これまでの「今日のコラム」(2010年 10月分)

10月1日(金) < 「竪型香炉A」(陶芸)・・・>
「竪型香炉A」(陶芸)を「今日の作品」(表紙)に掲載した。竪型の香炉に何か工夫をしたいと思って内部にボタン電池を入れてスイッチでLEDの赤い照明が点灯するようにしてみた。ボタン電池の区域は予め粘土で仕切をつけて制作して線香が燃えて煙が立ち上がるゾーンとは分けている。上部の坊主頭の群れはLEDの光が穴を通って坊主頭に当たって反射することを狙って付けたもの。陶芸コーナー(=ここ)には坊主頭の部分をアップした写真を掲載したが一部の頭には光が到達しており意図の半分は成功した。竪香炉の内部には白で光沢の出る釉薬を施した。これはLEDの光が内部で反射して外から色が見やすいようにあえて「白の光沢」を選んだのであるが、こちらは見事に成功して一個のLEDであるにもかかわらずどの窓からも赤い色が明瞭に認められる。スイッチ(表紙写真では右最下部の赤い球)を切れば窓の赤色がなくなり全く違う雰囲気の香炉にもなる。ちなみに今回使用した赤色LEDは一個15円! LEDは陶芸の分野でもまだ大きな可能性を秘めていることを改めて納得した「作品」となった。
 

10月2日(土) < 10月、神無月・・・>
10月、神無月となるとさすがに秋の気配を感じるようになった。今は猛烈な残暑が続いた今年の夏が終わり秋の紅葉の季節への過渡期であるが今この時期でないと見ることのできない自然がある。都会の一隅で散歩の途中に見つけたそんな風景を「今日の写真」として掲載してみる。まず「サルスベリ(百日紅)」(下左)。猛暑の中で逞しく咲き誇っていた花は実を付けて葉は色づいている。この木は「百日紅」の文字を当てるだけあって花の時期が長いけれども100日間咲き続けた赤い花ももうすぐ終わる。次の一つは「ハナミズキ(花水木)」(下右)。4月〜5月にかけて白やピンクの花を咲かせていた「ハナミズキ」は今いくつもの赤い実が合体した独特の果実を付けており、葉はすでに紅葉を始めている。「ハナミズキ」の場合は今の実と葉からあのハナミズキの花と結びつけることは難しい。それにしても最盛期の花でなくても実をつけて枯れかけた姿がどれも情緒がある。自然はどの時点でも独特の魅力があるのは全てが必要不可欠のプロセスであるからだろう。自然の一つとして人間もそうありたいが・・。
 
2010-10-02@東京・目黒区

10月3日(日) < 今日は花の名前を一つ・・・>
今日は花の名前を一つ覚えた。時々見かけるけれど名前は知らない花。いつもなら写真に撮ってインターネット(google検索)で花の図鑑(季節、色、特徴などで分類されている)を調べると大抵直ぐに名前が分かる。けれども今回ははじめはうまく検索できなかった。色も一様ではなく特徴も複雑。最後に破れかぶれで”紫陽花(あじさい)に似た花”のキーワードで検索すると一発で名前が判明した。それが「今日の写真」(下)に掲載した「ランタナ」またの名は「七変化(シチヘンゲ)」。ランタナの花は小さな花を多数集合させて一つの大きな花の塊を構成している(この点は紫陽花に似ている)。「七変化」とも呼ばれるだけあって、花が咲き始めてから色が黄色-橙-赤-ピンクなどと徐々に変化するという。確かに同じ場所の花でさえ色々な組み合わせを持った不思議な花だ。このような花の色と形を神の造化の妙と言ってしまえばそれまでだが自然にはそうあらねばならない理由がある。けれども神様のマニュアルを”検索”はできないから誰もその理由を知らない・・。
 
2010-10-03  ランタナ@東京・目黒区

10月4日(月) < 「テラ」の世界・・・>
「テラ」の世界が身近になっている。コンピュータの情報量を示す単位の話である。今日、秋葉原でコンピュータの外付けハードデイスク関連の商品を見ていると、1.0T、1.5T、2.0Tなどの容量表示が並ぶ。「T」は「テラ」で基本単位の一兆倍(10の12乗)。キロ(10の3乗)からメガ(10の6乗=100万倍)、更にギガ(10の9乗)が現れた時には驚いた。250MB(メガバイト)の容量でさえ感激していたのに「ギガ」とはすごいと・・。それがギガの1000倍である「テラ」表示が平然と並んでいる。ただしコンピュータの場合は二進法をベースとしているので2の10乗=1024を単位として1024バイトを1キロバイトとするので1テラバイトは1024の4乗=約1兆100ギガバイトになるそうだ。まあ、ユーザーサイドでここまで単位を追求しても余り意味はないので止めよう。一昔前には「テラ」の単位は冗談に思えた。テラの1000倍の単位「ペタ」が現実になることはあるのだろうか。

