これまでの「今日のコラム」(2013年 08月分)

8月1日(木) <今日も朝から雨模様・・・>
今日も朝から雨模様。テニスに行く準備をしていたが雨が降り始めて中止。月曜日に続いて今日もまた雨でテニスができなかった。いっそ午後まで激しく降ってくれれば諦めがつくのに午後には雨は止んでいる。・・午後、50数年ぶりに郷里の知人と会った。突然の電話を受けて六本木で待ち合わせることにし無事に会うことができたが、お互いに容貌からはとても誰だかは分からなかっただろう。同年代で共通の友人や幼なじみの名前が飛び交って懐かしいひととき。知人の方は今でも週に二度ゴルフにいく余裕のある生活であるのが何よりだ。それにしても懐かしい話の後で何か疲労感を覚えたのはなぜだろう。父母が元気な頃の思い出、それぞれの兄弟姉妹の仲良き思い出。浄化された過去の思い出が現実の汚れを際立たせるといえば言い過ぎだろうか。あるいは忘れておきたいことを思い出してしまう“疲れ”なのだろうか。少なくとも私は思い出に浸る趣味はなくこれから先を考えたい性分であることは間違いない。 
8月2日(金) <水族館と墓参りのハシゴ・・・>
水族館と墓参りのハシゴをした。池袋(東京・豊島区)のサンシャイン水族館から墓のある九品仏(世田谷区/東急大井町線)への移動が最近東京の地下鉄・副都心線と東急東横線の相互乗り入れを始めたので思いのほか便利で有難かった。孫娘を喜ばせようと行った水族館であるが私たちがそれ以上に楽しんだかも知れない。もの言わぬ魚や水中の生物がどれほど多くのことを観客の人間に語りかけてくれることか。毎回、水族館の生物に接すると人間の想像の域を超えた奇抜な形状や色彩に圧倒される。生物の進化とか適合性などと理屈を考える前に”造化の妙”に神の存在を結びつけたくなるのも分かる。・・今日は息子の月命日。続けて墓参りに訪れた九品仏浄真寺はいつものように静かだった。この寺の名物であり、世田谷区の「区の花」にも指定されている「サギソウ(鷺草)」が丁度今咲いていた。毎月、墓参りにいくが見事な鷺の形をした「サギソウ」の花を見ることができるのは今しかない。サギソウの花もまた”造化の妙”であることは確かである・・。
 
2013-08-02 @サンシャイン水族館(東京・池袋)
@九品仏浄真寺(東京・世田谷区)/境内にサギソウ

8月3日(土) <ツイッターとは何ものか・・・>
ツイッターとは何ものか、通信サービスとは何なのだ、と改めて興味を抱かせたのが「ツイッターでの瞬間ツイート数の世界最高記録が更新された」という報道。1秒間に同じ単語がツイートされる数が、これまで最高33000余であったのが昨日のテレビ放映に絡んだ単語「バルス」が140000回余を記録したという(ある時間の1秒間)。スタジオジブリのアニメ映画「天空の城ラピュタ」の中で登場する呪文「バルス」を主人公が発すると同時にツイッターへ書き込みをする”お祭り”に釣られて実際にツイートした人がその数いた訳である。今回「バルス」をつぶやいた人がどういう人か分からないが、広告宣伝のために「つぶやく」だけでお金を稼ぐことさえできるという。140文字以内の短文を投稿できるツイッターサービス(ツイッター社提供)を利用している人は私の知人にも幾人もいるが、最近はフェイスブックを使う人も多い。ツイッターの日本語版ができてから5年が経過しているが、フェイスブックの日本語版も同じ頃(2008年)に公開されて2012現在でユーザー数は10億人を超える。更に、最近、通話の内容から殺人事件まで起こした広島の女子生徒達が使っていたのがスマートフォンで無料通話ができるアプリ「LINE(ライン)」。LINE(ライン)はチャット機能を無料で使えるので若者中心に急拡大してサービス開始わずか2年で利用者が2億人を超えたそうだ。どのような通信サービスにしても、多くの人が安易に使える裏では必ずマイナス面が発生する。誹謗中傷、成り済まし、デマ、様々な犯罪要素を抱えた通信サービスと承知しておこう・・。
8月4日(日) <なかなかなかない谷中の・・・>
「なかなかなかない谷中のかなかな」(早口言葉)。ヒグラシ蝉のカナカナという鳴き声は聞こえなかったが谷中(東京・台東区)のお寺で義兄の四十九日の法要があった。「南無妙法蓮華経」のお題目を唱える日蓮宗であったので浄土宗の「南無阿弥陀仏」に馴れている私にはお経一つが新鮮に思えた。打音の効果もまた独特。納骨の際には「即身成仏」の言葉が聞こえたが何故この瞬間に即身成仏なのか十分に理解できなかった。同じ仏教の法事でも宗派によって色々と違いがある。変わらないのは法事の後の懇親会での義兄から受けた計り知れない影響についての思い出話。改めて感謝・感謝である。谷中近辺には他に多くのお寺があり、有名人のお墓も多い。義兄の墓参りにまた訪れて谷中散策もしようと妻と話しながら日暮里(にっぽり)の駅に向った。

