これまでの「今日のコラム」(2008年 10月分)

10月1日(水)  <人情に触れる・・・>
人情に触れるということは普段ほとんどない。東京の真ん中でウオーキングにでかけても、スーパーやコンビニで買い物をしても他人と言葉を交わす機会はないと云ってもよい。それが我が家のアール(コーギー犬)と散歩に行くと様相が一変する。以前から犬の散歩の時に犬仲間と交流することはあった。それが最近アールの後ろ足が悪くなった(神経が麻痺した)のでハーネスを使って胴体と後ろ足部分をサポートしながら散歩をするようになってから色々な人に声をかけられ励まされるようになった。今日もアールが歳をとって足が云うことを聞かないと話すと”やさしいお父さんが一緒でよかったね!”と言ってくださる人がいた。”早くよくなってね”と声をかけてくれたのは杖を持ったおばあさんだった。自分ではハーネスで犬の体重を半分抱えながら歩くことは全く苦労と思わないけれども”大変ですね”と声をかけられることも多い。アールが身体障害犬となったことで思わぬ人情に触れる。そしてあらためて人のやさしさに感動する。
「今日の作品」に「トリック深皿・裏(陶芸)」を掲載した(昨日=9/30=コラム参照)。この写真は深皿の裏の凸面。トリックとしてこれが凹面に見える事を期待した。陶芸で制作する前に段ボール模型を作って検討したものだ(8月22日の「今日の作品」として掲載=ここ=)。段ボールと違って実用に供する陶芸深皿としては底の部分が大きくなり、トリックはやや弱くなってしまった。

10月2日(木)  <久しぶりの快晴・・・>
久しぶりの快晴に恵まれた今日、午前中テニスを楽しんだ。帰りの自転車でも上り坂が全く苦にならない。心地よい疲労感のみが残り気分爽快。不思議なことに40代、50代の頃にはこうはいかなかった。疲労困憊して帰り道では脚をガクガクさせていた。テニスに関していえば自分でも最近は"手抜き”が非常に上手くなったと思う。よく言えば”省エネ”で”合理的”になったのである。以前は午前中に2時間ほどプレーすると手の握力が目に見えて衰えて自分でも情けないほど筋力がないと嘆いていた。いま考えると当時は常にラケットを強く握って緊張していた。これでは握力は続かない。ラケットをしっかり握るのは球が当たる瞬間だけでよい。現在はこんな調子であらゆるところで"手抜き”、いや"力抜き”に努めているからくたびれない。それからパートナーと一緒にプレーする、つまりパートナーに任せるところは任せることを心するようになった。これも我が身の省エネである。更に相手がポイントを取っても、自分が負けても気にしなくなった。相手が喜べばそれもよい、そう思っていると逆に余裕ができる。もし20年前の自分と試合をしたら多分勝つのではないか、と云いたいところだが、勝ってやろうとの思いが強すぎるとどうなるか分からない。・・こんな事を書いてみると何だただの年寄りテニスの典型でないか・・。

10月3日(金)  <今日から新たな歴史が始まる・・・>
今日から新たな歴史が始まる・・と思うことにした。パソコンの外付けハードディスク(HDD)を全て消去するという大失態。外付けHDDは本来パソコン本体のバックアップ用に使用するのでパソコン内部のデーターをまたHDDに移せばよさそうだが、私の場合本体を軽くするため保存用のデーターはまとめて外付けHDDのみにしまっていた。バックアップもないので、外付けHDDは永久保存版の"アンタッチャブル”。それを何故・・と問われれば何を言っても愚痴になる。一円の節約をしようとして100万円をなくしたようなもので、ほんの少しでも空き容量を増やそうと一瞬"間違えて”「消去」ボタンを押してしまったのである。魔が差したとしか云えないが、こればかりは故障したパソコンのHDDの復元とかゴミ箱再生という訳にもいかない。覆水盆に返らず、後の祭り・・。この10年以上の間に蓄積したデジカメ写真、陶芸や絵画の作品写真、フオトショップで制作したアルバム整理写真の原版、手作りのポストカードの原版、エクセルやワードの資料など、全てがなくなった。はじめショックは大きかったが直ぐにこう考えた。大部分は個人的な資料で、私の命がなくなった時には不要となるものばかり。幸いに命に別状はないので、これから新たに歴史を作ればよい。もしかすると、天が新たな歴史を作るチャンスを与えてくれたのかも知れない。・・それにしても痛感するのはパソコン時代の蓄積の軽さである。私たちは何千年も前の歴史遺産に人類のパワーをみて驚嘆するが、今の時代、パソコンに蓄積されている長年の成果は瞬時のミスタッチで無に帰する。新たな歴史は、パソコン内部の資料にこだわることなく、時代を超えることのできる作品造りにこそ求めたい。

