これまでの「今日のコラム」(2005年 1月分)

1月1日(土) 元旦、日の出の時刻、東京・西郷山公園(目黒区)から眺めると、東の地平線近くには若干雲があるが西の丹沢山系がくっきりと見える晴天。ただし富士山だけは雲を冠っていた。日が昇ると所々に残る昨日の雪が眩しい。きらめく陽光につられて上野にでかけた。まずは元旦にもオープンしている「大兵馬俑展」(@上野の森美術館、1月3日まで)をみた。秦の始皇帝陵の地下から2200年の時を経て発掘された等身大の兵士達(数千体を超える数のごく一部が展示)は全て焼き物(陶製)である。陶芸を小手先でやる身としては、そのスケールの大きさにただ驚嘆するばかりだ。兵馬俑のショックを鎮めるためでもないが、その後には、寛永寺清水堂、東照宮(寛永寺)などお寺参りをした。久しぶりの(?)妻と一緒の初詣は残雪のお寺に独特の情緒があり“当たり”であった。「花の雲 鐘は上野か 浅草か(芭蕉)」。この俳句も寛永寺の鐘を詠んだとされる。時の鐘は聞けなかったが、今年も行動する年、挑戦する年となりますように・・と神頼みのスタートだ。
1月2日(日) 正月は何かと一年の時間の経過を感じさせられることが多い。一年前の正月には富士山が見えた場所(東京・西郷山公園)から富士が見えなくなった(今朝は公園の丘の上までのぼるとビルの間に美しい富士をみることはできたが)。親戚の集まりで年に一度会う幼稚園・小学生の子どもたちが見違えるような成長をみせる。これは頼もしく、またうれしい。ピアノに合わせて「冬の旅」を合唱しようと一年ぶりに楽譜を追うと、ドイツ語の歌詞が読めない。”読めない”というのは、一年前にはまだ読めたのに、眼鏡をつけても、外しても、視力が合わずに見えないのだ。これは寂しく、また悔しい。インターネットの通信ソフト・skypeを使って、東京とニューヨークの間で双方話をする。相手は三人、こちらは二人が同時に好き勝手にしゃべる。それでも通信費は特別にはかからない(インターネットの基本料金内)。一年前には出来なかったことだ。これは驚きであり、また面白い。・・自分自身の中で一年前より向上したものは何だろう・・正月はこんなことも考える機会となる。
1月3日(月) 「今日の作品」に「茶碗A(陶芸)」を掲載した。これは昨年の暮れに完成していたものの一つ。去年の12月「細川護煕作陶展」で見た茶碗に触発されて、その日の翌日に同じような茶碗を制作したものだ(12月3日、4日のコラム参照)。私は陶芸教室でもこの種のお茶碗は余り作らないので、教室仲間からもお茶碗は珍しいですねと云われた。制作の最後、釉薬をかける時に私流の模様をつけると、それでヒラセさんらしくなった・・とは、教室でも周囲の人はよくみている。細川さんは茶碗の理想形を楽焼の創始者長次郎(安土桃山時代)として長次郎ばりの名品をたくさん作っている。私も長次郎の形は好きだし、細川さんの作品もいいと思う。けれども今回、形は長次郎のコピーに近いものを完成してみて、自分らしさをどう表現出来るかという基本がやはり一番難しいと納得した。絵画の世界でも名作の”模写”はあくまでも学習のための一過程だ。今年は名品のいいところを吸収した上で更にオリジナルに挑戦しようと思う。本日は「土練り初め」。また長次郎ばりの茶碗を作ってしまった。
  1月4日掲載分
1月4日(火) 年の初めであるので一つ言葉を引用してみたい:「人の一生は重荷を負って遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基。怒は敵と思え。勝つことばかり知って負くることを知らざれば、害その身に至る。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり」。有名な徳川家康の遺訓である(元旦に初詣にいった上野・東照宮のパンフレットより引用)。これは家康の直筆かどうかは明確でないようだが、慶長8年=1603年、正月15日に書かれたというから、丁度関ヶ原の合戦の年、家康61歳のもの(家康は74歳まで生きた)。あらためて全文を読むと、最高権力者の戒めというより僧侶が教え諭すような謙虚な言葉だ。この将軍家の遺訓が現代においても(江戸時代も同じかも知れないが)我々一般庶民に何ら違和感なく受け取れる箴言であることは考えてみると実に希有なことに思える。
「今日の作品」に「茶碗B(陶芸)」を掲載した<上覧>。昨日掲載の茶碗とペア。

