これまでの「今日のコラム」(2006年 6月分)

6月1日(木) <健康情報>
健康情報大流行だが時にはやり過ぎもあるようだ。今日のニュースで、TBSが以前放映した「白インゲン豆ダイエット法」に問題があり、このダイエットを実践して下痢、嘔吐などの症状を訴えた965世帯に謝罪の手紙を送ったと報道されている。先ず驚くのはやはりテレビの影響が絶大だということ。恐らく苦情を言った人が千人ということは何万人もがテレビを見て白インゲンを購入したはずである。とにかく健康番組が多いから世界一の長寿国、日本の人々はテレビをみながら更に寿命を伸ばすことだろう。健康・長寿、大いに結構といいたいが、私は素直に喜べない気持ちもある。高齢者が生きがいを持ち、特に他人のため、社会のために何か役立つならば大歓迎であるが、ただ生きているだけの長寿には疑問を持つ。いま高齢化率(65歳以上が人口に占める率)は20%、2050年には3人に1人が高齢者になるという。これはもうお年寄りを敬う社会にはなり得ない。こういう議論は手短には語れないが、先日(5月29日)、岡田真澄さんが70歳で亡くなったことを思い出した。今にしては”早い”と云われるが、ハンサムでプレイボーイだった彼氏はこれまでに十分な夢を与えてくれた。もう90歳の岡田真澄をみることはない・・。

6月2日(金) <案ずるより産むが易し>
最近、わが顔を鏡で見る度に”技術力”と”回復力”に感心している。鼻の脇にあっ”肉腫”を切除した経緯は5月17日のコラム(=ここ)に書いたが、その後抜糸も終わり病理検査では悪性でないと診断されて現在は完治したと云っていいだろう。それにしても手術からわずか二週間余でメスで切断し縫い合わせた跡がほとんど分からない程度に回復している。手術の技術力と身体の回復力、共にすばらしい。当初、顔にメスを入れることで少しは躊躇するところがあった。ところが「案ずるより産むが易し」。男の場合、この諺は実感として分からないが、恐らくは産む苦しさの百分の1にもならないで終わってしまった。話は飛躍するが今日のニュースで日本での子供の出生率が1.25と過去最低になったと報じられた。理由は色々な複合的な要因があるだろうが、もし何か案ずることがあれば、”産むが易し”を勧めたい。「銀(しろかね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも<山上憶良/万葉集>」は現代でも共感できる。

6月3日(土) <ピッコロバイオリン>
初めて「ピッコロバイオリン」の音色を聴いた。友人に誘われて「グリゴリー・セドゥフ演奏会(ピアノ:高橋元子、@恵比寿Art Cafe)」にいったのだが、グリゴリー・セドゥフ氏は世界唯一のピッコロバイオリン奏者。ピッコロバイオリンとはバイオリン制作者ハッチンス女史(現在ニューヨーク郊外に高齢だが存命中とのこと)が実験的に作った独特の楽器でヴァイオリンよりボデイーが薄く、f字の孔が大きく、ネックが短いという構造で、普通のヴァイオリンより1オクターブ高く調弦されて(G線は使わず、D線、A線、E線、それに0.7mmの細い弦を使用)高い魅力的な音色がだせると説明されている。ハッチンスはこのピッコロバイオリンを8挺制作したが現在ほとんどは博物館が所蔵し、実際に演奏されるのはセドゥフ氏が所蔵するものに限られるという。サンクト・ペテルブルグ・フィルハーモニーの第一バイオリン奏者であるセドゥフ氏はこのピッコロバイオリンで見事な演奏を聴かせた。ピッコロの特徴でいえば、鶯のような音色とか天使の声とか(氏の演奏会評)の表現をするのかも知れないが、私は初めこそピッコロバイオリンと普通のバイオリンと音色がどう違うか注意していたが、途中から彼の熱演に楽器のことなど忘れてしまった。「弘法筆を選ばず」といえばピッコロバイオリンに失礼かも知れぬが、演奏家が名人であると楽器のいいところばかり増幅されるようである。

6月4日(日) <糸通し>
今日は細かい工作に時間を費やした。以前制作した陶芸による動くアート「転がり遊具」(=ここ参照)の改造作業の一環である。最後に0.5mm程度の孔に糸を通そうと思ったらできない。数分間悪戦苦闘した末に妻に応援を求めると、一寸待ってと道具を持ってきて10秒ほどで糸を通してしまった。余りに簡単に終わったので改めて道具を見せてもらうと、ただの「糸通し」。私はこれまで糸通しなど必要ないと思っていたけれども実にうまく出来ているので感心してしまった。やはり便利な道具や生活の知恵は大いに活用すべきだろう。最近、我が家でテレビから仕入れて実践していることを思いつくままに書き出してみる。・・ペットボトルを利用した自動給水式植物飼育具、シールはがしにドライヤー活用、ゴム手袋使用時にベビーパウダー&乾かし方・・。更に料理や健康に関する項目も多い。「糸通し」のように存在することを知っていても使ったことがなければ何の役にも立たないから、とにかく体験してみることか。やってみると本当にありがた味がわかる。この種の”工夫”に接すると世の中、知恵者は多いとうれしくなる。

