これまでの「今日のコラム」(2007年 2月分)

2月1日(木) <レジ袋・・>
レジ袋の有料化が全国的に実施されそうな動きである。レジ袋は日本では年間300億枚消費される。それが一枚5円の有料化で64%、10円では87%の人が買い物袋を持参するという試算があるそうだ。有料化の狙いは余分なゴミを出さない、無駄なエネルギーを使わない、リサイクルの推進などであろうか。リサイクルは大いに結構であるしゴミを減らすことも大賛成。しかしながらレジ袋以外に毎日の食材を包装する”燃えないゴミ”をもっと減らせないものか。発泡スチロールの容器やプラスチックのトレイは時として工作の材料として便利なこともあるが毎食、毎日のゴミの量はレジ袋どころでなく膨大である。我が家ではレジ袋は貴重品で、”恥ずかしながら”親戚や知人からまとめてレジ袋をいただいている(スーパーで買うこともある)。それは毎日2回の犬の散歩の時に”糞とり用”に必需品であるからだ。毎日最低二枚、年間700枚以上消費する訳で犬一頭のゴミもバカにならない。「毎日のゴミ」の観点からいえば新聞がまた膨大な使い捨ての紙をだしている。毎日印刷されて捨てられる新聞紙のゴミはレジ袋どころでない。こちらの無駄対策は新聞をとらないでインターネットでニュースをみることというと余りに手前味噌か・・。

2月2日(金) <アクセサリー・・>
「今日の作品」に「アクセサリー(陶芸+工作)」を掲載した。家の小型電気窯で陶芸作品を焼成するときに余った少量の粘土でアクセサリーの部品を作り、工作で仕上げを行なったもの。今回、陶芸の小物からネックレスまでを作ってみたのは私にとっての初体験。誰のためとか使用方法は何も考えずに”新分野”への挑戦であった。やってみると先ずアクセサリー用の部品が豊富なことには驚くばかり。ビーズや首飾りの接続部品は勿論、各種サイズのダイヤモンド型素材等何でも安価に手に入る。自分でアクセサリーのデザインをすることなど以前は想像もしなかったが、これが実に面白い。先日、那須のアンテイークジュエリー美術館を訪れる機会があったが、ジュエリーデザインでも大昔から人は装飾品に対して信じられないほど細かく忍耐強い作業を厭わなかった。優れた装飾品に接すると量産品でない「作品」には制作者の執念とか怨念が感じられるのは絵画や他の工芸品と同じだと納得した。アクセサリーは付属物でなく作品である。新分野を初めて試みた結果、これまでは縁がなかった女性用のアクセサリー専門店などに飾っていある品物が一つ一つ新鮮に見えるのも楽しい。

2月3日(土) <モスキート音・・>
ニューヨークに住む娘が孫娘に負けたといって大いに悔しがって妻に電話をしてきた。「モスキート音」が聴こえるか否かの勝負である。蚊の羽音と同じ17000HZの高周波を「モスキート音」と呼び、可聴周波数のチェックとして使用する。いまインターネットでこの音を聴くことができるか否かを容易に判定できる。6歳の孫娘には17000HZの音は大きく嫌な音として聴こえるが耳に自信がある娘は聴けなかったという。モスキート音は一般的には20歳を越えると聴こえない。イギリスでは用がないのに店内にたむろす若者を撃退するためにこのモスキート音発生器(=不快な音が10代の若者にのみ伝わる)が商品化されている。また一方で若者専用の携帯着信音にモスキート音を使用して授業中でも教師に聴こえないようにすることまであるようだから今ではモスキート音はかなりポピュラであるようだ。さて、私もモスキート音を体験した・・がモチロン何も聴こえない(英文=ここ=、日本語=ここ=で試せます)。聴こえないことだけを体験してもつまらないので、純音聴力検査(=ここ)をやってみたら、私は12000HZも聴けなかった。8000HZは聴こえるけれど・・。
2月4日(日) <google 名刺・・>
初対面の人と会う時にまずWebのgoogleで相手の名前を検索してその人の情報を得るとか、身近な人の名前を検索して自分の知らない経歴等を調べる人が増えているという。こんな状況の中で米国で「googleで名刺を作るサービス(ビジネス)」があるとの記事をみた。googleにはアドワーズ(=Adwords/造語)と呼ぶ「検索エンジンと連動してWeb広告を掲載するサービス」があるが、これと同じように名前を検索されると名刺のように自分で伝えたい情報をWebに掲載させるシステムである。要は一般検索ではデタラメな情報が配布されることもあるのでWeb上で自らのPRをするということであるようだ。個人情報を極力ださないのが“風習”だと考えていたがWebの世界がどう進化していくのか読めない。ところで、このホームページにはやはり本名は控えている。試しにgoogleで自分の氏名を検索してみると何もでない。以前は写真の公募展入賞者とか考えもしなかった場所に掲載されていたこともあったが、これもWebから消えたようだ。それならば、と名字(やや特殊である)で検索すると、息子や弟の名前はでてきた。それと50年前の資料に思いがけず父の名前をみつけて懐かしかった。個人情報が開示されないのはいいとして、自分のことが何も検索出来ないと逆に寂しい気もするから妙なものである。
2月5日(月) <夢十夜・・>
今日の「読むカレンダー(1月2日コラム=ここ=参照)」は夏目漱石の夢十夜・第五夜であった。1ページ分の文章が日めくりカレンダーになっているので、「こんな夢を見た」と始まって面白い所で終わってしまう。その先を読みたいと思ってWebで調べると「夢十夜」が全て掲載されているサイトがある(=ここ)。全く有難い世の中になったものである。私にとっては「運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから、散歩ながら行って見ると・・」で始まる第六夜は昔読んだ記憶が鮮明だが、他はほとんど覚えがない。Webで改めて今読んでみると結構面白い。第一夜は「静かな声でもう死にます」という女の話。また逢いに来ますから「百年待っていて下さい」。最後は 「”百年はもう来ていたんだな”とこの時始めて気がついた」で終わる。漱石がこの小説を書いたのが1908年。今まさに夢十夜から100年を迎えようとする。100年を経てこの夢十夜が映画化されて丁度いま(2月ー4月)公開されていることも知った(ここ参照)。「ダヴィンチコード」を例に出すまでもなく、名作の小説は名作映画となり難い。映画化に興味はあるが見に行こうかどうか・・、やや腰が引けている。

