これまでの「今日のコラム」(2007年 5月分)

5月1日(火)  <執念・・・>
今朝の産經新聞、Web版に湯川秀樹博士の言葉が紹介されていた。ご存知の通り湯川秀樹(1907-1981)は日本で初めてノーベル賞を受章した理論物理学者。1949年にノーベル賞受賞が報道された時の国民の感動は今ならばイチロー、松坂の大活躍に荒川静香の金メダルが重なった以上のものであった。私は当時田舎の学校の小学生であったがこのニュースで物理や科学に憧れを持ったのは確かだ。湯川秀樹の言葉:「一日生きることは一歩進むことでありたい」。全く同感であるが、「ありたい」と思っても容易でないことを実感する毎日でもある。もう一つ新聞記事で紹介されている中に、ノーベル賞の受賞できた理由を聞かれて博士は「執念です」と答えたとある。これは正に最近私が痛感するところと一致する。スポーツで球をキャッチするとき、陶芸や絵画で仕上げをするとき、コラムを毎日更新するとき、執念の存在を意識する。誰でも何かを続けるとき、勝負事で勝ちを求め、芸術で完璧を目指すときは全て「執念」に結びつく。物事がスムースに運ぶ時には執念などいらない。抵抗を乗り越えるときに執念が欲しい。少々の能力の差など執念で打ち消されてしまう。いつまでも持ち続けたいのはやり抜く執念なのかも知れない。
「今日の写真」(下)には東京都庭園美術館(白金)の庭園にある豹を掲載。

5月1日@ 東京都庭園美術館にて
5月2日(水)  <東京は元気・・・>
いま東京は元気にみえる。今日から6日までの5日間、有楽町の国際フォーラムでは「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン 「熱狂の日」音楽祭2007」が開催されている(案内=ここ)。ラ・フォル・ジュルネ(熱狂の日)の名前はフランスの北西部の町ナントで誕生したクラシック音楽祭に由来する。会期中、朝9時から夜11時過ぎまで、国際フォーラムの7つの会場で200以上のコンサートが開催されるというから音楽祭の名に相応しい。”一流の演奏を低価格で”が趣旨とされており無料のイベントやコンサートもある。オープンスペースには各国の屋台が並び自由に座ることの出来る椅子も多く設置されている。国際フォーラムは完成当初の頃と今では利用のされ方が激変したのがうれしい限り。私と妻は音楽会に行くのが目的ではなかったので(当日売の場所も長い行列)ギリシャの屋台で買った肉料理(スブラキ)を食べながら新緑の樹木の下で無料の音楽雰囲気に浸った(下の写真は屋台のある場所)。その後、東京駅方面に歩くと東京駅近辺には以前なかった超高層のビルが次々に建設されている。ものはついでと数日前にオープンしたばかりの「新丸ビル」にも行ってみた。地下4階、地上38階の新丸ビルは7階までは商業ゾーン(店舗数150余)。休日でもないのに大勢の人で混雑していたが確かに個性的な専門店も多く、デパートに行くよりも刺激を受ける。我が家から歩いて行ける距離の場所(中目黒)でも再開発が進行中で45階建の超高層ビルが建設されている。東京はどんどん変わる。元気があるから変わることができる。
5月2日@ 東京国際フォーラム広場