6月5日(月) <陶芸プレイランド>
「今日の作品」に「陶芸プレイランド/球転がり遊具用通路」(陶芸)を掲載した。昨年制作した遊具セットの部分的な改造である。昨秋に苦心の末に完成して陶芸教室で展示したり動かしてみせたりしたが、我が家に持ち帰った後、気が抜けたようにこの遊具には触りもしなかった。それが面白いもので、半年ほど経過すると更に手を入れて改良しようと思うようになった。今日掲載した「通路」は以前ナイロンチューブを使っていた通路(2005年陶芸コーナー=ここ=参照)を陶芸で作り直したものだ。今はこれ以外にプラスチックを使用していた部品を極力陶芸部品とするように改造を続行中である。今日からしばらくはこの改造作品を順次掲載してみたい。
今日のニュースは「村上ファンドの村上代表をインサイダー取引の容疑で逮捕」& 「芸術選奨を受賞した洋画家・和田氏の盗作疑惑を調査していた文化庁は選考審査会を再度開き、賞の取り消しを決めた。イタリア人画家の作品に酷似しており”盗作と見られても止むを得ない”とした」。村上氏逮捕の件については私は例によって検察権力の気紛れさと恐ろしさを先ず感じる。村上氏をひいきにするつもりは全くないが、ノホホンとした経営者に刺激を与えたこと、株式市場を活性化したこと、日本が資本主義である(そして実は資本主義でない)ことを教えたことなど、氏の功罪の”功”の部分を無視することはできない。日本社会の妬みの構造に迎合する検察やマスコミの姿勢で気が重くなる。盗作問題は何故”全員一致で盗作と認定する”と明解なコメントをだせないのか。”見られても止むを得ない”はない。そういえば前段で、”インサイダー取引と見られても止むを得ない”とは村上氏本人が記者会見で話したコメントだ。

  6月6日分
6月6日(火) <目線>
私の目の高さは地上160cm、アール(コーギー犬)の目の高さは16cm。アールの目線でどう風景がみえるか実際にやってみた。ほとんど地上すれすれに目を置くと世界が変わる。芝生や草はまるでススキが原、狭い庭は熱帯の密林、道路は滑走路。同じ目線として喜んだのはアールで駆け寄ってきて私の顔を舐めそのまま横に寝転んだ。・・ところで、人の意見の相違はほとんど目線の違いと云っても過言ではないのでないか。人それぞれの悩み、喜び、満足感など目線が変わると全く変わってしまう。お金儲け、地位、名誉など自分の立場に目線がある人もいれば、スポーツ、芸能、家族、会社、日本、世界、人類などなど自分以外に目線がいくこともある。ただし、目線の高い、低いで善し悪しを云うことはできない。高い山に登れば(下々の)平地にいる者には見えぬものが見えるというのは事実かも知れぬが、一方で平地で見えるものが見えなくなるのも確かである。アールは私には見えない車の下の猫を見つけたり、道の匂いを嗅ぎ分けたりする。目線の低い犬の方がよく見えるものもあるといつも自分に言い聞かせる。
「今日の作品」に「陶芸プレイランド /球転がり遊具用通路2」を掲載した。通路高さの微調整が出来るように1mm径のステンレス棒を銅パイプに挿入して脚を作った。ミニチュアの靴も全て陶芸製。

6月7日(水) <犬の糞>
早朝に犬を連れて散歩をしていると他の犬の糞が放置されているのに出くわすことがある。こんな時、赤の他人の仕業であっても同じ犬を飼っていることで何か自分まで罪悪感を感じてしまう。他人の目につかないように、そっと自分の犬の糞袋で拾い取ることを何度やったか分からない。一方で足早にそのまま通り過ぎることも多い。盗作専門の洋画家・和田某については正に”犬の糞”のような憤りと悲しみを感じる。どうしてこんなヤツが作家面、芸術家面、教授面をして平然としていたのか。芸術選奨の受賞取り消しに引き続き、東郷青児美術館大賞も盗作として受賞取り消しされたことが伝えられる。受賞していなくても盗作は十数点以上とも云われる。おまけに数年前に○○芸術大学の教授をしていた頃にセクハラで調査されたこと二度、入試監督として怪しげな問題を起こして依頼退職したことまで明らかになった。この人物は今更どうしようもないかも知れないが、せめて犬の糞を平気で都会の道路上に放置する人間に躾やルールを教えることができないか・・。
「今日の作品」に「陶芸プレイランド /球転がり遊具用通路3」(陶芸)を掲載した。一昨日、昨日の続きもの。
  6月8日分
6月8日(木) <生け垣>
都心の河川は急勾配(大抵は垂直)のコンクリート壁の間を流れるのが当たり前になっているが、見慣れたこの景観が”ゆとり”のなかった過去の遺物のように思えてくる。都内を散歩しながら、コンクリートの塀もまた同じでないかと考えるようになった(我が家の塀もコンクリートだ)。狭い住宅にでも強固なコンクリートやブロックの塀で境界を確保するやり方は決して美しいものではない。たまに”生け垣”の家があり季節毎に花を咲かせているのをみると豊かさを感じる。塀の一般的な目的は、外敵(時には動物)の侵入を防ぐ、外部からの見通しを防ぐ、防風、防火、防音などいろいろあるだろうが、通常は「生け垣」でも十分に目的は達成できるのでないか。外部からの視線を100%防げないところが逆に防犯的にも悪くはないだろう。都会の住宅街でも美しい環境が欲しい。そにためには「生け垣」がもっと見直されてもいいと思う。最近は我が家の近所でも周囲に緑や生け垣を巧みに使った新しい建築や洒落た家が目立つようになった。コンクリート塀など時代遅れと云われそうなのがうれしい。
「今日の作品」に「陶芸プレイランド/球転がり遊具用鐘つき装置(陶芸)」を掲載した。球が転がり落ちて90度方向を変える際に”鐘”をつく装置。その内に動画を使って球転がりを見せたいと思っているけれど何時になることか・・。