10月4日(土)  <銀杏(ぎんなん)が見つからない・・・>
銀杏(ぎんなん)が見つからないとは思わなかった。ギンナンはイチョウの実。イチョウ並木の名所である神宮外苑へ朝の8時前に自転車で行ったのであるが収穫はゼロ。昨日、家の近所の公園でギンナンを拾ってきた知人から今はギンナンの季節でとても美味しいという話を聞いたので、今日はテニスのついでに是非神宮外苑でギンナンを集めようと袋まで準備して出かけたのである。今の季節、イチョウの樹の下には異臭を放ちながら有り余るほどギンナンが落ちていることは私でも知っている。ところが今朝のイチョウ並木の下には見事といえるほどにギンナンの実が見当たらない(つぶれたものがほんの少しあった)。これはよほど組織的な収集がなされたとしか考えられない。恐らくは早朝数名以上の収集隊がゴソッと持って行ったに違いない。そしてどこかの店頭で売り出されるのだろうか。
「今日の作品」には「トリック深皿・使用例」(陶芸)」を掲載した。何といっても柿と葡萄が深皿を引き立ててくれる。この深皿は実用的には評判がよいので名前の"トリック”を外してもいいかも知れない。


10月5日(日)  <芥川賞の小説・・・>
芥川賞の小説を読んだ。「芥川賞発表」の文藝春秋9月号は一ヶ月ほど前に購入していたが週末の風呂の時間などに少しずつ読み進めたので今日ようやく読み終えたのである。今年の芥川賞は中国籍の楊逸(ヤン・イー)さん(1964年中国・ハルピン生まれ)の「時が滲(にじ)む朝」が受賞して話題となった。私としては十分に時間をかけて丁寧に読んだが、久しぶりにいい小説を読んだ気がする。最近の芥川賞というと何か気持ち悪かったり、異常さばかり強調されてとても読み進むことができなかった記憶が染みついている。今回のように、まともな人間、まじめな人間、真摯な人間が生きていく小説に出会うと救われるのである。読了した後、この小説に対する選考委員のコメントを読み直してみたが「選評」というのもかなりいい加減であるように思える。一応、世間で小説家として認知されている皆さんが好き勝手なコメントをするのが、では”あなたの小説はどうなの”と問うてみたいことばかりいう。「日本語の稚拙さ」、「文章の力」、「陳腐で大時代的な表現」などと他人の文章を論評するならば己が読むに値する小説を書いてみろと云いたい。楊逸さんが日本語で書いた小説で人は国や言葉を超えて理解し合えるという根源的な善意も伝わってくる。一部の選考委員はさておき最終的に「時が滲(にじ)む朝」を受賞とした英断には拍手。
*「今日の写真」は国立代々木競技場。丹下健三の名建築に改めて感服する。

2008-10-5@国立代々木競技場

10月6日(月)  <腰痛・・・>
腰痛を特集した番組が昨夜のNHKテレビで放映されていた。この中で一番印象的だったのは、腰痛に関して日本で最高レベルの先生(大学教授)が”腰痛の真の原因はほとんど(85%?)はっきりしません”という趣旨のことを話されたところだった。その道の権威であるからこそ云える謙虚で実態を伝える発言と受け取った。最近はその原因の3割を占めるとされる「心因性腰痛」の解明も進んでいるようだが、心因性となると心理学や脳のメカニズムの問題となる。痛さの感じ方は多くの要因が複雑に絡み合って一様でないのはよく理解できる。私は以前朝起きた時に歩けないほど腰が痛くなり、我慢しながら犬の散歩をして帰ってくると痛さはなくなることがあった。整形外科の医者と相談すると、”そんなの病気じゃありませんよ”と、一言で却下された。それ以来、腰痛は自分で治すことに徹した。自分なりに調べて、いいと云われることは極力生活の中に取り入れた結果、現在は全く問題はない。ナンバ歩き、ウオーキング、レッグマジックによるトレーニング、就寝前の屈伸などいろいろやっているけれど、何が有効なのかは分からない。寝るときには作品造りの事を考える(つまり浮き世の心配事を忘れる)ことにしたのも"心因的"効果をもたらしたのかも知れない。・・「腰」の字は「肉づき=月」に「要(かなめ)」がつく。人間の体の要(かなめ)である「腰」は心身の両方そろったところで正常に保たれるところが面白い。

10月7日(火)  <銀座・・・>
銀座は私にとって中途半端な街だ。なじみの深い街ではないが、そうかといって全く疎遠な街でもない。勤め人の頃には毎日銀座を通って通勤したこともあった。今日は知人の絵画展が開催されているギャラリーに行ったのであるが、道すがら何故この街が自分にとってそれほど親しくないのかを考えた。結論は単純だった。買い物をしない、飲食をしないことに尽きる。陶芸や工作の材料を銀座で買うことはしない。あえて銀座の本屋で本を買うこともない。ブランド店には元より縁がないので何となく疎外感を覚えるのだろう。けれども銀座にはギャラリーも多い。今日は知人の絵画展を含めて自由に入れるギャラリーで期待以上の刺激を受けた。それにブランド店に入ることはなくてもショウウィンドウを見ているだけでもまた楽しい。”銀座で買い物”は外国人観光客に任せて、「目で楽しむ街」と位置づければ私にとって銀座はまだまだ親しくなりそうだ。
2008-10-7@銀座6丁目

