これまでの「今日のコラム」(2009年 3月分)

3月1日(日)  <久しぶりにアク代官となった・・・>
久しぶりにアク代官となった。鍋料理では具材を入れる順序や位置、火加減など細かく取り仕切る人物を「鍋奉行」、合わせてアク(灰汁)を取る人を「アク代官」とちゃかす。私のアク代官振りは何も考えずにマニュアルで”沸騰したらアクをとり”と書いてあればその通りにする。今日は余裕があったので、アクって何?どうして取るの?と基本に戻って調べた。Wikipediaでみると、アク(灰汁)は「食品に含まれる、渋み・苦み・不快な臭いなどの元となる食事には不要な成分の総称」。「肉や魚介類を煮た時の灰汁は煮汁に溶け出した水溶性のタンパク質が熱変性によって凝固したアミノ酸や脂質を含む泡状の浮遊物」とある。私ができるのはせいぜいこの浮遊物をとる「灰汁取り」の作業くらいだ。これに対して灰汁抜き(あくぬき)をする植物性の食材の場合、栄養素を失わない程度に灰汁(あく)を抜くのは一段上の技量がいるようだ。今日は灰汁を何度か味わってみたが特別に”不快”ではなかった。これからは理屈なしに「アク取り小僧」に徹しよう。

3月2日(月)  <Make haste slowly. ・・・>
Make haste slowly. (ゆっくり急げ)とは難しい注文だが「急がば回れ」の英語版とされる。私など物事うまくいかないことばかりでも「急がば回れ」と自分に言い聞かせるとホッとする。それほどに、この言葉は生活の実感とぴったり一致する諺であるが、英語版の"Make haste"ではどうもピンとこない。More haste,less speed.(急ぐほどスピードが落ちるよ)やHaste makes waste.(急ぎすぎは浪費)も同様な英文であるが、いずれも山間部の狭い「回り道」を思わせる日本の諺のニュアンスはでないようだ。同じように「三人寄れば文殊の知恵」の英語版がTwo heads are better than one.となっているのでギョッとした。「三人寄る」ところにこの諺の意味がある。文化の異なる国の諺を単純に”該当する諺”と決めつけないで、むしろ直訳する方がいい。

3月3日(火)  <3月3日は雛祭り・・・>
3月3日は雛祭り。毎日のように通るロビーの一角に豪勢な雛飾りがある。ところが、この絢爛豪華な雛段に並ぶお雛様たちが今年は何か自分とは全く別世界になった。男雛と女雛が最高段に鎮座し、以下、三人官女、五人囃子、随身(ずいじん/左大臣・右大臣)、仕丁(3人組従者)たちが従う雛飾りの皆が楽しそうに見えない。こんなお内裏様やお雛様にあやかりたいとも思わない。シンプルな夫婦雛であればそれだけで十分と言う気分である。・・東京では夕方から氷雨。今夜は雪になるかも知れない。ニューヨークでは今日は積雪20cmとか。下に掲載した「今日の写真」は雨が降り始める前、近所の公園で撮影した「冬のプラタナス」。別名「鈴懸の木(すずかけのき)」と呼ばれるだけあってよく見ると今でも鈴のような実がついている。
2009-3月3日プラタナス@東京

3月4日(水)  <「考えること」と「感謝すること」・・・>
「考えること」と「感謝すること」は同類であるという。英語の、thinkとthank、ドイツ語のdenkenとdankenを並べてみると納得がいく。ゲルマン・アングロサクソン系の「感謝」の語源は「思いやり」。日本語で「考える」、「感謝する」と並べるとつながりが見えにくいが、「考える」を「思う」、「感謝」を「思いやり」とみると関連が表れる。感謝の言葉、「ありがたい」の語源は「有り難し」、つまり滅多にない貴重なものである。元来は宗教的な感謝の気持ち、仏の慈悲で得難い貴重なものを得ていることへの感謝の意味と言われる。人間の生命、思う心、考える力は全て神(仏)からの贈り物と感謝する・・、世の東西を問わずに言葉の源流にそんな思想があることを知ると何故かホッとする。