2月6日(火) <膝痛・・>
「膝痛」のタイトルをつけてしまった。「○○の調子が悪い」という身体の話題は年寄り臭くて好きでない。けれども時には自分が不調であるのも少しは”他人の苦しみ”を理解するためにはいいことだ・・と勝手に言い訳をして話題を続ける。「膝痛」の原因は先の土曜日にテニスで無理をしたためである。丁度、東レパン・パシフィックテニスの準決勝でシャラポアが試合の途中で膝痛のため(?)棄権した頃に私も膝を痛めた。土曜日の夜は痛さで十分に寝られなかった。日曜、月曜と犬の散歩は妻に任せた。今朝はビッコを引きながら犬の散歩にでかけた。いつもの3倍ほどの時間をかけてゆっくりと歩く。横断歩道では年寄りのように信号青の時間をフルに使ってようやく渡りきる。それにしても時間と共にどんどん回復が進むのが実感できる。今晩の犬の散歩では歩く速度は普段の半分ほどまでになった。一方で痛みがとれたと思っていると直ぐにまた激痛がはしるかも知れないのが膝痛だ。今回の「膝痛」には”警告”を感じる所が多い。このところ身体の動きがよく、以前膝を痛めたことも忘れて調子に乗り過ぎていた。膝痛は完治しないと心してプレーせよ。そんな”身の程”をあらためて教えてくれた膝痛再発である。
「今日の作品」に 「アクセサリー2」(陶芸+工作)を掲載した。小物の陶芸でアクセサリーの素材を作ったものだが、こうして工作してみると次の陶芸ではこんな穴も開けておこうと新たなプランが浮かんでくる。

2月7日(水) <脳トレ・・>
「脳トレを やるなら先に 脂肪トレ」というサラリーマン川柳があった。脳のトレーニングが大流行で私もいくつかやったがなかなか継続しない。脳トレも結局食事と同じでないかと思う。栄養満点の食事であってもその効果は今日まで。明日から食事が変わると身体もどう変化するか分からない。百ます計算が脳トレにいいとしても面白くないと続かない。続けるためには生活習慣として楽しめるものに限る。脳トレと意識すると私などは天の邪鬼でやりたくなくなることもある。結局、現在毎日続けているのは、365日文学作品の一部を声をだして読むカレンダーと365日課題が変わる「タングラム」である。この二つは実に面白く、飽きることがない。二つとも毎日のカレンダーと連動しているところもよく出来ている。けれども、私の場合はこうした脳トレはお遊びとして楽しんでいるだけ。本当に脳を使っているなと自覚するのは何と云っても「創作」である。他人のモノマネでなく世の中にないものを考える時に脳は活性化する・・。というより、脳を活性化したいとか健康でありたいとか、その他モロモロの雑念なしに集中出来るときに最も充実感がある。
「脳トレを やるより先に ノートとれ」。
2月8日(木) <広尾散策・・>
昨年末に「恵比寿散策マップ」作りに参加したが、私たちの隣で別のグループが「広尾散策マップ」を担当していた。今日は出来上がった「広尾散策マップ」にしたがって広尾を散策した。広尾は東京の六本木に隣接する街で一般的には外人が多く(駅周辺には港区・渋谷区合わせて10数カ国以上の大使館があるという)洒落たイメージがあるが実は私はほとんど歩いたことがない。今回は地元に詳しい人たちの案内で表通りではなく細い裏道ばかりを通る。昔、土筆(つくし)ケ原と呼ばれた広野原(広尾)には江戸時代の元禄以降武家屋敷ができ、その後、御料地などとなり引き継がれた。御料地は学校や公共施設となったところも多く、現在の広尾は学校と病院それにお寺が目につく。最下部に掲載した写真風景も広尾の典型で、お寺の後ろは聖心女子大学<=久邇宮(くにのみや)家跡>。広尾地区では日赤医療センターも目立つが、今日の散策ではこの方面には行かなかった。昔「いもり川」と呼ばれた小川がいま暗渠となり、その上が狭い道となっている。主にこの道を通って散策していると繁華街にはないゆったりとした時間を感じる。ほとんど出会う人がない中で学校帰りの小学生が地図を持ってうろうろしているおじさん、おばさん達をみて「何をしているの?」と問うた。「社会勉強よ」と誰かが答えたのは正解。初めての道を散策すると色々なことを学ぶ・・。
広尾散策/2月8日