10月8日(水)  <日本人3人にノーベル物理学賞・・・>
日本人3人にノーベル物理学賞が授与されると発表になった。南部陽一郎、小林誠、益川敏英の3氏が日本人としては初めて共同受賞することとなり、昨夕から大ニュースとして報じられている。昨晩9時のNHKテレビでは小林、益川両氏とテレビ中継しながら、ニュースキャスターが、"受賞の対象となった研究はどのように役立つのでしょう”と口を滑らしたのも余りにホットニュースで準備不足だったのだろう。「素粒子研究」について”何に役立つか”を問うのは最低の質問だったとキャスター自身悔やんでいるに違いない。それはともかく、理論物理というのは理論により予言して確認されるまでの年月がかかるためノーベル賞とは歴史の評価にみえる。3氏が実際に受賞の対象となった論文を発表したのは揃って若手バリバリの頃である。南部陽一郎氏(1921年1月生まれ87歳)は1950年29歳で大阪市大の教授、1958年37歳で米国・シカゴ大学の教授となった経歴を持つが、受賞の対象となったのは実に50年近く前の研究。また35年前、1973年に小林誠氏(1944年生まれ)と益川敏英氏(1940年生まれ)が受賞対象となった「小林・益川理論」を提唱したのは小林氏29歳、益川氏33歳だ。年月を経てのノーベル賞受賞はまた独特の重みがある。3氏には"生きているうちにノーベル賞でよかった”という一方では、人類への貴重な遺産を残しながら一般の人に名を知られることもなく世を去った人も数知れぬだろうと思う。ところで、南部さんは1970年に米国に帰化し今は米国国籍だが、これを"日本人3人”受賞と云っていいのかどうか気になった。氏は1978年に文化勲章も受勲している。やはり日本人とみたい・・。

10月9日(木)  <ノーベル化学賞に下村脩(おさむ)さん・・・>
「ノーベル化学賞に下村脩(おさむ)さん」のニュース。一昨日発表された日本人3人のノーベル物理学賞受賞に続いて明るいニュースだ。下村脩さん(1928年生まれ、80歳)が受賞対象となった「オワンクラゲから、紫外光を照射すると緑色に光る蛍光タンパク質GFP(GreenFluorescent Protein)を発見した業績」は1962年(実に46年前、下村氏34歳!)に発表されたもの。その後GFPの遺伝子が解明され、GFPは当時下山さんが想像もしなかった医学や生物学の分野でなくてはならない"道具”へと発展していく。その課程は科学技術の進化するモデルをみているようで興味深い。それにしても米国マサチュセッツ州の自宅からテレビ中継された下山さんの姿は印象的だった。自宅に研究室をつくり80歳の今でも研究を続けている。好奇心があると人間は老いないのだろうか・・。下山さんは1960年から米国暮らしであるが日本国籍であるという。
「今日の写真」は「ホトトギス」。日陰の庭に「ホトトギス」が咲き始めた。確か以前ホトトギスの絵を描いた覚えがあるので調べると、2006年10-14(=ここ)と1994年11月のポストカード(=ここ・懐かしい!)だった。
2008-10-9/ホトトギス

10月10日(金)  <”今日は何の日?”・・・>
”今日は何の日?”と問われれば即答できる。1964年東京オリンピックの開会式の日。そして東京オリンピックを記念してこの日は「体育の日」となった・・と云いたいところだが、体育の日はその後(2000年から)10月の第二月曜日に変わってしまった。オリンピックの開催日に10月10日を選んだのは統計的に見てこの日が「晴の特異日」であったからである。台風も秋雨前線も去った後に気持ちがよい快晴となる確率が高いとされた10月10日、見事に晴れ上がった快晴の下での東京オリンピックの開会式を今懐かしく思い出す。ところが今日の東京は曇り空で夕方には雨が降り出した。10月10日が体育の日であった期間には確かに晴れとなる「特異日」であったが、体育の日を第二月曜日に変えてからは10月10日に雨が降る回数も増えて「普通の日」になったという奇妙な統計があるそうだ。お天道様も期待されるとこれに答える。明日はテニス、「晴れ」を期待しよう。


10月11日(土)  <ハッとする緊張感が漂う・・・>
「ハッとする緊張感が漂う。そして継続する緊張感に息を潜める」、最近続けてこのような経験をした。今日たまたまテレビで聴いたピレシュのピアノ演奏が一つ。ピレシュ(ピリスと表記されることもある)は1944年ポルトガル生まれで現在はブラジルに住む世界的な女流ピアニスト。深い精神性を感じさせる演奏に引きつけられてチャンネルを変えられなかった。少し前に、カラヤン指揮でムターのバイオリン演奏をテレビで見たときも同じだった。カラヤンがベルリンフィルを指揮してのムターとの競演であるからムター(1963年ドイツ生まれの女流バイオリニスト)がまだ若い頃の録画であろうが、テレビでムターが映し出されたとたんに"緊張感に息を潜めて”最後まで聴いてしまった。音楽の力はすごいものだと感心しながら、冒頭の「緊張感」は音楽に限らず「感動を与える」分野では皆同じではないかと気づいた。美術や工芸、あるいは詩歌、一般のモノつくりでも「ハッとする緊張感」のないものに魅力はない。自分の作品造りに「緊張感」というキーワードを取り込むと一つの進歩になるかも知れない。
10月12日(日)  <手作りの味・・・>
手作りの味はそれほど簡単ではない。陶芸をやっていると上質の規格品が大量生産される中で、それらを上回る真に上質な手作りの味をだすのは容易でないことを日頃痛感している。今日、千葉市民会館ホールで行われたコンサートが終了したとき、1000人もの観客が皆本当に満足そうに帰路につくのをみて、これは「手作りの味」を満喫したせいだと思った。演目は第一部(一つ目の扉と呼んでいた)がドイツ・ウルムで活躍する音楽家(バヤーン・アコーデオン、ヴォーカル)、第二部がパリが拠点の音楽家(アコーデオン&ピアノ)、第三部が地元千葉の合唱団など。これらのプロの音楽家と素人のコーラスを違和感なく結びつけて見事に味付けしたのが企画・司会・指揮をした日比野和子さん(私の従姉妹)だった。手作りの味のキーワードは"暖かみ”であろうか。マニュアル化された規格品のようなコンサートでは一流のホール、一流の演奏家であっても何かが足りない。それが"暖かみ”でないか。ひいき目でなく彼女のコンサートではいつも演奏者と聴衆との一体感が醸(かも)し出される。今日は暖かないい味を楽しんだ。

