これまでの「今日のコラム」(2007年 11月分)

11月1日(木)  <かなり強引に「木彫オブジェ」・・・>
かなり強引に「木彫オブジェ」を「今日の作品」として掲載した。このホームページのhandicraftの中のその他homemade作品の項目(=ここ)が丁度一年間改訂されていなかったので、下の"UPDATE"の案内で2006年が最新であるのはいかにも不本意であった。そこで本日、「今日の作品」の掲載と合わせてhomemade作品のページも更新した。実はこの「木彫オブジェ」は99%は約10年ほど前に製作したもの<廃棄することになった樹木をメモリアルとして保存したくて活用>。正確な日付けは分からないが陶芸も始めていない頃、絵画は少し描いていたかも知れないが、ホームページの作品掲載以前に、こんなものを作っていた。先日、陶芸で手作り時計の材料が焼成時に破裂するというトラブルがあったが、これを補修する際に最後の仕上げを「鉄色/赤さび」の塗装をしたところ、なかな面白い風味がでた。この塗料が気に入って、ほとんど目につかない場所に転がっていた木彫オブジェを取り出してきて、頭部に「鉄色/赤さび」を塗布したのがこの「今日の作品」である<残念ながら掲載した写真では”赤さび”がよく見えない>。塗料を塗る前には、鑿(のみ)や彫刻刀、ドリルを使って彫りを追加した。久しぶりに木を削ると陶芸の粘土いじりとはまた異なる楽しさがある。運慶も快慶も、そして円空もこんな快感を味わっていたのだろうと思わせるところが木の削りだ。それにしても私は10年前から実用性のないオブジェが好きだったとみえる。せっかくならば、このオブジェをどこかに飾ってやりたいが、まだ適当な場所が見つからない。

11月2日(金)  <自分の姿が一番みえない・・・>
自分の姿が一番みえないのは、ホームページでも同じことだ。毎日このホームページを更新しているけれども、知人からかなり前の写真のことを話題にされたり、このところ更新されませんねと云われたりする。受信側のパソコンが最新のページに更新されるように設定されているかどうかは分からない。パソコン側ではインターネットのページの内容(キャッシュ)を保存して二度目以降の訪問の際に読み込み速度を極力早くするように工夫されている。そのため「更新しない」との設定もできる。最新版が見られないのは以前は発信側の問題ではなく受信側の設定と片付けたことがあったが、ホームページを作成しているこちらの責任であると気がついた。毎日のニュースを伝えるサイトなども当然最新版がみえるようにすべきは発信側である。そこでニュースサイトのプログラムソースを調べてみたり(ソースを表示とするとプログラムのコードがみられる)、自分のページのプログラムを見直したりして改造に取りかかった。今は簡単なソフトで自分のホームページを作ることができるが、これも「デザイン」の表示を「コード」の表示にするとプログラムの元が表示される。問題はいくつもあるWebのブラウザで対応が異なることである。はじめ"refresh"という命令を使ってページの内容を更新することを試みて、Safariでは成功したと思ったら、Internet Explorerでは巧く行かなかった。結局はページを開く度に古いキャッシュを破棄して新しいデータを読み込む方式でこのページ以下数ページを改訂してみた。表面上は全く何も変わらないけれども、久しぶりにプログラムコードを操作したので結果がどうなるか心配している。こればかりは他人様のパソコンとブラウザの具合でどうなるのか、テストをする訳にはいかない・・。

11月3日(土)  <11月3日は文化の日・・・>
11月3日は文化の日。この日は父の誕生日であったので亡き父を思い出す。少年時代まで”明治”で育った父にとっては文化の日というより明治節あるいは天長節(明治天皇の誕生日)が身にしみ込んでいた。さて、文化の日が定められた1948年の祝日法では「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨としているそうだ。文化とはカルチャーと同じ意味なのだろうか。CultureならばCultivate(耕す、栽培する、修養する)から派生したものとしてニュアンスが理解できるが、「文化」とは分かり難い言葉である。例によって辞書を引いてみた。文化とは「その人間集団の構成員に共通の価値観を反映した物心両面にわたる活動の様式。またそれによって創りだされたもの」(新明解/三省堂)とある。Cultureの訳語として明治以降に造り出された言葉でないかと推測するが確証はとれなかった(文化という元号は江戸時代にあるが意味合いが違う?)。恐らくは江戸時代に薩摩の文化、江戸の文化とは呼ばなかったのでないか。カルチャーという概念や言葉の有無とは関係なしに人間集団はあらゆる場所に”耕地”を持っている。他人の耕地を文化と認めた時はじめて自分の文化にも気がつくのだろう。「文化をすすめる」と云って推進するのが文化でなく、やはり「文化を愛する」のがこの日には相応しい。
「今日の作品」に「織部中皿(陶芸)」を掲載した。前の「織部大皿」とのセットとして制作したもの。