8月5日(月) <ミンミン蝉の鳴き声で・・・>
ミンミン蝉の鳴き声で朝目が覚める。時計を見ると、この日はほぼ4時45分。もう少し前に夏の蝉が鳴き始めたと気づいた時点では4時35分であった。朝、蝉の声で目が覚めてももう一眠りしてから起床するので正確には分からないけれども、蝉が鳴き始めても数分で声はしなくなる。蝉は日の出とともに鳴くのでないかと思って「日の出の時刻」を調べてみると、今日の東京地方の日の出は4時52分であった。日の出の数分前、辺りが明るくなった頃に蝉が目覚めて一度鳴くのだろうか。確かに7月の初めの日の出時刻は4時30分頃であるから、蝉が鳴き始めた頃の方が時刻が早かったのとつじつまが合う。今の時期、日の出の時刻はどんどん遅くなっており9月の末には5時30分なる。ちなみに今日の日の入り時刻(東京)は18時42分。これが9月の末には17時30分となることが分かった。”暑い暑い”と言っているだけでは気がつかないけれども、毎日の太陽が変わり、気候が変わり、蝉も生物も確実に変化している。生々流転という言葉があるけれども人間も例外なく変化の真っただ中にいる・・。
8月6日(火) <女優・黒木メイサ主演の舞台・・・>
女優・黒木メイサ主演の舞台「源平盛衰記・異聞/巴御前・女武者伝説」をみた(明治座8月公演、8/4初演、8/25まで)。明治座公演の切符は今回もいただいたもの。自分ではこの切符を気楽には買えない。演目は現代の女性自衛官が平安時代末期にタイムスリップをして木曾義仲を助けた巴御前なみの女武者として大活躍するとい奇想天外のストーリーが愉快(脚本=渡辺和徳/1978年生まれ、つかこうへい劇団の脚本家と知り納得)。黒木メイサ(1988年生まれ、25歳、父親はブラジル系アメリカ人のハーフとか)のエネルギッシュな立ち回りシーンが見所だ。なんでも黒木メイサは昨年9月に長女を出産し、今回の舞台は出産後の初舞台とか。一昨日の舞台(一部)と初日の舞台を終えたメンバーの動画をネット上に見つけた=ここ。最近はなんでも電波を介した映像、それもカンヅメ映像に馴れているのでライブの舞台はやはり新鮮で迫力がある。思わぬ非日常を楽しませていただいたことに感謝。

8月7日(水) <”羽田の穴守さん”・・・>
”羽田の穴守さん”と呼ばれた「穴守稲荷(あなもりいなり)神社」にいった。帰省中の娘と孫娘の東京滞在が残り少なくなり、最後の「ジオキャッシング」(ご存じない方は=ここ=)を兼ねて皆でお参りにいったのである。穴守稲荷神社(東京・大田区羽田5丁目)は元来は現在の羽田空港内の敷地にあった神社で、終戦直後、昭和20年9月に羽田空港拡張のため進駐軍より強制退去を求められて、今の位置に移転したことで知られる(門前にあった赤鳥居は本殿と別の場所に移設されており「羽田の赤鳥居」としてこちらの方が有名になった)。神社に続いて羽田空港を訪れる。飛行機に乗る予定がないのに空港に遊びに行ったのは随分久しぶり。国際線のターミナルには江戸情緒たっぷりの街並を再現した江戸小路や娯楽設備もあり観光客が楽しめる。孫娘は5階・博品館TOYPARKのスロットカーサーキット(レーシングカー)で遊んでいた。私は何より展望デッキで飛行機を見ているのが好き。少々の炎天下でもジェットエンジンの音が暑さを吹き飛ばしてくれたので飽きず飛行機の発着を眺めていた。
 
2013-08-07穴守稲荷神社(羽田)
 
羽田空港(国際線ロビー)

8月8日(木) <アメリカの有力紙ワシントンポスト・・・>
アメリカの有力紙ワシントンポストがアマゾンの創業者でCEOのジェフ・ベゾス氏によって買収されることになり話題となっている。ワシントンポストは創刊1877年、米国内発行部数は66万部で第5位とある(ちなみに、USA Today211万部、Wakk Street Journal208万部、New York Times103万部、Los Angeles Times72万部、日本の人口はアメリカの2.5分の一であるのに、朝日新聞の部数は770万部)。私が以前から不思議に思っているのは、1879年(明治12年)に創刊された朝日新聞が何故全く同じ社名で今も継続できているのかということ。明治初期にできた会社は数多いがそのままの形態で存続しているものはほとんどない。三井も三菱も住友も大銀行も大製鉄会社も分離・合併を繰り返して生き残っているのに・・。そして新聞の発行部数で見るように米国と比べると日本の朝日新聞の方が格段に中央集権的というか、世論への影響力が大きい。私など何年も前に新聞の購読を止めてインターネットに切り替えているが、今でも朝日の言うことは何でも正しいと信じる”朝日ファン”に驚くことがある。革新っぽい旗を掲げる朝日は一方で100年以上前の創業時のオーナーの2代,3代後の孫や曾孫がオーナーを引き継ぐ仕組みでもあるようだ。日本ではとても朝日買収劇は起こらないのだろう。

