これまでの「今日のコラム」(2005年 10月分)

10月1日(土) 今朝、「陶芸による球転がり遊具」を一式、陶芸教室に移動した。足の踏み場も無い状態で私の部屋の床に組立てていた陶芸セットがなくなると部屋は見違えるほど広く感じる。今日から陶芸教室のギャラリーで展示が始まったというと聞こえはいいがギャラリーでも微調整に追われ安まることがなかった。「今日の作品」に展示風景の写真を掲載したように他のお皿とかお茶碗に並んでいると動きのある遊具は明らかに異質である。動きを面白いと思うこともできるが、静かなお茶碗などには別のよさがある。球の動きだけを追っていると、球のためにある周りの”造り”に目がいかない。遊具も動きや音がないオブジェとして鑑賞するとまた別の面が見えてくることがギャラリーでの発見であった。・・部屋は広くなったが一方で一抹のさびしさを感じながらパソコンのキーボードを叩いている。
<「陶芸による球転がり遊具」は10月1日から一週間「陶房テラのギャラリ(東京・代官山、HPおよび場所、地図などはここ)に展示されています。機会があれば是非ご覧ください!!>


10月2日(日) 「陶芸による球転がり遊具」の展示を見に来てくれた大学時代の友人と久しぶりに昼食を共にした。楽しい時を過ごした後、気の合う仲間には共通の要素があることに気がつく。まず愚痴をいわない、自慢話をしない、体験談に酔わない、今および将来の話をする・・などだ。同じ60代半ばの年代でも人によってこうはいかない。最近、50-80歳の間はもはや個人のバラツキ範囲で年齢でどうこう決めつけられるものではないと思うことが多い。50歳で自慢話と体験談を繰り返す人もいるし80歳でも未来を見ている人もいる。明治−大正の時代には男女とも平均寿命は43-44歳ほどだった。その時代なら50歳の人がそれなりの人生体験を語るのは分からないでもない。平成14年の平均寿命は男78.3、女85.2歳。今は50歳では過去にとらわれる歳ではない。永く生きたといって必ずしも語るに足る体験が多いとも限らないが、現代は新たな挑戦者となるチャンス(期間)が格段に増えたことは確かだ。自らのプロジェクトX(挑戦者達/NHK)を創り出せるか、それは新たな対象に対して興味をどれだけ持続できるかにかかっているのだろう。

10月3日(月) 久しぶりに風呂に本を持って入る贅沢を味わった。この程度のことであっても心にゆとりがなければできない。3ー4ヶ月振りの(風呂での)読書で聖書の言葉に出会った。私は信者ではないが聖書は喩えが巧みで何度読んでもハッとさせられる言葉の宝庫だ。特に新約聖書のマタイ伝には名言が多い。「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見いださん・・」(7章)も好きだが、今日は更にポピュラーな、その先の言葉:「狭き門より入れ、滅びに至る門は大きく、その道は広く、これより入る者多し。生命に至る道は狭く、その道は細く、これを見出す者少なし」。いうまでもなく大学入試の狭き門を突破するエリートを賛美している訳ではない。安きにつくことを諌めながら狭き門は見つけるものだと云っている。安易なメインストリートは滅びに至る道かも知れない、裏道でも脇道でも生命に至る道は発見しなければならないという発想は現代でも何ら違和感が無い。「此の道や行く人なしに秋の暮」と詠んだ芭蕉はまさに自分が見つけた狭き門より入った。どんな時代でもいたるところに狭き門が開いていると考えたい。

10月4日(火) 昨晩はテレビでMr.マリックのマジックを最後まで見てしまった。この番組、Mr.マリックが色々な有名人ゲストの目の前でマジックを見せる。お遊びとしてゲストが種を見破ればゲストに100万円進呈するバージョンもあり、後で種明かしをする。種明かし分は比較的易しい手品が選ばれているがそれでも種は見破れない。朝青龍に見せたマジック(種を明かさない分)は圧巻だった。一万円札を燃やした瞬間、燃やしたはずのお札が氷の中からでてくる。鮮やかなマジックを見せられるとマジックの種を作る趣味も面白いだろうなどと妄想が広がった。2ー3日前に普段は会社に勤める天才的なマジック作家である人がテレビで紹介されていた。外国のマジシャンがネタを買いにその人の家を訪れる。マジックの世界も日々進化しながら”創造”に支えられているのだ。それにしても氷の中の一万円札は私が考えた仕掛けと同じかどうか種を知りたい。