11月4日(日)  <水の不思議・・・>
「水の不思議」を妙なところから思い巡らした。53年振りにプロ野球日本一を達成した(1日)中日の落合監督は元巨人軍監督の川上に続く「名選手名監督」という希な事例。これに関連して、川上が現役を引退して監督に就任する際に禅僧から「選手時代が氷であれば監督は水となるべし」のアドバイスを受けたとの逸話が紹介された。名選手はみな確固とした自分のスタイルを持つ、一方で監督はチームとして大勢の融合を計る。氷と水の喩えは云い得て妙である。飛躍するが、水があるからこの地球で人類、生物が存続できるのは云うまでもない。固体(氷)、液体(水)、気体(水蒸気)を目前に見ることの出来る希有な物質でもある。大気圧下では0℃で氷、100℃で水蒸気となる水は、圧力が0.006気圧、温度が0.01℃となれば氷、水、水蒸気が共存できる点(三重点)が存在する。温度、圧力がそれ以下であると、氷が直接水蒸気になり水は存在できない。一方、臨界点(374℃、220気圧)を越す領域では液体と気体の区別ができない状態となる。とにかくも、水は実に不思議な特性がある。このような水に恵まれた地球は正に奇跡の惑星としか言いようがない。個性の氷、融和の水を比喩とするならば、エネルギーを得て水蒸気になるのは発展・転生に思えてきた。
<明日から2〜3日間紅葉をみるため小旅行。コラム休みます>

11月7日(水)  <秋晴れの下、茶臼岳・・・>
秋晴れの下、茶臼岳(ちゃうすだけ)の稜線を歩いていたのが、今日の昼であったのが夢のように思える。いまは東京に戻りパソコンのキーを叩く。東北自動車道、首都高速など道路の整備と合わせて、性能の良い自動車がなければこんなことは出来ない。改めて便利で快適になった時代に感謝。茶臼岳は栃木県那須町の北西部にある那須連山の主峰。標高1915mの活火山である。当初はこの山に登る計画はなかったけれども、絶好の晴天に誘われて茶臼岳に行くことにした。その前には麓の温泉(鹿の湯)に入ったり、殺生石(=ここ)という溶岩の史跡を見学したり、那須の湯本温泉を楽しんだ。茶臼岳にはロープウェーで8合目付近まで登ることができる。広大な那須のパノラマを比較的容易に満喫出来るのがうれしい。茶臼岳、活火山・・こうした非日常がまた日常を活性化してくれる。
11月7日@茶臼岳

11月8日(木)  <古代文字の書家・・・>
古代文字の書家と親しく話をしたのが今回の旅行(今週はじめの福島ー栃木ドライブ)でのトピックであった。福島県喜多方市に「楽篆工房」(らくてんこうぼう)というギャラリー&店舗がある(=ここ)。ここで楽篆家(らくてんか)と自称される高橋政巳さんに自分の名前をメモして渡すと、即座に3000年前の中国で作られた古代文字で書き、その文字の成り立ち・語源を解説してくれる。漢字は表意文字であるので、古代文字には文字を創作したときの生々しい息吹が感じられる。名前(漢字)の古代文字を見ながら、奥深い成り立ちを知ると心底感動する。それに高橋さんの筆で書く古代文字の筆致がすばらしい。本(「感じる漢字」=これ/私も購入した)によれば高橋さんはニューヨークでも古代文字の書を披露して話題になったようであるが、世界中の人がその魅力に引きつけられる文字芸術だ。妻と私が書いてもらった名前も額に入れて飾ろうかと相談している。喜多方というとラーメンと古い蔵の街として知られるが、機会があれば是非「楽篆工房」で名前を書いていただくことを勧めたい。
「今日の作品」に「線描皿 by コマサ土」(陶芸)を掲載した。毎日の食事に使っていた皿(自分で作った作品)を私が誤って割ってしまったので、同種の皿を作ったもの。陶器は割れ物と改めて思う。


11月9日(金)  <ピラカンサスの赤い実が・・・>
ピラカンサスの赤い実が目立つ季節となった。私は一昔前までは”赤い実”というと、南天(なんてん)か万両、千両しか名前を知らなかったが、ピラカンサスを覚えると近所ではこの木が意外に多く目につく。南天(=難を転じる)や万両・千両は名前から正月などの縁起物とされるのに対して、ピラカンサスの方はお目出度くもない。ギリシャ語の炎(pyro)と刺(とげ=acantha)が語源と云うだけあって、ピラカンサスの炎のような真っ赤な実は過激とも思えるほど多いし、枝には刺がある(写真&説明=ここ)。鳥はピラカンサスの実を好んで食べるように見えるが、実には毒性があり不味いので鳥も少しづつ食べる。結果的に広い範囲に実がばらまかれるようになるという。あまり上品な樹木でないけれど生命力は強い。今日は、こんなピラカンサスを見た後、所用で新宿のデパートまでいった。途中で突如考え続けていた創作アイデイアがいくつも湧き出してくる経験をした。ピラカンサスの赤い実のせいか、デパートのためか、とにかく外界に接したお陰であろう。寺山修司の「書を捨てて街に出よう」の言葉を思い出す。家に閉じこもっていてはならない。これからも”街にでよう”。
11月10日(土)  <凹みのある立方体・・・>
「凹みのある立方体(陶芸)」を「今日の作品」に掲載した。これは昨年、2006年に制作した「凹みのある立方体」(陶芸作品=ここ参照)を鉄赤さび塗装と白色アクリル塗装で補修したものである。この立方体は上下左右が自在でどのように設置してもいいが、稜線のエッジが尖っているので不用意な扱いで一部に欠けが生じていた。今回、ヤスリでエッジを修正し、立方体の六面中、二面を鉄赤サビ塗装、さらに二面を白色のアクリル塗装をした。黒色の二面は焼成そのままを残した。焼き物(陶芸品)は硬度が高い(硬い)こと、高温に耐えること、水洗いが容易なこと、薬品などで侵されないこと、耐久性があることなど、優れた特性があるので食器や花器などに適しているが、オブジェ的に使用するのであれば、焼き物の上に塗装をしても悪くはないだろうというのが私の考えである。ただし、自分で使用したり親しい知人に譲るのであれば塗装をしても問題ないが”陶芸展”に出展できないのが、やや寂しい気はする。「凹みのある立方体」は塗装という化粧によって少なくとも外観は以前より溌剌(はつらつ)としている。早速にエッジの部分にコアラが抱きつき、クリスマススタイルの人形が乗っかった。これまでは家の外に置かれて冷遇されていた「凹みのある 立方体」がクリスマスに向って元気になったのがうれしい。


