これまでの「今日のコラム」(2007年 1月分)

1月1日(月) <新たな出発・・>
アール(コーギー犬)の散歩で朝7時過ぎに西郷山公園(東京・目黒区)に行くと、100人を超す大勢の人が集まっている。公園の中央に小高い丘があるので「初日の出」を見るために待っているのであった。7時10分頃「初日の出」が見られると拍手が起こった。新しい年の始まり・・。昨日と何も変わらぬ「日の出」であるのに元旦の日の出には特別の意味を感じて、願い事をしたり決意を新たにする。こうした時の流れの中での「区切り」は、これまでのものを捨て去り、新たなものを得る機会であるのだろう。「苟(まことに)日新、日々新、又日新」は私の好きな言葉であるが、これも「汚れを洗い去り心を日々清く」と毎日リフレッシュの教えである。毎日、毎年のリフレッシュは捨てることから新たな出発が始まる。そして捨てるもの、忘れるものは、嫌なこと、敗北、慢心そして栄誉も・・。散歩の帰り道、ビルの谷間からまたまた眩しい陽光を浴びたので、これを「今日の写真」とした。
初日の出・東京・エジプト大使館前
明治神宮/手前の白布は賽銭受

1月2日(火) <日めくりカレンダー・・>
今年、はじめて2種類の「日めくりカレンダー」をスタートさせた。一つは、日めくりの「音読カレンダー」(くもん出版)。もう一つは、日めくり「タングラムカレンダー」である。音読カレンダーは日本の名作文学の冒頭部分やエッセイ、童話などが365日の日めくりカレンダーになっている。毎日一枚を少なくとも2回音読する、それも一回目より二回目の方が早く読むようにする、できれば毎朝朝食の後・・と使用要領。そうすると脳の活性化に効果があるとの能書きである。こちらは脳の活性化など期待はせずに、毎日名作に触れることができるのは悪くないとの思いから、早速実行してみている。昨日は夏目漱石の「我が輩は猫である」、今日は芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の各書き出し部分。繰り返して声をだして読んでみると、二回目には努力せずに読むスピードは速くなるし、意外に気分爽快になることを実感した。「タングラムカレンダー」(米国、Accord Publishing製)の「タングラム」とは昨年の10月28日のコラム(=ここ)で自作のタングラムについて書いたが、正方形を七つに切り分けた図形から色々な形を作って遊ぶパズルである(ネットでの解説=ここ)。タングラムで作る形が365枚準備されていて毎日異なる形を作って板に貼付けて飾るというもの(タングラムの各片が磁石板になっていて鉄の板に張り付く)。こちらの方は、私にとっては易し過ぎるパズルであるけれど、例えば、犬、魚、蝋燭、猫など毎日形を変える模様をインテリアとして見せる面白さはある。とにかくも、”日めくり”は毎日必ず手を使って前の日のものを外し、次の新しいものを目にする楽しみとなりそうだ。

1月3日(水) <ニューイヤーコンサート・・>
「NHKニューイヤー・オペラコンサート」(@NHKホール)に行って、いま帰宅したところ。このコンサートは今日の夕方7時から9時までテレビ(3-チャンネル、教育TV)で生中継された(7日、日曜日午後0時ー2時に衛生ハイビジョンで再放送予定)。テレビで生放送されるコンサートには特別の緊迫感があるが、それ以上に世界中で活躍する日本人のオペラ歌手を一堂に集めたコンサートであったので、音楽を楽しみながらも壮絶な技の対抗戦をみる思いがした。ヴェルデイの「椿姫」、「トラヴァトーレ」、プッチーニの「トウーランドット」、「トスカ」、「蝶々夫人」、モーツアルトの「魔笛」、「フィガロの結婚」などなど曲はオペラの有名どころを全て網羅しながら、歌手は、大リーグで云えばイチロー、松井、松坂らのクラスが同じ土俵で喉を競う。舞台は大晦日の紅白歌合戦と同じ会場であるが、歌合戦とは全く縁がなく日本のマスコミを通してはほとんど名前が知られていない大歌手がオペラを歌う。休憩なしのあっという間の2時間であったが、歌の技量や能力が抜群に優れていても日本では居る場所がない人たちが、国内で技を披露する貴重なひと時であったのかも知れない。
NHKホール/1月3日

1月4日(木) <書初め・・>
「書初め」を「今日の作品」に掲載したが、掲載すべきか否か迷いに迷った。最後は、一つの考えるヒントになるかと思って”おこがましくも”掲載に踏み切った。陶芸や絵画と比べて「書」は作品に対する不満度が大きい。陶芸でも絵画でも勿論自分で満足出来ないところはあるにしても、今はここまでと割り切ることが出来る。書は見慣れた「字」のイメージが強く、また先入観もあるため見る目が厳しい。書き直しがいくらでも出来るので、これが「作品」と言い切れるまでにならない。また「字」は意味がまず脳裏に浮かぶので単純に”模様”として眺めることもできない。そんなこと以前に書の経験が余りにないので思いきりも、勢いも不足しているのかも知れない。模倣の習得もなしに、いきなり創作書など10年早いと云われれば「ごもっとも・・」。けれども、こんな「書初め」から徹底すれば書も面白いかも知れないという「兆し」は感じる事が出来た。今回の「書初め」の字の解説をしておこう。「一心」は「一心不乱」を何枚か書いたが二文字を採用。「自在」も「自由自在」の中の「自在」を書いた。一心不乱に書こうと試みたが自由自在にはいかなかった・・。空だけは碧空。
 
