これまでの「今日のコラム」(2004年 11月分)

11月1日(月) 今日から霜月、11月。この日を境に自動車を運転中に携帯電話を使用すると罰則が適応される(道交法改正)。これは歓迎。私は自転車に乗って携帯電話をしている人にヒヤッとさせられることも多いが、こちらはどうなるのだろう。また、この日、20年ぶりに一万円、五千円、千円のお札が一新され、新札が発行された。一万円札は福沢諭吉(人物は変わらず)、5千円札は樋口一葉、千円札は野口英世。まだ新札にはお目にかからないが、私には新札に採用されたという偽造防止技術に興味がある。(1)ホログラム(2)潜像パール模様(3)すき入れバーパターン、の全てが採用されているお札は世界に例がないという。(1)と(3)はユーロ札で既に採用済みとのことだが、とにかく早く新札を見てみたい。ところで野口英世がお札に登場したことに関して「初の理科系研究者」であり、「科学技術立国の時代を象徴する」などと書いた新聞があったが、「科学技術立国」とは少々おこがましい。以前、このコラムで書いたことがあるが、お隣の中国では(有人人工衛星も打ち上げている)政治家の指導者、胡錦濤、温家宝、呉邦国などほとんどが理工系出身である(2004-6-2コラム)。日本では理工系出身者の政策への関与は少ない。野口英世がはじめて理科系でお札になったのは一面「科学軽視の歴史の象徴」ともみえる。平賀源内とか前野良沢がそろってお札になっていれば話は違うかも知れないが。ともあれ、11月1日、紅茶の日に合わせて今晩は紅茶を飲もう・・。
11月2日(火) 午後からの晴れ間につられて東京・上野の日展にいった。日展に出かけると見た後にいつも考えさせられることが多い。それは感動したとか、刺激を受けたとか、エネルギーを得た、などの種類とは異なった、「現代の美術とはなんだろう」といった問題意識を呼び起こさせられる。日展は、明治時代の文部省美術展覧会(文展)からはじまり、帝展、日展に至った経緯にみるように、権威と伝統の根城である。私の好みからいうと権威と伝統は正反対にあり、また私はミニチュアICが好きだとすれば、相手は巨艦指向。これはもう感想を云々する意味もない。それでも、日本画、洋画、書、工芸、彫刻の全ての部門、2000点以上をとにかくも見て回った。立派な工芸の数々をみながら、好きなものをもらえるとしたらどれにするか選ぼうとしたら、ついには一つも見つからなかった。彫刻ではいまだに裸婦像や男性裸体像を作る人が大勢いるのには驚くばかり。どうか公共の場所には飾らないで欲しいと思う。絵の分野では自分の教訓になるところも多かった。幅が3m−4mもある巨大な絵は(10m以上)遠くに離れてみるスペースがなければ描けないのではないか。構図やバランスは近い距離では見切れない。私ならデジカメで写真を撮って一度パソコン画面で全体の構図やバランスを見直しするかな・・。油絵の中に周囲の絵よりも一段と小さい版画調の絵が目についた。ジュデイオング(歌手)の作品だった。こういう一服の清涼剤というべき作品にいくつか出会えたのも確かではある。日展(@東京都美術館にて)は本日初日、11月24日まで。
11月3日(水) プロ野球新球団は楽天で決着した。プロ野球の歴史では、球団の買収による変遷は多いが新球団が誕生したのは50年ぶりだという。今回の球団への参入騒ぎは終わってみれば、三方(あるいは四方)、目出たしめでたしであろう。まず、楽天は文句なしに新事業参入でめでたい。プロ野球界はこれまでになく注目され、活性化したように見えてこれもめでたい。選に漏れたライブドアは大宣伝効果があり間違いなくめでたい。この騒動の前にどれだけの人がライブドアの名前を知っていたか。コマーシャル代で換算すればライブドアは十分すぎるほど大儲けして笑いが止まらないだろう。それに加えて東北地方もまた新生「東北楽天ゴールデンイーグルス」で大いに元気になってめでたい。プロ野球の再生には楽天やソフトバンクの経営者のような若手が不可欠だろう。アイデイアもなし、実行力もなしの球団責任者には「新庄」がお手本になる。日本ハム新庄剛志は新潟県中越地震の被災地への援助活動を実行中だ。自ら数百万円規模の義援金を出すほか、東京と札幌で新庄単独の写真展を開催して来場者に地震被災者への募金を呼びかける。合計一千万円の寄付が目標。プロ野球はこうした人間が選手でいる限り繁栄するだろう。
