これまでの「今日のコラム」(2005年 4月分)

4月1日(金) アメリカ・フロリダ州のシャイボさんという一人の女性の死亡に関する騒動をみていると米国の複雑さがみてとれる。シャイボさんは26歳から実に15年間植物状態で人工的な栄養補給で命だけながらえていた。夫が尊厳死を望み、一方で延命を求めるシャイボさんの両親と対立。司法(裁判所)は尊厳死を認めたが政治(大統領まで含めて)が両親に同情する形で介入し世界的なニュースとなった。結局、米連邦最高裁が両親の訴えを却下(尊厳死を認めた)後に栄養補給チューブを外されたシャイボさんは31日死亡した。私が異様に感じたのは夫に対して両親が「娘を返せ」などとヒステリックに叫ぶ様だ。41歳になった15年間意識もない娘さんを「返せ」といい、これが大きな世論となるのが米国。尊厳死を認めるのも米国。日本の世論がどうなるのか知らないが底流に米国の強固な保守層があるが故に政治がからむ。肉親に対する情はある程度は分かるが、私自身について云えば、もし私が植物状態になったら一切の延命は不要と遺言をしなければならない。意志なく心臓だけ動かすのは私ならば望まない。
4月2日(土) 案内をもらったので都心の「朝市」にいってみた。表参道のそば、青山通りに面した一等地にある「スパイラル」で、今日、明日の二日間、早朝7時から開催とある。この朝市、サブタイトルが、Flea Market=フリーマーケット、つまり蚤の市。ところが蚤の市という呼び名に相応しい中古品とか骨董品は扱っていない。洒落た雑貨品や洋書、食べ物など、さすが青山通りの店と思わせるものを並べている。こちらはテニスに行くついでに7時過ぎに野次馬としてのぞいてみただけであるが、この「朝市」に特別の目新しさとかインパクト(衝撃)を感じない。理由を考えてみると、それは朝市どころか24時間の市としてコンビニが定着していることによると気がついた。コンビニは朝の6時であろうが夜中の12時であろうが、期間限定などなしに常時開店している。朝市がなくても全く不便を感じないが、家の近所のコンビニがなくなると我が家は困る。都会の朝市に行ってコンビニの有難さを再認識したのが何か面白い。
4月3日(日) 花見には少し早いが穏やかな春の日差しにつられて多摩川(東京・大田区)の河川敷に花を摘みにいった。家からは電車を使い30分ほどで丸子橋近辺の河原につく。東横線の鉄橋を右手に、新幹線の鉄橋を左手に見ながら草の上に横たわっているだけで非日常を楽しめる。妻は草むらでシロツメグサ(白詰草)を集めて花飾り(冠)を作った。私はタンポポ(蒲公英)やスミレ(菫)ぐらいしか草花の名前は分からないけれども、河原の草むらには他にも沢山の花が咲いている。娘と孫娘は草花をみつけると宝物のように袋にしまい込んでいた。明日の今頃には娘と孫娘はニューヨーク向けの飛行機の中だ。ようやく確保出来た半日の時間を花摘みに使えて思い出ができただろう。
今日のニュースはローマ法王「ヨハネ・パウロ2世」の死去。以前、フランスの映画俳優、ジャン・ポール・ベルモンドが、別の読み方では「ヨハネ・パウロ・ベルモンド」であることを知って驚いたことがあるが、それ以来特別に親しみを持っていた。東西冷戦を氷解させた影の立役者とも云われるポーランド生まれの「J.P.2世」の後にどのような人が選出されるのか、バチカンの煙の色に注目したい。

4月4日(月) 娘が夫(日本人)の待つニューヨークへ孫娘を連れて帰っていった。一昔前ならば九州の勤務地に戻るといった感覚だろうか。今日開幕した米大リーグではニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜が初戦から大活躍した。2ランホームランを含む5打数3安打3打点、しかも守備ではホームランになりそうな球をジャンプしてキャッチする大ファインプレーを演じた。今シーズンもイチローと共に松井秀に期待がかかる。ところで今シーズン大リーグで開幕を迎えた日本人は12人、キャンプに加わった選手は16人に及んだという。今や16名全員の名前を挙げられる人は余程のプロ野球ファンだろう。この際、調べてみると以下であった:バッターでは、イチロー、松井秀、松井稼、田口、井口、中村、ピッチャーでは、野茂、石井、長谷川、大家、高津、大塚、それに、木田、多田野、薮、友利。インターネットに象徴される国境のないボーダーレス社会が色々な職業分野でも現実となってきている。そして「今日のヒラメキ?」。今度ニューヨークに行く時にはヤンキースの試合スケジュールに合わせて野球見物をしよう・・。