5月3日(木)  <学生野球憲章・・・>
学生野球憲章違反の野球特待生制度を設けていた高等学校が全国で376校あったと日本高野連が発表した。優秀な野球選手に対して授業料の免除など優遇すると高野連は”憲章違反”で罰則を科す。いまどきこのような時代錯誤がなぜまかり通りのか、疑問に思うので少し書いてみたい。高校野球は戦前に朝日新聞が主催していた全国中等学校野球大会を運営するための野球連盟が母体であることは知られている。読売新聞がバックアップする読売巨人軍などプロ野球が盛んになるにつれて高校野球はプロとの差別化を計るため”清く正しいアマチュア”路線を強調する。勿論、新聞社同士の駆け引きやら思惑が交錯する中で新聞の発行部数を増やすことが前提である。長い歴史を経て現在は高校生でも大リーグを視野に入れる時代になった。高野連の憲章にしたがっていると、素質のある選手を世界的な選手に成長させるのでなく、”つぶす”ことになりかねない。憲章が時代と合わなければ改訂するべきである。・・今日のニュースで能楽師(&演出家)の観世栄夫さん(79歳)が運転する自動車が中央道で衝突事故を起こし、同乗していた女性が死亡したという記事があった。原因は定かではないが、79歳になって高速道路で車を運転するものではないと思った。日本高等学校野球連盟の会長 脇村春夫さんは75歳。年齢が規則の改変をさせないこともある。いまの学生野球の憲章(=ここでみられる)に固執して野球が衰退すると周りが迷惑である。連盟のみなさんは全員安倍総理(53歳)より年齢の若い人に権限を委譲すべきでないか。
5月4日(金)  <みどり・・・>
今日はみどりの日。以前の天皇誕生日4月29日が「みどりの日」であったが、この日を「昭和の日」として5月4日が「みどりの日」になった(今年から施行)。法律で定められた祝日の由来はともかく、この季節の新緑は無条件に気持ちがよい。「みどり」に誘われて「色の手帳」(小学館)という本を繙(ひもと)いた。この本は私が大好きな本で、どんな時でもページを開くと心が和む。「色見本と文献例とでつづる色名ガイド」のサブタイトルがあるように色の種類と合わせて色の見本がついている。「緑系の色」を抜粋してみよう(とても全ては記載できない)。いまの自然は「黄緑」にみえるが「鶸(ひわ)色」も似たような色(宮沢賢治<春の修羅>に”ひわいろのやわらかな山のこっちがはだ”)。黄緑系には「若草色」、「萌黄色」、「若緑」、「若葉色」など。少しくすんだ黄色となると「苗色」、「柳色」。暗い黄緑が入ると「草色」、「苔色」(モスグリーン)、「抹茶色」、「うぐいす色」などがある。「緑色」でも松や杉などの色は「常盤色」。・・こうして見ていくと「みどり」といっても”違いが分かる”ためには神経を集中して楽しまなければならない。

5月5日(土)  <こども・・・>
こどもがどのように成長するかの見極めは難しい。見極めなどできないと云った方がいいかも知れない。「栴檀は双葉より芳し」、「三つ子の魂百まで」と云われる天才もいれば、「大器晩成」の人材も数知れない。たまたま「音楽美の探求(音楽之友社)」で「神童と教育パパ」(中川弘一郎著)の項目を読んでいたが、読めば読むほど天才モーツアルトを育てた教育などワンパターンには出来ないと思う。この本ではモーツアルトのパパが「趣味の教育」をしたことが天才を育てた大きい要素だとする。ここでの趣味とは他人に通じる共通性の面、共通感覚をいい、人間の内なる自由な遊びと通じる。前提として「モーツアルトのような天才は教育によってつくられない」とみる。著者がカントの芸術論から引用した言葉:『知能は学問するに必要な能力であるが、生産的知性、創造的知性の全く質の違う能力がある。前者は能才の能力、後者が天才のそれ。能才は教育出来るが天才は教育ではつくられない』。一般論として『音楽的能力を個人的な才能の差と考えるのではなく、社会的、文化的条件との関わりの中でみてゆかなければならない』とする部分にも共感を持った。こどもから大人になって能力を発揮するチャンスに恵まれるか否かは周囲の条件次第、これは音楽に限らずすべての事柄に当てはまるだろう。

5月6日(日)  <一言・・・>
一言で沈んだり、浮き上がったりするから単純なものだ。陶芸教室で今日から新作に取り組んだ。土練りをしているとスタッフがこれは草なぎさんのと云って草なぎ剛(SMAP)の作品の釉がけを見せてくれた。これにも刺激されて自分の作品造り(時計台)に気合いを入れた。形が出来上がったところで今日はここまでかと、しばらく作品をながめていると、スタッフが粘土の形をみて、”日時計にもいいかも”とか”ガラス管を真ん中に通すのも素敵”とかコメントしてくれた。自分では考えもしなかった観点であったのでハッとして、直ぐになるほどと納得した。このような一言で創作意欲は更に倍加する。陶芸に限らず自分以外の視点で触発されることは多い。切磋琢磨という言葉があるが、人は他人によって磨かれるのだろう。昨日のコラムで触れた天才は他人の影響を受けずに創造するかというとそうではない。モーツアルトは幼少の頃から物真似が極めて上手で、マネ遊びに熱中したと記録されている。ピカソが自分とは全く傾向の違う画家ルソーの作品を手元に置いていたのは有名な話だ。異質のものから自分の新しい芽を伸ばすことができると考えると自分以外はすべて教師になる。

