これまでの「今日のコラム」(2005年 8月分)

8月1日(月) 月がかわった。8月は原爆の月、終戦の月。今年は終戦60周年ということでテレビでも特集番組がみられる。ふと気がついたのだが、終戦の時に私はいま毎日付き合っている孫娘とほとんど同年の4歳半であった。利発で何でもできる孫娘と比べると終戦時の私は影が薄い。というより自分で当時の記憶がほとんどない。防空壕の屋根が間に合わず畳を屋根の代わりにしたというイメージも後日の話から連想したように思える。太平洋戦争の開戦の年に生まれたので終戦まで戦時体制の中で4年間を過ごしたことになる。幼稚園にも行かなかったし音楽を聴いたことも絵を描いたこともどこかに出かけたことも全て記憶には無い。母親にしてみれば私の2歳下の赤ん坊を含めて4人の子供がいたのだから教育以前に丈夫に育てるのに必死だっただろう。終戦の時の私は、今の孫娘のように手紙を書いたり(時に携帯のメールをしたり)算数をしたり絵を描いたりはできなかったし、言葉の語彙は8歳になっても孫娘の程度にできたかは疑問だ。それでも小学校の上級になると自分で進んで勉強をはじめた。結果的に身に付いたのは自ら求めて学ぶことではないかと思う。誰かのお膳立てを待つことなしに、また他からの指示によらずに自主的に行動することは知育教育だけからは学べない。今の孫娘には勿論より大きく育って欲しいと願うが、私の幼児期の育ち方を見た場合、やはり健康に育ててくれた母に感謝あるのみである。
8月2日(火) 世界中で日本語の「ブログ」はどれくらいの数あるのだろう。こういう文章が成り立つのがインターネットの面白いところで日本語ブログは日本だけで発信されているとは限らずに世界中どこでも日本語で発信し、また受信することができる。ブログはWeblog(ウェブ日誌)の略で個人が自分の意見や日誌などをインターネットで発信し読んだ人が書き込みもできるシステムであることは今更云うまでもないだろう。ブログはもう日本語としても定着し無料のブログを扱うサイトも数多い。私はこのブログをこれからの高齢化社会で大いに活用すべきと考えている。ホームページ作成などと違って思い立ったらその日にでも自分のブログを開始することができる。特に時間の余裕がある高齢者は頭の活性化に役立つことは間違いない。内容は私的な日常生活を日記風に書いてもいいし、云いたい事があれば勿論自由に云えばよい。・・先日夫を亡くした義母に娘や家族が是非ブログを始めるように勧めたところ早速に彼女のブログがオープンした。これは想像以上にすばらしいことに思えてきた。娘夫妻は勤務地のニューヨークでこれから毎日母の様子を知ることができる。コメントを交わしていると母も離れている寂しさはないだろう。東京にいる私たちも様子が分かり必要ならばサポートできる。問題は継続だ。私の経験では続けるためのポイントは立派な事を書こうと無理しない、自分を装わない(格好をつけない)ことか。とにかく習慣にして自然体でその日にあったことでも書くのがいいのだろう。ブログを続けていると90-100歳まででも世界中に友達ができる。こちらも是非このブログを応援したい。
8月3日(水) 「今日の作品」を改訂したいと思ってネタを探す。そこで現実に今日できたてのホヤホヤである「ミニチュア靴」を一式まとめて写真を撮って掲載した。これは陶芸用の粘土での形作りと模様の削りが完成したところで、この後素焼き、釉薬付け、本焼きと続くので実際には「作品」以前の制作途上品である。しかもこれらの靴は制作中の一連の「陶芸による遊具」に付随させる部品の一つなので本当の完成品として見られるのはまだ何ヶ月か先になるかも知れない。この靴は板状(約25mm厚さ)の遊具(=陶芸コーナー2005、6/25、7/4作品参照)のサポートとして使用する。靴の取り付け方で板の水平や左右の傾きを微調整するという役目も持たせようと思っている・・といっても分かり難いかも知れないが、全体の構成などの説明は後日としたい。とにかくも初めてのミニチュア靴を実に楽しく作ることができた。靴のデザインなど関心を持ったこともなかったのでインターネットでフェラガモの靴を見たり自分の靴を眺めてみたりしたが、結局は自己流で好き勝手にデザインをした。靴の裏は私のウオーキングシューズを参考にそれぞれの靴に独特の滑り止めの溝を付けたのだが写真で表せなかったのが少し残念。完成したら裏もみせる写真を掲載しよう。

