これまでの「今日のコラム」(2007年 12月分)

12月1日(土) <師走ときくだけで・・・>
師走ときくだけで何かせわしい感じになる。毎週土曜日の朝、テニスの待ち時間(開場の1時間も前に荷物を置いて順番取りをする!)に一休みする喫茶店でブレンドコーヒーが170円に値上がりしていた。昨日までは160円。値上げも師走とセットにすれば文句が出難いのか。そろそろ来年のことを考えなければならないと、年賀状の絵柄を検討し始めた。来年の干支(えと)は子年。ネズミの絵でも描こうかと、まず歴史上の鼠の絵を調べてみた。ネズミは大昔から人間とは非常に近しい関係にある。先日、サントリー美術館でみた国宝「鳥獣人物戯画絵巻」の系譜として展示されていた中に「鼠草子」(桃山時代)があった。これは鼠が人間と結婚する物語で宮殿の儀式の様子など、鼠を擬人化した楽しげな姿が描かれている。私が見つけた中では、やはり葛飾北斎の北斎漫画にでてくる米俵を担いだネズミさんが一番だ。後に北斎漫画を歌川国輝が模写した絵も残っているが、やはり北斎の鼠の方が精気がある。近代・現代のネズミさんはまた種類が多い。ミッキーマウス、トム(猫)とジェリー(ねずみ)、トッポ・ジージョ、グリとグラ、ピカチュー(ポケットモンスター)など。こうしてみるとネズミを擬人化したアニメや絵本は身近なところに溢れている。来年の賀状は漫画だらけとなる?

12月2日(日) <バイオリンの名器、ストラディバリウス・・・>
バイオリンの名器、ストラディバリウスやガルネリが制作されたのは17~18世紀に集中している。それも共にイタリアの北部、クレモナという小都市の工房で作られた。ストラディバリ(1644〜1737)が生涯で制作したバイオリンの数は約1100本、現存しているのは約600本、またガルネリ(1698〜1744)が制作した数は約300本で現存しているのは約140本という(ヤマハのHP資料より)。昨年のニューヨーク、クリステイーズのオークションでストラディバリウスが日本円換算約3億9千万円で落札されたことがあるし、状態のよいストラディバリウスならば1億円、2億円は珍しくないというとんでもない世界だ。日曜日の今日、たまたま見ていたBSテレビの番組で、ヤマハがストラディバリウスやガルネリを徹底的に研究して「アルティーダ」(商品名/2004年に発売)というバイオリンを開発した経緯が紹介されていて興味深かった。表板や裏板は三次元CADで形状を定めてコンピューターで数値制御して精密に加工する。素材選び、塗装技術、接着や、組立なども最新技術を使って300年前の製造の秘密を解き明かす。四季の温度、湿度などの環境変動や経年変化など楽器を熟成させるシミュレーションを計り、音質を安定、向上させるということまでやっている。さすがに100年、200年の木材熟成まではできないが、品質の均一な名器ができることは十分に期待出来る。私の耳では「ストラディバリウス」と「アルティーダ」の音の区別はできない。「ストラデイバリウス」の現代版「アルティーダ」が、70〜100万円とは、非常にお安く思えてくる。こうしたヤマハの技術をもっともっと応援したい。

12月3日(月) <世の中にあると思うな・・・>
「世の中にあると思うな、親と金。ないと思うな、運と天罰」。説教じみて面白くないのか、実感がなくなったのか、最近はこんな戯れ歌(というより”道歌”というべきか)を聞くこともなくなった。けれども、天罰を下された高級官僚の逮捕事件などに接すると、この歌はまだ現役で使えそうに思える。この種の歌を一つ。「よき事は見ても聞きても、悪しき事、見ざる聞かざる言わざるぞよし」。日光東照宮の三猿でお馴染みの教えであるが、この歌は現代ではいささか解釈が必要となりそうだ。私の場合は現実を見聞きした上で、それらを評価し濾過するフィルターを備えるべきとみる。子どもには悪しき事に侵されない免疫をつけなければならない。もう一つ、こんな歌もある。「ただ見れば、何の苦もなき水鳥の、足にひまなき わが思いかな」(光圀作?)。これは「わが思い」の主人公を自分とするのでなく自戒の歌ととらえたい。のんびりと水に浮いている水鳥のように他人が何の苦労もなく気楽にみえても実はみな見えないところで努力をしている。苦労しているのが自分だけなどと間違えても思わないことだ。「歌は世に連れ、世は歌に連れ」とか。時代と共に変わる歌もあるが、本質は変わらない歌も多い。

12月4日(火) <東京の紅葉が美しい・・・>
今の季節、東京の紅葉が美しい。朝から雲一つない快晴。家で朝やるべきことを7時半から早々にはじめて1時間で一段落させた後、自然教育園(国立科学博物館付属、Web案内=ここ、目黒区白金)にいった。今年は何度もこの自然教育園を訪れた。このホームページの「今日の作品」(=ここ)にも自然教育園でのスケッチを何枚も掲載している。前に行った時に是非紅葉のシーズンに来てみたいと思った。今日はそのチャンスとみて何を置いても出かけたのである。それにしても朝の9時台に入園したのは初めて。朝の日を浴びて樹々の輝きは一層際立ってみえた。前にも書いたことがあるが自然教育園には人工の施設は最小限の遊歩道程度しかなく、ほとんどは自然のまま。東京の真ん中に鬱蒼とした森林があるのが奇跡のように思える。今日は、ふと画家モネが愛した睡蓮のある庭を思い起こした。ジヴェルニー(フランス・パリの西80km)にあるモネの庭は今は観光名所となっているが、モネが多くの睡蓮の絵画をこの場所で描いたことで知られる。以前、このジヴェルニーの”睡蓮の庭”を訪れたとき、これほど豪華な庭を持って、毎日自宅の庭で絵を描く画家の生活がうらやましく思えたものだ。今日私が訪れた自然教育園はモネの庭の何十倍あるのだろうか。そこで自分の庭のように秋の紅葉を楽しんでいる。絵を描く事も出来る。・・とても贅沢な気分になって、天気もよいので、歩いて家まで歩くことにした。家に帰り着いたのは10時30分。その後、昼までの時間がいつになく充実していたから紅葉を愛でる効果は大きい。
12/4@自然教育園