10月5日(火) < シンプル・イズ・ベスト・・・>
「シンプル・イズ・ベスト」という。けれども造形物やデザイン、絵画など美術に関しての「シンプル」とは何をどこまでなのか人それぞれに感性が異なる。私は基本的には「シンプルな美」に共感するが一方で「装飾の美」にも大いに触発される。太古の時代から人間は本能的に装飾への欲求があった。思う存分に飾るエネルギーは人間のバイタリティの証だ。装飾が周囲にあふれかえると今度は簡素な美しさにも気がつく。装飾があるから簡素の価値がでるのだろう。・・「今日の作品」に竪型香炉の「LED点灯なし」の写真を掲載した。この香炉は決して簡素とは言えないほど私としては飾りを付けた作品だが、合わせて陶芸コーナー(=ここ)には同じアングルから撮影した「LED点灯」の写真も掲載してみる。赤いランプを点灯した方がいいかどうかは人の好みであろうが私はこの香炉にはやはりランプを点灯させた装飾型が気に入っている。

 
10月6日(水) < 巨樹・・・>
巨樹に接すると何か霊的なパワーを感じるとともに人間の小ささを思う。1000年、2000年の命を続けている巨樹もあるし何百年も人間の生き死にを見つめてきた樹木は珍しくない。巨樹とは環境省で「地上から1.3mの位置で幹の円周が3.0m以上の樹木」と定義されている。インターネットで調べると日本中にある約68000本の巨樹のデーターベースがあることを知った(=ここ=からリンク)。このサイトで「全国巨樹トップ20」(=ここ)をみたが残念ながら私が実際に目にしたものは一つもなかった(有名な縄文杉は18位にあった)。東京都内にトップ20に入るものはないが巨樹の数は結構多い(4000件以上)。私がよく訪れる自然教育園(東京・白金)にも何本もの巨樹があるし、千代田区の北の丸公園や国会の場所にも巨樹があるそうだ(上記データーベースによる)。今日の写真として九品仏浄真寺の巨樹、イチョウを掲載する。
2010-10-06@九品仏浄真寺(東京・世田谷)

10月7日(木) < パソコンの外付けハードディスク・・・>
パソコンの外付けハードディスク(HDD)の中味を二年ほど前に一式誤って消去してしまった(調べると2008年10月3日であった/この日のコラムで”新たな歴史が始まる”と書いている=ここ)。その後いろいろな事情があってHDDには全く手を付けずに今に至っていた。最近になってようやく多少の費用がかかってもデータの復元修理をすることを決心して専門業者に検討させていたが今日見事に復元が成功した。データを間違えて消去したときボタンを押してしまった瞬間にミスに気づき、そのままの状態を保っていたので全てのデータを復元することができた。それにしても取り出したデータを改めてみると大して重要でないゴミのような内容が何と多いことか。毎年(10年間)のアルバム写真や印刷用に制作した画像データは何が何でも復元したかったのであるがこれらも長期間保存しておく意味のあるものはほとんどないと言っても良い。自分が必要でも他人には不要であるのが普通だ。しかしながら個人のデータはその個人が亡くなれば全て不要になると決めつけてデータを最小限に整理するのも淋しい。江戸時代の無名の人が綴った日誌がその時代の生活を知る貴重な資料となることがあるようにもしかすると不要と思ったデータに想定外の”意味”が発生するかも知れない。ゴミといってもそれほどスペースをとる訳ではない。後のことなど知ったことかと開き直って遠慮せずにドシドシ新たなデータも保存することにした。

10月8日(金) < 榊 莫山(さかきばくざん)さん・・・>
榊 莫山(さかきばくざん)さんが前の日曜日(10/3)に亡くなっていたことを知った。榊 莫山は書家と紹介されるが晩年は実に味のある書画を多く描いた。私も莫山ファンの一人。今、20年前に手に入れた莫山の図録を取り出して懐かしくページをめくっていると昔莫山の絵を模写したことを思い出した。模写するほどに傾倒した画家は希である。 バクザン先生は20代で書芸院展で特選をとるなど書の世界で頂点に達しておりしかも京大卒の学歴もあったがいわゆる書壇の権威や名誉に拘泥することなく自由闊達な創作を貫いた。詩、書、画が一体になった飾らない作風はお人柄そのものなのだろう。享年84歳。バクザン先生の言葉を引用してご冥福をお祈りする:「花アル朝ハ 花ニ酔ヒ 風アル宵ハ 風ニ酔フ」(書画に挿入された言葉/図録より)」、「真っすぐ前ばかり見とっても、何も見えてこんで、人生、大事なことは横っちょの方に転がってるもんや」。
「今日の写真」に「東京都庭園美術館前庭風景」(香水瓶の世界展開催中=ここ)(左側写真の右隅にみえる大きなキンモクセイが芳香を放っていた)と「自然教育園風景」を掲載する。
 