10月5日(水) 二年振りにリーグ優勝を果たしこれから日本シリーズにのぞむ阪神タイガースが大揺れだ。親会社の阪神電鉄の株式が村上ファンド(村上氏率いる投資ファンド)によって4割近くまで買い占められた。村上氏の意図が分からず様々な憶測をよんでいるが、いずれにしても如何に儲けるかに尽きるだろう。金の力により電鉄およびその100%子会社であるタイガース球団を思うように動かして更に金を生む。こうしたマネーゲームが珍しくなくなってしまったが最終的に社会のためになるか否かを”大衆”が見守る必要がある。金のある資本家が怖いのは金のない大衆だけ。金で買えない世論が彼らをまともにさせる事が出来る。村上氏の師匠格であるオリックス(宮内氏)はいみじくも自らの会社を「お金の加工業」と呼んでいる。お金業種が伸してきて、プロ野球に阪神、西武などの電鉄業が過去のものとなりつつあるのは時代の趨勢か。案外プロ野球界にとってよくなることもあり得る。どちらにしてもタイガースの行方を注目しよう。

10月6日(木) 男の子なら大抵”レゴ”(LEGO)で遊んだことがあるに違いない。凹凸のついた小さなユニットを組み合わせる事により、車、飛行機、家、ロボットなどどんな形の模型でも作ることができる。オリジナルはデンマークの玩具であるが今や世界中にレゴファンがいる。アメリカでは大人のレゴマニアのグループが手の込んだ高度なモデルを競いあったりするようだ。最近のニュースでレゴユーザーの大人がレゴ会社のホームページを『ハッキング』するのを、レゴの会社が寛大に認めたばかりか前向きに応援するという異例の事態を報じている。要するにホームページで紹介されるモデルに必要なレゴのユニットをユーザーが購入出来るのだが、レゴ側の提供する(重複した)ユニットでなく必要最小限のピースを購入出来るようにユーザーが勝手に改変したということらしい<確かに、LEGO Factory=ここの中にソフトウェアをダウンロードしてユーザーが自分でデザインしたモデルを組み立てるための”コンピューターで算定した”セットを選ぶ事ができる!)。これに対して、レゴ側のプログラマーがユーザー側の知恵を素直に取り入れて、より便利なシステムに進化させようと協力をした。訴訟社会であるアメリカでも融通をきかせる場合もあるのだと、チョッといい話に思える。
<「陶芸による球転がり遊具」は現在(10月7日まで)「陶房テラのギャラリ(東京・代官山、HPおよび場所、地図などはここ)に展示されています。機会があれば是非ご覧ください!!>

10月7日(金) 今日の夕方、陶芸教室のギャラリーに展示してもらっていた「球転がり遊具」を持ち帰った。この一週間、他の事をやっても何となく落ち着かないので午後は陶芸教室で作陶しながら要望に応じて「遊具」の実演と説明を行なった。この間、自分の作品に対してまさに”ひと様々”の反応を楽しむ。非常に興味を持ってくれた人が年齢、男女の性別に全く無関係であったのは意外。若い男の子が関心を持つかと云うとそうでもなく、女の子やおばあさんがとても喜んでくれたりする。役に立たないものを見るような無関心派、こうできないのという提案派、評論派など、それぞれに人の趣味の違い、感性の相違なども実感して面白かった。褒め言葉として、何回見ても飽きないと云われると素直にうれしい。いいものを見せてくれてありがとうと云われると、次には私もこの表現を使おうと思う。感動した、カルチャーショックだったという言葉を思い出して次なる作品作りのバネにしたい。
10月8日(土) このところ「迷惑メール」がほとんど来なくなった。それまでは毎日10-20件のインチキメールをただ削除していたのだが、ある時勝手に侵入する迷惑メールは特定のアドレスに偏っていることに気がついた。以前インターネットも扱うケーブルテレビの会社の名前が変わり、それに伴ってメールアドレスも新しく取り直した。旧アドレスの有効期限があったので期限が過ぎると自然に無効になると思ってパソコン上には旧アドレスも残していたのだが、迷惑メールは全てそのアドレスに来ていたのだ。今は使うことのない旧アドレスを削除すると翌日からはメールボックスはスッキリ!どうみても、古いアドレス帳がどこかに流出したとしか考えられない。自分の甘い情報管理のために多くの人が迷惑を被っていることをケーブルテレビ会社は知っているのだろうか。
「今日の作品」欄に「古きコラージュ/1990年作品」を掲載した。15年前の作品を掲載せざるを得ないのは「今日」の作品がないためであるが、まあこういう時期もある・・。この作品はコラージュであるがワープロで解説文字も付いていた。いわく「30秒間見つめただけで、あなたを幸せにしますという絵が9270円で売っていた・・」。だから同じような絵を自分でも描いたと云う訳だ。サインが現在のスタイルと違うのも懐かしい。

