これまでの「今日のコラム」(2008年 1月分)

1月1日(火) <初日の出・・・>
初日の出をみた。いつもアール(コーギー犬)を連れて朝の散歩に行く西郷山公園(東京・目黒区)には小高い丘があり、ここは比較的眺望がよい。東京の日の出時間は6時50分。7時過ぎに公園に着いたがまだ大勢の人が丘の上で朝日の出るのを待っている。ようやく太陽の一端が木立の脇からのぞいて皆が歓声をあげたのは7時10分。みるまに眩しい陽光となった。太陽から南方向に約120度あたりにはビルの谷間から富士山。富士山も今朝は特別に神々しくみえる。家に帰る途中で門松の脇から朝日が差し込んでいたので写真を撮って下欄に掲載した。・・振返ってみると昨年の元旦にもほとんど同じように犬の散歩途中で初日の出をみた。毎年同じような繰り返しにみえても同一であることはない。今年は、何を見て、誰と出会って、どう行動して、どんな成果、作品ができるだろう。
元旦に掲載した「今日の作品」は賀状用の絵。中では右下に描いた室町時代の「鼠草子」の絵が難しかった。「鼠草子」は「 鼠の権頭(ごんのかみ)が念願かなって人間の娘さんと所帯を持ち長年連れ添ったものの、あるとき鼠であることに気づかれて逃げられ、失意のうちに出家する」という全五巻からなる絵巻物語。オリジナルの絵をNetでも見つけたのでリンクする(=ここ)。賀状の鼠の”向き”は原画を左右逆にして模写した。

初日@東京/エジプト大使館前にて

1月2日(水) <過度に賢明であってはならない・・・>
「過度に賢明であってはならない」。これは年始の親戚の集まりで見せてもらった「95歳へ」という本(渡部昇一著/飛鳥新社)を拾い読みした時に見つけた言葉である。95歳まで生きようとはさらさら思わないけれども、年頭にはいい言葉だと思って記憶した。渡部昇一さんは冒頭の言葉を「レス・フーリッシュを選択しよう」という章で使っている。レス・フーリッシュ(less-foolish)は”愚劣度が多少低い”と解説されているが、この言葉にも私は同感である。どうもバカな事ばかりやる。時間の無駄、お金の無駄も多い。けれども、他のもっとバカなことより少しはましだと思うのが一番だ。完璧主義はくたびれる。特に何か新しい創造をしようとする時、パーフェクトを意識しない方がいい。それより自分が好きなように、やりたいようにやる。たとえ、それが少々バカなことであっても・・。冒頭の”過度に賢明”というのも微妙な言い方だ。どの程度が”過度”かは人それぞれであろう。世の中には私などが見ると随分お金を貯めているのに老後の心配をして他人にはケチで貯蓄一筋の”賢明”な人もいる。賢明であり過ぎる人は変化を求めず、挑戦を避ける。・・今年も”挑戦する勇気をください”と神社にお願いした。少々バカげていても性に合っていることをやりたい。

1月3日(木) <仕事始めはブルドッグ・・・>
仕事始めはブルドッグとした。陶芸でブルドッグの絵皿をリクエストされたので家にある粘土を使って試作を始めたのである。お皿とかお茶碗など一般的に陶芸で誰でも作るものはかえって難しい。自分らしさをどう出すか、追求すればそれだけでも一生の仕事となる。抹茶茶碗を何百年間も多くの陶芸家が制作しているが元祖長次郎を越えるものにはお目にかかれなかったという体験をしたので、私は”お皿、お茶碗”の世界ははじめから敬遠気味である。まあ、そんなに固い事を言わずに・・と、今回”ブルドッグ皿”は楽しんで作ることにした。今日はまた好き勝手に試作品をいくつか制作した。「今日の作品」に掲載した「ブルドッグ皿1/粘土画」(陶芸)はその内の一つであるが、これは完成品ではなく粘土で作った中間品。絵皿としては粘土の皿を素焼きした後で釉薬で絵付けをしたり、一度焼成した後に色絵付けするケースが一般的であるが、あえてこの方法でなく、粘土の段階で線刻、化粧で描画することを試みた。焼き物で面白いのは、この粘土の段階で完成状態が予測出来ないところである。勿論、素焼き後の釉薬の種類で全く異なるし、焼成具合で”想定外”の結果がでることは珍しくない。掲載した粘土の絵は焼成を始めると二度と見る事のできないので、完成後にどうなるか比較するためにあえて写真を撮った。さて粘土が出来上がったところで、これを直ぐに素焼きすることはできない。十分に乾燥させて後、素焼き(780℃)、そして釉薬をかけてから本焼き(1230℃)。結果をみるのは一週間後のお楽しみだ。


1月4日(金) <野茂の挑戦は続く・・・>
野茂の挑戦は続く・・。今日のニュースで野球の野茂英雄投手が大リーグ復帰を目指してロイヤルズとマイナー契約を結んだと報じられている。今は日本人のメジャーリーガーは随分多くなって全員の名前を挙げられないほどになったが、野茂はまさにメジャーリーグに挑戦したパイオニアだった。任意引退で日本の球界(近鉄)を去った野茂が、1996年にドジャースとマイナー契約を交わした時に年俸が十分の一以下(!)になったのは有名な話だ。その後日本人二人目のメジャーリーガーとなり日本人がメジャーで活躍出来ることを実証した功績は計り知れない。イチローも松井も松坂も野茂の先鞭があったからこそメジャーへの道が開けた。野茂は1968年生まれで、今年は40歳となる。身体の故障(右ひじは手術)も痛々しい。野球名門校とは無縁の公立高校出身、ノンプロからプロへ、自由契約でなくマイナーリーグへ・・。野茂の強さは逆境に負けぬ雑草的強さ、名門にはない独創の技。専門のコーチに直されなかったのでトルネード投法は生き残った。私は野茂をいつまでも応援する。今後の活躍を祈ろう・・。
今日はもう一つ、トピックを記しておきたい。それは”五体不満足” の乙武洋匡(おとたけひろただ)さん(31歳)に男児が誕生したというニュース。乙武さんに接すると人間観が変わる。人間に奇跡をみる。身体が具合が悪いとウジウジするのは恥ずかしくなる。乙武さんご夫妻には心からおめでとうをいいたい。