2010-10-08@東京・白金台

10月9日(土) < 雨が強く降り始めた土曜日・・・>
雨が強く降り始めた土曜日の夕刻。今日はテニスもウオーキングもできなかったので身体も脳も沈滞気味である。ノーベル化学賞を日本人二人(鈴木章さん、根岸英一さん)が受賞したこと、ノーベル平和賞に中国の人権活動家、劉暁波さんが受賞したけれども中国当局が反発してテレビ、インターネットの報道規制を敷き必死でこのニュースを国民に伝えないようにいていることなどコラムの話題を考えたが止めた。ノーベル賞はマスメデイアに任せてグッと内輪の孫自慢とする。前にニューヨークに住む孫娘(小4)がブログを始めたことを書いたが、この子はブログに乗せる写真のセンスが実にいい。摩天楼に反射する他のビルの姿を撮ったり、最近はニューヨークの街のゴミ箱シリーズで毎日違うゴミ箱の写真を掲載していたりする。昨日は自分の写真でなく他のサイトで面白いユーチューブの動画を見つけたといって掲載していたので、文字通り"孫引き”して紹介してみる(BMWMuseumのKinetic Sculupture=ここ)。私はこの”動く彫刻”の仕組みを考えながら何度も何度も飽きずにみとれてしまった。
10月10日(日) < 「賞の権威」とは・・・>
「賞の権威」とは何で決まるのだろう。世の中には数え切れないほどの「賞」がある。あまたの賞の中でも「ノーベル賞」が抜群に権威があるのは何故だろう。賞金の額もあるかも知れないが選考委員の中立性、公平性が大きな要因でないかと思う。ある程度の権威があると云われる賞であっても内情を知れば選考委員に大抵は大ボスとか権威者が構えていてコネか金かで左右される。スポーツのような勝負事でなく絶対評価ができない美術、音楽など芸術分野では賞はある意味で選考委員の有力者への適合性で決まるといってもよい。その点、ノーベル賞は選考過程は秘密裏に行われ受賞者発表の当日まで予想もできないとされる。選考はスエーデンの王立アカデミー(物理学賞、化学賞、経済学賞)、カロリンスカ研究所(生理学・医学賞)、スエーデンアカデミー(文学賞)、そしてノルウェー・ノーベル委員会(平和賞)と部門毎に分担されて世界中から”人類のために最大たる貢献をした人々”(ノーベルの遺言)を探す。そうはいっても100年のノーベル賞の歴史から現在の"権威”を得るまでに紆余曲折の道があったようである。どんな賞にしても人間が評価をして人間に与えるものが賞。一方で賞とは無縁であっても"人類のために貢献をした人々”は数多いことを心しなければならない。
「今日の写真」は全く趣の違う建物が並んでいる街の風景:
2010-10-10@代官山・東京

10月11日(月) < 軽量ダウンジャケット・・・>
軽量ダウンジャケットを羽織ってみて実際に軽さを体感した。最近ユニクロで発売されたダウンジャケットは重量が約200グラム、これは食パン3枚程度の重さ。たまたま他の用事で新宿のユニクロに行ったので羽織ってみると確かにジャケットの概念が変わる驚きの軽さだった。これでお値段が6000円を切る。今日は購入しなかったが欲しくなる一品。ところが更に軽いダウンジャケットが存在する。山登りやアウトドアスポーツでは機能的に少しでも軽いジャケットが要求されるところから開発されたのであろう、このスジの専門メーカー、モンベル(mont-bell)のダウンジャケットは何と150グラム(女性用は130グラム!)<メーカーのサイト=ここ>。ここまでくると"世界最軽量”という宣伝文句が眩しい(ただしお値段は約18000円と少々高め)。ダウンジャケットはダウンフェザー(downfeather、羽毛、ダウン)を詰め物として使用したジャンパー。軽量ダウンジャケットの中味が本物のダウンであるかどうかは知らないが、いずれにしても生地を含めて最先端技術で軽量化を競ってきた成果が軽量ダウンジャケットに現れている。
 
2010-10-11@新宿駅南口(左右とも)

10月12日(火) < 「バランス1」(陶芸)・・・>
「バランス1」(陶芸)を今日の作品として表紙に掲載した。今回の作品はメカニックなバランス機能を持たせて遊んだオブジェ。写真・左側の四角い重し(2個)、中央の半円形のサポート台、右の容器、これら全ての部品が組立式でセンターに通した角材を自在にスライドさせることができる。セットする位置によって水平でバランスさせるか、右を傾けるか、左に傾けるかなど自由である。制作時には容器には山野草を入れたり一輪挿しとして使用したりすることも考えたが使い方も今後のアイデイァ次第。現物を目の前にすると当初考えもしなかった使用法がでてくるのがこの種の作品の楽しいところだ。陶芸としては土は粉引土に白化粧、仕上げの釉薬は白マット釉をスポンジで荒く塗布した。・・ちなみに、バランス(balance)とは元来”天秤(てんびん)ばかり”のことを指したものが、”つり合い"とか"均衡”の意となり、更に調和とか落ち着き、平静の意味もできた。バランスとは正に調和のとれた瞬間であるところが美しい。