10月9日(日) 何事も完璧であることはあり得ない。不満があるから進歩する。フラストレーション(欲求不満)は進化の源泉。・・こんな大袈裟な弁護をしてあげたいのが「インターネットテレビ」だ。この数日間無料で民放のテレビをインターネットで見ることを試している。インターネットテレビは世界中(海外)で日本のテレビが見られるとして随分普及してきたようだ。私が試してみたのは、無料でWindows Media Playerを使ってみるものであるので最低グレードであるとは思うが、立上がりは遅い、チャンネルを変えるにも時間がかかる、画質は悪い、画面は小さい・・と見るに絶えない。それでもテレビとパソコンの合体という大きな流れを実感する。テレビがデジタルオンリーとなる時にはパソコンとテレビの区別がつかなくなっているだろう。それにしても机上のパソコンにテレビが映るとテレビの”ヒドサ”が倍加してみえる。民放テレビはまさにコマーシャルばかり、番組も見るべきものがない。ハードはどんな完成品にしても不満の種を探し、日夜改良に励む。それに対してソフト(番組)の進歩はどこにあるのか。視聴者のフラストレーションは溜まっているというのに・・。
10月10日(月) 体育の日の今日、東京では終日雨が降ったり止んだりしている。「霧雨の空を芙蓉の天気なり」(芭蕉)。芙蓉という花は強い日ざしを受けるとだらりとしてしまうが、雨模様だと俄然元気になる。今日はまさに芙蓉の日と云うべきなのだろうか。テニスコートの側に咲いている芙蓉が「酔芙蓉(スイフヨウ)」であることを仲間が教えてくれた。酔芙蓉は一日のうちにお酒を飲んだように色を変えるのでその名がついた。朝に咲き始める時には真っ白であった花が昼頃には淡いピンクになり夕方には紅色になる。実際には昼間でも日の当った花はピンクになるが葉陰の花は白のままであったりするので白やピンクが混合していることが多い。お酒を飲むこともなしに何故酔芙蓉の花が紅色に染まって行くのか調べ始めたが分からなかった(紫外線など陽光のある要素に反応して短時間に色素が変化するメカニズムは解明されているのだろうか?)。・・そろそろアール(コーギー犬)の散歩の時間であるが”芙蓉の天気”は変わらない。今夜の散歩は取りやめだ。「秋雨の空に真っ白酔芙蓉」の一日となった。
10月1 1日(火) 絵を描いたり土をこねて陶芸をやっていると妻がうらやましがる。どちらも1時間でも2時間でもやればやっただけ目に見えて結果が伴う。それと比べると音楽を猛練習しても直ぐに顕著な成果は見えてこないと云う訳だ。自分でもモノツクリは手を動かしただけで即結果がみえるところがいいと思う。音楽と比べて更に大きな違いは変更や蓄積ができるところだ。瞬間芸の音楽は血のにじむような練習を積み重ねたとしても本番でその成果を100%披露出来るか全く保証がない。絵でも粘土でも気に入らなければやり直せばよい。やり直しができない音楽は恐らく聞き手と一体になった達成感が格段に大きいのだろうが私には到底かなわぬ厳しい世界だ。・・手を動かしさえすればできあがる、そんな典型であるがニューヨークに戻った孫娘宛に「絵手紙」を描いた。「今日の作品」に掲載した「猫<MIEUへの絵手紙>」。この3-4ヶ月は陶芸ばかりやっていたので久しぶりに絵を描くのが無性にうれしかった。絵筆を取りさえすれば作品ができることを改めて実感し、これからはもっと”描こう”と思いを新たにした。