6月9日(金) <入札制>
東京・港区で高校生がエレベーターに挟まれて死亡した事故の原因追求はこれからであるが、私はその遠因に「官公庁の入札制」があるような気がしてならない。問題を起こしたエレベーターメーカーであるシンドラー社の日本でのシェアは約1%であるがスイスに本部があるシンドラー・ホールディングAGは世界有数の昇降機メーカーであるそうだ。日本での納入実績はほとんどが公団、学校など官公庁関連。入札制の官公庁は新たに日本進出する場合に最も入り易い。最低価格を提示する戦略をもって、しかも海外での実績を示せば官公庁は拒絶する理由がなく採用される。民間の施設の場合は書類や建前だけでなく実際に後々までアフターサービスができるかなど、価格以外の要因を審査して採用を決めるので、海外で実績があろうが低価格であろうが簡単には採用しない。安いものを買うという入札制は一見公平のようで実に危うい。業界が”談合”してそこそこのメーカーが受注するという芸当もなくなって、安かろう、悪かろうがまかり通る可能性がある。官公庁の設備は安物で信頼性がないというのが定説とならぬことを祈ろう。
「今日の作品」に「陶芸プレイランド/球転がり遊具用鐘つき装置2」を掲載した。右上のガラス管通路から鋼球が転がり落ちて鐘をつく。その後90度(実際には270度)向きを変えて次のガラス管へ球は転がり続ける。

6月10日(土) <食事を楽しむ・・>
「食事を楽しむ」という習慣が私のこれまでの人生には存在しなかったことを大いに反省している。育った時代と環境のせいで好き嫌いはないし何でも美味しくいただく。料理に能書ばかり云ったり、魯山人流に「こんなマズイものが食えるか」などという人は自分とは別人種だ。では食事を楽しんでいたかと問われれば、どうも動物的な食事だったと云わざるを得ない。動物は生きるために食べる。食べることに楽しむゆとりはない。生きるために食べるのでなく、”食事を楽しむために生きる”と云えるのは人間だけだとある時に悟った。最近は妻が作った食事をよく観察するようにもなった。自分が作るならどうするか、味付けはどうやったか・・。食材の多いことにも感謝しなければならない。世界中を探しても私たちの周りほど食材の豊富なところは希である。贅沢でなくても多くの種類の食べ物を選択できるのは本当に幸運と云うべきだろう。これを徹底的に楽しまない手はない。

6月11日(日) <いきの構造・・>
雨がしとしと日曜日。夕方、風呂で九鬼周造の本を拾い読みした。九鬼周造(1888-1941、net=ここ=)は「いきの構造」で著名な哲学者。ありがたいことに著作権が切れたためか今インターネットでこの昭和5年に発行された名著『「いき」の構造』を読むことが出来る=ここ!=。この著作は九鬼周造が没後その評価を一層高めることになった古典的な名著である。今読んでみても全く古さを感じさせず、日本文化への鋭い切り口にはハッとするところが多い。およそ「粋」とはほど遠く、無粋で野暮な私などが論評するものではないが、「いきの内包的構造」として、一に「媚態」二に「意気地」三に「諦め」を挙げているところなど何と云う洞察力だろう。「いき」は、生き・息・行・意気の関係を鮮明にし「生きる」ことの意味を考えなければならないとも云っている。今の世の中女性が幼い子供を殺したなど殺伐としたニュースばかり流れる。「いき」を通して「生きる」を考える著作を今一度じっくりと読みたい。
6月12日(月) <ささやかな道楽・・>
昨日から考え悩んだ末に「シンクロモーター」を購入した。・・といって大層なものではない。お値段は1700円弱。いま陶芸の”球転がり遊具”(今日の作品写真参照)の一部を改造中であるが、その一環として「球のリフト装置」用の動力を交換するためである。リフト装置は球を回転する螺旋状の針金に乗せて持ち上げるものであるが、これを今までは工作用のモーターと減速ギアセットを組み合わせて動力としていた。田宮製の500-600円程度の工作セットで自分としては完璧と思うほどにうまくできあがった。ところが、欠点として、3Vの乾電池を使用するので電池切れを心配しなければならないこと、それとギアの音が大きいことが挙げられる。その点、シンクロモーターは100V電源、そして音が極めて小さい。シンクロモーターへの転換はスペースや取り合い関係が以前と異なるので簡単ではない。けれどもモーターを廻してスムースな回転音を聴いているだけでもうれしくなってしまった。考えてみるとシンクロモーターを買ったといっても”ささやかな道楽”である。”ささやか”ではあるが満足感は限りなく大きい。