10月13日(水) < チリ落盤事故で奇跡・・・>
チリ落盤事故で奇跡の救出劇が開始されたことが今日のトップニュースである。鉱山の落盤事故で作業員33名が地下700mに閉じこめられたのが8月5日。救出用の直径70cmの穴の掘削が成功し、今日50cm径の救出用カプセルで一人一人を地下から救出することが開始された。救出の状況は生中継で世界中に放映されている。奇跡を可能にしたのは世界のトップ技術が活用されたことが大きな要因の一つだろう。地下と地上の通信、物のやりとり、情報交換、そして救出用の縦穴掘削・・。70cmの穴を700m=70000cmの深さ掘るということは1mmの穴を1m(=1000mm)掘ることとイメージは同じである。この掘削作業を依頼されたのはアフガニスタンで井戸を掘っていた米国人技師であったとか。地下に閉じこめられた人の心理についてはNASAから宇宙飛行士に関連して助言を得たこともあったようだ。このような成功事例については、ただ幸運だったとか奇跡的という表現でなく、何と何が不可欠でどのような条件で"奇跡”が起こり得たかを知りたい・・。
10月14日(木) <ブロークン・ウィンドウ理論・・・>
ブロークン・ウィンドウ理論の正しさを実感している。ブロークン・ウィンドウ理論(Broken WindowsTheory)は破れ窓理論とか割れ窓理論ともいわれるが、反社会的な行動や犯罪がいかに伝搬するかを犯罪心理から説明したもので、「建物の窓が壊れているのを放置すると、街は荒廃しやがて他の窓もまもなく全て壊される」という考え方から名付けられた。軽微な犯罪を放置すると治安が悪くなり次々に犯罪が加速して凶悪犯罪が多発するという「破れ窓理論」を携えて1994年にニューヨーク市長になったジュリアード氏が軽犯罪の徹底的な取り締まりを実施した結果、以前は犯罪多発都市であったニューヨークが驚くほど治安の回復(殺人や強盗も半減)をみたので世界中からこの理論が注目された。私が実感しているブロークン・ウィンドウ理論の効果は大それたことではなく”タバコのポイ捨て”である。我が家の前の道路はそれなりに人が通るので最近自分で落ち葉掃きを兼ねて毎朝清掃することを始めた。はじめ驚いたことに落ち葉以外にタバコの吸い殻が10本以上も落ちていた(隣り近所の道路も含めて清掃/途中で数えるのを止めた)。それがタバコの吸い殻やゴミ類を早朝になくしてしまうことを3〜4日続けるとポイ捨ての吸い殻が減ってきた。今は皆無とは言えないけれども吸い殻零の日も多い。落ち葉も含めて清掃が徹底しているとタバコに限らず人間が捨てるゴミは明らかに減るようである。割れた窓が放置されていると割れていない窓も割ってみたくなる人間の愚かな心理を知っておくのは無益ではない。
10月15日(金) <絵手紙が郵送途中で行方不明 ・・・>
絵手紙が郵送途中で行方不明となった。ニューヨークに住む孫娘に送った絵手紙が途中で消え失せたのである。今回はマンハッタン島を南北の地図をセットで描き、北の絵手紙が届いたのに先に送った南の分はいつまで経っても届かないのでおかしいことに気がついた。絵手紙の場合普通は返事などを期待していないのでこれまで送った分でも配達されていないものがあるかも知れない。娘とインターネットの回線で手紙が行方不明となった話をしていると、娘の方は丁度アメリカの国内でもっと深刻なトラブルに遭って困っていた。なんでも宝物のように大切にしていた図書を米国内の知人に宛て小包で郵送したところ中味が紛失して宛名書きのところだけが切り取られて配達されたという。こんな米国の郵便の実態を聞いていると日本で当たり前で手紙や荷物が届けられることを有り難く思う。いや、郵便に限らず電車やバスが時間通りに到着すること、たくさんの商品を人の前に並べておいても盗まれないこと、その他、日本では当然と思っていることが実は他の国では真似のできない非常に恵まれた事柄であることに気づかされる。
「今日の作品」に「バランス2」(陶芸)を掲載。前回掲載のものを分解した写真。自由自在に形を変えて遊べる。


