これまでの「今日のコラム」(2009年 2月分)

2月1日(日)   <本を再読する・・・>
本を再読することが最近続いた。昔読んだことのある本を読み直すのである。数年前とか30年も前に読んだ事は確かだが内容を覚えてないことがある。こんな時に読み直すと初めて読んだような新しい感動があるとうれしくなる。20代のときにあれほど感動した小説が50-60歳になって読むと"なんだ・・”で終わることがある一方で、若いときに面白くなかった本が歳を重ねた後になるほど名作だと思うこともある。私は絵画を鑑賞するときに何度見ても、あるいは何時間見ても新たな発見があり退屈しないこと、そして感動が継続することがよい絵だと勝手に基準を作っている。勿論、画家の名前や経歴などは一切無関係だ。本についても同じ事で何度再読しても味がでるものがいい本だと決めよう。再読して面白かった本:「戦艦武蔵(吉村昭)」、「ナンバ走り(織田淳太郎ほか)」、「宮沢賢治詩集」などなど。再読してつまらなかった本は書かない。

2月2日(月)   <いま歴史の転換点のまっただ中・・・>
いま歴史の転換点のまっただ中にいるという認識をどれくらいの人が持っているのだろう。改めて考えれば考えるほどオバマ大統領の誕生は歴史的な大事件である。18世紀以降の欧米を中心とした近代化は白人優位の歴史観を植え付けた。ほんの少し前まで米国での黒人(あるいは非白人)に対する人種偏見は抜きがたいものだった(一部では今もそうかもしれない)。それが世界をリードする米国の大統領に黒人が選ばれた。40年前には"夢”でもそこまでは誰も考えなかったんのでないか。一方で米国主導の金融経済の破綻は米国への信頼を失墜させた。米国はオバマ大統領のもと、ようやく環境対策にも本格的に取り組む。世界的に脱炭素の技術、ガソリン燃料以外の自動車技術などは一挙に加速されるだろう。未曾有の不況は、つまりターニングポイントの証でもある。これから世界がどう動くか、自分は何もできぬが野次馬的にはワクワクする。それにしても歴史的な転換期にしては日本の政界そしてマスコミがノー天気に見えてしようがない。
2月3日(火)   <咳をする人がいると逃げる・・・>
咳をする人がいると逃げることにしている。電車(主に東京の山手線、京浜東北線)の中での話。電車が空いている時には咳を続ける人が側にいると車両を移る。インフルエンザの流行が懸念されるときの自衛策である。ところが今日は座っている時に前に来た人が咳をする。席を立って逃げ出す訳にもいかず往生した。混雑した電車でも同じような経験をしたことがある。せめて口を覆うとか遠慮がちに咳をするならまだ分かるが必ずしもそうでない御仁も多い。本人は迷惑をかけていることを全く気がついていないところが始末が悪い。咳を止めなさいと注意するのも難しい。・・こう書きながら、ひょっとすると自分も電車の中で大袈裟にクシャミをしたこともあるかなとも思う。嫌なオヤジと逃げた人がいるかも知れない。「他人の振り見て我が振り直せ」とは咳の仕方にも当てはまる。
2月4日(水)   <日本むかしばなし・・・>
「日本むかしばなし集」(坪田譲治著/新潮文庫)を再読して心が洗われる思いがした<再読については2月1日コラム=ここ=参照>。この本には全部で40編ほどの昔話が載っているが、「一寸法師」、「桃太郎」、「ツルの恩返し」といった誰でも知っている話よりもメジャーでない昔話にとても温かいものを感じた。例えば「姉と弟」の始まりは:「むかしむかし、あるところに、貧乏な姉と弟がとが住んでおりました・・」、「お地蔵さま」の出だし:「むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがありました。貧乏だけれども、たいへん正直なおじいさん、おばあさんでありました・・」。貧乏だが正直な主人公が最後に報われて「めでたし、めでたし」となる。丁度水戸黄門の映画を見るように、最後には正直者が報われて”めでたし、めでたし”となるワンパターンが何とも安心感を与えてくれて心地よい。現実はそれほど甘くないなどと理屈をこねる必要はない。国の文化を形づくる昔話として世界に誇れるものでないか。こんな子供向けの昔話をいつまでも大切にしたい。
2月5日(木)   <梅が満開・・・>
梅が満開だった。写真を撮った。朝の5時すぎから夜まで緊張の一日。梅の花の写真は夢か。そのうちに、今日の一日が夢のように思えてきた。梅は人間の生活や喜怒哀楽と全く関係なしに咲き続ける・・。
2009年2月5日
2月6日(金)   <昨日の梅がまだ・・・>
昨日の梅がまだ芳香を放ちながら咲いていた。無事に終わろうとする今日の何かを残したいと思案して、「今日の表紙」に「コラボカップ」の名で陶芸作品を掲載した。昨年夏に孫娘と一緒に粘土で作ったカップが残っていたので私が独断で仕上げて最近家の電気窯で焼成して完成させたものである。このカップ、勿論孫娘へのプレゼントとする。・・明日もまた梅の花は香り続けてほしい。