1月5日(土) <今年はどうも何か物足りない・・・>
今年はどうも何か物足りない。元旦から続くこの満たされぬ原因は直ぐに分かった。昨年一年間、365日、朝食の前に、欠かさずに「音読カレンダー」を読む事とその日の「タングラムカレンダー」を作ることを日課としていたのが、両方ともに年が変わるとなくなったのである。これらのカレンダーのことは昨年1月2日のコラム(=ここ)に書いた。タングラムは正方形を七つの形状に切り分けた部品(三角形大小、正方形、平行四辺形など)で毎回違う形を作るパズル(タングラム=ここ)。旅行などの期間も含めて昨年は365日分の課題は全てやったけれども、米国製のタングラムカレンダーを今年は入手できなかった。日めくりの「音読カレンダー」(くもん出版)は遅まきながら今日ようやく手に入った。最近流行りの脳研究によれば、本を音読するときに脳は非常に活発に働く(=脳の血流の流れが速い)という。黙読したり、考え事をするよりも音読の方が脳は活性化するのは感覚的にも分からないではない。特に、”下手の考え休むに似たり”で、考えている振りをして脳は一向に働いていないことはよくある話。音読すると、それも出来るだけ速く読むようにすると集中するのは確かである。今日、1月5日のカレンダーは夏目漱石の「坊ちゃん」の出だしのところ。「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている・・」と今日の名作は読み易い。明日からは早朝の犬の散歩から帰ったときに名作文学を音読するペースに戻ることができそうだ。
「今日の作品」に掲載した「 ブルドッグ皿2/粘土画」(陶芸)は前回の続き。追って完成品と比較する予定。

1月6日(日) <六本木散策・・・>
六本木散策の半日だった。東京はこの時期にしては風もなく暖かい日和(ひより)。突如、国立新美術館をスケッチしに行くことを思いついた。国立新美術館(建築写真など=ここ)は六本木・赤坂エリアの再開発された一角に一年前(2007年1月)オープンしたばかり。その建築がユニークであるのでいつかスケッチしてみたいと思っていたので、今日は自転車で家をでて快晴の下、気持ちよくペダルをこいだ。六本木ヒルズを通り過ぎたところで小径に入り美術館に着いたら美術館はお休み(8日まで休館)。これは想定内であったが、休館でも建物全体をみる位置には行けるだろうと思っていたら、そうはいかない。真正面のアングルで建物を見るのは開館中でないと無理だと分かった。隣の敷地に入ってしばし眺めてはみたがまた出直す事にした。その代わりに側のミッドタウンを散策した。自転車は3時間無料の駐輪場へ。ショッピングの趣味はないのでミッドタウンでは庭を歩く。ミッドタウンの敷地の庭と境目もなく港区の檜(ひのき)町公園が隣接している。檜町は江戸時代には毛利家の中屋敷があった場所で大名屋敷の中でも名園として知られたという。今も公園の池に歴史の面影を見ることができる。都心の公園でもまだ思わぬ発見がある。庭で撮影した「今日の写真」を下に掲載する。

1月6日@東京ミッドタウン庭にて
1月7日(月) <今日は七種粥(七草粥)・・・>
今日は七種粥(七草粥)を食べる「七草の日」、「人日(じんじつ)の節句」である。人日とは文字通り「人の日」で、「古来中国では、正月の1日を鶏の日、2日を狗の日、3日を猪の日、4日を羊の日、5日を牛の日、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにしていた。そして、7日目を人の日(人日)とし、犯罪者に対する刑罰は行わないことにしていた」と解説にある(=Wikipediaより=ここ)。ちなみに季節の節目となる節句は1月7日、「人日の節句」以外は全て月日の数が同じ、即ち、3月3日(上巳/桃の節句)、5月5日(端午/菖蒲)、7月7日(七夕)、9月9日(重陽/菊)。風習には無頓着な我が家でも今晩の食事はあっさりした七草粥にしたい。そうかといって、セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロの春の七草を畑や野原で収穫してくる訳にもいかないので、私がスーパーに行って材料を集めることにした。案の定、店には七草粥用のセットが売っている。北海道産と銘打っているのはフリーズドライ製法で七草を乾燥させた材料(これは更に金箔入り!それと不思議な事に製造者は広島県だ)、もう一つの大分県産の「春の七草」は生の材料をそのまま集めてある。どちらにしても今夜は七草粥に決まりである。・・君がため、スーパーで買い求めた七草をもって店の外にでると冷たい小雨が降ってきた・・。
「君がため 春の野に出て若菜(=七草)摘む  わが衣手に ゆきはふりつつ」(古今和歌集/光孝天皇)