3月5日(木)  <今日は「啓蟄(けいちつ)」・・・>
今日は「啓蟄(けいちつ)」。啓蟄とは二十四節気の一つで「大地が暖まり冬眠をしていた虫が穴から出てくるころ(Wikipedia)」と説明される。”虫が穴から出てくる”のなら3月5日と決めても良さそうだが2007年(一昨年),2010年(来年)の啓蟄は3月6日である。二十四節気は「太陽の見かけの通り道(地球を中心にして太陽が動く天球を想定)」である黄道を24分割した暦で春分の点を起点にしている。昼夜の時間の長さがほぼ等しい「春分」を起点0度として「啓蟄」は345度と決まっているから起点である春分が太陽暦の3月20日か21日かで啓蟄の日も当然年によって変わる。・・啓蟄に限らないけれども天文学とか暦は真面目に理解しようするとますます混乱するのでここまで。深くは考えずに、下に掲載した「今日の写真」ような”春の兆し”を感じた”啓蟄の日”であった。
 
2009年3月5日各@自然教育園/東京・白金

3月6日(金)  <シェーンベルクの音楽・・・>
シェーンベルクの音楽を久しぶりに聴いた。若い頃には近代から現代にかけての音楽に興味を持ち、マーラーから始まり(当時はマーラーのレコードは希だった)、バルトークそしてシェーンベルクにも少し親しんだ。それにしてもシェーンベルクは40年以上聴いていなかった。今回聴いたCDはスエーデン人の友人が送ってくれたものだ。シェーンベルクとシベリウスの曲が一緒に入っているCDでスエーデン人のバイオリンソロ、スエーデンのオーケストラによる演奏。シェーンベルクのバイオリン協奏曲(1935年頃渡米後作曲)は”久しぶり”ではなく初めて聴いたが透明感ある音色が違和感なく心地よく耳に響くのには少々驚いた。シェーンベルク(1874-1951)はオーストリア生まれ。父親はハンガリーに住むユダヤ人、母親はチェコ出身のユダヤ人であったのでウィーンで育ったシェーンベルクはドイツ・ベルリンの大学教授になるが、やがてナチスを逃れてアメリカに移住。後にアメリカに帰化してアメリカで亡くなった。シェーンベルクの音は全く古さを感じさせないばかりでなく、現代の作曲家がその後どんな革新をもたらしたか考えさせられてしまう。音楽の世界も真の創造者は100年に一度しか現れないのか、それも歴史が発掘しなければ埋もれてしまうのか・・。

3月7日(土)  <「顰蹙」とは・・・>
顰蹙」とは難しい漢字を使う。ご存じ「ひんしゅく」と読む(パソコンの文字が小さいと読めない!)。「顰蹙文学カフェ」というタイトルの本(高橋源一郎・山田詠美共著/息子から借りた本である)を読み始めると面白くて止まらなくなった。高橋源一郎と山田詠美は対談で文学での”顰蹙を買う”新人を待望している。顰蹙とは”自分ではできない者の嫉妬心をあおるもの”で体に異物が入ってきたときの反応ととらえる。だから免疫ができると反応が変わる。考えてみると、文学に限らず美術、音楽など従来の権威に対して革新を成し遂げたものは全て「顰蹙を買う」ことから始まった。”印象派”といってバカにされた絵画が世界に広がり、顰蹙を買い続けたピカソの絵画は新しい美術の道を開いた。ストラヴィンスキーの音楽でさえ当時の権威からは顰蹙ものだった。現在ある「権威」が顰蹙を買うような元気のよい新人が待望されるのは文学の世界だけではない。
「今日の表紙」に「 シンビジウム(ペン画)」を掲載した。0.05mmの細いペンだけで描いた。
「今日の写真」には別所坂公園から撮影した中目黒駅前にほぼ完成した45階のタワーを掲載。
 
                          2009-03-07@別所坂公園/目黒区
3月8日(日)  <「船乗りシンドバッド」・・・>
「船乗りシンドバッド」を読んだ。アラビアン・ナイト(千夜一夜物語)の中の船乗りシンドバッドの冒険は誰でも知ってる物語であるが、今回読んでみると子供の頃とは全く違った感想を持った。先ずタイトルは「「船乗りシンドバッドの冒険」ではなく「バグダッドの商人」とか「世にも幸運な商人シンドバッドの物語」というべきストーリーだ。胡椒、生姜、沈香、白檀、真珠、ダイヤモンド、金、銀などあらゆる商品の交易で巨万の富を築くアラブ商人のしたたかさが物語の底流にあり、その商売熱心であること、好奇心には感心するばかり。そして大儲けした後にイスラムの教え通りに儲けの十分の一ほどを貧しい人に施しをする記載もある。物語のハッタリ性と最後は全てうまくいく筋書きは水戸黄門ドラマと同じで特別に違和感はないが、商人シンドバッドの血は現代のアラブにも引き継がれているのでないか。 