11月4日(木) 「秋風や眼中のもの皆俳句(虚子/明36-ホトトギス)」。高浜虚子のこの俳句は絵のテーマを模索するときに”そうか”とヒントを与えてくれる。先日、日展を見に行ったときにも、同時代の人々が何を描くかのテーマ探しに悪戦苦闘している雰囲気を感じた。中では、無理をせずに「眼中にあるもの皆絵画」といった自然体で描かれたものが私には一番受け入れやすかった。俳句は元来絵画と非常に共通点が多い。200年前の流儀を崩さぬものから抽象画のように季語や型式にこだわらない流派もある。高浜虚子(1874/明7−1959/昭34)は正岡子規(1867-1902)の弟子として雑誌「ホトトギス」を引き継ぎ、子規が35歳で早逝した後、「ホトトギス」を舞台に有名になり、俳壇の大御所として85歳の天寿を全うした。友人だった碧梧桐の新傾向俳句に反対し、伝統を守る守旧派となったが、若い頃は芭蕉批判で世に出た子規に兄事した俳句の改革者でもあった。老人の大御所となると、エライ人の醜さが露呈したりして改革者の魅力は失われたようだが、29歳で詠んだ冒頭の句には若々しい気負いと輝きが感じられる。「桐一葉日当たりながら落ちにけり(虚子)」
11月5日(金) 自分の知っていること、体験したことは、極めて狭い範囲でしかないとつくづく思うことがある。好奇心は持っていてもセンサーにキャッチされるものは限られている。今日は、「草盆栽」の世界を知った。近所で開催されている「草もの盆栽展/草景花(東京・代官山ヒルサイドテラスにて、本日まで)」に立ち寄ったのであるが、フラットな皿の上に山野草が楚々として小宇宙を形作っているのは、これまでに見たことのない風情だった。後で苔玉をベースにした草盆栽は一時ブームになるほどだったと教えられたが、私は実物をみる機会がなかった。「草もの盆栽展」の展示品にはどれも研ぎすまされたような感性が溢れていたが、私は直感的にこれは前に制作した陶芸作品「四角陶板」が土台に使えるなと思った。「四角陶板」(陶芸コーナー=ここ、参照)は「草を生ける」として「生け草」用途を考えたが(10/28コラム参照)、草盆栽のことは全く知らなかった。「四角陶板」の上に、トダシバ、キシュウオギ、リンドウ、フジバカマを寄せ植えした草盆栽(展示品)を想像するだけでワクワクしてしまう。
11月6日(土) 「今日の作品」に「寄せ植え用コンテナー(工作)=ここ」を掲載した。久々の工作作品である。自慢すると、このコンテナーは全て有り合わせの材料で2時間ほどで作り上げた。底板や周囲の板、丸太、塗料に至るまで新たに材料を購入したものは一切ない。逆に見れば、いかに日頃”過剰在庫”をかかえているかを露呈したことにもなる。妻が「寄せ植え」は単独で植えるよりも強く育つ、それも少し葉が触れ合う程度がよいという話を聞いてきて、寄せ植えをやってみることにした。そのためのコンテナーを自作したのであるが、「寄せ植え理論」はとてもよく理解出来る。私が子供の頃には兄弟姉妹間でおやつ一つ手に入れるにも熾烈な生存競争があった。まさに寄せ植え状態で成長した。コンテナーを完成させてから(丸太の中央部の下に隙間を設けて取手となるように細かい工夫もした)、小さなゴールドグレストウィルマ(コニファー)、ダステーミラー(シロタエギク)、菊を新たに購入し、鉢植えで持っていた蔦や唐辛子を加えて寄せ植えをしたのが掲載した写真だ。今日は寄せ植えをした後、親戚の家に行き庭仕事を手伝った。庭の土に生えている草木をいじっていると自由になる庭が羨ましくなった、・・が思い直した。我が家では寄せ植えを箱庭として楽しむことができる。


11月7日(日) 9月の中旬から娘が孫娘を連れて夫のいるニューヨークに合流して新生活を始めた。最近、少し落ち着いてきたのか、メールに添付された家族の写真などを受け取るようになった。セントラルパークの直ぐ側に住んでいるが、公園を散歩したり、メトロポリタン美術館の入り口の階段に座って休んだりしている写真を見ていると、随分と平和にみえる。ハローウィンで夜の街を歩いている孫娘も楽しそうだった。現にニューヨークという街の治安は以前と比べて格段によくなっているようだ。それは三年前の911同時多発テロ以降、顕著に変わった一つと云われる。私が知っているニューヨークは、地下鉄は落書きだらけ、夜遅くは決して一人で歩いては駄目、○○地区には近づくな・・と、とにかく治安の悪いことで有名だった。勿論、今は昔には考えもしなかった”テロ”という脅威が常につきまとうことはあるが、通常の犯罪は激減したようだ。悲劇をそのままに終わらせないのが人間の知恵。地震や台風の悲劇をどんな風にプラスサイドに転化することができるだろうか。ニューヨークの平穏な写真をみていて、ふと、そんなことを考えた。