1月8日(火) <松飾りもとれて・・・>
松飾りもとれて今日から新年の日常に戻った人も多いだろう。ノルマ仕事のない自分でも正月気分とお分かれして新鮮な気持ちで創作のスタートをきった。やはり生活には休養と集中、強弱のリズムが欠かせない。最近になって全ての事柄に、こうしたバランスが重要だと思うようになった。バランスと書いたが、強弱、濃淡、明暗、緊張と弛緩、激しさと優しさ、華々しさと静寂などなど、相反するものの”配列”に価値を見出すというか、美の源泉をみる。音楽の曲、あるいは演奏も単調では面白くなく、「配列」が聴かせどころとなる。絵画は画面全体の中でのバランス、配列が感性をくすぐる。静寂な静物画にも必ず微妙な濃淡、明暗があるものだ。野球の名ピッチャーは球の配列がすばらしい。名アスリート(運動選手)は全て”強力”だけでなく力の抜き方がうまい。・・さて、この行事の多い正月にも特別”ゆるんだ”時間を持つことができた。それは暖房をつけた居間で妻と二人テレビを消して賀状などを見ながら過ごした時。テレビの音声がないと昼間であるのに何一つ物音が聞こえない。ただそれだけで別世界にいるような豊かな時間となる。「書を捨てて街にでよう」(寺山修司)流に云えば、外で活動するリズムを作るには、「テレビを捨てて家で語ろう」。
「今日の作品」に「ブルドッグ皿1(陶芸)を掲載。焼成前の写真を陶芸コーナー(=ここ)に並べて比較してみた。

 1月9日分
1月9日(水) <KYとは何か・・・>
KYとは何かと問われて答えは人それぞれであろう。流行に敏感な人は昨年の流行語大賞にノミネートされたKYを思う。これは「空気が読めない」とその場の雰囲気や状況に疎いことを揶揄(やゆ)して使ったり、一方で「空気を読め」という意味で使うこともあるようだ。私はこのKYは無責任メデイアがでっち上げた極めて日本的な”流行語”で好きになれない。かつて、山本七平氏は名著「空気の研究」で日本人独特の「空気」を論じた。その中で氏は論理的判断基準と空気的判断基準があるところで、我々が本当の判断基準としているのは「空気が許さない」という空気的判断基準であると喝破(かっぱ)した。メデイアが多用したKYはまさに論理とは無縁な「空気」のお仕着せにみえる。このKY、そろそろ使われなくなってきたのがうれしい。私の場合、KYとは「危険予知」。例えば、建設現場などでは毎朝必ずKY(危険予知)のミーテイングを行う。その日の作業で予測される事故は何があるかを皆で確認し合って事故を未然に防ぐのである(例えば高所作業では安全ベルト着用など)。危険予知は現場の作業に限らず全ての行動に有効であると思われるのに一般には余り浸透していない。リスク管理の一環として危険予知のKYはもっと普及させたいものである。関連して、WebでKYを調べると、朝日珊瑚事件がでてきたのには驚いた。朝日新聞が珊瑚礁に「KY」の落書きがあると写真入りで大きく報じてダイバーのモラルを非難した記事が実は新聞記者の自作自演の偽報道であったという事件(平成元年)。昨年は食品の「偽」が問題になったが、報道の「偽」ほど恐ろしいものはないことを思い起こさせるKYだ。
「今日の作品」に「ブルドッグ皿2(陶芸)」を掲載した。

1月10日(木) <六本木の美術館・・・>
「六本木の美術館」(ペン&水彩)を「今日の作品」に掲載した。1月6日の日曜日に六本木の国立新美術館へいって建物のスケッチをしようと自転車ででかけたところ、まだ正月休みで閉館中であったことは1/6のコラムで書いた(=ここ)。その後も自転車でいくことが出来ることに味を占めて平日にまた行って仕上げたのがこの作品である。前の東大生産技研の跡地(東京・六本木)に建設されて丁度一年前にオープンした建物は故黒川紀章氏の設計。この建築が好きなので描いてみようと思ったが、絵として非常に表現し難いことを改めて実感した。それはさて置き、私は、この「国立新美術館」という名前がどうも気に入らない。「国立」の名前は権威好きな人には避け難い執着があるようだ。それにしても「新美術館」とは何だ。「新」など何年か経つと色あせる。当初、この美術館は「ナショナル・ギャラリー」と仮称されていた。ところが、ロンドンやワシントンのNational Galleryは膨大な数の自分の美術品を所蔵し、curator(キュレータ−/学芸員)や修復家など多くの美術専門家をかかえる本格的な「美術館」であるのに対して、建設されたのは美術団体が催す公募展の展示スペースを提供するものであって、「ナショナル・ギャラリー」は不適とされたことは周知の事実(いまは最低限のキュレーターをかかえて特別展も開催する)。そこで「六本木ギャラリー」でもなく「国立展示場」でもなく「国立新美術館」が採用された。その建物の現場にある英文名が、THE NATIONAL ART CENTER,TOKYOであるのが苦渋の選択を伺わせる。いずれにしても美術館のハードはすばらしい。後はここにどんなソフトを持ち込むか、今後を見守りたい。

