これまでの「今日のコラム」(2005年 7月分)

7月1日(金) 月が変わって七月。家の中のいくつかのカレンダーのページをめくって七月にする。新しい月の写真や絵をしばしながめるのもこの日の楽しみである。私の部屋のカレンダーはデユフィー(近代フランスの画家、1877-1953)の絵を集めたもの。カレンダーには全部で12枚のデユフィーの絵があるが7月はチューリップとアネモネを描いた花の絵だ。デジタルの日付時計や自動カレンダーが普及してきても我が家では当分旧来の紙のカレンダーを使おうと思う。今日一日はもう一つ、待ちに待った粗大ゴミを出す日であった。従来のベッドの生活を改めて布団を使う事を決断した。10日ほど前にベッドを粗大ゴミで出すことを申し込んだが、ようやく今日持っていってもらった。処分費は3200円。コンビニで渋谷区の粗大ゴミ処理用の切符、300円*8枚、200円*4枚を買ってベッドの部品に貼付けたのも初体験だ。ベッドがないと部屋は広く使える。毎日布団の上げ下ろしは必要だがこれは適度な運動になる。モノは少なくても空間が広い方がゆとりがあるように思うようになってきた。その気で見るとベッドはなくなってもまだまだモノが多過ぎる。これからは「捨てる技術」を習得しようか・・。
7月2日(土) 珍しく家で「サウンドオブミュージック」のDVDをみた。このミュージカル映画は音楽と共にやはり”不朽の名作”の一つだと思う。舞台はオーストリアだがこのアメリカ音楽の独創性にあらためて引きつけられて何故かこの前にニューヨークで見た"STOMP"という音楽を思い出したので今日はSTOMPのことを書いてみたい。STOMPは「楽器でないもので音をつくりだすパフォーマンス集団」という解説があるが、辞書でSTOMPを引くと「米口語、英方言で=STAMP」とでている。STAMPは「刻印する、足を踏み鳴らす」の意であり、「何でも打楽器」のニュアンスになったと思われる。元はイギリスのストリートパーフォーマンスでスタートしたようだがニューヨークで10年以上のロングラン、世界中での公演などで今やメジャーである。箒、バケツ、ゴミ箱、煙草の箱、洗面台などなんでも打楽器にして驚異的なリズムアンサンブルを作り上げるのは見事だ。話だけだと漠然としているが今の時代、インターネットでデモの音を聴くもできる(=本場のHPはここ)。それにこの4月の名古屋万博の公演に引き続いて、8月に東京(品川プリンスホテル)で3週間の長期公演も予定されている(=案内はここ)。STOMPも初めは前衛であった。前衛が多くの人から理解されるところに人の感性の豊かさをみる。
7月3日(日) 「長嶋復帰」騒ぎには辟易してしまう。脳梗塞が回復したので巨人戦を観戦にくるのはいいとして日本テレビが生中継で長嶋様の表情を逐一放映するほどの意味がどこにあるのか。私も長嶋がデビューした当時は長嶋ファンであった。けれども引退後の長嶋の身の処し方を見ていて長嶋像は幻滅の一途をたどる。特に脳梗塞になった後、オリンピックの野球総監督を辞任しなかったことなど最低である。長嶋を見ていると一時社長となり権勢を誇った人間や芸もないのにテレビの売れっ子になった芸能人の一部に同種の傾向をみる。ちやほやする取り巻きしか周囲にいないと引退後も自分が特別な存在かと勘違いする。自分がかつてほどに人気者でないことを認めるのは本人には意外に難しいこともあるようだ。当人が分からないとすれば家族のアドバイスがポイントだ。調子のいいことしか云わない取り巻きに対して家族が本人のために云うべき事を云うしかない。長嶋の場合これも絶望的。「後進に道を譲った」後は、静かに、密やかに、謙虚に、そして人のために・・、こんな期待が長嶋を見ていると反対に増幅される。
7月4日(月) 「今日の作品」に「遊具部品A(陶芸)/乾燥後」を掲載した。これは6月27日のコラムで書いた(=ここ)が陶芸教室で半分制作したものを素焼き前に自宅に持ち帰り少しずつ仕上削りをしていたもの。一週間経ったところで乾燥後の状態を再掲載した(乾燥前後の比較は陶芸コーナー=ここ=に掲載)。早朝とか夜など陶芸教室ではできない時間に自宅で仕上加工をするのも楽しいが、土が乾燥していく様が毎時間、毎日観察できて面白かった。いま表面はほとんど水気がなく白く乾燥した状態で余程慎重に削らなければ割れてしまいそうだ。粘土の柔軟性に対して固く乾燥してしまうと自由な形ができなくなるのは象徴的である。「鉄は熱いうちに打て」というのもあるが固まったものはいわば終着駅であり新たな進展は望めない。人間や社会も同じ事であろう。組織の硬直化、儀礼や伝統にこだわる形式主義、頑固親父・・などみな固定すると発展はなくなる。私は人の若さも年齢ではなく柔軟性(flexibility=フレキシビリテイ)でみるべきではないかと思うことがある。フレキシビリテイーとは固定的に考えないこと、もっといい方法が別にあるのでないかと考えること、これまでのやり方を改めること、新しいことに挑戦することである。人間は焼き物のようにカチンカチンに固まらないところがいい。さて、私の焼き物部品は遊具として発展出来るかどうか・・。