5月7日(月)  <藤の花・・・>
藤の花を見に行った。藤といえば「瓶にさす 藤の花ぶさ みじかければ  畳の上に とどかざりけり(子規)」なんて詠われる哀れな藤もあるが、 栃木県足利フラワーパークの藤はそんなものではなかった。むらさき藤、うすべに藤、八重の藤、白藤などいろいろな種類の藤が咲き誇っているうえに、とにかくスケールが大きい。この園の目玉であり、日本一とか世界一とか喧伝される大藤が4カ所(4本)あるが、それぞれの広さがほぼ500畳といわれる。一本の幹からどうしてこんな巨大広がりができるのか、そして長大な藤の花を咲かせられるのか、美しいというより神秘的である。この4本の大藤は足利の別の場所にあったものを10年前に移植したものという。滝の雫のように長く滴り落ちる藤の花をみながら、10年間で10倍の大きさに成長した藤の生命を思うと計り知れない自然の力に感動させられる。「今日の写真(下)」に大藤の写真を掲載したが、いまはフラワーパークのホームページ(=ここの「現在の花状況」)でリアルタイムの花の写真を見ることが出来る。
5月7日@足利フラワーパーク

5月8日(火)  <期待していないと・・・>
期待していないと物事進展する。今日の作品に掲載した「香炉/仏具(陶芸)」もまさか今日出来上がっているとは思ってもいなかった。陶芸教室で今日の予定項目を済ませて帰ろうとすると”炭化ができてますよ”と教えてくれた。炭化焼成は自分専用の容器(20cm×20cm×高さ19cm)を使い、その中に作品と炭、それに貝(赤貝)を入れて蓋をして焼成するもの。そうすると鉄分を含んだ土や釉薬が炭の成分と反応して黒い独特の風合いがでる。貝の成分も釉薬と反応すると渋い光沢をつくりだす。ただし、容器の中の酸素量に対して炭や貝が適量でなければならないとか、作品を置く場所でも炭化の程度が異なるとか、実際に出来上がってみなければどうなるか分からない要素が多い。今回は一つの容器に小物であるが7個の作品(仏具用)を入れて焼成した。今日の作品に掲載したのは、この内の2個である。写真で縦に薄く線が見えるのは白色の象嵌(色のはめ込み)をしたところである。仏具という性格上、仕上がりは地味にして見えない所に手間をかけた。期待していた時期よりも一週間早くできあがり、しかも仕上がりはまずまずでうれしい限り。明日の早朝には猿楽神社にお礼参りにいこうか・・。


5月9日(水)  <ビー玉・・・>
ビー玉の語源を誤解するところであった。先日、テレビ番組でラムネ(炭酸飲料)の話題を取り上げていた。その時の説明では、ラムネ瓶の栓に使われるガラス玉は密封するために高い球の精度が要求され、これをA球とした。これに対して規格外のものはB球と呼ばれ子どものオモチャに転用されたという話であった。私は子どもの頃にはビー球と非常に親しくした年代であるが、ビー玉がそんな語源だとは知らなかった。面白い雑学を一つ会得したと人にも話したりしたが、どうもこれが”ガセネタ”であったようだ。Web上の百科事典であるWikipediaでも別の説明がある(=ここ)。つまり、ビー玉のビーはポルトガル語のガラスの意であるビードロが語源とする方が本命と思える。製造会社の規格名であるB球が子どもの世界のビー玉とされた文献はなく、ビードロ玉の用例はあるそうだ。最近は雑学流行りでテレビで自分の知らない説明をされると、”そーか”とすっかり感心することがあるが、ガセネタも多いのかも知れない。雑学に限らず、健康情報、芸能情報、政治情報、その他もろもろ、所詮、テレビ情報すべてを過信するものではないのだろう。

5月10日(木)  <季節病み・・・>
季節病みのメカニズム(=どういう筋書きで病状が現れるのか)がよく分からない。このところ私に続いて妻も腰痛がぶり返した。私の場合は膝痛や腰痛といってもテニスを続けて出来るほどで大した症状ではない。ただし私も妻も今の季節の変わり目に悪化したと自覚している。季節が体調に影響を及ぼす疑いがあっても絶対的な証拠となるとあやふやだ。人間の体液(血液やリンパ液)はある圧力を持って身体全体を循環しているのだから気候の変動、特に大気圧の影響を受けて流動性が変わることはよく理解できる。大気圧と共に気温が変わると外気に接している筋肉の固さ、柔軟性などに影響があるのも確か。それに睡眠中の身体の動きが季節で変わることも分かる。冬でも夏でも体温が一定である人間でも身体の内部の骨や内蔵、深層筋(大腰筋など)も季節変動に影響されないことはないだろう。「春眠暁を覚えず」と云われるように春に眠くなるメカニズムと「5月病」など季節が精神に及ぼす影響、そして「季節病み」も全ては連結していると思われるのに、”医療”として真剣に研究されていないのでないか。以前、起床後の20-30分ほどだけ腰痛(&膝痛)でまともに歩けない状況になって、病院の整形外科に行ったことがある。整形の先生は症状を聞いて”あなたの程度では病気でありませんね”と一蹴された。時間病み、季節病みは病気にされないので、いつまでも根本原因が解明されず、対策もでてこない・・。