8月9日(金) <久しぶりに陶芸教室に行くと・・・>
久しぶりに陶芸教室に行くと三角錐が3個焼成が終わり完成していた。一辺が約210mm(完成寸法にて)の三角錐。これが今回で4個出来上がったことになる。最終的には合計8個を制作した後に組み合わせて正24面体にするつもりだ。3個の三角錐をまとめると結構な重さ。リュックサックの中にクッション材と共に三角錐を入れて背負い自転車で注意しながら無事に持ち帰ることができた。今日は猛暑到来で家に着くと全身汗びっしょり。先ずシャワーに入り着替えてから、さて組立法をどうするか検討始めたところで「今日の作品」の写真を撮った(表紙)。陶芸が完成した後の組立工作がまた楽しい。
今朝早く娘と孫娘がニューヨークに戻っていった。急に静かになった夕食を済ませてから「小さな花火大会」の案内に従って代官山T-SITEに妻と出かける。本当に線香花火だけの小さな小さな花火大会だった。花火会場の直ぐ横に巨大な蔦谷の広告があったので「今日の写真」として掲載する(下/花火は合成して挿入)。


2013-08-09@代官山T-SITE(蔦谷書店)にて

8月10日(土) <今日の最高気温は甲府で40.7℃・・・>
今日の最高気温は甲府で40.7℃、東京都心でも37.4℃を記録したという。この猛暑の中を自転車で走ると。いつもは暑い日でも風を切ると爽やかに感じられるのに今日は熱風を吹き付けられているように暑さが倍加されることを経験した。それでも自転車で急な坂を息を切らして登りながら”これもいい運動だ”と思えるのだから健康であるのは有難い。・・今日驚いたこと、”梅干しの値段”、というと笑われるかも知れない。スーパーで「梅干し100grが500円」をみてびっくりしたが、妻は”梅干しは高いのよ”と平然としている。梅干しをスーパーで買うことはないが、どうも最近私は近所のスーパーで買物はできなくなって来た。・・表紙の「今日の作品」に昨日に続いて「Parts三角錐No.2」(陶芸)を掲載した。完成した三角錐を組立る方式の目処はついたので、組立前にそれぞれのPartsとして写真を掲載してみることにした。このNo.2は内部に灯りを入れている。

 8月11日コラム用
8月11日(日) <ある女性ファッションモデルが・・・>
ある女性ファッションモデルがハンドバックをいくつ持っているか問われて”100個ぐらいかな”と答えていたのをテレビで見た。中で一番のお気に入りはエルメス(?)の105万円のものとか。値段はともかく100個のバッグのうち何個ぐらいが使用されるのだろう・・。最近はどんなお金持ちでも物持ちでも有効に活用しなければ持っていないのと同じとの思いが強くなって、他人の所有物を羨ましいという気持ちが希薄になってしまった。ハンドバックレベレでなく高級自動車とか立派な別荘とかにしても要はどれだけ活用されているかが問題だ。更に自分だけが満足しているのでなく周囲の人を喜ばせて初めてその価値が出る。一方でモノやお金がなくても周囲を喜ばせ夢を与える要素は山ほどある。物欲がなくても精神的に求めるものはいくらでもある。ファッションモデルが高級バッグを持つことによって周りの人もうれしくさせるのであれば勿論それはそれで大いに結構。死蔵されているハンドバック何十個が別に活用されればもっといいのにとは思うが・・。
今日の表紙 に 「Parts三角錐No.2b」(陶芸作品) を掲載した。昨日に続き三角錐No.2を上部から見た写真。


8月12日(月) <今夕方の6時・・・>
今夕方の6時。20〜30分前から遠くで雷鳴が轟き始めたと思っていると、間もなく家の真上でゴロゴロと腹に響くような強烈な音。とたんに大粒の雨が降って来た。窓から外の激しい雨を見ているとゴロゴロの音とともに暑さでだらけていた気持ちが引き締まる。庭の木々にとっては願ってもない恵みの雨だ。ここは雷の俳句を2〜3挙げておこう。「空腹(すきばら)に雷ひゞく夏野かな」(小林一茶)。「雷をまぢかに覚めてかしこまる」(種田山頭火)、「雷とどろくやふくいくとして花のましろく」(種田山頭火)。夕立の句は多い:「夕立や 草葉をつかむ むら雀」(与謝蕪村)、「夕立に蝉の逃げ行く西日かな」(正岡子規)。・・夕立の前には午後陶芸教室に行っていた。教室のスタッフから”今日も午前中はテニスですか”と聞かれた通りに、昼前には9時から炎天下でテニス。無理はしていないが暑さに抵抗力が付いたのはありがたい。