11月11日(日)  <今日は315日目・・・>
今日は315日目。今年の初めから数えた日にちである。年頭のコラムでも書いたが、今年の元旦から「音読カレンダー(日めくり)」<くもん出版>をスタートさせて毎朝洗面時にカレンダーの文章を音読することを続けている(できるだけ早く読む訓練をする)。このカレンダーに今日は第315日と記載がある訳だ。毎日なんらか作家の文章を読んでいると、自分の好みがあるのが分かる。必ずしも読み易い文章だけが好きな訳ではないが、文章家にも色々なスタイルがあるので面白い。この一週間ほどの作家を並べてみると、今日は岩野泡鳴、さかのぼって、夏目漱石、樋口一葉、幸田露伴、島崎藤村、太宰治、田村俊子、宮沢賢治・・と続く。この中では幸田露伴の「些細なことで重大な事」という文章が好きだった。カレンダーでは途中で終わっているので先を読みたいと思って、インターネットで調べると直ぐに読む事ができた(=ここ)。大正15年に露伴が書いた「重大な事」は「物を愛する、この心がけが最も重大・・」と結んでいる。宮沢賢治も毎回読み易くしかも楽しめる。今回は名作である「注文の多い料理店」の書き出し部分がカレンダーにあった。これも先を読みたくなってネットで検索して最後まで読んだ(=ここ)。それにしても、著作権は切れているのかも知れないが、即座に名作を読む事ができるのは本当に有難い。
11月12日(月)  <今日という日・・・>
今日という日は二度と来ないのに、コラムで自分の今日の一日を書こうとすると話題がないものである。夕方から親戚での会食、お酒が入って帰宅したところ。今11時に眠気と戦いながらキーボードに向っている。今日、目にした事でも書いてみよう・・。先ずは今朝の7時前に犬の散歩時に見た富士の姿。東京から今時富士山が見える事だけで感動する。次に、インターネットで新聞各社のコラムを見ようとしたとき「新聞休刊日」のため更新はありませんとの文言。今でも新聞社はまだ新聞休刊日などという時代錯誤の業界協定を続けている。自分のやった事では、久々に各種アイデイアを盛り込んだ陶芸設計図。設計図ができると少しでも早く現物を作ってみたくなるが、今日は手が出なかった。陶芸教室では製作中のオブジェ(?)を何度も見直した。この時、頭を横にしたり、ひっくり返すと(つまり頭を逆さまにすると)、今までにない新鮮な見方ができることを発見した。これは天橋立・股のぞきの原理だ。目にしたニュースは、・・モスバーガーが中間決算で赤字転落。そう云えば我が家の近所にあったモスバーガーの店も最近ラーメン屋さんに変わってしまった。・・こんな調子で今日という日が終わろうとしている。とにかくも睡眠をとろう・・。
11月13日(火)  <草月いけばな展・・・>
「草月いけばな展」いった(@東京・日本橋高島屋、本日まで)。招待券をいただいたので最終日の今日行ってみたのだが、思っていた以上に面白く、創作中枢が大いに刺激を受けたような気がする。草月流生け花と云うと、私は創始者の勅使河原蒼風(1900-1979)の時代のことしか知らなかった。草月流の第二代家元は蒼風の長女、霞(1932-1980)が継いだが、47歳という若さで死去。その後、東京芸大の油彩画専攻で、映画監督として署名であった蒼風の長男、宏(1927-2001)が第三代家元を継承した。今の第四代家元は宏の長女、勅使河原茜(1960-)である。こうした草月流の歴史も今回理解したが、何より形式にとらわれない前衛的創造の華道が今も元気よく引き継がれているのに驚いた。現代の草月流華道は蒼風の時代以上に自由な発想に満ちていて、何でもありである。私の好みから言えば、ピーマンの中心に赤い唐辛子を差し込んで加工したり、松ぼっくりや木の枝に塗料を塗りたくるよりも、自然の素材を活かした造形が好きであるが、どれもが新しい何かに挑戦しようとする姿勢は分かる。創始者の蒼風は「・・そこに石があったら石、もしくは土があったら、土を活ける・・」と云った。勅使河原宏の言葉:「
いけばなというものを固定したものに考えない。どんどん流動していくものである。いけばなにかたちを与えてはいけない。いけばなはその時代時代にかたちを新たに持つものである」。ここでの”いけばな”という言葉は他の全てに置き換えてみることができる。勇気ある挑戦者に接すると、こちらにも勇気が伝搬するようで心地よい。
11月14日(水)  <フェルメールに会いに・・・>
フェルメールに会いに国立新美術館(東京・六本木)に行った。正確に云うと、今、国立新美術館で開催されている「フェルメール<牛乳を注ぐ女>とオランダ風俗画展」(12/17まで)に行って、”牛乳を注ぐ女”の絵と再会を果たしたのである。この展覧会はオランダ・アムステルダム国立美術館のコレクションから17世紀初め〜19世紀末までのオランダ風俗画を選んだものであるが、目玉はフェルメールの一枚の絵である。フェルメール(1632-1675)は私にとって特別な思い入れがある。フェルメールは生涯、オランダ・デルフトの街を一歩も出た事がないという画家であるが、珠玉の名画をこの世に残した。確認されている絵画の数はわずか35点、そのどれもが絵画を所有する世界中の美術館の宝物である。このホームページのリンクページ(=ここ)に書いているように、1996年にオランダ・ハーグにあるマウリッツハウス美術館でフェルメールの全作品35点中、23点が集められて「フェルメール展」が行われた。私は妻とその展覧会を見に行ったのが忘れ得ぬ思い出だ(勤続30年で特別休暇を得て旅行した)。フェルメールの全作品の一覧写真(&解説)は私のホームページのリンク(=ここ)でみることができるが、当時みた絵画の全てをまだはっきりと覚えている。勿論”牛乳を注ぐ女”もその時に見た。あらためて今日、東京の混雑する美術館で再会。この10年間で絵画を見る目も変わったが、長い間見ていても次々と新しい発見があり飽きることがなかった。