7月5日(火) このところ「ユニクロ」のジーパンやTシャツを愛用している。先日、購入したのがメーカーのロゴ入りTシャツだ。俗に”企業コラボTシャツ”と呼ばれるが、有名、無名の多くの企業と協賛することによってユニクロとしては安価なTシャツを供給できるし、一方企業としては自社のPRとなる。企業のロゴがまたうまくデザインされていて大方は嫌みがない。いわゆるブランド品などと比べても引けを取らないし、第一選択の幅が非常に広い。コラボTシャツ以外のも含めてユニクロのTシャツは2000種類とか。私などは規格品のようなブランドものより、むしろユニクロの方に新鮮なデザインをみる。実にコラボTシャツは1000円である。・・ここまでくるとユニクロの宣伝もしよう。ユニクロで注目されるのは「世界品質」を掲げていることだ。ユニクロというと低価格が認知され過ぎて「安い割には良い」というイメージがあるが「世界に通用する品質」を掲げて「付加価値が高くて安価」を目指していると云う。そんな戦略の一つが他企業との協賛Tシャツであるのだろう。新分野の野菜事業には失敗したユニクロだが本業での衣料品ではこちらもサポーター。新たな付加価値を期待しよう。
7月6日(水) 2012年の夏季オリンピックの開催地がロンドンに決まった。パリとロンドンの決選投票で本命と目されていたパリを破っての決定だ。面白い事に何でも賭けにしてしまう英国でブックメーカー(公認の賭屋)のオッズ(=odds/勝ち目、勝つ可能性予想)では最有力はパリであった。パリに決まっていれば1924年(8回大会)以来の88年振りとなるところ。ロンドンは1908年(2回大会)と1948年(14回大会)に次ぐ3回目となるが、それでも64年振りになる。あらためてオリンピックの開催地をみるとどんな国や都市にしてもオリンピックを開催するのは稀なチャンスであることだと気がつく。今回立候補していたニューヨークでは一度の開催もない。2008年の北京オリンピックは勿論初めて。東京オリンピック(1964年、18回大会)もタイミングよく開催出来たものと思う。確かに東京オリンピックは時代を反映していた。次回の北京オリンピックも中国の時代の象徴にみえる。今から7年後のロンドンはどうなるだろう。交通や通信技術の発達でますます世界は狭くなる。国境は希薄になる。そんな時代のロンドンオリンピックを見てみたいが、さて先のことは分からない・・。
7月7日(木) コンピュータ関連の記事で「マルウェア」という言葉が目につくようになった。malwareは例によって(web-log=blogなどと同じく)コンピュータ業界の造語でmal-softwareのこと(mal=悪い、不良の意/malicious=悪意のある-softwareとも呼ばれる)。つまりmalware=悪意のこもった有害なソウトウェア、不正ソフトウェアの総称とされる。具体的にはコンピュータウィルス、ワーム(=電子メールなどを介して自己増殖するもの)、スパイウェア(=アプリケーションソフトとセットでインストール時にパソコンに入り込みユーザーの個人情報を収集する)などがある。マルウェアはコンピューターオタクが趣味的にコンピューターの欠陥をみつけて悪い事をしてみるという傾向であったのが、最近は金儲けのためのプロ犯罪者が絡んでいるという。銀行やカード会社をターゲットにした犯罪組織もあるようだ。大昔から金のためには異常に悪知恵が働く人間がいる。コンピュータ技能もまた犯罪のための必要特技にまで普遍化してしまったのか。「正しいソフトウェア」を開発する人との知恵比べはまだまだ続く・・。
7月8日(金) 妻と久しぶりに昼食を外食することにした。といって大袈裟な食事でなく家から数分のところにある「レバノン料理」屋さんが気になるので一度いってみようと話が決まり、私は家で着ていたジーパンとTシャツのまま、妻も普段着で気楽にでかけた。レバノンについての私の知識は余りに乏しい。国旗の中央に杉(レバノン杉)が描いてある国、イスラエルとシリアに接し地中海に面した国であるのでパレスチナ難民に関連して紛争が絶えない、首都ベイルートはかつては中東のパリと呼ばれた・・程度で料理についてはまるでイメージもなかった。ところが1000円と1300円のランチセットが大いに”当たり”だった。豆、肉、野菜を使ったヘルシー系の料理で味付けが何とも美味!(われながら味の表現が語彙不足だ・・)で満腹になった。店内のインテリアもレバノン雰囲気で思わぬ非日常気分をも味わった。帰宅後にインターネットで調べるとこのレバノン料理屋さん「マイレバノン」という(NET案内はここ)。日産の社長、カルロス・ゴーンさんの奥さんがこの店のオーナーで時々料理指導にきているとのこと。そうゴーン夫人はレバノン出身(フランス留学中にゴーン氏と結婚とか)、ゴーンさんはブラジル生まれで、父がレバノン人、母がフランス人、高等教育はフランスだ。昼食一つで思わぬ世界を知ることもある。もっと外食を増やすかな・・。