8月4日(木) 北極点から便りをいただいた。東京の猛暑の中で北極の便りを読むのもうれしい。少し紹介してみよう。北緯90度の北極点に行くには、まずロシア最北端の街ムルマンスク(68度N)から25000トンの原子力砕氷船に乗り、82度N付近から氷原に入るという。氷壁に行手を阻まれると船が後退して全速で再突入して氷を割って進む。その繰り返しをほぼ4日間続けて極点に到達する。ただし極点は水深4000Mの北極海上なので船はGPSで緯度90度Nから絶えず微妙に動き経度はアッという間に東半球から西半球に変わるそうだ。この便りには「THE GEOGRAPHIC-90°N/HORTH POLE/日付」の船長証明印がある。・・16世紀以降、北極探検の歴史は悲劇の歴史といわれ多くの探検家が命を賭けて北極へ挑んだ。南極点に立った探検家アムンセンも命を落としたのは北極。それが今は観光旅行として北極に行くことができる!世界中で争いの絶えない不安定な時代と云われながら、稀に見る平和と豊かさの中で日本人は次には宇宙旅行をする事になるのだろうか。
8月5日(金) 「過ぎたるは及ばざるがごとし」を身の回りにみるとすればどんな事例を挙げるだろう。先ずは英語でどう云うかを調べてみた。<Too much is as bad as too little. More is not always better. Too much water drowned the miller.> この中では三番目の粉屋の表現がおもしろい。粉屋は水車を使って粉を挽いているので水量は多い方がいいが水が多過ぎると粉屋を溺れさせるということだろう。さて私の場合、絵など描き込みをし過ぎるとうるさくなるとか、親切も度を過ぎるとおせっかいとか、色々思いつくがコンピュータの便利さについても警戒感を持つ。e-mailにしても実に便利であるが24時間いつでも受信しているのでメールチェックを気にし過ぎると集中しなくなる。本当はメールの確認など一日に一度か二度で十分なところをコンピュータを開ける度にメールを見ているのだからおかしい。勿論メール以外のコンピュータの活用も生活に密着すればするほど限度が分からなくなる。粉屋の水車は水量を自分でコントロール出来ないのかも知れないが、コンピュータは本人の管理下にある。どんな事にしても、どこまでが適度であるかの判定が一番難しい。
8月6日(土) 東京は35度を越す猛暑。熱中症にならないように水を頻繁にとりながらテニスで大汗をかく。以前は熱射病とか日射病と云ったのに熱中症ときくと何かテニスに熱中し過ぎる病かと思いかねない。好きでやることなら大汗をかくのも心地よいものだ。このところ猛暑が話題になる時に「暑い寒いと云いながら地球上に現に生きているということは奇跡に近い」と思ってみる。最近太陽系10番目の惑星が発見されたとのニュースがあったが、これまでの9個の惑星の中の一つとしての地球を考えても、生物が存在できること自体、神の業の如き極めて確率の少ない偶然から成り立っていると考える。生物のもとは太陽の光と温度であるが、地球に近い惑星でも金星は表面温度460度を越す灼熱地獄、火星は逆に表面温度マイナス120度(ちなみに太陽を一周するのに248年もかかる冥王星は雲部分でマイナス220度)・・。地球の位置が少しずれていたら、地軸がもう少し傾いていたら、地球上の生物は存在したかどうかも分からない。・・だから少々の暑さなどに文句を言うなと励ますのだが、やはり暑いものは暑い。
8月7日(日) 最近は風邪をひくこともなく体調もいいので猛暑の中すこぶる健康だと思っていた。こんな過信が仇となったのか。昨晩から今朝にかけて腹が痛くてほとんど眠れなかった。昨夜の就寝直前に食べたあずきの入った氷アイスクリームが原因だということは直ぐに分かった。食べる時に少しへんな匂いがした。それを食べてしまうのが過信というもの(就寝直前にもふつう食べない)。食中毒の対応も何もやらずにトイレばかりにいっていた。もっと早く正露丸を飲むべきだったと妻に叱られた。普段健康なだけに体調が悪いともう私の人生終わりのような気分になって何も出来ない。今日の一日を自己観察すると、アール(コーギー犬)の早朝散歩には無理をしてでかけたけれども頭がフラフラするので途中から帰ってきたし、コンピューターをさわる意欲もわかない。陶芸用の工作などにも手をだす気力が無い。外出の予定も取り止めた。家で横になって高校野球のテレビをみて一日が終わった。それでも夕方になって陶芸のプランを立てたりこのコンピュータコラムなどやる気がでてきた。私の場合は何かアウトプットがでるかどうかが体調を計るバロメーターとなる。逆にいまやっていること全てが健康であるからできる。昨晩からの苦しみは過信への警告ととらえよう。