12月5日(水) <空気中には埃だらけ・・・>
”空気中には埃だらけ”、こんな当たり前のことを改めて思い知らされて意気消沈している。漆(うるし)系の塗装を大々的に行ったのだが、塗装面に埃がついて仕上がりは無残。絵画ならば埃でも傷でも、それが趣とみなせることもあるが、光沢面を求める漆仕上げには塵埃は欠陥でしかない。食器の漆塗りをする職人は塵埃をもっとも嫌い、その対策に万全を期すという話を聞いた事があるのに、自分で実践する段になると同じ誤りを繰り返す。知識だけではいいものは出来ない。失敗ついでに、この時に思い出した”知識”をもう一つ。これは以前多少仕事関連でかじったことのある「クリーンルーム」のこと。現代の製造業では「クリーンルーム」は欠かせない。半導体、電子機器、精密機器、光学機器、医療分野、バイオ関連など「清浄な空気」を特別に作り上げた「クリーンルーム」で製造される分野は数えきれないほどだ。空気の清浄度は空気中に浮遊する微粒子の数で等級が区分される。通常の都市部の空気には、1立方メートルの空気中に含まれる0.1ミクロンm以上の微粒子の数は10の9乗(10億個/クラス9相当)<米国規格では1立方フィート中に0.5ミクロンm以上が百万個>とされる。これがクリーンルームのクラス6で百万個<米国規格で1000個>にする。クラス3のクリーンルームでは0.1ミクロンm以上の微粒子の数1000個で、一見多いようにもみえるが、丁度九州全体に上空2kmの空間を考えて、この中にゴルフボールが1個あるほどの清浄度との説明もある(ちなみに0.1-0.5ミクロンとはバクテリアの大きさ、髪の毛の太さは100ミクロンである)。バクテリアをも除去するクリーンルームの技術は際限がない。・・ところで私が取除けなかったのは犬の毛など巨大なゴミや埃で、クリーンルームを引き合いに出すには少々大袈裟すぎた。

12月6日(木) <人は何のために描くのか・・・>
人は何のために描くのか・・、描きたいから描く。それは生活のためでもなく、名誉のためでもない。結果的に描いた絵画を見た人が豊かな気分になり、元気づけられる。今日は三鷹市(東京)に友人の絵画展を見に行ってエネルギーをもらった。16人のグループが数点ずつの油絵作品を持ちよったグループ展で、ほとんどの人は10年以上の絵画経験があり、20〜30年描き続けている人も多いと聞いた。非常に興味深かったのは16人の個性が絵画に見事に反映されていること。ある人の絵は決して別の人の絵にはならない。当然のようにも思えるが、他人を意識したり、模倣するところがなく、自分のスタイルを存分に表現するのは容易ではない。私の絵画鑑賞法は、前にも書いた事があるかも知れないが、極めて単純でその絵から元気がもらえるか否か、感動があるか否か。名前や経歴、一般評価は関係なしだ。元気をもらえるということは、相手に気合いが入っていること、静かな中にでも迫力があること。職業画家が描いたものでも、いかにも画廊から売れ筋の様式を求められて描いたというのが見え透いていて面白くもないことがしばしばある。その点、アマチュアが描きたいものを素直に表現した方が感動を呼ぶ。今日のグループ展はそんな元気に満ちていた。恐らくはグループ内では刺激し合っているに違いないけれども、決して他人の流儀に侵される事なく自分の感性で描くことができるグループなのだろう。いつもの事であるが、こんな絵画展に行くと自分でも大きな油絵を描きたくなる。来年には油絵を復活させたいなぁ・・。
「今日の作品」に「ガウディ曲面カップ(陶芸)を掲載した。11月30日に掲載した「ガウディ曲面容器」(曲面の説明=11/30コラム=ここ)を小型のカップにしたもの。今日は出来上がったばかりのこのカップでお茶とコーヒーを飲んだ。


12月7日(金) <リハビリの効果がでてきた・・・>
リハビリの効果がでてきた。といって、私のことではなく、我が家のコーギー犬、アールのことである。アールは11月に11歳になったが、その前、10月頃から左後ろ脚を引きずるのが目立っていた。医者に見せたところ「プールで泳がせる」程度の対策しかでてこない。その後、散歩の途中でへたり込んでしまったり、家に帰りたがったりして明らかに悪化の傾向が見られた。これではいけないと、毎日自己流のリハビリを試みる。体重をかけずに脚を動かすのなら、プールに行かなくても手をだせば家でもできる。仰向けに寝かせて脚を動かしたり太ももの筋肉をマッサージしたりしてみると明らかに左右の脚で違いが分かる。悪い左脚は一方に押すと押された方に行ったままで戻ってこない。また神経が切れたように脚の筋肉の筋が刺激に対して何の反応も示さない。これでは駄目だと、少しでも時間がとれる時には(私の食事最中でも)アールを仰向けにしたり、うつ伏せにして左脚を開かせるなどして、筋肉に刺激を与え続けた。人間のツボマッサージと同じ要領で足腰のマッサージをすると、アールはいつも気持ち良さそうにおとなしくしている。ある時、それまで全く反応がなかったポイントをつまむと、ビリビリと反応するようになった。こんなことを繰り返しているところで、今朝は往復2kmのコースを急ぎ足で散歩出来るまでに回復してきた。室内では以前は”いざり”の状態だったのが、今では四本脚で立つこともできる。まだ全快まではいかないにしても、リハビリの効果は顕著にみえる。これこそ、継続は力だ・・。

