これまでの「今日のコラム」(2013年 09月分)

9月1日(日)  <35℃を超す猛烈な残暑・・・>
35℃を超す猛烈な残暑となった今日の午後、墓参りにいった。明日が息子の月命日だが一日早い墓参だ。いつものように墓周辺の草取り、樹木の剪定、水やり、清掃などをやり終えると大汗をかいていた。墓前に供えられた缶ビールを飲みたかったが息子も飲みたいだろうとそのままにした。この墓には息子以外に父母が入っている。父母だけの墓であればこれほど墓参に来ることはないかも知れない。木陰に入って休みながら兄弟親戚中でお墓に来る回数だけは一番多いねと妻と話したが、それは間違いない。お寺に頻繁に来ると一年中の移り変わりが逐一分かるのが面白い。今日はお寺の本堂の屋根を大改装していた。季節で境内の樹木が大きく変化する一方でお寺自身も絶えず変貌を続けている。来月は何が変わっているだろうかと思いつつ寺を去る。
表紙に 陶芸作品「Parts三角錐No.5b」を掲載。一昨日掲載した三角錐No.5に扉が付いた。
 
2013-09-01 九品仏浄真寺(東京・世田谷区)本堂屋根改装中   寺の名物の大イチョウ

9月2日(月)  <ホテルの30階にあるレストランで・・・>
ホテルの30階にあるレストランで妻と昼食をした。眼下に東京湾、ベイブリッジそして広大な東京という大都会を見ながら鉄板焼き食べる贅沢をした今日は妻の誕生日。私が誕生日祝いに食事に誘ったのならカッコイイのだか、実は娘家族からプレゼントされた食事券を使った。料理もとても美味しくて言うことはなかったが、今日は夏の最後とも思える大きな積乱雲が東京の高層建築群とマッチして風景が何よりすばらしかった。下に掲載する写真では分かり難いが、左端には東京タワー、右端には東京スカイツリーもみえる。台場のホテルであったので食事の後、台場を色々と巡って遊んだ。この地域はまだこれからの可能性に充ちている。台場での食事券をプレゼントしてくれた娘家族に改めて感謝。
台場のホテル30階より

9月3日(火)  <陶芸作品で24面体の組立を開始・・・>
陶芸作品で24面体の組立を開始した。今日の表紙に写真を掲載したように三角錐をつなぎ合わせて最終的には8個の三角錐で24面体を作る。今日のところは組立が計画通りにできるかの確認。写真は6個の三角錐を結合した状態だ。三角錐の一辺の長さが約210mmだから結合しても幅が420mmほど。以前制作した32面体と比べると小振りだが、今回の24面体は持ち運びもできるしオブジェ(置きもの)としては使い易くなりそうだ。三角錐の最後の一個(8個目)はいま焼成中なので完成すれば本式組み立てできる目処がついた。
スタジオジブリの宮崎駿さんが引退を表明して話題となっている。先の7月に最新作のアニメ映画「風立ちぬ」を見たばかりだが、引退すればこの作品が最後の長編映画だ。周囲の反応は海外マスコミを含めて引退を惜しむ声があふれている。正に宮崎駿さんは果報者。私は宮崎さんとは同年、生まれも2週間違いなので特別な感慨がわく。宮崎さんは管理者というより実践者としてアニメ作りに携わっていたので大作を完成させた後の疲労感は並ではないだろう。それでも、休養をとってからまた意欲が盛り上がり以前以上の作品に取り組むのが宮崎さん。短編映画もいいなぁ。管理者は新陳代謝が必要だが、その人しかできないことのある実践者は年齢に関係なく技の歴史を作ってほしい。