                           西郷山公園・東京/1月4日

1月5日(金) <ヘリコプター・・>
「ヘリコプター」を買った。いささか贅沢な道楽だが新年のお年玉だとエイと買ってしまった。勿論、本物ではなく室内で飛ばすオモチャだ。これが世界最小級、全長15cm、重さ10グラム。10グラムというと1円玉10個分!この重量の中にプロペラ(3個)、モーター、充電器、ギア、スイッチなどが含まれるのだから驚異的である。更に驚くのはその価格。本体の他に赤外線でコントロールするコントローラーがついて何と4千円をきる(定価で5229円)。一昔前なら4万円ときいてもそんなものかと思う内容だ。1.5Vの乾電池6本で充電した後、ヘリコプターの操縦にしばし時間を忘れた。・・このヘリコプターに関連してオモチャ業界を再認識させられる。このヘリのメーカーはCCPという会社だ(NET=ここ)。CCPはCasio Creative Productで前はカシオ全額出資する会社だったが、昨年、バンダイがカシオから全株式を譲り受けて親会社となっている。バンダイはまた今は「バンダイナムコホールデイングスとなって、オモチャのバンダイではなくアミューズメント施設のナムコとグループを組んで幅広い事業を展開している。オモチャ業界もまた世界を相手に激烈な競争を繰り返す業界だ。コンピューター業界や重工業とはひと味違う技術開発も熾烈だろう。こんなヘリコプターを市場に出せるCCP/バンダイならば、ささやかながら更に応援したい気持ちになった。
「今日の作品」に「自然教育園にて(ペンと水彩)」を掲載した。冬の自然教育園(東京・白金/NET=ここ)にいくと派手な色はなく枯れかかった自然ばかり。ここのスケッチをすると頭の中を空っぽにすることができる。

1月6日(土) <ノーイート、ノードリンク・・>
「ノーイート、ノードリンク」。これはパソコン、特にノートパソコンを操作する場合の常識であるそうだ。キーボードの修理に関連してインターネットで調べていると、コーヒーをキーボードにこぼしてしまい対応法を相談した人が、こんな初歩的な常識を守れないとは論外だと叱られていた。ノートパソコンの場合はコーヒーをこぼした時、下手をするとキーボードの損害だけでなく本体も壊れる。パソコンをやりながら飲食するのは危険極まりないと云えばその通りかも知れない。さて、私の場合、見渡すとノートパソコンの直ぐ側にコーヒーカップと湯のみ茶碗がある。それだけならともかく、パソコンと同じ机の上に水彩用の水と、硯箱まで置いてあるぞ・・。先ほどまではノートパソコンの蓋を閉めてはいるが、この机で画用紙に絵を描いていた。別にいい訳をするのではないが、ある程度の危険は承知していても”自己責任”であえて行動することは多い。歩行者の横断歩道で信号が赤であっても車の来ない時に渡るのは”違反”であるが万一事故が起きたら”自己責任”をとる。家庭の中でも転倒して怪我をするとか風呂で死んでしまうことまで”危険”は至る処にある。それにしても、あらゆる危険予知をして生活が縮こまるのもばからしい。コーヒーをこぼした人もキーボードぐらい修理にだせば済むこと。次からはコーヒーをこぼさないように注意してお召し上がりを・・。

1月7日(日) <団塊の世代・・>
「団塊の世代」という言葉が正月から目につく。今年いよいよ団塊の世代が定年を迎えるとのこと。私自身は団塊の世代より6-7年上であるが、以前多種の企業人が交流するパーテイーの席上で、”ヒラセさんも団塊の世代ですか”と聞かれて戸惑った覚えがある。若く見られたのか、甘く見られたのか、世代を話題にするのは難しい。よく知られているように「団塊の世代」は作家、堺屋太一の小説名から世代を代表させる言葉として定着してしまった。太平洋戦争が終わった後、1947,1948,1949年のベビーブームに生まれた世代を「団塊の世代」と呼ぶが、この三年間で約800万人のベビーが生まれた(この第二次世界大戦が終了した時期は世界的にも極端に新生児の人口比が高い)。その直前、終戦の1945年,1946年の出生率は逆に極端に低い(=約70%/統計グラフをみると非常によく分かる=年代の人口グラフ=ここ、また団塊の世代の生存率も読める)。団塊とは本来は鉱物の塊(かたまり)であるノジュール(写真=ここ)から引用されたという。団塊の世代の”かたまり”にも700万種類の生き様があるに違いない。世代論で何でもひとくくりでまとめてしまうのでなく、可能性の詰まった団塊がどんな様相を示すか、700万の第四コーナーからホームストレッチはこれからである。
<「今日の写真」には「姫リンゴを食べるメジロ」を掲載。家の直ぐ側で撮影した>
メジロ/1月7日