8月8日(月) 今日8月8日は新聞休刊日。昔は貧しい家の家計を助けるために働く新聞配達の子供をたまには休ませたいなどと休刊の理由を語られたことがあったが今はどんな理由で休むのだろう。理由はなんとでも付けられるが現在は休刊日を設けることもないのではないか。郵政民営化法案が参院で否決され今日の夕方7時過ぎに衆院の解散が決まった。郵政民営化の反対にどんな理由をつけたにしても私はただただ既得権の強大さのみをみる。既得権が大きいから必死で反対する(大多数の議員はその利益代表)。この構図は郵政民営化だけでなく年金問題その他あらゆるところで見られる。もう一つはアイツがやる事は嫌だとして反対すること。反対理由をでっち上げても代案がない。残念ながら10年、20年後の国の心配をするよりも今の自分のポジションが優先する。民の立場で官をみれば信じられないほど官公庁は無駄が多いのことは誰でも気がつくことだ。親方日の丸とはなるほどこういうことかと驚く。こんな甘い汁を簡単には捨てきれない。・・最近、その日の丸の衣を自ら脱ぎ捨てた身内がいる。今更ながら民の道に飛び込んだ彼の勇気と決断に敬服する。まだ決着がつかない民営化議論を彼は本心でどう見ているのだろうか。
8月9日(火) 私の陶芸はまず設計から入る。原寸か二分の一で外観図、正面図、側面図、断面図などを書いてみて、OKとなるとその寸法を約1.15倍して粘土の寸法を決める(焼成時の収縮を見込む)。時には段ボールを使って原寸大の模型を作ってみることもある。今日は限られた時間の中で陶芸時間を取ると決心した。朝食前に以前作ってあったラフな計画図を元に板取用の図面を作成した。板作りといって板を何枚もつなぎ合わせて箱型の作品を作るのであるが、どんな板を組み合わせるかあらかじめ詳細に検討しておくと現場での作業が早くなる。結局9種類の板の寸法図を準備して陶芸教室にはそれを持っていった。教室では土練りから始まり板の切り出し、寸法取り、接着、固め、総合組み立て、など作業はほぼ計画通りに第一ステップが完了した(その後の仕上げ工程は計画というより専ら感覚に頼る)。時間は午後の予定時間に30分ほど余裕を持って帰宅できた。休みなく集中して作業したので疲れはしたが心地よい疲労感だ。その後の用事も全く苦にならない。時間があり余るほどあるとこんな達成感はないのではないかと思う。時間がいくらでもあると考える人は、お金をあり余るほど持っている人と同じであろう。わずかなお金を使う楽しみを知らない。私はこんな人を特別羨ましくは思わない。(人生の)残り時間は少ないとみた方が緊迫感があるのは確かだ。
8月10日(水) 以前はコンピュータ関連の特殊用語と思っていた「アーカイブ』が、2年ほど前にNHKアーカイブス(埼玉)で使われたので少々戸惑ったことがある。最近はコンピュータの言葉として随分頻繁に目にするようになったので「アーカイブ」を改めて整理してみた。archivesを辞書で引くと「記録(公文書)保管所、公文書、古文所」とある(研究社/ライトハウス)。NHKの場合、テレビやラジオの番組を保存している(同時に公開する)施設を「NHK記録保存館」といわずに「アーカイブス」と名付けた。コンピュータの分野では記録データのまとまりであるファイルから転じて「複数のファイルを一つにまとめる操作、あるいはまとめられたファイル」を「アーカイブ」という。コンピュータのデータファイルをまとめる際にはデータの圧縮をするのが普通なので「圧縮ファイル」の意味でアーカイブが使われることもある。その圧縮ソフトのことを「アーカイバー」呼んだりもする。・・こうしてみると「圧縮ファイル」でも「書庫ファイル」でもいいが、あえてアーカイブと云わなくてもより明確に意味を伝える言葉はある。もっともNHKのように分かり難くてもあえて珍しい言葉を使って「これなに?」と思わせる効果がないとは云わない。内容は大した事はなくても言葉で先端的に装うのはコンピュータ業界の常道と思ってコンピュータ用語を勉強しよう。