8月13日(火) <東京都庁に所用があって・・・>
東京都庁に所用があって出かけたついでに都庁内で遊んだ。都庁の中には色々な種類の彫刻やアートワークがあり、冷房の効いた庁舎の中でこれらを見ているだけでも楽しい。今、私が作っている三角錐の陶芸作品にそっくりな三角形を多用したアート作品があったので思わずカメラで撮影した(下の写真1)。この作品は「三々五々の四面体」というタイトルで作者は堀内正和さん(1911〜2001)。堀内さんは明治44年生まれ、抽象彫刻のパイオニアとされる。堀内さんが著書の中で面白い表現をしているので紹介したい:「彫刻作るなら自分の好きなように作ればよい。美術には正解も誤解も六階も---十戒もない。あるのはただ自由解だけ」。正に私が言いたいことを言ってくれている。下の写真2はジョージ・リッキー作の「旋回する水平につながった3つの長方形」という作品。ジョージ・リッキー(1907〜2002)は米国生まれで、風力を用いた独自の動く彫刻を作り続けた。彫刻の世界に動きを持ち込んだ彫刻家として知られ、直島(瀬戸内の島/香川県)にも彼の作品がある。都庁の広場入り口にあるこの作品も風でゆらゆらと動いていた(私はこのようなキネテイックアート=動く彫刻=が大好きだ)。下の写真3,4は都庁45階の展望台からみた今日の東京。この展望台は何より無料であるのがいい。そのためか、いつも外人客で賑わっている。
 
2013-08-13@東京都庁にて(1)         (2)
 
 
(3)都庁展望台より               (4)

8月14日(水) <ビフォーアフターを並べてみる・・・>
ビフォーアフターを並べてみるからアフターの価値が分かる。テレビの「劇的ビフォーアフター」は建物のリフォームの前後を比較して見せて匠(たくみ)によってこんな改造ができるとアピールする番組だった。今日は大汗をかきながら荒れ放題の庭の草取りや樹木の剪定をしたが、とても一挙には片付かない。ビフォーを見ていない人には”少しは手を入れたら”とか”雑草ばかりね・・”と言われてもしようがない程度で終わった。拭き掃除や掃き掃除でも同じことだ。アフターだけを見られると、水滴がまだ残っているとか汚れが見える、隅っこにゴミがあるなど何でも文句を言われるネタには困らない。ビフォーを見ずに結果としてのアフターだけを見て論評する批評家が何と多いことか。批評家はしばしば人を元気づけるのでなく意気消沈させる。人は努力をした経緯だけでも認められれば更にその先に進む気力が湧くものだ。考えてみるとビフォーよりもアフターの方が優れているのはすばらしいこと。アフターの老人が過ぎし日のビフォーばかりを懐かしがっている図はいただけない・・。

8月15日(木) <「冥利(みょうり)」・・・>
「冥利(みょうり)」という言葉がある。役者冥利とか教師冥利に尽きるなど「ある立場にいることによって受ける恩恵」として使うことが多いが、本来は「神仏から受ける利益や恩恵」を意味する。同じ意味合いで「冥加」がある。「冥加(みょうが)」の方は「神仏の加護・恩恵に対するお礼」から、江戸時代には「冥加金」といって社寺に奉納する金銭や幕府や藩に支払う租税の一種も意味したという。「冥加」はまた釈迦の弟子、周利槃特の別名とする説もある。この人物物忘れの激しい人で自分の名前さえ忘れる。そこで名荷(みょうが=名札)を首にかけていたが名荷があることも忘れた。死後墓の側に生えて来た植物が名荷→茗荷と名付けられた・・(栄養価の高い茗荷が昔”食べると物忘れがひどくなる”とされたのは、この俗説によるとか)。植物の茗荷の語源は「妹香(めのか)」が転化したとされる説もあり、「冥加」との結びつきは少々強引な感もあるが・・。茗荷を食べるときには「冥加」を思い出して神に感謝しよう・・。
今日の表紙に 陶芸作品「Parts三角錐No.3」を掲載(8/9コラム=ここ=参照)。