2月9日(金) <不二家とISO・・>
菓子メーカーの不二家が消費期限(当初、賞味期限であったが)を過ぎた食品を使用したとして大問題になり、その後芋づる式に品質に関する”いい加減さ”が発覚した。新聞などでは最近ほとんど取り上げられないが、この不二家が世界に通用する認証ISO9000やISO14000を取得していたので新たな問題が指摘されている。ISOは国際標準化機構でISO9000は品質マネジメントシステム、ISO14000は環境マネジメントシステム。今は各企業は日本国内だけのビジネスでないので品質や環境への対処も国際規格に準じるのが先端である証。国際規格であるから従来の日本的な感覚と違うのが、トップの責任やシステムを明確にすること、顧客満足をメインにすること、それに性悪説であること、であろうか(以前の日本的なところは、現場処理=トップの責任回避、時として儲け主義、性善説=裏切られることがある)。品質に関連してISO9000の認証を取得するのは容易ではなく、現場や品質担当だけではなく経営トップが必死に勉強してシステムを構築しなければならない。そんなISO9000を取得している不二家がいざ問題が発生してみると何と現場任せ、顧客は後回しであることか。これは認証した機関の問題などではなく経営トップの認識の欠落としか云えない。もし途中で経営者が変わったら経営者にISOを徹底的に”教育”しなければIS0システムは死に体となる。幸いに実害は一つもなかったけれども不二家は存亡の危機にある。この不二家の品質問題がどこから情報が発覚したのか私にとっては未だミステリーである。ところでISOの話のついでにもう一言。新聞、テレビ局でISO9000の認証取得しているところはほとんどないようだ。品質システムに関してトップが責任を負う、顧客満足をうたう・・こんな国際感覚からほど遠いのがマスコミ業界であるのか。
2月10日(土) <クオリテイ・・>
昨日のコラムでISOのことを書いたが、一般には「新聞・テレビ」と「品質マネジメントシステムの国際規格」であるISO9000とは結びつかないのでないかと、言葉足らずを反省した。日本語の「品質」は「品物の質」を連想し、モノを作るメーカーの品質管理とか品質保証の意味と考えがちであるが、国際規格でのQUALITY=クオリテイは品物の質に限らず幅広い「質」を意味する。「質」を維持管理するシステムは全ての分野に適応できるので「新聞・テレビ」にISO9000を適応するのは不自然ではない。地方自治体の中にはサービスの質に注目して住民サービス、行政サービスのシステムをISO9000で構築したところもある。また病院が患者を“顧客”とみなしてISO9000で「顧客満足」を達成するシステムを作る場合もある。要はクオリテイを求めるところではどこでもISOという国際規格をモデルとできる。ところで、クオリテイ・オブ・ライフと云われるが、この場合クオリテイシステムで目的とする顧客満足の顧客とは何だろう。本人の周囲あるいは何らかの縁のある人、あるいは本人自身か・・どちらにしても誰を満足させるかの人生観が基本となりそうだ。更にISOから学ぶとすれば、クオリテイの維持には外部監査が必要、つまり第三者の忠告を受けるとみると分かり易い。そして人生のクオリテイは結局本人が全責任を持つことになるのも納得である。それにしてもクオリテイ・オブ・ライフはやはり”規格”にはしたくないですね・・。
「今日の作品」に「輪付きカップ(陶芸)」を掲載した。この形、何度目かの挑戦。下部の輪はフリーで、持った時にチャラチャラ音をさせるところが気にいっている。