1月5日(水) いくら栄養にいいからといって一つのものばかり食べると健康を害することは誰でも知っている。私のいい加減な認識では、食べ物はとにかく色々な種類を混ぜて摂取するのがよい。栄養素など頭を使わなくても、緑に黄、赤、青、白、黒など色とりどりの食物をごた混ぜに食べていればバランスがとれる。いささか乱暴なアナロジー(類推)であるが、考え方とか思想なども同じことが云える。このコラムで何度か同じ趣旨のことは書いているが、宗教にしても、キリスト教でもイスラム教でも、また仏教でもそれぞれに深い教えがあるのは確かであっても、一神教は他の神を認めない。日本人は多くの神をみな許容するが故に、無宗教といわれてバカにされることもあるが、私は多くの神を認めるフレキシビリテイーこそこれから世界に輸出することのできる未来思想でないかとさえ思う。それぞれの考え方のいいところを吸収し相手も認める事なしには60億の人が共存はできない。ぐっと身近なところでは新聞やマスコミについてごた混ぜを勧めたい。今はインターネットで色とりどりの(国内外の)情報がとれる。インターネットで一つの新聞の論説やコラムを毎日読むと食傷気味になる(不思議に新聞紙で読むと何でもない)。他のいくつもの(インターネットによる)新聞で適度に中和されるのが自覚出来るのは面白いほどである。
1月6日(木) 親戚の夫婦と豊島園・庭の湯(東京/練馬区、ホームページはここ)にいった。銭湯に行ったというのとは違うけれども温泉旅行というほど大袈裟でもない。私の家からは40-50分でいける湯処だ。それでも水着をつけて屋内プールで遊んだり、温泉やサウナでのんびりしていると山奥で静養しているような気分になる。この日、小寒の翌日にふさわしいどんよりした寒空であったが、露天風呂に入って周囲をみると辛夷(こぶし)の樹には沢山の蕾がほころび始めようとしている。直ぐ側に咲いている花は寒椿か。「庭の湯」には何か落ち着いた雰囲気があると思っていたら、途中でハタと気がついた。子どもがいないのだ。中学生未満のこどもは入れずに「大人の湯処」と謳っている。時にはこどものいない雰囲気でゆっくりと気分転換したい・・そんな時にお勧めの場所である。
1月7日(金) 最近、ニート(NEET)という言葉をよく目にするようになった。Not in Education, Employment or Training. の略で日本では「学校にも通わず、働きもせず、仕事のための訓練も受けない若者」、つまり「ヤル気のない若者」のニュアンスで使われる。いわゆるフリーターは組織に縛られなくても、何らか働く気があるので、ニートはフリーターにもなる気がない若者をいう。けれども元来イギリスで使用されたNEETは、Young people Not in full-time Employment, Education nor Training.であり、full-timeで働かないフリーターやボランテイアの仕事をする人、仕事はなくても世界中を旅行している人などを含めた若者の呼び名でヤル気の有無ではなかったようだ。ここでは若者のニートについて論じるつもりはないが、私は定年を迎える年代の人にニートになるのを回避することを訴えたい。full-timeの仕事はなくてもいい。けれども、self-educationは生涯続けられるし、本を読むこともeducationだ。Trainingも同じく年齢に関係がない。パソコンやインターネットもtrainingである。EducationとTrainingは若者と熟年、老年の区別なく本来は楽しいものであろう。ニートは若者だけでなく60歳以上の問題でもある。
1月8日(土) 夜のテレビで「欽ちゃん&香取慎吾の仮装大賞」をほとんど全部みてしまった(日本テレビ系 19:00-21:00)。毎年、正月の恒例番組でありこれまでにも見たことがあるが、いつもユニークな仮装には感動させられる。今回、大賞はとれずに「技術賞」であったが「夕焼け小焼け」というタイトルの仮装など小道具が圧巻だった。何と赤とんぼ型の竹とんぼが333個も発射されたのだ。それも発射装置や竹とんぼ等みなオリジナルで、制作、操作も全て一人でやっている。大賞を獲得したものをはじめ、大勢で仮装する内容にも”意外性”が溢れている。この番組をみていると日本国中、至る所にアイデイアやセンスの優れた人々が満ち満ちているのでないかと思うほどだ。仮装といっても実は庶民の文化そのものが現れる。この仮装大賞、国内だけではなく、世界のどこからでも参加出来るようにすると面白いのでないか。NHKのロボコン(ロボットコンテスト)番組は国内の学校対抗から世界の学校で競う番組となった。仮装で世界の文化を比較出来る番組を是非みたいものだ。