1月8日(月) <冷えたる酒・・>
今日は成人の日で休日。正月の行事も一段落して平常の生活リズムに戻りつつある。それにしても毎日がアッという間に過ぎる。やるべきことが錯綜していて余裕がないこともあるが、何か時の流れが速くなったように感じる。毎日の経過に敏感になった理由の一つに、正月2日のコラムに書いたが「日めくりカレンダー」を使い始めたことがあるように思える。これまで私は”日めくり”を一度も使ったことがなかったけれども、今は毎朝、洗面所に掛けてあるカレンダーの前日分を外してその日のものにする。カレンダーには名作文学などの文章が一枚分あり、これを声を出して読むのが日課になっている(今日の文章は、林芙美子「私の二十歳」)。更に居間では毎日その日の「タングラム」を作らなければならない(日めくりの内容は2日コラム=ここ参照)。こうして嫌でも「今日は昨日ではない」と、”時の流れ”を強烈に感じるようになった。・・こんな時に何かゆとりを見つけたくて、好きな俳句を一つ見つけた:「初春や酒器に冷えたる酒も良し(村田脩)」。
西郷山公園の日の出/1月8日

1月9日(火) <バーチャルウオーク・・>
「今日の作品」に前回のスケッチと同じく、自然教育園での風景<「自然教育園にて(2)」(ペンと水彩)>を掲載した。東京・白金にある”自然教育園”は都心では数少ない自然の森の面影を残している場所である。今は国立博物館付属の施設になっているが、大正時代は宮内庁の白金御料地、江戸時代は松平家(高松藩主)の下屋敷であった。更に昔、5百年ほど前には地方の豪族(白金長者)が住んでいたと伝えられ、一部に土塁の跡もみられる。こんな「自然教育園」をインターネットで”バーチャルウオーク”できることを知った。歩く早さも選べるし、前進、後戻り、右向き、左向きをコントロールしながら園内を散歩。時々、うぐいすなど小鳥の鳴き声もする。季節は掲載した絵の冬景色と異なるけれども、絵を描いた場所を特定することもできた。ただし、停止したところで随意に左右を見ることができればいいのに、道を選ぶ曲り道でしか左右に目線を移せないところが不満。それと今現在の季節の中でバーチャルウオークができれば更に興味深くなる。まあ、こうしたことも徐々に改善されていくだろう。バーチャル散歩もたまに見るには面白そうだ。<自然教育園・ Virtual Garden=ここ/Macromedia Flash Playerが必要=ダウンロード可能>


1月10日(水) <ICチップ付き免許証・・>
自動車の運転免許証を更新した。東京では今年の1月4日から「ICチップ付き免許証」になったというので期待して受取ったのだが、何となくスッキリしない。新免許証に特別異存がある訳ではない。見た所では前の免許証との違いは「本籍」の欄が空欄になっているだけ。あらかじめ4桁の数字二組の暗証番号をインプットしてICチップに記憶させておく。その上で免許証をカード読み機に挿入して暗証番号を入れると「本籍」がアウトプットされる。これは「個人情報保護法」にしたがって本籍を本人以外に見えなくしたとのこと。免許証云々の領域ではなく何故「本籍」にそれほどこだわるのかが理解出来ない。氏名、住所、生年月日は見えていても「本籍」を隠して保護をする。調べてみると「個人情報保護法」に関連して<JIS Q15001における義務規程には「思想・信条・宗教・本籍に関する情報の収集禁止」>とあった。JISは法律ではないスタンダードであるが、ここで「本籍」が思想・信条・宗教と同列であるのが驚き!それほどオープンにしたくない本籍であれば本籍の場所を変更してしまえばいいと思うが、できない事情があるのだろうか。そもそも免許証に空欄の本籍の欄を作る意味があるのかも分からない。ICチップを埋め込んで「保護する」本籍とは何だろう。ICチップ付きを「偽変造免許証の作成が極めて困難」と説明もされているが、少なくとも見かけの偽造は従来と同じレベルであろう。ICチップは本籍以外に様々なデーターベースとして活用しなければモッタイナイと思うのだが・・。
1月11日(木) <巧言令色・・>
「巧言令色鮮し仁<こうげんれいしょくすくなしじん>」は、ご存知の通り論語の中でも孔子の人物観を示す言葉として有名である。私は中学生の時にこの言葉を習い、「口先がうまく、うわべを飾る人間はとかく人徳が少ない」とインプットされた。けれども大人になって話術や雄弁であることは極めて重要だし、「馬子にも衣装」で人は外観で判断されることが多いことも知った。それでもまだ心の底には「巧言令色・・」が抜けきらないである。こんなことを書き始めたのは、文章で色々ともっともらしいことを書くことも「少なし仁」の部類、あるいは「少なし成果」でないかと思う”今日”であるからだ。この2-3日はかなり集中して陶芸作りをやったが仕事の充実感とモノのアウトプットは共に「文章」とは別物であるとの思いが強い。このコラムの文章も所詮仕事やモノの成果と比例するものではない。反比例するとは云わないでも”無関係”であろう。私は毎日インターネットで新聞各社のコラムや社説を読むが新聞とは何様なのかと思うような”立派”なことをいう。文章を書く職業の方々もまた「徳」とは無関係なのだろう。私は最近単純な原則を信じるようになった。それは文章を含めて巧言令色は”他人を勇気づける”ものであること。そうするとどんな巧言でも令色でも十分に存在意義がある。
東京・西郷山公園より/1月11日朝