10月16日(土) <毎日コラムを書いていると ・・・>
毎日コラムを書いていると、その日の成果とか充実感とコラムとは相関関係がないことを教えられる。どちらかというと充実した日を過ごし心身とも心地よい疲労感を覚えているときにはコラムに書く内容を思いつきにくい。勿論、習慣で日記風な出来事などを綴るけれども書く意欲は目に見える成果のない時の方が不思議に強くなる。今週は火曜日以降、今日まで陶芸教室で新作の制作に集中していた。午後1時過ぎに粘土相手に着手すると脇目もふらずに没頭して気がつくと夕方・・という充実した日々が続いた。けれども成果はあるがコラムに掲載できるものではない。今はこのことを書いているが、書くことと実行することの距離を考えてしまう。一般社会でも実行者は寡黙である。政治家でも学者でも役人でも会社員でも自営業の人でも、それから芸術家でも、黙々と仕事をする人々で社会は成り立っている。書くことが商売である新聞記者や評論家は本来は”黙々と仕事をする人々”をもり立てるための役割であるべきであるのに反対のことをやる・・、といって批評家を批評してもはじまらないか。・・実行者の自分が少しでも元気になるコラムを書きたい・・。
10月17日(日) <生物多様性 ・・・>
生物多様性に関する国際会議がいま名古屋で開催されている。会議と全く関係のない門外漢にとっても生物の多様性には驚嘆するばかりだ。地球上には数千万種の生き物がいるとか、毎年4万種の生物が絶滅すると云われる中で、私たちが名前を知っている動植物は全体のほんのわずかに過ぎない。私自身について云えば野草や植物の名前は一般常識以下しか知らないだろう。無関心であった分を取り戻そうと仮に一日ひとつ、新しい名前を覚えるとしてもたかが知れている。それを承知で、今日覚えた花は「チェリーセージ・ホットリップス」(下に写真掲載/散歩の途中に撮影)。シソ科サルビア属(セージとは元来サルビアと語源が同じ)の花でサルビア・ミクロフィラ・ホットリップスとも呼ばれる。ホットリップスの名の通り真っ赤に紅を付けた唇のような花がかわいい。以前のコラムでも書いたことがあるが、植物の構造、花の形、色など全てには成り立ちの理由がある。人間は知ることができなくても自然は必然、あるべき姿で出来上がっている。どうしてこんな形、色・・と細かく見つめると人知を越えた自然の不思議さが更に倍加されてくる。
2010-10-17@中目黒公園/
東京  
10月18日(月) <庭の一角に大文字草 ・・・>
庭の一角に大文字草(ダイモンジソウ)を植えた。庭と云っても共有の庭なので目立たぬように秘やかに植えたもの。たまたま先週の日曜日、NHK-TV趣味の園芸の時間にホトトギスと大文字草が紹介されていたのをみて、余り日の当たらない我が家の庭には大文字草が丁度良いと考えて、横浜の「サカタのタネ」(=種苗会社の名前)まで買いに行ったのである。下に掲載した写真は「紅花大文字草」、他に「かすみ」の名前の白系統の大文字草も一緒に植えた(原種は白花というが最近の種類の多さには驚く=ここ=参照)。改めて花を観察すると見事な漢字の「大」の文字。これほど分かり易い花の名前はない。それにしてもどうして5枚の花弁の内、下の2枚だけが長くなるのか・・。大文字草は暗い渓谷の岩壁などに自生し、日当たりはそれほど必要としなくて湿気があるけれども水はけのいい環境を好むという。我が家の庭は半日陰と湿気が多い条件は問題ないが水はけは分からない。果たして本当に根付くかどうかはこれからのお楽しみ・・。
2010-10-18

10月19日(火) <潜在意識について ・・・>
潜在意識について最近の脳科学でどのように解明されているのか知りたい。意識とか潜在意識という考え方は深層心理学の理論に関連してフロイト(1856〜1939)が提唱したものだから長い歴史がある。その後、スイスの心理学者ユング(1875〜1961)が深層心理を更に深く研究し、潜在意識についてはこんな言葉を残した:「人がこれが自分自身だと思っている意識は海面上に突き出た氷山の一角に過ぎず、実はその何十倍もの潜在した意識が海面下に存在している」。潜在意識は生まれてから幼少時、思春期を経て現在に至るまでの経験から構成された無意識(性格、能力、感受性ほか全てを含む)と個人の領域を超えた人類共通の無意識領域から成ると説明される。この潜在意識を"願望実現”のために活用できるとしたのが「マーフィーの法則」だった(願望を潜在意識に刻み込めば叶うとした)。潜在意識は考える以上に人間にとって重要な役割があるかも知れない。・・いまどき潜在意識を話題としたのは認知症の不思議とも関連する。私たちは顕在した意識にしたがって主張、選択、判断、創造、そして記憶する。その何十倍もの潜在意識はその時どう絡んでいるのだろう。意識の領域での認知症は実は潜在意識(無意識)の領域と深く関わっているように思えてならない。
10月20日(水) <国立新美術館で開催 ・・・>
国立新美術館で開催されている公募展(独立展)を見た。知人から招待券をいただいて行ったのであるが、この種の秋の展覧会にいくと毎回同じような所感を書くのが少々つらい。膨大な量の超大作絵画ばかりを見て回るとやがて”もう結構”と食傷気味になるのである。そしていつものように”人は何故描くのか”を考える。描くことによって何かを表現したいとして絵画というものは十人十色どころか100人100色を如実に示す。誰もがものすごい労力をかけて自分がベストと思う内容をキャンバスにぶつける。結果はどれ一つ同じものとならない・・。絵画には上手、下手、善し悪しはないと心底思う。あるのは個人的な好き嫌い、感動の有無。私自身の好みは具象より抽象だと今日も思い知らされた。人間や動物、戦車や爆弾、臓物などをリアルに描いた具象画は作者の思いこみや意図を見る者に強制する。美しいでしょう、悲しいでしょう、苦しいでしょう、何を言わんとするか分かるでしょうか・・、こうしたお仕着せが私には重い。むしろ、抽象的な形や色から自分で想像する自由が好きなのかも知れない。とにかくも大きな絵画展では「人間の多様性」のみが強く印象に残る。
下の写真右は国立新美術館に行く途中で偶然見つけた建物(それぞれの柱の上に人間の彫刻がある)。近くによって確かめると”Sweet Emotion”というライブハウスだった(=ここ)。
 
