これまでの「今日のコラム」(2006年 5月分)

5月3日(水) <目に青葉・・>
5月の声とともに、初夏の日射し。1日から3日間のテニス合宿では、”目に青葉”、”さわやかな風”、”五月晴れ(本来は旧暦五月なので梅雨の晴れ間をいうようだが)”を存分に堪能した。今日の夕方帰宅して日暮れ時にアール(コーギー犬)を連れて西郷山公園(東京・目黒区)に散歩に行ったが、ここでもいつになく目に青葉とさわやかな風に感動した。最近一年中でもこの季節を一番気持ちよく感じるようになった。以前はほとんど感動もなかったのでこれは年齢のせいもあることに気がついた。現代の医学(あるいは心理学)でどこまで解明されているのか知らないが、季節変動によりホルモンの分泌などが変化し”気分”が左右されることがあるだろう。それが年齢によっては春から初夏の季節は反対に一種憂鬱な心情を引き出すこともあるようだ。現代の5月病、6月病と云われる若者の憂鬱な気分は環境の変化以外に季節の変わり目も原因の一つではないかと思う。兼好法師が「若葉の、梢涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされと、人のおほせられしこそ、げにさるものなれ<徒然草>第十九段」といったように昔からこの季節は微妙に心を刺激した。”目に青葉”・・を憂鬱に感じるならば若さがいっぱいの証拠、さわやかな気分になるのは熟達の証拠と思っておくことにしよう・・。
「今日の作品」にピラミッド型花器(陶芸)のサイドを替えた写真を掲載した。


5月4日(木) <ひらかな都市・・>
テレビをみていて「ひらかな都市」がでてくると気になってしようがない。”さいたま”、”つくば”、”いわき”、”むつ”などきりがないが、何故ひらかななのか理解できない。誰におもねているのか、それとも時流に乗ってナウいと思っているのか、全く人をバカにした話だ。埼玉、筑波、磐城、陸奥の方がどれだけ分かり易いか、歴史があることか、そしてすばらしいことか。ひらかな都市を推進する方々はかつて伝統ある町名をなくして番号だけの町名を作り上げたお役人と同じく文化の破壊者であり子供の漢字能力を奪う犯罪者に等しいといいたい。”人にやさしいひらかなの都”と自称するのをきくと寒気がする。・・そんなことに関連して「大阪府(おおさかふ)のご案内(あんない)」(=ここ)をみてまたびっくりした。へいせい、○○ねん、××つき・・と全てにルビ付きだ! いたるところで、”やさしさ”がはき違えられている。

5月5日(金) <上弦の月・・>
夜の8時過ぎにアール(コーギー犬)を連れて散歩にでかけた。大通りにはいつになく車が少ないのにオープンテラスのあるカフェがにぎわっている。そう、今日はゴールデンウィークの真っただ中、こどもの日、そして、端午の節句。”端”は文字通り端っこ、始まりの意、”午”は”5”。月の始まりの5日から更に5月5日が「端午の節句」になったという(3月3日、上巳は桃の節句、7月7日は七夕、9月9日、重陽は菊の節句と同類)。それにしても、こどもの日も端午の節句も休日であること以外、自分の行動には一切関係がなくなってしまった。・・アールが一休みしたところで上を見上げると澄んだ夜空に上弦の月が美しい。月にみとれているとヘリコプターが一機、騒音をまき散らしながら月をかすめて西北西の方角に飛んで行った。更に10分ほど経過した頃、こんどはまたもや月をかすめて小型飛行機が西南から北東へと飛ぶ。休日の上弦の月はいささか騒々しくて困惑しているだろう。一週間後には満月がみられる。

5月6日(土) <わたしのまちがい・・>
「わたしのまちがいだった わたしの まちがいだった こうして 草にすわれば それがわかる」。この八木重吉の「草にすわる」という詩はNHKの「にほんごであそぼ」(=こども向けの番組であるがどれも気合いが入っている)で取り上げられたり、「声に出して読みたい日本語(齋藤孝著)」でも紹介もされた名作だ。詩の内容が深く美しい。八木重吉というと私は画家のゴッホと詩人の金子みすずを連想する。今は有名であるがいずれも早世し生前はほとんど名が知られていなかった。ゴッホ(1853-1890,37歳で自殺)は生前売れた絵は一枚といわれ、ゴッホの書簡集が発行されて(ゴッホの弟テオの妻ヨーによる)同時に絵が注目されたのは1914年だった。金子みすゞ(1903-1930,27歳を前に死去)も後世、1982年に詩集が出版されてから瞬く間に名を知られ教科書に詩が採用されるまでになった。八木重吉(1898-1927,肺結核になり29歳で死去)の場合も死後20年を経て詩集が発行されて世間に知られる。キリスト者であった八木は若くして2000を越す詩を残したけれども生前には一冊の詩集しかなかったという。現世で勲章をもらう人は「わたしのまちがいだった・・」の詩を書くことができないとも思える。本人の死後、名作を発掘し世にだした人々に感謝。