8月11日(木) 我が家の鉢植えに水をやるのは私の役目だ。この暑さの中わずかな量の鉢植えだが一日水やりを忘れると目に見えて植物が元気をなくす。特にインパチェンは葉っぱがだらりと垂れ下がり”アッ今日は水をやっていない”と直ぐに分かる。そこで遅まきながら水を与えると一時間もしないで葉がピンと張る。野の植物ならば大地に根を張って水分を吸い上げるのに鉢植えというのは全く手間がかかる・・と思いながら、ふと人間は一日に三度も食事をしなければ生きていけないことに気がついた。こちらの方がはるかに手間がかかる。一日一度の水だけで美しい花まで咲かせるインパチェンスが突然けなげな生き物に見えてきた。
8月12日(金) 東京都庭園美術館で開催されている「八木一夫展」をみた(8/21まで=ここ)。不覚にもこの展覧会の情報を自分では把握していなかったのであるが、陶芸教室でいつものように一風変わったオブジェ風の造形ばかりに取り組んでいる私に教室仲間のおばさんが”八木一夫展ご覧になりました?”といって展覧会のことを教えてくれた。八木一夫は私の大好きな陶芸家であるがまとまった作品展はみたことがなかった。この展覧会に「没後25年」とサブタイトルがあるので八木一夫(1918-1979)が亡くなってからそれほどの年月が経っていることに気がついた。八木一夫については陶芸の分野に新しい造形世界を切り開いたとか、抽象陶芸の先駆者、現代陶芸の異才などと評される。けれども八木は既に過去の人。それでは現代の陶芸家は一体何をしているのだろうというのが八木の作品展をみての私の感想だ。八木は確かに挑戦者、開拓者であった。趣味では私と通じるものを感じるので色々触発されるし、私ならここはこうしたしたいなあ・・といつまで見ていても飽きない。しかし世界的にも認められた成功者の陶芸オブジェは明らかに自分とは別の面を持つ。私はどんなオブジェ風の作品を作っても「ただのオブジェ」を制作しようと思わない。真に実用でなくても一輪の花が生けられるとか遊びができるとか「置物以外」を造りたい。八木一夫は61歳で急死したのだがピカソがそうであったように年代に応じて作品のスタイルを変革させながら常に新しい造形に挑戦した。彼の70ー80歳の作品が見られないのが残念でたまらない。
8月13日(土) 用事で外出したついでに代官山ヒルサイドテラス(東京)で開催されている「五味太郎展」にいった。入場無料なので軽い気持ちで入ったのだがこれが“当たり”だった。私も五味太郎の絵本は何冊か見たことがあり絵本作家と思っていた。けれども「もうひとつの五味太郎展」(8/21まで、@ヒルサイドフォーラム)というように絵本作家でない、もうひとつの顔をみせている。「絵本を作るのと同じような気分でぼくは他のものも作ってみようと思います・・」と云いながらユニークな感性の油絵が並んでいた。私はどちらかというと絵本よりも今回見た油絵の方が好きだった。絵を描く楽しさと迫力が直に伝わってくるので自分でも描きたくなる。”専門画家”の個展よりもはるかに面白かったのは確かだ。この展覧会、しかも無料なのでお勧め。しかも夜は9時まで開いている(20日までの毎晩よしもとばななさんなどゲストを招いて五味太郎のトークショウが開催される。こちらは有料=詳細、五味太郎HP=ここ)。五味太郎は1945年生まれ。円熟期でしゃべりが多いようだが、これからも作品の中身で語って欲しい。先ずは明日にでもわが孫娘をつれてもう一度この展覧会に行くつもりである。
8月14日(日) 一昔前と比べて現代は比較にならぬほど便利なことは多い。携帯電話、E-MAIL、インターネットなど生活の中で最早欠かすことはできない。一方で以前は出来たけれども今は許されなくなっているものもある。その一つに物の”収納”とか”保管”がある。特に今の都会では余分なモノを持つことはできない。何が余分なのか人それぞれであるだろうが、如何にモノを処分して生活スペースを確保するかが大きな問題となる。・・今日は我が家の”足踏みミシン台”を粗大ゴミで廃棄することを決断した。このミシン台、元々粗大ゴミとして捨てられそうであったものを我が家で引き取ったものだ。クラシックな足踏みによるクランク機構が気に入っていたが、台として使うだけであれば場所を取り過ぎる。他のモノを置くためには処分せざるをえない。空間を得るには諦めることも必要と割り切った。そういえば都会では墓地のスペースもない。以前の1/10程度の広さか共同式か。いずれにしても”○○家”、”先祖代々”は様変わりしつつある。墓の形態や供養の仕方も時代と共に変わるのが自然であろう。
