を約1.7cmほどの深さにして(板厚は2.2cm)、この点と各4個の頂点を直線で結ぶように削り込んだ。狙いとしては板のへこみ部分に水を溜めるといつも水が黄金分割比の四角な境界線を描くこと。ところが、掲載した草や苔が水の中に浮かんでいる写真でも分かるように、水の境界は四角い形を成さない。傾斜が非常にわずかなところを手仕上げで削ることと、焼き物として歪みがでることが相まって直線の境界は無理であった。板の両端には二カ所の貫通穴をあけた。厚肉の部分を削って焼く時の変形を抑える意味もあったが、穴に車輪をつけたり飾りをつけたりして遊ぶことができる(陶芸コーナー参照)。この陶板の用途開発(?)はこれから・・。どんな使い道があるか頭をひねるのは楽しみだ。

10月22日(金) 「ブランド」は「有名デザイナーの制作品や銘柄(新明解)」の意で使われるが、語源は、焼き印を押す意味の"Burned"だ。新明解には「昔、罪人に押した焼き印」とある。これから自分の家畜をほかの家畜と間違えないように焼き印を押して区別したこと、さらに現在の商標や銘柄の意味になったという。ソニーの大賀典雄名誉会長(74)がソニーブランドの低下を嘆き「ソニーらしさの復活を」と活を入れたと話題になっている。ソニーといえば私も前の出井伸之さんのホームページなどにも影響されていい印象を持っているが、確かに今、日立、東芝、松下などと比べてさすがソニーと思えるものがない。ソニーブランドには他社にはない独特のワクワク感があふれていた。ソニー製品は少々高いけれども是非手に入れたい・・そんなブランド復活を陰ながら応援しよう。
今から二泊の予定で信州の友人のところにでかける。台風一過の紅葉はどうだろうか。

10月24日(日) 昨日と今日、友人夫妻の案内で長野県の秋を楽しんだ。霧ヶ峰・八島湿原、蓼科湖畔、奥蓼科の横谷渓谷、八ヶ岳クラブ(これは山梨県)など、晴天に恵まれて、どこでも紅葉がすばらしかった。昨日の夕方には、原村の洒落たログハウス風のレストランで食事をした。生演奏のジャズやバラードなどが一段落した頃、しばらく軽い地震が続いた。揺れる時間が長いので、どこかで大きな地震かもね・・などと話していたら、これが新潟の大地震だった。この週末、私たちが信州でなく新潟を旅行していた可能性もないとは云えない。鮮やかな紅葉を愛でる一方で、紅葉に感激できることの幸運を思う。非日常を楽しむこと自体がいわば神の加護の下にある。旅行で充電されたエネルギーもまた貴重で有難いことと思えてくる。
10月25日(月) 昨夜のテレビで血液型の相性をとりあげた番組があった。それによると、妻と私の相性は、A−Bという最悪の組み合わせになるそうだ。バラエテイー番組なので内容を真面目にとらえることはないが、最悪でもこんな程度か。ベストの組み合わせでも離婚することもあるだろう。他人のことを批評するのではなく、自分で創造的なことに取り組んでいる知人が私と同じB型の血液型であることが分かり、やっぱりそうか・・と納得したことが最近何度も続いたので、人の血液型に関心を持っていた。B型は自分で興味があることには徹底して集中するがマイペースで他人のことは余り気にしないと云われる。私は確かに人はそれぞれに性癖があり、それに応じた適性があるけれども、血液型で分類されるほど単純でもないと思っている。血液型が性癖に影響を及ぼしている要素が30%あるとしても、他の環境因子が30%、本人の学習因子(鍛錬、努力など)が30%とか複合的なものであろう。相性についても同質の組み合わせがいいとは限らない。自分と違う性質に触れた方が人の幅が広くなる。・・これに続いて「価値観の相性は必要であるが、血液型の相性など気にすることはない」と書こうとしたら妻がそんなこと誰でもそう思っているわよ・・という。その通りだ。血液型遊びをムキになって反論するのもB型のせいかな??