11月8日(月) 千葉・四街道(旭が丘)の「ギャラリー玄」で開催されている「古田文 創作人形展」(本日より11/12まで)にいった。古田文さんの人形をみたのは今回で三度目となる。先月10月11日の伊豆高原(コラム参照)と、去年(?)の東急本店(東京)の展示会、それと今回、それぞれに思いはあるが、文さんの人形は何度見ても新しい発見があるので楽しい。今日は特に人形の顔をじっくりとみた。目は、ほとんどは伏し目がちであったり、陶酔しているような目であったり、ニコニコして細目を明けていたりして表情と一体になっている。その表情、顔の形が見る位置を少し変えると微妙に変化する。生きている人以上の表情をしているなあ・・と見ているうちに、突如として私は人の顔を人形ほどに見つめたことがないと気がついた。私は生身の人の顔を絵で描くことはなかった(10年前に女性の顔をよく描いたが=ここ=皆写真のスケッチだ)。男であるから(?)自分の顔を鏡で細かく見ることもない。花の絵を描くと花の詳細の構造を初めて理解する。人の顔形や表情を微妙な角度を変えて観察したり写し取ることを一度もやっていないことは、これまで人の顔を理解したことがないと人形が教えてくれた。自分が描き、創るものは余りに人の表情と離れていた・・と、これは一つのヒントとなった。実は、ギャラリー玄には私の「ヘロンの噴水」(陶芸コーナー参照)を展示してもらっている。時に噴水の説明をしながら、人形以外にも多くの展示品から新たなインスピレーションを得られたのがうれしい。
11月9日(火) 久しぶりに、ある会社の会議室で打ち合わせをした。以前は日常であった、受付で名前を書くとか、名刺の受領など、一つ一つの行動に新鮮さを感じる。何より相手が個人のクレーム話を素直に応対してくれたのが気持ちよかった。技術的なデイスカッションも前向きに出来たし、話の後が爽やかであるのは、相手がメーカーであるためと思える。メーカーはモノツクリの立場で、ある種、芸術家や創作家と相通じるところがある。言葉でのごまかしは利かない。できたモノが勝負の世界だ。厳しいが故に爽やかなのだろう。この件については、私の作品が完結した段階でまた書いてみたい。
1989年の「ベルリンの壁崩壊」から、今日、9日で15年を迎える。「歴史の風化」というが、15周年のことを取り上げたのは毎日新聞だけである。ソ連邦崩壊とベルリンの壁崩壊は歴史の奇跡だと思うのだが、ジャーナリズムや学者はこの奇跡の分析には熱心でないようだ。北朝鮮が将来どうなるのか、未来を予測する記事にも余りお目にかからない。結果を見ての評論と理屈だけ・・というのは「モノツクリ」と対極にある。

11月10日(水) 最近のNHK-TVで「国語力強化による教育効果向上」の特集を続けている。私は日頃子供と接する機会はないが、妻はいつも今の子供は言葉によるコミュニケーションが訓練されていないと危機感を抱いていたようだ。国語は何もしなくて身に付くのでなく、国語教育というより日本語教育(英語やフランス語と同じように)をするべきだと何度も聞かされた。NHKの番組では、話し言葉や文章を書く訓練を続けていると国語の学力が向上するだけでなく、社会、理科、数学など全ての学力がアップした事例を紹介していた。それに子供同士がコミュニケーションを頻繁に行うと”いじめ”などもなくなるという。「国語力強化」とは難しい漢字を覚えるとか名文を綴るといったレベルでなく「日本語力復活」であろう。ところで、自分の意志を正しく相手に伝える、相手の言い分を理解する・・こんな簡単な「日本語」であっても実は大人でもきちんとやるのは難しい。私は以心伝心を過信しないように自分には言い聞かせるが、真意を伝えることほど難しいことはない。コミュニケーションを巧くすることは人間同士の永遠の課題だろう。「始めに言葉ありき(=新約聖書/ヨハネによる福音書、第一章)」。やはり、言葉が全ての基本だ。
「今日の作品」に「アールは元気です<MIEUへの絵手紙>」を掲載した。アール(コーギー犬)はMIEUが我が家に姿を見せると常に自分に関心を引きつけようとライバル心旺盛だったが、MIEUはアールが大好きだった。

11月11日(木) 先日「明和電機ナンセンスマシーン展」をみた(@東京・西新宿、オペラシテイータワー4Fにて開催中、12月26日まで、net紹介はここまたはここ)。「魚型電動ハープ=頭部が回転しヒレが閉じて胴体の弦を弾くハープ」とか、「パチモク=指でパッチンとやると電磁石が作動して背中に装着した木魚を鳴らす楽器」とか、「タコニワ=蛸足のような形状のノックする装置で、水槽内を泳ぐ魚がレーザーを遮るとノック音がでる」など”全く役に立たない機械”の大集合と謳っている。明和電機の製品(作品をこう呼ぶ)は前にテレビで見たことがあるが、総集編というべき今回の展示会は、私の好みとも合致して楽しかった。エレクトロニクス技術を駆使する訳でもなく、コンピュータオモチャでもないマシーンは自分でも直ぐに出来そうな親しみを覚えた。明和電機の土佐”社長”(こう呼ぶ)は「ナンセンス」とは「非常識」でなく「超常識」だと云っている。ナンセンスに徹した作品は余程の想像力、創造性がなければできない。伝統と常識の中からはナンセンスは産まれない。「ナンセンスマシーン」はまさに創造性豊かな作品群であり、やや大袈裟に云えば、日本文化のレベルの高さを示すものでないか。