1月9日(日) いまアール(コーギー犬)と夜の散歩から帰ってきたところだ。東京にしては珍しく冷たい風が吹きすさぶ中、手袋をしない手がかじかむ。30分余、急ぎ足で夜の街を通り抜けるのは毎日の習慣ではあるが、今晩は寒さの中で何か特別にアールとの連帯感が沸き上がるのを覚えた。考えてみると、アールとの散歩はいつも一番寒い時間にでかける。朝は日の出前、夜は7時から9時頃の間だ。その代わりアールともども散歩から帰って部屋に一歩入った時の心地よさがまた格別である。家の中の暖かさをこれほどありがたいと思うのは、やはり寒さの中を小走りで帰ってきたからであろう。どんなに寒い時でも「散歩」という言葉をきくと、アールは大喜びで飛び出てくるのがうれしい。
「今日の作品」に「アザラシの縫い包み」を掲載した。本来はパソコンのハードデイスクをぴったりと包む飾りであったが、ハードデイスクが小型になってもう使えない。ここでは掃除機を抱くことになった。


1月10日(月) 知人(親戚)のパソコンのメモリーをアップグレードするために、i-Macモデルの変遷を調べると、いまさらながらコンピュータのモデルチェンジの多さと早さには驚かされる。私も1999年の1月に華々しく発売されたばかりのi-Macを買った(今はこのパソコンは友人ところにある)。当時、その形の斬新さに加えて、ブルーベリー、ストローベリー、タンジェリン、ライム、グレープの五色から色を選べるのが画期的なことだった。それから2001年の末までの三年間の間にほぼ20種類の”i-Macモデル"が発売されている。この種類というのは、OSの違いやプロセッサ速度の違いを数えているもので、色の違いは数えていない。メモリー容量をアップするといっても互換性のある型式を探し出すのが一苦労だ。ところで最新のi-Macと云えば、それから更に三年を経て外観も以前のものとは全く変わってしまった。i-Mac G5は「コンピュータはどこにきえたのだろう」とある。ほんの少し前にはデイスプレーだった部分にコンピュータ本体が組み込まれてしまった(別体のハードデイスクがみえない)。この最新型もいいなと思いながらも、初期のi-Macが名機であっただけにメモリーアップにこだわっている。
1月11日(火) 私は以前から歴史的に有名な人の「享年」を収集し、自分のささやかなデータベースとしている。例えば、シューベルトは31歳で亡くなった。近藤勇は34歳。モーツアルト、正岡子規、芥川龍之介はそろって35 歳が享年だ。ベートーベンや北原白秋が亡くなった57歳も自分はあっという間に通り過ぎた。享年をメモしていると人を年齢で軽んじたり評価したりすることは全く意味ないと思う。こんな私の手帳内のデータでなく、「人生のセイムスケール」という本格的なインターネットサイトがあることを知った。セイムスケールとは縮尺を並べて比較する方法で、ここでは古今東西の人(1600人余)の生きた時間をシンクロ(同調)させて見ることができる。自分の年齢を生きた意外な人物が現れたり、私はこの人より余計に人生を生きているのに何をやったのだろうとか、色々な感慨も浮かび実に面白い(サイトはここ)。歴史上の人物の享年を比較してみせるサイトを思いつくのは分かるが、これをきっちりと実行して更に1000人ー2000人と拡大するエネルギーには脱帽する。インターネットで”世の中広い”ことをまた思い知らされた。
1月12日(水) 企業の中で「青色発光ダイオード」の製法を開発したとされる研究者が発明の個人への対価支払いを求めた裁判で一審判決で200億円が認められたのに対し、今回の二審で当の個人に8億4千万円余が支払われることで和解が成立したとのニュースがあった。今日さらに当の発明者が会見にのぞんで、和解には応じたけれども「全く不満で怒り心頭だ」とか「日本の司法制度は腐っている」とコメントしたとの続報がある。こういうニュースにはまともに論評もしたくないが、「この8億円はインド洋津波の被害者に寄付します」とでもいえば拍手しただろう。全く一審の判決を下した裁判官がいるとは「司法はどうかしている」。