9月4日(水)  <金銭欲は人間だけが有する・・・>
金銭欲は人間だけが有する特別な欲望という。腹が空いて食欲があったとしても食べて満腹になれば欲求は収まる。更に過剰になればむしろ嫌悪されるのが普通の生体の仕組みで、他の生物と同じく人間もほとんどの欲望はそこそこに満足できれば十分で、多過ぎると一般には嫌悪に行きつく、金銭欲以外は・・。このような人間独特のマネー信仰がまた人間しかありえない誤謬を招く例としてワインの味評価が紹介されていた。多くの人に何種類ものワインの味見をしてもらう。その都度、ワインの値段をいう。超高価な高級ワインからお手頃ワインまで。ワインは同じで値段は全くデタラメを言ったとしても被験者は”値段が高いほど美味しい”と反応する。本来は味覚で判定する味が金銭情報で左右される訳だ。サルならば決してこのような過ちをしない。現代社会の中で意識しなくてもインプットされている制御がきかない(満足という限界を知らない)マネー信仰は絶対的な価値ではない。人間社会の進化の中での一過程、それもある種族の信仰の対象に過ぎないと思っておこう。
9月5日(木)  <早朝の雷鳴・・・>
早朝の雷鳴で目を覚まし起床。続いて猛烈な豪雨となって今日のテニスは当然お休み。運動の代わりに読書をしたが身体は鈍っている。以前コラムでも紹介した認知症や介護などをテーマにした私小説「還れぬ家」(佐伯一麦著)を電子ブックで読み進み、他人事でなく考えさせらてしまった(アマゾンのKindleにダウンロード、iPhoneに転送し文字を拡大して読む)。この小説の中でも出てくるがノルウェーでは子どもが大変な犠牲を払って親の介護を自宅で行うようなことはない。私の知り合いのいるスエーデンでも同じ、福祉制度が確立している北欧社会では親の面倒を子どもがみる発想がないようだ。そうかといって親子関係が疎遠な訳ではなく独立した人間として親しく付き合いをする。日本の一部ではいまだに子どもを親の所有物のように考える風潮が抜けきらず、認知症介護も内輪に求める傾向がある。子どもと言っても40〜50歳になった立派な大人であり、人間と人間のつながりしかあり得ないのに・・。親子に限らず夫婦間の介護もまた似たような状況にある。”内輪”の介護で介護する側がダウンしてしまう事例は尽きない。冒頭の小説にもでてくるが一昔前の感覚では老人は「施設」に入ることへの抵抗が強い。これをなくすことが何より必要だろう。子どもや連れ合いに迷惑をかけるくらいならば施設の世話になる方がはるかに気持ちがいい。
9月6日(金)  <久しぶりに天空公園・・・>
久しぶりに天空公園(東京・目黒区/高速道路の大橋ジャンクションを利用した屋上公園=ここ)に立ち寄った。自転車で陶芸教室に行った後、天空公園に寄り道をした意味は大きい。先ず、猛暑の中では決して公園にいく気にはならない。今日はそれほど過ごし易い気候だったことになる。更に気持ちのゆとりがなければ公園に行くことはない。このところ痴呆症とか介護とか転居とか楽しくない語彙ばかり脳を駆け巡っていたので、今日は気分転換のためにも”ゆとり”を装って公園に行きたかった。そういえば昨日の木曜日には普通ならばテニスで身体を動かすところが雨であったので認知症の本など読んで過ごした。そのために余計滅入ったのかも知れない。今日の半日、何も考えずに陶芸に集中し、また公園で花を愛でる時間をとるだけで元気を回復できることを実証した・・。どうも私は「書を捨てよ、町へ出よう」(寺山修司)のタイプと見える。天空公園で撮影した写真を下に掲載する。今頃咲く花は百日紅(サルスベリ)か夾竹桃か、それともムクゲかと思っていたら、他の花が沢山咲いていた。やはり”外に出て”みなければ分からない。
 
2013-09-06 目黒天空公園にて、右はオキザリス(カタバミ科)とヘメロカリス(ユリ科)

9月7日(土)  <陶芸作品「24面体」が完成・・・>
陶芸作品「24面体」が完成!喜んで今日の表紙に写真を掲載したが実は完成を少々焦り過ぎた。組立が半分終了した時にハッと気がついた、最後の三角錐を単品でまだ写真を撮っていない・・。24面体は組立式で三角錐8個を結合させて完成させる。一度組上げてしまうと写真を撮っても個々の部材の模様などは霞んでしまう。これまでは単品で写真を撮りできるだけ三角錐個別の記録を残すようにしてきたが「三角錐No.8」は欠番となってしまった。といっても今更分解して単品写真を取り直すこともない。制作者としてのこだわりから言えば、三角錐8個の単位でなく、むしろ24面全ての異なる模様を見てほしい。・・と書いたところで、今回の24面体に限らず、どのような作品造りでも作者と鑑賞者の視点が異なることに気がついた。絵画の展覧会などでも作者の一方的な思い込みに対して鑑賞者の方がむしろ的確に作品を目ている事例は多い。作者は理屈を言わずにただ作品を提供するのみで謙虚でなければならない。思う存分楽しく制作できていれば作者はそれで十分だ。今回の24面体も”完成しました”と写真を掲載するだけで十分で他には何も言う必要はなかったか・・。


9月8日(日)  <2020年東京でのオリンピック開催・・・>
2020年東京でのオリンピック開催が決まった。東京は1964年以来56年ぶりのオリンピック開催となる。昨日までは東京とマドリッドが競り合っていると報じられていたが予測に反してマドリッドが最初に選にもれイスタンブールとの決選投票で東京に決定したようだ。私は東京が落選するとすれば日本の老人の責任が大きいと思っていた。とにかく周辺の老人たちがオリンピックなどもう結構という。自分たちはオリンピックは見たことがある、また東京でやることはない、税金を使うなら私たちに使ってくれ・・と、老人特有の身勝手な論理を展開するのに辟易させられた。もし2020年の招致が失敗すれば、これらの老人たちがこの世にいなくならなければ再度の招致は無理だろうと予想していた。オリンピックはいわばお祭り。町内会のお祭りでも”お祭りなど興味がない、神輿を担いで何が面白いの”という輩は必ずいる。けれどもお祭りが社会を活性化するのに大きな役割を果たすのは確かだ。デイズニーランドや旭山動物園にしてもいわばお祭りポイント。人は集うことによって元気になる。前回の東京オリンピックの時、妻は20歳だったという。今度の東京オリンピックは孫娘が20歳ね・・と話が弾んだ。