4月5日(火) 時代の変革時には要領のいい人間がチャンスを活かして大金持ちになる。最近、IT(情報技術)にからんで大成功した若者が大金を動かすやり方が注目されるのは周知のところ。若くして大金を得た人間が次に何を欲しがるのか人それぞれと云いたいところだが、奇妙な傾向があるのはどうしてだろう。ソフトバンク、楽天、そして、ライブドアなどそろってプロ野球に目をつけた。次は、マスメデイアか。いずれも大衆を煽動する人気商売であるところが似ている。「虚構を煽る」のも、よく云えば「夢を与える」。自分のことを美化することはどうでもできるが、従来の古いマスメデイアが新規参入者に対して「倫理がない」とか「お金のことしか考えない」とかいうのはナンセンスもいいところだ。古参金持ちが新しい金持ち以上に倫理性があるなどと誰も思っていないだろう。云うまでもない事だが、世間が尊敬するとか認めるのは金の多寡ではない。少なくとも私の価値観としては、自分のためにどれだけ金を貯めたかでなく、他人が心底喜ぶことをどれだけしたかで人を判断したい。
「今日の作品」に「小皿/鯉(陶芸)」を掲載した。3月19日に書いた下絵(コラム=ここ)の陶芸完成品。追って下絵と完成品を並べて掲載する予定だ。


4月6日(水) たまたま外出した時間に小学校の入学式に向かう子どもと両親に出会った。正装した父親と母親が少女の手を引いて校門を通る。その頭上には満開の桜!ドラマのようなシーンにしばらく見とれていた。桜はやはり日本人の感性を揺さぶる何かがある。本居宣長が「しきしまの やまとごころを人とはば  朝日ににほふ 山ざくら花」と詠んだ心がわかる。 「このはなさくやひめ=此花(または木之花)咲耶姫」という美しい姫が富士山から蒔いた種で国中に広まったので「さくら」と名付けられたとされるこの花は、一斉に鮮やかに咲いたかと思うと直ぐに散ってしまう。散り際に美を感じるのは日本人独特の美意識であるようだが、桜は一年後にまた確実に花を咲かせる。「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせし間に」(小野小町/古今集)。絶世の美女で才女でもあった小町はもちろん我が身の色香の移り変わりを知っていたが千年後に自分の歌が愛誦されることを予想しただろうか。小町が思い焦がれていた(?)在原業平はこんな歌を詠んだ:「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」(古今和歌集)。桜を詠んだ歌はどれも有名だが、この歌も欠かすことが出来ない:「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」(西行)。
4月7日(木) 今日もまた桜の話。満開に咲き誇る桜並木(東京・中目黒川沿い)をアール(コーギー犬)と散歩しながら”桜の科学”を考えた。現実に一気に満開となった桜の花を目の前にすると、これは尋常のことではない。なぜ桜は枝の根元の花も先端の花も、ほとんど全ての花が同時に、短期間で開花するのか。それぞれの花芽に均等に養分が行き渡り、またそれぞれの花芽が気温などの自然条件をキャッチする正確なセンサーを備えていなければ同時開花はできないだろう。どのような仕組みで桜だけ独特の開花をして、また一斉に散るのか。家に帰ってから、桜の開花のメカニズムについてどの程度解明されているか調べてみたがよく分からなかった。「前年の夏に花芽が出て落葉のころ休眠に入り、冬の寒さで目が覚め、春にかけて芽が膨らむ」という説明もあるが、これは桜に限ったことでないだろう。また、「河津桜は早とちりで一度寒さを感じるとまだ晩秋なのに花芽が眠りから覚め、真冬の時期でも暖かい日があると花芽を膨らませていく」という記述もあったが、「花芽のセンサー」については分からない。実際に今の科学が桜についてどの程度解明しているかの全容は知る由もないが、桜の不思議はとても究明し尽くすことなどできそうにない。
「今日の作品」に「小皿/鰈(かれい)<陶芸>」を掲載した。この鰈の絵は焼き物ができあがった後加筆したもの。陶芸コーナー(ここ)には下絵を並べて掲載した。