 
2月11日(日) <DOG・EN・SAKA・・>
DOG・EN・SAKA・・これは何だろうと一瞬考える。実は東京・渋谷の道玄坂にあるマンホールの蓋に鋳込んである文字。地元の「道玄坂」をデザインしたものである。灯台下暗しで何度も道玄坂を通っているけれども最近までこのマンホールの存在には気がつかなかった。東京都のマンホールの蓋の模様は何種類もあるが、いわばご当地マンホール「DOG・EN・SAKA」は中でも傑作でないかと思う。このデザインがどのような経緯で採用されたか知らないが、都でも区でもない一つの街がこのマンホールのデザイン故に活気さえ感じさせる。インターネットでマンホールを調べてみるとやはり「DOG・EN・SAKA」の写真が掲載されていた(=ここ/東京23区のマンホール)。このサイトで様々なマンホールのデザインをみていると、マンホールの世界もまた実に奥が深い。
「今日の写真」として今朝の日の出風景を掲載。東京は朝から快晴であった。
東京・中目黒公園にて/2月11日


2月1 2日(月 ) <ナンバ走り・・>
「ナンバ走り」を研究している。研究といっても「ナンバ走り」の新書(光文社)を借りて自分で体得しようと試みている最中である。「ナンバ走り」とは日本の古武術の動きであり「左右の手足を同時に出す」走り(歩き)が基本。最近、スポーツ理論でもこの動作の利点が注目されているようだ。「ひねらず」、「うねらず」、「踏ん張らず」が基本で、江戸時代に一日200kmを走った飛脚は「ナンバ走り」であったという。確かに西欧流の走法やウオーキングではひねりや踏ん張りで無理がかかり易いので、筋肉に負担をかけないこの走り(歩き)はよさそうに思える。ところが実際にやってみるとこれが結構難しい。極端に左右の手足を同時にだすのも逆効果であるようで微妙なコツを覚えるのに苦心する。Webでは=ここに=丁寧な説明が
ある(ナンバ走りの語源などは=ここ=)。それにしても明治以降の西洋化で歩き方(走り方)まで身体をひねる西洋流に変革されて、いま再び江戸時代の歩き方や古武術の合理性が見直される。物事の真理は簡単には決めつけることはできない。
2月1 3日(火) <鉄は熱いうちに・・>
「鉄は熱いうちに打て」という諺があるが言葉通りに実感できる人がどれくらいいるのだろう。現代でも刀鍛冶でなくても鉄をハンマーで叩いて(あるいは鍛造プレスで)成形する仕事はあるから、そのような作業をする人はタイミングよく真っ赤に熱した鉄を叩きながら、そんなことは当たり前と思っているかも知れない。私は陶芸の粘土を削る作業を行う度に「鉄」の諺と同じく「物事は何でも出来る時にタイミングよく取り組むべき」と強く実感する。今日も万難を排して半日陶芸の削りの時間を作ったのは”タイミング”を逸すると何倍も手数がかかるか造形不能になるからである。粘土を削る場合、柔らか過ぎても削れない。一方、乾燥し過ぎたところを削ろうとすると割れてしまうので適度に乾いた状態の時に削ることは重要なポイントである。ただし「粘土は乾燥する前に削れ」といっても一般には「鉄」以上にピンとこないだろう。鉄でも粘土でもどちらでもいいが「固まる前」に形を整えるべきは子供の躾、フレッシュマンの教育などに限らない。私の理想としては強固な形を作って老人になるのでなくいつまでも柔らかく、フレキシブルであることだ。一生涯固まらない鉄や粘土であればいくつになっても形を変えられる・・。
東京・目黒川の朝/2月13日