1月12日(金) <賞味期限・・>
ペコちゃんの不二屋が賞味期限を切れた牛乳を使ったシュークリームを出荷したというので袋だたきにあっている。不二家の場合たとえ1日でも賞味期限を過ぎた牛乳を使ったことに対して公式に弁解の余地はないが、私はやや同情的である。というのも私など個人的には賞味期限を過ぎていても平気でいただく。「賞味期限」とは「・・期待されるすべての品質の保持が十分に可能であると認められる期限を示す年月日をいう。ただし、当該期限を超えた場合であっても、これらの品質が保持されていることがあるものとする」。賞味期限は比較的傷み難い食品、スナック菓子、缶詰、牛乳、乳製品などに適応される。一方、弁当やそうざい、生菓子など「製造日を含めておおむね5日以内で品質が急速に劣化する食品」に対しては「消費期限」を表示する。「消費期限」は「・・腐敗、変敗その他の品質の劣化に伴い安全性を欠くこととなるおそれがないと認められる期限を示す年月日をいう」。賞味期限は味や風味が”十分に”保持される目安であるので私が期限切れのものを食べても違いが分からないのは当然かも知れない。賞味期限が1日過ぎた缶詰を捨てる人など全く理解出来ない。もっともワインには賞味期限はないが熟成させれば美味しくなると思って何年も置いておくと熟成タイプでなく私でさえ分かるほど味が悪くなったことはある。不二家で賞味期限を過ぎた牛乳を使うか否か判断する際に、私のような個人の感覚を企業に適応してしまった担当者が哀れである。廃却処分にしても本人には何も損害はないのに”会社のために”使うこととした。そして会社は存亡の危機に落ち入る・・。

<今日の写真は恵比寿ガーデンプレイス内にあるレストラン、ジョエル・ロブション>
1月12日

1月13日(土) <作品更改・・>
「今日の作品」に「書き比べ(続)」を掲載した。前の作品を更新して5日経つと新しい作品に変えなければと自分でプレッシャーをかける。この場合二つの選択肢がある。一つは新作を創り上げること、もう一つは手持ちの掲載していない作品を選ぶこと。今日は時間とも相談して結局以前書いた「MIEUの文字/孫娘名」(二枚)を採用した。実は今日は夕方から「運命」を聴きにコンサートにでかける。後1時間ほどしか時間がないし、少し遠い会場であるので帰りは11時を過ぎるかも知れない。・・ということで、このコラムも作品更改の紹介とした。ベートーベンの「運命」を生オーケストラで聴くのは何十年振りだろうか。「今日のコラム」でなく「明日のコラム」でどんな「運命」の感想が書けるか楽しみだ・・。

1月14日(日) <アマチュア・・>
昨夜は北千住(東京・足立区)の東京芸術センター内天空劇場で音泉室内合奏団の演奏会にいった。北千住は最近東京芸大のキャンパスを誘致するなど芸術文化で再開発を進める地域であるが、天空劇場は1年前に開業した東京芸術センターという高層ビルの21階にある。この天空に近いホールで音泉室内合奏団は気合いの入ったすばらしい演奏を聴かせてくれた。松本交響楽団のメンバーを主体に東京、名古屋、大阪など各地からメンバーが加わるアマチュアの演奏家集団であるが、音楽にプロもアマチュアもないとの思いを強くする一方で、アマチュアだからこその好ましさが目立った。甲子園での高校野球の名勝負は消化試合をこなすプロ野球の試合よりもはるかに大きな感動を呼ぶ。スケートリンクでの浅田真央、金メダルをとった時の荒川静香もアマチュアである。音楽でもアマチュアからプロ以上の感動を受けても何らおかしくはない。演奏を聴きながら突然あることに気がついた。それはメンバーが皆若いこと。平均年齢は恐らく30代。それぞれの仕事でも最も油が乗りきった年代にあり、寸暇を惜しんで合奏団に加わり練習もしたのだろう。皆が一体になって演奏する喜びがステージから溢れ出て観客にも伝わってくる。そこにはベテランプロが慣れた演奏を聴かせるのとは違った若い気迫がこもっていた。「音泉」の演奏会には次の機会にもまた是非いってみたい。

