これまでの「今日のコラム」(2006年 7月分)

7月1日(土) <国際化・・>
サッカーワールドカップ・ドイツ大会はあと数時間後にベスト4が決まる。国別対抗のサッカー試合となるとみな愛国者になって自分の国を猛烈に応援する。国同士がスポーツで競い合うのは平和の象徴で気持ちよい。けれども国を代表するスポーツ競技も内容はどんどん変化しそうだ。選手の国際化である。監督がその国の国籍でないことは、トルシエ(フランス)、ジーコ(ブラジル)、オシム<仮>(ユーゴスラビア)と日本の監督をあげるまでもない。次には日本チームの三都主(ブラジル)が日本国籍であるように”生まれた”国は関係なしに別の国を代表するという選手の国際化は確実に進行している。私は最近、卓球の世界選手権を見ていて驚いたことがある。シンガポール、スペイン、オーストリアなど強いチームに元中国籍の選手がひしめいているのだ。今年の卓球・全日本選手権女子シングルスで優勝した金沢選手は日本人と結婚して日本国籍であるが中国出身であることはよく知られている。世界のトップクラスの力がある選手は自国以外の国に舞台を求めることができるようになりつつある。スポーツの国際化が進めば国対抗の意識も変わるのでないか。

7月2日(日) <夏休みの課題・・>
ニューヨークの幼稚園に通っている孫娘から「夏休みの課題」を見せてもらった。幼稚園で作った6月15日から8月31日までのカレンダーに毎日の”課題”が書き込んである。東京に帰省してからもこの課題をこなしているが内容が実にユニークだ。主には「お絵描き」のテーマなので"draw a self portrait"などの内容が多いが、例えば今日の課題は、"watch a bird fly"、明日の課題は、”kiss someone who loves you"。もう少しピックアップしてみよう。"smile 10 times today"、"look at a flower closely"、"look at the stars"、こういうのもある:"sit quickly for 5 minutes what do you hear"。こうしてみると幼児が楽しみながら毎日の課題に挑戦出来るようにできている。ノルマとしない配慮がなかなか巧みだ。この課題をみていると私自身に応用しても何ら違和感がないことに気がついた。夏休みが終わると沢山「作品」が溜まっているかも知れない。こんなテーマで:"draw your dream"、“draw your favorite fruit"、"draw a sound"・・。

7月3日(月) <個性・・>
規格品は好まない、個性のある面白いものが好き、・・陶芸の話である。だから同じお茶碗やお皿を数個まとめて作ることは少ないが、自分で作った茶碗や皿を使ってみて(そして自分で整頓してみて)規格品でないものは収納し難いことを痛感する。規格品ならばぴったりと重ねてしまえるものが一個一個が微妙に違うために収まりが悪い。個性化教育と聞くと直ぐにこの陶芸のことを思う。全体主義では統一を乱す個性教育を求めることはあり得ない。一方で自由な社会では新たな創造や進化のためには個人の能力を最大限に発揮させながら組織として力を結集することが必須となる。けれども個性の教育は云うほど簡単ではない。個性と集団の力という面ではこれから準決勝が始まるサッカー(ワールドカップ・ドイツ大会)がモデルにみえる。最強の個性と技能のブラジルがフランスに破れた。だから組織力という訳でもない。ジーコが云い、オシムが教えるように”考える”個人がいなければチームとして強い相手に勝つことはできないだろう。陶器と異なり人間の場合はフレキシビリテイー(可撓性、柔軟性)があり、個性を保ちつつでも仲間に合わせて変形出来る。個性の凸凹がチームの要求にぴったりと収まるときがきっと最強となるに違いない。

7月4日(火) <アッカ・・>
サッカーの中田英寿(29歳)現役引退がNHKのトップニュースで報じられた。先日のワールドカップドイツ大会、ブラジル戦で敗戦が決まった後、競技場の芝上に仰向けになり長い間黙想するかにみえた姿が引退と重なって思い出される。引退の意志を自分のホームページで先ず初めに発信したのが中田らしい。私の本棚に「アッカ!!<中田英寿編集長>」という雑誌がまだあったのでこの機会に引き出して目を通した。この雑誌は新潮45の別冊で1998年(平成10年)7月発行(ちなみに”アッカ”とはイタリア語でH<ヒデ>のこと)。1998年はワールドカップ(フランス大会)に日本が初めて出場した年で雑誌の内容のメインは中田の「ワールドカップ日記」である(このW杯で日本はアルゼンチン、クロアチア、ジャマイカに三連敗した)。この当時から中田英寿のオフィシャルホームページは毎日150万人のアクセスがあると云われた人気のサイトだった。何より日記や文章を中田本人がリアルタイムで書いて掲載したのが際立っていた。中田のような個性は、出る杭をよってたかって打ち付ける習性のある社会の餌食になりかねないが、中田のホームページは本人が直接表現することでどれほど中田自身の理解に役立ったか分からない。昨日のページには中田が書いた“人生とは旅であり、旅とは人生である”・・ありがとう・・の文章がある(=ここ/中田HP)。私は「ありがとう」が云える人が好きだ。
「今日の作品」に「皿ーA(陶芸)」を掲載した。こんなお皿も作ります。