5月7日(日) <はらぺこあおむし・・>
早朝の犬の散歩は毎日の習慣であるが日曜日にはできるだけいつもと違うルートを選ぶ。今朝は雨が小休止したのを見計らって久しぶりに「恵比寿ガーデンプレイス」までいった。恵比寿ガーデンプレイスでは広場に犬を入れてはいけませんと云わない。「犬はルールを守りましょう」といった表示はあるが、この場所には犬連れを拒否しない先進性があり、清潔さと相俟っていつきても気持ちがよい。更に今日は「はらぺこあおむしとエリック・カールの世界」を開催していたのでアール(コーギー犬)と一緒にゆっくりと鑑賞させてもらった。”はらぺこあおむし=THE VERY HUNGRY CATERPILLAR”は私も大好きな絵本。この絵本を特別に高さ2Mの巨大な絵に拡大したパネル(&文字)にして順に並べてあり(全長30M)、はらぺこあおむしがお菓子やくだものなどを食べながら最後にはきれいな蝶に成長するストーリーを歩きながら楽しむことが出来た。エリック・カール(1929年アメリカで生まれ、西ドイツで育つ)の絵はとにかく色彩が豊かで繊細なので私もファンである。今回の恵比寿ガーデンプレイスの展示は”はらぺこあおむし”の日本語版刊行から30年を記念する催しだそうだ(開催は残念ながら本日まで)が、出来れば孫娘と一緒にみたいところだった。代わりにアールによく見せたけれど喜んでくれただろうか・・。

5月8日(月) <待機時消費電力・・>
冷暖房機の「待機時消費電力」というのが意外に大きいことを知った。我が家では今のシーズンには全く冷暖房は使用しない。それでも低圧電力(200V)で月に74kwhもの電力を消費するというのが納得出来なかった。連休明けの今日、東京電力さんが来宅してくれるというので、その前に毎日データーを採取してみたところ、コンスタントに一日、24時間で2.46kwh電力計が動いている(データをグラフでプロットした)。結局、判明したのは、それぞれの冷暖房機のスイッチをオフにしても電力は切れていないということ。一番本元のブレーカーを切らない限り実際には何一つ空調をしていなくても相当量の電力を消費している。メーカーのマニュアルを調べたところ「待機消費電力」として「0.5kw、ただし外気および部屋の温度が低い時には室外ユニットを予熱(約20W)することがあります」とある。これだ! 我が家のケースで一時間にほぼ50Wの電力を連続で消費している正体は”予熱”しか考えられない。個別の冷暖房機で電力を切断出来る器具(ブレーカー)を設置せずに(テレビのようにコンセントを抜くことも出来ない)知らぬ間に電力を無駄に消費させるのはどこの責任か。・・我が家ではしばらくは本元(屋外)のブレーカーを切ることにした。

5月9日(火) <ナスカ・・>
「世界遺産 ナスカ展/地上絵の創造者たち」をみた(@東京・国立博物館、6月18日まで)。私は専らナスカの地上絵に興味があってこの展覧会にいったのだが、地上絵を描いた人たちが残したナスカ文化の多様な遺産を初めて目にした。ナスカ文化は紀元前100年ころから紀元後700年ころまでに今の南米ペルーの南海岸に栄えた文化。今回は色彩土器も多く展示されていた。形がユニークであり描かれた文様、図柄が実に伸びやかである。エジプトや中国の古代の土器とは明らかに異なるが、現代の最先端デザインを彷彿させるところがある。織物もまた2000年前のものとは思えない。墓地から出土したという刺繍つきマント(長さ3mほど)があったが華麗で繊細かつ大胆な迫力がありいつまで見ていても飽きなかった。地上絵の圧巻は巨大なシネマスコープ画面によってバーチャルリアリテイの遊覧飛行を楽しめること。お馴染みの地上絵を本当に現地で空から見ているような錯覚を体験をできる。ナスカ文化もまだ解明されないことが多いようだが、ナスカ文化はマヤ文化などと同じく極めて高度な文明を築きながらその地での文化は断絶している。文化遺産といっしょに文化断絶のメカニズムもまた知りたいと思った。