2月1 4日(水) <ゴデイバ・チョコ・・>
一昨日、妻の友人が来宅したときに、お土産にチョコレートをいただいた。チョコが大好きな私のことをよく知っているので特別に選んでくれたのだった。チョコの高級ブランドであるGODIVA。今日のバレンタインまで手をつけずに待って先ほど妻と分け合って有難く頂戴した。「幾山河 励ましチョコで 乗り越えて」(サラリーマン川柳より転用)というほどではないが、チョコ一つで気分が変わるから単純なものだ。バレンタインでなくGODIVAのセットをいただいても自分たちではもったいなくて食べられない。冷蔵庫に保管してお客様専用となる。やはりGODIVAを食べられる
バレンタイン万歳である。この機会にベルギー製の名品GODIVAチョコの歴史をWebで調べた。ゴデイバは11世紀英国の伯爵夫人の名前であるが、そのエピソードが何とも奇妙。伯爵夫人の夫である領主が領民に重税をかけようとしたのを夫人が諌めたところ、重税を免除するかわりに夫人に真っ裸になって馬に乗り街を駆け抜けることを言い渡したという(ひどいサド的変態領主だ)。領民たちはそのことを知り窓を閉ざして彼女を見ないようにして重税は免れた。ベルギーでチョコレート作りを始めた創始者が伯爵夫人の愛と勇気ある逸話に感銘を受けて自分のチョコレートに「ゴデイバ」の名をつけたと説明されている(=ここ=ゴデイバの歴史ホームページ/ロゴマークは馬に乗った裸の貴婦人)。チョコレートの名前にも歴史あり。バレンタインデイに一つ物知りになった。
2月1 5日(木) <見るとは・・>
「見る」とは何だろう。一つの絵画を10人で見たとする「見方」は10通りで皆感じることが異なる。ある人は10秒間みると飽きてしまうだろうし、またある人は1時間みても更に見続けたいかも知れない。「見る」とは少なくとも視力の強弱でなく意識の有無であろう。日常目にする街の風景も「見る」意図を持っていないと実は見ていないようである。このところ朝の犬の散歩や外出の時にデジカメを持ち歩く習慣にしたところ明らかに意識が変わった。このホームページで適宜その日の写真を掲載するために、目にした風景をデジカメで撮影しているのだが、「今日の写真」(最下部に掲載)の場合も、犬の散歩の時にいつもなら見過ごす朝の光りが何か特別に美しく見えた。掲載はしなくても「道端の草花」とか「マンホールの蓋」とか「三叉路」、「工事現場」など撮影した写真は数知れない。もし場所を移動するだけの目的で歩いていれば全て「目につかない」ものばかりである。それでも撮影した対象は私がその瞬間に遭遇した二度とない現実である。変哲のない写真でも一枚一枚が自分にとっての歴史と思って・・「今日の写真」は田楽橋からみた目黒川風景(東京)<鴨の家族が泳いでいる、煙突は目黒焼却場>。
東京・目黒川/2月15日

2月1 6日(金) <他人の力・・>
「今日の作品」に「アクセサリー3(陶芸+工作)」を掲載した。アクセサリーを陶芸で作り始めた経緯は2月2日のコラム(=ここ)に書いたが、これまで家人以外には作品を見せたことがなかった。陶芸部分は家にある小型電気窯を使って焼成したので陶芸教室のメンバーも知らない。教室で助手をしている若い女の子にも意見を聞きたくて”アクセサリー”を作った話をした。まず出た言葉が”ヒラセさんとアクセサリーがどうしても結びつかない”。皆の感想も興味深く聞いた。いつも陶芸では風変わりな作品を作るので期待が大きかったのかも知れないが、三本の棒をまとめた形のネックレス(陶芸コーナー参照)など”他でも見かける”との評。陶芸をやる人たちであるので、次はこんなのがいいとか、こうしたらどうかなど色々意見を言ってくれた。後日、妻の友人達に披露したときも私の陶芸の作風を知っているので、もっと独創的な形状を期待する声が強かった。今日掲載したのも初めて作った試作品の仲間であるので、次回以降はもっと思い切ったデザインに挑戦してみたい。今日書きたかったのは、こんなアクセサリーを作ることになった深層心理である。私自身、女性用のアクセサリーを作ることなど以前には想像もしなかった。アクセサリーとか宝飾の世界に抵抗がなくなったきっかけは、テニスの友人(男)に宝石品のデザイナー兼制作者がいてその作品を見せてもらうチャンスがあったことだと思っている。それにたまたま妻がビーズのネックレス作りなどを始めたので、”やれば出来そうだ”と感触をもった。何事でも同じであろうがわれわれは意識しないで多くの「他人の力」の恩恵を得て日々動いている。アイデイアもまた他人の力が深層に影響している。

2月1 7日(土) <大封鎖・・>
3万人が参加すると云われる初の「東京マラソン」が明日に迫り、マラソンのための大封鎖や規制が心配されているようだ。この話を聞くと私は随分昔ではあるがフランスのツール・ド・フランス(ご存知の自転車レース)のゴールであるパリ・凱旋門の側で大封鎖に遭遇して往生したことを思い出す。娘とチェイルリー公園の中にあるオランジュリー美術館(=モネの睡蓮の絵画で有名)で待ち合わせをした。ところがその日は自転車レースのため地下鉄がチェイルリー公園には停車しない。隣の駅で降りても公園に入ることもできない。チェイルリー公園に続くコンコルド広場から凱旋門へ通じるシャンゼリゼ通りがツール・ド・フランスの輝けるゴールスポットである。お互いに待ち合わせはキャンセルして自転車が猛烈なスピードで通過するのを見学したのもいい思い出になった。このお祭りのためにシャンゼリゼ通りが交通規制されても地下鉄が駅でと止まらなくても誰も文句を云わない。東京マラソンでの大封鎖などお祭りにはつきものと思えばよい。それにしても心配は明日の東京のお天気。できることなら今(17日夜)降り始めた雨を止めてやりたい・・。