1月11日(金) <給湯器が故障して・・・>
給湯器が故障して風呂にも入れなかったが2時間足らずの工事で新品に交換できた。給湯器はもう20年以上使用しているので文句は云えない。復旧する際にここでも活躍したのがWebのサイトであった。こちらの条件を連絡すると的確に見積もりがでる。各社を比較して最も有利なところに取り替え工事込みで申し込むと直ぐに工事の日程がセットされる。直近の工事会社から事前に電話で確認があり予定通りに交換。実にスムースな対応で感心した。しかしながら、「故障」に対しては20年経過といえども不満は残る。今回は水を加熱するボイラー系統は全く問題なく、恐らくは温度を調節するコントロールバルブの不良と思われる。一般に故障が一番多いのは「基板系統」であるようだが、どちらにしても型式が古くなると交換部品が単体では手に入らない。本体はまだ使えるのに部品がないので丸ごと交換とは”モッタイナイ”。冷暖房機のように新式に交換する事によって省エネとなるのであればまだいいけれども、新式ボイラー(給湯器)の効率は少しは改善されているのだろうか。まあ、ガス代が少なくなるほどの効果は期待しない方がよさそうである。
1月12日(土) <マーフィーの法則・・・>
「マーフィーの法則」が今でも人気があることをはじめて知った。新宿のジュンク堂書店のあるコーナーにはマーフィー関連の本が10冊以上並んでいて、中には21世紀版まである。「マーフィーの法則」は20年ほど前に日本でも大流行したので我々の年代には懐かしい。米国空軍の研究所に勤めるマーフィー(Murphy)大尉は元来はエンジニアで自分の失敗に基づく経験則をユーモアを交えて巧みな喩え話で表現した。「失敗をする方法があれば、その方法でやってしまう」は私がいつも忠実に従う法則だ。またマーフィーの法則には潜在意識をとらえたものも多い。「よいことを思えばよい方向へ、悪いことを思えば悪い方向へ」という単純な法則で、「スピーチでアガリそうだと思うと実際にアガル」類だ。マーフィーの法則でいいところは、ネガテイブな面を強調するのでなく、逆手をとって自己暗示によりプラスの力を得るところであろう。最近の「プラス思考の勧め」も同じであるが、法則などと大袈裟なことをいうまでもなく、プラス思考は大昔から人類が生活する際の”知恵”である。「失敗は成功の母」、「求めよ、さらば与えられん」、「願えば叶う」、「塞翁が馬」・・、限られた短い命の期間に嘆きは無用だ。

1月13日(日) <タレントの語源であるタラントン・・・>
タレントの語源であるタラントン(古代ギリシャ語)は元来金や銀の秤量単位であった。聖書に才能に応じてタラントン(金)を分け与えるというたとえ話があり、転じて「天賦の才能」の意味になったとされる。英語の辞書では、talent=(生まれつきの)才能、(特殊な)能力、手腕などとある<英和辞典/研究社>が、いまのタレントは専ら「芸能人」の意味であろう。芸能人が特別な才能があるか否かは別として、語源となった新約聖書「マタイによる福音書」25章ー14-30を改めて読んでみると、タレントとは無関係に、西欧文化の考え方、才能のとらえ方、平等の考え方、更にキリスト教的な神の厳しさ、優しさなど色々なことを考えさせられる。Webでもこのたとえ話(=ここ、解説のない文=ここ)を読むことができる。ある主人が旅行に出る際に、僕(しもべ)の力に応じて5タラントン、2タラントン、1タラントンの財産を預ける。能力のある者は預かったものを倍に増やし、怠け者は何もしない。主人を恐れるあまり1タラントンを増やす事が出来なかったしもべはタラントランを取り上げられ、外の暗闇に追い出される。神から与えられた才能は平等であるとの意識などさらさらない。神はその上で信ずる者に手を差し伸べる。・・これだけ世界が近くなった時代であっても他の文化を十分に理解するのは容易ではないとタレントの語源一つからも思い知らされる。
1月14日(月) <次の演奏会にもまた是非いってみたい・・・>
「次の演奏会にもまた是非いってみたい」と丁度一年前、2007年1月14日のコラムで書いた演奏会に今日また行ってきた。場所も昨年と同じ東京芸術センター(北千住)内21Fの天空劇場。音泉室内合奏団の演奏会(東京公演)である。演目はモーツアルトの交響曲Nr.41ジュピター、それにウィンナ・ワルツ&ポルカを7曲。この合奏団は松本交響楽団のメンバーなどを主体にしたほとんどがアマチュアの楽団であるが、昨年と同じく日本の音楽のレベルの高さというか、日本文化の奥深さに触れる思いがした。コンピューターのプログラマー、お医者さん、役所勤め、その他諸々の職業を持った人たちが集まって一つのシンフォニーを奏でる。聴衆を感動させるかどうかは、プロであるか、アマチュアかは全く関係がないとは常々私が主張するところである。絵画でもスポーツでも他の芸術分野でも感動を呼ぶか否かはプロ、アマの区別がない。むしろアマチュアの二度と機会がないかも知れないという緊迫感や喜びを聴衆は敏感に嗅ぎ付ける。今回の演奏会も前回に続いて満員の盛況であった。はじめの言葉はそのままここでも繰り返したい。

1月15日(火) <ちびまる子ちゃんの四字熟語に「月下氷人」・・・>
ちびまる子ちゃんの四字熟語に「月下氷人」があることが我が家の夕食時の話題になった。ニューヨークに住む7歳の孫娘は”ちびまる子ちゃん”が大好きで「ちびまる子ちゃんの四字熟語教室」を愛読している。その中に「月下氷人」があったというので周りの大人達が目をパチクリした。「月下氷人」は結婚の仲人(なこうど)の意であるが大人でもその故事には詳しくはない。まる子ちゃんに負けないように早速Webで調べてみると、実に分かり易く中国の故事を説明してあるサイトを見つけた(=ここ)。物語を抜粋すれば、一つは月明かりに照らされた下で不思議な老人(月下の老人)がある青年の結婚相手を予言し14年後に的中させた話(続幽怪録)、もう一つは占いの名人に”氷の上に立って氷の下にいる人と話した”という夢を占ってもらうと「結婚の仲人をする前兆」と予言されてその通りになった話(晉書芸術伝)である。月下氷人は月下老人と氷人の二つの故事からなる合成語で、中国では仲人のことを月下氷人とは云わず「月下老人」が用いられると解説にあった。それにしても本当にインターネット検索はありがたい道具である。ちびまる子ちゃんの四字熟語ではどんな説明なのか見てみたい・・。