5月11日(金)  <火立(ひたて)・・・>
火立とは仏具でローソク立のことをいう。陶芸で仏具のセットを制作した中で、「今日の作品」には「LED火立」を掲載した。仏壇でローソクを使用する際には火の始末を常に注意しなければならない。地震の多い日本であるので仏壇の側から離れる時には必ずローソクの火を消すべきだ。LEDの火立であれば心配なく長時間灯りをともすことができる。制作の動機はこんな風に真面目である。LEDをローソク代わりにする工作は初めてであり、具体的な製作過程で学ぶ所も多かった。まず、灯りの色と輝きならばLEDよりも最小の白熱電球である「ムギ球」が最適と思われる。ところがムギ球はLEDと比べて電力を消費するので小型の電池では寿命が短い。電球自身の値段はムギ球が安い(63円)が寿命はLEDの方がはるかに長い。そんなことでLEDを使用した(LED=発光ダイオードについては4月2日コラム=ここ、に書いた)。この写真のLEDはオレンジ色。赤色のダイオードよりも落ち着いた雰囲気になる。電池は3Vのボタン電池を使った。工作用のダイオードには3V仕様が多い(ムギ球は1.5V)のでボタン電池を使うとコンパクトになる。白熱電球であるムギ球は電池の+−は関係ないがダーオードはプラスとマイナスを間違えると点灯しない。・・こんな具合に、陶芸と工作を合わせて思う存分創作に集中した「LED火立」である。


5月12日(土)  <セカンドライフ・・・>
セカンドライフが日本に上陸する(?=日本版ができる)というので話題になっている。「セカンドライフ/Second Life)」は米国・サンフランシスコに本社があるLinden Lab社が運営するインターネットによる仮想世界のこと。ネット上に自分の好みの分身(3D映像)を作り仮想世界の中で土地や島を持ち、家や店を買い、事業を展開したり冒険をしたり、また他人との交流を図る。欧米で何百万人もの愛好者がいるこのオンラインゲームの日本版ができる(日本版案内=ここ)。従来のオンラインゲームと異なるのは最終ゴールや目的が定められていないので、ユーザーの工夫次第で無限に発展するし、自由に創造性が発揮出来るというのが運営会社のいうセールスポイントである。実際に仮想世界の内部でアイテム(服や宝飾品などから家、建築まで)を作ったり、売買したり、金銭(特別の通貨)のやり取りも行なわれる。仕組みを見ると確かに面白そうな”ゲーム”になっているが、私は全くやる気がない。麻雀や人生ゲームに飽きた老人がセカンドライフで遊ぶのかと思うと、そうではなく若い人たちがバーチャルを楽しむのだと云う。基本的には豊かで平和な世界の象徴的な遊びなのだろう。私は仮想世界で遊ぶくらいなら、有限な時間を別のことに使いたい。

5月13日(日)  <絵の展覧会・・・>
絵の展覧会にいくといろいろなことを考えさせられる。知人のグループ展で中心の先生が80歳を越す高齢となったため今回グループとしての展覧会は最後になるという。先生の作品も出展されていたが若々しい絵で作品から年齢は分からない。それに絵からは男女の区別もつかないし絵の経験年数も内容とは無関係。メンバーそれぞれの作品が数点づつ展示されているのをみると個性や趣向がはっきりとでるのでとても面白い。つくづく絵画に好き嫌いの好みはあっても善し悪しはないと思う。それに絵画の本質にはプロも素人もない。美術の学校をでていない人を素人と呼ぶなら絵画の歴史を作った素人画家は数限りないし、30年ー40年の年期の入った素人はいくらでもいるだろう。絵画には名前、性別、年齢、経歴、世評など全てを越えて発散する作品の力がある。鑑賞者の受信能力が作品の波長と合致すれば共鳴していつまでも楽しめる。今日のグループ展では個展とは違ったインパクト(衝撃的な刺激)を多く受けた。グループの中でこそ個人が切磋琢磨されて成長することもあるようだ。自分としても絵画の世界をもう一度見直してみたくなった・・。
5月14日(月)  <LED火立・・・>
「LED火立2(陶芸)」を「今日の作品」に掲載した。昨日まで掲載した「LED火立」の別バージョンである。仏具セットの一つであり、「炭化」という特別な焼成をした陶芸であること、またLEDを使用した経緯などは全て前回の火立と同じである(5月11コラム参照=ここ)。ただし今回は「電球色」という色のLEDを使用した。電球色のLEDは前回の橙色のLEDと比べると値段は3倍ほどするのだが、こうして1個だけ点灯すると思ったより地味な感じになる。今回、陶芸の台座をシンプルな形としたのでLEDの部分に笠をつけてアクセントをだした。もちろん笠なしにすることもできる。仏具セットはいずれにしても自分の身の回りで使うのではない。そうかといって使用する人がどう思うかを深く詮索もできないので、自分流に制作して使う人の選択の余地もできるだけ残すように試みた。このところの仏具セットの制作を通して、たとえLEDやボタン電池など工作部品を使ったとしても全体として精神性を持たせようと自然に真剣になることを体感した。他の陶芸制作でも仏様にみられるつもりで取り組むと名品が出来るかも知れない。