8月16日(金) <今日の表紙に陶芸&工作作品・・・>
今日の表紙に陶芸&工作作品として「「照明具」を掲載した。居間で使っていた照明具を改造したもの。今回は上部の枠を陶芸で新たに制作しこれまでのガラス棒や磁器製の板などはそのまま流用して組み直した。アルミのパイプを組み合わせて制作した従来の枠を今回一体化した陶器製の枠を制作。ガラス棒などを釣るための60個の穴は粘土の段階から穴を開けておいた。陶芸枠は1ヶ月も前に完成していたが改造の機会がなかったのを今日思い切って旧品を分解してリフォームに踏み切ったものだ。組み直しといっても思ったよりも根気と忍耐を要する作業でコツコツと工作作業を続けてようやく完成。このホームページでこれまでの経緯をみると、前回制作したのは2006年4月24日(コラム=ここ、)handmadeのコーナー(=ここ)に写真を掲載している。なんとその前、2004年3月に「シャンデリア型照明(工作)」を作ったのが最初だった。はじめはアクリルのパイプとプラスチックの板を使った工作作品であったことなどすっかり忘れていた。自分の制作したものであっても記憶とは極めて曖昧だ。今日掲載した写真はLED電球(昼白色)を使っているのでやや冷たい。照明の色としては前回と同じ電球色の方が暖かく感じるかも知れない。


8月17日(土) <「思いこみ」や「錯覚」が諍い(いさかい)の基・・・>
「思いこみ」や「錯覚」が諍い(いさかい)の基であり人を不幸にするという。見る角度が変わると同じものが全く別に見えることがある。けれども一旦悪く思いこむと真実か否かは別問題で人間の脳は際限なく想像力を働かせる。反対に、いいように”思いこむ”と脳はどんどんハッピーになる。”失礼なことを負われたが実は善意から出た言葉”とか”本当はいい人”とよく解釈するだけで不愉快さが消滅する。他人の長所に目をやるか短所を気にするかでも心理的負担は全然違う。最近読んだ本によると同じDNAを持っていても(つまり兄弟姉妹などで先天的な性格は類似していても)後天的な考え方、物事のとらえ方で脳の幸せ度は大違いになるとか。当然といえば当然。幸せ度とは定義とか決め方から微妙で難しいが、世界幸福度で日本は80何位とか幸せ度はG8中ワースト2とかの話題で見るように少なくとも個人の幸せ度は国や組織、金銭、性別、知名度、そしてDNAなどとは全く無関係であろう。ただ脳が幸せと思ったならば幸せとなる。
「今日の写真」として昨日表紙に掲載した「照明具」の最新版を載せる(下)。LED電球を電球色の蛍光灯として更に電球の位置を若干下げただけで随分印象が変わった。
2013-08-17照明具

8月18日(日) <檀密という女優さん・・・>
檀密という女優さん(タレント)をほとんど何も知らなかったが今日テレビでみて俄然興味を持った。彼女はかつて葬儀の専門学校に通った経歴を持ち芸名も仏教を基に自分で考えた名前で、「檀」は仏壇、「密」はお供え物を意味するという。テレビの番組では檀密さんが死亡した人の持ち物を清掃・処分する専門の会社で働くドキュメンタリーであったが、孤独死した人が残したものを廃棄する仕事の中で亡くなった人の人生を思いやる心遣いはただごとではない。一月ほど前に私の義兄が亡くなった後、やはり残された家の清掃や物の処分を専門の業者に依頼して大変だったという話を聞いたばかりであったので、檀密さんのテレビでの仕事振りが他人事とは思えなかった。女優やタレントは数知れないが葬儀の専門学校に通った人を檀密さん以外に知らない。ちなみに檀密さん(1980-12生まれ、32歳)は英語の教員免許、調理師免許、日本舞踊師範の資格をお持ちだそうです・・。

8月19日(月) <本の将来はどうなる・・・>
本の将来はどうなるだろう。孫娘は電子書籍を当然のごとく愛用するし妻も影響されて最近は専らKindle(アマゾンの電子書籍)に凝っている。将来的には安価で持ち運びも便利な電子書籍が伸びることは間違いない。けれども今日の夕方、蔦谷書店(代官山T-SITE=ここ)で時間を縛られずにじっくりと店内を巡りながら、このような本屋はなくならない、なくすべきでないと確信した。特別に目的がなくて本のタイトルを追って見るだけでも楽しい。今現在どんな種類の本が出版されているのか分かるし、専門分野別に分けられた膨大な量の本棚の中から直に本を取り出して見ると本を制作した人の意欲が伝わってくる。これも読みたい、あれもみたいと次々に面白そうな本を見つけるが財布と相談して諦めるだけである。残念ながら図書館では蔵書の数は多いとしてもこのような感覚にはならない。蔦谷書店であるから、ワクワクさせる本を揃えて展示できるのだろう。こんな本があるのだと思った例:ドナルド・キーン著「正岡子規」、立花隆の蔵書解説書(本の厚さ10cmほど)。
「今日の写真」(下)は胡蝶蘭の花。正月にいただいたものが日陰の庭に適合したのかまだ花を咲かせる。
2013-08-19