7月9日(土)  孫娘を空手教室に連れて行くのは私の役目だ(娘は終日、舅の看病)。ニューヨークの教室で紹介状を書いてもらって新宿の道場にみせると快く受け入れてくれた。日本(新宿)の教室でもニューヨークと同じく先ず正座をして黙想からはじまる(今日は1分程度であったが時には5分間)。準備運動のあと、正拳中段突きから上段突き、下段突き、外回し蹴り、内回し蹴りなど基本コース。プロテクターや防具をつけて実際に力一杯打たせることもやる。今日は後ろ回し蹴りという難しい技を習っていた。最後は正座と雑巾がけ(これもニューヨークと同じだ)。文章で書けば立派だが勿論4歳の幼児では力はない。けれども型が何となく様になるから面白い。いつまで続くかは分からないが、とにかく空手に行った後は元気いっぱいになる。先生の声で気合いが入る。自分でも大声をだす。・・空手は私もこれまでは別世界であったが現代の子供こそ心身の鍛錬というこの原始的なトレーニングが有効なのではと思うようになった。気合いだ!気合いだ!で確かに気合いが入る。
7月10日(日)  2012年のオリンピック・ロンドン大会から野球とソフトボールの除外が決まった。日本がメダル獲得をできる種目がなくなるので残念がる向きもあるが個人的には止むを得ぬ、あるいは当然のように思える。大体、オリンピックの野球で優勝しても誰も世界最強などとは思わぬ。もっとも世界のベストでなくてもオリンピックの金メダリストとなる種目、つまり最強のプロ選手が参加しない競技はまだ他にも沢山ある。バスケットやサッカー、テニス、ボクシングなども同じだ。オリンピックは当初のアマチュアリズムからプロ容認に移行しながらも競技によって極めて中途半端な状態にある(年齢制限をつけてプロ参加など)。世界最高の競技を見るならばプロの試合というのであればオリンピックは何なのか。プロを認めた野球の場合、除外の最大の理由は野球の普及していない国で野球場を準備しても建設費がかかる割に観客も動員出来ずまた施設を他に転用し難いということではないかと推測する。ソフトボールと同じく競技が世界的に普及していないということであればテコンドーだって同じであろう。私としては女子ソフトボールだけは除外が残念でならない。女子ソフトポールはオリンピック以外で見る事の出来ない最高の競技を楽しめたのに・・。
7月11日(月)  プロレスラーの橋本真也氏が40歳の若さで死去という記事と関連して「訃報」蘭を見ていて串田孫一さんが最近亡くなったことを知った。89歳の大往生、昨日お葬式であったようだ。哲学者で詩人、随想家などと紹介されているが私も昔は山や音楽のエッセイを愛読した覚えがある。頭でっかちの哲学者でなく生活の中で実践する教養人のイメージがあり少なからず影響を受けたかも知れない。ご冥福をお祈りする。・・この串田孫一さんの訃報をインターネットの新聞記事で調べる時に奇妙なことに気がついた。朝日と毎日ではこの訃報記事をみることが出来なかった。最新のニュースは掲載しているが二日前の訃報は見つからない。読売、産経、日経などは「おくやみ」記事で十分にみられる。最新のニュースであれば朝日も毎日もgoogleニュースにかなわない。ちなみにgoogleニュースでは”串田孫一”でgoogleニュース検索をすれば直ちに記事はでてくる。NETの記事に関する限り私は以前から朝日、毎日のサービスの悪さが気になっていたのだが、こんな訃報記事でも新聞社の違いが見えてしまった。
7月12日(火) 人間の可能性についてはまだ未知の部分が多い。”人間の可能性”などと云うとどこかの天才や秀才が人類を進化させるニュアンスがあるが、ここではそんな意味ではない。生を授かったあらゆる人が持つ可能性、能力が実は十分に解明されている訳ではないとの思いがする。能力というのは極めて多岐にわたる。そして人の能力には明らかに個人差がある。勉強ができるとか試験に合格するのは数ある能力の一つ。イチローは自分の最も適した運動能力を発揮出来る職業を得た。勉強秀才がいくら努力をしてもイチローのようにはならないし、また将棋の羽生の足下にも及ばない。我々のような普通の庶民は特殊分野の天才達と比べて能力などの話をだすのもおこがましい気がする。けれども普通人こそ何か知られていない可能性を秘めているのでないかと云いたい。つまり、直感力、予感力、感性力、至福力などテストや技能では計り知れない何かがないか。他人を幸せにする力、楽しくする力なども貴重な能力だ。俗世間の功名心を捨て去った悟りの境地から見える何かを能力ととらえれば「見る力」は誰もが獲得できるチャンスがある。自分の可能性がまだ隠れていると考えて従来にない能力を発見するのも愉快だろう。