1月16日(水) <今日は昔の薮入り・・・>
今日は昔の薮入りにあたる。薮入りは正月・七月(お盆)の16日ごろに奉公人が自宅に帰ること、また、その日のことであるが、いまではほとんど薮入りと云う言葉も聞かなくなった。落語の世界(薮入りという名作がある=ここ/大抜粋)にわずかに名残をとどめている程度か。奉公人でも主人でもない私にとっても正月の薮入りは一つの区切りを実感するから面白い。つまり、正月の行事、新年の始動・あいさつ、そして成人式の休暇などが一段落して次のステップへ進むのがこの時期である。実は今日、どういう訳か創作するネタについて次から次にアイデイアが湧いてきた。アイデイアというのは努力してその場ででてくるものではない。ある時突然明らかに波というかリズムを伴って現れる。年末から正月には休息していた何かが動き始めた感触で今日は浮かんだイメージをメモするのに忙しかった。薮入りは日頃休みもなく働き続けた人が薮の奥深い故郷に帰って休息出来る真にうれしいことであったに違いない。この時期、私のバイオリズムもうれしい活動の周期に入った。

1月17日(木) <1月17日は・・・>
1月17日は阪神淡路大震災の日(13年前だ!)であることは決して忘れない。一方、我が家で使っている音読の日めくりカレンダーでは「1月17日は金色夜叉の日」とみえる。昨年と同じ尾崎紅葉の金色夜叉がまた使用されているからだ。音読カレンダーは極一部の抜粋であるので、それならばと今日は「金色夜叉を原文で読む日」とした。ほぼ百年前のこの小説の名調子をインターネットで読むのもまた一興。かなり忍耐強く集中しなければ読み続けることができないので”脳トレ”になるかも知れない。「あゝ、宮さんこうして二人が一緒に居るのも今夜限だ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜限、僕がお前に物を言うのも今夜限りだよ。一月の一七日、宮さん、よく覚えてお置き。來年の今月今夜は、貫一はどこでこの月を見るのだか!再来年の今月今夜……十年後の今月今夜・・一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!いいか、宮さん、一月の一七日だ。來年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が・・月が・・月が・・曇ったらば、宮さん、貫一はどこかでお前を恨んで、今夜のやうに泣いて居ると思ってくれ。」(Web金色夜叉=ここ=より/ページ中段にこの台詞あり、文字は読み易く直した)それにしても改めてこの原文を読むと、一高生の間貫一は何と未練がましくネチネチと宮さんを責めることか。宮さんにはこんな偏執性のいやらしい男とは別れてしまえといいたくなる。とにかくも今日は金色夜叉(Wikipediaによる全般解説=ここ)を読む日となった。

1月18日(金) <南極の領土権・・・>
南極の領土権を思い起こすニュースをみた。南極海を航行中の日本の調査捕鯨船に不法に侵入した環境保護団体の活動家二人(オースラリアリア人&英国人)をようやく豪の監視船に引き渡したという。環境保護の名目で傍若無人な行動をする輩は珍しくもないが、今回も薬品入りの瓶を投げつけたり、スクリューにロープを絡ませようとしたり、やりたい放題。問題はこんな活動家をオーストラリアのマスコミは英雄扱いで喝采をあびせる。オーストラリアは反捕鯨の急先鋒である一方、南極の一部の領土権を強力に主張する国でもある。南極は現在世界各国で南極条約(Antarctic Treaty) が締約されて、かろうじて領土争いが回避されている。けれども南極の一部に領土権を主張する7カ国の立場も認めた上で、その主張を凍結しただけである。7カ国とは、英、ノルウェー、仏、オーストラリア、ニュージーランド、チリ、アルゼンチン。南極とはるかに離れた英国、ノルウェー、フランスまで領土を主張するのは、昔の植民地感覚と変わらない。アメリカ、ロシアなどが入ってないのはどうしてかと思うと「米、ロシアは現状では領土権を主張しないが、過去の活動を特別の権益として留保している」とのこと。「南極を国際的な管理下に置くべき」との日本の主張は当然とも思えるのに各国の“権益”の前には霞んでしまう。環境保護団体が環境保護のために南極の領土権を撤回して国際管理とすることを訴えるという話はきかない。