1月15日(月) <粘土・・>
「今日の作品」に「オブジェ<流水装置>(陶芸・粘土状態)」を掲載した。完成作品ではなく製作途中である。いま粘土を乾燥中で、赤茶色に見える外観は黒化粧をしたもの。このまま焼成すると黒色で仕上がるが素焼き後に更に釉薬をかける予定だ。下に敷いた板が40cm四方のサイズであるのでかなりの大作ではある。実のところ昨日出来上がった仕掛けを組み込んだ別の陶芸作品が失敗作と分かった。粘土の微妙な乾燥、収縮についてはまだまだ経験不足だと意気消沈。昨晩は失敗の原因を考えながら寝付けなかった。お茶碗とかお皿などの単純な形と違う”仕掛けもの”は粘土の状態からは完成度を予断できないと思い知らされた。そこで今回の制作途中の粘土を写真に撮って残したくなった。この状態は今しか見ることができない。完成後にどう変わるか比較してみるのも面白いだろう。オブジェの構造は完成時点でまた説明する。とにかくも粘土の状態は一様ではない。1200度を越す温度で焼成するときの粘土の性質の変化もまた単純ではない。そんな基本を失敗から学んでいる。

<今日の写真に恵比寿(東京)の街でみた「夕日」を掲載した。煙突は目黒のゴミ焼却炉のもの>
1月15日

1月16日(火) <MOMA Store・・>
昨日のニュースでニューヨーク近代美術館(通称MOMA=The Museum of Modern Art) に日本製の携帯電話が収納されることとなったと報じられた。MOMAは19世紀後半から現代に至る美術作品を10万点以上収蔵するが、絵画や彫刻だけでなくその時代を代表するグッドデザインの商品をも含んでいることで知られる。MOMAは私も大好きな美術館でニューヨークで時間があれば何度でも通う。天井からヘリコプターが吊るしてあったりオートバイが飾ってあるかと思うと鍋敷きや家電製品なども展示してあるので楽しい。この中に日本の携帯電話が加わる訳だ。MOMAに行った時には付属のMOMA Storeに寄って必ず土産物を買う。MOMAで購入したランチョマットや胡椒挽きなどは今も毎日家庭で愛用している。そんなMOMA Storeの商品を今はインターネットで簡単に買えることを知った。MOMA Online Store Japan(=ここ)を訪れると好きなカタログを見ているようで飽きることがない。けれども今のところ私はネットで購入することはしない。確かにネットは便利であるけれど、たまにニューヨークを訪れた時にMOMAで買い物をする楽しみを失いたくないから・・。

1月17日(水) <1月17日・・>
1月17日、12年前の亥年のこの日、阪神淡路大震災が起きた。東京で直接被害を受けなかった身にもその日の関西地区とやりとりをした強烈な思い出が甦る。12年の歳月幻のごとし・・。「一月十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処で此月を見るのだか!・・いいか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になったらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、・・」。ご存知、尾崎紅葉の「金色夜叉」で間貫一(はざまかんいち)が熱海の海岸で富豪のところに嫁ぐことになった許嫁(いいなずけ)の宮さんに啖呵を切ったのも1月17日であった<これは読む日めくりカレンダー=1月2日コラム参照=で知った>。貫一は金持ちに奪われた許嫁に復讐を誓い自ら金の亡者(金色夜叉)と化し、高利貸しとなる・・。ここまでは大体ストーリーを知っているが、はて最後はどう展開するのだったか。調べてみると、尾崎紅葉(1868-1903)は金色夜叉続編を新聞に連載中に36歳で亡くなった(胃がん)ため未完であるようだ。後世の映画などでは適当に脚色されている。さて、自分が「十年後の今月今夜」の月を見ることができるかどうか、誰も分からない・・。

1月18日(木) <失敗を乗り越える・・>
「今日の作品」に「仕掛け茶碗(陶芸)<修理中の失敗作>」を掲載した。失敗作を「作品」として掲載出来るところがこのHPの気楽なところ。といっても、このような修理はめったにない(?)と思うのであえて掲載とした。この仕掛け茶碗は前に失敗してリベンジとして制作したものであるだけに、また失敗と判明したときにはショックだった(仕掛け茶碗は、あるレベル以上に水を入れるとサイホンの原理で全ての水が抜ける仕掛けを作ったもの/2006-12-22コラム参照=ここ)。掲載した写真は仕掛けの通路の詰まった個所を特定して修理するために陶器用のダイヤモンドヤスリで4カ所切断した状況を示す。最上部(2個の穴が見える)は調査のため初めに切断した個所。ここから穴の貫通を確認して下部の3カ所の閉塞部を突き止めた。結果として再度失敗したのは初めの失敗の原因調査の甘さにある。前には通路部の土を押し固め過ぎたのが閉塞の原因とみてリベンジでは固めなかったのが裏目にでた。今は内部を通した紐の不適と土を固めなかったことが穴閉塞の原因とみる。世の中、何か不都合があると「再発防止に努めます」と頭を下げるが、真の原因調査ができていないと必ずまた再発する。我ながら陶芸でこんな失敗を繰り返したのが悔しい。それにしても素焼き(780度)の状態では確実に貫通していた穴が本焼成(1250度)後に閉塞する可能性はあるにしても何故下部の三カ所に集中したのかよく分からない。私の辞書には「誤りを繰り返さない」はなくて、「失敗を乗り越える」しかないようだ。