6月13日(火) <今日は仏滅・・>
早朝、犬の散歩のときに会えば必ず”おはようございます!”と挨拶を交わすおじさんがブスッとして声もださなかった。毎朝夫婦でラジオ体操に参加する奥さんが”ダンナはショックでお休み”。・・サッカー・ワールドカップで日本がオーストラリアに1-3で逆転負けした影響は朝からこちらにも及んできた。特に前半と後半の合計90分の試合で84分以降に3失点した衝撃が大きい。私はもはや過分な期待はしないことにした。次はブラジルのロナウジージョの技を対クロアチア戦で存分に見てみたい。他に何か別の話題はないかとニュースをみると、指揮者の岩城宏之さんが亡くなったという記事が目についた。73歳。晩年は病魔に襲われ痛々しい姿をみせなからも最期まで指揮や音楽に対する情熱を貫き通した。70歳を過ぎてからベートーベンの全交響曲(9曲)を一人で指揮する「フル(振る)マラソン」も行なったし、現代音楽もよく取り上げていた。惜しまれながら現役でこの世を去った氏は幸せであったであろう。・・どこをみても明るいニュースがない。カレンダーをみると「今日は仏滅」。

6月14日(水) <立方体・・>
「今日の作品」に「立方体花器(陶芸)」を掲載した。写真の左側の立方体のみでは花器にはならないが、右の容器を組み込み、これに水を入れて立方体の花器とすることができる。焼成する際に二個別々でなく右の容器を組み込んだセットの状態で焼き上げたことは特筆される。窯の中のスペースをとらなくて済む(焼成費がそれだけ安い)が二個がくっつかないように入念な検討が必要であったが見事に成功した。花器としての用途以外に、立方体を上下ひっくり返して内部に電灯をつけるとフロアランプになるとか、このまま中に蝋燭を置くと燭台になるとかいろいろ考えていたが、家に持ち帰って眺めていると制作時には思いつかなかった使い方も頭に浮かんだ。例えば立方体の花器にこだわらず、中央に四角な塔が伸びた形の花器もできる(=陶芸コーナーに写真あり)。立方体は六つの面が同じ大きさで、上、下、横の全ての面が主役になりうる。花器にしないときには気分次第で底面を上にしたり横面を順次底にしてみるなど、自由な置物として使用できる。明日から毎日面を変えて立方体を楽しみたい・・。
  6月15日分
6月15日(木) <stamina・・>
スタミナ=staminaを英語の辞書で引くと「元気、精力、根気、スタミナ」とあった(研究社/英和)。日本語の辞書で「スタミナ」を引くと「ねばり、持久力」(三省堂/新明解)。staminaの語源はラテン語のstamen(=縦糸)で「運命の女神Fatesが紡ぐ人間の寿命の糸」であるそうだ(孫引き)。・・今日の午前中に梅雨空のもとテニスをやったが、スタミナ不足を痛感するこの頃。テニスを始めて50年も経つから元気な時にはそこそこにできる。ところが2時間もすると身体がいうことをきかなくなり無様なミスを連発する。その落差の大きさを毎度実感しているので自分の実力をどこと見るかは難しいところだ。一昨日、オーストラリアに1-3で負けたワールドカップでの日本チームにもスタミナの問題をみる。プロの選手はスタミナの配分など百も承知であろう。それにしてもスタミナは精神力や気合いだけでは如何ともし難い。食生活の歴史から民族のスタミナ度が決まるのではないかと思うほど淡白な日本人にスタミナを過度に期待はできそうにない。しかしながら「人間の寿命の糸」は今や日本人は世界一である。語源の面からは日本チームに”スタミナ”を期待できるぞ!
「今日の作品」に「立方体2(陶芸)」を掲載した。昨日掲載した「立方体花器」を「燭台」に応用したもの。「花器」の名前にできないので「立方体2」とした。