7月13日(水) オレオレ詐欺やその亜流の被害はその後も続いているのだろうか。このコラムの話題にもしなかったが一ヶ月ほど前であったか我が家にもその種の電話がかかってきた。妻が電話に出ると「あなたのご主人が電車で痴漢行為をして逮捕されています。それにつけては・・」とはじまった。当のご主人様は在宅している。これぞ電話詐欺と直感して、うれしくなった妻は「アッー、いまから電話を録音しますから・・」などと云ったので電話を切られてしまった。私の知っている範囲だけでも幾人もが詐欺電話を受けている。よりによって弁護士をしている義兄の家までもオレオレ電話があった。ある人は交通事故でご主人の泣き声まで聞かされた。テレビ等でこれだけ詐欺手口が報道されていても引っかかる人はいる。悪い奴のことをさておくと、この種の電話詐欺は日本独特のものか他の国の物真似かを知りたいものだ。正確には分からないが日本人の人の良さを逆手に取った詐欺のようにも思える。金さえ出せば穏便に済ますことができる風土もあるのだろうか。一方でそれにしてもよくお金を払えると変なところで感心してしまう。
7月14日(木) 「今日の作品」を10日間も更新していないことが気になっている。一時間でも時間を割いてスケッチをすればいいのにと思いながら行動に移せない。作品作りも気分次第か。絵のアウトプットはないが陶芸の新作に絡んだ設計や工作は進んでいる。今日は微細な傾斜をつけた坂道に鋼鉄の球を転がす実験を繰り返す(陶芸による動くアートの一環)。球の動きを観察しながら、物事なんでも”勢い”で進めるに限ると真理でも見つけたように一人納得した。静止している物を動かすには静摩擦に打ち勝つ力が必要だが動き始めると動摩擦となり少ない力で動く。車輪は転がり始めると後はわずかな力で転がるし、坂道であれば自然に転がり続ける。勢いを得るにはまず始めなければならない。物理の理屈を自分の行動に照らしてみるまでもなく、とにかくも何でもやってみることだろう。”初めの一歩”をあらためて自分にいいきかせる。スケッチブックを先ず開き、鉛筆を持つ・・これで「今日の作品」ができあがる。
7月15日(金) 昨日のコラムで「今日の作品」を更新していないことを書いたので、今日は何が何でも新しい絵を掲載しようと部屋にある胡蝶蘭の絵を描いた。この胡蝶蘭は今年はじめに鉢植えをいただいた当初スケッチしている(1月17日のコラム=ここ参照)。1月の最初から沢山の花をつけた鉢だったので4月頃にはそろそろ花が終わるかと思っているとその後5月、6月、7月・・今に至ってまだこれほど華やかに花を咲かせている。この絵を描きながら不思議な感じにとらわれた。花は1月から現在の7月半ばまで咲き続けていると書いたが、勿論同じ花ではない。花の命は短くて咲き誇った後は散ってしまう。けれども同じ茎にできた新しい蕾が入れ替わって咲き始め鉢を眺めているといつも花が咲いているように見える。花の命とは一体何だろう。単体の花は散っても命は続いている。この胡蝶蘭の茎にはもう新しい蕾はみえない。もしかするとこの一群の花が鉢植えの最後になるかも知れない。それでも根がしっかりしていれば植え替えで翌年もまた新たな花芽が育ち花も咲かせることができる。命あるものは必ず朽ちるけれども、また再生をして命を永らえて行く。いまここに咲いている胡蝶蘭が一層いとおしく思えてきた。

7月16日(土) 土曜日の朝は7時30分に自転車で家をでてテニスに行く。このところ家の居間では連日義父の看病で疲労気味の娘と孫娘が寝ているので起こさないようにそっーと外出をする(その前にはやはり音を出さないように注意して犬の散歩にいった)。まずテニス場の入り口に荷物を置き順番取り(バカなことだが順番のはじめは6時過ぎにもう荷物があるという)。今日はその後コンビニで、ミックスサンド、おにぎりの納豆巻き、ネギトロ巻き、黒酢のドリンク、緑茶を購入。そして明治神宮の絵画館前の野球場と神宮の銀杏並木の間にある公園のベンチに座ってこの支離滅裂な朝食をはじめる。野球場は素人の軟式野球用で全部で6面もあることが今日分かった。朝の8時頃からもう野球をやっている。文字通りの草野球をみながらおにぎりを食べていると雀が近くまで寄ってくる。鳩がおこぼれをもらおうと来ることはあるが雀に催促されたのは初めてだ。納豆を一粒投げてやったが雀は気がつかなかった。・・こんな朝食タイムが自分にとって意外に非日常となることに気がついた。ささやかであっても惰性の日常に代わる緊張と体験は得られるものだ。