12月8日(土) <毎度ご乗車有難う・・・>
「毎度ご乗車有難うございます」とタクシーの座席に書いてある表示をみて、漢字だけ読める中国人観光客はビックリするそうだ。「有難」の車に恐れをなすという笑い話。難(なん)が有るのがどうして感謝の気持ちになるの?、と思われても無理はない。「ありがたい」の語源は「有り難し」、つまり「滅多にない」ことで、滅多にない良いことは神仏のお陰さまと感謝の気持ちを表したと云われる。元来は滅多に起こりえない幸運を感謝する言葉が、日常気楽に使う「ありがとう」に進化した訳である。大阪弁では更に大袈裟に「大いにありがとう」が「おおきに」となったのだろう。「おおきに」も「ありがとう」も英語のThank youと同じくいい言葉だ。中国語では「謝謝」が感謝を表す同等の言葉かと思っていたが、そうではないようだ。「謝謝」は「ありがとう」ほど多用されることはなく、身内や親しい友人には使わないという記事をみた。よそよそしく感謝を表すのが謝謝であると聞くと「謝謝」の使い方も難しい。異文化の誤解や摩擦は小さなことから生じることもある。「有難う」ではなく「ありがとう」を使った方が”無難”(!)・・。
12月9日(日) <本命なき時代・・・>
本命なき時代である。来年早々から予備選挙がはじまり一年をかけて全米で繰り広げられる米国の大統領選挙は混沌として全く本命が見当たらないそうだ。ブッシュ大統領の任期満了後について、チェイニー副大統領は早々と大統領選には立候補しないと表明。それを受けた共和党では前ニューヨーク市長のジュリアーノ氏、マケイン上院議員、トンプソン上院議員など取沙汰されているが突出した候補はいない。一方の民主党ではヒラリー・クリントン上院議員が有力と報道されているが、反発する勢力も根強く、女性大統領の誕生は容易ではない。当選すればアフリカ系米国人としてはじめての大統領となるオバマ上院議員も圧倒的な人気はない。本命なき大統領選としては、1976年、当時ほとんど名前が知られていなかったジミー・カーター氏がウォーターゲート事件で疲弊していた現職のフォード大統領を破って新大統領となった例がある。これから1〜2ヶ月の世論の流れが勝負所。米国の動向が注目される。ところで政権の受け皿として本命がいないのは日本の政治でも似たようなもの。独裁国家でないかぎりこれがノーマルと考えた方がよさそうだ。本命なきことは悪い事ではない。・・今日の夕刻、テレビ番組で全日本相撲選手権が放映されていた。アマチュア相撲の頂点を競うこの試合でも優勝候補の本命はなし。誰が勝ってもおかしくない中で、日本一となった姫野孝さん(25歳)のインタビューがなんと爽やかであったことか・・。

12月10日(月) <葉っぱが目につく季節・・・>
葉っぱが目につく季節となった。それも樹々についた若々しい新緑の葉ではなく、赤色や黄色に色を変えて華々しく最期を飾った後に”落ち葉”となった葉っぱたちが直ぐ足元に積もっている。今朝、犬を連れて散歩したときに、こんな落ち葉を拾い集めて持ち帰った。「今日の作品」に掲載した「色々な葉っぱ(水彩)」は、その中の何葉かをスケッチして、ニューヨークに住む孫娘宛の絵手紙としたものである。葉っぱを細かく観察していると、一つ一つに造化の妙を見る思いがして飽きることがない。自然の形状というものは、そうなった必然があるはずであるが、植物の葉っぱの形状が何故その形になったのか説明されているものが見当たらない。理由は分からなくても分類はできる。葉っぱの分類は、まず単葉と複葉に分けられる。単葉には広葉、針葉があり、更に広葉にも切れ込みあり、切れ込みなし、鋸葉のあるなし、鋸葉の形状などなどと細かな分類をとてもここで書ききれない。これらが全てその植物に最も適した形状であり、無駄なものは一つもないところが自然の凄さ。葉っぱ一枚を見ているだけで神秘的な美しさを満喫できる。


12月11日(火) <102歳で看取るまで・・・>
「102歳で看取るまで/母の介護」という新書本(新潮新書)を借りて読んだ。女優の坪内ミキ子さん(父親は坪内逍遥の兄の子どもで、逍遥の養子となった)が母親を介護しながら102歳で看取るまでの壮絶なドキュメントである。坪内さんは父親53歳、母親39歳のときに(結婚20年後)生まれた子どもであるので親とは若くして死に別れる覚悟をしていたという。それが父親は98歳、母親が102歳までご存命であった。坪内さんに限らず、最近歳をとってから親の介護で苦労を強いられている話を聞くことが多くなった。私の知り合いでも70歳を過ぎて腰の曲がった女性が103歳の母親の面倒を看ている! 寿命を全うする間際に周囲に面倒を見てもらわないケースは非常に希であろう。それもどれほどの期間になるのか分からない。坪内さんの場合、母親が96歳で転倒してから6年間介護が続いた。手間ひま(時間)、体力、金銭など、周囲の人々の膨大な消耗や犠牲を伴った死への旅路とは一体何だろう。象は死期を察知すると群れから離れて死に場所を求めるという話があるが(安全な場所に逃げ込んでそのまま死んでしまうとの説でも同じ)、人間は象のようにはいかないのだろうか。死への道程を本人がコントロールするやり方はないものだろうか・・。