10月26日(火) 「すべてのインテリは、東芝扇風機のプロペラのようだ。まわっているけど、前進しない」。寺山修司の言葉であるが、何とも懐かしい思いがする。そういえば今は「インテリ」という言葉を目にしなくなった。インテリを揶揄するほどに特別視をすることもない。「東芝扇風機」も当時は名誉ある使われ方をしたものだ。寺山修司は1983年に47歳で亡くなっているので、今生きていたとしても、まだ68歳である(青森県三沢市に寺山修司記念館がある=ここ、関連net=ここ)。もし彼がいまも生きていたらボソボソした東北なまりで何を語るだろう。同じことを、三島由紀夫についても思う。三島が衝撃的な割腹自殺を果たしたのは、1970年、45歳の時、生きていれば79歳だ。歴史を「もし」では語れないが、もし二人が生きていれば文学、演劇、詩歌の分野がもっと活気づいているかも知れない。「どこでもいいから遠くへ行きたい。遠くへ行けるのは、天才だけだ」と云ったのは寺山だが、二人とも余りに早く遠くへ行き過ぎた。「一粒の向日葵の種子まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき(寺山歌集)」。現代においても荒野に新たな種子を蒔く勢いが欲しい。
10月27日(水) 私の周囲を見ていて日本人にオリジナリテイー(独創性)の優れた人が大勢いるのに感心する。一昔前、日本人は物真似民族で西洋で考えたものを真似てよりよいものを作るのが上手なだけと云われた。いま考えると、自虐的なマスメデイアがでたらめに決めつけたように見える。明治初期からの時代はまさに文明開化であり、西洋文明を一挙に取り込むために優れた技術や文化を学び模倣するのは当然の手段であった。また、その過程で個々人のベクトルを同じ方向に合わせて総合力を発揮するように個性よりも団結が重視されたのも理解出来る。いま世界有数の経済力をつけた日本では、むしろ多くの可能性を模索する意味から多様な個性が求められるし、本来の独創を活かすチャンスが訪れている。ただ、独創力を考えるとき、確かに日本人はすばらしいが、同時に、本質的な独創の才は、他の東南アジアやアフリカの人など、どこの国の人も同じだろうと思う。世界中の独特な文化をみると、あらゆる地域で独創にあふれている。つまり人類とはオリジナリテイと共に生き残っているのだ。自分にも独創のゆとりと希有なチャンスを与えられることにあらためて気がつかされる。
10月28日(木) 「今日の作品」欄に「四角陶板/草を生ける」の写真を掲載した。陶芸作品は変わりがないが、いわば応用様式を「作品」と呼ぶことにすれば毎日作品の入れ替えができるなあと安易なことを考える。前に「四角陶板」は用途開発中と書いたが「草を生ける」水盤のような使い方ができそうだ。今回は、まず東急ハンズに行って直径2mmの「自遊自在」という名のカラーワイヤーを買ってきた。写真の分はメタリック調の色ワイヤーを使ったが手で簡単に自由自在に曲げることができるので、縦に長い草をサポートするために適当なワイヤーの台を形作っている。ワイヤーのサポートは意外に気にならないし、ワイヤーの曲げ自体が一種の模様にもなる。写真では水の境界線が見えづらいが、水上の「生け草」というところだ。東京が紅葉のシーズンを迎えれば色づいた葉を浮かべることもできる。箱庭や盆栽と同じように小さなスペースの中に小宇宙をみるのは日本人の特性かもしれないが、陶板の上のささやかな草ぐさが舞台に立つ名優のように見えるから面白い。