11月15日(木)  <美とは何か・・・>
美とは何か・・、最近こんなことを考える。先日、日本橋高島屋で草月流華道の自由闊達な展覧会を見た帰りに、京橋(地下鉄で日本橋の隣)にあるINAXギャラリーで開催されている「石はきれい、石は不思議展」(=ここ、11/24まで)をみた。津軽の海岸で拾って来た石(拳ていどの大きさの石)をそのまま展示してあるのだが、そこには確かに自然の石の美があった。草月流の加工した美を見た後であったので、自然の美が一層際立って見えた。・・美意識には個人差がある。美は発見であり、ある人が発見した美に同調するケースも多い。ゴッホの絵画は生前一枚も売れなかったが死後年数を経てゴッホの美を認める人がいて、世界中の人に影響を与えるまでになった。明治の何でも西洋化の時代に日本の伝統美を発見したのはブルーノ・タウトら外国人であった。日用品の中に「用の美」を見出したのは柳宗悦らの民芸運動。最近は道路のマンホールなどに美をみることもある。美を人間はいかに感知するのだろうか。犬や猫など動物は心地よさを感知はするが美を発見することなない。人間は美を感じるだけでなく、個人の異なる美意識に基づく作品に順序をつけることまでやってのける。こうなると美の本質でなく人間社会での権威発露といった心理学の問題かも知れない。人間だけの特性である「美を感じる能」の仕組を知りたいものだ。