10月13日(月)  <七つの正方形・・・>
「七つの正方形A」の名前で「今日の作品」に陶芸作品を記載した。一辺が約20cmの四角は板のようにみえるが、全部で7個の正方形の組み合わせでできている。それぞれが微少な隙間を持ってはめ込まれる構造なので陶芸作品としては完成するまでうまく出来上がるか分からなかった。陶芸の場合焼成時に15%ほど収縮するし変形が均一でないこともあるので陶芸でのこうした構造は一般的には難しいのである。今回はほとんど完璧に仕上がったのがうれしい。それで、これ何に使うの?と聞かれる。陶芸教室では作品名を「鍋敷」とした。大小各種の鍋の敷台として使用できないことはない。完成してみると「鍋敷」と決めずに用途は他にも可能性がありそうなので「七つの正方形」とした。正方形のリングをバラした写真を陶芸コーナー(=ここ)に並べて掲載している。この作品の新たな用途も追って取り上げたい。これからも楽しみが継続するお気に入り作品である。

10月14日(火)  <知らぬを知る・・・>
「知らぬを知る」というが、本当に知識が豊富な人は自分が真理をほとんど知らぬことを知っている(実は知らないのに知っていると思っている人は無智でしかない)。例えばノーベル物理学賞の受賞者は人間は物理現象のほんのチョッピリしか分かっていないと思っているに違いない。現代の科学技術の進歩はめざましいものがあるが人類の長い歴史からみると科学技術は100-200年のわずかな歴史しか持たない。ワットが初めて蒸気機関車が発明し、ジェンナーが天然痘のワクチンを開発したのはほんの200年ほど前である。最近の医療技術も毎年のように新薬がでたり新技術が応用されるなど進化をみせるが、逆にみればそれほどに未熟であるのだろうか。一方で人間の精神の問題は人間が歴史とともに考察したテーマであった。それなのに現代科学では精神の問題については余りに解明が進んでいないようにみえてしようがない。人の心の力というか精神力には従来考えられているより大きな力があるのでないか。精神の力は過小評価されているのでないか。全ての解明などできるはずはなくても、精神が身体全体に及ぼすメカニズムにもっと現代科学のメスをいれてほしい・・。

10月15日(水)  <フェルメールに再会・・・>
フェルメールに再会した。東京都美術館(上野)で開催中の「フェルメール展」(12/14まで、案内=ここ)にいったのであるが、"再会”というのは、1996年にオランダ・ハーグで開催された「フェルメール展」で見た作品をまた見るチャンスに恵まれたということ。ハーグのフェルメール展は、このホームページでも説明しているが(=ここ)、フェルメールの現存する全作品35点中、23点が集められたのに対して、今回の上野の展覧会ではフェルメールの作品は7点であった。実際にはフェルメールが生涯を過ごしたデルフト(ハーグの近くの小都市)で活躍した同時代の画家たちの絵画が多く「デルフトの巨匠たち」とでもすべき内容だ(主催朝日新聞、TBS)。それはともかく今回の”再会”にはほろ苦い思いが伴う。今日は月の第三水曜日で、この日は65歳以上は入場無料。場内はお年寄りで大混雑だ。それでも朝の9時過ぎに入場したからまだいいが10時頃になると入館まで長蛇の列ができている。じっくり絵画鑑賞しようとすると無料の日はお勧めでない。それと自分で絵を描く立場になると17世紀の絵画からインスピレーションを得ることがほとんどないことに気がつく。余りに巧みすぎる絵画よりも古代人が洞窟に描いた線描とかアフリカの土着芸能などに触発されるのはどうしてだろう。・・美術館が余りに混雑していたので気分直しに帰路同じ上野にある「旧岩崎邸」を見学した。こちらは入館料200円で静寂に浸れる。「今日の写真」に洋館の南側の写真を掲載した。なお「今日の作品」は「七つの正方形」の積み上げ写真を掲載。
2008-10-15@旧岩崎邸洋館(上野)