8月15日(月) 今日は60回目の終戦記念日。アジア各地では「戦勝60年」の式典が開かれたという。日本、アジアを含めて今の大部分の人々にとって60年前の戦争の実体験はなく過去の歴史をいかに学んだか(解釈したか)が今日に反映されている。私にとって今日このテーマを書き始めたのは、たまたまこの夏に一緒に生活している孫娘と同じ年に私が終戦を迎えたという60周年に特別の意味を感じたからだ。5歳になる前の私には敗戦の記憶は全くない。勿論戦争についての体験などを語ることはできない。けれども今考えるにその後の生育期間にはとにかく先を見たような気がする。親兄弟ともに過去をどうこういうことなど一切なかった。モノはなくても皆同じだから無いことにも気がつかない。その後、テレビがあらわれたときの驚き、電気洗濯機をはじめて動かす時の家中の騒動、自作のラジオを作って聞こえた時の喜びなど全てが新たな世界を開く感動となった。そしてまた先を見つめた。妻と時々話をするのだが、お互いに中学生あるいは高校生の頃でも将来自分が車を運転する、あるいは自家用車を持つなど想像もしなかった。いま孫娘が5歳前だが60年後にはどういう生活をしているのだろう。未来の夢を語れる記念日が欲しい。
8月16日(火) このホームページの「今日の作品」を二週間以上更新していない。これが自分では結構ストレスになる。3日に一度は作品を入れ替えるというルールがある訳ではなし、誰かが新しい作品を期待しているとも思わないが自分のノルマを達成出来ないような焦りを感じてしまう。では、作品作りをしていないかというと、そうではない。毎日時間を見つけてドリル加工をしたりヤスリをかけたり、また陶芸教室にいって新作を創ったりしている。けれども披露できる完成品はまだまだ先の話になりそうだ。・・世の中には直ぐに結果の見えない仕事は数多い。これが自分のやった完成品ですと云えるものはむしろ少数かも知れない。子育てや教育の仕事なども長い目でみないと結果は分からない。高齢化社会になったといって一人一人の完成作が増えることもなさそうだ。ほとんどの人は、何か未完成のまま、不本意なやり残しを気にしながら生涯を閉じる。・・といっても、私の場合いまやっていることを未完成で終わらす訳にはいかない。つまり「陶芸による動くアート/キデイランドシリーズ」を完成させるぞと意気込んでいる。それにしても時々はその部分を取り出して「今日の作品」とするのがストレス緩和にはよさそうだ。
8月17日(水) 今週はアール(コーギー犬)の夜の散歩のついでに代官山ヒルサイドテラス・フォーラム会場を外から眺めるのが日課になった。前面ガラス張りのこの会場、五味太郎が毎回40人ほどの人を前にしてゲストと対談しているのがよく見える(8月13日コラム=ここ=の五味太郎展参照)。五味先生、この前は上下真っ白なスーツで統一していたのに今日は下は黒地のズボンだった。・・雲の間から満月に近い月がのぞく。8月は20日が満月。そういえば中秋の名月(=旧暦の8月15日の月)はもう一ヶ月後だ。・・早朝の蝉の声がピークを過ぎたと思っていたら昼間蝉が地上で上向きになってもがいていた。・・「今日の作品」に「陶芸/動くアート・遊具部品A」を掲載した。この部品は思った以上に歪みも無くうまく焼けた。下の写真の右最上部の球(8mm径)が板の間の溝の中を滑り降りる。端から端までをわずかな落差で5回行き来させるのは陶芸の焼き物でうまく出来るのは奇跡に近いと云っていたが間もなく奇跡が起きそうな予感。・・など残暑の中での雑感。

8月18日(木) このところ夫婦で一緒にあそびに行くことがほとんどないことに気がついた。儀礼的に会合に出席したり他の人を交えて外出することはあるが自由時間を一緒に過ごす習慣がない。「気がついた」と改めて書いたのは今日一日を考えてみて反対に他の夫婦同伴が目について気になったせいである。まず早朝の犬の散歩の時に夫婦で散歩している組によく出会う。今日に限らず最近特に早朝ウオーキングをする夫婦が増えたように見えるが、30分程度の散歩の間に数組の夫婦がおなじみの顔だ(こちらは犬との組)。久しぶりにウィークデイのテニスに行くとこれもおなじみの夫婦のペアとゲームをした。陶芸教室では初老の夫婦がとなり同士で粘土を削っていた。余談だがテニスでも陶芸でもご夫婦で一緒にやっている組はどういう訳か奥様の方が上手だ。陶芸ではその上手な奥様が帰り際に私の素焼き後の作品を見て”すばらしいですね、がんばってください”といってくれた。・・一年前にはまだ一緒に映画や展覧会を見に行く機会があったし温泉にも行った。一時的かも知れないが時間的な余裕がなくなったのも確か。気がついたからには少し見直さなければならない。