気分直しに「今日の作品」に「モビール(工作)」を掲載した。写真ではどれが作品か分かり難いが、ステンレスの針金の両端に真珠型の球を取り付けたモビールが手製のものだ。中央には厚手の布帯を使用しモビールのねじれ加減が適当な形状(波の形)になるようにした。布帯以外は全て有り合わせの材料を使って制作したが、シンプルにまとめることができた。いまの場所では朝陽を浴びると真珠球が光って美しい。


1月13日(木) ニューヨークに住む娘がこどもを連れて帰ってきている。夫の父親が急に入院し手術をするので姑をサポートするためである。夫は仕事の関係で帰国できない。こちらも手術の成功を祈るばかり・・。こんな機会に世界は狭くなっていることを改めて実感する。通信の世界ではインターネットが国境をなくした。実際の国境は確かに存在するけれども20-30年前と比べると信じられないほど簡単に往来できる。しかも費用は国内旅行と変わらないものもある。ボーダレスの社会が今後どう進化するか、それだけを見ていても、これからの10年、20年は興味が尽きない。・・一方で私の出番は孫娘の相手だ。今日読んで聞かせた絵本(我が家の本棚より)は「ぐりとぐら」、「ちいさいモモちゃん/おばけとモモちゃん」、「よみかた絵本」など。自分でも絵本をこれほど丁寧に声を出して読んだのは初めてかも知れない。相手をしながらこちらも元気になったのは確かだ。
1月14日(金) アニメ映画「ハウルの動く城」をみた。東京・日比谷の映画館では今日がこの映画の最終日。昨年11月から公開されているので遅まきながらの鑑賞だ。実は前から見たいとは思いながら機会がなかったところで孫娘の面倒をみることを口実に妻と時間をつくった。幼児は退屈しないかと心配していたが、初めての長時間の劇場映画にもかかわらず何とか最後まで興味をつなぐことができたようだ。スタジオジブリ制作(宮崎駿監督)のこの映画は期待通りに大人にも楽しめる。メカ(それもでたらめ機械)の固まりである動く城とか超現代と中世がミックスしたような夢物語は私の趣味とも一致して面白かった。いつもながらアニメ画像のきめの細かさもみていて気持ちがいい。人によってはそれぞれに思いをめぐらす要素も織り込まれている。4歳の幼児が主人公のソフィーがなぜおばあさんになってしまったのかとか、的を得た質問をするのには少々驚いた。想像以上に幼児でも映画の本質を見ているのかも知れない。
1月15日(土) 陶芸を始めてこの正月で4年目を迎えた。まだまだ制作したいもの、やりたいことは数限りなくある。奥深い陶芸の世界に引きずり込まれながら、陶芸の歴史を知れば知るほど現代における土いじりは何だろうと思うことがある。粘土の利用は人類の歩みと共にあり、それは技術の歴史でもある。絵の世界ではアルタミラの洞窟壁画にみるように旧石器時代、紀元前15000年の“作品”が残っている。絵画以上に生活に密着した技として、水を加えると自由に成形出来る粘土を熱することによって強固な形を保つやり方を古代人は承知していた。世界最古の土器と云われるのは12000年前の縄文土器であるらしい(縄文土器の実物をあらためて見ると本当にすばらしい/実物、国立歴史民俗博物館=ここ、net=ここ)。ロクロ(轆轤)は紀元前3000年の発明とか・・。今日は「塩釉」について少し調べた。窯の焚き口に食塩を投入して食塩蒸気の作用で被覆する揮発釉のやり方であるが、これなどはイギリスで1600年頃に発明されたときくと随分最近の技術と思うところがおかしい(どうせ日本でも独自な塩釉を見つけているに違いない)。紀元21世紀のいま陶芸で何をやっているのか。ふとセラミック技術が頭をよぎる・・。
1月16日(日) レイ・チャールズの語りを聞ける絵本がある。孫娘がアメリカから持ち帰った”Chicka Chicka Boom Boom”という絵本がそれだ。A told B, and B told C, "I'll meet you at the top of the coconut tree."で始まるアルファベットを覚えるための幼児向け絵本であるが、付属のテープでレイ・チャールズがリズムに乗って読み聞かせてくれる(NETでの本の紹介=ここ)。レイ・チャールズ(1930-2004)といえば昨年の6月に73歳で亡くなった伝説のミュージシャン。6歳で失明しハンデイを抱えながらピアノ、ゴスペル音楽、ジャズなどを学び、後年独自の音楽世界を築き上げて、盲目の天才シンガー、ソウルの神様など呼ばれる大スターとなった。サングラス姿で満面に笑みを浮かべてピアノを弾くスタイルを思い出す。そんなレイ・チャールズが独特の語り口でA-B-Cを聞かせる。絵本はこどもだけのものではない。私はこの絵本で存分に楽しみ贅沢感を満喫することができた。