7月5日(水) <全体主義・・>
今日のニュースは北朝鮮のミサイル発射。未明からほぼ一時間おきに6発のミサイルが発射されて終わりかと思われた夕方また7発目が発射された。今日のコラムは別のことを取り上げようと思っていたが多少この暴挙と関連があることを書こう。北朝鮮が民主主義とはほど遠い全体主義、独裁国家であることは今更いうまでもないが、「全体主義」の言葉が何かすっきりしない。丁度悪玉の「活性酸素」が言葉だけをみると「活性化」する善玉でないかと思いかねないのと同じ理由で全体のことを優先する主義と誤解しないか。全体主義は辞書を引くと、「個人の自由・幸福よりも社会集団・国家の利益の方が重要であるとし、それに奉仕することを強要する主義」(新明解/三省堂)とある。後段の”強要する”要素がなくて本当の意味で集団の利益になるものであれば個々人の好き勝手よりも全体を活かすことが望ましいこともあるので「全体のためになる主義」は必ずしも悪いともいえない。極端な個人主義の弊害ばかりが目につくと真の「全体のための行為」は貴重と思えることもある。全体主義は英語ではtotalitarianism。英語ではこの言葉だけで悪玉のイメージとなるのかは知らない。ミサイル発射の国は、全体主義支配( totalitarian rule)というよりむしろ将軍様主義の独裁国家とでも呼ぶべきか・・。

7月6日(木) <弱い巨人・・>
弱い巨人の試合をみるのも大変だ。夜のテレビで珍しく巨人ー中日戦(東京ドーム)を見ていると7回、1-9で巨人の敗戦は決まったような試合。娘や妻が何でこんな試合を見るのと苦情が出るのでチャンネルを変えて甲子園の阪神ー横浜戦に変えてみた。こちらは2-1で阪神リード。巨人戦と緊迫感がまるで違う。9回に阪神の藤川が投げた。153-155km/hの豪速球をビュンビュン投げて横浜のバットはかすることも出来なかった。藤川の投球を見るだけで迫力ある野球の醍醐味を味わえる。巨人ー中日戦は結局5-9で巨人は対中日戦6連敗が決まったようだ。私が巨人戦を見ようと思ったのは「なぜ巨人は弱いのか」を自分の目で見てみようといういささかひねくれた意図であった。巨人が弱いのは、金に任せて”過去の”名選手を集めるだけで若手を育成できないとか敗戦処理のピッチャーの使い方が不味いとか、色々と論評されるけれども本当に”なぜ”なのか。弱い巨人を反面教師にすると強いチームができあがる。では弱い巨人となった真の理由を知りたい。

7月7日(金) <魚の神秘・・>
いま我が家に帰省している孫娘の今日の課題が「draw 7 flashy fish」となっている(7月2日コラム=ここ=参照)<fishは確かに複数、種類をいうときはfishes>。早速に孫娘と画用紙を並べて同じテーマで描いた。「今日の作品」に掲載した「7-fish」は私の方の成果である。水族館にいって描くこともできないので図鑑の中から派手な熱帯魚を選んで描いた。私は珍しい形や色をみると詳細を観察して同じように描いてしまうが孫娘は極めて大胆に特徴をとらえてズバズバと描く。この場で掲載できなくて残念であるが仕上がった絵をみるとむしろ孫娘の絵の方が勢いがあって面白い。しかもこちらが1尾を描く間に7尾描いてしまった。幼児の本質のみをとらえる能力はすばらしいが絵画の場合年齢を重ねるに従って大人の真似をして絵に迫力がなくなるのが通例だ。私も並んで描きながら私の絵を見せるのがいいことかどうか迷うところ。現代は写真とコンピューター技術を合わせればあるがままの姿を再現したり色を変えてみたりするのは極めて簡単である。それだけに具象画、細密画を描く意味を考え悩むことも多い。けれども雑念を除いてただ手を動かすという大昔と同じ描き方をしてみると魚の形や色には人知を超えた神秘をみる思いがして実に楽しかった。

7月8日(土) <海外旅行・・>
なぜか急に海外旅行に行きたくなった。海外旅行は、いつか行こう、時間が出来たら行こう・・では行くことが出来ないとつくづく思う。一度チャンスを逃すと次のチャンスはそう廻ってくるものではない。勤め人時代の海外旅行はいわば偶然の巡り合わせで、好きなところに行く観光旅行とは異なるがやはり記憶に残る。私の場合はインドの数ヶ月(この間10kg近く体重が減った)やスエーデンの友人宅が思い出深い。初めての海外旅行は大学を卒業した月(40年以上前だ!)にメキシコ、エルサルバドル、ガテマラの中米3カ国を交換学生として訪問した時だがこれらの国にもその後訪れる機会はなかった。妻と一緒の海外旅行ではフランスのマルセイユでレンタカーを借りて南仏ープロヴァンス地方を車で廻った旅が一番思いでに残る。いまその年を調べると何と丁度10年前だ。アッという間に月日は経過する。私の友人、知人には世界中をほとんど隈無く旅行している人や毎年何度も海外に出かける人がいる。そういう人たちと比べようとは思わないが、まだ海外文化への興味は強い。旅行は好奇心からはじまる。今のうちにチャンスを作らなければならない。”いつまでもあると思うな体力と好奇心”・・。