8月19日(金) 高校野球は決勝戦より準決勝戦に好試合が多いのでないだろうか。今日の準決勝はいずれもすばらしい試合だった。京都外大西と宇部商の試合は2度にわたる逆転劇の末に10-8で京都外大西が幸運な決勝進出を決めた。駒大苫小牧と大阪桐蔭の試合は延長10回、6-5で駒大苫小牧が競り勝った。どちらの試合も二度と同じ筋書きのドラマになりえない偶然と緊迫感の連続だ。全ての経過をみることは出来なかったが試合の途中でテレビのスイッチを切って外出するのにかなりの決断を必要とした。一方でプロ野球の低迷はどうしたのか。特に巨人戦はみようとも思わずチャンネルを変える。昨日のNETニュースで17日の巨人ー中日戦のテレビ視聴率(TBS系)が今季最低の5%であったと報じられている(同じ時間帯でサッカー/日本ーイラン戦は26%)。チーム、組織をいかにすると弱体化するかのサンプルとして巨人軍を分析する出版物が目につかないのも不思議。スポンサーの読売に遠慮するジャーナリストが多いからかも知れない。野球というゲームは実によくできていて面白い・・高校野球をみながら今更こんなことを思うのは寂しいことだ。
8月20日(土) 来客がありお酒も入って眠たくてしようがないのに、このコラムを改訂しようとする”自分を褒めてあげたい”。こういう言い方をすると、今朝は7時半には家を出て(居間に寝ている娘と孫娘を起こさぬようにと)コンビニでサンドウィッチを買って公園のベンチで朝食を食べる自分、その後熱中症には気をつけながらも午前中元気にテニスを楽しむ自分、午後は昼寝もせずに来客に備えて汗をだらだらかきながら部屋片付けをする自分・・いずれも褒めてあげたいと思わぬこともない。けれども他人からは褒められたり認められたりすることはまずない。つまりは全て自分で好きにやっているだけである。他人の思惑を気にせずに自分が満足してる。ひとのため社会のためと思わないのが楽だ。もし炎天下で2−3時間ノルマで運動をやらされたら苦行。強制されない自由を持てる自分が結局は一番ありがたい。
8月21日(日) インターネットのホームページでの選挙運動が禁止されていることが話題になっている。公職選挙法では選挙運動は公示日(告示日)に立候補が受理された時から投票日の前日まで(衆院選では12日間)であるが、公示期間中の文書配布は選管の印があるポスターやハガキしか配布出来ない。インターネットのホームページやメールの文書も配布を禁ずる文書とされ公示後に使用すると選挙違反になる。政治家が日常ホームページで政治信条を訴えるのはいいとして公示後はその内容を更新してはいけないというから驚く。元来、公職選挙法を制定した時点ではインターネットもメールも全く想定していない。現代の通信技術を切り捨てる形で強引に選挙法を解釈したが法律が時代に追いついていないようにみえる。インターネットによる政治活動あるいは選挙運動はいわばお金がなくても誰でも出来る公平な手段と思える。インターネットの利用はこれからの政治のあり方として皆が考える事。選挙法の見直しに取り組むべきでないか。
8月22日(月) 「今日の作品」に「球用リフト/陶芸動くアート部品」を掲載した。陶芸作品のための部品であるが粘土とは全く無関係の工作である。「陶芸・動くアート」は8mmのステンレスボールを陶芸で作ったトンネルをくぐり抜けながら上から下まで走らせる遊びで、このリフトは一番下から最上部まで球を持ち上げる装置。いわば胎内から命を産み出すためのエネルギーを与える役割ともいうべきスタートのための重要部品となる。球は転がり始めるとどの道を通るかは誰も分からない。成り行き任せで最後は全てこのリフト装置の根元に集まる。球を持ち上げるために棒の周りに螺旋状の道をつけて回転させる手法は特に珍しくはない。電池を使ったモーターの減速装置はオモチャ用の市販品を使った。螺旋の道やガイド、アクリルのケース等は材料から手作り。意外に苦労したのは減速機の軸と中心のパイプとの接続法である。このようなメカ部品はまともに動いて当たり前、万一故障するとお粗末だと云われる。このリフトがどうなるかはこれからであるが、陶芸作品と同じように愛着があるのは変わりない。
   8月24日分