2月7日(土)   <ケイタイのカメラで撮った梅・・・>
ケイタイのカメラで撮った梅の写真を掲載できないのが残念だ。持っているはずのマイクロSDカードが行方不明でパソコンに写真が取り込めないだけの話である。それにしてもマイクロSDカードを探す余裕ができたことは有り難い。時間の価値は人によって、状況によって全く異なると言うことを改めて知らされる。1時間の余裕が一年間の平穏に相当することもあれば、一日の幸せは何ものにも代え難くなるケースもある。時間をみつけてSDカードを見つけたい。そして梅が咲いている間にもう一度梅の写真を掲載したい。
2月8日(日)   <今日の表紙にカップ・・・>
今日の表紙に「カップ2009-02」の陶芸作品を掲載した。カップのように誰でもが制作する陶芸ほど自分らしさを出すのが難しい。自分を主張しようとする意志と素直さとのバランスが非常に微妙となる。このカップはどうなのか。少し時間をおいて見なければ何とも云えない。・・今夜も月が美しい。明日が満月。15日目が満月(望月)とすると昨日は13日目の月だった。満ちてはいないが皆で月を見て歓声を上げた。今日は14日目でほとんど満月に近い。この満月の一日前の月を「幾望の月」ということを知った。「きぼう」の月を見上げながら今日が終わる。

2月9日(月)   <梅が香に・・・>
「梅が香に追ひもどさるる寒さかな(芭蕉)」。今日の風は冷たかった。電車の中でお相撲さんが携帯電話でメールをしていた。今時誰がケイタイを使おうが当たり前のことではあるが、大きな身体の相撲取りがケイタイをいじっているのを見ると何かほのぼのとした気分になった。そして、・・God's in his Heaven、 All's right with the world・・。今夜は満月であるはずであるが、月は厚い雲に覆われている。月が見えなくても不満はない。

2月10日(火)   <今日もまた梅・・・>
今日もまた梅と月のこと。梅ばかり気にしていたが時間は確実に進行している・・。今朝犬の散歩の時に久しぶりに訪れた西郷山公園(東京・目黒区)では早咲きの河津桜が満開だった。一方で毎日見る大田区の梅は相変わらず静かに咲き続ける。・・今夜の月は16夜。昨日の満月(望月)は雲が多くて見ることができなかったが、今夜は冴え渡った空に満月を一日過ぎただけの月が美しい。この月を「既望の月」と呼ぶ。やはり、これも「きぼう」である。
2009年2月10日@東京・大田区

2月11日(水)   <北斎・・・>
北斎は知れば知るほど凄い人物だ。歴史に残る世界の画家の中に北斎が含まれるのは当然だろう。今日の表紙は北斎の模写。・・といっても初めは10Bの猛烈に濃い鉛筆があったので北斎の絵をみながら遊びで描いた。詳細を見ているうちに北斎の巧みさを実感しながら引っ込がつかなくなってパステルで仕上げた。ありがたい気分転換となった絵であるが、この絵はコピー用紙に描いたもの。次には画用紙に描きたい。