10月1 2日(水) 久しぶりに本棚から小林秀雄の「美を求める心」を取り出してみた。小林秀雄(1902-1983)と云えば日本における文芸評論を確立した人とされるが、「モオツアルト」などの音楽評論や絵画の評論でも優れた眼力(聴力もか)を見せた。私は評論とはケチを付けたり批判するころではなく長所の発見であると思うが小林秀雄の評論にはそれがあるので安心して読める。「美を求める心」は近代絵画、日本の絵画、それに骨董への眼という3章から成り立っている。小林秀雄の骨董趣味は有名で自身でかなり一生懸命収集したようだ。骨董への思いを書いた文章を読むのは面白いが、私は骨董を収集する事に関しては全く実践したいと思わない。世の中、骨董が趣味の人は多い。私は収集するお金もないのは勿論だが名品を見たくなれば美術館へいけばいいと考える。気に入ったものを手元に置きたければ自分で作ればいい。所有欲はないけれども骨董でも美しいものは美しいと思う。「では、美は信用であるか。そうである。」(真贋)と小林秀雄は云った。
10月13日(木) 世の中、筋書き通りのストーリーは面白くない。芸術の分野にしても陳腐な権威よりも新たな突破口を開拓する意欲の方を評価したい。だから、”村上ファンド”の金の力は好みではないが大老人の巨人前オーナー(ナベツネさん)と対決するなら若い方を応援するかとも思う。楽天がTBSの筆頭株主になったとか、村上ファンドもTBS株を多数取得したというニュースも旧権威を変革する意味でこれまでにないストーリーを期待出来る。それにしても・・それにしても・・「狂言師和泉元彌がプロレスデビュー」のニュースは余りに奇想天外なストーリーでさすがに面白いと喜ぶこともできない。和泉元彌さんといえば一年ほど前に千葉の小さなテーマパーク(デイズニーランドなどでないという意)の小さな劇場に出演しているのに出会い、お母さんともども何か侘しげであったのを思い出す。狂言の主流から絶縁されながらなお新たな狂言を模索し続けるという姿勢であれば応援もしたくなるがそうでもないようだ。さてプロレスに関しては元彌の格闘技経験はゼロだが、「狂言は600年前にできたエンターテイメント。平成のエンターテイメント、プロレスの挑戦状を受けた」。11月3日、横浜アリーナは報道陣で満員になれば大成功なのだろう。
10月1 4日(金) 「今日の作品」に「水引草<MIEUへの絵手紙>」を掲載した。余り幼児宛の絵手紙らしくないが<MIEUへの絵手紙>はいつも相手が幼児とか子供とは意識せずに描く。いま狭い我家の庭に水引草が目立つ。名前を知らなければただの雑草で片付けられそうだが、この草は名前で得をしている。勿論、細長い茎に赤い花がまばらについた様を”水引”にみたてて名付けられたもの。和名は情緒あるが孫娘のために英語名を調べてみたが分からなかった。それにしても和名の「水引」も考えてみると何で水引なのか?水引は国語辞典によると「贈答の包みなどにかける細くて固い紐(細いこよりを数本合わせ、のりをひいて固め中央から金銀・紅白・黒白などに染め分ける)」(新明解/三省堂)とあるが名前の由来まではでていない。他で調べてみると、「こよりを水に引きわたして染めたことに由来するとか、神仏の供養や人に物を贈るとき水を添えるインドの風習の代わりに用いられたとする説」(平凡社/百科事典)とあった。水引の絡んだ贈答にはほとんど縁がなくなったが今の季節になると毎年自然から水引草がプレゼントされる。

10月1 5日(土) 今日オープンした「奈良県代官山アイスタジオ」(ホームページ=ここ)を早速見学してきた。「奈良の歴史空間が代官山に!」と華々しいが、この場所はこれまで奈良県の寮だった。東京への出張者が宿泊したりする施設なのだろうけれども部外者を受け付けない地味な建物に見えた。それが今日はオープニングイベントでお茶やケーキを無料でサービスする変わり様。奈良にある三つの世界遺産の紹介、平城遷都1300年記念事業紹介などの他に私は「平城京バーチャル体験」を楽しんだ。これは奈良先端科学技術大学院大学の学生が操作を教えてくれたが、平城京の街並のモデル(32インチテレビ相当の画像)がコンピューターグラフィックで再現されていてコントローラーを使って場所や位置を自在に変化させる装置。碁盤目状の街を散策し、時にはヘリコプターから眺めるというバーチャルを自分で操作できるから面白い。朱雀大路(朱雀門〜羅城門)などの壮大な街造りに接すると現代でもインパクトを受ける。奈良の酒の試飲会や即売会もある。しばらくは代官山で奈良に親しみたい。
10月1 6日(日) 昨日「平城京バーチャル体験」をしているときに「虎ノ門」を思い出したので書いてみたい。平城京から虎ノ門へたどり着くのは長い道のりだ。江戸の場所が京都の平安京(これは奈良の平城京ともつながる)にならって「四神相応の地」とされたことはよく知られている。中国から伝わった風水によれば四神とは東西南北のそれぞれを守る青龍、白虎、朱雀、玄武の神獣。東は青龍が守り、時間は朝6時、色は青、「大きな川」があるとよいとされる。西は白虎が守り、時間は夕方6時、色は白、「大きな道」がよい。南は朱雀(=赤い鳥の姿の神)が守り、時間は昼の12時、色は赤、「大きな平野」がよい。北は玄武(=亀または亀に蛇が巻き付いた姿の水の神)が守り、時間は夜の12時、色は黒、「大きな山」がよい。平城京や平安京は四神の条件をそろえた相応の地であり朱雀大路は正確に南北に走らせるなど忠実に街並が構成された。江戸の場合も東に川、西に街道、南に沼畔、北に山と相応の地であるが方向はそれほど厳密ではない。江戸城の大手門から朱雀と見なした東海道は真西でなく南に偏っている。それでも東海道のスタート点を白虎の門と呼んだ。これが現在の虎ノ門。その気で見ると富士山も西南方向であるが東海道、中山道など大きな道の方向に富士があるとみれば風水もいいのだろう。虎ノ門から続く白虎大路でもあれば江戸がもっと親しくなっただろうに・・。
<明日から信州方面に旅行の予定。今回はパソコンを持参せず、2ー3日コラム休みます>