5月 10日(水) <季節病み・・>
丁度一年前のこの季節に腰痛で苦労した。といっても起床時にまともに歩けないほど痛みを感じたもののゆっくりと30分間散歩してくると普通に歩ける状態になるので、医者に相談すると加齢による腰痛で病気ではないと片付けられてしまった。今年は去年のようなことはないけれども右の足首が痛む。一般に気圧の変動が体調に影響を与えるのは確かだと思われる。人間の体液(血液、リンパ液)は心臓から押し出される圧力で体内を循環するから大気圧の影響を受ける。さらに気温も体液の流れに影響を及ぼすだろう。当然、人間の身体は気圧や気温の変化に追従する力は備えているとしても個々人の適応能力には差がある。自分のことを考えると春から初夏にかけて、脳もまたこの季節の影響を受けて、”春眠暁を覚えず”の通りに眠気を感じるし、精神がたるんでボーとし易い。腰痛や筋肉の痛みと脳のたるみがどう結びつくか分からないが、緊張感がなくなると痛みを感じ易いことがあるのだろうか。ただ、腰痛の原因は単純ではなさそうだ。私の場合昨年の腰痛の後、ベッドを止めて床に薄い布団を敷くようにしたのは腰には好結果であった。いずれにしても腰痛を含めた「季節病み」については民間の知恵は多いものの医学としての取り組みは遅れているように思えてならない。「季節病み」は人間のデリケートな神経と身体とが総合的に結びつく重大なテーマだと思うのだが・・。

5月 11日(木) <交通博物館・・>
交通博物館が閉館するというのでお別れに行った。交通博物館(ホームページ=ここ)は東京・万世橋、秋葉原の電気街の並びにある。この万世橋に鉄道博物館が開館したのは1936年。今年で70年を迎えたことになるが交通博物館としては85年の歴史という。それが5月14日(日曜日)が最終日で休館となり新たに2007年10月に埼玉で鉄道博物館がオープンする予定であるそうだ。今日は雨模様のウィークデイにもかかわらず鉄道マニアらしき人や親子連れなどで猛烈に混み合っていた。特別展示品(精巧な模型など)の全てにカメラを向けたり年代物の蒸気機関車の前で写真を撮ったりする人々で館内は熱気に溢れていて今更鉄道好きの人が多いのには驚く。私は鉄道マニアではないが、鉄道から始まり船や自動車、飛行機の歴史をも含めて全館(4階)を見て回った。改めて思うのは船はともかく自動車、鉄道、飛行機など、わずか100年間の技術であることだ。そしてこの機械文明の大進化の過程に自分も多少かかわってきたところで技術の歴史を素直に楽しめないことが分かった。骨董の取引を職業にしている人は本当に骨董を自分で楽しめないのではないか。私は全く骨董趣味はないがそんなことを連想した。歴史を学ぶことは必要かもしれないが古いアルバムをいつまでも懐かしがることはやりたくない。

5月 12日(金) <足湯・・>
身体や健康法の話題は年寄り臭くて余り好きではないが、今日は「足湯」のことを書く。一昨日のコラムで今年はこの季節に腰痛はないが足首が痛む話をしたが、このところ「足湯」を続けてみると足首の痛さなど忘れてしまった。朝と就寝前にバケツにお湯を注ぎ足首まで浸けるだけ。全身浴をする時間がなくても合間に本を読みながら10-15分の足湯をすると、外出したときの脚の軽さが違うし頭もすっきりする。実は自宅で足湯を試みたのは今回が初めてである。余りに具合がいいのでインターネットで「足湯の効果」を検索してみた。”血行をよくして病気を予防する”とか”風邪対策”、”免疫機能アップ”、”疲労回復”などは一般的な効能、更に”肝臓によい”、”下肢のトラブルに効果的”が並ぶ。どんな能書きよりも実体験による効果が一番信用出来る。私の経験を付け加えると、”やる気が出る”、”頭脳が明晰になる”、”脚が軽くなる”、”身体が動く”・・。風呂不精の私がすっかり足湯に心酔してしまった。

5月 13日(土) <予定変更・・>
最近は”予定変更”が全く苦にならなくなった。何が何でもその時間にやらなければならないことはそうあるものではない。土曜日には朝7時半に家を出てテニスに行く。今日の天気予報は曇り後午後から雨の予報であったのですっかり準備をして定刻に自転車で走り始めたところポツリポツリと雨。家に戻って一時間ほど様子を見たが降りが続くのでテニスは止めにした。こうなるとこの時間に何をやろうかとワクワクする。大儲けした時間を早速に手を動かしたり設計をしたり・・。こんな突発の時間の中で突然いい創作アイデイアが浮かぶ(中身はまだ相当先にしか見えない)。知識や情報がいくらあってもアウトプットに結びつかないが、アイデイアは具体的な成果をつくる第一歩だ。だから結果は分からなくてもアイデイアが浮かぶと興奮を覚える。こんな経験をしながら”予定変更”も悪くないと思う。大体、70-80歳まで生きる予定などするから退屈するのだろう。後一年、明日一日の命に予定変更されても悔いのないように、今日できることをやりたい。