7月9日(日) <蚊に喰われない方法・・>
「"絶対に”蚊に喰われない方法がある。それは何か」。・・答え:「蚊に喰わせればよい」。これは禅問答のサンプルです。「絶対に軒下に置いたものを泥棒に盗られない方法」=「軒下に捨てておく」というのと同じ理屈。この蚊に喰われない方法を私は実践してみています。部屋の外で作業をする時に蚊が寄ってくるのですが俺の血でも吸っておけと追い払いもしない。それで1-2匹が腕に喰い付くものの後が続かない。どうも私の血はあまり美味くはないらしい。今日のCNNニュースで蚊にさされない人は蚊の嫌う匂いを発しているとして「蚊の嫌う成分」の研究が進められているという記事をみました(=ここ)。これによると私も蚊には余り好まれないタイプのようです。更に「蚊に喰われない方法」の公案(禅問答)を考えた人は多分蚊の嫌う成分を持った人だっただろうとも推測されます。さて冒頭の禅問答は単なる言葉遊びではなく発想法としては奥が深いと感心します。少々の対策をとっても”絶対に”の方策とはならないけれども、相手と敵対しないで自分に取り込むと全く別の状況になる。そして相手が自分と一体化してしまえば、損も得も痛いも痒いもなくなってしまう・・。

7月10日(月) <W杯終了・・>
サッカーW杯ドイツ大会はイタリアがPK戦でフランスを制し優勝を果たした。フランスのジダンがこの試合中にイタリア選手に頭突きをおみまいして”涙の退場”と報じられたが今夕のニュースによると今大会の最優秀選手にジダンが選ばれた。フランスもジダンを中心にして期待以上の成績といえるだろう。今回イタリアの優勝を的中させた人は専門家でも少ないのでないだろうか。私などはイタリア国内でのモメゴトを理由に決勝トーナメントまでも進めないのではないかと勝手な予想をしていた。サッカーは個人の技量や実力のみでなくチームとしてのまとまりとか運や勢いの要素も強いので、容易に予想が的中しないところが魅力でもある。イタリアの優勝賞金は約23億円、フランスは21億円余、日本にも約6億6千万円が分配されるという。サッカー万々歳・・で一ヶ月に及んだ2006年W杯が終了した。次回は2010年、南アフリカ大会。
「今日の作品」に「 どんぶりばち1/表(陶芸)」を掲載した。娘家族からのリクエストにより制作したラーメンドンブリ鉢。呉須(酸化コバルトを主成分とした青色彩料)を塗った部分に孫娘(5歳)に線描画を描いてもらった共同作品でもある<陶芸コーナー=ここ=に裏の絵を掲載>。

  7月11日分
7月11日(火) <万年筆・・>
いまどき「万年筆プレゼント」の案内に釣られて朝日の「どらく<Do楽>」サイトをみた。それ(=ここ)によると、いまふたたび万年筆のブーム到来とある。にわかには信じ難い。本当かと日付をみても2006-7-11とある。私の場合万年筆に限らずただでさえ手で文字を書く機会が極めて少なくなっている。システム手帳に予定やその日あったことを細かい文字でメモ書きする以外は日常ほとんど字を書くことはなくなってしまった。メールは当然キーボード一本やり、特別な文章(案内やプログラムなど)でもパソコンで打ち込みの後印刷が当たり前だ。小説家や文筆家にしても今はほとんどワープロを使用するときく。万年筆のブームというのがどんな分野での話か分からないがやはり私自身も万年筆に愛着はある。40年前の極太シェファーや記念で頂いたパーカーなど今も大切に保管している。だだしなかなかこれらを使う機会がないのが残念に思っていた。・・「万年筆ブーム」の記事をみて私も万年筆を積極的に使うことを閃いた。今更文字など書けない。万年筆で「ペン画」を描くことを思いついたのである。幾日かの後に「今日の作品」に掲載できますように・・。
「今日の作品」に 「どんぶりばち1/裏(陶芸) 」を掲載した。昨日載せたものの裏面。

7月12日(水) <ムンバイ・・>
昨夕、インドのムンバイで連続爆破テロがあり死者182人、負傷者650人に上ると報じられている。爆破は走行中の列車内で起きたらしいが詳細はこれからの調査によることだろう。私は30数年前に出張でボンベイ(今のムンバイ)に行き、一泊した後、列車で更に北にむかった(ボンベイで乗り継ぐ予定の飛行機がストライキで飛ばず急遽列車に乗った)ことがある。ボンベイの街ではコブラ使いが笛を吹きコブラをだしたところで写真を撮れというので写真を撮ったとたんに金を要求されたことを思い出す。今日のニュースであらためてインドの都市の名前が大きく変わっていることに気がつく。昔からお馴染みのボンベイは植民地として支配していた英語圏での呼び方、これが1995年に現地語のムンバイに改名された。ムンバイは西海岸の州都であるが東海岸のカルカッタも今はコルカタと呼ばれるようだ。ムンバイのテロはイスラム過激派によると推測されているが私が滞在した30数年前でもヒンズー教徒と回教徒との争いが絶えなかった。この国の民族抗争も根が深い。先にインドの人口10億余(中国の13億人弱に次ぐ世界第二位)に対して文字が読めないひとが4億人いるとの報道があった。一方でインドには日本人等足元にも及ばぬ大金持ちもいる。そしてIT産業も盛んで現代もっとも活気のある国の一つでもある。インドのかかえる様々な悩みはそのまま世界の問題であるように思える。