11月12日(金) 購入して二年余のキッチン扉の板が膨らんではがれてきたのでクレームをつけるとサービスの人が点検に訪れた。交換するように報告をだします・・といいながら、携帯電話をだして現場の写真を撮影して帰っていった。携帯の写真は今やお遊びだけではなく、仕事の必需品となっている。現場仕事のプロセスを記録するために「写真」は以前から重要な意味があった。例えば、コンクリートの中に鉄筋がきちんと入っているかなど、出来上がったものを外観検査しても確認できないものについては、途中の工程を写真で残す。それも後でメイキング(誤摩化して作り上げること)をしないように、必ず日付を写真の中に入れる。自動で日時が入るデジカメは証拠を記録する画期的な道具となったが、いまは、常時持ち歩く携帯電話で用が足りる! 日本の携帯電話の契約数は全体で約8400万台。幼児から老人までを含めて国民普及率は68.5%。こんな数字を聞くと、ほとんど飽和状態まで普及した携帯電話だが、これからは写真機能のように電話とは違う機能も持った「携帯道具」として、ますます進化を果たすだろう。
11月13日(土) 自分のことを棚に上げて他を批判をするのは最も忌避したいと思いつつ、書かなければならない。今日、11月13日の天声人語(朝日コラム)を読んで気が沈んだ(13日中はここ、14日以降はここ)。最後に美しく結んで曰く:「人を導く言葉もあれば、迷わせ、惑わす言葉もある」。はじめは、この言葉は「迷わせ、惑わす」自分のことをパロデイでいっているのかと思ったが、どうも天声人語さんは真面目に自らは「導く言葉」の主と思っている節がある。その前には曰く:「言葉をもてあそぶ詭弁学派を、「魂の糧食」を切り売りしていると批判したソクラテスを引きたくなる」。何のことはない、自らをソクラテス並みと自賛して論評している。天声人語は何百万人もの人が読み、モデルとなるコラムである。いまや天声人語/朝日というだけで、権威のシンボルとしての言葉、絶大なる権力を持った言葉となるのだ。私は、インターネットでは毎日、天声人語の他に、産経抄、編集手帳(読売)、余録(毎日)、春秋(日経)などのコラムに目を通すが、朝のコラムを読んで元気づけられるのはいいコラムと思うことにしている。どうか、天声人語さんには「人を導く言葉」でなくていいから、「人を不愉快にしない言葉」をお願いしたい。
11月14日(日) はじめて風船を買いに行った。子供の頃にも自分でお金をだして風船を買った覚えはないし、親としても私が子供に風船を買い与えた記憶はない。渋谷の東急ハンズにいつものように自転車でいき、店内案内の人に聞くと、風船はパーテイー用品売り場で扱っていますと教えてくれた。そこで私はこれまでの風船の概念を一変させられた。多彩な種類、サイズ別、形状別の分類・・そして輸入品もある。最近、風船アートというか、細長い風船を基にして自在に形状を作るやり方は時々目にすることはあったが、これほど多くの種類の風船材料があるとは知らなかった。勿論、私が購入しようとした目的の風船材料もぴったりのものを見つけることが出来た。私の目的は風船を陶芸作品を制作する時に「中子」として使用することである。少し前に、U字型の花器を試作した。粘土で細長い円筒を作り、それをUの字に曲げて連通管の形状をした花器を考えたのだが、曲げてしばらくすると粘土は柔らかいので下部が凹んでしまう。それはそれでもいいけれども、凹まないようにするには、筒状の風船を中に入れて曲げ、粘土が乾いた後で風船を破ればいいと思いついたのだ。陶芸教室でそのことを先生に披露すると、当たり前のテクニックとして風船を使うとのこと。自分でグッドアイデイアと思っていたら、誰も考えることは同じと分かっていささかガッカリした。けれども、これから風船中子の陶芸作品をいくつか作ってみようと張り切っている。