8月20日(火) <最近の脳科学・・・>
最近の脳科学は目覚ましい進化を遂げているようだが、一方で解明されればされるほど”脳の不思議”は増すばかりとも見える。今日、脳に関する一般向けの本を読んで色々と教えられた(「和解する脳」<池谷-鈴木対談集>/講談社)。脳科学的には「ひらめき」と「直感」が全く違うものと解説されているのも面白かった。直感は身体を動かす動作と同じ脳の部位で作られるのに対して、ひらめきは理論系の大脳皮質が関与するという。私はテニスなどで意識せずに身体を反応させる”直感”には少々自信があるが、思いついた内容を後で理論整然と説明できるという”ひらめき”は得意ではない。直感型であると認識しておこう。「脳に善悪はない」という我が意を得た箇所もあった。脳の中の価値基準はすべて「好き」か「嫌い」かだけ(快、不快といってもよい)で、「いい」、「悪い」の分け方は脳の中に一切ないとのこと。世の中では嫌いなものをもっともらしい理屈をつけて「悪い」と決めつけることがよくあることは”直感”で感じていた。
今日の 表紙に陶芸作品「 Parts三角錐No.4」を掲載。これからの作品造りも理屈で筋道をつけるのでなく直感で行こう・・。


8月21日(水) <東京国立博物館で特別展「和様の書」・・・>
東京国立博物館で特別展「和様の書」をみてきた(平成館にて、案内=ここここ、9/8まで)。中国からもたらされた漢字の書を平安時代以降かな文字を含めて日本風に新しい書を造り上げて来た歴史が面白い。約150件の展示品(国宝・重要文化財が約80品)はどれも初めて目にするものばかりで、小野道風、藤原行成など日本を代表する能書の数々を堪能。絵画ではなく「書」の世界であるが、1000年前の日本人の美意識や文字文化の伝統を再認識する。紀貫之の女性的とも言える繊細な直筆文字を見て、なるほど「土佐日記」を残した人らしいと感心もした。それにしても自分の国の名筆を「美」として鑑賞はできるけれども、まともに”読むことができない”のは問題だ。私自身はもう諦めるとして次世代の若者に馴染ませるためパソコンで歴史文字(平仮名のくずしなど)が見られるようにできないかなどと妄想する。
 
2013-8月21日 東京国立博物館・表慶館(休館中)、右=本館 <特別展は別途平成館> 

8月22日(木) <アルテイマ・ゲーム(ultima-game)・・・>
アルテイマ・ゲーム(ultima-game)というゲームは人間の複雑さを考えさせる。ルールは簡単。二人が参加して一人の人が第三者からお金をもらう(例えば1万円)とする。もらった人はもう片一方の人に思う金額(任意、0〜10000円)を分け前として与えなければならない。この際、受け取る側が不満でNOと言えば両者共に分け前はゼロとなる。あなたなら果たして相手にいくらの分け前を与えますか?相手にすれば1000円でも3000円でもゼロよりはいいはずだが、あなたが9000円なり7000円を入手するのに自分は少なすぎると、NOと言ってお互いにゼロにする方を選択するという。5000円を受け取ればYESであろうが4000円ならば微妙らしい。1万円が1千万円の場合、300万円の利益をゼロにしても相手を儲けさせないという心理。このゲームを脳学者が紹介していたが人間の脳は単に損得だけに左右されるものではないようだ。理屈ではなく心情から自分が損をしても他人を助けるケースもまた多い。互恵的利他行動(助け合いと恩返し)が人間の本質の一つと聞くとなぜかホッとする。

8月23日(金) <今日の表紙に陶芸作品・・・>
今日の表紙に陶芸作品「Parts三角錐No.4b」を掲載した。特に新しい内容ではない。前回掲載した三角錐を上部から写真を撮ったもの。今回も陶芸の作品を掲載しながら、このところ絵画作品がないことに気づく。”夏枯れ”にしては枯れている期間が長い。「絵手紙」の相手である孫娘が夏には帰省して側にいたこともあるが、今であればもうはがきの絵をいくらでも描くことはできるはず。こんな時友人の絵画展が開催されていることを案内で知った。秋の展覧会シーズンが間もなく始まる。今日は先日までの猛暑が少し和らいだ。気候の変化に合わせることもないが創作もまた変幻自在でいいだろう。陶芸で三角錐8個の部品製作はほぼ目処が付いて、次は絵を描きたくなってきた・・。

8月24日(土) <昨日、表紙に掲載する絵画作品が途絶えていること・・・>
昨日、表紙に掲載する絵画作品が途絶えていることをコラムで書いた途端に、本日は今日の表紙に掲載した「鶏/若冲より・mieuへの絵手紙」(水彩)を描いた。何でもいいからやりたいことを公言すると実現するものである。絵としては伊藤若冲の雄鶏図をもじったもので(模写というのはおこがましい)出来上がってみると酉年の年賀状のように仕上がった。それにしても若冲の図版をみると改めて感動する。若冲は多くの鶏の絵を描いているがどれもがただリアルとか精緻というのでなく、例えば動画で鶏を撮影していてこれしかシャッターチャンスはないという一瞬を絵に描くといったタイミングの絵。動画もカメラもない時代に動く動物を的確に描く見事さに圧倒される。若冲に大いに影響されたことは間違いないが、今日、友人の絵の展覧会に行って素人画家さんたちが皆楽しそうに描いているのをみてやはり刺激を受けたことを加えなければならない。