6月16日(金) <天風・・>
「今日の作品」に「立方体花器(陶芸)<6月14日コラム参照>」の中心に組み込まれる「内部容器」を掲載した。単独の花器としても使用出来るが、立方体の内部にはめ込んだ場合、この容器に描いた模様は全く目にすることはできない。普段は見えないこともあって、私としては珍しくリアルな漢字を書いてしまった。「天」と「風」の文字をそのまま書くのは、照れくさく、恥ずかしく、野暮ったいことも承知の上で、勇気を持って初志貫徹した。文字は良寛の有名な書「天上大風」からとった。子供好きの良寛が頼まれて筆をとり子供の凧に「天上大風」と書くと凧はみるみる空高く上がって行ったという逸話がある。「書家の書」を嫌った良寛であるが良寛の書はいつまで見ても飽きないし何度見ても新しい発見がある。丁度いい絵を見るのと同じだ。私が「天」と「風」をとった理由をこじつけても意味はないが”遊び”として理屈を言ってみよう。「天」は微力な自力では如何ともし難い”他力”の象徴。「風」は風自体は自然であるが、一方で自力で活用すべき自然(=他力)。追い風か逆風かを見極めるのは自分。ヨットの操縦のように逆風でも風があれば進むことが出来る。天の風はいつも吹いている・・。

  6月18日掲載分
6月17日(土) <引退・・>
一昨日、マイクロソフトのビル・ゲイツ会長が二年後には経営の第一線から引退し財団の活動(慈善事業)に専念すると発表し話題となった。ビル・ゲイツ氏は1955年10月28日生まれだから今まだ50歳である。現代の超資産家ではあるが自ら引退のタイミングを決定するセンスには敬意を表したい。というのは、常々日本人の身の引き際を心得ない人々が目について辟易しているからである。引退の仕方を教えるモデルが日本には欠けているのだろうか。トップの立場では周りから皆ちやほやされる。”裸の王様”になり誰も引退をアドバイスしてくれない。問題は引退しても自分の財団を持ってもいないからやることが見つからない。やることがないので地位にしがみついて老害をまき散らす。独断と偏見のもとに具体例を云わしてもらおう。小泉政権の後継者について今時なんで派閥の親分として森元総理がコメントするのか。北京オリンピックの野球になぜ長嶋監督の出番があるのか。「見事な引退」を見せることが現役の良き印象とか爽やかさを持続させる唯一のやり方と思うのだが・・。

6月18日(日) <紫陽花・・>
紫陽花の季節。降り続く梅雨の中で青と紫のガクアジサイや大きな西洋紫陽花が咲き誇っているのをみた。知人が北鎌倉に寄ったらラッシュアワーのような混雑で駅の改札を出るのに一苦労だったという。北鎌倉には「アジサイ寺」として知られる明月院がある。明月院では今観光客が多すぎて紫陽花をみるのも大変なようだ。全国には「アジサイ寺」と呼ばれるお寺は数知れないほど多いから、今日は各所で紫陽花のためのお寺参りが盛んだっただろう。私は紫陽花の季節でない時に何度か明月院を訪れたことがあるが静かな落ち着いたいい寺だった。この時期紫陽花をみに明月院に行くのは無謀であるからインターネットでの紫陽花見物を試みた。先ずはアジサイ寺の雰囲気がよくでている写真入りサイト=ここ=。地図付き観光案内=ここ=。その他=ここ。紫陽花シーズンである梅雨時は混雑するのでこの時期を避けることをアドバイスしているサイトが多いのが何とも皮肉である。
「今日の作品」に「立方体花器/組み合わせB(陶芸)」を掲載した。前に掲載した立方体花器の組み合わせ方を 変えたもの。

6月19日(月) <視聴率・・>
サッカー・ワールドカップドイツ大会、昨夜テレビで生中継された日本ークロワチア戦(0-0引き分け)の平均視聴率(関東地区)は52.5%であったという。瞬間最高視聴率は試合直後の68.6%、先の日本ーオーストラリア戦の平均視聴率49%を上回ったなどと解説がある。視聴率の意味は分かったようでよく分からない。少なくとも私自身は理解出来ていない。ここでいう視聴率とは関東地区でテレビ所有世帯が100あるとすれば52.5世帯でクロアチア戦のテレビをつけていた「世帯視聴率」と思われる。テレビをつけていた世帯の何%がサッカー以外を見ていたかは分からないし今時一世帯の中にテレビはいくつかあるとしても個人で何をみたかのデーターではない。しかもサッカーを中継している時間にテレビをつけているだけで平均視聴率としてカウントされる。テレビに熱心に見入っていたか、他のことをやりながらテレビはつけっぱなしなどは無関係。ビデオに撮って後でじっくり見る人の数など入らない。データーの取り方としては恐らくランダム(無作為)に抽出されたサンプルとなる世帯と契約をして記録する機械を設置する、そして統計の手法つまり300ほどのデーターで1000万の傾向として数値をとらえるのだろう。統計的手法では個々人の好みや癖は存在しない。視聴率の中身も時々疑ってみた方がいいかも知れない。