11月16日(金)  <科学技術と国家・・・>
「科学技術と国家」という仰々しいタイトルのシンポジウムを聴講した(@有楽町朝日ホール/主催朝日新聞/朝日新聞科学部創設50周年記念)。立花隆氏(評論家)の基調講演は日本の科学技術の未来を見据えて問題点を網羅していたし、衆議院議員の猪口邦子さんや私の知人などパネリストの皆さんの話は面白く、共感出来るところも多かった。けれども、少子高齢化の影響で遠からず科学技術に従事する実践者が現在の3分の1に激減することへの危機意識が少ないと云いながら、主催者である新聞が負うべき責任について言及がされなかったのは少々不満。朝日新聞にはまだ科学部があったことを今回の講演で知ったが、新聞の科学記事は低調であるし、今の子ども達に科学技術やモノツクリへ関心を持たせるような紙面を作っているとはとても思えない。科学技術に限らないが、国民の考え方、土壌づくりに果たす新聞の役割は多いのに、国や組織の不備を批判することに忙しくて自分のやることには触れない。朝日新聞が本当に国家、公益のことを考えるなら、科学部にもっともっと紙面を使用させるべきでないか。次回は「科学技術における朝日新聞の役割」というタイトルで社内シンポジウムを開催して欲しい・・。
11月17日(土)  <国宝「鳥獣人物戯画絵巻」・・・>
国宝「鳥獣人物戯画絵巻」のことを書こう。一般には「鳥獣戯画」と呼ばれて教科書でも親しんだ絵巻だが、先日私は”本物”を初めてみた。今、東京ミッドタウンにオープンしたサントリー美術館・開館記念特別展で鳥獣戯画の全貌が紹介されている(12/16まで、案内=ここ、水〜土は20時まで開館しているので便利/ついでにミッドタウンのイルミネーションを楽しめる)。まず、国宝の鳥獣戯画絵巻、甲・乙・丙・丁の全四巻を通して見ることができる。蛙と兎が相撲をしている絵などは12世紀・平安時代に描かれた甲。13世紀・鎌倉時代に制作されたとされる丁巻は人間だけが描かれている。こういう戯画の構成も知らなかった。興味深いのは、多くの鳥獣戯画の「模本」も同時に展示されているところ。鳥獣戯画が描かれた後、数百年にわたり如何に多くの人に影響を与え模写されたことか。17世紀(江戸時代)に狩野探幽が模写したものを含めて多くの模本を見た後に、再度オリジナルの絵巻を見直してみた。そこで改めて一番初めに描かれた甲巻のすばらしさに感動した。兎、蛙、猿を中心にした動物たちが繰り広げる仕草や表情の生き生きしていること、筆致の伸びやかで迷いのないこと。どんな名人の描く模本も原絵巻にはかなわない。それにしても900年も前にこのような絵巻を描いた歴史を持つ国民は幸せである。現代、世界に発信している日本製アニメや漫画は間違いなく鳥獣戯画のDNAを引き継いでいる。
11月18日(日)  <今日はミッキーマウスの誕生日・・・>
今日はミッキーマウスの誕生日だそうだ。来年の干支(えと)はネズミ。そろそろ子年の年賀状を考える時期なので、ネズミの図案の一つとしてミッキーマウスを調べていると、ミッキーマウスは1928年11月18日の日曜日にニューヨークで生まれたとある。何が誕生日なのか? ミッキーマウスの初のヒット作品となったアニメ映画「蒸気船ウィリー」が公開されたのがこの日。ウォルト・ディズニーがこの映画を配給したのは実はミッキーマウスの第三作目で、第一作、第二作は(どちらもサイレントムービー)は全く評判にならなかった。それをトーキー付きの第三作で成功したというから、ミッキーも世に出るまでには苦労をしている。その後、80年近くを経て日本でもディズニーランドのミッキーが大人気であるのは考えてみると驚異的なことだ。それにしても今回賀状に組み込もうとすると案外にミッキーマウスの適当な図案がみつからない。所詮、ミッキーマウスを日本の干支に当てはめるのは無理があるのか・・、賀状のネズミはまだまだ決まりそうもない。
11月19日(月)  <木枯らし木枯らし寒い道・・・>
”木枯らし木枯らし 寒い道 たき火だたき火だ 落ち葉たき あたろうかあたろうよ・・”、こんな歌を口ずさみながらアール(コーギー犬)と早朝の散歩。この歌詞は「たき火」の3番で、1番は、”垣根の垣根の 曲がり角 たき火だたき火だ 落ち葉たき・・”、2番は、”さざんか山茶花 咲いている・・”。この正確な歌詞は今調べて初めて分かったのだが、朝、寒さの中で口ずさんでいたのは適当にチャンポンした歌詞だった。歌いながら、最近は「たき火」をする事も、見る事も皆無になったなあと感慨が湧いてきた。そして、たき火に限らず、”火”とか”炎”を見る機会もないことに気がついた。台所のガス台の火は薪(まき、たきぎ)の炎とは異なる。同じように、明りの色が変わってきた。白熱電灯の色が蛍光灯になると何となく暖かみがないように感じる。最近は小型のムギ球(以前のクリスマスツリーに使用した小型電球)がLED(Light Emitting Diode=発光ダイオード)に変わってきているが、やはりムギ球の方が暖かみがある。それは、「ロウソク」の炎の色と同じく熱をもった色のためであろう。効率の良い灯りに変換されるのはいいとしても、やはり自然の炎の暖かさを感じさせる色が欲しい。・・ところで、冒頭の「たき火」の歌が発表されたのは、戦争前の1941年(昭和16年/私が生まれた年です)。当時は戦時体制のためたき火は禁止されており、終戦後にはじめてラジオで放送されて、広く歌われるようになったという。「たき火」はできなくなっても、この歌を長く残すことはできないだろうか・・。
11月20日(火)  <模写・・・>
「模写」は本来好きではない。陶芸でも他人に同じような作品があれば、それと別の形を作る。絵画でも同じ事。模倣を嫌うのは私の習性だ。それでも”学ぶため”に模写が有効であることは認めている。今日はあえて「鳥獣戯画の模写」を試みた。ニューヨークに住む孫娘宛の絵手紙としたが、これは一つの口実。自分でこの名作を模写してみたかったのである。「今日の作品」にこれを掲載したように、鳥獣戯画の中でも最もお馴染みの絵を描いた(鳥獣戯画絵巻の展覧会については11月17日コラム=ここ=参照)。模写をすると時間をかけて鑑賞する以上に、その絵のことが分かる。模写をしながら、この蛙や兎の形や表情を900-1000年も前の絵師が描いていたと思うと感激した。一つ一つの身体のポーズが巧みなことは言うまでもない、躊躇のない筆の勢いは模写で表すことなどできない。それにしても蛙の手足の指一本の方向に至まで神経が行き渡っている。絵巻の中のほんの一場面でもこの絵の作者の力量が溢れ出ている。・・あらためて文化の時代を超越する偉大な力を思い知らされた。