1月17日(月) 「今日の作品」に「胡蝶蘭(水彩)」を掲載した。豪華な胡蝶蘭をいただいたのでスケッチしようとしたけれども、どの部分に焦点を当てるか、どんな構図にするか迷ってしまう。結局こんな絵になったがこれでも全ては描いていない。実物はそれぞれの茎に針金のサポートがついているが、これを外して描くと、この茎の太さでこれほど多くの花を支えるのは力学的に無理なのでないかと思ったりする。それにしても最近の花の栽培技術は恐ろしいほど沢山の花を咲かせる。胡蝶とは中国での蝶々の呼び方が日本に伝わったものらしい。昔から「胡蝶」の名は、能楽や源氏物語にも使われているが、恐らく当時の胡蝶蘭とは可憐な蝶々が2−3匹舞ってるものだったのだろう。この絵を描いているうちに胡蝶蘭の構造を覚えてしまった。おしべは中央に丸く見えるがめしべは見えないようだ。また1−2時間描いている内に蕾の形がどんどん変化してくるのに気がついた。生き物としての胡蝶蘭。この瞬間だけの姿だった。

1月18日(火) 「鬼の霍乱」=病気しそうに思われない、ふだん丈夫な人が珍しく病気をすること(新明解/三省堂)。霍乱(かくらん)とは難しい字だが、「日射病・急性腸カタルなど夏起こしやすい急性の症状の意の老人語(同)」とあるから、今日の私に適用出来るのか疑問は残るが、珍しく風邪をひいて咳が出るし熱もある。早朝のアール(コーギー犬)の散歩を体調が悪くて取りやめたのは今日以外にはいつだったか覚えがない。最近は運動(テニス)をやるときに身体が万全なら(つまり、膝とか筋が痛むことがなければ)こんな無様なプレーをしないのにと体調や筋力の低下のせいにすることが多くなった。いつもベストのコンデイションでいられるのなら誰も苦労はしない。運動のスタイルは年齢と共に変化させてもいいのだろう。風邪も休養と免疫力強化のチャンスとしたいところであるが、現実はただ無気力に休んでいるだけだ・・。
1月19日(水) "HAPPY BIRTHDAY!"  朝一番に孫娘から声をかけられたが、今日は意外にハッピーな誕生日になった。風邪は治らないが少し緊張した方がいいだろうと、姉のコンピュータ、i-Macのメモリーアップにでかけた。そのための準備には万全を期した。Macのホームページからメモリーアップの要領を印刷。これは丁寧なイラスト入りの説明書で、前編、後編に別れて合計13ページ(A4サイズ)になる。その他i-Macのメモリーアップに関する参考資料をグーグルで検索して収集した。カバーを外した後、「ロジックボードの金属部分にさわり静電気を除去する」という説明などをフムフムと前もって勉強したのは云うまでもない。出発に際しては、分解工具にも気をつけた。プラスドライバーを使うことになっているが、大小各種のドライバーを準備した。またコンピュータ内部のケーブルを外すので再組み立てをする時に間違えないように色のシールまで持って行った。さて、気合いを入れていざ分解・・。何と姉のコンピュータは多少形式が新しいだけで要領書のものよりメモリーアップが極めて簡単になっていた。結局、マイナスドライバーで裏の蓋を開けると、予備のスロットがみえる。準備した新しいメモリーをこれに追加して差し込むだけで完了。これで350MBにメモリーアップできてしまった。その間、30分足らずだ。自分のコンピュータでも経験したことがないので慎重に取り組んだが、この程度なら誰でもできる。正に「案ずるより産むが易し」。こんなことをしている間に風邪を忘れてしまった。ささやかなケーキは誕生日祝い兼マックのメモリーアップ祝いとなった。
1月20日(木) 最近のテレビは健康に関する番組が多くなった。そんなテレビ番組で、○○を食べて一週間、△△をとり始めて二種間、□□を摂取してひと月経過すると、血糖値とかコレステロール、その他の数値がこれほど変わりましたとデータを付けて説明されると逆に非常に恐ろしいものを感じる。食物の摂取の仕方ではっきりと差が現れるということは、それまでにどんなにバランスよく栄養をとっていたとしても、生活習慣が変われば10日から2週間で全く別物になるということだ。例えば50歳、60歳まで栄養が偏らないとうに食事をとっていても、過去は過去であって遺産とはならない。当然のことながら70歳の人でも、明日からの活動の源はあくまでも「今の食事」で決まる。「継続は力」は食事の摂取についてもそのまま当てはまるが、昨日までの継続が今日の力、今日からの継続が明日への力となる。健康は休みのない厳しい掟の下に成り立っているようだ。