12月12日(水) <トンビがかたをもむ・・・>
「トンビがかたをもむ」、「年寄りのひや汗」。これらは「鳶が鷹を生む」、「年寄りの冷や水」のニセもの(あえてパロデイとは云わない)。荒井良二の絵本「にせ ニセ ことわざ ずかん」(のら書店)には、こうした”ニセ にせ”の諺がユニークな絵に添えてある。冒頭のニセ諺の絵は「たまには かたでも もみましょうか」とトンビがワシの肩をもんでいる。トンビはお膳をみながら「アッ、ぼくのケーキを食べたのだあれ?」とつぶやくと、ワシは”ギクッ”として「ワシじゃないよ」といいながら額からは大汗。こんな楽しい絵をみながら反対のページには本当の諺の意味がきちんと解説されている。荒井良二さんの絵本の絵は一見子どもっぽくみえるけれども、どの絵にも決して手抜きのない気合いが入っている。私は絵のアイデイア、色使いも含めて、そんな絵が大好きであるが、文章もまたいい。昨日の夜、NHKテレビの番組「プロフェッショナル」で荒井さんが取り上げられていた。荒井良二さん(1956年生まれ)はいまや人気の絵本作家であるが、これも海外での受賞などで評判になってから日本でも認められると云う逆輸入パターンにみえる。荒井さんの絵本の表紙絵はご本人の公式ホームページ(=ここ=でみることができる。私は別の「ボクノキュートナ」というサイト(=ここ)の絵と文章が好きだ。最後にもう一つ”ニセ にせ”:「絵の中の蛙<井の中の蛙>」、「うなぎの下のどじょう<柳の下の泥鰌>」。絵筆を持って蛙の絵を描く鰻の下には泥鰌が三匹、パレットを持って鰻を手伝っている。

12月13日(木) <善い盗人、悪い守銭奴・・・>
「善い盗人、悪い守銭奴」という言葉が忘れられない。これはルオーが描いた絵画のタイトルである。キリストを中央に、そして左右にそれぞれ善い盗人と悪い守銭奴を配している。”善い盗人”が何か現代の新聞・テレビで叩かれている”小悪人”で、報道しているサイドに実は社会にとって悪い奴がはびこっているのでないかと、余計な連想もしながら、迫力あるルオーの絵に見入った。この絵を含めて「受難」などルオーの名作数点を出光美術館の常設展示室でみることができる。今日はこの出光美術館に「乾山の芸術と光琳」(12/16まで)を見に行った。尾形乾山(けんざん1663-1743)は尾形光琳の兄で自由闊達な焼き物(陶芸)で知られる。光琳とのコラボ作品も多い。それなりに乾山の焼き物を楽しんだが、最後に訪れた常設展で思いもしなかったルオーに会って(ルオーの他にムンクの絵画もある)、大感激した次第。人生、期待をしていない時に限って思わぬ出会いがあるものだ。
「今日の作品」には前回の続きの「mieuへの絵手紙」第二段を掲載。今日の東京はめずらしく雨。小雨の中で池の落ち葉が余りに美しいので「今日の写真」とした。
  12月13日@東京

12月14日(金) <土鍋の季節に・・・>
土鍋の季節にタイミングよく陶芸で制作した土鍋が完成。「今日の作品」に写真を掲載した。赤い土鍋土をベースとして、釉薬は黒い部分の織部、黄色く見えるところの琥珀、その他白マットなどを使用。蓋の中央にはブルーのガラスを置いてアクセントをつけた。蓋の左右に出っ張っている個所は蒸気が吹いた時に笛を鳴らす予定で細工した共鳴箱なのだが、結果的に笛は鳴らずに失敗。やかんのように強く蒸気が噴出すことはないので音はでない。笛の機能を使って別の遊び方がないか、いまになって考え始めた。土鍋というとスーパーなどでは千円で売っている。だから市販ではない土鍋にしようと形や模様は好き勝手に作ったが出来てみると案外にオーソドックス。その代わり妻からは使い易いと評判はよい。土鍋は直接火にかけるので耐熱用の特殊な土を使用する。普通の陶器では約1250℃で焼成するが土鍋の場合約1200℃と若干低い温度で焼く。土鍋用の耐熱土と称する土には、ペタライト(和名=葉長石、petalite/petalo=葉、lithos=石)が含まれているので低熱膨張性を持たせることができる。つまり急に熱せられたり、冷却されたりしても熱膨張が低いので破損に至ることがなく、直火に耐えられる訳である。出来たばかりの土鍋を使って早速鍋料理をした。いつになく豪勢で美味しかったこと・・。この冬は鍋ものが多くなりそうだ。


12月15日(土) <今日から文体を変えよう・・・>
今日から文体を変えようと思います。動機は新美南吉のやさしい”です”、”ます”の文章を読んでいてホッとしたからです。それにこのコラムも気分転換をしたいのです。さて、今日は何を書こうと思った時に、東京都現代美術館に行って落胆したことを書かなければなりません。私は何を見聞するにしても相手の良いところをとらえる、学ぶべきところを見る、悪い批評はしないことをモットーとしているつもりですが、今回はそうはいきません。現代美術館でいま展示されているテーマは「SPACE FOR YOUR FUTUREーアートとデザインの遺伝子を組み換える」(会期は2008-1/20まで)。私の感覚では入場料を1300円(65歳以上600円)をとる割にほとんど見るべきものがありません。目玉展示として、四階建てビルの高さのアルミの構造体(立方体)の中にヘリウムガスを充填して大きな部屋の中に浮かばせた「四角いふうせん」があります。これもアルミの立方体が凸凹して決して美しいとは思えません。ヘリウムガスで空中に浮かぶのであれば飛行船や熱気球の方が美しい。空中に浮遊する物体としてはジャンボジェット機の方がはるかに感動的です。インスタレーション(置物でしょう)とか映像アートとか、他のものも何度も見飽きた「現代アート」の二番煎じ三番煎じで新鮮味や迫力は感じられません。こんな調子でテーマのタイトルまで気になってしまいます。芸術、技術、科学を縦断して結ぶためには一人の遺伝子で十分。妙な遺伝子組み換えなどと考えるから気迫がなくなるのです。私はガラガラの現代美術館を後にしながら、現代アートとは何なんだろうと考え込んでしまいました。
12月16日(日) <今日の日曜日、妻のお供をして・・・>
今日の日曜日、妻のお供をして新宿のデパートに行き、孫娘のためにタートルネックのセーターと19cmの靴を買いました。昼はメトロ食堂街の”つな八”で880円のお好み天丼。・・こんな風にコラムを書くと即座にニューヨークに住む娘家族が読んでくれます。我が家の場合、息子も娘も娘婿もみなブログを持っています。ですから、ブログを読むとそれぞれの生活状況がみえる。息子たちは一匹950円のスズキを買って刺身にしているとか、娘一家はジオキャッシングでセントラルパークにいったとか、娘の旦那さんは風邪気味のようだけれども大丈夫だろうか(無理しないで)とか、心配もしながら無事を確認出来るのです。本当に便利な世の中になったものです。ブログでは(コラムも同じでしょうが)どうも日記風な気張らない文章が一番親しみ易く思えます。これは近親者ではない他人のブログでもそうなのですが、思想、信条を訴えるものは、とかくくたびれるのです。毎日、各新聞のコラムを読みながら、考え方が違う意見に出会った時にも複雑な気持ちになります。色々な意見があって当然ですが唯我独尊とならない主張にはなかなかお目にかかりません。俳句の世界で正岡子規が”写生”を提唱したのは、丁度日常を写し取る文章にホッとする感覚と同じなのではないかと思い当たります。写生の中に真髄が宿るなんていいですね・・。