2010-10-20@国立新美術館内部休憩所/東京・六本木  右写真は@Sweet Emotion/西麻布

10月21日(木) <長岡輝子さんが102歳・・・>
長岡輝子さんが102歳で亡くなった。ニュースの中で長岡輝子さんの生まれが明治41年(1908年)と聞いて我が家では母親を思い出すこととなった。このコラムを書き始めた1999年末に亡くなった妻の母が丁度明治41年生まれだった。また、20年以上前に亡くなった私の母は明治43年生まれ。母親たちが生きていれば100歳を越す歳になるのだ・・。新劇女優、演出家と紹介される長岡輝子さんには余り縁がなかったが我が家には長岡輝子さんが朗読した宮沢賢治作品集がある。これは長岡輝子さんが同郷(岩手県)の宮沢賢治(1896〜1933)の作品をお国なまり(独特の東北弁のイントネーション)で朗読したもの。この機会にCDを取り出して長岡輝子さんが朗読する「どんぐりと山猫」など宮沢作品を妻と一緒に聞いた。この時、妻のipod-toutchには宮沢賢治作品がダウンロードされているので朗読を聞きながら同時にipod-toutchの画面で文章を目で追ってみた。そうすると聞くことと見ることの相乗効果で話がとても理解しやすい。長岡輝子さんは宮沢賢治の文章をそのまま読んでいるのだが(当然だ)東北弁なまりが実に巧みで物語が郷土色豊かな味わいとなっているのに改めて驚嘆する。合掌。

10月22日(金) <庭に咲いているホトトギス・・・>
庭に咲いているホトトギスの花を撮影して写真を下に掲載した。植物のホトトギスは杜鵑草と書き、花の斑点模様が鳥のホトトギスの胸にある斑点と似ているからホトトギスの名が付いたことはよく知られている。本家の鳥は万葉集など日本の古典で既に頻繁に取りあげられたというだけあって、当てられる漢字も種類が多い。ワープロ機能で直ぐにでるもので、時鳥、不如帰、子規など。更にホトトギスの鳴き声が「特許許可局」に聞こえるとか、「鳴かぬなら○○○○時鳥」を信長、秀吉、家康ならばどう詠むかなど、色々と話題の多い鳥である。ところが私は鳥のホトトギスを実際に見たり声を聞いたことはない。植物のホトトギスの方は庭だけでなく至る所で目にするというのに・・。そこでインターネットのYouTubeでホトトギスの動画を見た=ここ(鳴き声は確かにトッキョキョカキョクと聞こえないことはない)。杜鵑草の写真から鳥の話ばかりになってしまったがホトトギスの花も実にユニーク。鳥の名とは違う独自の名前を付けてあげたくなる。
「今日の作品」に「 バランス3(陶芸)」を掲載。我が家ではいまカバやペンギン、アザラシなどがバランス台に乗っている。
2010-10-22

10月23日(土) <聞き上手・・・>
聞き上手は難しい。たまたま妻と聞き上手の人って本当に少ないね・・などとお互いに対人関係で経験した話をしながら、そうはいっても自分たちも同じかも知れない、「他人の振り見て我が振り直せ」にしようということになった。大抵の人は自分が聞き上手でないとは夢にも思っていない。私は30年も前に、あなたは相手の話を”いや〜”とか”でも”とか否定で受けるのを直した方がよいとある人から直接云われたことがある。考えてみると確かに言葉のクセでそう言っていたが自分では全く気がつかなかった。否定で話を続けるのは「聞き下手」の特徴である。その他、「聞き下手」とは、相手の話を先に要約して言うとか、自分の興味のある話題に転換して話を進めてしまうとか、相づちを打たないとか・・。「聞き上手」の指南書には次のようなポイントが書いてある:相手に顔を向ける、適度な相づち、相手の言ったことを復唱、相手を主役に・・など(例えば=ここ)。決して聞き上手でなかった自分を省みて聞き上手とは相手から何でもいいから吸収する気持ちがあることが基本であるような気がする。雑誌などに掲載される対談記事をみると学者や先生は決して聞き上手でないと思えることも多いが、今日インターネットで見た糸井重里と南伸坊の対談はさすがに双方共に聞き上手に見えた(=ここ)。