1月21日(金) 井の頭線(東京)の電車に乗った時、車内放送が気になって落ち着かなかった。電車内では携帯電話を使わぬように放送するのであるが、理由として「お客さん同士のトラブルの基になりますので」という言い方をする。トラブルとならなければいいのか、トラブルとは電話を使う側(加害者)と周りの人(被害者)を同列に扱っていることになる。単に「周囲の人に迷惑をかけるので」止めて下さいと云えば十分だろう(もっとも電車の中でこういうマナーの常識を注意されたくもない)。似たような事例がいくつも思い浮かぶ。例えば、母親が子どもに注意する時に「おじさんに叱られるからよしなさい」という。悪いことは悪いとはっきりと教えなければならない。大人になっても「マスコミがうるさいので止めておこう」、「警察の取り締まりがあるのでここは止めよう」・・など、判断の基準が善悪ではなく周囲の状況にあることが多い。よいことはよい、悪いことは悪いという「是々非々」の教育は子どもから大人まで必要にみえる。自分で考える習慣をつくる・・これだけでも是々非々の芽は育ちそうな気はするが・・。
1月22日(土) 「今日の作品」に「日の出@代官山/東京」(水彩)を掲載した。この絵は一昨日、20日(大寒)の日の出である。たまたま朝の犬の散歩がいつもより10分ほど遅い時間となった。これが幸いしたのか7時頃に遠くの建物の一段と低い隙間の中に入り込むように丸い太陽が顔をだしたのに遭遇した。道路に車が一台も走っていなかったのも珍しい。多分信号のタイミングのためであろうが、何もない道路と朝陽はいつになく新鮮にみえた(この通りは旧山手通りで、元来、交通量は多くない)。今朝も同じ経路を同じ時間にアール(コーギー犬)と散歩をした。先にいった西郷山公園(目黒区)では今日はくっきりとした美しい富士山を見ることができた(大寒の日の富士は雲を冠っていた)。ところが、この絵と同じ場所、同じ時刻で朝陽は見えない! ほんの少しでも日の出の方位がずれると太陽はビルの影に隠れて陽はさしてこないのだろう。それならばデータで実証しようと調べてみると、今日は一昨日と比べると日の出の時刻は約2分はやくなっているが、日の出の方位の差はたかだか1度未満である。1度というと少なく感じるが、分度器の1度をどんどん延長してみると分かるように遠く離れると1度は結構大きいズレとなる。二日違いで日の出直後の太陽が見えなくなった理由は納得できた。この「日の出」の絵が描けるチャンスは一年に1ー2度。どうも絵の本質と関係がない経緯ばかり書き記しているが、これもスケッチの楽しみの一つである。

1月23日(日) ニューヨークの雪嵐が私の生活に影響を及ぼすことがあるとは思わなかった。先週末からニューヨークには寒波が来襲し、気温マイナス13度、猛烈なブリザードが吹き荒れているという。娘親子が昨日ニューヨークへ戻る予定であったのが、航空機が(JFK空港の雪のためか)運航中止になり、更に24時間我が家に滞在する時間が増えた。こちらの予定をやりくりして娘親子に合わせても、それはそれでうれしいことではある。娘親子にしても予定外の空き時間をとることができ、はじめてのんびりしたようだ。つかの間の休養の後、今はもう太平洋の上、機中で眠っているだろうか。後は飛行機が無事にJFK空港に着陸出来ることを祈るばかり。そしてNYの家に落ち着いたら夫婦、親子でほんの少しでもいい、”ゆとり”を創り出して欲しいと思う。「ゆとり」とは「何かをしたあと、まだ自由に出来る空間・時間・気力・体力などが有ること」(新明解/三省堂)と辞書にはある。新明解の説明にはいつもほれぼれするが、私は「ハンドルの遊び、歯車のガタ、膝の曲りの如きもので、一見、無駄にみえるけれども実は順調な動き(活動)には欠かせない遊び」もまたゆとりの一種と考えたい。