10月16日(木)  <アユタヤ工場・・・>
「アユタヤ工場」の文字が目に入った。我が家の直ぐ側のマンション建築現場でのことである。何事かと改めて建築工事の説明板を読み直すと、建築に使用する鉄骨の製作工場がタイのアユタヤであると書いてある。タイのアユタヤには私も勤め人時代に訪れたことがあるが、タイ中部の県で昔のアユタヤ王朝の首都であったところなので多くの遺跡があり世界遺産にも登録されている。こんなところに鉄骨工場があり、そこで制作された鉄骨が日本に運搬されてマンションの骨組みとなっている訳だ。当然のことながら日本の製鉄所で製作された鉄骨など使用されることはなく、恐らくは中国製の鉄骨が使われているのだろう。食料と同じように住居の素材までもはや外国製が幅をきかせる。何でも国産にこだわる必要はなく、ある程度割り切らないと生きていくことができないにしても、日本のモノツクリ、そして食料作りの現実は厳しい・・。
「今日の作品」に「七つの正方形d(陶芸)」を掲載した。正方形リングの中央に貫通穴を設けているのでこのような立体的なオブジェもできる。当初の「鍋敷き」がこうなるとは"想定外”であった。

10月17日(金)  <馬食い家内が・・・>
「馬食い家内が象サイズになった」・・これはパソコンで「うまくいかない画像サイズになった」と漢字変換しようとしたときのミス。日本漢字能力検定協会で変換ミスの年間賞に選ばれた文章として今朝の読売新聞・編集手帳で紹介されていた。思わず笑ってしまったが「編集手帳さん」は時々このような楽しい話題を提供してくれる。それに引き替え「天声人語さん」は読んで楽しくなることがほとんどないと、あらぬ方向に話が進みそうなので新聞コラムについてはこれ以上触れない。それにしても冒頭の漢字変換ミスは見事すぎるので自分のパソコンで試しにやってみたら一括変換であろうが部分変換であろうが「馬食い家内」はどうしても出てこない。これは無理矢理作り上げた創作でないかと推測する(しかし名作だ)。変換ミスでも以下の事例なら現実感があるし、おもしろい:「老いて枯れた感じ」←(正)「置いてかれた感じ」、「何か父さん臭い」←「何かと胡散(うさん)臭い」、「日本の卑怯100戦」←「日本の秘境100選」、「怪盗アンデス」←「回答案です」。

10月18日(土)  <来年3月に開催されるWBC・・・>
来年3月に開催されるWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の日本代表監督に星野仙一氏が就任すると息子のブログで初めて知った。調べてみると10月15日の「WBC体制検討会議」で決定されて28日に発表される予定という。なぜ発表まで時間をかけるのか定かではない。私はどんな人選でもこだわるつもりはない、誰が首相となろうが、学長に誰が選ばれようが”どうでもいい”。しかし「星野監督」だけは反対だ。北京オリンピックで星野ジャパンが惨敗した原因を検討会議のメンバーはどう分析しているのか。星野監督では若手がやる気を出さない。イチローでさえ星野監督ならばWBC不参加を表明している。星野氏を強力に後押しするのが渡辺恒雄氏(読売グループ会長、読売ジャイアンツ会長)であるところも気に入らない。82歳の老経営者に野球界が支配されていること自体で野球の未来が暗くなる。問題は星野仙一氏本人の処し方だろう。北京のリベンジなどといって本人だけがやる気になっていると始末が悪い。それでも所詮は野球。WBCで米国、キューバ、そして韓国に惨敗を続けたとして、それがどうした・・。”どうでもいい”か・・。
「今日の作品」に 「七つの正方形f」(陶芸)を掲載した。この写真のように正方形リングを縦に立てるための専用の支持具を陶芸で新たに制作しようと計画中である。


10月19日(日)  <十月桜・・・>
「十月桜」の写真を下に掲載した。これは今日、東京・杉並の大宮八幡宮境内で撮影したもの。「十月桜(じゅうがつざくら)」は春と10月〜12月の二度花を咲かせる品種である。秋から冬にかけて咲く桜は「冬桜」と呼ばれるが、十月桜も冬桜の中に含めて総称されることもあるようだ。それにしても春に咲く桜の華やかさと比べて十月桜の何と秘やかに咲いていることか。「東京のへそ」の位置にある杉並・大宮八幡宮は1053年創建、950年以上の歴史ある神社である(神社の公式サイト=ここ)。境内には夫婦銀杏(めおといちょう/高さ約26m)や巨大な菩提樹など見事な樹木も多い。これからの紅葉のシーズンにはさぞ美しい色合いをみせてくれることだろう。
「 祈りおる 脇に十月桜かな」
2008-10-19十月桜@杉並・大宮八幡宮

10月20日(月)  <朝日は人の悪口ばかり・・・>
”朝日は人の悪口ばかり”と大阪府の橋下知事が朝日新聞を批判したことが今日のニュースで取り上げられていた。そんなことを今更云うまでもない、誰でもそんな新聞の”げす”な品性を知っているが、ここでは身内を評価したがらない日本人の特性に触れたい。今は日本の宝物と認めているけれども外国で評価されるまで日本人自身がそれほどの価値と考えなかった事例は数多い。西洋に輸出された陶磁器の包み紙の絵が注目されてジャポ二ズムまで引き起こした浮世絵とか、ブルーノ・タウトが”泣きたくなるほど美しい”と絶賛して日本でも見直された桂離宮など美術的評価については専ら外国人の目に頼ってきた。最近、私はノーベル賞にも同じような外国人評価をみる。今年のノーベル賞受賞者は専門分野ではある程度認められていた人たちであったが2002年にノーベル化学賞を受賞した田中耕一さん(当時会社員)などは外国ではじめて相応の評価を受けたといえるだろう。外国の権威には弱く、一方で日本社会の中では足の引っ張り合いをする習性はあらゆる分野に蔓延している。気がつかずに見過ごされている真の美とか認められていないが実は貴重な成果、見えない善行などを発掘すべきは本来は新聞の役割であってもいいはずだが今は”悪口ばかり”。新聞が”いいことを発見”する記事を書けば日本は変わるのに・・。