5月 14日(日) <母の日・・>
朝、佐川急便が花を届けてきた。今日は母の日、妻へのプレゼントだ。依頼主はアメリカ合衆国、ニューヨークの住所が記してあり、娘家族からだった。今更ながら時代は変わったとの思いが強くする。世界中どこにいてもインターネットで依頼すれば時間指定で花を届けることができる。娘達は”楽天”を使って注文したようだ。「今日の作品」に掲載した「NYからの贈り物(水彩)」は、この花を描いたもの。丁度、「今日の作品」を改訂したいと思っていたところなので、届いた花を直ぐに描いてみた。このところ絵の作品が少ないので自分でも気になっている。陶芸もいいが結果をみるには日数がかかる。絵は毎日でも1-2時間の時間を割けば小品はできあがる。これからはもっと気楽に日記のように絵を描ければと思うがどうなるだろう。先ずはこの作品、NYの孫娘と孫娘の母へ「母の日」プレゼントとして送ることにした。


5月 15日(月) <ケリをつける・・>
仕事にケリをつけて爽やかに引退したいなどと思ってもそううまくいくとは限らない。大抵は色々とやった挙げ句の果てに期限切れになり、後のことなど知ったことか・・。本を読んでいて、「ケリをつける」の語源は俳句の最後に「けり」がつくので、「終わりにする」、更に「決着をつける」の意味になったことを知った。なるほど「けり」で終わる俳句を見つけることは容易だ。「春の夜は 桜に明けて しまひけり(芭蕉)」、「稲妻に へなへな橋を 渡りけり(一茶)」、「春をしむ 人や榎(えのき=夏と木からなる)に かくれけり(蕪村)」。同じく冒頭に書いた「挙げ句の果て」の「挙げ句」もまた連歌や俳諧の最後の句、七−七のことであるという。「挙げ句の果て」と似た言葉で、「とどのつまり」の語源だけは私も知っていた。出世魚のボラが最後にトドになる話は比較的知られている。オボコ〜スバシリ〜イナ〜ボラ〜トドの名前の変化は「とどのつまり」がなければ馴染むこともない。言葉の知識には際限がないように思われる。他人には常識であっても自分には一つ一つが新知識であればそれもまたよしとしたい。知識にはケリをつけられない。

5月 16日(火) <和平会談・・>
「今日の作品」に「和平会談(ペンと水彩)」を掲載した。一昨日のコラムで書いたが大袈裟に絵を描くと意識せずに毎日、あるいは少しでも時間があれば何でも描いてみようと思っている。「和平会談」と題名をつけたが居間に飾ってある置物をそのまま描いた。前に(2006-1-13)に豹だけ描いてこの欄に掲載したこともある(以前の作品参照=ここ)。「和平会談」としたので会議の様子を覗いてみよう:<きりん、しまうま>ライオンさん、あなたたちは私たちのことを襲うことを止めて欲しい。<ライオン>ヌー(水牛)が近くにいればあなたたちを襲ったりしません。生きるためにしようがないのです。<きりん>弱いこどもばかりを狙うのは卑怯じゃないか。<ライオン>私たちもこどもを育てるために狩りをしているのです。獲物を捕まえるのも失敗の方が多いのです。<しまうま>それならライオンさんも草を食べなさいよ。<ライオン>きりんさんやしまうまさんが草木から食べないでと云われたらどうしますか。水だけ飲んで生きていけますか。豹さんもなんとか云ったらどうですか。<ヒョウ>テーブルの上に何もご馳走がないのでわたしはお腹がすいて倒れそう。しまうまさんが美味しそうで・・。