1月19日(金) <今日は何の日・・>
「今日は何の日」を検索すると何でも教えてくれる世の中になった。今日は「咸臨丸がアメリカを目指し出帆した日(1860)」。37日をかけて太平洋を横断してアメリカサンフランシスコへ渡った咸臨丸(かんりんまる)には勝海舟や福沢諭吉が乗り込んでいた。奇(く)しくも勝海舟が77歳で世を去った(1899)のもこの日であった(1月21日とする記述もある)。日米修好通商条約の役割を担った咸臨丸から丁度100年後のこの日はまた「日米新安保条約が調印された日(1960)」でもある。こちらの方は私は正に現役の学生であったので安保闘争の記憶が鮮明に残っている。1960年安保の日から次の100年へ、既に半世紀近くを経過しているのだ! さて、今日が誕生日の有名人は諳(そら)んじて云うことができる。画家ではセザンヌ(1839)、作家ではエドガー・アラン・ポー(1809)、森鴎外(1862)、歌手では宇多田ヒカル(1983)、松任谷由実(1954)など。そう、今日は私の誕生日でもある・・。

1月20日(土) <初雪・・>
今日は大寒の土曜日。午前中、テニスをしている最中に粉雪が舞った。東京では初雪になるのだろうか。初雪の定義(気象庁)は「寒候期に入って初めて降る雪。みぞれでもよい(また霧雪、細氷も可)」ということであるようだから、少なくともテニス場では初雪であろう。暖冬と云われるがやはり冬は寒い方が自然であり雪を見るとホッとする。今朝は6時過ぎに犬を連れて暗闇の中を散歩したが手が凍えそうに冷たいのも何かうれしかった。それにしても我が家の小さな池に最近氷が張ったことがない。東京でも時には氷が張り、雪が散らつく・・そんな冬を期待している。初雪の俳句を一つ:「はつ雪が 降るとや腹の 虫がなる(一茶)」<自前解説=一茶が過ごした信濃では食欲の秋10月頃には初雪が降ったのであろう>。
「今日の作品」に「仕掛け茶碗(陶芸)<修理完了品>」を掲載した。 1月18日のコラム(=ここ)に仕掛けの失敗した経緯を書いたが今は修理も完了して茶碗としても仕掛けとしても使用出来る。周囲には白色の象嵌で模様をつけた。

1月21日(日) <リリー・フランキー・・>
リリー・フランキー著「東京タワー」を遅まきながら読んだ。一昔前のベストセラー本「金持ち父さん・・」の内容に辟易した経験からベストセラーには手を出さないと決めていたのだが、今回はこの禁も破ってしまった。リリー・フランキーの前作「おでんくん」の味が悪くなかったので、ベストセラーを長く続ける「東京タワー」にも興味を持ったもの。読了して”今時の本”としては素直で爽やかな感じがよかった。私は著者の母親(この本でいうオカン)の世代であるので若い読者の感想にある”読みながら涙”ほどの感激はない。けれども昨今の身内同士の殺人事件などが頻発する世情に接すると、「東京タワー」でみる何分の1でも親子、家族の思いやりがあれば乾いた索漠たる社会が変わるだろうにと思う。一方でこんなに優しくエライ母親を持った著者のところへ嫁に行く(結婚する)娘さんはさぞかし大変だろうと余計な心配をする。やはり子育てをする若い母親にこのベストセラーを読むことを勧めたい。若者に人気があるというマルチタレントのリリー・フランキーさん(本名中川雅也、1963生まれ)も43歳。もう若者に媚びる歳でもなく、名声を得たこれから真価が問われる。どんな独自性のある仕事を見せてくれるか楽しみにしよう。
1月22日(月) <一分(いちぶん)・・>
今日もまた(前日に続いて)”遅まきながら”と前置きをして映画「武士の一分」を見たことを書こう。妻と映画に行ったのは以前「たそがれ清兵衛」を見て以来かもしれない。云うまでもないが「・・清兵衛」に続いて山田洋次監督、今回は木村拓哉主演、その女房役が壇れい(元宝塚スター)という話題作である。山田洋次監督の映画はいつもながらいい映画を見せてもらったという清涼感を持って劇場をでることができる。こんな単純な「鑑賞者(顧客)満足」が容易でないのは他の映画をみれば直ぐ分かる。タイトルの「一分(いちぶん)」は余り使わない言葉だが国語辞書には「人間の存在として傷つけられてはならない最小限の威厳」(新明解)と非常に明解な解説がある。映画の内容は必ずしも「武士の一分」ではないが私はこのタイトルが好きだ。「一分(いちぶん)」は武士に限らず現代でも生きている人間が誰でも本質的に持っているものと思われる。最近「自分の存在を否定されたため」と夫殺しの理由を供述した妻がいた。人それぞれの一分(いちぶん)を軽く見てはならない・・。