4月8日(金) ヤンキースタジアムでMLB(=Major League Baseball/大リーグ野球)を観戦出来ないかとインターネットで調べてみた。さすがに今は日本人の観戦ツァーもあるし、日本語で大リーグの切符を予約することもできる。ニューヨークヤンキースが地元で試合をするスケジュールをみると5月28日とか29日がいいなあと調子に乗って進んでいったが、座席の値段を見てびっくりした。はじめに見たところが$937.5とある。10万円以上とは何事だ!やがて最も高い座席から順に表示されていたことが分かったので、最低価格の順にしてみると$40からあるのでホッとした。それでも3階の階段最上段でも$70程度だ。実のところ私は日本のプロ野球をスタジアムで見たのは数えるほどしかない。しかも、甲子園、後楽園、神宮球場どれも切符をいただいていっただけ。自分で切符を購入したことはない。はじめてヤンキースタジアムの切符を買うのは魅力的だが果たして実現出来るだろうか・・
4月9日(土) 昨日、バチカンでローマ法王、ヨハネ・パウロ2世の葬儀が行われた。宗教とか神について(特に日本人にとっては)真剣かつ徹底的な考察は容易なことでない。それでも外国の優れた思想に触れることはできる。20世紀が生んだ偉大なカトリックの哲学者とされるジャック・マリタン(=Jacques Martain,フランス生まれ、1882-1973)はそんな思想家の一人だ。故ローマ法王もその著書を読んだに相違ない。私はジャック・マリタンの名前を、はじめ「芸術家の責任」(九州大学出版会刊)という著作で知ったが、現代でもその思想や哲学には精気を感じる(ノートルダム大学にJacques Martainのホームページがある=ここ)。マリタンは基本的には人権や自由の意義を理解する自由主義者であるようだが、全体主義を批判するのと同時に、自由主義の「自己の利益を極大化する」考えを批判する。また「人間の善」の意味を重視する。芸術についても無政府主義的、退廃的なポーズが横行する風潮に対して「倫理生活の尊厳と責務」などの指摘がされるとハッとする。マリタンの思想の片鱗に触れると、価値観が多様化したなどと云われながら我々の周辺にはマスコミなどによる類似の価値情報だけが充たされていることに気がつく。時には倫理哲学も面白い。
「今日の作品」に「小皿/梅(陶芸)」を掲載した。桜の季節に梅を掲載してしまった。
     4月11日分
 
4月10日(日) 中宮寺の菩薩半跏像さまにお会いしてきた。奈良・斑鳩の里から今は上野の国立博物館での展示のためはるばる東京までお越しいただいている(特別公開は4月17日まで)。この国宝 菩薩半跏像は頬に右手の指先を軽く当てて優しくほほえみをたたえて思惟する姿が余りに有名である(写真はここでみられる)。あたらめて360度、全ての方向から拝見したが、これは同じ仏像といっても明らかにインドやタイの仏像とは異なった日本独自の仏像である。静けさとか優しさが日本的というべき繊細な感覚で表現されているのはやはり感動的。1300年前のセンスや技能に圧倒されるばかりだ。いま、桜の季節、国立博物館の庭園も公開されていて、これもお勧め(年に春と秋の一時期のみ公開される)。更にお馴染みの上野公園の桜はまさに見頃。こちらは花吹雪を浴びながら雑踏の中を歩いたのであるが、周囲の酒盛り集団と満開の桜を交互に眺めながら典型的な日本の花見を楽しんだ。今日の日曜日、「上野に行ってよかった」一日だった。
4月11日(月) いま上野(東京)の国立博物館で「ベルリンの至宝展」が開催されている(6月12日まで)。ベルリンの博物館島(島全体が数個の博物館から成り立つ)は世界遺産にも登録された歴史ある大博物館であるが、今回その至宝の一部を上野でみることができる。興味深かったのはドイツの考古学者が収集した古代エジプトや古代西アジアの遺跡などが展示品の半数を占めるところだ。しばしば指摘されるがイギリスの大英博物館にしてもフランスのルーブル美術館でもエジプト、ギリシャ、ローマその他世界中の美術的財宝をかき集めたような趣がある。ベルリン博物館もこれに劣る事はない。過去に強国が自国に持ち帰ったのであるが、私はこのような「歴史遺産」は人類の遺産であって最早特定の国の所有物ではないと考える。勿論、その価値を認めて収集しなければゴミとして散逸する可能性もあった。価値を発見することから遺産が生じる。日本人は輸出用の陶磁器の包み紙に使った浮世絵が西洋人に注目されて初めて浮世絵の独自な価値に気がついた。「人材」という価値なども身近な集団でなく離れた社会の方が的確に認めるものかも知れない・・。
「今日の作品」に「小皿/ススキ」(陶芸)を掲載した。一連の小皿とその下絵の比較シリーズ(陶芸コーナー参照)。