11月21日(水)  <夜の部の歌舞伎・・・>
夜の部の歌舞伎が始まったのは、pm4:40、終わったのが、pm9:15であった。昨晩、久しぶりに歌舞伎座での芝居見物。出し物は、宮島のだんまり、仮名手本忠臣蔵(九段目、山科閑居)、土蜘、三人吉三巴白波。歌舞伎はそれほどの回数を見たことはないが、今回は女形(おやま)に対する見方が変わったように思った。以前は何となく不自然で理解出来なかったが、素直に女形は美しいと思えるようになった。もし女性が演じたとしたら面白くもない。それと歌舞伎の音楽、囃子(はやし/鳴物)が実にいい。三味線、太鼓、笛、鼓、拍子木などに長唄、義太夫などが組み合わされた伴奏音楽のスタイルは古いというよりモダンな感覚に溢れている。歌舞伎はやはり日本文化の結実した見事な花である。・・これを機会に初心者として勉強した事を一つ書こう。最後の出し物、三人吉三(きちさ or きちざ)は、女装の盗賊、お嬢吉三(孝太郎)、 お坊ちゃま育ちの盗賊、お坊吉三(染五郎)、 坊主くずれの盗賊、和尚吉三(松緑)が大川端で出会い義兄弟の契りを結ぶところまでの場面。これは白波物と呼ばれる盗賊を主人公とする物語で、作者は河竹黙阿弥(1816-1893)。5人の大盗賊が主人公の「白波五人男」も同じ黙阿弥の白波物である。白波とは「盗賊」の意であり、語源は中国の盗賊・張角の残党が西河の白波谷にこもり白波(はくは)賊と呼ばれたことであると知った(その訓読から”しらなみ”が盗賊となった)。歌舞伎芝居は馴染みがないだけ何でもが新鮮にみえる。
11月22日(木)  <瓢箪から駒がでる・・・>
「瓢箪から駒がでる」ことが本当にあるものだ! 瓢箪から駒=「意外のところから意外のものの現れること。ふざけ半分の事柄が事実として実現してしまうこと」(広辞苑)が正に私の身辺で起こった。少し前に陶芸教室でたまたま歯医者さんと一緒のテーブルで作業をしている時に雑談で歯医者さんが使う機器のことを話した。超高速で回転する小型の歯医者さん用のドリルを陶芸で使うと面白いでしょうね・・と”ふざけ半分”で云ったのだが、相手は私のメカ的な陶芸作風を知っているので、それは私の陶芸の強力な道具となって全く新しい陶芸分野を開拓するかも・・などと乗り気になって来た。そして歯を削る「タービン」と呼ばれる道具よりも、入れ歯を削ったり磨いたりする「エンジン」という道具の方が陶芸には向いていること、インターネットで「歯科、技工用エンジン」などで検索するとオークションで比較的安価に購入出来る事などを教えてくれた。家に帰って妻にこの話をすると、たまたま妻の友人で長年歯科医をしていたお宅が最近廃業したことを聞いていた。直ぐに電話をすると、”処分に困っていた”という技工用エンジンを譲っていただくことになった。そして、今日、このエンジンのセットが宅急便で我が家に届いたのだ!”ふざけ半分”の話をしてから一週間もしないうちに現実に高級道具が手元にあるのが夢のように思えて興奮している。天から与えられたこの道具をどのように活用するか楽しみでならない。