3月9日(月)  <からくり人形・・・>
「からくり人形・メカニズム(工作)」を今日の表紙に掲載した。「今日の工作作品」といってもオリジナリテイは一つもなく市販キットを組み立てただけであるが、余りによくできているので紹介したくなった。未完成のメカニズム部分を写真に撮って掲載したが、完成すると有名な「弓曳童子(ゆみひきどうじ)」になる。矢立から矢を取り出して弓にセットし的に向かって矢を発射するからくり人形で童子の表情まで変わる。七枚のカム板を使いゼンマイ一つで全ての動作を行うメカニズムは実に巧妙だ。この弓曳童子は江戸末期に活躍した田中久重(1799-1881)の作。これを現代のからくり師九代目玉屋庄兵衛さん(1954年生まれ)の監修を受けて学研が工作キットを発売しているのである(「大人の科学シリーズ」)。ちなみに後世「東洋のエジソン」とも呼ばれた田中久重(ひさしげ)は明治になって田中製作所を創設し、この会社が現在の東芝の基礎となったという(田中久重は日本初の蒸気機関車や蒸気船の模型も製作した)。現代の日本の優れたロボット技術のルーツを見る思いがする「からくり人形」であるが一方で東芝がロボットにそれほど力を入れていないところがまた面白い。

3月10日(火)  <ほとんど毎日、バスの3停留所・・・>
ほとんど毎日、バスの3停留所分を歩く。速歩で所要時間10分余。距離にすると1.2kmほどだろうか。バスの経路と全く同じ道を歩くので自然と毎回バスの時間と比較をするが、半分の回数はバスより速い。バスの待ち時間があるときや道路が渋滞気味の時には間違いなく歩く方が速いのである。この経路のバス(京急バス)は最低料金が210円であるから往復で420円の節約になる上、時間も変わらない。しかも健康のためにも歩くに限ると良いことずくめだ。それにしてもわずか数分の乗車でも210円とは、(短距離の)バス料金は不当に高い。歩くことができる距離は”バスを捨てて足を使おう”・・。

3月11日(水)  <久しぶりに陶芸作品・・・>
久しぶりに陶芸作品を「今日の表紙」に掲載した。今日、焼き上がった自分の陶芸作品「横長花器」をみるのは素直にうれしい。陶芸ができることは本当に恵まれていると改めて感謝。一方で最近は陶芸に時間をとり難い。陶芸の場合、粘土の乾き具合とか削りのタイミングがあるので自由に時間をコントロールできないと続けられない。その点、絵画のスケッチ程度ならばどこでもほんの少しの時間が割ければ結果をだせる。さて、「横長花器A」は船型の横長ボデイを鉄の肌合いに仕上げた。二酸化マンガンを使用して鉄風味を出すのには、それなりのノウハウが必要だが、今回は陶芸教室の仲間が気安く秘伝の混合比を教えてくれたので、その通りに実施した。以前は狙い通りの仕上がりが出来なかったが今回は上手くできた。持つべき者は研究熱心な優しい仲間である。