5月15日(火)  <世紀の合併が破綻・・・>
世紀の合併が破綻した。1998年、米国の自動車大手クライスラーとドイツのダイムラーベンツとの合併は太平洋をまたぐ世紀の合併ともてはやされた。それが昨日のニュースではダイムラークライスラー社(ドイツ本社)は業績不振の北米クライスラー部門を米投資会社(サーベラス)に売却すると発表。社名も(元のドイツ名)ダイムラーに変更される。クライスラーを買った投資ファンドの会社は云うまでもなく再売却して利益を得るのが目的で、中国をはじめ世界中の自動車メーカーの名前が売却先に取沙汰されている。ダイムラーとクライスラーとの統合から8年余、合併効果を発揮出来ないまま破綻した原因は何だったのだろうか。高級車ベンツのイメージを保つためにクライスラーとの部品の共用化が十分できなかったとか、ダイムラー支配が強力過ぎてクライスラー側の人材が流出したとか云われるが、本当の原因は別にあるかも知れない。少なくとも一緒になって大きくなれば、業績が向上すると単純に考える人はいない。合併の効果をどう算定したのか。現実は何が思惑と外れたのか。それにしても約8900億円(74億ドル)でクライスラーを買い取った投資ファンドはいくらで売り抜けるのだろう。自動車メーカーというモノツクリがマネーゲームの対象とされて、後にどんなモノ(製品)が残されるのか、これからのクライスラーの動向に注目したい。
5月16日(水)  <品質などが確実なものと保証されていること・・・>
「品質などが確実なものと保証されていること」を「○○付き」といいます。さて○○は何でしょうという問題ができなかった。テレビのお遊び番組であるが小学校の国語の問題を引用している。正解は「折紙」。聞けばなるほどと思うが、「折紙」の言葉が直ぐにでない。「お墨付き」も「極め付き」も似てはいるがこの際正解にはならなかった。「折紙」が頭に浮かばない理由の一つは現代「折紙」でイメージする「紙を折っていろいろな形を作ること(遊び)」とのギャップが多いからであろう。「折紙」を辞書で引くと、「目録や公式文書を書くのに用いる二つ折りにした奉書など」、「刀剣、美術品などの鑑定書」(新明解/三省堂)とある。横二つ折りにした奉書は平安時代から使われたと云われるし、鑑定書も江戸時代には折紙が使われた。語源としては確かに「折紙付き」で鶴の折紙を連想してはいけない。それにしても現代は「折紙付きの人物」などの言い方も余り聞かなくなった。どんな製品でも品質保証はきちんと行なわれる時代であるが、保証書は簡単な紙一枚。勿論、折紙は使われない・・。