5月 17日(水) <手術・・>
今日は病院で手術をしてもらった。私のこれまでの生涯では、病院にも手術にも、それから局部麻酔にもほとんど縁がなかったので、やや興奮気味に初めての経験を興味津々と味わった。手術の中身はそれほど深刻なものではなく、30年前から鼻の横に出来ていた肉腫が最近大きくなっているので切除した方がよいとのアドバイスに従ったまでだ。切り取った部位を病理検査するのはこれからだが、悪性でなければ問題はない。さて手術は局部麻酔をしているので全く痛さを感じることはない。医者と話をしながら、自分の肉片を切り取ったり皮膚を縫い合わせる状況を体感するのは奇妙なものだ。わずか30分足らずで手術は終わる。術後、鏡で自分の顔をみながら、”見事ですね、すばらしい技術ですね”と心底感心して云ったら、医者はいわく、”30年もやってますからね、これで飯を食っているので・・”。その云いっぷりも気持ちがよかった。
5月 18日(木) <レオナール・フジタ・・>
藤田嗣治展にいった(@東京国立近代美術館、5/21まで、5/30より京都国立近代美術館にて開催)。東京での会期が残り4日と迫っているせいか朝から長蛇の列。会場に入ってもラッシュアワー並みの混雑である。こういう時には周囲の人を気にせず、ただ絵画のみに集中するのがストレスをためないための私の流儀だ。藤田については余りにも有名である(解説のお勧め=ここ)ので画歴にはあえて触れないが、私は特に美しい乳白色の地に描かれた細い描線を中心に鑑賞した。面相筆で描いたなどと解説されるが実物をみてもまるで太さの均一なペンで描いたような線が連続して描かれているのは不思議でさえある。油絵であるので地色を十分に乾かした後で日本画の細線を描くように水性の黒で描いたのであろうが藤田は試行錯誤の末に誰もできなかった独自な油絵の技法を編み出している。フジタのルーツは間違いなく日本でしかないと思い、また、並外れた細部へのこだわりに感動しながら会場を一巡すると混雑が全く気にならなくなっていた。最後に結婚生活からみた藤田の一生を記してみよう(図録から抜粋):1912(26歳)登美子さんと結婚、1917(31歳)フェルナンドさん(フランス人)と結婚、1924(38歳)リュシーさん(フランス人/ユキさんと呼ぶ)と同居(来日にも同行)、1931(45歳)マドレーヌ(フランス人)さんと中南米長期旅行(1935まで)、1936(50歳)君代さんと結婚。69歳で日本国籍を抹消、フランス国籍を取得し、73歳で君代夫人ともどもカトリックの洗礼を受ける。晩年、こどもを描いた作品は多いがフジタはこどもには恵まれなかった。
5月 19日(金) <time・・>
「小人閑居して不善をなす(大学)」の英訳として「When a small-minded person is idle, he tends to do no good.」とあった。漢文の意味の深さに対して英訳は単純すぎる感じがするが、私たち、君子になりきれない小人にとって”待てよ”と思うところがある。君子であれ、小人であれ、”暇”から新しい考えが生まれることが多いのでないか。忙しい中からは新たな創造は生まれ難い。もっとも、Busiest men find the most time.(忙しい人ほど暇がある)という見方もあるから何が”暇”なのか分からない。”暇”を和英辞典で引いてみると先ず"time"がでてきた。確かに忙しい場合はno timeであるし、timeは幅広く使える。He has too much time to kill.(彼は暇を持て余している)、I killed time watching television.(暇つぶしにテレビをみた)など、timeをkillするのが暇になる。またtimeを使わなくても「今晩お暇?」はAre you free tonight?。・・そう、free timeには不善をなす自由も、新発見や創造をする自由もあるということだろう。

5月 20日(土) <ゴーヤチャンプル・・>
妻がいない時に自分で食事を作るのは慣れているが、たまにコンビニで出来たものを買ってくることもある。家から3分のところのセブンイレブンには弁当やおかずの種類が多くお好み次第。寿司とかグラタン、スパゲッテイー、カレー、オムレツ、焼きそばなど色々と試みたが(結構回数が多い!)、今日選んだのは「ゴーヤチャンプル」だ。自分でも舌の好みが変わったように思えるが、ゴーヤ(にがうり)を食べてみたかった。味は勿論グー。セブンイレブンでは社長さん(?)が毎日自社の弁当を食べて味をチェックするという話を聞いたことがあるが、こういう姿勢なのでコンビニと云えども味を信頼している(余談であるがテレビ局の社長さんは自社のくだらないテレビをみることはないのだろうと推測する)。ところでゴーヤチャンプルは元来沖縄料理。チャンプルは沖縄言葉で野菜や豆腐などの「ごちゃ混ぜ」を意味であるようだ。そう云えば、長崎チャンポンもごちゃ混ぜ料理だが、チャンプルと同じ語源だろうか。・・ともあれ次回には先ず材料のゴーヤをスーパーで買ってきて二人分のゴーヤチャンプルを作ってみたい。
5月 21日(日) <新聞配達・・>
朝6時過ぎに犬の散歩にでかけると、何人もの新聞配達に出会う。今は昔のように新聞を小脇にかかえて小走りでいくというスタイルではなく、皆小型のバイクで朝の静けさを破る勇ましいエンジン音を響かせて配達する。今朝も犬を連れているので細道をばく進してくるバイクを避けるのに気を使いながら、新聞配達はいつまで続くのだろうと考えた。一軒一軒のドア口まで人手を使って新聞を配るやり方がいまどきもまだまかり通っている事自体驚きである。新聞はある種の広告ビラを兼ねている。新聞経営は購読料と広告費がほぼ半々と云われ(最新のデータは知らない)、日本全体の新聞広告費は1兆円を超えるという膨大なものだ。広告主にとっては一戸毎に広告紙を配ってくれる新聞は有難い存在である・・少なくとも今までは。新聞配達をしない場合、家庭でニュースを紙で読みたいとの要望については技術的にはFAXその他で対応が可能と思われるが、それでは広告主がお金を出さなくなる。新聞配達がなくなるときは、新聞より他のメデイアの広告の方が有利となったときであろうか。新聞の購読をやめて、インターネットのニュース情報に限ってしまった私が新聞談義をするのも妙な話だが、新聞配達がなくなれば朝の起床時間が少し遅くなるのは間違いない。