2月1 8日(日) <国際比較・・>
「日本の子供は最も孤独・・」。何のことかと思うと先週UNICEF(=United Nations International Children's Emergency Fund/今は緊急援助の意味がなくなり単にChildren's Fund=国連児童基金となった)が発表した「幸福度」に関する調査報告書であるという。 この種の国際比較はたとえ国連の調査であっても内容を余程吟味しないと信頼がおけない。ましてや報道機関は一部を抜粋して見出しをつけるのでますます怪しげになる。信じることはないけれども報道された内容を記してみる:OECD加盟国のうち25カ国について調査。子供意識に関して「孤独に感じる」(29.8%)、「自分が気まずく感じる」(18.1%)と答えた15歳の子供の割合が( )内の値で日本が共にトップだった。また物質的な教育環境面でも日本の子供は平均以下。同じ報告書で「子供の生活」の質に関しては英国が最下位とも報じられている。報告書の原版をみて比較調査の方法までチェックしないと何とも云いようがないが、少なくとも幸福度とか生活の質などの国際比較がそれほど容易にできるとは思えない。こんな調査結果で深刻になることもないが、云えることは「子は親の鏡」。どんなことであっても問題は子供ではなく親である。

2月1 9日(月) <ワンセグ・・>
ワンセグ対応携帯電話など「ワンセグ」の言葉を聞く機会が増えた。自分の理解した範囲でワンセグを書いてみたい(書くことが勉強になります)。「ワンセグとは地上デジタル放送の移動通信機器向けの放送のこと」と解説されるが前段階の知識が必要だ。基本的には放送電波の枠の取り方に関連する。一般のラジオ(AM)は中波を使用することは誰でも知っている。約540-1600KHzの周波数帯を使い約10KHz(min.9)の間隔で放送電波が決められているのがラジオだ。新しい地上デジタル放送の場合はUHF帯域(=Ultra High Frequency,極超短波で300MHzー3GHzの周波数帯/主にテレビ用)の電波が使用されるが、一つの放送チャンネルとしてこの中で6MHzが割り当てられる。この6MHzを13のセグメント(=segment/区分、部分)と呼ぶ単位で分割して放送に使う。その内、携帯受信用(移動体向け)として一つのセグメントが使用され、これが「ワンセグ放送」と呼ばれる。一つのセグメントで280-624kb/s程度のデータ送信ができるのでワンセグ放送でも解像度を適度にすれば大画面でなければ十分の画質を送ることができる。ちなみに、ハイビジョン放送では12セグメントが必要でワンセグの残りを全部使って一チャンネルとなる。また通常画質の放送では4セグメントで済むので一つのチャンネルで3つの異なる番組を放送することもできる。移動しながら携帯機器で高画質の映像をみることができる時代になりそうだが、世界各国での規格方式が異なるため海外に日本の携帯を持って行ってもデジタル放送を見ることはできない。携帯電話でもワンセグ放送でも大きく飛躍するには国際規格でまとまって欲しいが、まだまだ”時”が必要なのだろうか・・。


東京に咲いた河津桜@西郷山公園・目黒区/2月19日

2月20日(火) <消滅させる技術・・>
毎朝、犬の散歩の途中で道沿いの家の解体工事の進み具合を眺めている(最下部に写真掲載)。この家は1年以上前に火事で半焼したのであるが、周囲と合わせて再開発する計画が進展せず、最近になってようやく解体が始まったのである。解体のやり方をみていると50年前と何も変わらない。なかなか進まない解体工事をみながら「解体技術」のことを考えた。あらゆる人工物には寿命がある。用がなくなった時にどうやって解体するか、消滅させるかは非常に大きな問題だ。大型のタンカーは昔のように廃船にして海底に沈めてしまうことなどできないので製造したときと同じ手間をかけて鉄板を切り刻む。画期的なタンカー解体技術ができればノーベル賞級の貢献になると云われる。人工衛星は寿命がきた時には大気圏に突入させ燃え尽きさせることはよく知られている。身近な家電製品、自動車なども”ゴミ処理”が既に社会問題化している。全て「消滅させる技術」がモノツクリ技術に追いつかない結果である。特に建物については”壊れないように”するばかりで解体は頭にも入っていないように見える。米国では古い高層ビルを爆薬を使って解体する方法例があるが(自重を利用)日本の頑丈な建築には適応出来ないだろう。本来、日本の木造建築は建て替えの観点からは非常に合理的と思われるが、今の超高層ビル群は100−200年後一体どうするつもりだろう。高層ビルを含めて建築もまた「消滅させる技術」が大きな課題となるのでないのか。
解体工事@東京/2月20日