8月25日(日) <新天地を求める・・・>
新天地を求めるのは言うほど容易ではない。50年以上住み慣れた現在の住処(すみか)を故あって変わらなければならないので”新天地”を探しているが、思った以上にストレスを生じる。人は産まれた場所を自分で選択した訳ではない。親が育ててくれた場所が故郷となり、成人、就職、結婚などの機会ごとに住む場所も自分で選択するというより周囲の事情や成り行き、いわば運命によって決められる。”新天地”となると選択の余地は多いけれども、文字通り、天地=暑さ寒さ、自然災害の頻度やその土地の地盤に至るまで何も分からない。地域社会やお隣さんまで気にするとストレスは際限なく増加する。そこで開き直って”人類の歴史は”と大きく出ると、太古に大陸間を移動した歴史は勿論、イングランドのピューリタンが新天地を求めてアメリカに移住したことなど進化や発展の基には「移動」があったといえる。所詮、新天地は『運」に任せる以外ないのだろう。・・こう割り切りながら現実的には今の持ち物を半分以下にするのが大仕事。何より陶芸作品や今まで奥にしまい込んであった絵画のキャンバスなどをどうするかだ。収納スペースがなくなると思うと、改めて「生活必需品」とは何かまで考えさせられる。
8月26(月) <バイオリンの「無窮動」と「永久機関」・・・>
バイオリンの「無窮動」(むきゅうどう)と「永久機関」とがつながっていることを娘から聞いて初めて知った。孫娘がバイオリンで無窮動を弾く
ことになったという。無窮動は、英語ではPerpetualMotion(無窮とは永遠の意味、perpetual=永久的な)。無窮動は常に一定した音符の流れを持った急速なテンポの楽曲で、パガニーニのバイオリン曲やリムスキー・コルサコフの曲が有名だ。一方で、PerpetualMotionは永久運動であるから、Perpetual Motion Machineは正に「永久機関」。永久機関は私にとって実に懐かしいテーマ。外部からエネルギーを受けることなく永久に稼働を続ける機械が古くから人間の夢であり、多くの人が永久機関を実現しようと挑戦して来た。現在は熱力学の第二法則(エントロピー増大の法則)により永久機関は理論的にできないことが証明されてしまったが、歴史的な夢の跡はYouTubeにも残っていて興味深い(例=ここ)。私が持っている「水飲み鳥」も一種の永久機関への挑戦おもちゃだ(=ここ参照)。バイオリンの「無窮動」に戻ると、これを機会にメニューインが演奏するパガニーニの「無窮動」(=ここ)を懐かしく聞いた。演奏が終わって思わず拍手・・。
8月27(火) <「mieuへの絵手紙/カメラ」・・・>
「mieuへの絵手紙/カメラ」(水彩作品)を今日の表紙に掲載した。毎日のように愛用しているデジタルカメラ、NIKON-D200をはがき用紙に描いた。このカメラは先に亡くなった83歳の義兄が”持ち運ぶのに少し重くなった”といって譲ってくれたものだ。義兄はその後軽量のカメラに買い替えていた。確かに、このカメラは重量が絵に描いた状態(望遠レンズ付)で約1.6kgと重いが性能は抜群に優れている。私はいまだにカメラの機能の十分の一も活用していない。絵を描きながら改めてカメラの細かな造作を見つめていると、ふと、このカメラは今に骨董品か博物館用の遺産になるかも知れないと思えてきた。カメラとしての性能が優秀であるだけでなくメカニックな形状、姿形が何とも風格がある。この20〜30年のカメラの進化は凄まじい。あっという間にフィルムカメラがデジタルカメラに取り代わったと思うと、画素数は飛躍的にあがりボデイの大きさはどんどん小さくなった。いまや「写す」だけであればカメラでなく「ケイタイ」でも十分。「写す」機能が余りに簡単にできすぎるので撮影の有難味が薄れてしまった。まだまだカメラは進化の過程であるかも知れないが、私はこのニコンのカメラを”持ち運べる限り”愛用するつもりでいる。

8月28(水) <このところ電子ブックリーダーで・・・>
このところ電子ブックリーダーで2〜3冊続けて本を読んだ。私の場合、妻が最近購入したAmazon-Kindle2にダウンロードした本を私のiPhoneに転送して読む(私が購入したい本を依頼しておく)。iPhoneの画面は小さいけれども本の文字サイズを大きくして次々とページをめくって読むスタイルが意外にいい。読み易いサイズに文字を大きくしているので。ほとんど瞬時に内容を読み取って次のページにいく。丁度速読を次々と繰り返すやり方で集中力が続き易く知らぬ間にどんどん読み進むことができる。今日は大江戸線で往復1時間ほど電車に乗って移動したが、その間退屈することなくKindle本を読んでいた。一般の単行本ならば最近は普通の文字サイズが読み難く少し読むとくたびれてしまうので、文字が大きいということはこれほど読み易いかと電子図書に感激する。ただし、確かに「読書」の感覚が以前と変わるところもある。読み終えた本を本棚に加えて、この本はよかったなぁ・・と表紙をさすり、中身を再度開いて感慨に浸るなんていうことはなさそうだ。今読んでいる本は単行本としても評判がいいので紹介しておこう:「還れぬ家(佐伯一麦著)/新潮社」<サイト例=ここ>。認知症、親子の葛藤、そして震災など深刻なテーマを扱っているが心静かに読むことができる。