4月12日(火) ニューヨークのヤンキースタジアムで大リーグ野球、ヤンキースvsレッドソックス戦を観戦しようと具体的な手続きを始めた。松井秀喜のホームランをこの目で見ることが出来るかも知れない。それにしても日本のプロ野球の低調さはどうしたのだろう。先日、NHKテレビで巨人戦の放送があったが直ぐに他のチャンネルに変えてしまった。巨人が弱いから見ないのではない。工藤、清原、小久保などベテラン移籍組が目立つ姿勢に興味が湧かないのだ。弱くても楽天の試合ならば見たい。何か新しい息吹を求めたい。女子ゴルフがなぜ活気があるか。云うまでもなく、10代の藍ちゃん、さくらちゃんの活躍による。先日、テレビでマスタ−ズで優勝したタイガーウッズのミラクルショットを見たが、こんなショット一つをみるだけでゴルフも面白いと思う。見るスポーツの魅力は、ずば抜けたパワーと華麗な技とハッとする切れ味だであろう。これがあれば観客は集まる。昨年の今頃、東京ドームで巨人−ヤクルト戦をみたが、今年はヤンキースタジアムで大リーグ野球を観戦できるだろうか。今から日米の野球の違いをみるのを楽しみにしている。。
4月13日(水) 人は好むと好まざるにかかわらず特定の範疇に組み入れられる。学生、サラリーマン、事業主、公務員、教師、聖職者、退職者、無職の人、団塊の世代、熟年、更に”日本人”など誰でもがいくつもの枠組みの中にあるだろう。例えば、教師や聖職者がハレンチな事件を引き起こすと全く関係のない真面目な人まで同じ範疇であるということだけで何か恥ずかしく思ったりするし、日本人が外国で悪い事をすると連帯責任を感じることもある。私の場合、時々「犬の飼い主」という仲間に落胆させられる。それは糞の不始末。早朝犬を散歩させている時に立派な他人様の玄関先や舗装道路の真ん中などに大きな糞を残してあるのに出会うとそのまま通り過ぎることができない。しようがないのでこちらで清掃・処分することもあるがどうも納得がいかない。「犬の飼い主」でない人がみれば、私も不始末の人も同類の憎き奴に違いない。大部分の好ましい犬仲間の人に極一部の「不始末人間」が混じるとグループ全体が悪者になる。当面は他の犬さまの落とし物も拾ってやるかとも思うが何か”妙案”はないものだろうか・・。
「今日の作品」に「 登窯焼き茶碗A<陶芸>」を掲載した。登窯で焼いたこの茶碗、いま毎日食卓で愛用している。茶碗の裏からみた写真を陶芸コーナー(ここ)に掲載した。
     4月15日分

4月14日(木) 1996年にオランダ・ハーグのマウリッツハウス美術館で「フェルメール展」を見る機会があったが、その時美術館のそばで「フェルメールの贋作展」が同時に開催されていた。フェルメールの贋作はそれほど有名かつレベルが高い。ナチスドイツが連合軍に敗れた後、ナチスのトップの一人、ゲーリングの妻の居城からフェルメールの名品が発見された。オランダの至宝であったフェルメールの作品がドイツに流れたルートを調査した結果、メーヘレンという人物が逮捕され売国奴として裁きにかけられる。そこでメーヘレンはこの作品は自分が描いた贋作で他にも多数のフェルメールの贋作を描いたと告白する。当初、メーヘレンの自白は信用されなかったが、裁判所の中で多くの人を前にして絵筆をとり贋作を描いてみせたという話が伝わっている。それ以降フェルメールの作品は厳しい鑑定を受け作品数は激減した。最近のテレビ、「お宝鑑定団」でもしばしば贋作が指摘される。こうした贋作者は素人(あるいはかなりの専門家)が騙されるほどの技量を持ちながら何故他人の名前を語るのか不思議に思える。自分のサインを入れるよりも有名人の筆跡とするだけで100倍、1000倍の値段がつくからというのであれば、金のために悪事を働くだけだ。自分でも有名画家と同等のものは描けるという自負もあるのかも知れないが、所詮物真似に過ぎない。どちらにしても、“名品”を作る技量のある者が自らのオリジナル作品を作るとどんな作品ができるか見てみたい気がする。ただ、残念ながら、オリジナリテイは必ずしも”市場価格”とか“有名”とは結びつかない。