10月24日(日) <ハイテク・・・>
ハイテクという言葉を最近余り聞かなくなった。ハイテクが当たり前になると言葉自体も陳腐になるのだろうか。ハイテク(HighTechnology)といっても高度な技術全般を指したのではなく主にエレクトロニクス分野とかコンピュータ、情報処理方面の技術に偏っていたようでもある。さて今日もハイテク機器の世話になった。先ず、コンピュータの外付けハードデイスクに保存していたデータをCDとDVDに取り込んだ。合計700MBほどのデータをそれほど時間もかからずデイスクに焼き付けることができた。一昔前ならば時間も操作も大変な仕事であったものが・・。それにしても高速のコンピュータで行う操作はローテクの技術もいらない単純作業であった(余りに単純なので当初間違えたが)。次に、高圧洗浄機で壁面の清掃を行った。高圧洗浄機をハイテクとは言わないがこの技術がない時代に同じことをやろうと思えば10倍以上の時間と労力を要したに違いない。私はこの機械のこともハイテクと呼びたい。携帯電話にしてもインターネットにしても私たちの身の周りには実はハイテクが溢れている。時には改めてハイテクの恩恵に目を向けてみたい・・。
「今日の写真」は散歩の時に撮影した「南天の実」。
2010-10-24@中目黒公園/東京

10月25日(月) <フラクタルの父・・・>
「フラクタルの父」マンデルブロー氏が85歳で亡くなったというニュースをみた。マンデルブロー氏はポーランド生まれ、フランスで教育を受けた後、米国に移住した数学者で、図形の部分と全体が自己相似になっているものを「フラクタル」と名付けて新しい幾何学の概念を提唱したことで知られる。事例で紹介されるのが海岸線や樹木の枝分かれなど。海岸線の長さを測る場合、小さい物差しで計測すればするほど細かな凹凸が測定され測定値は大きくなっていく。極端には分子レベルで計測すれば図形の長さが無限大・・。こうした新たな次元の議論をするのだがマンデルブロー氏がフラクタルの着想を得たのは株価のチャートからというのも面白い<フラクタル図形、あるいはマンデルブロー氏の名が付いマンデルブロート集合など図形リンク例=ここ)。私はたまたま「フラクタル科学入門」という本を持っているが今目次を見直しても”アートの世界に入り込むフラクタル”とか”茶の湯とフラクタル”などと興味深いタイトルが並ぶ。そう言えばと以前フラクタルの絵を描いたことを思い出して調べると、2006年3-01付けにmieuへの絵手紙として「フラクタル図」を描いていた(=ここ)。

10月26日(火) <ガウラの花・・・>
ガウラの花を今日の写真(下)に掲載する。以前、ウオーキングの途中で道端に白とピンクの花を見かけた。気になって名前を調べたところ「ガウラ」という名であった
。名前を覚えたので側を通る度に細長い茎に蝶が舞うような可憐な花を咲かせているガウラに会うのを毎回楽しみにしていたのだが、今日は昨夜来の雨に打たれたせいか花は大部分散っていた。せめて残ったガウラの花を記録しようと撮影したのが今日掲載した写真である。ガウラの名前はギリシャ語の「華麗、立派」などを意味するgaurosが語源と説明されているが、この名前は花の姿と結びつき難い。多分”ガウ”の濁音が無垢な花には相応しくないと思える。むしろ別名、白い花に対する「白蝶草(ハクチョウソウ)」やピンクの花に対する「山桃草’ヤマモモソウ」の方が姿と合致する。とにかくもガウラの花も散って秋が深まる。札幌では今日初雪が降ったという・・。
2010-10-26@目黒区/東京

10月27日(水) <歩きながら「完璧」について・・・>
歩きながら「完璧」について考えた。完璧な演奏はあるのか、完璧な絵画はあるのか、完璧な陶芸はあるのか・・。結論は完璧はあり得ない。演奏の場合、譜面通りに音符を間違えなく並べてリズム、強弱を付けたとしても当然のことながら完璧とはほど遠い。どんな名演奏にしても「完璧」と誰が言うのか。絵画にしても陶芸にしてもある人が理想の姿を頭に描いて「完璧だ」と評価したとしても理想は10人10色で完璧の基準はない。・・完璧を考えたのは「完璧な美」の対極にある「崩れた美」、「完璧でない美」とは何かから出発した。人間の美の感覚は実にデリケートである。庭園に落ち葉が数枚散らばっている方が何もなく清掃された空間よりも美しく感じることもある。美の面白さは入学試験の模範解答のような正解がないところであろう。正解がない、つまりモデルの通りにすれば「完璧」という筋道がないところに美は創造されなければならない。アア、それなのに、最近、芸術全般がマンネリ化して低調に見えるのは何故。”模範解答型”の人間が"業界”を牛耳っているからだろうか、若者が素直で大人しすぎるのだろうか・・。
「今日の写真」 は有栖川公園(東京・港区/リンク例=ここ)。木漏れ日を浴びながら紅葉の季節にまた来てみたいと思った。
2010-10-27@有栖川公園

10月28日(木) <冷たい雨・・・>
冷たい雨が降り始めたのが7時30分頃。丁度朝の道路掃除を終えたところで、コンクリートの道路を洗ってくれる雨はグッドタイミングだった。道路掃除といえば落ち葉と一緒にポイ捨てされたタバコの吸い殻拾いが日課となっているが最近はだんだん掃除範囲が広くなってきた。10m先のタバコを拾うと次の10m先にまた吸い殻が見える。そうして次々に先まで行って掃除することとなる。掃除もやり始めるとノルマではなく一種の快感である。自然体で朝の掃除は続けるつもりだ。雨をみてテニスを取りやめる決断をして別の予定へ。・・昼になっても寒いと思っていると12月末の気温だとか。こんな時節に台風14号が日本列島に接近中。「天の気分」はこのところかなりお乱れのようで・・。夕方、雨の中をスーパーに買い物に行くといつになく空いていた。レジで待たされないのが何よりありがたい。スーパーで買った材料を使って今夜の食事は温かい”おでん”となりそうだ・・。