12月17日(月) <一日は24時間でないのか・・・>
「一日は24時間でないのか・・」と思わずつぶやく。来年の手帳を準備する時期になったので手帳の用紙を探したのですが、やはり24時間目盛りのあるものは見つかりません。私は6穴システム手帳を10年以上使用しているので、毎年この手帳に合う用紙を求めるのですが、何種類もある用紙はビジネス用なのか全て深夜や早朝のスケジュールの欄がない。今使用しているのは朝の8時から夜中の12時まで。用紙によっては土曜日と日曜日の欄が小さくなっているのもあるので思わず苦笑してしまいます。休日出勤のないサラリーマン用でしょうか。限られたスペースの中で、ほとんど空白となる夜中の12時から朝の8時までの欄を作らないのは分からないではないのですが、24時間が欲しい人もいるでしょう。みのもんたがどんなスケジュール手帳を使っているか知りたいものです。私の場合は、ほとんど日記として使用するので、朝の6時に犬の散歩に行ったとしても、手帳の欄外にメモすれば実質それほど困る事はありません。来年もまた代わり映えせずにBindexの週間ダイアリー(能率手帳タイプ)を使うことにしました。この用紙はタイムスケジュールの欄の反対側にある丸一ページが無地のスペースが有難い。
「今日の作品」には「土鍋蓋(表)<陶芸>」を掲載。蓋の裏も合わせて陶芸コーナー(=ここ)に載せました<土鍋の制作経緯については12月14日のコラム参照>。


12月18日(火) <年末恒例のアルバム整理・・・>
年末恒例のアルバム整理をはじめました。自分で撮影したデジカメ写真をテーマや行事ごとにPhotoshopソフトで写真を貼付け、年月日と写真の解説を付記してA4サイズの印画紙に印刷するのですが、年を越すともう整理する意欲は湧きません。そこで未整理のものを何とか年内にまとめようと奮闘中なのです。こうして毎年のアルバムが蓄積されていくので問題はアルバムの保管場所です。今の時代、写真帳がパソコンの中、あるいはハードデイスクの中に格納できるのは十分承知なのですが、私はこのパソコン収納をいいとは思いません。自分でもデジカメで撮影した写真をパソコンの中に所持しているものの、これを改めて見て楽しむことは先ずありません。ほとんど廃棄してかまわないゴミ同然の写真を山ほど保管しているのは、ただ収納スペースが(パソコンの中であるので)気にならないだけで利用価値はないように思えます。そこで自分のアルバム整理はA4印刷スタイルにこだわってまだ当分の間続けることになりそうです。アルバムは語源でいえば元来は”真っ白な掲示板”、そして”大切なものを張る”意味であるとか(音楽CDのアルバムはシングル版に対していくつかの曲を集めたもの)。大切な思い出の詰まったアルバムは少々場所をとっても身近な居間に置くことにしました。思い出に浸る趣味はありませんが、アルバムは見ている時が華。機会があれば誰でも直ぐに広げて見ることができるのがベストでしょう・・。

12月19日(水) <玉磨かざれば・・・>
「玉磨かざれば光りなし」。云うまでもなく、どんなに優れた資質があっても学問に励み鍛錬しなければ輝く(立派な)人になれないという意味で使われます。「艱難なんじを玉にす」とか「瑠璃の光も磨きから」なども同じです。今日、大掃除の一環として黄銅(真鍮)の部品が余りにくすんでいるので、紙ヤスリで磨くとすばらしい輝きとなったのには少々感激しました。初めは粒度400番の紙ヤスリで黒くなった汚れや傷を十分に除去し、最後の仕上げには4000番(=これは本当の研磨用!)を使うとピカピカの光沢面になるのです。「玉磨かざれば光りなし」とつぶやきながら楽しく作業。ついでにこの格言の物理的な意味を考えました。玉というのは中国の玉(ぎょく)で瑠璃(るり)や琥珀(こはく)。これを一体何で磨いたのでしょう。ダイヤモンドを研磨するのはダイヤモンドを使うように、少なくともその石よりも硬度の高い石を使う必要がある。削りだすにはできるだけ硬い石が望ましいが、最後の光沢をだすには同等の硬度の細かい砂を使うのでしょうか。・・玉(ぎょく)の原石は目立たないが、磨かれることにより真に光輝く性質があるので、冒頭の格言が生まれたと思われます。ところがダイヤモンドやオパールなど原石のままでも美しく輝く宝石があります。そうすると「宝石、磨かざれども光り輝く」なんていう格言にならない言葉ができそうです。人間の場合、私にはどんな素材(幼児)も光り輝いているようにみえます。磨くと称して大きく傷を付けたり、曇りをつけたり、光りを駄目にするのは”磨き砂”が悪いのでないでしょうか。