4月15日(金) 今日発表されたところによると、ダイエーは2005年2月期の連結最終損益が5111億円の赤字だという。一昨日にはダイエーの新社長に日本ヒューレット・パッカード(HP)の樋口社長(47歳)を迎えることが報じられていた。ダイエーの会長兼CEO(=最高経営責任者)には前BMW東京社長の林文子さんが内定している。女性のCEOということでは、三洋電機のCEOに野中ともよさん(50歳)が選ばれたというニュースもあった。いずれもその業種と全く畑違いの人が新たな舵取りをするところが共通している。その道一筋のベテランとか専門家は視野が狭く、発想も固定化されているので本当の革新はやり難い。先ずできない理由をいくらでも並び立てる。これは企業にかかわらず政治や官僚機構などでも同じだろう。実感としてはモノツクリやアートなどでも同様のことがある。絵でも陶芸でも何でもそうだが、行き詰まった、アイデイアがない、意欲がわかない、新鮮味がない・・そんな場合には全く違う分野に接するのがいいと思っている。異分野にはヒントを与えてくれる刺激が満ち満ちている。
「今日の作品」に「登窯焼き茶碗B(陶芸)」を掲載した。この茶碗の内面には事前に何も釉薬をかけなかったが、登窯で写真のような灰による適度の釉がかかった。

4月16日(土) モノツクリには完璧ということはなく、ある確率で不良品が発生する。この不良の原因を分析する際に「パレート図」を使用する(netではここ参照)。多くの原因を項目毎に整理し発生件数(あるいは損失金額)の順に並べてグラフにするのであるが、概略は「80%の件数(あるいは金額)は20%の項目で決まる」ことが統計データーから判明した。つまり、不良の原因が10項目とすると、その内2項目をなくせば、不良の80%はなくせることが分かった。この「パレート図」の考えは、100年以上前に(19世紀末)にイタリアの経済学者パレートが提唱した「パレートの法則」、別名「80対20の法則」からきている。この法則は「大勢は少数の要因で決定される」という経験則であり、現代においても広く知られている。「80対20の法則」の例として、よく取り上げられるのは、「売上の80%は全商品(あるいは全顧客)の20%による」、「成果の80%は費やした時間の20%で得られる」、「試験問題の80%は全出題範囲の20%」など。要は最小の労力で最大の効果を上げるために重点的な対応をすればよい。また全てに満点をとる完璧主義でなくて20%のポイントだけ抑えれば80点はとれると教えている。・・ただ一般論としては「80対20の法則」でもいいが、自分のように、売り上げに寄与しない客、成果(金)とは無関係の時間を使う立場から云えば、大勢に影響を及ぼさない80%の分野を軽んじてはいけない。やはり目指すのは不良零、完璧なモノツクリだ。

4月17日(日) 米国でハンバーガーチェインの「マクドナルド」が50周年を迎えたという記事があった。1940年にマクドナルド兄弟が開いたハンバーガー店は”スピードサービス”で1948年頃非常に評判となった。営業マンで企業家でもあったクロックという人物がこのマクドナルド方式に興味を持ち1955年にフランチャイズ化を請け負ってイリノイ州に開いたのが一号店。これが大成功して、以来50年。いまでは世界119カ国に3万以上の店舗を展開する(日本の店舗数は3700余で世界第二位)。フランチャイズ(=franchise)は辞書では「公民権、選挙権、あるいは特権、許可」とあるが、ここでのフランチャイズは「商標その他の営業の象徴となる標識・および経営のノウハウを用いて、同一のイメ−ジのもとに商品の販売その他の事業を行う権利を与える」のに対して相応の対価を得る契約を交わすこととなるようだ。マクドナルドは最近は栄養の問題やら、スローフード指向、BSEの影響など必ずしも順風でないが、私なども安い、価格破壊のマクドナルドを期待してまだ利用することはある。それでもスーパーダイエーの例を見るまでもなく、マクドナルドが70周年、80周年を同じように迎える事が出来るかは誰も分からない。
「今日の作品」に「登窯焼きぐい飲み(陶芸)」を掲載した。これも今は日常の愛用品となっている。

4月18日(月) 今週末に陶芸教室の会員作陶展があるので出展品のいくつかには売値を付けなければならない。その値段の付け方に会員それぞれの思惑があって面白い。どうしても売りたくない作品には5万円でも50万円でも、絶対に買わないであろう値をつける。前回の作陶展(一昨年)では私もあえて高い値をつけて売らないようにした。会員の中には質のいいものを安く売り払う人もいる。粘土代プラス焼成費程度は出るかも知れないが、制作代はほとんど零で自分の作品を手放す。私はなかなかそう割り切れないが、今回は私も小物の花器を妥当な値で売ろうと思っている。けれども「市場価格」は流れ作業で大量に制作する場合の原価で決められるので、手作りの作品では所詮「儲け」はない。値段を付ける身になると、モノの価格とは何ものだろうかと改めて思う。買う人にしても欲しいから買う、安いから買う、高いから買うなど様々。値段によってモノの価値が勘違いされることもある。プライドを保つならば、3000円で売るよりは本当に欲しい人にはプレゼントして譲ってもよい、といって3000円でもお金を払ってくれるとはありがたい。・・など色々考えるところはあるにしても、生活の糧とするのでない値付けはまあ気楽なものだ。