1月24日(月) 私の「陶芸ノート」には陶芸に関する自分なりのノウハウが詰まっている。まずアイデイアが浮かんだ時点で何でもいいからメモをする。形状を絵で描くこともあれば文章で機能のポイントを書くこともある。時には方程式を書いて座標計算をしたり、付属品のために流速の計算をした記述もある。勿論、一般的な釉薬とか焼成に関して調べた内容などもノートを見れば分かる。これまではほとんどの陶芸作品はこのノートのアイデイアからスタートしていた。ところが、このところ家で1-2時間の時間を割ける場合に全く下絵もアイデイアもなしに制作してしまうことが続いている。今日も「深茶碗」を二つ作った。この場合、特に目新しい形状ではなく以前作ったものと似た形を更に気合いを入れて作るというやり方になる。私が陶芸教室でお茶碗などを作ると、どこか体調が悪いのか心配されたりするが、いまは人並みで変哲もない、けれども”使いやすい”お茶碗を作るのもまたよしと割り切れるようになった。深茶碗を制作していて、これは絵画では「スケッチ」のようなものだと思った。特に気張らず、雑念もなく、素直に手を動かせばよい。在り来たりの対象であっても作者の個性は自ずから表現されてしまう。
1月25日(火) 何でもやってみよう・・と話題の「100ます計算」をやってみた。縦、横にそれぞれランダムに零から9まで数字が並べてある。縦横の数字の足し算、合計100個を升目に埋めていくのにどれだけ時間がかかるかを計る(正答率もみるのだろう)のだが、1分を少し越してしまった。小学生でも毎日トレーニングをやっていれば1分そこそこでできるようになると聞いたことがある。自分でやってみて面白かったのは、わずか1分足らずのところで突如自分でもはっきり自覚出来るほど集中力が鈍ったことだ。確かにペーパーテストとか待ったなしの緊張感とは最近縁が薄いにしても、単純な足し算の緊張が1分続かないとは相当に頭がたるんでいる。一度だけやったところでの直感であるが「100ます計算」を続けるのは大人にとっても有効に思える(100ます計算/ネットでの参考=ここ)。大人といっても他人に仕事をやらせるのを仕事とする50,60歳、あるいは悠々自適の70歳には特にお勧めだ。競争するのでなく己の頭脳の実体を知る(あるいは磨く)のに最適だろう。毎日一枚、一分ならば時間がないから続けられないという言い訳はできない。さて私は明日もまた実行できるだろうか・・
1月26日(水) 展覧会の案内をもらって京橋にでかけた。展覧会という場で友人や仲間が作品を発表しているのを見るといつもながら少なからず刺激を受ける。一方で、京橋に行くと思いのままにいくつかの画廊をまわる楽しみがある。今日は信楽焼の展示品をじっくりと時間をかけてみせてもらった。更に京橋から帰途銀座による楽しみもある。少々歩き疲れた時には銀座4丁目のアップルストアによると何か贅沢をしているような気分になる。私は先ず3階のシアターに直行してゆったりとした椅子に座る。シアターではどの時間でも講師がワークショップをしている。それも無料で昼間は席はいくらでも空いている。しかも講演のテーマは最新のコンピュータソフトに関するものが多く、時間を割いて特別に聞きにきたいものが大部分だ。今日もウェブデザインとかフォトショップ、イラストレーターに関するテーマで最新の情報を仕入れるには絶好だった。その後、5階にいってフリーのインターネットでニュースなどみる。アップルの新製品モデルと間近に接しながら遊べるのがこのストアのメインであることは云うまでもない。短時間で絵画、陶芸、コンピュータとつき合いながら何ら違和感なく充たされた気分になった。
1月27日(木) 「価値観の違いを理由にしたら問題は何も解決しない」とは理屈では分かるけれども絶望的に価値観の違いがあることも確かである。特に日本人として価値観の違いを認識するには「旧約聖書」を読めば事例に事欠かない。日本人は初日の出を見ると、願い事をしたり手を合わせて拝んだりする。また月を美しいと愛でて楽しむ。こんなことで処刑されたりすると理不尽だが、これも一神教の世界では以下のようになる。「あなたの神、主が賜る町で・・わたしの禁じる日や月やその他の天の万象を拝むことがあり、・・その事が真実であり、そのように憎むべき事が確かに行われていたならば、・・石で打ち殺さなければならない(旧約聖書/申命記第17章)」、「わたしがもし日の輝くのを見、または月の照りわたって動くのを見た時、心ひそかに迷って手に口づけしたことがあるなら、これもまたさばきびとに罰せられる悪事だ(旧約聖書/ヨブ記第31章)」。前に姉が旅行でいったシナイ山の朝陽の写真を見せてもらったことがある。モーセが神から十戒を授かったとされるシナイ山には今も多くの観光客が日の出の時間に合わせて登山するという。このときいくら太陽が美しくても誰も手を合わせて拝むことはしない。