10月29日(金) <弦楽四重奏の「試演会」・・・>
弦楽四重奏の「試演会」に誘われて参加した。試演会という会には初めて出席したが、個人の家に20〜30人の支援者を集めて演奏会(来月上旬、東京文化会館・小ホールで開催)のリハーサルを行う催しであった。演奏はベテラン弦楽四重奏団、クァルテット・エクセルシオ(HPリンク=ここ)。演奏項目は全て弦楽四重奏曲で、モーツアルト7番、ベートーヴェン10番「ハープ」、シューベルト14番「死と乙女」の3曲。今日は目の前での演奏を聴きながら作曲者がどのような心情で作曲したかを絵画を描くイメージにダブらせて想像していた。モーツアルトは深刻なことは考えずに白いキャンバスに次から次に色を重ねる。苦心惨憺することなしに天才的な色合いを創り上げる。ベートーヴェンは枠組みを厳密に検討した後確実に画面構成を重ねていって重厚に仕上げる。シューベルトはベートーヴェン的な構成を基本としているが時に好きな色で味付けをする・・。こんな感じで作曲家に想像力を膨らますことができたコンサートは珍しい。これは演奏を信頼して聴くことができること、演奏者の主張したいところが一貫していること、演奏の奥底まで意識が到達する力があることなど沢山の要因がなければ実現しないように思える。楽譜は作曲家のキャンバスに描いた絵、これを見えるようにしてくれるのが演奏家と考えるのも面白い。音楽の楽しみ方もまだ先知れぬ深さがありそうだ。一流の弦楽合奏を家庭で聴くという贅沢を味わえた日であった。
10月30日(土) <蒸気機関車の写真集・・・>
蒸気機関車の写真集をいただいた。大学時代に鉄道研究会に所属し会社員になってからも休日毎に鉄道写真を撮りに行ったという根っからの鉄道ファンである友人が撮り溜めた何千枚かの写真を整理して本にまとめた自家出版本である。我々の同年代には確かに蒸気機関車マニアが多かった。今あらためて蒸気機関車の写真を一枚一枚みているとモクモクと煙を吐きながら力強く走る姿は生き物のようにも見えて蒸気機関車の魅力に取りこまれた気持ちが良く分かる。そして我々の時代はまた蒸気機関車の最期を看取った世代でもある。私は今でも蒸気機関は実に良くできたメカニズムだと感嘆する。ヤカンの蓋(ふた)が蒸気で持ち上げられる現象などからヒントを得て蒸気の力を原動機に利用する試みは17〜18世紀にもあったが1769年ジェームス・ワットが発明した蒸気機関が産業革命と共に大発展する。イギリスで鉄製のレール上を走る蒸気機関車がはじめてできたのが19世紀初頭。その後世界中に広まり、日本で新橋-横浜間に鉄道が開通したのが1872年(明治5年=驚くほど早いと見るべきでないか)。その後、この石炭を焚いてばく進する蒸気機関車は多くの人に愛されながら全国に普及するが、次に現れた電気機関車やディーゼル機関車に取って代わられる。1960年(昭和35年)当時の国鉄で15年で蒸気機関車全廃の方針がだされて1975年(昭和50年)の年度末1976年3月に予定通り全ての廃止が完了した。思えば私の友人等も含めて多くの鉄道ファンが蒸気機関車の撮影に拍車がかかったのは全廃の方針が出て以降であった・・。

10月31日(日) <「良い」の起源・・・>
「良い」の起源は「豆」であるという。「感じる漢字」(高橋政巳著/扶桑社)の著者、高橋氏(以前、福島県喜多方でお会いしたことがある)によれば「良」の漢字は「水(=良の下部の形)で洗いながら豆(=良の上部の形)の中からいい豆を残している様子」からできた。それが時代と共に「良い」の漢字は豆に限らず広く「いいもの」に用いられるようになったと説明されている。「良い」の解説の中で英語のniceについても触れている。英作文の際にできるだけniceを使わないように指導する話である。確かにniceは何にでも使用できるのでどのようにniceなのか分からない。同じことで「良い」も使いやすいが語彙としては非常にあやふやである。味が良い、色が良い、性質が良い、形が良い・・など話し手の主観であって聴き手には具体的にどんなものか伝わらない。「良いワイン」というだけではワインの味見は務まらないが、ソムリエは「良い」の内容を何十通りにも表現する。これからは安易に「良い」の言葉を使わないで具体的に表現するように努めようか・・。"良い"ことは直ぐに実践する??
「今日の写真」は自転車で広尾 まで出かけたついでに立ち寄った有栖川公園で撮った写真。
 
2010-10-31@有栖川公園/東京・港区

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