5月17日(木)  <カンヌ・・・>
「カンヌ国際映画祭が16日夜開幕した」とのニュース。映画祭とは関係ないが”カンヌ”は私たち夫婦にとって知っているような知らないような微妙な場所だ。南フランスをドライブした時に”行き損なった町”がカンヌなのである(ドライブの運転は国際免許を取得していったがほとんどは娘に任せた)。もう11年も前のことになってしまったが、マルセイユ(フランスの南端、地中海に面した町)でレンタカーを借りた。そのまま北へ数10km、40分ほどでエクサンプロバンスに着く。街をひと回りした後、セザンヌが愛したセントビクトワール山の側の田舎道を通り再び南下してコートダジュールを目指した。ところがカンヌの直前まできたところで突然ひどい渋滞。そこでカンヌ行きを止めて高速道路に乗り換えニースまでいった。カンヌーニース間はわずか30数kmの距離であるがニースは全く渋滞なし。結局はニースの海岸沿いのホテルに宿泊した。カンヌは人口は7万人弱の小さな町であるがニースは30数万人の比較的大きな町(ちなみに熱海市の人口が約41万人)。ニースではビーチや市街地、城址などの観光以外にマチス美術館やシャガール美術館にもいった。カンヌへ行き損なったことでニースを楽しむことができたので、”カンヌ”の名を聞くと行ったことはないが懐かしくなる。
「今日の作品」に「花立/仏具(陶芸)」を掲載した。一連の仏具シリーズの続き。これらの仏具はいまはもう他家の仏壇にある。気に入って使用していただくのが制作者としても一番うれしい。


5月18日(金)  <色あせる・・・>
”色あせる”は他人事ではない。昨日コラムで書いた「カンヌ」に関連して10年ほど前のアルバムを開いてみるとカラー写真の色が随分あせているので愕然とした。しかもわずか10年前にはデジカメ写真ではなくフィルムの写真である。時は確実に流れている。「あせる(褪せる)」とは「時間の経過とともに本来備えていた好ましい色合い・つやが日光や熱・湿気などのために失われて見映えがしなくなる」(新明解/三省堂)とある。アルバムの色があせるのは、諦めるしかないかと思いつつ、今日になって自分のホームページがひどく色あせているのに気がついた。具体的には恵比寿・代官山という街の風景を掲載している個所の写真がいかにも古い。こちらの方は10年といわずに3年経つと変わる。レストランの名前が変わり、建物が建替えられ、掲載している写真が一変することも多い。ただし、アルバムの色あせと違うのは、やる気になれば更新出来ることであろう。都会の変貌は悪いことではない。変化するから進化もする。ホームページも同時に変わらなければならないと、今日は恵比寿ガーデンプレース関連の写真をいくつか更新した(例えば=ここ)。それでもまだまだ”色あせた”個所が気になる。若返り法は何についても単純、つまり古いものを除去して新しいものに入れ替える・・。

5月19日(土)  <新たな輝き・・・>
昨日のコラムで”色あせる”ことを書いたが、ある年齢に達した人にとっては”色あせる”とは我が身のことで愉快な話題ではないようだ。そこで今日は別の切り口で「新たな輝き」を考えてみたい。どんなに華々しく咲き誇った花もやがて散るのは自然の摂理。一方で、毎年葉の新陳代謝を繰り返しながら何百年の大木に成長する樹木もある。そんな中で人間がつくったモノで年月を経て物理的な色はあせても決して輝きが衰えないものがある。人間の生命を越えて年月と共に新たな輝きを放つことができるのは何故だろう。例えば、仏像。1300年前に黄金の光りに輝いていた仏像はいまはほとんど色あせている。それでも色ではない迫力で現代でもますます輝きを増す。源氏物語の文章を古いなどとは誰も云わない。文学作品で時代を超えて魅力が続くものは多い。絵画は塗料の劣化と戦いながら何百年を経ても価値は認められる。何にしても「輝き」とは人がある価値観を持って感動し、見出したものである。物理的な色があせていても色だけでない価値を認めた瞬間に新たな輝きを放つ。どんなものに対しても価値を発見する感性を大切にしたい。
5月20日(日)  <五月晴れ・・・>
五月晴れに誘われて朝から自然教育園(東京・白金)にいった。・・というと「五月晴れ」とは5月の晴れを云うのでなく梅雨時の晴れ間を云うのだと指摘されかねない。辞書では「5月のよく晴れた天気」、「陰暦五月(=今の六月)のさみだれの晴れ間」と両方が解説してある(新明解/三省堂)。小春日和(=陰暦十月の頃のよく晴れた暖かい日和)の誤用と違って、今は5月の晴れに使っても間違いだと云って騒ぐことはない。とにかくも雨上がりの晴天につられて9時の開園直後に自然教育園に入ると日曜日でも人はまだ少ない。今日は大きな画用紙を持っていった。気持ちのよい陽光のもと緑がいっぱいの景色を細いペンでスケッチ。今日ほど他人に遠慮せずにスケッチブックを広げて描いたのはめずらしい。描くだけで特別に幸せを感じたひと時だった。スケッチブックを畳んで園内を一周して帰路につく頃、11時の園内ガイドの時間に合わせたのか大勢の人が入口で入場券を買うために並んでいた。自転車で家に着いてから昼食にはまだ時間があるので、ペン画に軽く水彩で色を付けたのが「今日の作品」に掲載した「自然教育園にて(3)」。自然教育園(Web案内=ここ)は65歳以上は無料。新緑の季節にはお勧めだ。