2月21日(水) <鷹の爪・・>
自分で料理を作るときチョッピリ習得した手法を他に応用してみたくなることがある。最近の「バカの一つ覚え」は「鷹の爪(=唐辛子/細長い形状からそう呼ばれる)」を使うこと。カレーソースの作り方で「サラダ油と鷹の爪(種をとったもの)を弱火で炒め香りが出て来たらニンニクを加えキツネ色になるまで炒める。これに玉ねぎを入れ・・」とあるところを拝借して豚肉と野菜の炒め物に適応してみると結構美味しく出来上がった。この他、鷹の爪は料理の初心者にとっては何にでも使ってみたくなる魔法の材料。しばらくはピリ辛味が続くかも知れない。唐辛子=鷹の爪は色が美しいので我が家では昨秋箱植えの植物として楽しんだ。調べてみると昔から現代に至るまで俳句に詠まれることも非常に多い。日本ではそれほどに親しい草木であるのだろう。例えばこんな句がある:「うつくしや野分(=台風)の後の唐辛子(蕪村)」、「青くてもあるべきものを唐辛子(芭蕉)」、「花満ちて磯辺いろどる鷹の爪(阿部ひろし)」、私は次の句にも同感だ:「唐三彩思はす彩の唐辛子(滝川あい子)」。
「今日の作品」に 「アクセサリ4(陶芸+工作)」
を掲載 。

2月22日(木) <解剖・・>
遺体科学という学問をやっている大学の先生の本を読んでいると「いま学校の理科の時間に解剖をやらない」という話がでてきた。それは学問としての解剖学にも大きな影響を及ぼしているという。私自身は子供の頃から機械や電気いじりは好きだったが生物は苦手だった。それでも解剖のための自分のメスを持っていたし鮒(ふな)や蛙の解剖は人並みにはやってきた。妻は東京育ちであるがやはり中学で蛙の解剖をしたことをよく覚えている。それが今の小中高では先生が解剖を経験しない世代で子どもに解剖を教えるどころではないという。解剖などを見せると残酷な子どもになるとか、カエルを殺して解剖を教えるのは非道だとか、勘違いの論理がどこからか支配的になってしまった。生物を殺すことを思想信条から反対する人は菜食主義かと思うと、たいてい鶏肉も豚肉も牛肉もそれに卵も魚ももちろん大好きとくる。解剖と動物を愛することは何も矛盾しない。むしろ命の大切さとか人間の食するものの根源を教える意味でも自分の手で解剖することは貴重な体験となるのでないか。食事の前に「(命)いただきます」というように、解剖前には「解剖させていただきます」と感謝の言葉を述べることにして・・。

2月23日(金) <盗用・捏造・・>
毎日コラムを書いているが、私の場合、内容には全くこだわらないので気楽である。その日の出来事と関係のない話題でも、自分の作品の紹介でも何でもあり。その点新聞のコラムニストや記者は多くの読者を意識しなければならないので大変さはいかばかりか。それにしても山梨日々新聞の社説盗用、朝日新聞の記事盗用などプロフェッショナルの盗用事件がこのところ相次いでいる。事件として表面に現れたものに対して水面下には数倍が隠れているだろう・・と思っていると今日のニュースでは毎日新聞の記者が取材データーを第三者に渡して問題を起こして新聞社が謝罪している。新聞社の失態が続くように見えるのは連鎖反応のようなもので報道する側が類似の案件を拾いだしているだけかも知れない。テレビの捏造問題にも連鎖反応が見られた。関西テレビの「あるある大辞典」で納豆のダイエット効果が捏造と報道されるや、テレビ東京の映像捏造が発覚、テレビ朝日の捏造報道を問題にするところまであった。テレビを真剣に見ることはないと思っている私は捏造と聞いても驚かないがテレビに影響される人が多いことに驚く。新聞についても発行部数が多いがゆえの権威がまかり通る。学説は時と共に変わる。歴史でさえ後世の都合で書き換えられる。ましてや、新聞、テレビの内容に真理を求める方が間違っている・・と思うことにしている。
2月24日(土) <小学生が学ぶ教科書・・>
妻が買って来た「アメリカの小学生が学ぶ国語・算数・理科・社会教科書」という本(=What American Elementary School Students Learn in Textbooks=J.M.バーダマン編、<株>ジャパンブック)を拾い読みしていささか愕然とした。ニューヨークに住む孫娘が今年小学校に入るので妻はこの本を娘にプレゼントするつもりであるが、これは確かに日本の文部省検定教科書とかなり違う。目次から抜粋してみる。一年生で宗教(さまざまな信仰)としてユダヤ教、キリスト教、イスラム教が説明されている。ヒンドウー教、仏教、儒教は二年生の教科書。それと二年生では古代ギリシャの神話が目立つ。三年生で四則算(加減乗除)。かけ算、割り算の他に分数もある。四年生では中世イギリスの伝説が多い。五年生ではイリアスとオデユッセイアなど。幾何学では多角形や多面体を教える。円、半径、直径、円の面積、円周の長さもこの学年。六年生でJ.F.ケネデイの大統領就任演説。資本主義と社会主義の項目もある。算数では億までの数、小数、指数、10の累乗など。日本のゆとり教育の愚策はようやく見直されたが、学力低下の後遺症は今も尾を引くのは周知の事実。韓国、中国などに限らず発展途上国が教育に猛烈に力を入れていることもよく知られている。一方で、アメリカをはじめとしていわゆる先進国でも教育が未来を作るとの認識は極めて強いようである。素材としての日本人の優秀性は認めるが、教育の欠陥から素材を駄目にするのは容易。世界と同等の教育を取り戻すのに猶予はない