10月1 9日(水) この三日間、友人夫婦、義姉夫婦それに私たちと合計6人で信州をドライブ旅行した。信州と書いたがNHKの前の連続テレビ小説「ファイト」のロケ地となった群馬県の嬬恋(つまごい)牧場などにも立ち寄ったり、各所で紅葉や森林浴を満喫した。ここでは昨日宿泊した志賀高原(長野県)の「石の湯ホテル」のことを書いてみたい。このホテルのオーナー、ハコさんは91歳になる元気なお婆さんだが食事をしていると挨拶にくるしフロントにも顔をみせる。何よりホテル全体がこのハコさんの趣味で独特の雰囲気を醸し出している。ハコさんは自分で写真、絵画、陶芸、手芸などをやるが、どれもが本職の作品以上に上手くまた感じがいい。少し前に私が東京駅ステーションギャラリでの展覧会をみて親しみを持った加守田章二(陶芸家、現代陶芸界の鬼才といわれたが1998年死去)の美術本がホテルの本棚に並んでいた。加守田章二の陶芸作品も飾ってあるので関係を尋ねたところ加守田が若い頃をハコさんが知り合いであったらしい。加守田に限らずホテルのいたるところに陶芸作品がおいてある。また山や美術関連の本など図書館並に自由に読めるのもうれしい。このホテルの食事が評判に違わずすばらしい。夕食はもちろん朝食の豪華さは旅館、ホテルで経験した事がないほどだった。ホテルを出る時にハコさんと皆で記念写真を撮った。いつまでもお元気でこのホテルを続けて下さいよ・・。こう云いたくなるホテルは珍しい。<このホテルHP=ここ
10月20日(木) 文は人なりと思ってはいけない、文章と同じように人は話すことなど出来ない・・これは他人様のことを云っているのでなく自戒の気持ちである。例えば、大した推敲もしないこのコラムのような文章でさえ話し言葉と比べると十分な時間がとれるので文章の中の固有名詞や内容に自信がなければ調べた後に書く事ができる。後日、自分でコラムを読み直してみると物知りのように思えるところがあるが話し言葉ではこうはいかない。こんなことを思ったのは今日テニスをやった後(かなり疲労した状態であったが)仲間と美術の話題になり私は”真鍋博”や”香月泰男”の名前をどうしても思い出すことができずに愕然とした経緯がある。香月泰男(シベリアシリーズなどで著名な画家、1911-1974)など私が敬愛する画家の一人であるのに名前が直ぐにでてこないのは屈辱でもある。前にはやはり中川一政(画家)の名前が頭に浮かばずイライラしたこともあった。固有名詞が思い出せないのをただ歳のせいにはしたくないので”対策”が欲しい。それにはまずもっと”話す”機会を持つべきかも知れない。話し言葉は文章よりも健康的なのでないだろうか。原始、人間は話をしていたが文章など書かなかった。今のパソコンで文章を綴るやり方は言葉が記憶に残り難い。同じ文章をペンや毛筆で綴るとしたらはるかに脳に対するインプットは大きいだろう。パソコンでこのコラムを書くのならば、書いた後に声を出して読むのはどうだろうか。・・今日の結論;話をしよう、そして、文章は声をだして読もう。
10月21日(金)  <紅葉はなぜ・・>
「今日の作品」に「紅葉<水彩>」を掲載した。先日信州に行った際に拾ってきた落ち葉を描いた。ほとんど毎年のように紅葉を描く。こんな風に葉っぱを細密に描くことも以前やった覚えがある。紅葉をみていると抽象とかイメージ画を超越してただ自然そのままを描きたくなる。そして描いている最中にこのような姿形、色彩をもたらす自然に感動し、更に細かく観察を続ける。全ての事には理由があるはずであるからそれぞれの葉の形状にも然るべき理由があるのだろうが、どれもが実に個性がある。環境に最も適合しやすく進化したとすれば落葉そのものも冬場に樹木本体を維持するための生き残りの妙とみえる。紅葉のメカニズムについては調べてみても自分では十分納得しきれない。クロロフィルという葉を緑色に見せる色素が老化してアミノ酸に分解されると葉緑体の中に含まれている黄色の色素カロチノイドが表にでてきて葉が黄色くなる。アミノ酸を元にアントシアンという色素が合成されると葉は赤くなる。褐色になるのはフロバフェンという色素による。そう説明されているが、なぜ黄色、赤、褐色に分かれるのか、その必然性が分からない。紅葉の色に限らず自然の色は私にとっては大いなる疑問である。赤い花はなぜ赤くなければならないのか、リンゴはなぜ赤の色素を持つのか、蜜柑はなぜ橙色・・どこか疑問に答えてくれるところはないだろうか。