5月 22日(月) <ズワイガニ・・>
少々季節外れであるが、「今日の作品」に「ズワイガニ(パステル)」を掲載した。久しぶりのパステル画。はじめはズワイガニをモデルに多色のまだら模様を創作する構想であったが、形の面白さに夢中になって描いているうちにリアルな絵ができあがってしまった。リアルと云っても海にいる蟹はこんな色ではなく、ゆでられてこのような橙がかった紅色になる。「ズワイガニ」は山陰地方では「松葉ガニ」、石川、福井では「越前ガニ」などそれぞれの地方の名で呼ばれることもある。北海道のタラバガニの太く短い脚と比べると、ズワイガニの脚は枝のように細長い。「ズワイ」とは馴染みの薄い言葉だが語源は「楚(すわえ)」が変化したものとするのが有力。広辞苑によれば「すわえ」とは「木の枝や幹から細く長くのびた若い小枝」。確かにズワイガニの脚は正に若い小枝のようにスマートである。ズワイガニは元来高級食材であるが最近は収穫量も減りますます手に入り難いようだ。収穫シーズンには一度生きているズワイガニを見てみたい。

5月 23日(火) <ダ・ヴインチ・コード・・>
流行に鈍いことには自信がある私たちが珍しく早々と映画「ダ・ヴインチ・コード」を見に行った。姉から借りた小説「ダ・ヴインチ・コード」を私は直ぐに読み終えたが、妻は少しづつ読み進めては毎晩ストーリーを思い出して夜寝られなかったと文句をいいつつ昨日読了したばかり。渋谷(東京)のシネタワーという映画ビルには四つの映画館が集まっているがその内の三つが「ダ・ヴインチ・コード」を上映していた。原作は4000万部を超える超ベストセラー小説。映画はこの20日から世界中で同時公開されている。映画では暗号の謎解きの面白さや常識を覆す歴史ストーリーへの展開の仕方などにやはり限界があった。アクションものではなく頭脳の見せ場が続く物語は映画の表現としては難しい。小説を読んだ後であれば映画を楽しめなくはないが内容は断然原作を読むべきであろう。西洋では映画化がキリスト教を誤解させるとして騒ぐ向きもあるようだが日本人の感覚では宗教を侮辱していることもないし、むしろマグダラのマリア(興味ある人=ここ)への関心が深まるかも知れない。それから小説(もちろん映画も)の題名の付け方が巧みであるのに感心する。「聖杯伝説」などのタイトルであると興味半減、やはり「ダ・ヴインチ・コード」がいい。

5月 24日(水) <雪舟からポロックまで・・>
「雪舟からポロックまで<石橋財団50周年記念>」展覧会をみた(@東京ブリヂストン美術館、6/4まで)。東京のブリヂストン美術館と福岡(久留米市)の石橋美術館に分けて公開されているコレクションを一堂に集めた展覧会。確かにこれまでブリジストン美術館で見たことのない美術品も多く展示されている。今日は絵画を見る時にあえて作者の名前をみずに先ず絵をみて作者の名前を言い当てることを試みた。有名な作品や馴染みの絵画は直ぐに分かる。コローやクールベ、ドガ、モネ、シスレー辺りはほとんど当てられる。ピサロ、シニヤック、デユフィーは直ぐに名前がでなかった。ルノアール、セザンヌ、ルドン、ゴーガンも分かったが一点だけ飾られていたゴッホは別人かと思った。ゴッホと云われれば納得したが比較的おとなしい作品だ。ヴラマンクもまた名前を見てから納得した部類。ピカソやマチスは大部分は分かるがピカソでもブラックの影響の強いものとかマチスも年代によりマチスと思えない作品がある。ユトリロの一点は典型的なユトリロとは違い平凡な絵であったので名前をみてもこれがユトリロかという感じ。当人以外誰も描けないルオーはその点文句なし。こんな中で困ったのは日本人の油絵だ。誰かに似ているが筆のタッチが当人ではない。さんざん推測して名前を見ると日本人の大家(明治期)であったりする。ポロック等近代ものはコレクションにも偏りがあると思われるが作者を当てる確率は俄然低下した。・・今回、名前を先に見ない方が絵画の内容を予断なしにじっくりと鑑賞出来ると改めて思いつつ、期待以上にこの展覧会を楽しむことができた。