7月13日(木) <パイント・・>
ニューヨークから娘と一緒に帰省している孫娘(5歳)がインターネットを使って毎日アメリカの通信教育を受けている。先日は、10=○+○+○+○、では○に当てはまる数字を入れなさいという問題をやっていたと思ったら(全て英語のやりとり)、今日はいきなり、「2カップ(cup)は1パイント(pint)、2パイントは1クオート(quart)、では1クオートは何カップ?」ではじまった。そうか、米英では実生活ではヤード・ポンド法が生きている。1クオートは1/4ガロンでガロンがベースの単位である。面倒なことに1/16ガロンである1カップは日本の1カップとも違う(ガロンは米英でも異なる)。日本のお米を計るときの1カップ=180ccは一升枡のサイズの1/10である1合から決まった(尺貫法)。日本では180ミリリットルの数字は残るが全てメートル法で統一されて200や1000ミリリットルの容器がほとんどである。米国の1カップは液量で236cc、乾量で275cc。パイントはその倍量。料理のレシピにカップやパイントがでてくると要注意だ。日本では一石、一斗、一升、一合を覚えなくて済むがこれらの単位そのものが忘れられる・・。
「今日の作品」に 「どんぶりばち2/表(陶芸)」を掲載した。

  7月14日分
7月14日(金) <計画と実行・・>
いま作り始めている陶芸作品は陶器とガラス棒の組み合わせを試みている。異質の素材の組立を考えて粘土の段階から正確な寸法で作成する必要がある。このような陶芸の場合事前に細かな計画図を作成する。その上で制作を進めるのだが、いざ具体的に計画を実行しようとすると”想定外”のことがいろいろと発生する。粘土が柔らかすぎて思った通りの段取りで進まないとか、逆に粘土が堅くなり過ぎて細工に苦労するとか、更に作りながらデザインを変更することもある。基本となる設計・計画が重要であることは云うまでもないが、ほんの5分間で図を描いたものを、制作者として1ー2時間も悪戦苦闘した。その間、計画は簡単だが実行が大変なのだとつぶやきながら・・。陶芸の場合は計画も実行も自分でやるので誰にも文句は云えないし苦労するところが楽しみでもある。しかし、世の中の大部分の活動では計画者と実行者は別の人間となる<Plan-Do-See-Checkのサイクルで管理するというビジネス的な観点でもそれぞれの担当がある>。計画者が机上で書き上げたプランを具体的な形で結果を出すのは実行者である。おかしな計画でも実行者の才覚で格好がつくことは数えきれない。陶芸をやっているとつい実行者の方に同情してしまう。
「今日の作品」に「どんぶりばち2/裏(陶芸) 」掲載。

7月15日(土) <おしゃべりカフェ・・>
「おしゃべりカフェ」というタイトルのついた音楽会にいった(@千葉ぱるるホール)。昨年も同じ場所で同じスタイルの音楽会が催されたのだが、毎回普通の音楽会とは異なる何かを感じさせられる。実はこの音楽会の企画代表者であり指揮者である日比野和子さんは私と生まれた年も月も同じである従姉である。彼女はかしこまって演奏に耳を傾けるだけの音楽会でなく、聴衆と演奏者と関係する人々すべてが新たに出逢いそして豊かな時間を共有する場としての音楽会を目指している。ステージにはガーデンカフェ風な洒落た飾り、絵画が2点、陶芸の明かり、苔玉もある。休憩時間には聴衆もステージに上がり音とは別に美術品を鑑賞できる。音楽の内容もユニークだ。ドイツから来日したウルマーカンマーアンサンブル(バヤーンというアコーデオン、テノール、クラリネット、ファゴット、ピアノのアンサンブル)が主体であるが第二部では160名のコーラスとトーンチャイムの演奏が加わる。全ては非常に微妙なバランスの下に成功していたのは日比野さんのセンスの賜物であろう。もしステージギャラリーに風景画や人物画を配してあったら魅力はなかっただろうが、小島房子さんの卓越した抽象画(150号ほどのが2点)は出しゃばることなく落ち着いた雰囲気を醸し出していた。素人の合唱を大きく引き立てたのはクラシック音楽のプロの迫力ある演奏であった。親しみ易いけれども決して安易ではない。楽しくかつ十分な内容を持たせるところのバランス感覚がすばらしく思えた。彼女は乳ガンを克服してから社会的な活動を加速してきた。音楽会の収益がでれば決まって寄付を続けている。音楽会も確かに出逢いの一つなのだと教えてくれた「おしゃべりカフェ」であった。

7月16日(日) <三食昼寝付・・>
専業主婦である知人にそのご主人様のことについて話をきいていると”世の中いろいろ”な夫婦のスタイルがあると今更ながら驚いてしまった。そこのご主人様はリタイヤした後、特に新しいことを始めることもなく栄光の会社員路線を踏襲している。それはよいとして、自分で食事を作ることは一切しない、電気釜でご飯を炊いたことはない、スーパーやコンビニにも行ったことはない・・と食事の関連仕事は全て奥様任せである。携帯電話やパソコンもやらない。自分の知らない分野に好奇心を持つことはしない。その代わり昔から親しんでいる植物へ水やりを欠かすことはない。私の周辺には専業主婦の奥様はほとんど見かけなかった。”奥様”といっても社会的に表に立って活躍したり夫とは同等の助け合いをする姿ばかり見ていた。夫といえども炊事することは当然と思っていた。ところが冒頭のご主人様のようにいまだに「オイ、メシ・・」で生活する人種が生存する!そしてこんな夫に限って献身的な妻に守られて長生きする。ぬるま湯に浸かった蛙(カエル)は外に飛びだすことはできないが加熱されずにいい湯加減のままで一生を終えることもよくある話。三食昼寝付は今や恵まれた夫を指すことになりそうだ。ただし、私はこんな夫を羨ましいとは思わない。