5月21日(月)  <ラナンキュラス・・・>
「ラナンキュラス」という花の名を今日覚えた。花に詳しい人にとってはお馴染みの花であるようだが、私には記憶し難い名前である。花びらが幾重にも重なった花は豪華絢爛。色は赤系、黄色、橙などいろいろな種類がある(Web写真例=ここ)。別名「花キンポウゲ」とも呼ばれる「キンポウゲ科」の植物と知って少し意外な感じを受ける。キンポウゲは花弁が5-6枚の黄や白の小さな草花であるのに、ラナンキュラスの花は薔薇とかダリアに負けず劣らぬ派手さ。けれども、キンポウゲの別名「ウマノアシガタ=馬の足形」が「葉の形が馬の足形(実際には鳥の足形)」に似ているからと解説されて納得がいった。ラナンキュラスの葉もまた鳥の足形か馬の足形か、実に独特の形をしている。今日はこの葉の形の面白さが気に入ってラナンキュラスの花を描いたのである。それも色をつけずに黒ペンで描いた。本来はここで描いた花の絵を掲載するべきところであるが絵画全体の仕上げにもう少し時間をかけてみたいので、今日は名前だけ・・。

5月22日(火)  <東京のソーホー・・・>
代官山の裏道を犬を連れて歩きながら、ふとこの辺りは東京のソーホーになりつつあるのでないかと思った。ニューヨークのソーホー(SoHo=South of Houston Street)はマンハッタンの南部にあり、かつて芸術家の街として知られた。元々は廃業した工場や倉庫などが多く、空き部屋の賃料が安かったのでお金のない芸術家やデザイナーが住み着き、独特のギャラリーや店をオープンして人気となった。今は観光客も多く、ギャラリーなどに代わって高級ブテイックやレストランが増えた。家賃も高騰してしまったので芸術家達は別の地域に移り住むことになったようだ。・・代官山の変容をみると大規模開発ではなく代替わりで息子が自宅を改造して洒落た店を開いたという雰囲気のものが多い。小さいながらにそれぞれ個性のある自分の好みの城を作っている。ニューヨークではソーホーのように、初めは安い家賃につられて若者が独特の街文化をつくり、やがて有名になると地価が上昇して住民は住むことができなくなり、高級な店やアパートだけが残るという現象が各所に起こった。これはGentrification(=高級化現象/gentry=上流階級)と呼ばれて都市社会の変貌をとらえるキーワードとなっている(ジェントリフィケイションについては=ここに詳しい/米国全土、イギリスなどの事例あり)。代官山は今は個性ある小店舗の街であるが、Gentrificationが起こると一番先になくなるのは陶芸教室かも知れない・・。
5月23日(水)  <穴窯・・・>
明日から三日間木更津(千葉県)の久遠窯という窯元(=ここ)で行なわれる「穴窯」に参加する。穴窯は実際に薪を燃やして焼成するので三日間でとても終わらないのだが、私は初めの3日だけ手伝いをして後は交代させてもらう。2年前に同じ場所の登窯と穴窯を使った時にも参加したので今回は2度目の体験である。穴窯は山腹の傾斜地を利用して燃焼室(火と煙の通路)を作り下部に焚き口、最上部に煙をだす口(煙突)をつけるという構造で陶磁器の歴史とともに行なわれている焼成法。穴窯は焼成室が一つであるため限られた数量しか焼成出来ずまた時間もかかるというので、煙の通路の途中に3-4個の燃焼室を設けた「登窯」ができたのが400年ほど前というから穴窯の古さが分かる。いまどき穴窯で焼き物を作るのは贅沢だがうれしいことだ。今回、自分の作品は単純な皿などしか準備していないが、自然の火と灰がどんなニュアンスを作ってくれるか楽しみである。
「今日の作品」には「ラナンキュラス(ペン画&水彩)」を掲載した。ラナンキュラスの花名については一昨日(21日)のコラムに書いた。周囲は使用する予定の額縁を意識して思いきり強く描いてみた。
<明日から2-3日、コラム休みます>