2月12日(木)   <朝の陽光を浴びて深呼吸・・・>
朝の光を浴びて深呼吸することを教えられて、この数日間、朝の太陽が見られるときには必ず実践している。今朝もいい天気で朝陽を浴びるには絶好のチャンスであった。アール(コーギー犬)との朝の散歩は太陽の光を求めて道を選ぶ。6時50分頃、エジプト大使館の近辺で丁度ビルの谷間から陽光が差し込む。アールと一緒に立ち止まり太陽を真正面に見て深呼吸。まず3秒間ほど鼻から息を吸い、次にゆっくり10数秒かけて口から息を吐き出す。これを何度か繰り返す。朝の陽光から得る"気”は"元気”。新たなエネルギーが身体に取り込まれた気分になる。
2月13日(金)   <人は時と共に進歩するか・・・>
”人は時と共に進歩するか”、こんな大袈裟な疑問を持ってしまうのが、最近の「今日の作品」を掲載する時である。「今日の表紙」の「カップ2009-02B(陶芸)」についても自信喪失のまま遠慮がちに掲載した。このカップは2007年5月30日に掲載したテイーポットセット(=ここ参照)用の取っ手付カップを(家にて)制作したもの。二年前の作品と比べて果たして進歩したのか、暫し新たに制作したカップを眺めてため息をついた。時が上達を呼ぶならば誰も苦労はしないだろう。そうはいっても、集中力も構想力も十分ではないかも知れないこの時期に何か作品を作り続けることは決して意味のないことではないと信じたい。


2月14日(土)   <ケイタイ用のマイクロSDメモリーカード・・・>
ケイタイ用のマイクロSDメモリーカードを手に入れた。朝、ネットで注文すると午後には配達してくれる。しかも値段はある価格(定価?)の1/3から1/4という超安値。メモリーカードの価格はその機能を考えると信じられない安さだ。とにかくも結果としてケイタイで撮った写真をパソコンに取り込み、はじめてこのホームページに掲載する事ができた。このところケイタイは24時間肌身離さずの必需品であるから「今日の写真」のネタには事欠かない。
 
2009-2月14日@東京・目黒川にて<桜はまだよ>  中目黒にて45階建て建設中

2月15日(日)   <金星と空海の深い結びつき・・・>
金星と空海の深い結びつき・・、今日の昼間に空海と金星のこんな話を本で読んだところで、夕方外出先から帰宅する途中、西の空には宵の明星=金星=がひときわ明るく輝いているのが目に付いた。空海(=弘法大師・平安時代初期、774ー835)は余りに偉大であったが故に後世の人が各地に空海が成したとする奇跡を記しているが、自らの神秘体験を披瀝することはなかった。それがただ一つ、「三教指帰(さんごうしき)」という出家宣言の書の序文で”口に明星(=金星)が飛び込んできて悟りを開いた(明星来影)”という奇怪な記述があるそうである。今の高知県室戸岬の洞窟などで厳しい修行に励んだのは確からしいが、「明星来影」の実態ははっきりしないようだ。・・今夕の金星をみてもそうであるが、自然とか宇宙には人を謙虚にさせる何かがある。「星はすばる(牡牛座)。ひこぼし(彦星、牽牛)。ゆふづつ(夕星=金星)。よばひ星(=流れ星)、すこしをかし。」<枕草子ー254>

2月16日(月)   <防犯ブザーの止め方・・・>
防犯ブザーの止め方が分からずに往生した。最近の携帯電話には防犯ブザーが装備されている。そのことは知っていたが、はじめに防犯ブザーの設定をOFFにしたので、ブザーを止める際の「ロックNo」など関係ないと思っていた。ところが”設定はOFF"であっても防犯ブザーが鳴ることがあるのである。私のケイタイの場合、「フェイク着信」と分かり難い言葉を使っているが電話をしているような”ふりをする”(偽物電話)際にうっかりキーを押すと設定に関係なくブザーが鳴り始める。後はロックNoがインプットされない限り電池が消耗するまで鳴り続けるから怖い。犬を連れた暗い夜道で鳴り始めたブザーを止められずに家までたどり着いてマニュアルを読み直す無様であったが、とにかくも駅や電車の中でなくてよかった・・。