7月17日(月) <夏風邪・・>
東京でも雨が降り続く。東西にのびた梅雨前線の影響で山陰を中心にした西日本、東日本の広い範囲で大雨だ。こんな時に私は珍しく夏風邪をひいて元気がない。食事時に薬を飲むことにしたところその後眠たくなってしまう。結局一日中もうろうとしている状態である。ニューヨークから我が家に帰省している孫娘が一週間ほど前に「手足口病」にかかった。医者にいって初めてその病名が分かったのだが、今年は全国的に手足口病が大流行しているという。この病気は10歳以下の乳幼児・小児に発生するが手足の発疹や口内炎の他に軽い発熱があり夏風邪と間違えることがあるときいた。私の夏風邪はこのウィルスの影響ではないかと自己診断している。大人に対してウィルスが実際に作用するのかどうか分からないが、いずれにしても孫娘の病気はようやく回復して本来の元気さを取り戻した。私もそろそろ復調してまた一緒に絵のコラボレーションをやりたい・・。
7月18日(火) <女性専用車・・>
渋谷にいくとき 東横線の電車に乗ったら車両がたまたま「女性専用車」だった。正確には始発から午前10時まで「女性専用」として使われる車両に時間外で乗ったことになる。車内に大きく「女性専用車」と表示してある車両に乗ったのは初めて。車内はガラガラ空いている時間で女性も男性も関係なく座っているだけであるが何となく落ち着かない。こうした「女性専用車」は今は全国で恒常化してしまったのだろうか。私は「女性専用車」を何か偽善的で安直に思えて好きになれない。なぜこのような逆差別がまかり通っているのか。痴漢対策というのであれば別の方法がありそうなものだ。本来の不法行為を棚上げにして保護区をつくればよいとする発想では悪行の抑止力にはならないのでないかと思う。マナーやモラルの問題を優先座席やシルバーシートで解決しようとするのも同じ。一般の席に座っていても譲るべき人が立っていれば自ら席を譲るのが当然であり、わざわざ優先席を定めなくても譲り合うのが常識であろう。女性専用車で男性が乗車を拒否されても、ほとんどの男性は非常におとなしく不平も云わずに決められた通りに別の車両に乗る。女性専用車や優先座席がなくなるのはいつの日かと思いつつ、・・渋谷からの帰りの電車がまたも「女性専用車」だった。

7月19日(水) <USB電源・・>
ついにパソコンのUSB電源を使用した”ミニミニ扇風機”を買ってしまった。といって大袈裟なものではない、ノートパソコンの上部にクリップで設置するタイプで、お値段は1029円(MADE IN CHINAだ)。パソコンのUSBには4本の線があり、2本が信号伝送、1本が電源、1本がGNDシールド用。電源としては規定電圧DC5V、電流500mmAが供給されている。この電源部分をパソコンと全く関係のない電源として利用する機器が沢山発売されており、冒頭のミニミニ扇風機もその一つだ。i-podの充電用などにもUSB電源は利用されるが、USB電源の応用としては”遊び”の要素を含んだ愉快な商品が多い。扇風機の代わりにLEDを点灯させるランプは直ぐに連想できるが、「USB電源で日焼けマシン」とか「USB電動歯ブラシ」など実用を度外視した名品がある。USB電源の応用はアイデイア次第と思っていたら、一昨年の少々古い情報だが「USBからの電源で動作するパーツを作る」という夏休み工作のための記事(=ここ=)を見つけた。USB電源を使って自分だけの手作りオリジナルオモチャ(?)を作るのも面白そうだ。

7月20日(木) <闘争心・・>
直ぐにも雨が降り出しそうな曇り空の下、テニスであそんだ。今日は初めての相手とゲームをやったためかもしれないが、いつになく”闘争心”を意識した。闘争心を燃やしたというのでなく、私のテニスは闘争心がなくなれば終わりだな、止め時だなという危機を感じた。闘争心はつまり勝敗に集中することではないかと思う。プレー以前に、脚が動かないとか身体が疲労困憊とか言い訳が頭をよぎる状態で先ず闘争心がないと自覚する。私のテニスなど勿論勝敗にこだわる訳ではなく楽しむ運動でしかない。それでも負けると悔しい。ミスすると反省し、更に上達を考える。これらも闘争心があってのことだ。最近は”共生”ばやりで闘争心は疎む(うとむ)べき本能のごとき扱いを受けることもある。共生も結構だが、負けると生きて行けないというのが闘争心のベースであり、生き続けるため、向上するため、進歩するための根源となるものでないかと思いたい。先のサッカー・ワールドカップでは日本チームの闘争心欠如が指摘された。大相撲をみていると朝青龍のようなむき出しの闘争心が日本人力士にはみえない。いい意味での闘争心は本当は極めて貴重な能力でないか。