7月17日(日) 4歳の幼児を連れているとバスや地下鉄で大抵席を譲られる。また女性が大きな旅行荷物を持って階段を登ろうとすると直ぐに誰かが手を貸してくれる。・・こんな話を娘からニューヨーク生活の経験としてしばしば聞かされた。東京ではまずこんなことはない。最近孫娘を連れて電車にのる機会が多い。座らせたいなどとは考えもしないが時にこの話を思い出す。今日は新宿駅で私が手を引いていたのに大柄のお兄さんが孫娘にぶつかって通り過ぎた。東京人がニューヨーク人と比べて心情が優しくないことなどは決してないだろう。ただ東京人あるいは日本人は自分の考えよりも周囲の目を気にする習性があるのでないか。他人の思惑を気にするばかりで、いいものをいいと云わず、美しいものも美しいと云わない。それで自分が正しいと思うことを素直に表現しなかったり行動できないことが多い。席を譲る程度の親切でも行動で示すのは周囲から突出するという若干の勇気がいることは確かである。ところで私の場合、いまでも老人が側に来ると躊躇なく立って席を譲る。けれども幼児となると自信がない。子供は立って足腰を鍛えろという妙な精神がないことはない。これからは幼児にも譲る勇気を持ちたいと思う。
7月18日(月) 「前世療法=米国精神科医が体験した輪廻転生の神秘=」(ワイス著、PHP文庫)という本を読み終えた後、国立オリンピック記念青少年総合センターのホール(東京・渋谷)でのピアノの発表会にいった。幼児から小中学生、高校生、大学生まで色々な年代の人がピアノを演奏するのであるが、明らかに本の影響を受けて音楽がこれまでになく聞こえたから面白い。まず演奏を聴きながら何とすばらしい音楽を作ったものかと作曲者を思った。バッハ、ハイドン、モーツアルト、ショパン、リスト、ラヴェルなどこれらは個人の人間業で作曲されたのでなく人間を超越した世界(いわば霊界)の啓示があって出来たに違いないと思った。そしていま演奏している人は媒体として神の言葉を伝えている。少し大袈裟だがこんな感じだ。プロの演奏者のみが特別の音楽伝達者でなく、今日の演奏者でいえば小学5年生になれば(10歳を越すと)人間は十分に神の伝達者になれるとも思った。神(先の本によれば精霊にも色々なランクがあるというのでまとめて神とする)とのお付き合いができる年齢に制限はない。作曲家が神との付き合いで曲想を得るのと同じように、画家もやはり天啓を得て新しい表現をみせることがある。背後に人間以外の何ものかが教えたに違いないと思わせる作品などそういうものだろう。自分の知恵が及ばなければ精霊達の(神の)援助を仰ぐ・・これは使えそうだ。
7月19日(火) 今日のコンピュータ関連のニュースでマイクロソフト会長のビル・ゲイツ氏がマイクロソフト認定プロフェッショナル(MCP=Microsoft Certified Professional)の試験に合格した少女に面会したという記事があった。このパキスタン人の少女は9歳で試験に合格し全世界でも最も若いMCP取得者であるという。ちなみにこれまで全世界の中で最年少のMCP取得者は8歳のインドの子供だ。こうした事情は現在のコンピュータソフト産業の状況をそのまま反映しているようにみえる。工賃の安いインド(さらにパキスタン)に米国からソフトが外注されるのは今や常識。それが子供の世代まで影響しているのだろう。MCPとはどんな問題がでるのか興味があったので調べてみた。MCPの過去問題一覧を見つけた(=ここ)がMac専門の私には予想通りチンプンカンプンだ。日本の子供にはあえてマイクロソフトの資格を取得しようとは云わない。けれども少なくとも”ゆとりの教育”で学力を低下させることなしに自ら考える教育をして欲しい。そして見つめる相手は世界・・。
7月20日(水) 山手線(東京)の電車に乗ると一両全てがグリコの広告だった。その広告が嫌で電車を降りるまで気分が悪かった。不愉快になったグリコの宣伝に乗せられるが、それは「口中ケアタブレット”ブレオ”」のポスター。「なめて味わう”舌キレイ”」のコピーに合わせて「あっかんべー」と舌を出した女の子のポスターを車内全部に張り出しているのだ。それも人の顔と同寸法の大きな舌を出した顔写真。逃げ場のない車両の中で何十枚もの舌を出した女の子の顔に取り囲まれて思ったのは、今後しばらくはグリコを買ってやるものか・・。大金をだして電車を借り切り宣伝をするのであるから多くの人間がこの「あっかんべー」アイデイアに賛同したのであろうが、このところのセンスが理解出来ない。百歩譲るとして、顔の写真を小さくするとか、3ー4枚は普通の顔にしてあっかんべーを1枚混ぜるなどの一ひねりした工夫ができないのか。とにかく目立って話題になり名前を覚えてもらえば成功だというのなら、不愉快を被ったわれわれは反撃しなければならない。前にやはり山手線の中で女性の顔に髭をつけたポスターがあった。これも愉快ではなかったが、まだ数が少なかった。今回のグリコ広告は記録的な不愉快広告として記憶しよう。