1月19日(土) <今日の一日・・・>
今日の一日・・。朝の6時10分にアール(コーギー犬)を連れて家をでる。東京ではこの時間、まだ真っ暗。寒さの中を小走りで約15分。霜柱を踏みしめて西郷山公園の丘の上に立つと東の空が少し明るくなってきている。そんな中にただ一つ輝く明けの明星(金星)。帰路はこの星をみながら東へ。空は見る間に明るさを増して家に着く頃には夜明け。・・am8時にはテニス場の側のcafeでモーニングコーヒーを飲んでいる。9時にはラケットを持って駆け回る。・・pm1時半には陶芸教室で大ピラミッドを仕上げるため粘土で細工中。ただし今日の作品のアウトプットはない。・・pm5時にはパソコンでメール。・・そして一日はまだまだ終わらない。特別なことがなくてもよい。レストランで食事をするよりも、運動や作業の後に飲むコーヒーの美味さに勝るものはない。こうして元気に動き回れることが何より幸せであろう。・・と思っていると、夕食の後にSPECIAL妻の手作りチーズケーキのデザートがでた。そう、今日は私の誕生日である。
1月20日(日) <高価なワインはおいしく感じる・・・>
「高価なワインはおいしく感じる・・」という研究結果を報じた記事をみた(CNNニュース)。90$のワインに90$と表示、90$のワインに10$と表示、5$のワインに5$と表示、5$のワインに45$と表示。こうして各サンプルを準備してワインを試飲してもらう。そしてMRI装置で試飲する人の脳の活動を観察した。その結果、高価とされるワインを飲んだ時ほど脳の快感に反応する部所が活性化したという。テストを行った米国CITの研究チームは「実際の味覚のほかに期待感も含めて脳はおいしさを認識する」と説明する。脳の反応はともかく、こんな話は他にもいくらでも経験をする。高価な牛肉は一層おいしく感じるし、高いブランド品ほど満足感が大きい。月謝が高いほどいい先生と思われる。高値であるが故に偽物の骨董品に騙される。一方で市場価格の定まっていない「作品」に値段をつけるのは難しい。安い値段で提供しようと思っても、安過ぎると内容も貧弱と思われる。どんなに高価なものでも満足感がそれを上回ればむしろ”安い”買い物となる。満足感とは「思い込み」であろう。・・冒頭のワインテストで値段を知らさずに試飲したときに“一番おいしい”と評価が集まったのは一番安い5$のワインだったそうだ。これは研究者も予想外で首をひねっているとか・・。
1月21日(月) <片岡球子さんが亡くなった・・・>
片岡球子さんが亡くなった。女性画家の最長老として日本画壇を支えたと記事にあるが、私は彼女の大胆な構図、鮮やかな色彩、思いきりのいい造形が好きであった。大胆にデフォルメした”面構え”などの絵画でいつも元気にしてもらったし、100歳を越えても現役を通すバイタリテイには圧倒された。今日、16日に心不全で死去したと発表されたが、享年103歳(1905-2008)の大往生である。片岡球子さんは50歳までは小学校の先生と画家を両立させ、50歳を過ぎて画壇で大活躍、更に美術大学の教授も勤める。生涯独身を通した。同時代の女性日本画家としては、小倉遊亀(おぐらゆき/1895-2000)がやはり長寿であった。104歳のときパリで個展を開くなど、105歳で死去するまで日本画美術界で活躍。小倉遊亀は40歳を過ぎて結婚して小倉性となったが(旧姓、溝上ゆき)、画家の夫は名前を残していない。女流画家はどうしてこんなに元気でしかもいい絵を描くのだろう・・。こういうと、もう一人、これも私の好きな洋画家、三岸節子を挙げない訳にはいかない。三岸節子(1905ー1999)は19歳で新進気鋭の画家三岸好太郎と結婚するが10年の結婚生活の後夫と死別する。その後3人の子どもを育てながら女流画家の第一人者として94歳で亡くなるまで迫力ある絵を描き続けた。私は今でも三岸節子の画集を時々みては勇気をもらう。それぞれの肉体は果てたが産み出したものはいつまでも我々を元気づけてくれる。

1月22日(火) <健康診断にも合理化・・・>
「健康診断にも合理化・・」と書き始めると新聞の論調的には”けしからん”と続くのであるが、私は「・・合理化が進んでいるのをみてうれしかった」。毎年、今の時期に健康診断にいく。区の無料健康診断であるが、お役所の場所(保健所など)ではなく一般のクリニックで受診すると一年前と比べて”進化”しているのである。まず以前は服を脱いだ後、検診用の簡易服を羽織って受診したが、今回は男性の場合下半身はズボンのまま、上半身は自分の下着で済ます。また例えば眼底検査をした後、数分間は眼が正常に戻るのを待っていたのを、直ぐに横に寝かせて心電図をとる。その際、目を閉じているので眼底検査による残像が残っていても関係なく検査はできる。こんな調子で検査時間も短縮されるので言う事はない。老人が行くところがないので病院で時間をつぶすことなど過去の話にしなければならない。病院での滞在時間は短ければ短いほどよい。私はガソリンスタンドのセルフ化を連想して健康診断は将来まだまだ合理化(言葉が嫌なら”時間に優しくする!”)の余地があるのではないかと思った。
「今日の作品」に「胡蝶蘭/クローズアップ(水彩)」を掲載した。これまで 胡蝶蘭は何枚か描いているので(2005-1/17=ここ、2006-2/1=ここ)、今回は一つの花を思いきりクローズアップして描いてみた。あえて真正面から描いたが、植物の構造を見せるためには斜めからの構図の方が分かり易かったかも知れない。


1月23日(水) <「立ち机」を本気で考えよう・・・>
「立ち机」を本気で考えようと思い始めた。先日、親戚の集まりでドイツのゲーテハウスにゲーテが使っていた「立ち机」が展示してあったという話を聞いて私の「立ち机」への興味が再燃したのである。「立ち机」は役所などにある記入台ような立って書類を書く机をいう。私は腰痛対策を考えて人間の身体姿勢としては立って作業をするのが最善と、一時パソコンを立って操作するようにしたことがある。この時はパソコンのキーボードと画面が適当な位置(高さ)にセットできず、長続きしないで椅子作業に戻してしまった。ゲーテの話を聞いた後、インターネットで調べてみるとゲーテだけでなく、トルストイも立ち机を使っていたようだ。また評論家、エッセイストの外山 滋比古氏(1923-)も立ち机愛好者という記事もあった。案外に色々な人が”立って”仕事をしているのでないだろうか。私は腰痛対策を主眼としたが、脳は立っているだけで活性化するので”思考”するにも立って考えるのが最適との解説もある。そう云えば、キャンバスに向う画家はほとんどが立ち仕事で描きながら考える。身体も健康な人が多い。ゲーテの立ち机には少し傾斜が付けてあり、いかにも使い勝手がよさそうな形をしている。ゲーテ型立ち机の制作という課題ができた。