10月22日(土)  <考えるための散歩・・>
いま夜の散歩から帰ってきたところ。大雨でもない限り毎日必ず早朝と夜の二回は犬(コーギー犬)を連れて散歩に行く。早朝は6時から6時半頃に家をでるが夜の散歩は時間が決まっていない。今晩のように7時前に行くいくこともあれば夜9時過ぎて出ることもある。夜の散歩は犬よりも私にとって大切な時間となっている。くたびれている時でも散歩の後には元気になるし、この「今日のコラム」を書くネタがない時など散歩しながら考えていると大体の構想ができあがる。最近は犬を連れた散歩だけでなく昼間の気分転換にも外出が有用だと思うようになった。机の前でいくら考えても浮かんでこないアイデイアが外を歩いている時に閃くこともある。”歩きながら考える”と云われたのはイギリス人だっただろうか。そんな比喩ではなく実際に外に出て移り変わる景色から刺激を受ける方が考えるのには適していると思われる。考えるための散歩時間をとりたいものだ。

10月23日(日)  <宗教絵画・・>
招待券をいただいたので「プラート美術の至宝展」にいった(@東京/損保ジャパン東郷青児美術館、本日まで)。プラートはイタリア・フィレンツェの北西15kmにある小さな都市。この展覧会ではプラートに伝わる14-17世紀の聖母信仰に基づく宗教画が展示されている。普通の絵画展と違って、ただ好きな絵とか嫌いな絵では片付けられない雰囲気があって妙にくたびれるので理由を考えた。宗教画には一つ一つの絵に執念がつきまとう。それも聖母信仰(キリストの母であるマリアに対する信仰、カトリックの特徴、ノートルダムの名前も”私たちの貴婦人”、つまり聖母マリアのこと)となると受胎告知されるマリア、幼子イエスを抱くマリアなどあらゆるところにマリアが主題とされる。同じ信仰心をベースにした宗教美術でも禅仏教の場合には無に帰すとかどこか引いた(主張が前面に出ない)ところがあるが、聖母信仰の絵画では画家はマリアに陶酔しながら自らの信仰を強固に主張する。信仰心を持たない立場からみると絵に心が込められているほど圧迫感を受けてくたびれるのかも知れない。最後に同じ美術館に常設展示されているゴッホの”ひまわり”をみてホッとしたのは確かである。