10月29日(金) パソコンやワープロばかり使っていると、本当に字が書けなくなる。時々、私は「挨拶」という字を書くことができるかチェックする。「挨拶」はよく使う割に難しい字であるが、語源は辞書によると「もと、禅問答におけるやりとりを指した(新明解)」とある。「挨」は推す、「拶」は迫る、と同じような意味で、禅問答の際に相手の深さを計るやりとりを「一挨一拶」といって言葉の押し合いをしたところからきているという。問答から言葉のやりとり、そして「あいさつ」ができたとなると、「あいさつ」にも何か緊迫感が漂う。「あいさつ」の話題を取り上げたのは、昨夜、8時過ぎにアール(コーギー犬)を散歩に連れて行ったとき、外人(西洋人)のおばさんから「コンバンは(日本語)」と挨拶されたことによる。早朝にも犬の散歩に行くが、犬を連れた人や路地を掃除している人と「朝のあいさつ」をすることはよくある。けれども、不思議なことに夜は知り合いでなければ挨拶をすることはない。昨晩はいつも通るデンマーク大使館の前で外人が二人立ち話をしながらアールのことを見ていたようだ。すれ違う時に私と目が合うと、ニコッとして「コンバンは」。この一言に「可愛い犬ですね、元気なコーギーですね、気持ちのいい夜ですね・・」など全てが含まれている。残念ながら日本人には(私には)できない切れ味だった。禅問答でいえば完全に一本とられた、爽やかな挨拶だった。
10月30日(土) 新潟中越地震の被災地ではマイカーの中で避難生活をする人も多く、長時間同じ姿勢を取ることにより「エコノミークラス症候群」を発症し死亡した人までいることが報じられている。痛ましい事態だが、この「エコノミークラス症候群」という病名が報道機関でまかり通っているのは何とかならないものだろうか。私など飛行機に乗るとき専らエコノミークラスの人間は、この病名にはいつもファーストクラスにしか乗らない医者が付けた名前に違いないとひがみ心を起こす。長時間座り続けたり、同じ姿勢を続けると、血管が圧迫されて血液の循環が悪くなり太ももの奥の方の静脈に血栓が出来て、この血栓が肺動脈にとび「肺閉塞症」を起こす症状は、エコノミークラスの飛行機の乗客に限らず、ビジネスクラス、ファーストクラス、あるいは鉄道やバスなどでも同じなので「旅行症候群」あるいは「旅行者血栓症」ともいうようだ。更に、旅行者に限らず、最近、この症状は、長時間同じ姿勢でパソコン画面を見ながら仕事をするパソコンユーザーにも症例があることが指摘されている。この場合は「旅行」の名前がなくなり「深部静脈血栓症」と呼ばれる。こうなると他人事でなくデスクワークに携わる全ての人は「血栓症」対策を講じなければならない。「エコノミークラス症候群」の紛らわしい名前は無視して、いまパソコンのキーボードを打ちながら、足の指を床で折り曲げてみたり、脚を1Mほど(行儀悪く)持ち上げてみたり、早速に血栓症対策を実践し始めている。
10月31日(日) 前から楽しみにしていた「佐野ぬい展」を見に行った(@東京・損保ジャパン東郷青児美術館、10/30-12/5まで、ここ参照<絵の概要もみられる>)。損保ジャパン美術館(前の安田火災美術館)は東京・新宿の高層ビル街の一角、損保ジャパンビルの42階にあるので、この美術館に行った時には、入り口で眼下に広がる大東京の街並をしばし満喫できるのも楽しみだ。それに、常設の三点の絵、ゴッホ(ひまわり)、セザンヌ(りんご)、ゴーギャンを必ずみることができるのもうれしい。さて、佐野ぬいはゴッホやセザンヌとは違った抽象画の世界で独自の美を見せてくれた。私は現代日本の抽象画家では佐野ぬいの絵が一番といっていいほど好きであるが、これほどまとまった作品を見るのは初めてだった。今回、ぬいさんが1932年生まれとも知った。展覧会のサブタイトルに「青の構図」とあるように、佐野ぬいの抽象画には青を基調とした何とも色の組み合わせがシャープで鮮やかな世界が展開する。見ているだけで雑念がなくなり汚いこと苦しいことなどを忘れてしまう・・そんな絵ばかりだ。絵のタイトルも面白く、好きだった絵のタイトルをいくつか記載しよう。「ブルーノートの断面」、「二つの青のシネマ」、「ル・ソワール・回想」など。
「今日の作品」に「ハローウィンによせて(Mieuへの絵手紙)」を掲載した。今日、10月31日にはハローウィンで仮装した子供達が家々をまわって歩くと云う。Mieuはどんなハローウィンを過ごしているだろう・・。

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