8月29(木) <トンボを見なくなって久しい・・・>
トンボを見なくなって久しい。“都心だから当然”とは言えない。20年ほど前だろうか、神宮のテニスコートで夏の終わりの頃に赤とんぼがいっぱい飛んでいてラケットで触りそうになったことを鮮明に記憶している。今日、同じテニスコートで汗をかきながらプレーしている時にふとこのことを思い出したが、コート上にはトンボの姿は皆無だった。家の庭や公園でもやはりトンボを見ない。私は田舎で育ったのでトンボはチョウ(蝶)と並んで身近な昆虫採集の標的だった。トンボの幼虫「ヤゴ」を小川の中で見つけて喜んだこともある。シオカラトンボ、ムギワラトンボ、オニヤンマ、ギンヤンマ・・、名前を挙げるだけで懐かしさがこみ上げる。今考えても、長い2対の翅(翼)を持つトンボが飛行する姿は他にはない独特のものだった、今の子どもたちは標本でしかトンボを見られないとすれば少々かわいそう。トンボに因んで今日は久しぶりに童謡「赤とんぼ」を聴いた。この作詞をした三木露風(作曲は山田耕筰)は子どもの頃過ごした故郷(兵庫県)を思って詩を書いたというが、私の故郷もたまたま同じ地方なので何となく親しみを感じる<YouTubeにて童謡・赤とんぼ(例)=ここ by 由紀さおり、安田幸子>

8月30(金) <表紙に陶芸作品「Parts三角錐No.5」・・・>
表紙に陶芸作品「Parts三角錐No.5」を掲載した。一辺の長さ約210mmの三角錐を合計8個制作して、これらを組み合わせて最終的に24面体を完成させる魂胆。今日は5番目に完成した三角錐No.5を掲載したが、今はNo.6&7まで一挙に焼成できている(順次掲載予定)。あと一つで部品として三角錐が全てできあがることになる。今日は陶芸教室で最後の三角錐No.8の釉薬かけをやった。それぞれの三角錐は夏の暑い盛りに無理せずのんびりと制作を楽しんだ。少しづつでも続けているとアウトプットが出る。少々細かい話だけれど、今回三角錐を組み合わせて24面体を作る場合に、それぞれの三角錐をつなぐための「結合用穴」を準備しているが最後の一個を外部からいかに固定するかが問題となる。今日掲載した三角錐No.5がドアをつけているのは(三角部品を追って蝶番でドアとする予定)、結合のためドアを開けて手を入れられるようにしたもの。果たしてうまくいくかどうかは未だわからない。組立式の作品は一旦組んでしまうと単体での姿を見ることができない。単品としての形状を紹介できるのは”今でしょう”・・。

8月31(土) <「初老」とは辞書に「40歳の異称」・・・>
「初老」とは辞書に「40歳の異称」とでていることが話題になる。奈良時代には還暦や古希など長寿を祝うならわしの中で最初に祝うのが「40歳の初老」であった。近年、明治〜昭和の初期になっても40歳は初老と言われたようだ。今では”肉体的な盛りを過ぎた時期”としては60歳ほどが平均的な初老だろうか。長寿は昔はめでたいことであったが現在のように平均寿命がのびると「めでたい」では済まず、老人のあり方が社会に重大な影響を及ぼす。最近、91歳の瀬戸内寂聴さんのテレビ出演が目立つのは、40歳の時に書いた小説「夏の終わり」が映画化されて、その宣伝のために引きずり出されているとお見受けした。それにしても寂聴さんの説法を多くの人が聞いて心の平安を得るのであれば結構なことだ。間もなく10月になると102歳を迎える日野原重明さんもお元気で雑誌などでもよく拝見する。この先生もご自分では専らボランテイアとして講演やら治療に携わっておられると思うが、時に老害呼ばわりをされるのは公職、役職を保持しているからだろう。自らは今更名誉欲も金銭欲もないであろうから90歳、100歳ともなれば組織の「長」を引退するのが筋だが周囲の一部が辞めさせないのか・・分からない。いずれにしても寂聴さんや日野原さんのように老人が自立、自活しているのはすばらしい。そして何より、”他人のために”生きている老人に魅力を感じる。
表紙に陶芸作品「 Parts三角錐No.6」を掲載。一連の三角錐続き(陶芸コーナー参照)。


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