10月24日(月)  <タイル目地に象嵌・・>
タイル目地の清掃(補修)には象嵌手法が効果的だ・・といっても意味不明かも知れない。風呂場のタイル(目地)が余りにきたないので色々試してみたけれども目地の黒い汚れがとりきれない。カビキラーとか目地塗り用具など一通り使ってみた後、結局細い筆でシール剤を目地に塗り込むやり方が一番確実できれいになることが分かった。塗った後で乾ききらないうちに目地からはみ出した部分を拭き取る。目地はタイル面よりも引っ込んでいるのでタイルを拭いてやれば目地の部分には新しいシール剤がそのまま残り美しくなる。こんな作業をやりながらこれは”象嵌”と同じ手法だと思いつつ仕事を楽しんだ。象嵌は金属や木材、陶磁器などの面に模様を刻んで別の材質をはめ込むことをいう。金銀をはめ込むこともあるし色が異なる同種の材質を使うこともある。私は陶芸で最近この象嵌をいくつかやったので馴染みが深い。陶芸の象嵌の場合粘土に深く模様を刻み別の粘土を模様の部分に塗り付けた後表面の粘土を削り取る。そうすると釉薬などでは不可能な細い線の模様なども描くことができる。タイル目地の象嵌は好きな模様を描く訳にはいかないけれども見違えるようにきれいになった格子状の白線模様に満足している。
10月25日(火)  <個別に徹する・・>
”個別に徹する”というと何か自分勝手なニュアンスがあるが、ここでは”一般論”に対極する立場を個別とする。一般論が筋道の通った理論とすると人間は一般論で生きるのではない。つまり一般論を超越して個別に徹するところに生きる意味がある。現代は統計や確率で算出される一般論が氾濫している。平均寿命(日本人)が男78、女85歳であっても病人にとっては(あるいは誰でもが)明日の我が身だけが現実の問題で”平均”は余り意味を持たない。生きるか死ぬかは必然的に個別に徹するところだが、一般論として採点される成績についても個別に徹すると究極で別の価値観が生まれる。あなたの人生は60点でしたと一般論で評価されるのはナンセンスで、自分がどう思うかであろう。”個別に徹する”とは成績がつけられないこと、○×でないこと、賛成ー反対で決められないこと、言葉で表せないこと、理屈でないこと・・それは個人の生き様そのものになるのだろうか。

10月26日(水)  <焦らしのテクニック・・>
初めは面白いと思ってもその内に鼻について嫌みなことがある。みのもんたがテレビの中で使う焦らしのテクニックもそう思えてきた。質問に対する正解を直ぐには見せない。延ばしに延ばし、もういい加減にしろといいたくなる頃にパッとみせる。じらされると余計に興味を持ち、結果を知りたいと思う心理を巧みにつかんでいる。その手法がみのもんたのクイズや”おもいっきりテレビ”の専売特許かと思っていたら、最近はどこもかしこも、このじらしのテクニックを多用する。NHKまでが予告編で一番見たいところにぼかしを入れて、見たければ番組を最後まで見て・・とやったのには驚いた。民放では、じらしの途中でコマーシャルを入れるのが常套手段だ。クイズ番組の場合こちらで正解が明らかに分かっている時に勿体ぶって引き延ばしているのはただ時間の無駄としか思えない。モノゴト何でもほどほどが肝要。私は焦らしが限度を過ぎるようであればチャンネルを変えることにした。
10月27日(木)  <シリーズ4連勝・・>
米国大リーグ野球ではシカゴ・ホワイトソックスがヒューストン・アストロズを4連勝で破り1917年以来、実に88年振りのワールドシリーズ制覇を果たした(今朝のニュース)。日本シリーズはまさか阪神がロッテに4連敗することはないだろうと、昨夜の試合はテレビも見ないで他の事をやっているとニュースで”ロッテ優勝”。初戦の千葉マリーンスタジアムでは濃霧のため7回途中でコールドゲーム。10-1でロッテの大勝だが、球場であれほどの濃霧は見たことがない。この霧は何の前兆かと思われたが、第2戦はロッテ渡辺俊介のサブマリーン投法に阪神打者は全く手が出ず10-0でロッテ完勝。第3戦の甲子園でなんと1-10でまたも阪神惨敗。これは誰も予想できなかっただろう。それでも、それでも・・私は高校生の頃、1958年の日本シリーズで西鉄が巨人に3連勝を許しながらその後4連勝して奇跡の日本一となった試合を覚えている。「神様、仏様、稲生様」の伝説の言葉が生まれた稲生の4連投は凄かった。今年の阪神に稲生様はいないうえにJFK さまも出番がなかった。終わってみればロッテが31年振りの日本一、そして野球の歴史に残る新たな記録の山をつくった。そういえば熱烈なロッテファンである息子夫婦のところに一週間前に珍しく日本酒をプレゼントした。これは優勝祝いの先渡しだったようだ。
10月28日(金)  <ぐい飲みでにごり酒・・>
「今日の作品」に「ぐい呑み<陶芸>」を掲載した。この作品は我家に新しく入った陶芸用の電気窯で焼成したもの。電気釜には家庭用の100V電源を使用しているが、テスト焼きの段階で電圧降下のため所定の(1250度)温度まで上がらないなど順調にはいかなかった。このぐい呑みは問題を克服してはじめて自分の作品を焼き上げた記念すべきものだ。同じ形のぐい飲みをペアで作ったが二個ともうまく焼けて気に入っている。実のところは仕上がりは思っていたのとは違う。土には鉄分を含んだ赤1号を使ったので炭を周りにおいて炭化焼成を試みた。本来は地がもっと黒くなる予定であったが私のミスで炭化が思うようにいかなかった。その代わりに焼け具合に微妙な変化がでてそれなりに面白く仕上がった。この作品は私にとって貴重な失敗経験の産物であるが偶然の結果で満足出来るものとなった。普段は晩酌をやらない私たちがこの酒杯を使ってこの数日間毎晩にごり酒を楽しんでいる。