5月 25日(木) <夕方の買い物・・>
夕方スーパーで食料品の値段が下がったところで買い物をするのが賢い主婦だと聞いたことがある。毎日食品を買うのでないが先ほど7時前にスーパーにいってなるほどと思った。特に意識はしなくても30%-40%引きの名札の付いた夕食用の食材を集める。それでも品数が多くてどれを選ぶか迷う。値引きのない品物は売れ筋なのだろうか。食材の場合、時間が経過して鮮度が落ちると商品価値がなくなるのでいつの時点で何%引きにして売れ残りをなくすかは商売上の微妙な駆け引きだ。商売としては定価で購入した人もいるから処分するためにいくら値を下げてもいいというものでもないだろう。こんな閉店時間間際に値段を下げる話から定年を迎えたサラリーマンを連想してしまった。定年で退職せずに継続して勤める際にほとんど同じことをやるのに給料を半分−3分の1にする。それでも退職してゼロになるよりいいと云う人は多い。50%引きならば何かと名目(地位や待遇)をつけて売れて行く。鮮度の低下がなくても、真の価値とは全く無関係に”値”がつけられる。・・そう、値引きしたものでも値引きしないものと違いはない。何より十分に役に立ちしかも美味しい。
5月 26日(金) <睡眠法・・>
床につくと3分もかからずに寝息を立てているのに「睡眠法」はないでしょうと云われるかも知れない。それでも自分としてはこうすればいいという方法を経験的に知っている。それは心はストレスを持たず身体は適度なストレス(=疲労感とでもいうべきもの)を持ち就寝することである。私の場合心のストレスを持たないためにはヒト(=他人および自分)のことを考えずにモノを考える。他人の文句、批評、人間関係のゴタゴタは全て忘れる。そしてノルマでない(期限も定められていない)新しい工夫や仕組みを考えているとアッという間に眠りについてしまう。今朝は目が覚めた時にいくつかのいい考えが頭に浮かんで忘れないように起き上がって直ぐにメモをした。このようなことを結構何度も体験する。眠っている間に醸成されたアイデイアは具体的に設計したり(構造的なものは図面化する)制作しようとすると上手く出来ず、”不採用”とするケースも多いのだが、それは机に座って一生懸命に考えても同じことである。更に睡眠法とは関係はないが電車や自転車で移動中の時にすばらしい(自薦)考えが浮かんだことが何回もある。脳は目先のこと以外をも考えているし睡眠中も作用しているとみえる。身体への負荷に関しては最近就寝前にスクワット(運動例=ここ)を欠かさない。これも予想していた以上に熟睡に効果があるように思える。そして翌朝の膝の調子もよくなるのだから云うことはない。どれもが今後習慣として継続できるかどうか・・, that is the question !

5月 27日(土) <ゆとり・・>
梅雨でもないのに毎日雨ばかり。今日のテニスも雨でお休みだ。代わりに家で陶芸の設計(計画図の作成)をした。私は陶芸でこれまでに見たことのない形とか構造物を工夫するのが好きなのだが、時々陶芸にも昔取った杵柄=機械設計の感覚が抜けずに苦笑することがある。制作前に設計図を書いたり模型を作ってみるのは特別のことではない。設計図を書く時に粘土の量を最小限にすることばかり考える。これは建築設計で強度的に可能な限り鉄骨の本数を減らすのと同じく、機械設計でも1mmでも肉厚が薄い方が望ましいという習性からくる。航空機の形状で見るように機能のため必要最小限に出来上がっているものは姿も美しい。鳥などあらゆる動物が必要な機能から成り立った形状で無駄な物は一切ないのは云うまでもない。ところが陶芸は機能だけを求めるものではない。有用でなくても美しさがあればよしとすることも多い。設計をしている最中にそのことに気がついて、苦心して粘土の量を減らすことはないと”遊び”を加えると、それだけで大きな「ゆとり」が感じられるようになった。確かに動物の形状や航空機、レーシングカーなどには機能美がある。しかし機能の美でなくいわば無用の美を創り出すことができるのも人間だと思われる。人間以外の動物では子孫を残し、子育てを終わってからの“余分な”活動はないことからみても、必要最小限を脱却した「ゆとり」が人間の特性であろう。もっともっと無駄な遊びを・・これが今日の陶芸設計から得た教訓。
5月 28日(日) <白隠・・>
「一身の元気をして臍輪気海、丹田腰脚、足心の間に充たしめ時々に此観を成すべし・・」。この序文で始まる白隠の「夜船閑話(やせんかんな)」は現代では呼吸による健康法のバイブルとして読まれるようだ。白隠禅師(1885-1768)は江戸中期の禅僧で臨済宗の中興の祖とされる。私は10年ほど前に白隠禅師の呼吸法に興味を持ち色々本を読んだことがあるので最近「夜船閑話」を目にした時に懐かしく再読した。白隠が自分自身衰弱の果てに体得した丹田呼吸(複式呼吸法)の秘法を73歳になって弟子達のために書き残したのが「夜船閑話」。今で云う「腹式呼吸法」と「イメージトレーニング(内観法)」をミックスした極意を解説したもので、これからのスポーツ医学や精神鍛錬などに応用範囲は広いと思われる(ネットでの分かり易いサイト=ここ参照)。白隠禅師というと健康法としての「丹田呼吸」ばかり有名になっているが、僧侶としても実に興味深い。駿河の国に過ぎたるは、一に富士山、二に白隠・・とまで云われた白隠禅師は、「名利を好まず終生田舎の貧乏寺に住し説法や著作を通じて民衆の教化につとめた」とある(平凡社)。<白隠禅師(白隠慧鶴)の全般については=ここ=参照>