8月23日(火) 「閑さや岩にしみ入る蝉の声」・・松尾芭蕉が立石寺(山形県の通称山寺)で詠んだとされるこの俳句は余りに有名であるがやはり私も好きな句である。何か作者自身の精神が高く昇華したような感じを受ける。「岩にしみつく」、「岩にしみ込む」などから推敲を経て「岩にしみ入る」に至ったと聞くと名作も安易には出来上がっていないと納得する。現代の東京では「やがて死ぬけしきは見えず蝉の声」(芭蕉)の句が実感としてピッタリだ。毎日早朝に犬を連れて散歩に行く。その途中、西郷山公園(東京・目黒)の蝉時雨の中で必ずこの句を思うのは歴史的な名句である証拠だろう。私は心理的な思い入れの多い芭蕉俳句に対抗して写生俳句を主張した正岡子規やあるいは現代俳句も嫌いではない。絵画でいえば具象絵画に反抗したから近代絵画がある。けれどもたまに芭蕉の俳句に接するとレンブラントやアングルの名品を鑑賞するような、いいものはいいという感じになる。現代でも同じ感覚である芭蕉の句をもう一つ:「おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな」。
8月24日(水) 「今日の作品」に「水流装置/陶芸・動くアート部品」を掲載した。この部品は8mmの球が陶芸で作った板のトンネルを通り上から下へ転がり落ちる一連の仕組みの中で球が水と一緒になって流れる装置となる。水は池に戻り、一方球は水を切ったあといくつかの道に分岐して転がり続ける。写真で見る中間の位置からは水が常時流れ落ちるようにする。球と噴水は上部の皿で受け止める。球と水をどう分離するかがポイントで更に部品が必要となる。・・こうして説明を書いても皮算用ばかりでまだこれからテストする段階なので実際にはどんなに変更するかは分からない。上部の受け皿は粘土で形を作って半乾燥のものを写真撮影した。この皿を素焼き・本焼きすると「動くアート」シリーズの陶芸は全て完了だ。それぞれの部品が出来上がりつつある。そして部品を組み立てていくと全体像が見えてくる。このステップが制作者にとっては一番胸躍る楽しい時かも知れない。
8月25日(木) 今年は「ルパン誕生100年」という記事をみた。怪盗紳士アルセーヌ・ルパンがフランスの雑誌に初登場したのが1905年。作者のモーリス・ルブランにとっては不本意な短編であったがルパンは爆発的な人気を呼び、その後ルブランは56編のルパンものを発表したという(読売新聞NET)。私がルパンを愛読したのが中学生時代、ほぼ半世紀前になるがその頃すでにルパン誕生から半世紀を経ていたことになる。ルパンの面白さはトリックの巧妙さ、謎解きの意外性、変幻自在のキャラクターだろう。私はその延長として江戸川乱歩の「怪人20面相」など「少年探偵団シリーズ」をワクワクして読んだが、乱歩もルパンをモデルに怪人20面相と明智小五郎、小林少年の知恵比べを作ったとされる。いま当時読んだルパンや20面相のストーリーを懐かしく思い出しながら、これらの物語には血の匂いや残酷性がないことに気がつく。いまの少年はどんな本を読んでいるのか知らぬが、残虐な内容などに偏っていないか心配。知恵比べやトリックを楽しめる本を現代の子供達にも読ませたい。
8月26日(金) 今朝は台風の真っただ中だろうと思って起床してみると雨は止んでいた。台風は明け方前に東京を通り過ぎて茨城・成田近辺の海上に去ったところだった。直ぐにアール(コーギー犬)を連れて散歩にでかける。西郷山公園(東京・目黒区)から西をみると富士山は雲をかぶっていたが丹沢山系の山並がくっきりと見えた。台風が通り過ぎると恵みの雨をもたらす有難い台風だと思う。被害に遭うとそんな悠長なことはいえないだろうが・・。「功罪相半ばする」という言葉があるが、台風もまさにそれに該当しそうだ。トータルでは”功”の方が多いかも知れない。被害者は何を言うかと怒るかも・・。年間を通して適度に雨が降り、適度に日照もあるなどの理想は自然に要求するのは無理というものだ。功罪半ばするとは政治家や経営者に対してしばしば適応される。何かを成した結果をトータルで功罪を見るには時間が必要となる。波風立たせずに現状維持を続けて“功”と思っていても、何もしなかった”罪”の方が大きいことも多い。実はわれわれ自身みな功罪半ばと思った方がいいのかも知れない。誰もが小台風、中台風で、思わぬところに被害を及ぼしていることもある
8月27日(土) 今日、我が家に陶芸用の電気炉が届いた。名を「窯(かま)わん」という。午後から早速ウオーミングアップの空焚きを開始した。空焚きは6時間ほどで終わっているはずだが先ほど温度を見ると10時間経過しているけれどもまだ炉内温度は550度もあった。明日の朝まで自然冷却させることになる。この電気窯は娘の夫のお母様から私へのプレゼント。過分な贈り物なので何度もお断りしたけれども最後には有難く頂戴することとした。前に自分では絶対に買わない242色のパステルを妻からプレゼントされて、以来パステル画の面白さを堪能したことがある。今回の電気窯も活用してこそ価値がある。これから「かまわん」を大いに”かまって”やってどんな新しい世界が拓けるか楽しみだ。