3月12日(木)  <犬の糞尿・・・>
犬の糞尿が玄関先にあると誰でも腹を立てる。被害者にとっては犬の飼い主はすべて共犯者であり、犬や飼い主を敵(かたき)のように嫌う人は大抵こんなことが原因であったりする。朝晩必ず犬と散歩をする者として当然糞尿の場所や処理には注意する。ところが最近我が家のアール(コーギー犬)が車椅子で散歩をする際、2ー3メートル後ろの道路上に落とし物(糞)をしていることに気がつくことがあったので、自分も道路を汚す加害者になっていないか神経質になっている。そのために道路上に残っている他の犬の糞でも見つけると必ず拾って処理することとした。それにしても今朝はひどかった。どんな犬か知らないけれども大理石の敷き板の上に堂々と汚い糞を残している(それも2カ所!)。どうみても落とし物ではなく未処理品だ。一時の清掃処理をこちらで行うのは吝か(やぶさか)ではないとしても、世の中には常識の通じない人もいる。犬を飼うマナーをうまく教えるやり方はないものだろうか。
3月13日(金)  <ケイタイ文化・・・>
「ケイタイ文化」という言葉があるほどにケイタイ独自の領域があるようだ。「携帯サイトの世界」を紹介する本を読むとケイタイ文化は既に想像以上に社会に深く入り込んでいる。ケイタイ文化の担い手は10代から20代前半の若者でパソコンでインターネットに親しむ者や大人世代とはとは全く別。いわゆる「プロフ(=プロフィール、自己紹介サイト)」とか「ケータイ小説」、「ケータイ俳句」など断片的に情報を得ることはあるが実態を知らない。10代の若者がテレビやパソコン、書物とも関係がない自分だけの「道具」としてケイタイを愛する性向は善し悪しの問題ではないだろう。・・このところ私自身毎日10件以上携帯メールを使用するほどケイタイが必需品となっているが、ケイタイ文化に触れるにはほど遠い。けれどもニュースも、天気予報もケイタイでみる事態にわれわれのケイタイにも近い将来新たな文化が芽生えるのでないかと予感させられる。
「今日の表紙」には前回の花器(陶芸)を使用したサンプルを掲載。花器ではなくスナック菓子入れにしたらどうかとのアイデイァもある。


3月14日(土)  <今朝の東京は強い風と雨・・・>
今朝の東京は強い風と雨。外出して歩いていても何か気分が優れない。そこで低気圧であると何故気分が沈滞したり体調が悪くなるのか自由考察してみた。大きく分けると気圧が低いことによる身体への影響と太陽光の有無による影響の二つに分かれるだろう。身体を覆う大気の圧力(大気圧)が下がると当然身体はふくらみ傾向となる。問題は何がふくらみ、何が影響を受けるか。別の表現をすると圧力が減るのであるから「たるみ」や「ゆるみ」がでる。脳にゆるみがでれば"ボー”とするか、気持ちがたるめば集中しない。内蔵のどこかがふくらめば血管が押しつけられて低気圧による不調を訴えることは十分にあり得る。大気圧を調整する試験室を作れば身体が大気の微妙な変化にどう影響されるか徹底的に研究できるだろう(現在どれほど解明されているのか知らない)。一方、太陽光の身体への影響は単に気分的なものではなくオゾンとかイオン、光の波長などと関連させて定量的に把握できるのでないか。「気が重い」とか「腰が痛い」といった症状は専門の医者からは”病気でない”と片付けられる。もっと明解に対処法が確立されればどれほど"人のため”になるか知れないのに・・。

3月15日(日)  <風車 風が吹くまで・・・>
「風車 風が吹くまで 昼寝かな」は広田弘毅が左遷された時に詠んだ句として知られる(城山三郎が「落日燃ゆ」で紹介して有名になった)。確かに自分の努力ではどうしようもない事態にあわてず騒がず風向きが変わるのを待つ心境は分かる。多くの人が不遇なときにこの句で励まされるのだろう。最近この句を思い出して気がついたが、"開き直り”の句ではあるが、今に見ていろ、その内に俺に風が吹いてくるという恵まれたエリートの臭いが強い。悲しみの情などないところがいいのかも知れない。いま私が作るとこんなになってしまう:「ごくろうさま ゆっくり休め 風車」。
「今日の表紙」に「横長花器B(陶芸)」を掲載した。前回の「横長花器」と同類の花器を3種類制作したものの新たな一つ。両端の形状を少しづつ変えた。


3月16日(月)  <ツボの刺激・・・>
ツボの刺激で劇的に足が軽くなった。「経絡リンパマッサージ」という本が家にあったので(多分妻が買ったもの)拾い読みしながら、以前から慢性的に痛み感じる左足首に適応してみたのである。腰痛対策のツボとされるポイントを説明されている要領の通りにやってみた後、15分ほど歩く機会があったのだが以前との余りの違いにいささか驚いた。足が軽くなったというより左足を意識せずに自然に早足で歩ける。痛みを感じる患部ではないツボを合わせて刺激するだけで、これほど効果があるかと感動するほどだった。東洋医学でいう「経絡」は生命活動を維持するためのエネルギーである気(あるいは血)の通り道。経絡に沿って体中に経穴(ツボ)がある。確かに体調が悪いとか痛い箇所があるのは結果であってその場所に原因があるとは限らない。適当なツボの刺激やマッサージで身体の調子がよくなることは有り難い。逆に血液やリンパの流れ方一つで一挙に体調を崩すことは恐ろしいことでもある。