4月19日(火) 「コンクラーベ」が日本でも注目されている。今現在、バチカンのシステイナ礼拝堂で進行中である「コンクラーベ」で多く(115人)の枢機卿の互選によりにローマ法王が選ばれるが、日本では何といってもこの言葉自体が日本語的で一度聞いたら忘れられないので親しみをおぼえる。CONCLAVEはラテン語の"cum-clavis”から来た言葉で、”with key"、つまり"locked","locked room"の意、日本語では「鍵のかかった部屋」と解説されている。先に84歳で亡くなったローマ法王、ヨハネ・パウロ二世は58歳で法王に選ばれ、在位26年余は歴代の法王の在位長さの3位であった。信者でもないわれわれも、互選で選ばれた法王は終身その地位を努めるとか、コンクラーベの間は枢機卿は外部との接触を一切断つ(互選の経緯も一切外部には出さない)という現代離れしたシステムに興味をそそられる。コンクラーベの歴史をみると、例えば185代法王(1271-1276)は「会議で一致を見るまで枢機卿にはパンと水を与えないことにしてようやく選出された」など生々しい様子がうかがえる。現代の枢機卿たちは食事をとっているのだろうか。今朝(日本時間)、第一回の投票は黒い煙。さて白煙が上がる(2/3の票を得て法王決定)のはいつになるか・・。
4月20日(水) 4-5日はかかるのでないかといわれた「コンクラーベ」(法王選出選挙)で意外に早く新ローマ法王が選出された。ドイツ出身のラツィンガー枢機卿(78歳)が新法王となり、これからはベネディクト16世と呼ばれる。前のヨハネ・パウロ2世が在位期間が26年と余りに長過ぎたので、つなぎに「年寄り」が選ばれるのではとの予想もあったが、そんな単純なものではないだろう。今は78歳から20年間の職務遂行も夢ではない。ただし、自分の限界をどう見極めるか。老人の引退時期は難しい。・・今日は年齢や老人のことに頭がいってしまうのは、もう一つのニュース「丹羽文雄100歳で死去」をみたことによる。かつて文壇の大御所であり、丹羽ゴルフ学校で文壇人にゴルフを教え、文士劇でも活躍した古きよき時代の作家は、この20年間痴呆症であったという。10年間以上痴呆症の父親を介護した実の娘さんが先に逝ったことも痛ましい。老人ーボケからどういう訳か同じ作家の三島由紀夫を連想した(多分、三島の代表作「豊穣の海」の老人のシーンが記憶にあるのだろう)。三島由紀夫が45歳で自決した時(1970年)、丹羽文雄は65歳。その後丹羽は100歳まで生きた。人生いろいろ・・。
4月21日(木) 妻はひどい花粉症で悩んでいるが私は全くなんともならない。私は、子どもの頃には山で木登りをし川で泥んこになって遊んだ。それに食べ物も質素だったから「免疫」ができているのだというと笑われる。これは半分は本当と思うほど自ら清浄栽培とはほど遠く不衛生には自信(?)がある。「免疫」とは「病原菌や毒素がからだに入っても病気にかからない(かかりにくい)ような状態にあること」と辞書(新明解/三省堂)にある。病理学的には別であろうが「免疫」に対して花粉症とかアレルギーはある種の「過剰反応」ではないだろうか。人は精神的にも、もろもろの「免疫」をつけていないと、余りに多い毒素に一々過剰反応していると身がもたない。話は飛躍するが最近の「中国の反日デモ」報道なども過剰反応の気味がある。日本の人口の10倍、13億もの人口をかかえて反日宣伝に乗せられる人1000人に一人として13万人。100人に一人の親日家ができれば将来はうまくいく。仮に1000人に一人が自由意志でデモに参加する”味”を知ったとしたら一番困るのは中国の権力者の方だろう。・・それにしても花粉症の特効薬がないのが不思議だ。