11月23日(金)  <今日は勤労感謝の日・・・>
今日は勤労感謝の日で休日であるが、この日の「勤労感謝」を話題に取り上げた新聞のコラムは一つも見当たらなかった。2〜3日前にはフランスのミシュランがレストランを星の数で格付けするミシュランガイド(東京版)を発売することについて各新聞コラムがそろって話題にしたのとは大違いだ。確かに勤労感謝の日とは「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」のが趣旨であるといっても、「勤労」の言葉がいかにもダサイ。”労働”の意である"labor"を無理矢理、勤労としたのであろうが(Labor's Dayの直訳だ)、勤労は今や死語に近い。この日は戦前には「新嘗祭(にいなめさい)」と云われた祝日で、農作物の恵みに感謝する国家の重要な行事が行われた。戦前のものは全て悪いという風潮から「勤労感謝」が出来上がったとしても、今になってみると新嘗祭の方がむしろ歴史とロマンを感じさせる。米国では今年は11月22日(木)<日本時間では今現在>が感謝祭、Thanksgiving Dayで(11月の第4木曜日)、今ごろは七面鳥でも食べながら祝日を楽しんでいるのだろうか。感謝祭は収穫を祝い神の恵みに感謝したのが始まりで趣旨からみると新嘗祭に近い。ところで、ニューヨークに住む孫娘がThanksgivingのことをカタカナで、”フェンクス グィブィング”と書いたと便りにあった。なるほど発音をカタカナで表すと、この方が合致しているのかも知れない。
11月24日(土)  <決めつけない事・・・>
「決めつけない事」は私がモットーとしていることの一つ。子どもでも大人でも男でも女でも、ワンパターンに決めつけることは避けなければならない。進化もするが退化することもある。それでも特に変化しながら進歩する事を注視していると希望が持てる。「物」についても決めつけない。用途などは工夫次第で限りがない。・・持って回った言い方をしたが、「今日の作品」に掲載した「130mm立方体(陶芸)・再登場」について、最近自分でも以前考えなかった大進歩があったので少々浮かれている。130mm立方体は縦横、全面に穴を貫通させたブロックオブジェ(陶芸作品)であるが、当初、筆立てとか造花を生ける程度の用途を思っていた。ある時、穴の中に円筒型の容器を入れて生きている植物用のミニチュア鉢とすると植物が元気に育つ。そこで本格的に「円筒型容器」を数個作ると非常にうまく収まった。容器の材料には10mm径のアルミ管を使用。底には円筒ゴムを差し込んで接着剤で固定し水を溜める。最上部に"O"リング(ゴム製の輪)をはめ込んでおくとストッパーとなり、容器を取り出す時に便利になった。これら全ての材料は手持ちのもので間に合ってしまった。飾る植物の量や種類によって何カ所の穴に容器を差し込むかは自由自在である。写真では現れないけれども新たな円筒型容器を作品と見なして喜んでいる。

11月25日(日)  <ジオキャッシング・・・>
ジオキャッシングという遊び(ゲーム)をニューヨークに住む娘家族が楽しんでいると聞いて、遅まきながら自分でも調べてみた。ジオキャッシング=geocachingは、geography(地理)のgeo(地球、土地)と、cashing(物を隠すこと)を組み合わせた造語で、カーナビでお馴染みのGPS(Global Positioning System/全地球測位シズテム)を使って宝探しをするゲーム。携帯用のGPSで地球上のあらゆる場所の緯度・経度を知ることができるので、宝のありかが緯度と経度で示されるとGPSユニットを駆使しながらその場所に移動できる。探しだすものは高価な宝ではなくキャッシュ(cashe=隠した物)と呼ばれる普通の物であり、発見した場合のルールが色々と定められているようだ。またGPSで公園などの場所が特定出来てたとしても、実際に探し出す物は非常に小さく、陰に隠されているのでヒントを元に更に見つけ出す面白さもあるという。GPSを使ったゲームであると同時に戸外を歩き回るスポーツの一面もあり、家族で一緒にできる健康的な遊びなのだろう。一般的な解説はWikipedia(=ここ)で見られるし、ジオキャッシングの公式サイト(=ここ)で登録すれば日本でも実行出来る。・・時代と共に”遊び”は変わる。ハイテク機器を使ってアウトドアスポーツ兼ゲームとはうまい事を考えたものである。私も小さな子どもがいる時であれば夢中になったかも知れない。

11月26日(月)  <ベジャールの死・・・>
ベジャールの死を今日になって知った。先週、22日にスイス・ローザンヌの病院で死去、80歳だったと報じられている。バレエの振付家モーリス・ベジャールはただの振付師とは違う。新聞では「バレエに哲学や神学を持ち込んで革命的に表現領域を広げ<20世紀最高の振付家>と呼ばれた」とある。私にとってはおよそ「バレエ」は全くの別世界にあり、白鳥の湖のラインダンス(?)などを見ると気恥ずかしくて楽しむどころではなかった。そんな私でもベジャールの演出するバレエにはショックを受け、すっかりファンになった。映画「愛と哀しみのボレロ」でも評判になったが、東京(NHKホール)でみた、ベジャール演出でジョルジュ・ドン(1947-1992/エイズのため45歳で死去)が踊った「ボレロ」は忘れる事ができない。ストラビンスキーの現代曲を舞踏にした「春の祭典」はベジャールの初期の革新的な演出でインパクトがあったが、晩年にみせた日本の「仮名手本忠臣蔵」の翻案「ザ・カブキ」の舞台もまた衝撃的だった。バレーダンサー以上に振付家でバレエの魅力が決定されることをベジャールは教えてくれた。ベジャールなきあと当分の間バレエを見に行くことはなくなりそうだ。
11月27日(火)  <その日のできごころ・・・>
「その日のできごころ、やっているうちに生まれてくる」。これは魯山人が陶芸の絵付け模様をどうやって考えるかを問われたときの答えである。前段に”浮気のようなもので”と入るが、これは魯山人であるから実感を伴う。私も同感であるのは、事前に頭をひねって綿密に計画した場合でも、手を動かして実際にやってみると、更にいい考えが浮かんでその場でやり直すことをよく経験するからである。2〜3日前に、「その日のできごころ」を期待して特に計画がないけれども陶芸教室に行って粘土をこねようかと思ったが止めた。余りに新しいアイデイアが浮かんでこない。それでは・・と、近所で開催されていた「橋本シャーン・スケッチ展」(@代官山ヒルサイドテラス、昨26日で終了)にいった。これが思わぬ大当たりで何度も見直すほどに気に入った。ペンで輪郭を書き、絵の具で色をつける即興のスケッチであるが、一見非常にラフに見せながら極めて細かな作業もやっている。小学生が描いたと思わせるような素直な描き方にも触発された。陶芸にしても絵画にしても、子どものような無垢な心が人の心を打つ。翻って(ひるがえって)思い浮かんだ陶芸の製作アイデイアを孫娘のためにハガキに描いたのが。「今日の作品」に掲載した「陶芸アリゲター(計画)/MIEUへの絵手紙」(ペンと水彩)である。これは”今日のできごころ”。果たして陶芸作品で「アリゲーター」が実現するだろうか。