1月24日(木) <時に宇宙的な視野でみると・・・>
時に宇宙的な視野でみると全ては些細な営み(いとなみ)に思える。少し前に「UFOは存在するか」について国会で質疑されたことがあったが、石原慎太郎都知事が面白い話を紹介していた。以前、ホーキング博士が講演を行った際の質疑で、「地球並みに文明の進んだ惑星は宇宙全体でどのくらいありますか?」と質問されたところ、博士は言下に「200万」と答えたという。「それほどの数がありながら、どうして宇宙船(UFO)が地球に飛んでこないのですか」との再質問に「その程度の文明を持った惑星は循環が狂って宇宙時間からいうと瞬間的に消滅します」が回答。地球であれどんな星でも生誕から消滅のサイクルを繰り返すが、宇宙時間からみると短い時間の中に一つの星が存在している。更に人類が地球上に生まれてからの現在に至る時間はごく短い。この瞬間に何億という星から同等の生物が地球に信号を送り得る確率は無に等しい、つまりUFOが到来することは地球存続の間にあり得ないというのが私なりの解釈だ。ホーキング博士(1942-)はイギリスの理論物理学者。オックスフォード、ケンブリッジで学びながら筋萎縮性の病となるが「ブラックホール理論」など宇宙や時空に関連する研究を発表し、車椅子を使い、コンピューターで会話をする天才であることはよく知られている。20年ほど前の「ホーキング宇宙を語る」は一般向けに分かり易く宇宙を解説した名著だった(懐かしい!)。このホーキング博士は昨年米国の専用機で車椅子から離れて無重力を体験、そして来年には宇宙旅行することが決まっている。宇宙を知れば知るほど「地球」が奇跡の星である事を思う。その星の上で生存していることもまた奇跡。命を存分に活かさなればモッタイナイこともホーキング博士は教えてくれる。

1月25日(金) <転んでもただでは起きない・・・>
「転んでもただでは起きない」ことをモットーとしているけれども、実際に転んだ当初はそんなきれいごとを言う余裕はない。意気消沈して回復までにしばしの時間を要する。10日ほど前にはバイオリズム好調と有頂天になっていたが、この一週間突如トラブルやら失敗続き。こんな時にはコラムにトラブルのことも書きたくはない。この日になってようやく起き上がれたので、このコラムを書いている。具体的には、滅多にない事であるが外で失言をして自ら余計なことを言わなければよかったと悔やんだり、家の電気窯で焼成した陶芸品がこれまで経験のないほどに窯の内部で粉々に破損したことなど。冷静になってみるとそれぞれに反省点は多く、特に窯のトラブルはこれまでに失敗したことの延長である。要は乾燥不足が一次原因で焦りと過信、それに使用した特殊粘土に対する知識不足が二次要因であろうか。ショックであったのは我ながら以前の失敗の「再発防止」ができていなかったことだ。テレビをみていると年がら年中、不始末を起こした責任者が”再発防止に努めます”と頭を下げている。この再発防止、言うほどに簡単ではない。何も行動しない評論家は頭を下げる責任者に好き勝手なコメントをして揶揄するが、実際に失敗をしないことは極めて難しい。モノツクリでは失敗から学び、進歩するものだが、私のように同じ失敗を繰り返すようでは、取り組み方に問題がある。調子に乗り過ぎて慎重さに欠けた者にはいいお灸だった。「だだでは起きない」でどうしたか、結果はまだ少し先をみなければならない。

1月26日(土) <コーギーのヤジロベー・・・>
コーギーのヤジロベーのリフォーム版を「今日の作品」に掲載した。このヤジロベー(弥次郎兵衛=釣り合い人形)は6-7年前に作ってこのホームページに掲載したもの(=ここ/handicraftのコーナー)。今回、余りに傷みが激しいのでこれを補修・リフォームした。高い位置に飾るバランス人形であるので床に落として部品がバラバラになったことなど数えきれない。ボデイーは凸凹、脚は欠けて、もう廃棄処分にしてもおかしくないのだが、今回は頭やボデイー、脚には脱脂綿を糊(のり)で貼付けたり、目玉は以前使っていた胡椒の粒をピンセットで取り出して変わりにプラスチックの球を入れたりして、丁寧にリフォームしたら以前よりも立派になった。それにしても我ながら他人が見ると価値も何もない手作り玩具を何年間も持ち続けていることにはいささかあきれた。掲載した写真のようにサンルームの中に張った糸の上に綱渡りさせて保管しているが誰が見てくれる訳でもない。・・こんなことを書いていると、ふと気がついた。このヤジロベー、孫娘にもまだ見せていない。そうだ、今度孫娘が家にきた時には忘れずにコーギーヤジロベーが鼻で倒立したり、尻で立ったりする姿をみせることにしよう。理解者が一人でもいるとこのヤジロベーは捨てられない。

1月27日(日) <スポーツにはドラマがある・・・>
スポーツにはドラマがある。今日、日曜日のドラマの一つは大阪国際女子マラソン。3000M、5000Mなどの日本記録保持者である福士加代子(1982生まれ、25歳/ワコール)が初めてマラソンに挑戦するので注目された。彼女もレース前のインタビューで日本人のトップでゴールすると意欲的だった。この挑戦、ただの初マラソンとは違う。福士は40キロ走など一般には誰もがやるマラソン練習を行わず、トラックレース並の練習メニューと短い調整期間で42.195kmにのぞむというマラソン練習の非常識を試みたのである。結果はスタート直後から独走、30kmまでブッチギリの先頭を走る。常識を破るかと思わせたあたりから急失速。後続集団に抜かれてゴールは19位。ゴール前の競技場に入ってからもふらふらの状態で何度も倒れながら”完走”した。意識朦朧となりながらとにかくもゴールにたどり着く姿は一位でテープを切るよりも感動的である。優勝はマーラ・ヤマウチ(英国)、二位は森本友(天満屋)。福士の失敗はコーチ、監督の責任であろう。マラソンの奥深さ、難しさを知らされたが、それにしても常識を破る挑戦をしなければ新しい記録ものぞめない。またの機会に福士が新たな記録を作るドラマを見たい。