6月20日(火) <陶芸タワー・・>
陶芸での焼成にはタイミングがある。ある程度教室のメンバーの作品数がまとまったところで、素焼、酸化焼成、還元焼成、結晶釉の焼成などを順次に行なうのでタイミングにより自分の作品が完成後直ぐに焼き上がることもあれば長い間待たされることもある。毎日のように焼き上がりを確認するときに限って出来上がりが遅いものだ。今日は余り期待もせずに外出したついでに陶芸教室へ寄ってみると「タワー」が出来上がっていた。早速、家に持ち帰り一部をヤスリで修正の上「リフト装置」に組み込み、球を使って試運転をしたところ大成功であった。「今日の作品」にはこの写真を掲載した。中央に細長く立上がっているのが今日完成した「タワー」である。内部には球を螺旋状の針金に乗せて上部まで運ぶリフト装置が組み込んである。陶芸でこのような装置を内蔵するタワーを制作するのは初めてであったがほぼ想定通りに出来上がったのがうれしい。高さが40cmほどのタワーは先ず内部の孔径や長さが焼成により収縮する度合いを考えた(15%とみた)がこれが正解だった。また細長いタワーが焼成時に大きく曲がらないように粘土の成型時から色々と配慮した。今回、この機械部品のような陶芸が成功したことにより私にとっては陶芸の新たな可能性も見えてきそうである。


6月21日(水) <アジアンテイスト・・>
妻と昼に外食をする時にはなるだけ家で食べられない食事を選ぶ。軽いランチの値頃感を考えると自然とアジアンテイストとなることが多い。昨日はインドカレーをナーン(=パンに相当するインドの主食、強力粉とイーストで焼き上げる)で食べたが、これが絶品だった。ナーンがインドカレーの美味しさを引きだしていた。たまたま今日の昼はタイ料理。やはりタイの味も卓越している。タイといえばトムヤムクン。”いまはトムヤムクン(=エビのスパイシースープ)の素が市販されているので我が家でも試みたが本場の辛さは尋常でなかった。こんなことを書いているとこれまでに我が家から歩いて行くことが出来る範囲で随分いろいろな国の料理を味わったことを思い出す。まずスリランカ料理(ここ)が辛い味に馴染んだ発端。ネパール料理(ここ)やレバノン料理(ここ)もユニークだった。ベトナム料理もある。韓国料理、中華料理の店は多すぎて”アジアンテイスト”とは別格に思える。こうなるとフレンチやイタリアンを楽しむチャンスが少なくなるのも無理はない。アメリカンは細々と続いている。そう、アメリカンとはマクドナルド。一番疎遠なのが”和食”とは申し訳ない(?)・・。

6月22日(木) <自由・・>
不幸にして夫を比較的若くして亡くしたが70歳になって元気いっぱいに自由を謳歌しているご夫人の話を聞いた。夫の死後、娘達を結婚させて今は中国語を勉強したり旅行に行ったり、これほど自由で楽しい時はないとおっしゃる。もし夫が存命であれば全く異なった時間の過ごし方になったに違いない。この話を聞いた時、私は画家の三岸節子さんのことを思った。三岸節子(1905-1999)は日本洋画界の巨匠と呼ばれたが、いわゆる巨匠は余り好きでない私であるが、三岸節子の絵は大好きである。彼女の絵だけは何度見ても、何時間見てもまだ見ていたいと思う。そんな三岸節子さんは94歳で大往生したが夫の三岸好太郎と19歳で結婚し10年の結婚生活の後好太郎と死別した。一部で天才画家といわれた好太郎(1903-1934)ではあるが31歳は早すぎた夭折であった。残された節子は三人の子供をかかえ苦労の末に日本を代表する女流画家になる。もし好太郎が長生きをしていたら節子が絵を描けたかどうかも分からない。更に三岸好太郎という画家を知らしめたのも節子である。好太郎の死後も遺作を保存し好太郎の絵は天才的だと云い続けて美術館(@北海道)まで開設した。三岸節子は63歳の時に日本を脱出してフランスに向い、その後20年間フランスで絵に精進する生活を貫く。日本で栄誉もお金もそして平穏な暮らしもあったけれども”描く自由”を選択した。自由を活かすのは意志と行動力であるようだ。

6月23日(金) <大敗・・>
朝の4時過ぎに起きてW杯サッカーのテレビ中継をみた。それほどのサッカーファンではないけれど今日のドルトムントで行なわれた日本−ブラジル戦が日本のサッカーをみる最期のチャンスだと思っていた。結果は1−4で日本は大敗。まさに日本の最終戦となってしまった。2点差以上でブラジルに勝てば決勝リーグへいけると奇跡を願う大応援も現実の力の差には如何ともし難い。もし前半のロスタイムで失点することがなく1−0の日本リードで前半を終わっていれば流れが変わっていたかも知れない・・などと悔しがってもはじまらない。もしゴールキーパー川口の好セーブがなければとても4失点ではおさまらなかっただろう。王者ブラジルとの対戦ゲームを生中継でみるとやはり抜粋した番組とは違う緊迫感がある。ブラジルは軽く流したという感じでまだ十分に余力を残しているようにみえた。日本の大敗はもちろん進歩のための薬である。多くの人があれこれ診断して処方箋を作るだろうが見当違いの診断とならぬことを祈ろう。サッカーがずば抜けて恵まれているのは世界に大舞台があり、熱狂的な大サポーターに支持されていること。こんな環境を得て、適切な処方箋ができれば優れた選手が生まれないはずがない。