4月22日(金) 今日から陶芸教室の「作陶展」が始まった(上記)。「作陶展」は自分の作品を多くの人に見ていただく意味が大きいが、私にとっては他の会員の作品を見る貴重な機会となる。教室で他の会員の完成品をみることはほとんどない。顔なじみであってもどんな作品を創っているのか余り知らない。今回、一つ一つの作品をじっくりと見て回って正直うれしくなった。「教室」でありがちなワンパターンの傾向が全くない。皆がそれぞれに個性があり表現したいものがみえる。技術やセンスもレベルが高い。一般の絵の展覧会でも陶芸展でも何かインスピレーションを得られるのがいい展覧会と決めているが、一番身近な自分たちの展覧会にそれを感じた。「宝の山は足下にあり」という。この教室仲間の作品から新たなエネルギーをもらうことができるのは幸せだ。
「今日の作品」に「花器に生け花(陶芸)」を掲載した。登窯で焼いたこの花器は今回の展覧会には出展しなかったが家では写真のように使っている。

4月23日(土) 米国で「コンピューター無使用週間」を普及させようという運動があることを知った。この"PC-Turnoff Week"は、"TV-Turnoff Week"にならったもので、家庭でのコンピュータの使い過ぎの害悪を防ぐ目的という。特に「子供への肉体的、精神的悪影響」を問題にしているのはテレビの場合と全く同じだ。いま日本でも”まともな”家庭ではテレビ離れは当たり前になりつつある。テレビを見ない方が”進んで”いる。コンピュータゲームやインターネットも物珍しさから一息つくとマイナス面が無視出来なくなる。テレビやコンピュータ、更に携帯電話を含めた情報機器の発達が人間の知力を低下させるという研究もある。「注意力欠陥症」(ADD=Attention Deficit Disorder)といって情報が多過ぎて一つのことに集中出来ない障害が現実のものとなっているようだ。実感として非常によく分かるのだが、何かを創造するとかアイデイアを考える場合、情報を集め過ぎるのは何の役にも立たない。むしろ静かな「瞑想」が効果がある。子供や若者にもテレビとコンピュータを離れて「瞑想の時間」を持つことを是非勧めたい。
4月24日(日) 金曜日から3日間開催された「作陶展」(陶芸教室の会員による陶芸展) が終わった。自分の作品が多くの人から見られるということは他人の批評など気にすることはない私でも少しは緊張する。誰のどんな作品に対しても、人の感性、好みは10人10色を実感する3日間であった。私が出展した「ヘロンの噴水」や「卓上噴水」(このHPで写真<ここ>を掲載しているが実物をみる方がずっと大きく感じると云われる)についても興味がない人と非常に興味を持ってくれる人とはっきり分かれるのは面白いほどだった。噴水のシシオドシを見て「チョーかわいい」と云ってくれた人がいたが、これなど私はお世辞抜きの最大限の褒め言葉と思ってうれしかった。私自身、他の人の作品と自分の作品を同列に並べてみて啓発されるところが多い陶芸展でもあった。自分の未熟なところが見えれば見えるほど進歩の余地は多くなる。これからやるべきこと、やりたいことがいま山ほど頭に浮かんでいる。
4月25日(月) 一昨日に発生した「ウィルス対策ソフトを更新するとコンピュータが不具合になる」というトラブルほど皮肉に満ちたものはない。何もしなければ問題はなかったであろうが万一の不法な侵入者に備えた防御対策が大問題を起こす。笑い話のような事件だが被害は個人に限らずJRなどコンピュータ不良で社会的な混乱まで引き起こした。この事件で有名になったソフト会社の「トレンドマイクロ」の株が今日は大幅安になったのもしようがないだろう。トレンドマイクロは原因をウィルス対策ソフトのパターンファイルに追加されたパターン判定機能に問題があったとしている。圧縮形式のファイルを解凍・検索する際にプログラムのミスでWindows XPなどのOSでは無限に検索を続けることになってしまったという。最終的にはそれぞれのOSについてのテスト・検査工程が甘かったという、これもコンピュータの専門家としてはお粗末な話であるが、余りに種類の増えたOSについての象徴的なトラブルではある。ウィルス対策ソフトに限らずOSのバージョンアップその他自分のパソコンの基本が日々変えられているが自分では中身は分からない。コンピュータは綱渡りの上に成り立っていると考えた方がよさそうだ。