1月28日(金) なまじ親切心をだして他人にお節介をすると裏切られるのが世の常か。不愉快な気持ちを振り払って外出し、霞ヶ関の官庁街から虎ノ門方面へ歩いているうちにすっかり気が晴れた。夕方には、今度は所用で帰りが遅い妻を驚かせてやろうと、予告なしに夕食のために材料の仕込みを始めた。ところがどうした訳か、やり慣れた玉ねぎの輪切りをしている時に自分の左小指を派手に切ってしまった(そもそも輪切りが間違いの元)。これはお節介でもなく、裏切られる筋合いでもないので、理由をつければ“慢心”というところか。慢心の反対は初心。今日、文字通りの初体験したのは、陶芸教室で炭化焼成用のサヤの中に作品を組み入れて、最後に持参した備長炭を入れてセットした事だ。これは初心のままに慎重にやったので問題なかった。”今日はついていない”というのは簡単だが、今日は初心忘るべからずの痛い警告を受けたと解釈しよう。
1月29日(土) 「今日の作品」に「ムカデオモチャ(水彩)」を掲載した。このオモチャは妻が昨年末、ニューヨークの娘家族のところにいった時のお土産だ。オモチャといってもニューヨークのMoMA(=The Museum of Modern Art/ニューヨーク近代美術館)で売っているお土産で、私はアメリカの土産ならMoMAのオモチャが欲しいと注文をつけておいたもの。ムカデ(百足)という名前にしたが、これはゼンマイを巻くと八本の足でのそのそと動く。単純だが他ではない名品だと気に入っている。MoMAのお土産コーナーにあるものは、どれもデザインが洗練されていて気持ちがいい。この「ムカデ」もMoMAのオンラインショップで購入出来ないかと調べたが見つからなかった(MoMAのサイトはここ)。百足のタイトルをつけると面白い事に気がついた。百足(ムカデ)は英語はcentipede。centは「100とか100分の一」を表す(centimeter=1/100m、1cent=1/100dollarなど)。また、pedeは足だ(pedal=足踏み板、pedestrian=歩行者)。つまり、centipedeはそのまま「百足」。今回描いたムカデちゃんは、単独では寂しかろうと花や蔦を一緒にした。

1月30日(日) 不祥事が明るみに出た時には責任者が頭を下げて「再発防止に努めます」ということに決まっている。テレビの画面で何度同じような構図や言葉を見聞きすることか。医療ミスや官公庁の失態、企業の不良品や事故、センター試験のミスなどあらゆる分野で「再発防止」が約束される(これを伝えるマスメデイアだけは自らの失態を認めないが)。けれども「再発防止」は決して容易な事ではない。まず、不祥事の原因追及がどれほど真剣に行われるかが一番のポイントだ。なぜそうなったかは単純でない。何故、なぜ、ナゼ、なぜを数回先までさかのぼり原因を調べるのは常道。直接の原因から間接的な原因、心理的な原因、人間の問題、システムとしての問題など原因は多岐にわたる。真の原因が表面上に見えないこともよくある話だ。「再発防止」の作文だけでは意味がない。地震の再発防止はできないが被害を最小限にする方策はある。場合によってはこうした考えも必要であろう。・・かつて機械の不具合で悪戦苦闘した当時を思い起こし、「再発防止」の言葉は気になってしようがない。
1月31日(月) 頼まれて携帯電話の修理品を受け取りに渋谷のドコモショップに行ったら、30分も待たされた。その前に渋谷の東急ハンズで買い物をしたが、これは3分で終わった。続いて自転車で気軽にドコモに立寄ったのでだが、郵便局のように先ず番号札をとって待機する。10分後、番号を呼ばれると、お金を支払い、フロッピーのデータを携帯に移し替えて現物を受け取るまで更に20分。そうか、ドコモはNTTだったのだと、ここにきて納得した。”お客を不当に待たせる”のは以前は官公庁とか準役所に決まっていたが、最近は随分改善されたように思える。たまに役所にいく用事があると予想外に対応が親切でびっくりすることがある。銀行も如何にお客の待ち時間を少なくするかの工夫がみえるし、悪名高かった病院にしても、待ち時間短縮の努力は感じる。そこでドコモ。あえて云うと、現場の女の子など担当者は実にてきぱきとよく働いている。それでも結果的にお客が不満に思うのはショップのシステムの問題だろう。ショップの責任者が現状を正常とみるか、異常(不良)と思うか、そこが分かれ目だ。
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