1月23日(火) <こんにゃく・・>
大方の予想を裏切って宮崎県知事選で圧勝した元タレントの東国原(ひがしこくばる)英夫氏(そのまんま東)が今日正式に知事に就任した。この選挙結果を保守が分裂したため「漁父の利」を得たと論評する向きもあるが、7万票の差をそれだけで片付けることはできない。東国原氏が行なうべき急務はいま沈滞している宮崎県を元気にすることだろうが、そうみると県民の選択は大正解でないかとも思えてくるから面白い。地方の活性化というと先ず旭山動物園を思い起こす。この遠い北国の動物園になぜ全国から人が押し寄せるのか。要は知恵を出して如何に魅力あるものを作りだし外と交流するかがポイント。幅広く大勢の知恵を集めるには東国原氏は適任かも知れない。こんな時、たまたま「こんにゃくの中の日本史(武内孝夫著/講談社)」を読んでいると、江戸時代後期の農民で「こんにゃくの神様」と呼ばれた中島藤右江門が粉こんにゃくを発明し水戸藩の財政危機を救った話があった。粉こんにゃくが江戸や他藩に普及する下地として水戸光圀が奨励したと云われる製紙業(=和紙)の流通経路があり、粉こんにゃくという画期的な新商品はタイミングよく時代とマッチしたと云われる。こんにゃくや動物園と同じような時代とマッチした知恵がだせればケチな官製談合など吹き飛んで宮崎は元気になるに違いない。
<今日の写真は靖国神社境内。山種美術館(千代田区三番町)で千住博展を見た後、九段下まで歩き靖国神社に寄ってみた。20-30年前に訪れたはずであるが、ほとんど記憶に残ってなかったのが驚き。>
靖国神社/1月23日

1月24日(水) <21世紀美術・・>
国立新美術館にいった。東京・乃木坂(六本木からも歩ける)に21日にオープンし開館記念展として「20世紀美術探検ーアーテイストたちの三つの冒険物語ー」を開催中である。主目的は黒川紀章設計の建築をみることであったのだが、勿論この展覧会もみた。国立新美術館は仰々しく「国立」の名前をいれてどんな国の美術品を所蔵するのかと思わせるが、実は自分の美術品を持たぬ企画展、公募展専用の美術館(HP=ここ)。オープニングの記念展として20世紀美術を総括したものであるが膨大な展示品を何度も休憩を入れながら見て回る内に大袈裟に云えば「美術の行く末」について考えさせられてしまった。展示されている美術品は何度も見慣れたものばかりで特別に「探検」する内容ではない。20世紀の美術は既に前世紀の歴史の中にある。私が期待したのは20世紀から21世紀美術への道を展望することであったが、私には先が読めない。混沌とした霧の中で現代の美術家たちは何をやろうとしているのだろう。建築やスペースは完備した。実践者がここで展示する中身が前世紀の遺物ではなく今世紀にしか見ることの出来ない冒険物語となることを祈ろう。
国立新美術館/1月24日

1月25日(木) <hope・・>
一週間ほど前の朝、床の中でその日やることを色々と考え巡らせている時に突如何が何でも絵を描きたい衝動が湧き上がった。それも画用紙のサイズはF8(455×380mm)、色はブルーをベースにした抽象画とのご指定だ。その心理状態を分析してみると前の日に身辺の画材を整理してF8サイズの画用紙が余っていることを承知していたのは確かだがブルーを何故思いついたか定かではない。最近抽象画を描く機会は少ないので、この床の中での啓示に乗って時間を捻出して描いたのが、「今日の作品」に掲載した「hope-in-blue(グワッシュ、アクリルなど)」である。久しぶりに乾きの早いアクリル絵の具で描こうとしたが肝心のコバルトブルーがない。それならとコバルトブルーは油絵の具を使った。他にグワッシュを使ったり、テープを使ったりしてやりたい放題。Vの字の白スペースにはヨーロッパの地図をコピーして貼付けてあるが写真ではみえない。さて、この絵のタイトルを付ける段になって迷ってしまった。抽象画のタイトルで「無題」というのがあるが、無題は絵に失礼である気がして無題だけは採用しないと決めた。後は「V7」でも「道しるべ」でも何でもよかったが結局「hope」の字を入れた。昨年の11月に書の先生から与えられた課題が「希望」。その時に書に限らず絵画でも陶芸でもどんな作品に対しても「希望」のタイトルをつけることが出来ることを学んだ。


1月26日(金) <赤字・・>
米フォードが創業以来最大の赤字を計上したとニュースで報じられている。当期赤字127億ドル(約1兆5000億円)ときいても余りに膨大で「ワッシには関係ないことでござる」と片付けたいが、フォード・モーターは「一部幹部らへのボーナス支給を検討している」とニュースが続いたので興味を持った。「幹部らの士気を高め、優秀な社員をつなぎとめる狙い」というから日本とは発想が違う。フォードの赤字額は4万人規模のリストラ関連の費用である特別損失119億ドル(1兆4000億円)が大部分である。庶民感覚としては大きな数字に圧倒されるばかりであるが、フォードの売上高1600億ドル(約19兆円)、それからトヨタは売上高21兆円、経常利益2.1兆円(税引利益1.4兆円)<2006-3月期連結>。こういう数字をみると”士気を高めて”トヨタ並みの業績に回復出来れば直ぐに1兆円の赤字も解消出来るのかとも思う。それにしても「赤字」を他人事としてこんなコメントできるのは気楽の極み。”士気を高める”発想もなく赤字の泥沼に浸かっていた時代を思うと夢のようである。