6月24日(土) <宗左近・・>
宗左近さんが亡くなった(net情報によれば19日に死去し昨23日に公表された)。宗左近さんは1919年5月生まれであるから87歳。年代からいえば二十歳前後に太平洋戦争真っただ中の戦中派でありペンネームの「宗左近」が戦時中に周りがみな死んでしまった際「そうさ、こん畜生!」からとったと自称したのも分かる。大学教授で翻訳や評論などの著書も多いが一般的には詩人として知られている。10数年前に縄文の文化が見直された時期があったが縄文再評価の中心にいたのが宗左近である。私は1990年の夏、中新田バッハホール(宮城県)で混声合唱曲「縄文連祷」の初演演奏会にいった(妻が合唱に参加した)が、この曲の作詞が宗左近、作曲が三善晃であった。この時の宗左近さんの講演や三善晃さんの指揮はいまだに印象強い。作詞宗左近ー作曲三善晃のコンビは「校歌」の分野で多く”名作”を残しているのは知る人ぞ知る。校歌といえば在り来たりの歌詞が多い中、宗左近さんの作詞は奇想天外、とにかくスケールがでかい。地球規模でなく宇宙規模だ。氏の冥福をお祈りする意味で、netで見られる氏の作詞した校歌を探した。こんな校歌を歌う学生は気宇壮大に育つに違いない:福島県立清陵情報高等学校 校歌<宇宙の奥の宇宙まで>=ここ=、千葉県立幕張西高等学校<透明に>=ここ/下の方の歌詞をじっくり読みたい!=、東京電機大学中学高等学校校歌<風よ光よ>=ここ=、習志野台第二小学校校歌<青空>=ここ=。

6月25日(日) <ブラウザー・・>
ブラウザーの歴史を調べてみると今は生活に欠かせない道具であるパソコンやインターネットがほんの10数年の進化であることに改めて感動を覚える。第一、ブラウザー=browserを辞書で引いてもでていない(でていても「草を食う牛」)。browseは「(家畜が食う)若葉、新芽、(本などの)拾い読み、立ち読み(研究社)。これをWWW,FTPなどにアクセスするためのソフトウェア(プログラム)のことをブラウザーという造語で呼んだ。ブラウザーとして有名なのは Netscape Navigator,Internet Explorerなど。初のブラウザーとされるのはモザイクで1994年にMosaic Netscapeが公開されている。同年12月にNetscape Navigator1.0が公開。Internet Explorerは1996年に2.0,3.0を公開。何と10年前である。”慣れ”とは恐ろしいものでアクセス速度は桁違いに早くなった上にブラウザーは問題がないのが当たり前で具合が悪いと大騒ぎする。短期間でこれだけ技術を進歩させた開発者には本来もっと感謝すべきであろう。私のブラウザーの歴史はネットスケープからエクスプローラー、そして今はサファリ(エクスプローラーを使うこともある)。これから10年後にはどんな姿になるか楽しみである。

6月26日(月) <他人(ひと)のため・・>
東京は一日梅雨空。早朝も夜も小雨の中をアール(コーギー犬)の散歩にいった。余程の大雨でない限り毎日一時間余の散歩を欠かさない。昔はアールのために散歩にいってやるという感覚であったが、今はアールは私の健康保持のために散歩に付き合ってくれる有難い存在だとの思いが強い。最近、他人(あるいは他の動物)のために自分が何かをやることは結局自分に一番幸せを及ぼすと思うことが多い。ある程度の年齢を重ねた人が、お金に執着せずに他人のためにボランテイアをしていると本当に幸せそうに見えるのに対して、いつまでもお金に細かく昔の夢が消えずに他人はみな部下のように接する人は魅力も何もない。ではお前は何をやっているのかと云われると言葉に詰まるが、中高年には”他人のためになることをやろう”というスローガンをもっと普及できないかと思う。そうすると暗いニュース種になる子供や青少年も少しは変わるだろう。何より他人のためは自分のためとなることは間違いない。今日のニュースに米国の投資会社の会長で世界的な大富豪であるバフェット氏が資産(約370億ドル=約4兆3000億円)を各財団に寄付する(ゲイツ財団に300億ドル)とあった。恐らくはこれで一番幸せを感じているのはバフェット氏でないだろうか。