3月17日(火)  <笑って・怒って・驚いての指示・・・>
笑って・怒って・驚いての指示通りの表情をするロボットが開発されたとの記事があった。しかも若い女性の体型で目が大きくかわいい顔が妙にリアルなロボットだ(開発は産業技術総合研究所)。言われた通りのことをやるのはロボットの宿命かも知れないが「感情」までご主人様の命令通りに表情を変えるロボットは趣味の悪い「奴隷ロボット」でないか。人間は(恋人や妻子を含めて)他人の思う通り(指示されるまま)にならない感情を持っているところが人間たる所以。それを命ずるままの感情表現を女性型ロボットに実行させるのが何とも気持ちが悪い。どうしても表情を持つロボットを開発したいのならば私なら「あまのじゃく(天の邪鬼)ロボット」を作る。笑え、怒れ、驚け、悲しめ、泣け・・などあらゆる命令に対して決して命じられた通りの表情をしないロボットだ。泣けと云われて笑っている・・そんな云うことをきかないロボットの方がいい・・。

3月18日(水)  <区立の図書館・・・>
区立の図書館に行くたびにいささか複雑な気持ちになる。個人的には大変有り難い・・、これほどの無料サービスをよくやってくれる・・、職員も親切だ・・、それにしても全て税金だけれど予算は大丈夫なの・・、ブックオフのように古本の利用をしているのだろうか・・。私の周辺(東京)では渋谷区に8館、目黒区にも8館の図書館がある。住民票のある区民でなくても登録すればどこでも借りられる。本は10冊、あるいは20冊(区によって異なる)を借りることが出来るので、毎回持ちきれないほどの本を抱えてでていく人を見かける。図書館の場所は一等地で設備は立派、職員も多い。これが文化国家というものか。インターネットの時代にどこまでが”適正か”判断の基準が微妙であるが「合理化」のネタが山ほどあるのが図書館にみえる。ところで、今日は「宇宙」に関する本を探そうと思ったが、そんなコーナーはないし本も(本棚には)見つからなかった。
3月19日(木)  <春近し・・・>
「春近し と云えず寂しく 花をみる」。東京は20度を超すポカポカ陽気となった。都内でもう桜が咲いているのをみた。米国で行われているWBC野球で日本がキューバに勝ち決勝トーナメントに進んだニュースも春の先駆けであろう。「春近し」というと暗い冬から脱出して明るい希望に満ちた春が見えてきたという雰囲気がある。けれども花が咲き始めても春近しとはとても云えないこともある。人間の営みに関係なく季節は移り変わり時間はとどまる事がない。ほんの瞬間でもいいから花を愛でる気持ちは大切にしたいと思う。
2009-03-19@恵比寿ガーデンプレイス

3月20日(金)  <「」という漢字・・・>
」という漢字の象形文字としての成り立ちを知って納得した。「感じる漢字(高橋政巳著)/扶桑社」によれば先ず「勝」の月は胸や腹の肉月ではなく舟に由来する月(朝の月も同様で舟と日が昇る情景)。そして「勝」は舟が水面に浮力で浮かんでいるように大勢の力で持ち上げている様子を表しているという。「勝利は一人で得られるものではない」との説明にうなずいているとき、傍らのテレビではWBC野球で日本が韓国を6-2で勝利したことを伝えていた。正に勝利は一人で勝ち取るものではない、選手だけで勝つものでもない、多くの人の支え、幸運なる支えのもとに得られた結果であろう。
「今日の表紙」に「横長花器C(陶芸)」を掲載した。「今日の写真」には都内で撮影した「桜」を掲載。この日、天候は雨のち晴れ、夕刻から冷たい強風が吹き始めた。
   2009-03-20@都内大田区