7月21日(金) <作品更新・・>
「今日の作品」が一週間更新されていないとプレッシャーがかかる。これが自分のホームページに作品を掲載しているイイところである。作品を更新していなくても必ずしも”ものつくり”をしていない訳ではないしサボっていることもない。けれども直ぐにアウトプットがでないものは多い。必ずしも成果をオープンにできるとも限らない。以前もこのコラムに書いた覚えがあるが、その点スケッチは少々の時間を捻出すれば毎日でもアウトプットを出せる。「今日の作品」に掲載した「USB電源ミニファン(水彩)」はまさにそんな作品だ。今日は何が何でも作品を更新しようと朝起きた時に決心をした。色々やることは多かったのだが初志貫徹してペンと画用紙を準備。さて何を描くかが問題。適当な花も見当たらないし抽象を描く気力はなかった。そこで目の前にある「USBミニファン」をそのまま描いたのが掲載した作品だ。一昨日のコラム(7月19日分=ここ)に書いたように、以前から欲しくてしようがなかったUSBグッズを道楽して買ってしまったもの。今思うと、一昨日のコラムに合わせてこの絵を掲載すれば分かり易かった。今日の収穫は作品更新のための秘策を習得したこと=起床した時に”更新する”と宣言する・・。


7月22日(土) <イビチャ・オシム・・>
サッカーの日本代表監督にイビチャ・オシム氏が正式に決まった。オシム氏に親しみを覚える一つ=私と同年生まれということ(私の方が3ヶ月余先輩)。この年齢で代表監督を引き受けるからには日本に骨を埋める・・そんな気迫を感じる。伝えられる”オシム語録”(=ここ)もオシムファンとなる一つだ。オシム氏のやり方は事なかれ主義の反対である。ショック療法も使うし甘えを許さない。世界のサッカーの潮流に目をやる姿勢にも同感を覚える。世界は刻々変化するし一筋縄ではいかない、こんな状況に極めて敏感であるのはボスニア・ヘルツェゴビナ・サラエボ出身という履歴から来るのだろうか。オシム氏が戦乱の中をサッカーを通して生き抜いてきた様は凄まじい。私自身、昔の知識では訳が分からない旧ユーゴースラビア連邦の独立・民族紛争は想像を絶する。オシム氏と直接関係ないが自分のため整理してみる。セルビア人、クロアチア人、スロベニア人の統合国家としてチトーの強力な指導の下にユーゴースラビア社会主義政権が成立していたが1989年に共産主義体勢崩壊。その後、スロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェルコビナが独立。残るセルビア(コソボを含む)とモンテネグロは連合国家をつくったが紛争の続く中でいまだ流動的というべきか。とにかく自分の国が存続するのか消滅するのかさえ先が分からないのがこの地域である。オシム氏のボスニア・ヘルツェルコビナ(1992年独立)は人口4百万人ほどの国(福岡県より少ない)。オシム語録には厳しいだけでなくこういうやさしい言葉もある:<誰かを「不要だ」などと言う人間は、いつか自分もそういう立場に陥るようになる。人生とはそういうものだ。>

7月23日(日) <白鵬からアニタ・エクバーグ・・>
今日の大相撲千秋楽で白鵬がこれまで全勝の横綱朝青龍を破った。白鵬の横綱昇進が決まったらこのコラムで取り上げようと思っていたら、白鵬は13勝2敗としたけれども横綱昇進は見送られるという。理由が「横綱に独走を許した」ときくと昇進基準はかなりいい加減のように思える。そこで話題を変える。今場所の大相撲では7日目に露鵬がカメラマンに暴力を振るったとして謹慎処分を受けた。千秋楽あいさつで北の湖理事長が「礼儀作法について指導を徹底する・・」と弁明したと報じられているが、礼儀作法が欠落しているのはカメラマンの方と概ね決まっている。そこで更に・・。無礼かつ無法なカメラマンというとパパラッチ。1997年ダイアナ妃を死亡事故に追いやったパパラッチの影はいまだに記憶に新しい。パパラッチはイタリア映画「甘い生活」(1960年公開、フェリーニ監督)でマルチェロ・マストロヤンニ演ずるところのカメラマンの名前、パパラッツォから由来する。「甘い生活」は私にとっても思い出に残る映画の一つ。ストーリーは覚えていないが、映像が美しく、その当時の言葉でグラマー女優、アニタ・エクバーグの姿態が眩しかった。・・白鵬の横綱が見送られたために懐かしのアニタ・エクバーグまでたどり着いた・・。

7月24日(月) <段ボール・・>
「今日の作品」に「段ボール人形」(工作)を掲載した。作品と呼ぶにはおこがましいが文字通り段ボールで作った人形だ。夏休みで帰省している孫娘(5歳)との合作。スタートは孫娘の宿題で自分の手と足を描く課題があったのを「いいこと考えた」と孫娘が自分の手と足に鉛筆を沿わせて形を画用紙に描いたことから始まる。私はそのアイデイアに感心して、それならばと段ボールに手足の形を取り直して等身大の人形を作ることにした。手足の指の形を切り取ったり糊付するのは孫娘の役割。メインの構造や関節部分のジョイントは私が担当した。写真では手の指が六本に見えるがこれはたまたま食用に使った蟹のハサミを親指に差し込んで遊んだもの。頭の風船の部分にはここでは掲載していない交換用の頭ができている(手作り作品コーナー参照=ここ)。頭部は孫娘なりの注文がうるさかった。ニコニコしている顔と涙を流している顔の二枚の板絵を孫娘が描き、どちらにもチェンジできるように両面テープで顔を自在に貼付けられるようにした。これらは全て段ボール製。私は段ボールを常に身近に持っており陶芸用に使う。ピラミッド(形の陶芸)などの型とすることもあれば粘土の代わりに形を作ってみて検討することもある。段ボール(corrugated paper,cardboard。本来の日本語は段ボードであったらしい)は波形の芯により強度がある割に軽量で実によくできた素材だ。段ボールを改めて見直すこととなった人形作りだった。