5月 29日(月) <盗作・・>
今日のニュースで前に芸術選奨(美術部門)を受賞した洋画家の作品が盗作の疑いがあるとして文化庁が調査中との報道があった。テレビやインターネットで比較された作品(数点)を見る限り、作品の構図や色調がイタリア人作家のそのままであり、どうみても盗作としか言いようがない。似ているとかお互いに影響し合ったというレベルの類似ではなく、間違いなく質の悪い盗みであろう。一方で絵画というのは他人からの影響が非常に色濃くでるのは珍しくない。梅原龍三郎はパリに留学中にルノワールと同じ色合いの裸婦を描いたし、ゴッホは日本の浮世絵の構図を真似て油絵を描いた。印象派が評判になればみな印象派風の絵を描き、キュビズムが流行れば多くの人がキュビズムを描く世界であるから流行を取り込むにには躊躇しない。元来勉強のため名作を模写するのが絵画の教育法の一つであるけれども、その上で独創的な描画に挑戦する人々も多い。いつの時代も伝統の継承とオリジナリテイーのせめぎ合いで絵画は進歩してきた。私は時代を突き破る独創性に魅力を感じるが、絵画の創造は簡単ではない。・・先日、妻と銀座の日動画廊に立ち寄った。現代の人気作家の作品を展示する日本トップクラスの画廊で今をときめく作家の作品を見て回りながら考えてしまった。今の作家さんたちは一体何を訴えたいのか、何を表現したいのか。生活のために売れ筋の作品を描くことはないと思いたいが、何か緊迫感がない。ここでつぶやいた言葉もまた「絵画はやはり難しい」。
5月 30日(火) <絵筆・・>
今朝、床の中で目覚めたときに「今日中にホームページの<今日の作品>を改訂するぞ」と決心した。私の場合、時間があればやろうとか、明日にしようというと、まず実現しない。初めに決めてしまうのが一番だ。「ズワイガニ」の絵(パステル画)を掲載して一週間以上経っているのに改訂していないので前から気にしていた。このところ陶芸の小物部品の新作はいくつかあるのだが「作品」として紹介するのはもう少し時間を取ってまとめたいので保留している。さて今日も色々予定はあるものの時間をやりくりして何が何でも”絵”を描くことにした。・・といって、直ぐにテーマが見つからない。そこで前回の「ズワイガニ」をもう一度別の絵として描いたのが「今日の作品」に掲載した「ズワイガニ2」である。前回はパステルで描いたので久しぶりの「絵筆」。不透明水彩のグワッシュで描いたが、あえて水彩の特徴を出さずに油絵風に描いてみた。描きながら本当に絵筆が楽しくてしようがない。やはりこういう自由な絵を描くのが好きなのだと自分のことを見直した。前に描いたズワイガニがあったのでデッサンもなく、描きながら構想は次々に変化したがアッという間に描き上がってしまった。右隅に書いた CHIONOECETES OPILIO はズワイガニの学名。今度は油絵を描きたくなった。

5月 31日(水) <モノクロと色・・>
写真展をみて”色”のことを考えさせられた。「マイケル・ケンナ展 IN JAPAN」(@東京都写真美術館、HP=ここ)の写真は全てモノクロ。日本で撮影された風景写真の一つ一つに高い精神性を感じさせる。そこには色は必要なく、白黒であるからこそ重厚な表現ができるとさえ思える。犬は色を見ていないと云われたこともあるが(今は人間に近く認識するとの説が有力?)人間の見ている色とは何なのか。物理的には物から反射された固有の波長を見る人が色として感知する。人間の網膜には光の三原色(RGB)の波長に反応するタンパク質(センサー)がありそこで色彩の感覚を生むというが、ある種の動物は人間が感知しない波長をも色として認識するそうだ。そうすると音に人間の可聴範囲があるように色の感知範囲でみえるものが人間の知っている色になる。いずれにしても色の種類が多ければよいとか少ないから悪いものではない。モノクロ写真は見る側にすれば作品をみる集中度が上がるし、色の種類が少なくても表現力が下がることは全くないところが面白い。水墨画が色彩豊かな絵画を上回る表現をするのと同じだ。絵画の色付けがますます難しく思えてきた。

これまでの「今日のコラム」(最新版)に戻る

Menu  + Today  + Corgi  + Puppy  + Gallery +  Ebisu /Daikanyama  + Links