3月21日(土)  <算法少女・・・>
「算法少女」(遠藤寛子著/筑摩書房)を読んだ。江戸時代の町医者の娘が数学で天才的な才能を発揮して評判となる話であるが、「算法少女(さんぽうしょうじょ)」の書名は今から230年ほど前に江戸で実際に出版された和算の本の名前であるという。読み終えた後には爽やかさな満足感を覚えたが、同時に私は本の力を改めて思った。先ず、230年前に「算法少女」が出版されていなければ元より数学のトピックは歴史に残るチャンスはない。和算書「算法少女」の著者が千葉桃三(町医者)と千葉あき(=娘/少女)であることも昭和期になってこの江戸時代の書物を研究した結果判明したようである。更に、遠藤寛子さんが1973年にこの少女を主人公にした本を著さなければ江戸時代にこんな和算の天才がいたことや円周率を小数点以下10桁も計算していたことなど一般には知る由もない。30数年以上を経てなお私たちは遠藤さんの本から色々なことを教えられる。歴史を経て感動を伝えられるものこそが価値があるとの思いが一層強くなる。
3月22日(日)  <新庄剛志その後・・・>
新庄剛志その後が急に気になった。特に理由がある訳ではない。2006年の秋にプロ野球選手を華々しく引退してタレント、事業家へ転向したが最近マスコミで名前をほとんど見ないのでどうしたか知りたかったのである。インターネットで調べると新庄は元気に活躍しているようだ。彼のホームページ(LHSF-Colony=Let's have some fun=ここ)やブログのコーナー(=ここ)もよくできている。新庄はモデルやタレント業だけでなく意外なことにエアブラシという手法で描く絵画も巧みだ。元来、彼のキャラクターはタレント向きだと思うが、彼が引退する前後に巨額の寄付をしたことが忘れられない。日本ではスポーツ選手やタレント(司会者などを含めて)が寄付行為をすることは非常に珍しい。願わくば「寄付をする」というセンスを失うことなくマルチなタレント(才能)を発揮して欲しい。

3月23日(月)  <窓あけて・・・>
「窓あけて 窓いっぱいの春」(山頭火)。今日は終日強風が吹き荒れて、”窓あけて 花粉と黄砂いっぱい”。それでも快晴の”窓いっぱいの春”であった。種田山頭火(1882-1940)の形式にこだわらない自由な俳句(詩)の中にも、冒頭の句のように自然と季節が詠い込まれることもある。5-7-5のルールとは全く関係ない「まっすぐな道でさみしい」などの句が普通だと思うと、「ついてくる 犬よおまへも 宿なしか」のように、ぴったり、5-7-5の句もあるから面白い。5-7-5の句に季語を入れるという俳句は一つの流派のルールに過ぎない。本来は感動を表現する詩歌に絶対的なルールは必要ない。スポーツや将棋など勝負事にはルールが必要だが感性を伝える諸事は基本的に「自由」なはずである。それが単なる派閥のルールで”こうあるべき”が多すぎる。絵画でも、お花でも、お茶でも、音楽でも、さらには料理でも、○○派、○○流のルールは学びの段階での教科書・サンプルとみたい。山頭火が楽しいのは教科書の通りでないからであろう。

3月24日(火)  <野球・WBC・・・>
野球・WBC(World Basic Classic)の決勝戦で日本が韓国を破り優勝した。出先で、商店街で、自宅でと断片的にテレビを見たが、どちらが優勝してもおかしくない希に見る大熱戦だった。WBC独特のルールのため韓国とは5度目となる試合であったがこれまでの対戦成績は2-2で実力伯仲。今日の試合でも前半で日本が再三好機を逸した後、9回に韓国が3-3に追いついた時点で流れは韓国と思われた。結果的に日本がラッキーだったのは、延長10回、2アウト2-3塁バッターイチローで韓国がイチローと勝負したところ。この場面では普通満塁策をとる。イチローがこれまで余り活躍していなかったので勝負した。結局イチローのタイムリーヒットで5-3。イチローが試合後のインタビューで”神が降りてきてくれた”と言ったが、まさに勝利の女神は迷いに迷ったに違いない。・・さて、今回のWBCでは放映権を持つTBSが盛んに”さむらいジャパン”を叫んでうるさくてしようがなかった。”長嶋ジャパン”とか”星野ジャパン”と云われるだけで応援したくなくなるのだが、今回は"原ジャパン”でないだけまだ増し。それにしても”さむらい”も余計だ。