12月20日(木) <街はクリスマスモード・・・>
街はクリスマスモード。恵比寿駅のアトレ7Fにある本屋さんにはクリスマスに関連した絵本だけの広いコーナーがあります。相変わらずハウツーものの新刊書が幅をきかすメインの売り場では今何が売れているのかを見ると直ぐに通り過ぎて、絵本コーナーでクリスマスの絵本を何冊も立ち読み。この本屋さんのカウンター脇には新発売された時には3時間で売り切れたというミシュランのレストランガイド(東京版)が山と積まれていました。さて、こちらもクリスマスバージョンで「今日の作品」に「メリークリスマス/陶芸オブジェで遊ぶ」 (陶芸飾り)を掲載。今年の10月に制作したオブジェ(濃緑Aの名前で以前紹介)をこのシーズンに合わせてクリスマスデコレーションの土台としたものです(写真では飾りが余りに多過ぎて陶芸部分が見難いので、陶芸コーナーにオリジナルの陶芸と並べて写真を掲載しました=ここ)。この陶芸を制作したとき(経緯は10月19日コラム参照=ここ)まさかクリスマス用に使用するとは夢にも思っていませんでした。そして、この飾りを眺めているうちに今度は内部の容器に水を入れて正月用の花飾りにすることを思いつきました。穴がいくつもあるので花器としては絶好。用途も考えずに作り始めて、はじめ何に使っていいか見当がつかなかったオブジェが意外に色々と活躍をしてくれそうでうれしい限りです。

12月21日(金) <久しぶりに映画・・・>
久しぶりに映画をみました。妻につきあって行ったのですが朝の9時半から上映された映画は想像以上に面白く心に残る作品でした。題名は「僕のピアノコンチェルト」(銀座テアトルシネマにて、本日まで)。ピアノの天才児の苦悩や挫折を描いたストーリーですが、ワンパターンのあらすじではなく意外性のある展開で飽きさせません。IQ180以上でピアノ以外に何でも天才ぶりを発揮していた男の子が、あるとき普通の子をめざす。重要な役割を果たすのが、この子の祖父のおじいさん。何でも手作りで作ってしまうおじいさんとの交流がこの子にピアノ一筋でない幅を持たせる。最後にはおじいさんに習った小型飛行機の操縦までしてしまう。普通の子を装った天才児がインターネットの株取引で大儲けするところは少々出来過ぎていますが、コンピューター操作など映像はまさに現代の物語。・・この映画はスイス映画。私にはドイツ語が懐かしく、また主人公の父親が発明マニアであったり、おじいさんが工作好き・メカ好きであったり、スイスあるいはヨーロッパの地に着いたモノツクリの伝統を見る思いであったのもうれしいところ。親や教師を乗り越え、自我を確立して行く過程は天才に限らず全ての子どもの通る道でもあるでしょう。この映画の天才役で実際にすばらしいピアノを演奏した天才、テオ・ゲオルギュー(映画出演12歳、現在15歳)さんが今後どんな活躍をするか名前を覚えておくことにしました。

12月22日(土) <2007年にヒットしたIT製品・・・>
「2007年にヒットしたIT製品やサービス」という記事(アンケート結果)がありました。名前を知らないものもいくつか見られましたが、このコラムで話題にしたものでは、Twitter(10/25=ここ)、Wikipedia(11/25=ここ他)、Second Life(5/12=ここ)、YouTube(10/7=ここ)、Wii、iPhone(6/30=ここ)などが入っています<()内はコラム記載日>。中でも「2007年もっとも注目したものは何か」の質問に対するトップが”Wii"。これには私も同感です。Wiiは任天堂の開発したゲーム機でテレビに接続をして遊ぶ。自分の動きをとらえるセンサーが装着されていて実際に身体を動かして疑似スポーツを楽しめるもの(私がWiiスポーツを体験したときの話は8月18日のコラム=ここ=参照)。最近、テレビのコマーシャルで見かけるのは、12月に発売された最新版の「Wii Fit(フィット)」です。自分でバランスボードの上に乗り、スキージャンプのようなバランス運動をしたり、ヨガや筋トレなどもできるといいますが、こちらの方は私はまだ体験したことはありません。とにかく、Wiiシリーズをみていると余りによくできていて恐ろしくなるほどです。それだけに、私はとくに育ち盛りのこどもには、ゲーム機のスポーツを勧めたくありません。鉄棒から落っこちて痛い目に合うとか跳び箱に尻を着いてひっくり返ることこそ貴重な経験。そう、この優れたゲーム機は老人のボケ防止とリハビリ用に最適ではないでしょうか。私にはまだ必要はありませんね・・。

12月23日(日) <ブルドッグ・・・>
ブルドッグの絵入り皿を作って欲しいとのリクエストがありました。陶芸のお皿です。私は他にないような形状・構造の陶芸を創るのが楽しみで、実用の食器を頼まれて作ることは余りやらないのですが、「ブルドッグ」という犬に興味を持ちました。我が家のコーギー犬はウェルシュ・コーギーといってイギリスのウェールズ地方で牧畜犬として飼育された犬種ですが、調べてみると、同じイギリスを発祥の地とするブルドッグは随分と違った歴史を持っています。よく知られているようにブルドッグははじめ牛と戦うために”作り上げられた”犬種。ブル(bull=雄牛)と闘争するBull-bitingの競技は13世紀、イギリスの貴族が始めて19世紀まで続いたという。数頭のブルドッグを雄牛と戦わせて最初に牛の鼻に噛み付き牛を倒した犬に高額の賞金が支払われるという残酷な競技。ブルドッグは噛み付いた時に呼吸し易いように鼻を上向きにする、下顎を発達させて噛み付く力を増す、牛の角で突かれたときに有利なように皮膚をたるませるなどなど、全てが牛と戦い易いように改造された。当然、性質も好戦的で獰猛であったけれども、1835年にブルバイティングが禁止されてから容貌はそのままで非常に温和でおとなしい性質に再改造される。今のブルドッグも鼻が短いので体温調整が苦手。暑さに弱いため航空会社はブルドッグの輸送を引き受けないそうです。余談ですが、ソースで有名な「ブルドックソース」はブルドッグと違い「ク」に濁点がつかない(英語名はBULL-DOG SAUCE CO.,LTDですね)とか。ともあれ、ブルドッグの悲しい歴史を知ると是非ともいい絵皿を作ってみたくなりました。