10月21日(火)  <俺の前世は樹木だった・・・>
”俺の前世は樹木だったような気がする”とかなり前に親しい友人が話したことをまだ覚えている。私は樹木にそれほどの思い入れはないが樹木には人を元気づける特別なパワーがあると感じることはある。アイデイァが枯渇したり気分転換をしたいときに最近は”しろかねの森”にいく。今日もこの森の中で巨木に囲まれてしばしの時を過ごすと、在り来たりの言葉で言えば”心と頭がリフレッシュ”。感覚的には"脳細胞がリセット”された。人は樹木や草花など植物の放つ力に助けられていると思うのはこんな時だ。”しろかねの森”の正式名称は「国立博物館付属 自然教育園」(案内サイト=ここ)。都心では希有な巨木あり池あり、鳥や昆虫類も多い「森」である。紅葉はまだ一ヶ月以上先と思われる森の風景と、それでも秋の気配を見せる「ススキ」と「吾木香(われもこう)」の写真を掲載した。

10月22日(水)  <渋谷に城があった・・・>
渋谷に城があったことを東京に住む人でも知ることは少ない。「渋谷城城趾」の説明をJR渋谷駅から徒歩10分ほどのところにある「金王神社(金王八幡宮)」の境内でみることができる。「渋谷」の地名の元となった渋谷一族が平安時代末期に城を建設し、この地を治めていたと言われる。渋谷金王丸(金王神社の名のもと)が源頼朝の父、義朝に忠誠を尽くすなどして渋谷一族(渋谷城)は室町時代まで続いたが、北条氏により城は焼き払われた。今の金王八幡宮の社殿は江戸時代(家光の代)に造営されたが、城跡らしきものはほとんど見られない。<渋谷城跡=ここ、金王神社=ここ、参照>・・今日、ビルに囲まれた金王神社にお参りをしながら、ふと、この地の1000年後の姿がどうなっているかを考えた。渋谷城と同じく、全く現在の痕跡がなく変わっていることは間違いないだろうが、その形を想像もできない。もしかすると緑豊かな平野や森に逆戻りしているかも知れない・・。
2008-10-22@金王神社・渋谷

10月23日(木)  <今日のアウトプットは何か・・・>
「今日のアウトプットは何か・・」、毎日このコラムを書いていると話題を探そうとしてこう自問する。”アウトプット”とは”目に見える成果”と言い換えてもよい。「今日の作品」コーナーを作ったのはスケッチ一枚程度ならば毎日描くことができるだろう、これについて「コラム」を書けばいいと考えたのだが、そうは問屋が卸さなかった。毎日やっていることを観察してみると、やがて成果が見える作業をしていることもあるが、現状維持の"生活”に時間を費やすことが圧倒的に多い。犬の散歩や料理、洗い物、買い物などは短時間だが日常生活、今日の午前中のほとんどを費やしたテニスも体力維持活動で、アウトプットとか成果とは結びつかない。午後の一時陶芸教室で”削り仕事”をやった。今度はどんな仕掛けがあるのですかと教室仲間から聞かれながらオブジェを削る楽しい時間であったが”成果”が見られるのは一ヶ月先となる。しかしながらアウトプットだけに目をやるのは間違いであろう。アウトプットという大袈裟なものはなく日常仕事が実は人生の大半を占める。そしてその日常仕事が人のためになる。「今日は人のために何かやったか」を問う方がよさそうである。今日のテニスでは適当に負けて相手を喜ばすことができた(?)・・。

10月24日(金)  <指先で厚さを計測する・・・>
指先で厚さを計測することができる。親指と人差し指の間の厚さを指先の感覚で把握するのであるが精度の良さは驚くほどである。陶芸で粘土を使ってお茶碗を制作するときに茶碗の曲面部分の厚さをこの指先の感覚で検知する。今日、電動ろくろを使わずに手捻りでお茶碗を作った際に肉厚が厚過ぎる部分を削りで修正しようと指先で厚さを測っている際に奇妙なことに気がついた。左右の手でそれぞれ親指と人差し指の間の厚さを”感知”していると、右手の方がどうしても左手よりも少なく(薄く)感じる。同じ箇所を右、左の手を変えて触るとやはり右が薄く思える。茶碗を軽くしようとして厚さを削りすぎると割れることがあるので、薄く感じると削りを控えなければならない。左右の手で感覚が違うとなるとどちらを信用するかの問題となるので実験をやってみた。何種類かの厚さが違うもの(ノートとか本、定規など)を左右の手指で感じた値を書き留めて後でノギス(精密な計測工具)を使って正確に計測して比較をしたのである。そうすると意外にも左手で感じた寸法(やや多め)の方が実際に近い。全般にやはり右が少なめに感じているが、これは実際よりも薄くとらえているようだ。当初、私は右利きなので右手の指の方が正確なのではと思っていたが反対の結果が出た。左右の指先一つでも感覚の世界は奥が深そうである。