7月21日(木) 今朝、娘の義父が亡くなった。ニューヨークに住む娘の夫に代わって娘が看病を続けてきたが病魔には如何とも抗し難い。私たちが預かっている4歳の孫娘に「オジーちゃんの魂が星になった」とかあやふやな説明をすると、「星になったの、それとも星にいったの?」と鋭く質問された。そして「行ったのならロケットでいったの?」。多分、新しい星になったのだろうというと、孫娘は直ぐにボール紙で星を見るための双眼鏡を作った。私は最近読んだ本の影響で、身体は現世から消滅しても魂は静かに皆を見守っていると考えてみる。死については考え方一つで心が平穏になる。輪廻転生をそのまま信じる訳でないが、無限の時の流れの中で現世を存分に生きた義父はまた新たな星になって次の出番を待っているかも知れない。<本については7月18日コラム=ここ参照、同類の本には、「生きがいの創造」飯田史彦著/PHP文庫>
7月22日(金) このところ東京都内を自動車で走る機会が多い。そこで痛感するのは自動車の流れを阻害するのは一台の不法な車だということ。都内で常時車の流れがある道路では一番左側の車線に一台の車が駐車しているか駐車していないかで流れが大きく変わってしまう。特に交差点の直ぐ側に駐車している車があるために信号二回待ちになるケースもよくある。今日も交差点の中に駐車している車があり渋滞していたが観察するとほんの数メートル離れた場所にこの車を移動させれば流れが乱れることなくスムースに走れると思った。単純な話で二車線の道路に一台駐車の車があると流れは半分、仮にもう一台が並んで駐車(故障)でもすれば流れはゼロになる。逆に流れを阻害する車がなければ都内の道路の容量は結構大きくてかなりの車が渋滞なく走ることができるのでないか。一方で首都高速道路のように駐車する車はなくてもいつでも渋滞する道路の構造的な欠陥もあるのは確か(道路を計画した方は見込みより台数が増え過ぎたというがこれは台数の予測ミスだろう)。けれども高速以外の道路では駐車スペースをメインの流れでないところに限定し、道路を100%車が”走る”ためのスペースとして活用すれば現状の道路でも車は気持ちよく走ることができる。駐車違反の取り締まりは裏道よりも車の流れが絶えないメインの道を最優先で取り締まって欲しい。
7月23日(土) 通夜に向かう車を運転している時(午後4時35分)に地震に出会った。といっても、地震、それも東京で13年振りに震度5(マグニチュード6)を観測したというほどの地震であったと知ったのはお寺に着いてからだった。車は渋滞していてのろのろ運転。道路工事中のゆるい上り坂で停車した時に車が異常にゆれる。私は車輪と道路のおさまりが悪くてエンジンの回転と車体が共振していると思って少し前に進めたがまだゆれる。工事中の地盤はしようがないなと思いながら通り過ぎたが後で考えるとこれが地震であった。その直後に助手席の妻の携帯電話が鳴ったと思うと直ぐに切れた。発信元に電話するがこちらからもつながらない。これも後で納得したのだが、地震の直後に電話が集中し回線不足で電話がつながらなくなっていたのだ。地下鉄やJRなど首都圏の交通が全面的にストップしたことこともお寺に着いてから知った。緊急時こそ必要と思われる携帯(電話)がいざという時にはほとんど役に立たなくなることは一つの残念な教訓となった。感心したのは通夜を取り仕切る葬儀屋さんの責任者が携帯ラジオを持っていて逐一ニュースを確認していたこと。危機管理とはこんなところでも実践されている。それにしても、駅の途中で停車した車両に一時間もカンズメになった人まで駆けつけた通夜が滞りなく行なわれたのでホッとした。
7月24日(日) 娘の義父の葬儀が滞りなく終わった。何もしていないこちらの虚脱感を考えると娘夫妻はどんなに疲労しているだろう。また事情を理解して親に甘えたいところをじっと我慢している孫娘もけなげにみえる。今日の告別式の直前に回向(えこう)があったのでこのことを書いてみたい。回向(えこう)とは改めて辞書を引くと「<自分が積んだ善徳を他人に振り向け共に仏果を得ようとする意>死者のために仏事を営み冥福を祈ること(新明解/三省堂)」とある。形式的な仏事をさておいて回向の考え方は仏教の本質的な教えにつながるようだ。他の解説を含めて自分流に解釈してみる。回向は慈悲の心の一つで語源的(日本語翻訳以前)には「喜び」の意があるという。慈悲は仏がいつくしむ心であり、回向するためには善行をして徳を積まなければならない。喜びとなる行為が善行であり、この行為で得たエネルギーを他にも分け与えるのが本来の回向なのだろう。新たな仏となった死者は仏としてのパワーを持っている。功徳という仏のエネルギー受け入れるかどうかはそれぞれの人の感度によるのだろうか。回向は冥福を祈ると同時に参列者の受信力を問われているような気がした。