1月28日(月) <リメイクは難しい・・・>
リメイクは難しい。「今日の作品」に「ブルドッグ皿1(陶芸)」のリメイク版を掲載したのでこんなことを書く。リメイクというと家の改築のような響きになるが、ここでは絵画の場合の加筆に相当する追加作業をいう。画家がどこで筆を置くかは非常に微妙である。しばしば描き過ぎない方がよいと云われるが、これも単純には決めつけられない。マチスが20回、30回と描き変えながら最終的に名作を残した経緯を見たことがある。厚塗りのキリスト像などで知られるルオーは客に売却した後の絵画にまで筆を加えたという。やはり有名な絵画で後に犬を一匹描き加えた絵を見た覚えがある。それらの前後の善し悪しは何とも云えないが、私は画家が加筆せざるを得ない衝動は非常によく理解できる。さて、冒頭の陶芸品「ブルドッグ皿1」は犬の外形線として彫った溝を初めは目立たせなかったが、今回、溝に白を象嵌してあえて白線を強く出した。また、一部に色を付けた。前回との比較を陶芸コーナー(=ここ)に並べて掲載したが、どちらがいいかは好みによるだろう。実はこのリメイク版、私の妻にはすこぶる評判がよくない。妻とは大抵好みは一致する方で、私が首をひねっている作品のことを誉めてくれて元気づけられることも多い。けれども時に私とは絶対に相容れない見方がでる。今回の皿については制作者としての私は前のままでは許せなかったのである。好きなように手を加えることは作者に与えらえた特権。結果がどうこうではなく、思う存分のことをやるだけだ。この皿、まだ遠慮勝ちかも・・。
 1月30日分
1月29日(火) <ミラー効果・・・>
「ミラー効果」にあらためて納得させられる。心理学でミラー効果あるいは同調効果とは相手の表情や仕草に合わせる心理をいうが、これは人間関係の中で想像以上に大きな役割を果たすようだ。笑顔で接すれば相手も知らずに笑顔になる。反対に無表情だと相手もこれに合わせる。相手の云う事に相づちを打つと会話が弾む。たまに夫婦間で気まずくなるのは、どちらかの会話の言葉が相手に反映するからに決まっている。相手のいうことに一旦”そうね”、”でも・・”とくればスムースに運ぶ。それが、”そうね”がなく、いきなり否定が入ると相手も否定を続ける。相手を認めなければ会話は成り立たない。特別込み入った内容でなくても話し方一つで大違いだ。夫婦間に限らず親子、友人関係でも本人が意識する以上にミラー効果は発揮される。子は親の鏡。類は友を呼ぶ。肥満の人の友人には肥満の人が多いとのデータもある。これからは少し笑顔の練習(!)をしなければならない・・。

1月30日(水) <学ぶは真似る・・・>
学ぶは真似るだと云われる。そこまではよい。問題は学んだ後には「捨てろ」。それが人はなかなかできない。「捨てろ」はつまりマネから脱出して自分流のものを作れということだ。私は元来真似るのは好きでないので(習うのも下手かな?)モノツクリでは「捨てろ」の感覚が非常によく分かる。これが時々やる料理については学びもしないのに独自のものを作ろうとして失敗ばかりする。今も料理の初心者だが更に初めて料理を試みた時にはレシピを忠実に守った。秤(はかり)で正確に重量を計測して材料を準備するし味付けも云われた通りにするから、結果としてそれなりに美味しくできる。ところが何度目かには学んでいる最中であることを忘れて、塩、胡椒、醤油、ワイン、日本酒など”適当に”加えるものだから、とんでもない味になったりする。そして料理でもモノツクリと同じく失敗から学ぶこともあると開き直る。どんな分野でも「学ぶ」だけで一生をかける内容がある。ポイントはどこまで「真似るか」であろう。私は失敗してもいいから新しいものにトライしてみたい性分ではあるが、料理についてはまだ当分の間は基本の基本を学ばなければならないようだ。
「今日の作品」に「ブルドッグ皿/スーパー楕円型1(陶芸)」を掲載した。一週間前、素焼きの段階で皿板を破裂させた際に一枚だけ助かった板があった。これに呉須で絵を描いたもの。何か今年の作品はブルドッグばかりにみえるが、他の作品も追って掲載の予定だ。

1月31日(木) <新s あらたにす・・・>
「新s あらたにす」が今日から発足したというので早速みてみた。「新s あらたにす」は朝日、日経、読売の各新聞社が共同で運営するインターネットのニュースサイトである。そもそも私はこの新聞三社が何故インターネットを共同運営する必然性があるのか全く理解出来ていない。前にも書いたが我が家では今は新聞の購読を止めてニュースはテレビとインターネットにした。私の場合、朝日、日経、読売以外に産経、毎日、東京新聞、CNN、CNET、Googleニュースなどに必ず目を通す。さて、「新s あらたにす」(=ここ)であるが、「くらべる一面」と名前をつけて、朝日、日経、読売の記事を並べて掲載している。コラムは、天声人語、春秋、編集手帳のタイトルが並べてあり、そこをクリックするとそれぞれの新聞サイトの該当欄にいく。三社のニュースや社説などを読み比べすることができると云えば、そうかも知れないが、私は以前からもっと多くの新聞を読み比べている。「新s=新(New)+s、あらたにす=新たにする」であるそうだが、何が新たなのか今ひとつ分からない。ニュースを集める意味ではGoogleニュースは地方紙、スポーツ紙、海外紙を含めてニュースを集めて時々刻々と最新版に更新する。機能としてはこの方が上だろう。大体、新聞社は多過ぎる、新聞代は高過ぎる(広告紙のようなものだから無料でもよい)というのが私の勝手な意見である。日本のほとんどのメーカーは統合され、銀行は再編成され、また官庁や政党でさえ大きく姿を変えた。それなのに新聞社だけ130年も前の形態が続いているのが不思議でならない。「新s あらたにす」とは新聞再編成の布石なのだろうか。

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