2月17日(火)   <猿楽神社に白梅・・・>
猿楽神社に白梅が咲いている。猿楽神社には毎朝アール(コーギー犬)の散歩の際に御参りをする。神社といっても小さな小さな神社で元来は「猿楽塚」という6〜7世紀頃につくられた古墳であったが確か数年前に神社になった。源頼朝がこの地で猿楽を催したことから「猿楽」の名がついたといわれるが代官山の地に今この塚(神社)が残っていることだけでもうれしい(このホームページに猿楽塚で撮ったアールと母犬アンとの古い写真がある=ここ=)。神社の祠(ほこら)は小高い丘の上にあり10数段の階段を登らなければならない。いま我が家の犬(アール)は車椅子を使っているので毎回車椅子ごと私が担いで登り犬と一緒に御参りをする。厳しい寒さに戻った今朝、白梅は少しも変わらず静かであった・・。
2009-02-17@猿楽神社・代官山

2月18日(水)   <古事記・・・>
古事記を読んだ・・といって昔から持っていた岩波少年文庫「古事記物語」(福永武彦作)を再読したのである。古事記を復習すると、7世紀後半に天武天皇の命で稗田阿礼が暗唱し、後に天武天皇の時代に太安万侶が阿礼の内容を文字に書き留めた日本最古の歴史書とされる。神話から始まり天皇の系譜が綴られているが原文は独特の漢字表記で江戸時代の本居宣長などの研究がなければ容易に読むこともできない。子供向けの飜訳本を読み直してみて以前より物語を楽しめないことに気がついた。いくら神話だといっても、権力闘争に明け暮れ、親兄弟が殺し合い、また意地悪を繰り返す・・、こんな話に嫌気がさすのである。庶民の伝承である「日本昔話」<2月4日コラム=ここ=>の”温かい”感じとは大違いだ。途中まで読んだところで、気分直しに本の裏をみると魅力的なイラストがあった。この岩波文庫イラストを模写したのが「今日の表紙」に掲載した「KOJIKIより(ペン画)」である。


2月19日(木)   <日脚(ひあし)伸ぶ・・・>
日脚(ひあし)伸ぶ季節となった。「日脚」は「日が出てから暮れるまでの時間」(新明解・三省堂)であるが、広辞苑では「日脚伸ぶ」は「冬も終りごろになって、昼の時間が次第に長くなる」ことで”冬の季語”と説明されている。俳句の本を読んでいると、「唯生きよと見舞へば窓に日脚伸ぶ」という句を先生が「生きよとぞ見舞へば窓に日脚伸ぶ」と添削をしたものがあった。添削者は中村汀女(1900-1988)大先生である。色々な俳句を添削した事例がでている本で、なるほどと納得する添削例も多いが中には原句の方が好きなものもある。”日脚伸ぶ”の俳句も私には原句の迫力が添削で凡庸になってしまったように思える。絵画の場合、上手な絵より描き手の心情がほとばしる絵の方が好きだ。俳句も同じである。

2月20日(金)   <電子申告・・・>
電子申告は脳トレに一番・・と、これは半分は負け惜しみ。先日区役所で「電子証明書」を取得したので税務署への確定申告をインターネットで行う「国税電子申告」は簡単であろうと思ったのが大間違い。パソコンの使用環境からはじまり、「ICカードリーダライタ」を準備しドライバをインストール、「公的個人認証クライアントソフト」をインストール、「信頼済みサイト」の登録、「ルート証明書=政府共用認証局(官職認証局)、政府共用認証局(アプリケーション認証局)」のインストール、ブラウザのポップアップブロック解除、Java-VMによるアプレットを実行可能とすること、これら全てを満たすことが最低条件である。大体、こういう事を並べ立てられてハイハイと直ぐに対応できる人は何割ぐらいいるのだろう。こうなればパソコンを趣味として電子申告を大いに楽しむしかない・・。