10月25日(土)  <今日の作品に「石」・・・>
今日の作品に「石」を掲載した。庭に見える「石」をイメージして描いたのは確かだが、タイトルは「石」でなくても、「庭」、「窓」、「秋」など何でもよかった。このところ陶芸ばかりに時間をとっているためか、突然無性に何か描きたくなったのである。ところが何故か素直に身の回りのスケッチをする気にはならない。はじめ抽象画を描こうかと思ったけれど想像力がない。何か思いをぶつける対象が見当たらないままに、白い画用紙の上に陶芸で余った「いぶし黒釉薬」を使って一気に描き上げたのが「石」となった。「黒釉」を使用したのは初めてであるが墨や水彩の黒とほとんど同じような感触で描ける。描いてみて改めて思ったのは「描く」とは理屈ではないこと。結果を考えたり、手を動かす前に思い煩うよりも、先ず筆をとることだ。毎日このような絵を何枚か描くことを続ければ何か見えてくるかも知れない。


10月26日(日)  <犬の車椅子・・・>
犬の車椅子の進化には驚くべきものがある。今日、犬の車椅子オフ会に行って改めてそう思った。我が家のアール(コーギー犬)の後ろ足が麻痺してしまったのでハーネス(人が後ろ足をサポートする用具)を使って毎日散歩に連れて行っているが、散歩の距離を増やすためにも犬用の車椅子を検討していた。最近、車椅子を購入した人からの情報で今日オフ会を見学したのである。そこで車椅子を付けて走り回る犬たちは脚が悪いとは思えないほど活発であった。車椅子を使ってリハビリをしているうちに車椅子なしで動けるようになった犬もいた。犬用の車椅子といえば一昔前にはアメリカからの輸入品しかなく非常に高価であった。日本で犬用の車椅子を作っている人は自分の飼い犬用に作ったのが始まりで、頼まれて他の犬用にも製作することになったケースがほとんどであるようだ。犬の大きさ、体型に合わせて全て手作りするために経験が蓄積されて次々に改良される。日本人独特のきめの細かい、愛情がこもった車椅子が出来上がる。現在の車椅子は極めてシンプルで軽量、かつデザイン的にも優れているのには本当に感心する。”余りにごつく、ビスやナットがむき出している車椅子だと、周囲の人が犬がかわいそうというのですよ”と制作者さんが話していた。これがスマートな車椅子になると”かわいい”と反応が変わるという。そのうち、我が家に"オシャレ”な車椅子がとどく・・。

10月27日(月)  <假屋崎省吾さんに会った・・・>
假屋崎省吾さんに会った。目黒・雅叙園で開催されている「假屋崎省吾の世界」を見に行った際にニコニコしながらご本人が走り回ったりサインをしたりしていたのである。目黒雅叙園(東京)に国の登録有形文化財に指定された「百段階段」と呼ばれる木造の保存建築がある。昭和6年に着工、10年に完成したこの百段階段は、映画「千と千尋の神隠し」の湯屋のモデルにもなった独特の建築で、階段で結ばれた各部屋はそれぞれ趣向が異なった作りで、豪華な螺鈿(らでん)、日本画、浮き彫り彫刻など当時最高の贅を尽くした装飾で知られる。假屋崎省吾はこの百段階段の全7部屋と階段の一部を假屋崎流の生け花で埋め尽くした。とにかく背景は”わびさび”(侘寂)とはかけ離れた絢爛なる世界であるので尋常な生け花では負けてしまう。假屋崎は猛烈なエネルギーで周囲を凌駕する「假屋崎省吾の世界」を創り上げていた。静かに花を観賞するという雰囲気ではなくても元気なパワーを分けてもらったのは確かである(案内=ここ/11月9日まで)。
2008-10-27@目黒雅叙園

10月28日(火)  <千早振る神無月も・・・>
「千早振る神無月ももはやあと二日の余波(なごり)となッた二十八日の午後三時ごろに・・」とこれは明治時代の小説家、二葉亭四迷の代表作「浮雲」の書き出しである。二葉亭四迷(1864-1909、筆名は”くたばってしめえ”からきていることは周知)の「浮雲」は言文一致体で書かれた日本近代小説の先駆と云われるが明治20年(1887年)に小説が始まったときに(後二年間続く)二葉亭四迷はまだ23歳だった(「浮雲」はここで読むことができる)。さて、冒頭の引用文に続く今日のできごと:「横浜・馬車道で現代アートを鑑賞していた」。いま横浜では現代アートの国際展「横浜トリエンナーレ2008」が開催されている(11/30まで)。これと時期を同じくして古い銀行建築をギャラリーとした「BankART=バンクアート」に行ったのである。タイトルは「心ある機械たち」。メカ好きの私としては見逃せないテーマであるが、機械を使ったアートは難しいものだとの思いを強くした。見方に寄れば産業用のメカはみんなアートに見えないこともない。壜詰(びんづめ)のライン、回転寿司のコンベアライン、各種ロボットなど最新技術は一種のアートである。それが中途半端で未熟なメカを使って、”これがアートです”と云われても面白くはない。従来の発想にないハッとする何か感動させるものが欲しいが、それほど容易ではないところがアートなのだろう。
「今日の作品」に「七つの正方形用専用支持具(陶芸)」を掲載した。当初「七つの正方形」を立てて使用することなど考えもしなかったので(=10/13コラム参照)追って支持具だけを制作し、家の窯で今日焼成できたもの。
  2008-10-28@横浜・弁天橋より