12月24日(月) <クリスマスイブ・・・>
クリスマスイブにも特別の行事がない平凡な生活ですが、忘れずにやることが一つあります。それはクリスマスのメッセージを外国にe-mailすること。以前はクリスマスカードを一ヶ月も前に発送していましたが、今は当日のメール。日本で24日にだせば、相手はクリスマスイブの朝にメッセージをみることになるのでそうしています。勤め人時代に付き合った外人とはほとんど縁がなくなりましたが、スウェーデンの元エンジニアさんとは親しい関係が続いています。彼はクリスマスの時期に家族中の状況をメールしてくるので、私も一年分の出来事を書かなければなりません(スウェーデン語でなく英文)。昔、ストックホルムの北70km・ウプサラと云う街にある彼の家に行った・・。ウプサラの丘では模型飛行機を飛ばした・・。彼が我が家に来たこともある。彼と渋谷の東急ハンズに行って模型のエンジンを買った・・。彼の息子夫妻がオーケストラの一員として来日した時には歌舞伎に案内した・・。こんな懐かしい思い出に浸りながら、メールを書くのはまたクリスマスイブの楽しい時間でした。
今晩はアール(コーギー犬)と妻と私、そろって恵比寿ガーデンプレイスに散歩に行きました。世界最大級というバカラ製シャンデリアなどクリスマスイルミネーションは例年と変わりがないように見えましたが、空にはくっきりと見事な満月。クリスマスイブには満月が似合うことをはじめて知りました。

12月25日(火) <メリークリスマス・・・>
「メリークリスマス」(clv用紙にパステル画)を「今日の作品」に掲載しました。クリアベール(clv)というのは昔ヒット製品であった空気清浄機の商品名で、この集塵した後の用紙を再利用して絵を描いたシリーズを「CLEAR VEIL Painting」として、このホームページの一角に紹介しています(=ここ/是非ご覧下さい)。クリアベールは確か数年前に倒産して店頭で見かけなくなったのですが、その後復活したのか用紙の補充はできるようです。今回、年末に空気清浄機をとりだして用紙も入れ替えたのを機会に久しぶりにclv-Paintingを試みました。今日、クリスマスの日に描いたのでタイトルは「メリークリスマス」。以前は集塵した模様をできるだけ活かした具象画を描いたのに対して今回の抽象は少し描き過ぎたかも知れません。集塵紙を再利用することは現代の何でも地球温暖化防止に結びつける流れとも一致しているようにも思えるのですが、数年前に試みて以来、これほど反応がないものは少ないといえるほど独り相撲に終わっています。本当は汚らしいとか廃材を使うことはないなどと思われているのでしょうか。こういう素材を使う時に美と醜について考えさせられます。枯れ葉や枯れ枝は必ずしも「醜」ではありません。醜悪に見える花もあります。美しい泣き顔もあれば、醜い笑顔もある。醜は感覚であるとすれば、美は発見でしょうか。少しでも多くのものに美を発見すること・・、これをクリスマスの日に今一度自分にいい聞かせています。


12月26日(水) <「です、ます」調の文体を・・・>
「です、ます」調の文体をまた元の「だ、である」に戻すことにした。12月15日からわずか11日間の「です、ます」であったがこれも経験。当初、「です、ます」とするとソフトな感じで新鮮に思えた。ところが後で読んでみると何となく”カマトト”(=かまぼこはトト<魚>で作るのかと尋ねる)ぶって、云いたい事をはっきりと伝え難いところがある。それに「です、ます」は丁寧にみえながら相手に上下関係を意識させることがあるようだ。反対に「だ、である」は主張する文章であるので、これも使い方は難しい。断定的な言い方は同意出来ないときには読み手が不愉快になる。・・私の場合毎日書くコラムについては文体にしても文章の内容にしても「鈍感」であることに徹する。毎日のつぶやきを気にしていては書き続けることなどできない。読んでくれる人にはありがたいと思いつつ、何と思われるかを気にしない。最近、文章を書く事と絵画を描く事とは随分似ていると思うことがある。なぜ絵を描くか。自分の内面を表現したいというケースもあるだろうが、そればかりではない。ただあるがままをスケッチして描くのもまた無上の楽しみとなる。自分の思いを伝えるのが文章であるかもしれないが、主張ではなくスケッチのような文があってもよい。文体もそれほど神経質に考えずに「です、ます」と「だ、である」を適宜まぜこぜでも構わないとも思う。そうすると”先生”からは注意されますかね?!

12月27日(木) <今年最後の作品・・・>
今年最後の作品ができあがった。「今日の作品」に掲載した「台座オブジェ(陶芸)」である。陶芸教室で製作中の時には「キャンドルスタンド」といっていたが、完成してみるとキャンドルに限らずに色々な台座に使えそうなので、この名前にした。各種サイズのロウソクが取付けられる穴を開けているけれども、ロウソクに代わるLEDを使った灯りとムギ球を使った灯りを数点工作で制作して事前準備していた。ロウソクの火の色に近いのはムギ球(1.5V)であるが球の寿命も電池の寿命も短い。一方、LED(3V)は寿命が長く、電池も長持ちするがLED球の価格はムギ球の10倍近い。そんな矛盾に頭をひねりながら工作を楽しんだ訳である。ところが実際の陶芸作品をみるとLEDやムギ球の灯りだけではなく花や植物をからませてもいいし(内部には容器を入れるスペースがある)、縫い包みを入れてもいい。遊び方は工夫次第だ。とりあえず、このオブジェを使ったデコレーションを一つ陶芸コーナー(=ここ)に掲載してみた。次ぎなる目標はこれを使って正月用の飾りを作ること。正月の飾りができたら是非とも誰かをご招待したいなぁ・・と少々浮かれている。