5月26日(土)  <火の力・・・>
木更津(千葉県)の山の中で夕日を見ながら18時まで窯焚き(=穴窯/23日コラム参照)をやり、先ほど東京の家に帰着した。ほんの2時間前まで数分毎に3-4本の薪(赤松)をくべて1230-1240度の温度をコントロールしていたのが夢のように思える。窯場では人は交代してもまだ夜を徹して焚き続けられている。「今日の写真(下部)」に窯の焚き口から見た写真を掲載した。これは数百度の温度であるので中の作品の様子がみえるが、温度が1000度を越すと炎の色も白色に近くなり作品はほとんどみえない。「火の力」に圧倒されながら火を制御する窯焚きは人間の雑念をも燃やし尽くしてくれる。
<穴窯から帰ったばかりだが、明日からまた信州へ小旅行。コラムまた休みます>
5月26日穴窯にて

5月29日(火)  <上高地・・・>
友人の3夫婦でドライブ旅行をした。昨日は上高地、今日は安曇野(各長野県)。先ほど夕刻には東京の家に帰着してこのコラムを書いている。天候に恵まれ、特に昨日の上高地では地元の人も今年(今シーズン)一番の晴天というほどに空が澄んでいた。一日前は黄砂でかすんでいたというからラッキーとしか言いようがない。上高地では大正池からスタートし、雪を冠った北アルプスを間近にみながら梓川沿いを11kmほど歩いた。自動車を規制しているので途中で車を降りてバスかタクシーでないと大正池まで入れないが、それにしても20個所ものトンネルが貫通しているのでこの奥地まで登山の準備もなく到達出来る。今回の旅行で私たちは先人の蓄積のお陰で苦労もぜずに観光を楽しめるのだと強く感じた。トンネルをはじめとする道、高速道路などの整備はもちろんであるが、考えてみると性能の良い自動車もまた先人の開拓の成果である。今は当たり前のようになっている”遺産”に対して時にもっと感謝しなければならない。
5月29日/上高地

5月30日(水)  <龍鳳時代・・・>
龍鳳時代の幕開けだ。大相撲で白鳳が二場所連続の優勝を果たし、今日正式に69人目の横綱となった。朝青龍、白鳳とモンゴル出身の力士が東西の横綱となって相撲が盛り上がれば云うことはない。少し前には曙、武蔵丸のハワイ勢がトップとなって相撲を引っ張った。日本の国技といわれたスポーツが世界に対してオープンであるのは悪くない。国際化することにより相撲というスポーツは新たな意義をもって存続することができる。それにしても今の日本の子どもは相撲をして遊ぶ機会がないのだろう。私は小学生上級、中学初めの頃、毎日のように相撲で遊んだ(50数年前!)。左四つが得意で、喧嘩の取っ組み合いとは別に弟ともよく相撲をした。弟は小さい身体なのに中学で相撲部に入り不思議に思われた。「古きよき時代」という言い方は嫌いであるが(古いのは決してよくはない)、塾の勉強とスポーツクラブで忙しく、自由に遊ぶ時間がない今の子どもには同情するばかりだ。龍鳳時代が華やかになればいずれ日本人の人材も目を覚ます。まず新横綱白鳳に期待しよう!
「今日の作品」に「テイーポットセット(陶芸)」を掲載した。家で持っているフィルター(濾し器)を組み込めるようにサイズを合わせている。いつもながら実用一点張りでは面白くないので、ポットの取手部分で笛がなるようにした。取手の下部に指を差し込んで調整すると笛の音程が変わる。


5月31日(木)  <遊びの博物誌・・・>
アイデイアが枯渇すると「遊びの博物誌」(坂根厳夫著/朝日新聞社)という本を開いてみる。20数年前に購入した本で、これまで何度も熟読しているが改めてページをめくっているうちに新しいヒントを得ることができる。私たちは経験を積み年齢を重ねると何か進歩したような気になるが固定観念が強くなっただけで自由な発想ができなくなってしまうことが多い。それを打ち破るのは子どものような「遊び心」であるようだ。この本の目次を少し記載してみよう:「穴のある彫刻、無限音階、タングラム、エコロジーアート、スパーエッグ、かくし絵、宇宙船の設計図、メタルフォーゼ、からくり人形、折紙の古典、さかさま音楽、不思議な立方体、天のキャンパス・・」。こういう目次が60以上あるからタイトルを見るだけでワクワクしてしまう。例えば最後の「天のキャンパス」には獅子座や双子座といった星座の線の引き方が不自然に思える時に別の形状を連想する事例が紹介されている。星座でさえ決まりきった姿を教養として覚えるのでなく自分で作るという発想が頭を柔らかくしてくれる。さて次の陶芸ではどんな形ができあがるか・・。

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