10月29日(水)  <秋の叙勲の季節・・・>
秋の叙勲の季節となった。勲章の中でも文化勲章は年に一回、11月3日の文化の日に授与されるが、通常の春秋叙勲は春、秋の二回、それぞれ約4000名が受章する。また、自衛官、警察官、消防官などを対象にした危険業務従事者叙勲も春、秋の二回、毎回約3600名が受章するという。ノーベル賞と異なり勲章は金品を伴うことはなく勲章の大盤振舞である。「国家または公共に対する功労」に対して授与される勲章は数年前に細かい等級付け(勲等)は廃止されたが勲章制度が「位で区別」する評価システムであることには変わりがない。その点、「科学技術や芸術などの文化の発展や向上にめざましい功績のある者」に授与される「文化勲章」が特別注目される。先日、今年の文化勲章受章者の名前が発表された。ノーベル賞受賞者には文化勲章も授与される。今年ノーベル賞を受賞した小林、益川、下村の各氏が入っているのに南部さんの名前がないのは米国籍のせいかと一瞬考えたが、そうではなく、1978年に既に文化勲章を受章しているのであった(実に30年前!)。それから、水泳の古橋廣之進さん(1928年生まれ)が今頃なぜ?スポーツ界で初めての文化勲章だそうだが、現役時代(60年前)の水泳選手としての功績が評価されたというより、その後の水泳界、スポーツ界の不動の地位に授与されたのであろう。いずれにしても、勲章というのは勲章と縁がない者からみれば奇妙なアナクロニズム(時代錯誤)に思える。
「今日の作品」に「 七つの正方形<専用支持具付>」(陶芸) を掲載した。この「専用支持具」は思いの外うまくフィットして"正方形”を引き立ててくれる。


10月30日(木)  <マクドナルドのハンバーガー・・・>
マクドナルドのハンバーガーなどいい歳をして食えるか・・という同年代の知人は多い。60〜70の年齢になると外食をするにしても格好を付けて(あるいは好みから)もう少し高級な店に入る。ところが私はマクドナルドでも全く抵抗がなく、むしろ進んで”フィレオフィッシュ”などを食べにいく。もっとも私の場合はマクドナルドだけでなく、ケンタッキーのフライドチキンもサイゼリアのイタリアンも大好きなので、元来、高級志向がない上に味覚が幼稚だと云われればそれまでだ。・・今日、インターネットをみていると「日本マクドナルドと日本コカ・コーラが共同で、明日、10月31日から全国のマクドナルド店舗で大規模 なCoke Glass キャンペーンを実施する」とのニュースが目についた。内容は「バリューセット(ハンバーガー類+ドリンク+マックフライポテト)購入者にコークグラス(CokeGlass)が1個プレゼントされる」と大したものではない。それでも両社の「Coke Glass」キャンペーンはこれまでにも実施されて世界70カ国で9100万個のグラスが配布されているところで、今回日本で準備されているグラスは500万個、史上最大規模と宣伝している。たまたま手元にマクドナルドの「ホットコーヒーご招待券」を持っているので、近々無料コーヒーを飲みに行こうかと思っていたところ。特別にグラスが欲しい訳でもないけれど、この際、”バリュ−セット”を買うことになるかなぁ・・。

10月31日(金)  <動物と植物と人間・・・>
動物と植物と人間・・アリストテレスは生物をこう分類したという。人間は理性を持つとして他の動物と区別した心情は分からぬではないが、人間は間違いなく動物の中の一つの種である。最近は「生命力」という言葉から「植物」の強さを連想するようになった。地球温暖化などと騒ぎながらもし仮に人間が半減(絶滅とはいわない)したとしても地球上には植物が生い茂るだろう。勿論、人間以外の動物で大繁栄する種も生じるに違いない。植物は太陽の光エネルギーから光合成により養分をとる。植物は太陽光と空気、水、土があると生きていくことができるのだ。もっとも厳密には菌類(キノコやカビ)は光合成をしないで他の生物から栄養を吸収して生きている。そのため菌類は植物と別分類に扱うこともあるようだ。動物といっても珊瑚(サンゴ)のように植物と間違えそうな種もあるが、動物は基本的に他の生物から養分をとる(サンゴはイソギンチャクと同じ刺胞動物門の動物)。植物か別種の動物か、あるいは双方を食べて生きていくのが動物であり、人間も例外ではない。それでも人間にはただ食べて生きるだけではない「人間らしさ」がある。アリストテレスは人間の営みには目的があり、その最上位に幸福をあげた。快楽ではなく活動がもたらす満足を幸福とみなす考え方は現代でも納得できる。いま金融危機に瀕して世界中が沈滞気味だが、こういうときこそ理性ある人間の「バイタリテイー」が発揮されるはずである。

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