2月21日(土)   <自分の利き目・・・>
自分の利き目は左である。「利き目」の判定は簡単にできる。先ず親指と人差し指で丸い輪を作り、何でもいいから部屋の隅などにあるものを丸い輪の中に入れて(両目で)見る。その状態で左右の目を交互につぶると、どちらか片方の目では輪の中のものは変わらないが別の目では大きく輪の中から外れて見える。両目でみる場合と変わらずに見える方が「利き目」。視力とは関係なく「利き目」が素早く焦点を合わせるなど”働き”がいいとされる。一般的には(腕の)右利きの人は利き目も右であるのが普通であるようだが私は右利きで利き目は左だ。プロ野球では右投げ左打ちの好打者が多い理由として、右利きで利き目も右の選手が左打席に入った場合、投手に近い方の目が利き目になるので有利であるとする説もある。利き腕、利き目が人によって何故異なるのだろうか。個性にどんな影響があるのだろうか・・。

2月22日(日)   <朝の6時過ぎ、ケイタイのブルブル音・・・>
朝の6時過ぎ、ケイタイのブルブル音で目を覚まされる。我が家ではこのところケイタイ交信を頻繁に行うので早朝のケイタイ音にはギョッとする。これが”迷惑メール”であった。パソコンの迷惑メールは今や日常化しているがパソコンを開いたときに削除すればよい。ところがケイタイの迷惑メールは音で通知するので始末が悪い。早速にケイタイのメールフィルターでパソコンから発信したメールを拒否する設定をしたり、届いたメールについては発信元を受信拒否のリストに入れたりの対策をしたのが今日の成果。こうした大量の迷惑メールを発信するパソコンはボット(BOT)ウィルスと呼ばれるウィルスに汚染された"普通の人”が使っているパソコンが使用されることが多いという。総務省のサイバークリーンセンターの説明(=ここ)を読むとコンピュータ犯罪もここまで来たのかと恐ろしくなる。犯罪に国境がなくなってきた時代に取り締まりの体制も国際化しなければ追いつかない。

2月23日(月)   <聴く(聞く)ことは「聖」なる行為・・・>
聴く(聞く)ことは「聖」なる行為であるという。「聖」の文字の成り立ちに「耳」があるように、耳でよく聞くことは聖なるための必要条件とか。それにしては日頃音声に対して余りに無神経である。「古池や蛙飛び込む水の音」(芭蕉)なんていう句は現代では作れない。確かに、騒々しいテレビを消して音楽も流さずに音を遮断すると耳が浄化されたような感覚になる。静寂の中にいるほど耳の神経は鋭敏に働く。一方で、天の声は言うに及ばず、相手の言う事を聞く、アドバイスを聞くことでさえ容易ではない。耳はあっても聞いているとは限らない。他人の言うことを聖なる行為として聞け・・とこれは自分に言い聞かせたい。
「今日の表紙」「ケイタイの裏(ペン画)」を掲載した。お気に入りのケイタイ。ストラップは近所の惣菜屋さんでもらったもの。


2月24日(火)   <バベルの塔・・・>
バベルの塔を陶芸で作ることを思い付いた。勿論、ミニミニ版の塔である。種を明かせば安野光雅さんの「絵のある人生」(岩波新書)に掲載されているブリューゲルの「バベルの塔」の挿絵をみて閃いた。早速手持ちのブリューゲルの大型図録でバベルの塔の絵(原版は1563年制作だ)を見直すと、やはり迫力がある。陶芸で仕掛けものを考えていたところなので、ブリューゲル型バベルの塔をアレンジして構造を創り上げると面白いと思ったのである。バベルの塔は旧約聖書の創世記にでてくる天まで届く巨大な塔で、崩れた(あるいは未完氏の)塔とされる。ブリューゲルをはじめ後世の人が想像力を働かせてその姿を描いた。構想は壮大でも実際には実現不可能な計画のことの喩えにも「バベルの塔」が使われる。神はバベルの塔を好まなかったが現代に至るまで人類は常にバブルの塔へ挑戦する習性がある。陶芸のミニバベルプランを実現する可能性のある半年前に披露してしまうのがいつもながらのおっちょこちょい。有言実行で自分へのプレシャーとなればいい・・。