11月15日(月) 朝早く目が覚めたので、6時前にアール(コーギー犬)を連れて散歩にでた。薄暗い中、今日はいつもの散歩コースではなく新しい散歩道を開拓するつもりで、目黒川に沿って中目黒から目黒方面に向かって歩く。このコースは春には桜並木の名所であり、いまの季節も桜の紅葉が美しい。目黒川の両岸は自動車が通らない散歩コースが延々と五反田まで続いているので、いつの日か目黒川に沿って行けるところまで歩いてみたいと思っている。目黒川自体は更に品川から運河を経て東京湾に注ぐ。今日のところは、目黒駅の側の権野助坂までいき、Uターンして川の反対岸を通って帰ってきた。家に着いたとたんに雨が降りはじめ、直ぐに本降り。・・こういう日は「運」がいい。それに目覚めがいいということは、やりたいことの閃きがあった時でもある。勢いに乗って本日の「仕事」は大きな進展があった。けれども、その成果が目に見えるまでには時間がかかりそうだ。一ヶ月後を楽しみにしていよう。
11月16日(火) 日本のテレビ番組「トリビアの泉」がアメリカのケーブルテレビチャンネルに英語吹き替えで放映されることが決まり話題になっている。来年には日本ネタでなくアメリカオリジナルの「トリビア」も計画されているという。「トリビアの泉」(フジテレビ系で水曜pm9:00から)は雑学というか無駄知識というか、どうでもいいけれども「へえー」と思わせる知識を品評する番組だ。trivia(=ささいなこと、つまらないこと)と、イタリアの観光名所「トレビの泉」をもじった番組名になっている。例えば、「昔話『金太郎』を正確に話せる日本人はおよそ100人に1人」とか、「童話ピーター・パンでピーター・パンの仲間に子供しかいないのはピーター・パンが成長した子供を殺しているから」、「オーケストラのバイオリンとシンバルは同じギャラ」など、それがどうした・・という内容のオンパレード(古い表現!)だ。それでも、人は役に立つことだけに関心がある訳ではないことが番組の人気から証明されている。「役に立つ」とは何だろう。お金儲けになる、地位や名誉になる、利益になる、自慢になる・・か。役には立たなくてもトリビアは心の余裕となる、無益の益というものだろう。
11月17日(水) 午後、友人の展覧会を見にいった。久しぶりに銀座(東京)四丁目から一丁目を経て京橋の画廊まで、穏やかな秋晴れの下をのんびりウオーキングしながら「丁」の字も面白いなと思った。京橋界隈には数えきれないほど多くの画廊が立ち並んでいる。友人の展覧会に続いて2−3の画廊に寄っている内に、無性に自分でも絵を描きたくなった。所用もあったが、ゆっくりとは出来ない気分になって帰路はせかされたように急ぎ足となった。・・自分でやることを済ませると少し落ち着いたが、昼間のことを思い出して、今日のコラムは「丁」で遊ぶことにした。四丁目の「丁」は市街地の区分だが、尺貫法では丁(町)は長さの単位にもなる。一丁(町)=60間=約109m(36町=1里)。「丁」は豆腐の単位。それから「出前一丁」「天丼一丁」もある。ピストル一丁(挺)、包丁一丁(挺)。「重」の意味で「丁」は「二および二で整除される数。偶数」(広辞苑)ともある。采の目で「丁か半か」と問えば、偶数(丁)か奇数(半)か。丁度時間となりました・・。さて「丁度」とはどこからきたのか、わからな〜い。
11月18日(木) 「今日の作品」に「陶芸/噴水用コードデコレーション」を記載した。作品と云うには多少おこがましいが前に陶芸のコーナー(ここ)で「噴水/水盤」として紹介した噴水のリニューアル用コードを掲載したものだ。この噴水はハイテクのミニチュアポンプを目立たないように装備して24時間卓上の水盤上に噴水が出続ける。ところがしばらく使っているうちに噴水が出なくなった。どうしても回復しないのでポンプのメーカーに相談して調べてもらった。原因は結局、吸入側のバルブに犬の毛や細かいゴミが詰まっていたことと判明したがメーカーは無償で修理・清掃してくれた(メーカーには感謝:日東工器製/扱いはハギテック)。こちらとしては不具合の原因が分かったので対策がたてられる。水を吸い込む入り口にゴミをとるためのステンレス製フィルタ(100メッシュ)を取り付けた(陶芸コーナーにフィルタ写真も掲載)。機械はその長所・欠点を理解して対応すれば優れた特性を最大限引き出すことができる(人間も同じだ!)。トラブルがあったからこそ、構造がよく分かり、このミニュチュアポンプと噴水に一層愛着が湧いてきた。ところで、今日の作品の「コードデコレーション」。本来はコード付きの100V電源ポンプであることを見せたくないのであるが、コードが見えることも想定し開き直って特別の飾りをつけたものだ。差し込み部分は人形らしく(?)した(アップを陶芸コーナーに掲載)。こんな遊びも、また噴水の裏面の仕掛けをみせること(陶芸コーナーに新掲載)も、ゴミのつまりがなければしなかっただろう。ミスや失敗があるところに発展がある!