3月25日(水)  <漱石の「こころ」・・・>
漱石の「こころ」を読み終えた。若かりし頃(もう半世紀も昔だ!)夏目漱石の「こころ」は必読図書として人並みに読んだことがあるはずだが、ストーリーはほとんど記憶に残っていなかった。今回は忍耐強く全編をきっちりと読んだ。「こころ」は大正3年(1914年)に4ヶ月間連載された新聞小説。49歳で亡くなった夏目漱石(1867ー1916)にすれば晩年、47歳の作品だ。明治が始まる一年前(大政奉還の年)に生まれた漱石は典型的な明治のインテリだろう。「こころ」の主人公の先生が人間関係で葛藤したり悩む心理が今の私など全く共感できないのは時代の相違もあるとは思う。それにしても、追求されている人間のエゴイズムは今では特別のことではないし、登場人物はうじうじ、めそめそ、ぐじゃぐじゃと煮え切らぬ態度が続くのでいいかげんしろと言いたい話ばかりである。思い起こすのは作者である漱石が英国に留学しているとき周囲となじめず部屋に引きこもっていたとか、初めてロンドンの地下鉄に乗った際振動が大きくて嘔吐をもようしたというエピソードだ。頭脳明晰かも知れないがマイナス思考しかできないひ弱な明治インテリの「こころ」を現代の若者はどう読むのか聞いてみたい。

3月26日(木)  <大相撲の八百長記事・・・>
大相撲の八百長記事に関連して東京地裁は講談社などに4290万円の支払いと記事の取り消し広告の掲載を命じた。講談社側が素直にこれに応じるかは別だが、講談社またかの感がする。講談社といえば出版業界の大手で多くの"真面目な”書籍も出版しているけれども、「週刊現代」が真実であるか否かなど関係なく売るために(=儲けるために)は何でも記事にするのは毎度のことである。名誉毀損で訴訟にならなければ大儲け(同じ講談社系の新聞、日刊現代も似たような戦略だ)。奇妙なことに大出版社で力もあるので文筆業に携わる人間はそれを批判できない構造が出来上がっている。一方で魅力的な本もだす。私の場合、買おうと思った本が講談社であったので止めたことが何度もある。雑誌社のインチキ性、儲け主義に抵抗するにはその程度のことしかできない。ちなみにこの社の雑誌のほんの一部を挙げておこう:おともだち、たのしい幼稚園、少年マガジン、群像、フライデー、デイズニーファン・・。それにしても冒頭の賠償金額は少なすぎるのでないか。
3月27日(金)  <目は二つ、耳は二つ・・・>
目は二つ、耳は二つ、鼻は一つ、口は一つ、何故・・と人間は疑問を持つところから進化した。今の時代、何でも分かっているようでも、神が創り賜った人間の複雑な仕組みで解明されているのはわずかであろう。視覚、聴覚、嗅覚のセンサーとしての役目を持つ目、耳、鼻は揃って二重のセンサーで一方が故障したときの予備付きであるのは分かる。鼻は一つに見えて穴は二つ、ただし離れた位置であることはない。二つの目や耳が離れているのは距離や方向をキャッチするだけでなく動きをも正確に捉えるのに有用だ。更に、目は自分の意志で閉じることができるのに耳や鼻は閉じられないのは何故か。ある種の動物は目を開けたまま眠ることができるが人間はそうはいかない。一方で、目は開いているけれども何も見ていないとか、耳は閉じていないけれども自分の都合のよいことしか聞こえないなど、センサーの感度は心理的な作用で自在に調整されてしまう。しかも同じものを見ても(あるいは聞いても)人によっては真反対に感じ、逆の判断をすることもある。では人の感覚・感性とは何なのか。・・どんなことでも何故を繰り返すと恐らく一生研究しても次々に新たな疑問が湧いてくるのだろう。人間も宇宙も未知なる分野は際限がない。

3月28日(土)  <今日の表紙・・・>
「今日の表紙」に陶芸作品「鉄風肌お椀A」を掲載した。陶芸のために思うように時間が割けないがそれでも少しでも作品が出来上がるとうれしい。これは前回の横長花器と同様に二酸化マンガンを使用した釉薬を調合して鉄風の仕上げを試みた「お椀」である。作品が出来上がったのはうれしいのだが、このところ陶芸作品の出来映えについては自信喪失気味である。仕上がり具合が気に入らず再度焼成直しなど手を加えたい思う作品を妻はとてもよくできているという。反対にいいと思うのに悪く言われることもある。趣味の違いだけではない。今日掲載した「お椀A」も鉄肌風味は成功して良いのだが、私は全体で見ると満足できない。そういえば部屋に飾ってある昔作った陶芸についても、アラが見えてこんなものは割って捨ててしまおうかなどと妄想がでてくることもある。技量が上がったと見るべきか欲がでたのか、素直につくる楽しみを満喫できなくなっているのは必ずしも喜ばしいことではないと反省するが・・。