2月25日(水)   <昨日に続いてバベルの塔・・・>
昨日に続いてバベルの塔。「今日の表紙」に「ブリューゲル型バベルの塔(ペン画)」を掲載した。大部分はブリューゲルの絵の模写である。ブリューゲルのバベルの塔の絵は見れば見るほど実に細かい。模写では表し切れないがバベルの塔で生活する人や動物が何をしているかまで表現している。それにしてもブリューゲルがこの絵を描いた440年前(日本では信長、秀吉などの戦国時代)といえばコンクリートもなければ強度計算もできない時代。このような建造物を想像すること自体が驚きである。面白いことに完成した構造物としてはすばらしいのに、崩壊した部分の描き方が不自然にみえる。建造中に壊れるとすればこのような壊れ方はしないし岩盤を削る建設中の絵とみると何故この部分が未完成なのか納得できない(詳細絵画は文末のリンク参照)。とは言っても天まで届く巨大な塔がどのように建造され、どう崩れるかは誰も決めつけられない。「バベルの塔」はブリューゲルに限らず多くの画家の想像力を刺激した。それをまとめた「バベルの塔・絵画集」をインターネットで見ることができるのは現代の幸せである(=ここ)。


2月26日(木)   <今日はどうしてもコラム・・・>
今日はどうしてもコラムを書く意欲がでてこないので自己分析しよう。精神的にいささか"しんどい”体験があったが、こんな事は理由にならない。疲労の蓄積?・・他人と比べると微々たるもの。思う計画が進まなかった?・・毎度のことだ。自分のことができない?・・こうしてパソコンに向かっている。昼食が十分でなかったか?・・そういえば少々腹が減っている。糖分不足?・・先ほどチョコレートを食べた。睡眠不足?・・これはない。運動不足?・・今日だけの話ではない。面白いニュースがない?・・話題を作るのも気合いの問題だ。そういえば今日は雨模様の低気圧。・・やる気を左右する原因は案外に単純なことかも知れない。
2月27日(金)   <感性幾何学・・・>
感性幾何学で勇気づけられた。感性幾何学とは大学で数学を教えている私の昔の友人(変な言い方だが最近は交流が絶えているということ)が10数年前に感性開発研究所を創設して「創造に関わる思考」の養成法として独特の体系を創り上げたものである。友人の名は生島義之先生。失礼ながら既に引退されていると思っていたが現役バリバリであることをインターネットで知った。感性幾何学の手法も学内だけでなくデザイン関係を含めて多くの分野で実践されているようだ。10数年目には私は創造の世界とは無縁な会社員であり、実のところ彼から頂戴した感性幾何学講義の本を精読していなかった。今回ふと読み始めると面白くて止まらない。確かに自由な発想で創作の訓練をするにはユニークですばらしい手法に思える。それにしても彼の優れたオリジナリテイに気が付かなかった自分が恥ずかしい。彼の別の著書も読み直さなければならない。

2月28日(土)   <今日コンビニで・・・>
今日コンビニで買い物をした際に三度も”袋はいりますか”と聞かれた。こちらの返事は”いります”に決まっている。ビニール袋(あるいはポリ袋)は我が家にとっては必需品だ。犬の散歩の時に糞の処理に使うので、朝夕二回で一日2枚、年間730枚は少ない数ではない。毎日コンビニやスーパーで買い物をする訳ではないので袋を購入することもある。今日は60枚入りのポリ袋を買った時に”袋はいりますか”と聞かれた。不要な廃棄物としては袋などより発泡スチロールのトレイ(肉や魚を載せる皿)の方がはるかに容量が大きいのにトレイの改善の兆しは見られない。通販で購入すると必要な本体以外の包装品の大きな事に驚く。レジ袋の節約以前にやるべきことは多いのでは。「爪で拾って箕(み)で零(こぼ)す」(=こつこつと苦労して蓄えたものを一度に使い果たすことの喩え)流に言えば、「箕(み)で零(こぼ)し爪で拾うレジ袋」<本題と関係なく箕(み)の写真を見るのも楽しい=ここ)>。

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