4月26日(火) 「百両の 石にもまけぬ つつじかな(一茶)」。犬の散歩の時、新緑の中に華やかに咲いているツツジが目についた。そうか、来週はもう5月。いつもながら草花の季節をとらえる正確さには驚くと云う以上に畏れ入る。ツツジとかサツキ、ドウダンなど自分でも十分区別出来ないので本棚から「日本の樹木」(山と渓谷社の本)をとりだして、この際はっきり覚えようと思ったが反って分からなくなってしまった。それほどにツツジの種類は多い。ツツジ科は世界に約82属、2500種あり、日本には22属、91種(ツツジ属に43種)あるそうだ。高原などに群生している花の大きな「レンゲツツジ」、山野に生える「ヤマツツジ」、九州地区の「ミヤマキリシマ」、やはり薩摩から京都、江戸に広まったとされる「キリシマ」などは名前はお馴染みだ。「サツキツツジ」は園芸種の数が多く、それぞれに「暁天」、「寿光」、「松鏡」など凝った名前がつけられている。「シャクナゲ」もツツジ属である。それでは今朝見たツツジはなんだろう。明日の早朝散歩でじっくり観察することにした。
<明27日、箱根に行くことになり、コラムは休みます。「 あま酒の 地獄もちかし 箱根山」と蕪村が詠んだ甘酒を飲めるかも知れません。>

4月28日(木) この何日間か次の大物陶芸作品のアイデイアを求め続けているがまだ焦点が定まらない。一つには外観の仕上げを、口幅ったい言い方だが「芸術性」を高めたいと思うところがあるけれども、一方で自分の個性や特徴をもっと前面に押し出したいとも思う。自分の特性は何か考えるに、「こうあるべき、こうでなければならない」という規制にとらわれない「フレキシビリテイ」、それと意外性とか面白さの追求かな。具体的には、陶芸による「カラクリ」とか「仕掛けもの」を頭に浮かべているが、下手をすると陶芸としての必然性が見えなくなってしまう。陶芸のよさを「仕掛け」の中にどう活かすか、仕掛けも自己満足でなく見る人にアピール出来るかどうかが考えどころだ。昨日−今日の旅行最中にアイデイアが浮かぶと直ぐにメモをとった。明日からのゴールデンウィークにも更に考えを練ってみよう。粘土を練って形を作る前のこうした紙上での「創作」がまた楽しい期間である。
4月29日(金) 「みどりの日」の今日、椿山荘(東京・目白)での結婚式に招待された。天気は夏のような日差しで汗をかくほどだったが爽やかな披露宴。広大な庭の新緑が眩しく心地よかった。緑に刺激された訳でもないが「今日の作品」に「茶碗に草花」を掲載した。この「作品」は悪戦苦闘の末にできあがった。茶碗は3月4日のコラム(=ここ)で書いた「一度壊したものを復元した茶碗」である。愛用していた自作の陶芸茶碗を手を滑らせて粉々に(!)割ってしまったので接着剤でくっつけて復元し、更にうるし系の塗料で接着部を塗装して仕上げた。割れ目もほとんど分からぬ程度に完璧に復元できたと思ってコーヒーやお茶を飲み始めたがどうもおかしい。塗料の匂いが取りきれないことが分かり、それからはコーヒーの粉を擦り付けたり、夏みかんの皮を入れたり、糠(ぬか)をお米屋さんから買ってきて何日間もぬか漬けにしてみたり・・。それでも塗料の”味”が取りきれない。ついに茶碗の用途は諦めて植木鉢として使用することにした。底に10mmほどの穴を開けるに当たっては陶芸教室の経験者からノウハウを教えていただき時間をかけてシコシコと陶器に穴を彫った。植物は「紫蘭(しらん)」と「斑入り(ふいり)オオバコ」それに苔などを準備、苔玉やら鉢植えのやり方を参考にしてブレンドした土を使って植え込み、ようやく本日完成したものだ。出来上がった寄せ植えをみると茶碗も第二の”茶碗生”を歩めそうなのでホッとしている。

4月30日(土) 「その後のシンデレラ」を読み始めると止まらなくなった。清水義範著、初出誌は1997年の「小説」である。世界の名作童話のその後の結末を描くのだが、童話のハッピーエンドだけでは終わらないのが人生ですよと云っている。心やさしく頭もいい、それに美しいシンデレラは継母にいじめられながら最後に王子さまと結婚する。その後のストーリーは「浮気者の王子が愛人に子どもをつくらせる。シンデレラはこの子を引き取っていじわるな継母となる」。「ジャックと豆の木」では、豆の大木を登って天上の巨人国にいったジャックが金貨や金の卵を産む鶏などを盗んだ上に巨人が追いかけてくると豆の木を切り倒して巨人を殺してしまう(イギリスの童話)。こんなジャックの習性は変わらず、その後は「金貨は湯水のごとく使い果たし残った金の卵で船を買って冒険旅行にでる。異国の土地で住民を煙に巻いて香辛料、茶、麻薬などを輸入して大儲け、その土地の芸術品まで集めて大英帝国の大富豪となる」。こうした「その後」の人生物語は現代人の「その後」をも連想させる。幸せだったサラリーマンのその後、権勢を誇った政治家のその後、そして自分自身のその後・・。これが「小説」であるのであれば自分で小説を書くのもおもしろい。
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