10月29日(土)  <気象予報士さんもかわいそう・・>
気象予報士さんもかわいそう・・、東京地方では天気予報が大幅に外れて夕方5時を過ぎてからようやく雨が降り始めた。朝7時の予報では午前中9時頃から雨。本格的に降るというのでテニスに行くのは諦めて雨でもできる用事をする。10時過ぎには渋谷の東急ハンズに電車ででかけた。いつもは自転車でいくところを雨が降ると思って電車賃を払って行ったけれども一向に雨が降る気配がない。買物を済ませて空を見上げると雲が薄くなってきている。仲間は今頃テニスかなあ、それならば・・と家まで歩いて帰ることにした。自転車とはまた違う道を通るので突如三木武夫記念館が現れたり意外な新発見を楽しみながら30分もすると家に着いてしまった。薄日までさしてきて少し汗ばんだがいいウオーキングだった。都内を歩くことはなかなか面白いと気づかせてくれたのは気象予報士さんのハズレのお陰です。

10月30日(日)  <冷えるのが待ちどうしい・・>
冷えるのが待ちどうしい・・。家で陶芸用の電気釜を使ってみると加熱するより冷却する方に時間がかかることが分かる。冷えるのが待ちきれなくて、一時間毎に時間を見てはいらいらしている。今焼いているもの(新しい作品ではなく旧品のテスト焼き)は10時間かけて1200度まで温度を上げ、その後徐冷(自然に任せて温度の下がるのを待つ)をしているが15時間を経過してもまだ200度あり釜の扉を開けることはできない。私は鉄の熱処理については勉強したことがあるが、鋼を溶融した後、徐冷するのと急冷するのでは材料の組織や性質がまるで変わってしまう。鋼(鉄Feに炭素Cが0.1-2.7%含まれる)は急冷して”焼入れ”することもある。これは鋼には元来靭性(粘り)があるので焼入れにより刀のように強固な材料とすることができるのだが、ガラスや陶器などはそうはいかない。極力ゆっくりと冷却しなければ割れてしまう。ヒートアップしたものは時間をかけて冷却して初めて完成となるのは象徴的だ。人間も条件が揃えば焼きを入れてより強くすることもできるが、時には自然の冷却時間を確保して待たなければ壊れてしまう。素材の性質は鋼や陶器などのように単純には見極めがつかない。さて、電気釜の方は90度以下になって品物が取り出せるまではまだ数時間かかりそうだ。とにかく自然に任せて待つ・・。

10月31日(月)  <記者会見・・>
第三次小泉改造内閣が発足。夕方行なわれた新閣僚の記者会見を生中継でみていると閣僚の話よりも質問する記者が気になってしようがなかった。記者の方が何か国会で質問の機会を得た野党のように錯覚しているのでないかと思われるような質問を繰り返す。ある記者はどの閣僚にも靖国問題の見解を問う、またある記者は北朝鮮に経済制裁をするとすればいつやるかなどと問う。そうかと思えば就任早々の新閣僚に細かい事柄の考えをただしたりする。こんなバカな質問をするのはどこの新聞だと聞きたくなったが、実際に質問者の所属と氏名を名乗らせたのは麻生外務大臣だけだった。確かにA新聞の○○です、と初めに云わせると視聴者側にもよく分かる。できれば質問者の顔もテレビで映してくれればもっとよかった。記者会見の記者が国民の代表面をして質問するなら自分の所属、氏名を告げるのは当然であろう。お前ならどんな質問をすると聞かれるか・・。初入閣で馴染みがない人には「あなたの長所と欠点を一つづつ挙げるとすれば何ですか?」、とか「もし一週間仕事を離れるとすれば何をしますか?」などはどうだろう。大抵の人はこれで人間性がでる。政治記者に少しゆとりがあればあるいは政治家も変わるかも知れない。
これまでの「今日のコラム」(最新版)に戻る

Menu  + Today  + Corgi  + Puppy  + Gallery +  Ebisu /Daikanyama  + Links