7月25日(火) <パソコン検閲・・>
インターネットはもはや生活に欠かせない道具となったが、その仕組みについて深く追求することはない。私たちがインターネットで色々なサイトを訪れるとクッキーによりパソコンの中に勝手に(クッキーを受け付けるという条件の下に)どこのサイトをみたか記憶される(全てのサイトではない)。相手側は利用者分析の名目で訪問者の動向(初めて訪れたのか何度目かであるのかなどの情報)を把握することができる。<クッキー=cookieとは「サーバーコンピュータから利用者のブラウザに送信され、管理・識別するために一時的に蓄積される情報。また、その仕組み」と解説されている> 便利だと思って使っていてもどこで検閲されているか分からない。中国のネット規制が巧妙に行なわれているという記事を見て改めてそのことを思った。中国の場合は私たちの社会とは違うのでcookieごときものではない。中国がネット規制システムを国家のプロジェクトとして推進していることは知られている。グーグルなどでの検索システムで多くの言葉を政治的な検閲対象として制限してきているが、今後インターネットを接続したパソコンのIPアドレスごとに、アクセス履歴を解析しそのユーザーの政治的傾向を分析して接続の可否を判定しようとしているという。全人民のパソコンを国家が検閲を行なおうとする考えも壮大だが、一方で国家によるネット規制に対抗するシステム開発も盛んなようだ。中国は案外にネットシステムの技術が進歩するかも知れない。

7月26日(水) <捨てる勇気・・>
電車の中に「楽しいことがなにもない症候群」という週刊誌の吊り広告があった。記事を読んだ訳ではないが一部の若者にこうした傾向があるのは確かだろう。同じような言い方をすれば「興味のあることがなにもない症候群」、「やりたいことがなにもない症候群」など似たような症状はいくらでもある。ハングリーとは縁がなく、いつも満たされて、与えられて、お膳立てをされて、受け身のみで育ったと仮定すると、これらの症候群になっても不思議ではない。私は若者向けに云われるこれらの症候群が中高年の人にもそのまま当てはまるので苦笑してしまう。定年を迎えた男性や子育てを卒業し子供を独立させた母親などでいえば、先に挙げた症候群に落ち入る人と、真反対の人との二種類に分類されることに気がつく。子離れして存分にやりたいことをやっている女性や会社離れして楽しく過ごす男性が多くいる一方で、やりたいことがなにもない人の話もよく聞くことがある。中高年の場合その差はどこからくるのだろう。やりたいことを楽しくやってきた中高年であれば(それが仕事であれ子育てであれ)これまでのことをいさぎよく”捨てる”ことが次の実行力を生むのでないか。捨てることによりハングリー精神を取り戻せる。豊かな若者と同じような症候群にならぬためには”捨てる勇気”が必要だろう。
「今日の作品」に「どんぶりばち3/裏(陶芸)」を掲載。呉須の上に孫娘(5歳)が模様を描いた。今回は一部に知っている漢字を書かせたら、「水、夏、日、七夕、星、花火、土、雲」と書いた。
 7月29日分
7月27日(木) <東北の雨・・>
「わが雲に関心し 風に関心あるは ただ観景のゆえのみにはあらず そは新なる人の力 はてしなき力の源なればなり」。宮沢賢治はこんな文語詩をも残している。私には東北地方の人には悪人はいないとの変な先入観念があるが、これは岩手・花巻出身の宮沢賢治(1896-1933,37歳で肺炎のため死去)や青森県北津軽出身の太宰治(1909-1948,39歳で自殺)の著作によるところかも知れない。ああ、それなのに今の時代に先の秋田の母親による凶悪事件に続いて岩手でも殺人事件が起きる。豊かな田園はもはや人の心を癒す力はないものか。事件から逃避してまた宮沢賢治の世界に戻ろう。「雨ニモマケズ 風ニモマケズ・・」もそうであるが、宮沢賢治の詩には”雨”が多いことに気がついた。記録的な長梅雨の今年、”雨にも負けず”は言葉の遊びではなく戦いの決意のように響く。「降る雨は降るし 倒れる稲は倒れる たとえ 百分の1しかない蓋然(がいぜん=必然でなくある確率で起こり得ること)が いま眼の前にあらわれて どういう結果になろうとも おれはどこにも逃げられない・・」(宮沢賢治:春と修羅第三集/作品1088)
7月28日(金) <冷暖房機・・>
我が家で20年近く使用した冷暖房機が不安定になったので点検修理を依頼した。不思議なことにクーラーは猛暑の真っ最中に故障する。リレーやスイッチなどを交換して正常になったが、冷暖房機については最近いろいろと再認識したことがある。一つは冷暖房機の運転時間がゼロであっても常時(一台の冷暖房機につき)60Wの電力を消費していること(数値は修理のサービス員から聴取)。冷房も暖房もいらない時期(春や秋)に三台の冷暖房機があれば、24時間、365日間、180Wの電灯をつけっぱなしにしているのと同じと考えると実に勿体ない。この電力は冷暖房機の油を加熱することに使われているのだが、我が家では冷暖房機を使わない中間期には電源のブレーカーを切ることにした。省エネの観点からは最近の冷暖房機は昔と比べてエネルギー消費、COPが随分改善されてきているようだ。COP(=Coefficient Of Performance/成績係数)は、1kwの消費電力に対して何kw相当の冷房能力があるかを表す指標。電熱器ならばその消費電力分がそのまま熱になるのでCOP=1であるが冷暖房機の場合はCOP=3~4、最近は5〜6のものもある。中小型のユニットの方が大型機種よりCOPが優れている傾向があるとなると、大きな部屋に大きなユニットをつけるより小型を二台つける方がランニングコスト(同時にイニシャルコストも)は有利になるようである。こうした新機種の情報を知ると我が家の設備更新をする誘惑にかられるが、”使用しない時の消費電力”のデーターを見ることはできない。