3月29日(日)  <ゲド戦記・・・>
「ゲド戦記」の一巻を読み終えた。ゲド戦記(原作Earthsea)は米国の作家ル・グウイン(1929生まれ)による”ファンタジー小説”(岩波書店・飜訳版で読んだ)。全部で5巻あるので相当な長編小説だ。読み始めて嫌でもハリーポッターを思い出す。抜群の魔法能力を持つ少年が如何に成長していくか、少年魔法使いの冒険物語・・。実際には英国のハリーポッターの作者ローリングがゲド戦記の愛読者でこの本に強く影響されて全くの素人ながら魔法物語を書いたのが「ハリーポッターと賢者の石」(1997年に刊行されると世界的なベストセラーになった)。それに対してゲド戦記の発刊は1968年(その後、2巻が1971、3巻が1972、4巻が1990,5巻が2001と変則的に発行された)。初めは英米人はどうして魔法とか超能力、スーパーマンがこれほど好きなのだろうと都合よく魔法を駆使する魔法使いの物語を辟易しながら読み進めたが、途中から少し見方が変わった。魔法の世界でエリートであるゲドは能力があるが故に常人以上の苦労を背負い他人のために自らを犠牲にしてでも働くという姿勢が一貫してみえる。また危険と災いをもたらす悪霊の影から逃げていたら負けると一転して攻めに転じる話があるかと思えば、”闇を倒すのは光だ”などの文言がある。そんなことを面白がって読み進めていると読了していた。
「今日の写真」に友人の写真家(村上氏)からいただいた写真を掲載する。鳥はウグイスではなくメジロだそうだ。
2009-3-29@東京・ 明治神宮

3月30日(月)  <ウグイスとメジロ・・・>
ウグイスとメジロは混同しやすい。昨日掲載した桜と鳥の写真に”鳥はメジロ”と断りを入れたが、私は初めウグイスと思っていたのを友人からメジロと教えてもらったものだ。「梅に鴬」といかにも春らしい組み合わせがあるが、実際に梅の蜜を吸いに来るのはメジロだという。桜に来るのもメジロに限るのだろうか。梅にも桜にも姿形はメジロの方が似合うのに昔から歌に詠まれたり人気があるのは圧倒的にウグイスであるのはどうしてだろう。やはり、ホーホケキョの鳴き声の魅力か。それにしてもウグイスがメジロよりも贔屓(ひいき)されてきたのは昔からのようだ。花札の絵は「梅に鴬(実はメジロ)」、蕪村にも「うぐいすや 賢過ぎたる 軒の梅」の句がある。蕪村と言えばメジロではなく雀と間違えた句が面白い:「鴬を 雀かと見し それも春」。確かに雀と間違いやすいのはウグイスの方だ(鴬の写真=ここ)。メジロは色もよく目がキリリとして写真のモデルには向いている(メジロの写真=ここ)。

3月31日(火)  <朝日新聞の偽善・・・>
朝日新聞の偽善などと今更大袈裟に取り上げるつもりもないが、毎年この時期に週刊朝日の吊り広告をみると奇妙な思いになる。仰々しい「大学合格者高校ランキング」が目玉記事。全国2045高校の主要大学合格者数を完全保存版として出版する朝日の姿勢は日頃の"言論”と全く逆だ。学歴偏重や学校格差を糾弾してみる一方で自らがランキングを大宣伝する。言論や出版は自由であるが今の大新聞は言動がそのまま大衆を支配する権力となり、時には政治をも左右するので自ずから責任もあろう。いっそ”私たちは皆様と同様に儲けが第一でございます”と懺悔するなら許せるが、俺こそオピニオンリーダーといった顔をしてきれい事をいいながら、一方で儲けるためなら何でもやっている。大学合格者記事は毎日新聞に任せるとして朝日が一切取り上げなければ、どれほどか点数(=新聞ランキング用?)をかせげるのに・・。
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