1月27日(土) <瑣事(さじ)・・>
陶芸教室の新年会から帰って来たところ。ほろ酔い加減であるが別のことを書きたい。「人生を幸福にするためには、日常の瑣事を愛さなければならぬ。雲の光、竹の戦(そよ)ぎ、群雀(むらすずめ)の声、行人(こうじん)の顔、ーあらゆる日常の瑣事の中に無常の甘露味を感じなければならぬ。・・」。これは芥川龍之介「侏儒の言葉」より「瑣事」の文章である(毎日読む日めくりカレンダーより流用)。作者は最後「・・あらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ」と結ぶ。芥川龍之介(1882-1927)はよく知られているように35歳で自殺した(モーツアルト、正岡子規と享年は同じ)。瑣事の出だしの文章の素直さでは収まらないところが天才の悲しさであろうか。「侏儒の言葉」の「瑣事」の次に「神」がある:「あらゆる神の属性中、最も神の為に同情するのは神には自殺の出来ないことである。」(侏儒の言葉=ここ=でみられる)。そして妻や子供を残して35歳で自殺。言葉とは随分に無責任なものである。
<明日小旅行のためコラム休みます>
「今日の写真」はテニスに行く途中、「こどもの城」で撮った。岡本太郎のオブジェがある。
東京・こどもの城にて/1月27日

1月29日(月) <鹿の湯・・>
今日は朝から温泉三昧の贅沢を味わって先ほど東京に戻ってきた。その那須温泉・鹿の湯(栃木県)は約1300年の歴史があると伝えられる由緒ある温泉(HP=ここ)。今朝は那須高原には粉雪が舞い徐々に雪がつもり始めたが、それも周囲に情緒ある雰囲気を醸し出してくれた。鹿の湯には浴槽が6つに分かれており、それぞれ湯の温度が41,42,43,44,46,48度と表示されている。どうしてこれほど細かく温度がコントロールできるか技術的に興味を持った。65度ある源泉を混ぜて温度を調整しているのだが、係のお兄さんが頻繁に温度計で湯温を計測しながら微調整しているのが分かった。一つ一つ湯船を変えながら1ー2度の温度の差を感じたのは初体験。48度の温泉にはさずがに長い時間は入れなかった。例年になく雪が少ないといいながらも車が雪でスリップしないように注意しながら那須をでて東京に帰り着くと乾いた快晴。非日常は次ぎなる日常に大きな力を与えてくれる。
鹿の湯・那須温泉/1月29日

1月30日(火) <納豆・・>
関西テレビ制作の番組で「納豆ダイエット」に関連してデータ捏造が発覚して騒がしい。今日のニュースでは納豆だけではなく「味噌汁でヤセル」、「レタスで快眠」など「納豆」と同類の捏造は常習であったようだ。このテレビ局の捏造はかなり質が悪いが、テレビの生活健康番組はどこも大同小異で真面目にデーターの真実性を吟味するのはバカらしく思える。もっともらしく権威付けする番組もあるが学会の論文ではない。私はいつもテレビの内容はバラエテイー番組の延長と考えている。ある食事を2週間続けるとこう変わりましたというデーターは、その食事を止めて2週間すると元に戻ることを示す。どんなにいい食生活を続けていても今日までしか保障されない。明日から食事が変われば明日以降の身体がつくられる。食物は命のある限り継続するもの。膨大な量と種類が健康に関連するので、”これ一つ”の効果を期待することは出来ない。それにしても「納豆ダイエット」が放送された後、スーパーで納豆が品薄になったことを他人事と思っていたら、我が家で生協を通して注文した「納豆」が”入荷が間に合いませんでした”と詫び状がついてきたのには驚いた。捏造と判明すると今度は納豆が余るのも妙な話。今日は自分で納豆を買ってきて昼食に食べた。勿論ダイエットのためではなく納豆が好きだから・・。

1月31日(水) <最も格差のある国・・>
昨日の国会で民主党の小沢一郎代表が質問の中で、小泉・安倍政権下で日本が「世界で最も格差のある国」になったと述べたが、この件で何も議論にもならずマスコミでも取り上げられないのが不思議である。私は小沢さんともあろう人がこんなことを云うはずはないと一瞬耳を疑った。世界で最も格差の少ない国の格差が広がりつつあると云ったのではなかった。インドの金持ちは日本の金持ちとはスケールが違う大金持ちであるし、インドの貧しい人は日本では信じられないほど貧しい。インドに限らず、いまや中国でもロシアでも同じことが云える。小沢さんはどのようなデータを持って”世界で最も”というのか、また「格差」の定義とは何かを明確にして欲しいと思うのだが、国会では何の質問もない。質疑の前提となる認識のズレが大き過ぎると議論は噛み合ないだろう。アメリカも格差の大きな国であるが、マイクロソフトのビル・ゲイツ氏やグーグルの経営者のような成功例はまだアメリカンドリームがあるという希望となる。色々議論はあるだろうが、私は日本のライブドアや村上ファンドに対するお上(検察)のやり方に日本独特の”格差を許さない意志”=妬みの構造をみる。若い大金持ちが日本に生まれれば社会は変わると思うが、なかなかそうはいかないようだ。
東京・代官山の朝/1月31日

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