8月28日(日) 展覧会の期限が今日までということで、午後「古代エジプト展/甦る5000年の神秘」(@大丸ミュージアム・東京)にいった。家を出る直前まで孫娘の粘土遊びに付き合って自分でも粘土に線で模様を刻印した作品作りをしていた(孫娘の作る粘土は扇風機であったり串刺しの団子であったり、こちらが想像もしないものなので面白い)。その後、エジプト展をみたので歴史的な意義などでなく制作者の息づかいばかり気になった。4000-5000年前の石を刻み形を創り出す情熱のようなものが現代とほとんど変わりがない。時間の無駄とか効率とか損得などの言葉が存在しなかったのでないかと思われる分、エジプトの造作は精緻を極める。何千年も前と比べて何でも思うようにできるはずの現代にわれわれは何をやっているのか。またもやそんな疑問が脳裏をよぎる。
「今日の作品」に「陶芸用部品/球転がりブロック B」を掲載した。”靴”を履いて立っている。詳細はまた追って掲載したい。

    8月29日分
8月29日(月) 「今日の作品」に昨日に続いて「球転がりブロックB裏(陶芸)」を掲載した。陶芸コーナー(=ここ)に工作部品として紹介している「球用リフト装置」で約40cmの高さまで持ち上げられた球がこの「ブロックB」に誘導され、ここから球転がりがはじまる。この写真では分かり難いがブロックBの中だけで球の左右への分岐道が4カ所ある。その内2個所は球が右にいった後に来た球は必ず左、その次は右と交互に変わる。残りの2カ所は右にいくか左に行くかは決まってなく球の微妙な位置に従ってその都度成り行きで進路が選ばれる。したがってこの球転がりはこの通路を通したいと思ってもなかなかその通りにはならない(勿論手で球を持って通路を通すことはできるが)。現在まだ付属の部品を作ったり調整する段階でトータルの組み合わせまではいかないが、際限のない微妙な調整作業を続けているといささかくたびれる。背中が丸まって姿勢も元に戻らない。こんな時無性に絵で描きたくなるのが面白い。気分転換が必要だな・・。
8月30日(火) お金にもならない、名誉にもならないことを忍耐強くコツコツと続ける時、これは子供の頃何か物語で読んだことのある世界だと思って考えた。そこで思い浮かんだのは「青の洞門」であり「巌窟王(モンテクリスト伯)」だ。自分がその主人公というのでなく、はるかに忍耐強い人間の営みからみれば自分のやっている程度でへこたれるなと励まされる。「青の洞門」では僧侶が安全な道を作ろうと岩山にトンネルを掘り始めて実に30年(一説に16年)をかけて貫通させた。これを題材にした菊池寛の小説「恩讐の彼方に」では21年かけて貫通させた瞬間に僧侶と僧侶を仇とする若者は(僧侶が洞門貫通後に討たれると約束して掘り進んできたが)二人手を取り合って喜び合う。「巌窟王」ではエドモン・ダンテスが無実の罪で幽閉されて奇跡的に脱出に成功したのは14年後だった。忍耐をあらためて教えられた記憶は無いが感動した物語の世界は明らかに潜在的に影響を及ぼす力があるようだ。
「今日の作品」に「靴<使用例>」を掲載した。この靴が少し回転するだけで高さの調整ができる。

    8月31日分
8月31日(水) 「今日の作品」に「球転がりブロックC/陶芸動くアート 」を掲載した。ブロックCには白いブーツを履かせている。このところ毎日陶芸による動くアート関連の写真を更新しているが、この陶芸シリーズはそれだけ大作でもある。まだ全容を紹介するまで至っていないが、組立・調整段階でもわれながらとんでもないテーマに取り組んでしまったとため息をついている。半分は意地で、よく云えば情熱で完成させようとしているが、大袈裟に云えば、昨年制作した「ヘロンの噴水」と共に私の陶芸の代表作になりそうだ。両者ともにもう一つ作ってくれといわれても同じものを二度と作る元気はない。・・と云ってみたけれども、完成してしばらく思う存分に休息をとるとまた前回を超える何かを作りたくなるのかも知れない。何はともあれこの「動くアート<もう少しましな名前を考えなくてはならない>」シリーズを早く完成させてこのページでも紹介したい。

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