12月28日(金) <美術品市場が活況・・・>
美術品市場が活況であるそうだ。ニューヨークで行われたサザビーズのオークションでは数十億ドル規模の取引があったという。ところが内容を知ると少々複雑な気持ちである。まず作品の値段が高騰しているのはいいとして、ウォーホールの作品に7100万ドル(約80億円)、マチスの絵画に5700万ドル(約38億円)の値がついたとある。何の事はない、商品価値の定まった無難な絵画を更に大金持ちが買い集めているに過ぎない。それに購入者はマイクロソフトのビル・ゲイツなど米国の大富豪ではない。このところ世界の美術品を値をつり上げて買っているのは、ロシア、中国、インド、それに中東の大金持ちである。石油価格高騰の裏には石油で得た巨万の富(=表現としてはこれは不適、実は何百兆もの富)が中東に集中し信じられないほどの大富豪がいる。一方、人口大国の中では日本を格差社会ということなど冗談と思えるほど貧富の差を作りながら、また別格の大金持ちを生んでいる。大富豪になると美術品を買いあさるのは昔からのパターンであるので、その時代の勢いのある地域に美術品が移動するのは不自然ではない。そんな時に新しい美術家が発掘されることもある。フランスの画家マチスは米国の富豪のスポンサーがついて世界に羽ばたいた。ところで、日本の新しい美術家を中東やロシア、中国などに売り込む画商はいないのだろうか。1987年にゴッホのひまわりを58億円で購入した(安田生命)ような勢いは今の日本にないとすると、せめて売り込みができないものか。売り込むモノを探すのが先かなぁ・・。

12月29日(土) <フランダースの犬は日本人だけ共感・・・>
「フランダースの犬は日本人だけ共感」と伝える読売新聞ブリュッセル特派員の記事が目についた。「フランダースの犬」の原作は1872年にイギリス人がベルギーのフランダース地方を舞台に書いた童話。主人公ネロと忠犬パトラッシュが最期に大聖堂の中に飾られたルーベンスの絵の前で天に召される結末に日本人だけが共感することを検証する映画をベルギー人が制作したという。この映画監督(36歳)の言葉を引用して、欧州ではこの物語は「負け犬の死」としか映らないので評価されないとか、日本人独特の「滅びの美学」が共感を呼ぶのだと解説するが、どうも短絡的過ぎるように思える。まず「日本人だけ」という言い方は非常に危うい。日本人と一括するには日本人といっても余りに多種多様。日本文化、日本歴史に精通していなければ日本人を語れない。日本人以外もまた範囲が広過ぎる。「フランダース」に限らず、地元よりも世界の他の国(他の地域)で評価が高いとか人気があるケースは数多い。それぞれに理由があるだろうが、Wikipediaの「フランダースの犬」、”各国での評価”欄(=ここ)にはまだ納得しやすい解説がある。世界中の国で確かに文化の違いはあるにしても、同じ国の中にも様々な考えや感性がある。私は日本人の中で相性が合うのと同じ程度の割合で外国人との相性も合うものだと実感している。文化の違いを単純に結論づけるのは必ずしも好ましいとは思えない。
「今日の作品」に「台座オブジェ(陶芸)」の灯りつき写真を掲載した。


12月30日(日) <オスカー・ピーターソンの死・・・>
オスカー・ピーターソンの死を今日になって知った。一週間前の12月23日にカナダ・トロントで息を引取ったと後にAP通信が伝えていた。1925年生まれの82歳。ジャズ・ピアノ界の巨匠、銀盤の皇帝、20世紀最高のミュージシャンの一人などと呼ばれるジャズピアニストで作曲家でもあるオスカー・ピーターソン(Wikipediaでの人物解説=ここ)は、40数年前に私が一時”ハマった”ジャズプレーヤーである。当時、主にはクラシックのLPレコードを収集していた私がオスカー・ピーターソンのレコードだけは特別に買い求めて何度も繰り返し聴いた。ジャズピアノの奏者はその頃アート・テイタム、デューク・エリントンなど他に名手も多かったけれども、オスカー・ピーターソンは神業の技巧に加えて精神性の高い名演奏を聴かせてくれた。「自由への讃歌= Hymn to Freedom」(氏の1964 作曲)という曲の盛り上がり部分を今も懐かしく思い出す。今回、オスカー・ピーターソンの解説を見て「ベーゼンドルファ製のピアノを好む」ことを初めて知って一層親しみがわいた。カナダからは遠く離れたこの日本の一隅でオスカー・ピーターソンの冥福を祈りたい。

12月31日(月) <大晦日の街は静か・・・>
大晦日の街は静かである。昼前にJRの恵比寿駅近辺を歩いたのだが、店はほとんど扉を閉ざしているし開店しているラーメン屋、ケンタッキーフライドチキン、薬屋のK-ポートなどにも人影は少ない。自動車の数はいつもの十分の一程度だろうか。歩く人も少ないので歩道が随分広く感じられる。まるで別の土地に来たような錯覚に落ち入りながら、気持ちがゆったりとして無性にうれしくなった。年に一度の特異日かも知れないが、都会の真ん中での静寂は大袈裟に言えば世界観が変わるほどのインパクトがある。・・この大晦日に一年間を振返り、あれができなかった、これをやりたかったと過ぎ去ったことに愚痴をこぼすことはなくなった。それよりも新しい年のプランを考えたい。とにかくも、この年も好きな活動を続けられたこと、健康に大晦日を迎えられたことには感謝。このホームページが継続できたこともうれしい。・・みなみなさま、よい年をお迎えください!!
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