11月28日(水)  <消耗品・・・>
「消耗品」というと何を連想するだろうか。鉛筆、紙、雑誌など、それから、プリンターのインク、掃除機のフィルターを挙げる人もいるだろう。けれども、時間を少々(10年ほど)伸ばして考えると、プリンターや掃除機の本体にしても消耗品である。更に長期間でみると、ほとんどの物は消耗する。使用不能となるか存在意味がなくなると言ってもよい。生物に寿命があるのと同じで、全ての「物」にも寿命があると思った方が間違いない。私が制作した陶芸作品もまた「消耗品」だと言い聞かせている。これまでに作ったお茶碗やお皿などをいくつ自分で壊したことか! 私が台所で洗い物をしている時に限って壊すのだから誰にも文句は言えない(毎日、皿洗いをするから危険の確率は高くなる?)。手が滑って落として破損させる、肉厚の薄い個所を強く曲げて割る、エッジの部分を欠く、他の硬い器とぶつけて壊す・・など色々な”壊しのパターン”を経験すると自分が作る陶芸茶碗の欠点が分かるというのが負け惜しみ(実は洗い方が雑なだけだ)。それでも、私の陶芸消耗品はただの消耗品と違って即座に捨てることをしない。大抵は接着剤でくっつけて復元し、植木鉢にしたり植物用の皿として第二の用途を考える。抹茶茶碗に植えた小型盆栽などはとても気に入っている。・・社員が消耗品、社長も消耗品などと嘆くことなく、第二、第三の道を選択すると、その方が似合っていることも多い。

11月29日(木)  <紅葉の季節・・・>
紅葉の季節。あれほど猛暑だ、異常気象だと騒がれたけれども、日が経つと樹々は確実に色づく。今朝、犬と一緒に散歩で行った西郷山公園(東京・目黒区)では桜の木が美しく紅葉していた。桜の木の見所は春の花見だけではない。曇り空の下、テニスにいくと、今度は神宮外苑の銀杏並木が一挙に黄色に染まっている。先週にはまだ緑の葉ばかりで、今年の銀杏はなかなか色づかないと話をしていたところだ。・・今日、たまたま「366日誕生花の本」で「今日(11月29日)の花」を見ると、「バッカリス」とでている。バッカリスはひな菊の一種で白い可憐な花を咲かせる。念のため、インターネットで誕生花を調べると「白いベゴニア」など全く違う花がでる。誕生花は一つに決まったものではなく、色々な説があるようだ。ところが、明日11月30日の誕生花をみると双方に「枯れ葉」とある。「枯れ葉」が誕生花となるのは面白い。紅葉の季節が来たと思ったら、直ぐに枯れ葉、そして明後日は早くも”師走”である。

11月30日(金)  <リバーシブル容器・・・>
「リバーシブル容器」とはまた無粋なタイトルをつけたが、「今日の作品」に陶芸の最新作を掲載した。容器の外側の曲面形状はガウディをヒントとしたものである。スペイン・バルセロナの名寺院、サグラダ・ファミリアの設計者として知られる建築家アントニ・ガウディー(1852-1926、Web=ここ)は幾何学的な構造や模様を考察して多くのノートを残している。ガウデイーのメモを見ると私は今でも陶芸のアイデイアなどで触発される。今回制作したものは、上下の円をある角度をずらして直線で結ぶと鼓のような曲面ができることを応用した。白い線に見えるところは(象嵌<ぞうがん=色違いの粘土を埋め込む技法>している)、本来は一直線で成り立つものであるが、必ずしも完璧ではない。陶芸の粘土でこの形状を正確に作るのは結構難しいので、これでも最大限直線となるように努力した。上下の直線の軌跡だけでできる曲面は非常に美しい。この容器の場合上下を対象にした上で、内部の穴の深さを一方を深く、もう一方を浅く制作した。そこがリバーシブルと呼んだ由縁で、深い方を上にすると花器にできるし、浅い方を使うとすれば果物などの容器となる。といって、本当は用途など考えずに、この際「直線からできる曲面を持った造形X」とか別の名前をつけて眺めている方が楽しい。


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