11月19日(金) 北米肥満学会で「睡眠を十分取ること」と「犬を飼うこと」が肥満防止に効果があることが報告されたと今夕(11/19,17:16)のCNNニュースが伝えている。睡眠中はカロリーの消費量は基礎代謝だけであり、長く寝ていると太ると思われがちだが、一つは起きていると食べる機会が増えるのでカロリー消費以上にカロリーを摂取する。また睡眠不足であると、食欲を抑えるレプチンの血中濃度が低下し、一方、食欲を促進するグレリンの濃度は高くなるなど、食欲調整機能が狂ってくるために太ると説明されている。また、「ダイエットをするなら犬と一緒がいい」という研究は、毎日犬と一緒に楽しく20分以上散歩すると、散歩しない人より減量に成功する率が高いというものだ。ニュース(米研究チームによる”専門家のアドバイス”と報道)となって諸外国まで報道されているけれども、考えてみると従来の常識そのものである。「睡眠」とは関係なく、「余計に食べ過ぎないこと」、それと「犬」は関係なく、「毎日適度な散歩(運動)を継続すること」・・内容はそれだけだ。私はダイエット等必要はないが、「睡眠」と「犬」の項目だけは実行しているので、タイトルにつられて、このニュース、詳細まで読んでしまった。
11月20日(土) いまの子供達が食前に「いただきます」をきちんと云うように躾けられているのかどうか、よくは知らない。けれども日本語として「いただきます」、「ごちそうさま」はいつまでも伝えたい言葉の一つだ。欧米では、これらに該当する言葉はないと云われる。amenとかthank youではニュアンスが違う。「いただきます」、「ごちそうさま」は感謝の言葉であるが奥が深い。子供のころには、お百姓さんにありがとうをいうと教えられた。天地の恵みや料理を作ってくれた人、あるいは食べることができるそのことに感謝の気持ちを表すこともあろう。更に、「いただきます」は「 命いただきます」だともいう。我々の食物は全て命ある生物である。魚や肉類の動物は云うに及ばず、植物も水を吸い陽を浴びて成長した元気な命あるものだ。 生きるということは他の命をいただいて成り立っていることを「いただきます」の言葉は教える。人間が殺生をしながら生きていることを知ると、逆に「命の尊さ」を思う。それ以上に殺生をしてはならない。小さい子供を含めて家族で三度の食事毎に「いただきます」、「ごちそうさま」をいう習慣は貴重な文化と思える。
11月21日(日) 「今日の作品」に「山茶花<MIEUへの絵手紙>」を掲載した。我が家(共同住宅)の入り口の近くに山茶花の木がある。日当たりが悪い場所にもかかわらず毎年沢山の花を咲かせるサザンカ。少し前から随分蕾が膨らんできたと思っていたら、今日、このシーズン初めて一輪の花が咲いた。この花をモデルにして描いたのが「今日の作品」だ。ニューヨークに住む孫のMIEUへの絵手紙(文章はハガキの表下に妻が書く)としたので、サザンカは英語で何と云うのか辞書を引いてみた。そうすると、山茶花=sasannquaとある。日本が原産地であるサザンカは江戸時代に長崎・出島からオランダに伝わり西洋に広まったと云うから、米国人はこんな言葉を知らないに違いない。ついでに、椿の英語であるcamelliaを辞書でみると「つばき、さざんか」と書いてある。元来、中国では椿のことを「山茶花」と書き、「サザンカ」の中国名は「茶梅」であるというから、もう、椿と山茶花の名前は混乱して訳が分からなくなる。つばきとサザンカの花の区別も分かり難いが、山茶花は花弁が一枚づつ散るのに対して、椿は花が丸ごと落ちると知っていれば、散り方で直ぐ判別出来る。「山茶花を 雀のこぼす 日和かな(子規)」

11月22日(月) 最近「サービス」が学問として研究されているようだ(日本向けニュースは「サービスを科学できるか/IBM研究所で討論会」の見出し)。米国ではサービス業の範疇の職種が最も多いと云う。IBMの収入(income)の概略50%はサービス分野からもたらされるとなると、研究のやりがいもあるだろう。「サービスとは、一方が他方に対して提供する行為やパフォーマンスで、本質的に無形で何の所有権ももたらさないものをいう(コトラーの定義)」であるが、一方、「サービスは競争優位のツールではない。競争優位そのものである」。我々が製品を購入する場合、サービスの善し悪しで判断することも多い。パソコンでも、デジカメでも、またプリンタにしてもサービスの悪いメーカーのものは二度と買わない。それにしても、顧客の求める本当のサービスについてまだまだ研究不足に思えてならない。IT関連の製品等はウェブを使った親切かつ効率のいい顧客サービスをなぜ真剣になって開発しないのだろう。ウェブでのQ&Aやトラブルシューテイングといったお手軽のものではない、蓄積型事例データベース(?)のような検索システムが出来るのでないか。他社より抜群に優れたサービスシステムが構築されたとすれば、私ならそちらを選ぶ。