7月25日(月) 他の事を書こうと思っていたが今日の夕刊(ネット)で「杉浦日向子さん死去」の記事をみて急遽杉浦日向子さんのことを書くことにした。この長寿の時代に杉浦日向子さんは1958年生まれの46歳で逝去(22日/下咽頭がんにて、告別式など親族のみで済ませ今日発表)。江戸風俗研究家、著述業などと紹介されるが、江戸の風俗を題材にした優れた漫画作品を描き漫画賞を受賞したこともよく知られている。江戸時代の庶民の暮らしを生き生きと描き、これまでに紹介されることの少なかった江戸のプラスの面をとらえた視点はある意味では歴史学者や思想家をはるかに超える説得力があり、偉大な”業績”を残したと思う。手塚治虫が死後も更に評価され続けているのと同じく杉浦日向子の名も不滅となるに違いない。犯罪の少ない江戸、リサイクルの江戸、エコロジーな江戸など現代的なとらえ方が直ぐに思い浮かぶ。私も杉浦日向子ファンの一人だった。NHK-TV番組の「コメデイー・お江戸でござる」でも杉浦日向子先生の解説が見たくてチャンネルを合わせた。TVのレギュラーを止めた頃から身体が悪かったのだろうか。ご冥福をお祈りするばかり・・。
7月26日(火) 4歳の孫娘の絵を見ていると心の中の様子がそのまま現れてくるので面白い。楽しい時には楽しい絵、沈んでいる時には絵も活気がない。活発な子であるので大抵は夢のある伸びやかな絵を大きく描く。昨日は40ページ余の本を自分で作り(ホッチキスで綴じてページを打った)絵を描いていた。物語と一緒に絵が次ぎ次と発展する。余り自由に楽しく描いているので私まで対抗意識を燃やして絵を描きたくなった。それで何かを描こうと思ったが、台風接近中の今日適当な題材が見つからない。そこでテーマを決めず、構想も下書もなく、手の動くままに描いてみたのが「今日の作品」に掲載した「無題(水彩)」だ。自分の事ながら何を描いたのか、何を描きたかったのかは「後付け」でしか説明出来ない。心理分析をすると何を言われるか知らないが「今日の気分はこうでした」。できあがったところで妻に見せると孫娘と同じような絵ね・・と云われた。いや、孫娘の方はもう少しストーリー性がある。

7月27日(水) コンビニエンス・ストアとはいまどき誰も云わないが「コンビニ」とは本当に”便利な店”である。我が家から歩いて3分のところにはセブンイレブン、5分のところにはam/pm、7分のところにはファミリーマートがある。私は距離的に近いことで圧倒的にセブンイレブンを利用する機会が多い。パンや牛乳はスーパーの方が安いので極力スーパーで買うが、切らしてしまった時にはセブンイレブンに行く。それにセブンイレブンはおにぎりやお弁当といった食事関連品の種類が他よりも豊富であるようにみえる。孫娘もセブンイレブンの納豆巻きやイクラおにぎりが大好物だ。ところが店の看板だけは孫娘に説明をし難い。昔は朝の7時から夜の11時まで開店したので7-11の名前を付けたけれど今は24時間営業となって看板にも大きな7の文字の下に24と書いていると云ってみても釈然としない。このセブンイレブンは世界に店舗を展開しているので当然日本の全土に店があると思っていたら、全国に1万余の店舗があるのに四国4県、石川、福井、岐阜、鹿児島など15の県には出店していないという(=ここ参照)。そういえば私もセブンイレブンは便利に利用するけれども、同じ系列のイトーヨーカドーやデニーズ(レストラン)にはほとんど行かない。こちらはコンビニ業界やスーパーの熾烈な競合を気楽に見物しながら恩恵だけを甘受している。
7月28日(木) 「礼儀作法」とは難しい。個々人のこうすべきという基準にかなり隔たりがあるからだ。私などは例えばエレベータに乗った時の場所の順序だとか会食の席順などにこだわるのは好きではないし拝礼やお辞儀の仕方にしても適当なところがあり、作法にうるさい人から見れば礼儀知らずと云われるかも知れない。また気配りが万全という自信もないので自分で気がつかずに「失礼」をしていることもあるだろう。そんな私が他人を失礼だと思うこともある。犬を連れた人に「お早うございます!」といっても相手が黙って通り過ぎてしまった時など初めはカチンときたが今は気にもしない。最近、e-mailがらみで「失礼」を続けて体験した。一つは受け取った名刺のアドレスにメールで質問(見積の問い合わせ)をしたのだが回答がない。再度着信したのかどうかを含めて問い合わせたが全く返事がなかった。もう一つは、私のホームページのコラムを読んで○○の楽譜(古い歌)を持っていたら(私用で使うので)コピーをさせてくれないかという依頼メールがあった。翌日スキャナで楽譜をコピーして更に見やすく修正。これをメールに添付して送ってあげたが一切返事がない。メールが着いたかどうかの確認もできないままである。他人が喜ぶ事をしてあげようという善意は特別のことを期待するわけではなく、いわば喜ぶ顔を見たいのだ。「ありがとうございました」の一言は私の感覚では礼儀以前のマナーである。メールに関連した「失礼」が続くとこれはメールという機能が持つ特性なのかと考える。メールの相手はコンピュータでなく人間であることを忘れてはならない。