<明日25日は小旅行のためコラム休みます>

2月26日(月) <南房総・・>
南房総(富浦)で一泊して東京に戻って来た。房総半島(千葉県)は東京からは日帰りコースであるが一泊すると随分贅沢した気分になる。房総半島の最南端、野島崎にもいったが、ここは水平線からの日の出、日の入り両方をみることができるということで有名。ここに野島崎灯台がある。この灯台の梯子を登りながら時代を変えた技術を思った。人工衛星の進歩で富士山の測候所が不要になったのと同じように、GPS(Global Positioning System/全地球測位システム)の発達は船舶に位置を知らせる灯台を歴史遺産としてしまった。いつまでも変わらないのは南房総独特の菜の花の道。久しぶりにポピーの花摘み、それに新鮮な魚料理もうれしかった。・・南房総には東京湾を横断するアクアラインを使うと車で2時間余で行くことができる。それにしても、アクアラインを降りた後、川崎側の道路が大渋滞するのには毎度嫌な思いをする。この渋滞がなければ南房総は東京からもっと身近になるのにと、この一点が残念である。

南房総にて/2月26日
2月27日(火) <いずみ・・>
「今日の作品」に「オブジェクト<いずみ>」(陶芸+工作)を掲載した。このオブジェは今年の初め、1月15日に<流水装置>の名で粘土の状態を「陶芸コーナー」(=ここ)に掲載している。実に粘土で形を作ってから焼き上がるまでに一ヶ月半かかった。全長は40cmの大物であるので十分に乾燥時間をとったのであるが、それでも複雑な形状であるので焼成してみないとどうなるか分からない。結果的には今回の作品はひび割れなどもなく大成功。水槽の一部(カバーの下)にポンプを挿入するスペースを作ったが、収縮・変形を見込んでデザインしたものが計画通りにできあがり見事にポンプが収まった。またポンプの水を上部に導く通路穴を粘土で作ったがこれも焼き上がり後も通路は確保されて予定通り。釉薬の具合も成功の部類で、久々に陶芸での大作で達成感を味わっている。機能としてはあえて噴水を作らずほとんど音のしない「いずみ」ができあがった。初めの<流水装置>では余りに工学的な名前であるので「いずみ」と名付けた。”いずみ”は地中から湧き出る”泉”ではなく”出水”と考えたい。このようなオブジェは一面の写真ではイメージが伝わり難いので陶芸コーナーには3つの写真を入れてみた(=ここ)。工作作品としてはいずみの水で動く「シシオドシ」も作ったが、いまは音のない「いずみ」を眺めて楽しんでいる。

2月28日(水) <一都一道二府四十三県・・>
一都一道二府四十三県で行ったことのないところはどこか。私の場合、北から順に調べてみると全ての都道府県に何らか足跡をつけていることが分かった。それでは宿泊したことのない都道府県はどうか。中学、高校の修学旅行や学生時代のユースホステル泊(懐かしい名前だ!)、勤め人時代の出張宿泊、それに自分で行った旅行など、昔のことを一生懸命に記憶をたどってみた。そうすると和歌山、鳥取、山口、佐賀の4県には宿泊した記憶がない。山口には父の本籍があったのに何故だ・・となるが、泊まったことが思い出せない。次の旅行スケジュールには秋芳洞観光(山口県)と唐津焼探訪(佐賀県)を入れなければならない。日本の国内旅行ではこんなものだが、これが世界となると私が行ったことのある国は実に少ない。現在、国連加盟国数は192カ国。訪れた国以前に国の名前がいくつ云えるだろう(脳トレとしていつか実際にやってみたい)。多くの外国に行くことは最早諦めの境地。自宅に居ながらパソコンで世界を巡ることでも考えよう・・。

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