11月23日(火) そろそろ年賀状を考えなくてはならない。来年は酉年かと思いつつ何となく本棚を見ていると「鶏と人」というタイトルの本が目についた。自分で買った本でもなく読んだことはない(本棚には息子や娘ほか誰の所属は分からない本が時々紛れ込んでいる)ので早速読み始めた。この本(小学館発行)、サブタイトルは「民族生物学の視点から/野鶏は何故に鶏となったか?」で編者は秋篠宮文人殿下。世界中の鶏(家鶏)はそれぞれの民族や地域の固有な文化(信仰、慣習など)を色濃く反映していることが事例を基に細かく指摘されている。その分析方法に私がこれまで知らなかった「エテイック」と「イーミック」という言葉があった。元来、音声分析で使われる、phonetics(音声を外側から客観的に分析を行う/音声体系)とphonemics(音声を発する人を調べる/音素体系)の概念を民族文化に応用し、エテイックは観察者の側から文化を見る、イーミックは住人自身の文化への意識を分析するという対の概念を考えたものだ。鶏では形態や遺伝情報など鶏全体に共通するものがエテイック、地域や民族ごとの色や姿の特徴などがイーミックととらえる。家鶏はイーミックな部分からつくられたとみて、イーミックの細かい調査の重要性を説く。そしてエテイックの視点で包括した議論をしている。・・秋篠宮殿下の著書を興味深く読んでいると、年賀状についてもインスピレーションが得られそうな気がしてきた。
11月24日(水) 理由をつけて妻と昼食を外でとることにした。家から数分の場所で、以前にランチが値段の割に格別に美味しかった中華料理店に入った。ところが味はまずまずの普通程度で特別に美味しくはないし、それに加えて短い食事の間に店員のまずい応対(注文品を間違える、スープをこぼすなど)を2-3度続いてみてしまった。この店はどうなったのだろうと、後でインターネットで調べると最近経営者が替わり、それ以降評判がよくないことが分かった。食事の店は同じ質やサービスを継続させるのが実に難しいと思わせる事例は、この中華料理店以外にも多い。昔の味は今ならず・・。逆の話もある。直ぐ近所のラーメン屋さんに昔一度行ったことがあるが、食べ物の味には文句をつけない主義の私でさえ、こんなひどいラーメンは食べたことがないという有様で、その後二度とその店には行かなかった。ところが最近、このラーメン店で昼時に長い行列ができている。どうも評判がいいようだ。考えてみると私がひどいラーメンを食べたのは10年以上前である。料理人が変われば美味しい店になっても不思議ではない。・・独善でなく顧客の不満を謙虚にとらえて、常に改善を試みるところが「継続できる」のは、どのような分野でも同じだろう。
11月25日(木) 「 秋風やあれも昔の美少年(一茶)」。長年テニスを続けていると、仲間の今のプレーと昔の華麗なプレーとのギャップを見せられて感無量になることがある。それは我が身も同じだ。けれども、力や脚力は衰えても、歳を重ねた厚みが確実に増しているのに感心することも多い。若い頃につきあっていた知人、友人に久しぶりに会って、昔の美少年や美少女が溌剌としていると本当に気持ちのいいものだ。こちらにまでエネルギーが伝搬して元気になる。一方で、同年代でも年寄りじみて人生終わりのように陰鬱な人もいる。何が違うのか考えると、新しい事への好奇心の持ち方のように思える。過去の思い出だけに浸っている人、居心地のよい現状に満足しきっている人は、未知の世界には関心を持たない。一方で、年齢に関係なく何かに挑戦している人には活気がみなぎっている。ところで、65歳で亡くなった小林一茶には老人臭くて活気がない俳句が多い。「ちる花や已(すで)におのれも下り坂(一茶)」・・もう少し元気をだせ! 「 月花や四十九年のむだ歩き(一茶)」・・49歳で悟ったようなことをいうな! 「ぽっくりと死ぬが上手な仏なり(一茶)」・・だから一茶はぽっくり死んだ! 一茶が「春風や彼女もいまは美人妻」とでも詠んでいればもっと長生きをしたに違いない。
11月26日(金) 今日は三の酉。鷲(大鳥)神社の酉の市が三の酉まである年は火事や災いが多いと昔からの言い伝えがあるそうだが、今年は台風や地震など災いの実績を重ねてしまったことになる。暗くなってから目黒の大鳥神社の三の酉にでかけた。大鳥神社には我が家から歩いて30分ほどでいく。特別に商売繁盛を願う訳でもないが、今日、三の酉に行ったのには目的があった。来年は酉年であり、年賀状の図案を考える上で、酉の市で売り出す「熊手」を参考にしたいと思ったのだ。幸せを「とり(酉)込む」という熊手は酉の市のシンボルである。デジカメで熊手の写真を撮りながら判明したのは、現代の熊手は余りに豪華で欲張りであることだ。「とりこむ」中身は、大判小判、鯛、お多福、宝船、米俵、金銀財宝、招き猫、七福神、当り的などなど。江戸時代の熊手の絵を見ると、稲穂とお札だけが付いていて、むしろささやかで好感が持てる。今は熊手をシンプルにすると高い値段で売れなくなるので、何でもかんでもとり(酉)入れて豪華絢爛にしているように見える。とにかくも、酉の市が終わり、いよいよ師走である。「春を待つ ことのはじめや 酉の市(其角)」