7月29日(金) 「分かっちゃいるけど止められない」は遠き昔1961年に植木等が歌った「スーダラ節」の歌詞であった。煩悩具足の凡夫である私も頭では理解しているけれども偏見が染み付いていることがある。今をときめく新聞や新聞記者、マスコミなどの権威を認めないところもその一つ。これは以前の勤め人時代に有名な業界誌の記者に幻滅させられたことに起因している。新聞に記事を載せるということは記者にとっては大特権であるようだった。昼の弁当が粗末であると何を悪く書かれるか分からない。夜も接待した方がよい。つまり一人の新聞記者に殿様のような応対をしなければならない。ご機嫌をとって悪い記事を書かれないように気を使う。新聞記者はそれが当然のごとく振る舞う。その時に新聞とは最低の”ゆすりたかり”と変わらないとインプットされてしまった。真面目で正義感がある多くの新聞人がいることは分かっていても一人の”たかり”を経験するとその印象は容易に抜けきらない。前に朝日新聞の記者が珊瑚礁を傷つけて自作自演のでっち上げ記事を書いて問題になったことがあったが、それにも何も驚かなかったのは記者とはそんなものと思っていたからかも知れない。悪しき免疫は美しくはない。反対に本当に信頼出来る神父さまやお坊さんに出会っただけで、その人が例外的にいい人であったとしても宗教全体の印象が変わる事もある。やはりよき巡り会いを祈るしかないのだろうか。 
7月30日(土) より沢山のお金が欲しくてお金を無くしてしまう話は枚挙にいとまが無い。同じように名誉を守るがために名誉をなくすことも多い。昨日のニュースで報道された元カネボウ社長など幹部が粉飾決算にからんだ証券取引法違反で逮捕された件などその典型だろう。自分の力及ばず大赤字をだしたので引退しますと云えずに粉飾を指示する。経営者として無能の烙印を押されるより犯罪者となることを選んだのであれば一番の被害者はカネボウの一般社員だ。少し前の橋梁談合でメーカーに天下りした道路公団OBが逮捕された件もメーカーにいても自分は有能であることを示したかっただけだろう。あえて云えばメーカーの中でOBは談合調整以外に仕事はない。公団OBを受け入れざるを得ないメーカーはある意味では被害者。メーカー生え抜きの逮捕者については私は同情的だ。では橋梁談合に関して道路公団の副総裁逮捕までに至った件はどうだろう。当の本人は長年の慣習に従って職務と思ってやってきたことで問題とされるまで罪の意識など全くなかったに違いない。いずれも自社(or公団)に損害を与えた背任罪に問われるというが実は任務に背いたのでなく任務そのものと思って罪を犯している。仕事を一生懸命やりながらいつのまにか社会に背くことをしているのに気がつかないとは恐ろしいことだ。
7月31日(日) 今日はうれしいことがあった。それは昨日外出した時に紛失した家のキーがでてきたことである。落としたとすれば場所はほぼ推測できた。昨日は山手線(東京)で恵比寿から新宿まで行った。落としたのはこの電車に乗り降りの時しか考えられない。昨日着たジーパンはポケットが随分浅かった。このポケットにキーとJRのICカードSuicaの入った財布を押し込んでいたので、Suicaを出した時にキーを引っ掛けて落とした可能性が強いとみた。今日、外出したついでに駄目もとで恵比寿駅の改札係に昨日キーの落とし物が届けられていないか聞いてみた。するとリストを見ながら「どんな形の・・」などと質問をする。「キーホルダーはイタリアの国旗の色で赤と緑・・」と云ったとたんに、「ホームの事務所で預かってます・・」。あっけないほど簡単に「ITALIA-FIRENZE」の文字の入ったキーホルダーとキーが見つかった。今更ながら日本そして東京という街の親切心に感動する。JR恵比寿駅といっても一日の平均乗降客は20万人以上。小さなキー一つをどんな人が拾って届けてくれたのか。とにかくも「ありがとう」と云いたい。「うれしい」のは自分のキーが出てきたこと以上に顔も知らない親切な人が大勢いるという事実である。どこかで見知らぬ他人にこの恩返しをしようと思う。

これまでの「今日のコラム」(最新版)に戻る

Menu  + Today  + Corgi  + Puppy  + Gallery +  Ebisu /Daikanyama  + Links