6月27日(火) <あれやこれや・・>
あれやこれやと書いてみたい。朝6時過ぎにアール(コーギー犬)を連れて西郷山公園(東京・目黒区)に散歩にいき、帰り道にさしかかったところでテレビカメラやら報道用の車など何か大勢の人だかりがしている。家に帰ってテレビのニュースをみてこれが「女子大生誘拐事件」の被害者宅と近所の誘拐現場(バス停の側)に集まった報道陣であることを知った。幸い犯人は逮捕されたが、こんな場所で白昼狙いを定めた大人を拉致して金を要求する。どこか他の国の作り話のような事件が現実となるのが信じられない。さて・・今日は夕方成田空港まで娘と孫娘を迎えに行った。ニューヨークに住む娘家族が夏休みで一時帰国したのだが孫娘は東京で日本の幼稚園と空手教室に通うという。私はまた孫娘とのコラボレーションができるのを楽しみにしている。次・・このホームページの「今日の作品」が1週間改訂していないことに気がつく。できれば2-3日毎に作品を掲載したいと思いながら油断すると直ぐに1週間が経過する。今日は「立方体花器C(陶芸)」として以前掲載した立方体花器に花を生けた写真を掲載してつなぎとした。明日は新作を掲載する予定。

6月28日(水) <スイッチボックス・・>
いま小物の陶芸作品は家の電気窯で焼成できるようになった。「今日の作品」に掲載した「スイッチボックス」も家で今日焼き上がったばかり。できあがった陶芸作品にスイッチ機能を取り付けて完成した。これは自分としてうまくできたので喜んでいる。”うまく”というのは陶芸の質ではなく計画通り、想定通りの意味。スイッチ機能そのものは市販のダブルスイッチの内蔵品を流用することにして粘土の段階から二つのスイッチや取付け孔の寸法を設定した。焼成した場合の粘土の収縮率や収縮方向を考えて決めたのであるが焼き上がった陶器がスイッチとぴったりと合致したのには感激!セラミック用のドリルがあれば完成後に孔加工すれば何でもないかも知れないし、金属やプラスチックのボックスなら極めて簡単に製作出来るだろう。それでもこの陶器のスイッチボックスは特別の加工もせず組立できたし何より陶芸作品で構成した「セラミックプレイランド(=球転がし遊具)」の中に置くと周囲の陶芸部品とマッチして気持ちがいい。球のマークのついた右のスイッチでは球をリフトするためのシンクロモーターを廻す。左のスイッチは水マーク。スイッチを入れると噴水が流れる。これで「セラミックプレイランド」用の陶芸はひとまず完了。次には動画で球の動きを紹介したい。

6月29日(木) <所要時間・・>
先日テレビで現代のカラクリ作りの名人を訪ねる番組があり興味を持って見た。ところがレポーターとして名人から話を聞く役割のタレント、三波Tさんの質問に驚いてしまった。「これを作るのにどれくらいの時間(期間)かかりました?」と次々に質問する。私にはこれは相手に対する侮辱の言葉と聞こえる。カラクリの仕上がり、出来具合にはコメントがなく制作した所要時間しか聞くことができないのか。例えばノーベル賞を受賞した人に論文を書き上げるのに何日ぐらいかかりましたかとは誰も云わないだろう。ピアニストにこの曲は何時間くらい練習しましたかとも聞くことはない。ゴッホのひまわりを1日で描いたときくとスゴーイと感心するのか。所要時間を質問するということは誰でも時間をかければできるという意識が潜在的にあるように感じる。凡人が一生かかってもできないことをやるのが名人であり時間の長短は問題ではない。考えてみると一方で確かに所要時間の長短で優劣が決まることは多い。徒競走、マラソン、水泳などのスポーツ競技以外でも入学試験や暗記ものテストは総じて時間の争いと同類であろう。けれども世の中には所要時間とは無縁の価値があることを忘れないで欲しい。

6月30日(金) <デザイン・・>
ニューヨークから帰省している5歳の孫娘が「デザイン」を一緒にやりたいという。はじめ何の意味か分からなかったがニューヨークの幼稚園で”お絵描き”とは別に”デザイン”を習ったらしい。左から右へ同じ色の模様を連ねるとか数色の色帯を作るなど要するに具象の絵ではない色遊びをするようだ。孫娘と私が画用紙を並べて私は孫娘がやることを真似て描いたのが「今日の作品」に掲載した「Design-A」。最後には自分でやりたいように加筆して”絵”としたが、描いている時には何ができるのか予測もできなかった。孫娘のやり方で感心したのは太めの筆に水をたっぷり含ませて黒や赤の”水滴”模様をつける手法を知っていたこと。飛沫で二度と同じにならない模様をつけるやり方は現代アートとしては珍しくないが、これを幼稚園のこどもに教えるのは確かにニューヨークらしい。教育的効果を過大に期待するのは的外れだろうがお絵描き(デザイン)の時間が楽しくなることは間違いない。私もしばらく途絶えていた絵の作品が出来上がってHAPPY、それも久々の抽象画(?)だ。

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