11月27日(土) 「今日の作品」に「U型花器A/陶芸」を掲載した。陶芸作品の写真では大きさや雰囲気が案外に分かり難いようだ。実物をみて随分大きいのですねとか、写真で見るより本物がいいなどと云われることもある。今回掲載した「U型花器」は私としては小品で丸い花器の口径が4cm、高さが10cm程度のもの。制作は、まず、粘土を芯の周りに巻いて円筒を作成し、それをUの字に折り曲げる。折曲がる程度に柔らかい粘土であるので、Uの字の下部が粘土の重量で徐々に潰れてくる。それでも全部つぶれることはなく連成管としての役目はするので、潰れた形もまた趣があることにして完成させた。以前のコラムに書いたが、制作途中で芯に細長い風船を使えば潰れないことに気がついて、次からは早速に風船を使った。風船を使って制作したU型花器はいま素焼きの最中である。陶芸の面白いのは果たしてUの字の下部がきれいに出来た方がいいのか、それとも下部が潰れてもいいのか一概には決められないところだ。小品であるので、U字型花器はこれまで4個制作した。全部完成した段階で並べて比較してみるのを楽しみにしている。

11月28日(日) 今朝のNHK-TV新日曜美術館で「風」をテーマにしたアートを取り上げていた。昔から現代に至るまで人は風をどう表現してきたかの視点は面白い。昨日のテニスは強い風の中でプレーした。風の条件は味方も相手も同じ、風を自分のものとした方が有利になる。風は占いの「風水」でも見るように古来人間の感性に大きく響くものであった。占いの風水では「気は風に乗って散り、水にさえぎられて止まる」とされるが、風は気の流れそのものである。気は元気、活気の気であり、それが病むと病気になる。要は同じ風が吹いていても人間がそれをどうとらえるかで、気力がつくのか、失せるのかが決まるようだ。追い風は追い風として利用し、向かい風でもヨットが風を受けるように帆の向きを調整して前に進むことができる。そして 風そのものは姿が見えないところがいい。時々は風を思うと想像力が豊かになりそうだ。「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(古今集)」、「あかあかと日はつれなくも秋の風(芭蕉)」
11月29日(月) 来年の干支は酉。年賀状の原画用に鶏の絵を描きながら、現代の鶏を思うといささか鶏さんが哀れになった。日本の国内に採卵用だけで1億羽以上の鶏が飼育されているという。雌鶏は毎日卵を産まされるか、ブロイラーとなるか。一方オスは雛の段階でほとんどが”処分”される・・。こうした現実を見ないことにすれば、雄雌を並べて描くとオスは大きな鶏冠をつけていかにも立派にみえる。酉年は英語では、Year of the rooster。roosterは雄鶏(=cockと同じ)だから、hen(=雌鶏)とは違い、ここでも雄鶏が優勢のようだ。それ以上に鶏の諺では雌鶏(女性)が差別される。「雌鶏歌えば家亡ぶ」とか「雌鶏勧めて雄鶏時を作る(=夫が妻の云いなりになる)」、英語でも、「It is a sad house where the hen crows louder than the cock.」などがある。そして雄鶏が声高く時を告げて権威があったのは今や過去の物語となってしまった。雄鶏は歌うことすらできずに抹殺されるし、雌鶏は卵製造機の役割で生きているが楽しく歌うのとはほど遠い。雄鶏も雌鶏も区別なく人間は時には鶏供養をしなければならない。
「今日の作品」に「U型花器B/陶芸」を掲載した。前回の「U型花器A」と同時に制作したもの(11月27日コラム参照)。


11月30日(火) 本日の初体験:霊南坂教会(東京・六本木)でオルバーン・ジェルジ作曲の「ミサ曲第9番(女声合唱とピアノのための)」を聞いたこと。オルバーン・ジェルジはハンガリーの作曲家で、1947年生まれであるから、現在57-58歳の現役バリバリである。主に宗教曲の作曲で知られるが日本とも縁が深い。ミサ曲第9番は日本の国立音楽大学の委嘱により作曲され、2000年に日本で(世界)初演された。女声合唱のための曲であるが、宗教的な荘厳さを保ちながら随所に現代的なリズム感が漂う。宗教曲は気持ちのよい眠りに誘われる曲も多いが、初めて聴いたこの曲に目は冴え耳は緊張して眠るどころではない。現代の宗教曲にこんなにインパクトがあり感動出来る曲がある!最近は各地の女性合唱団で歌われることも多いと後で知ったが、また、新たな世界を垣間みたような気になった。
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