7月29日(土) <最近の言葉から・・>
朝日新聞の天声人語は「最近の言葉から」をよく使う。有名、無名にかかわらず他人の話した言葉を紹介して自分としての意見は述べない。引用しただけで自分も同意見とは言っていないと言い訳はできるが、その言葉を引用するということは基本的に天声人語氏も同感、同意見と解釈するのが当然だろう。今日の天声人語(=ここ)で引用された言葉で執筆者は何を言いたいのか分からず何度か読み直したがまだ分からないところがあった。松本サリン事件の被害者である河野さんの言葉を引用しているのだが、「オーム真理教(アーレフ)に対してまだ社会的偏見があり、アーレフを排除する情勢がある。その偏見をぬぐい去りたい」と天声人語氏は言いたいように思えてならない。河野さんは奥様がサリンの被害者であるのと同時に当初犯人扱いされた警察とマスコミによる一番の被害者であり、常人には分からぬほどの傷を負っているはずだ。天声人語はその言葉を引用して天下に何を主張したかったのか。天声人語のいうことは神の声のごとく有り難がる人がいまだにいるほどに影響力があるコラムのこと、他人の言葉で逃げ場を作らずもっと直接的に意見を述べるべきでないか。
「今日の作品」に 「どんぶりばち3/表(陶芸)」を掲載した。一連の孫娘との共同制作の一つ。

7月30日(日) <ピアノを楽しむ・・>
子供から大学生までのピアノ演奏を聴いた。毎度のことであるが、この演奏会ではプロのピアニストの演奏とは異なる別種の感動を味わう。演奏前に自分でどういう風に弾きたいとかどこが難しかったなどの簡単なコメントが述べられるが、未熟なところはあるにしてもそれぞれに演奏には”やりたい”ことがはっきりしておりピアノを楽しんでいることが分かる。演奏者の気迫と楽しみ方は年齢や巧拙を超えて聴き手に伝わる。大半はプロフェッショナルな演奏家を志す訳ではないだろうが確かに才能豊かな若者(&こども)を目の当たりにしている。この子供や若者たちは将来どのような職業につきどう活躍するのだろうと思いながら、ふとライス国務長官を連想してしまった。コンドリーザ・ライス(1954-,アフリカ系アメリカ人の女性としては初の米国の国務長官)は母親が音楽教師であったので(名前のコンドリーザは音楽用語から、con dolcezza=甘く優しく弾く)15歳の時にはコンサートピアニストになるクラスで学んだ。それが後に国際政治コースに転身し、19歳で政治学士号、20歳で修士号、26歳で博士号を得たという。フランス語、ロシア語、スペイン語も話す才女であるが、もしピアニストの道に進んでいたら現在とは全く違った人生を歩んだことだろう。しかしながら、彼女も本当にピアノを楽しむのはこれからの人生ではないか
。国務長官を引退し、ブッシュ政権とも決別した後、落ち着いた環境のもとで恐らくはピアノを存分に楽しむに違いない。
7月31日(月) <立方体・・>
「凹みのある立方体」(陶芸)を「今日の作品」に掲載した。この立方体、どの面を上下にするかで景色が変わる。用途も花器とか鉢に限らず工夫次第。この作品は実に難産であった。一辺が18cmの立方体で、6面全てが計算された凹みを持っている。凹みの形状を正四角錐にすれば作り易かったが黄金分割の寸法を取り入れて頂点のずれた四角錐にした(上部からみた形状は陶芸コーナー=ここ=参照)。制作順序としては先ず型に合わせて四角錐を二個(上下分)制作する。次に下部の四角錐の稜線に沿って縦方向の板を立ててそれに合わせてもう一方の四角錐を逆向きにして(頂点を合わせるように)合体させる。その過程がスムースに進行せずに板を切ったりつないだり・・。強引に形状を作り上げたが粘土の段階で乾燥すると板の接続部に割れが生じてきた。何とか補修を繰り返して素焼にだしたが、素焼の段階でまた割れた。大きい個所は1-2mm幅の割れであったが陶芸用のセラミックペーストを使って割れを埋め、更に釉薬をかけて本焼にだした。本焼の後にどれだけ割れが入るか見てみようと覚悟を決めて窯出しを待つ。結果は本焼では割れることなく完成した。私は粘土段階での失敗作を安易に捨てることのできない性分だ。それに完璧にできたものが必ずしもいいとは限らない。欠陥を超越したところに味とか風情が現れることは多い。苦労してできあがった今回の立方体は何より愛おしい。
<明日から2ー3日、小旅行にでかけるためコラム休みます>

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