9月9日(月)  <スポーツの楽しさ・・・>
スポーツの楽しさは何だろう。昨日2020年のオリンピックが東京で開催されることが決まったこともあってか、今日テニスをやりながらふとそんなことを思った。ちなみに今所属しているテニス場は国立競技場の付属機関でオリンピックの際には国立競技場の建て替えと合わせて存続できないだろうとの見方がテニス仲間では一貫している。さてスポーツの楽しさは、勝敗を争うにつけてルールがはっきりしていてフェアであること、身体を使いながら頭脳は極度の集中を要求されること、本能的な闘争心を刺激して勝利した時の満足感があること、一方で勝敗に拘らず勝者をたたえる心のあること、向上しようとすると際限がなく奥が深いこと・・。思いつくまま書き出してみたが、それこそ際限がない。スポーツを趣味とできたことは幸いだ。同じように「○○の楽しさ」を考えてみると、それぞれの特性が分かって面白い。例えば、音楽の楽しさ、陶芸の楽しさ、学問の楽しさ・・。「楽しい」は「楽(らく)」の字を書くがいずれも「らく」であれば楽しい訳ではない。難しいことに挑戦し達成するところに楽しみのベースがあるように思える。

9月10日(火)  <画家ゴッホが描いた新たな作品・・・>
画家ゴッホが描いた新たな作品が発見されたとの今日のニュース。アムステルダム(オランダ)のゴッホ美術館がゴッホの死後120年以上を経た新発見を発表するニュース動画を見ながら昔訪れたゴッホ美術館を懐かしく思い出した。1996年オランダ・ハーグで開催された「フェルメール展」に行く機会があった(このHPリンクページ下=ここ=参照)。その翌日、オランダ・アムステルダムに移動して駅前でバスに乗り運転手さんに聞きながらようやくゴッホ美術館に到着できてホットした瞬間が忘れられない。ゴッホは今でこそ有名画家として歴史に残っているが生前は絵は一枚しか売れず画家として生計を立てることもできなかったことはよく知られている。37歳で自殺するまで画商であった弟テオの援助を受けながら絵を描いていた。当時の画壇、絵画の批評家は誰もゴッホの絵を認めなかったけれども弟テオだけはその特異な絵の価値を認めていた。テオはゴッホ(ヴィンセント)が亡くなった翌年に兄を追うように死んでしまうが、ゴッホの名と作品を世に知らしめたのは弟テオの妻であったヨーの功績とされる。もし、弟にヨーという妻がいなかったらゴッホの名が知られることはなかったし、ゴッホ美術館にある多くの絵画は薪として燃やされてしまっただろう。ゴッホが弟テオに出した手紙は600通以上あり、ヨーは「ゴッホの書簡集」を出版してゴッホの人間性を世間に伝えた。以前、日本語訳で書簡集を読んだことがあるが絵とはまた違った衝撃を受けたことを思い出す。ゴッホの書簡集を読み、ゴッホの生涯(1853〜1890)を知り、そしてゴッホの強烈な絵画に接すると、今の世に生きている私たちもが何故か勇気を与えられる。わずか37年間の短い生涯で10年間しか描く時間がなかった画家が後世の人にこれほどの影響を及ぼすのをどう考えようか・・。
9月11日(水)  <谷中のお寺でお墓参り・・・>
谷中のお寺でお墓参りをした。義兄が急逝してから今日で3ヶ月。義兄には言い尽くせないほど世話になり、また感化されたこともあり、妻と毎月、月命日に墓参りをしようと決めている。これまで谷中方面にはほとんど縁がなかったので墓参のついでに谷中を散策した。谷中というのは東京・台東区、JR日暮里(にっぽり)駅と上野駅の中間の地。千駄木とか根津に隣接し東京芸術大学や東京大学農学部にも歩いて行ける。地図で下調べすると、とにかくお寺が多い。ざっと数えても50寺やそこらはある。それと有名人の居住跡もやたらと多い。今日、お寺で墓参したついでに立ち寄った谷中霊園はお寺でなく都立の霊園であるが、ここに眠る著名人は数知れない(ネット上には著名人の一覧表まである)。今日の写真(下)には谷中霊園の一角にある徳川慶喜の墓と谷中霊園から見た東京スカイツリーを掲載する。徳川最後の将軍で大政奉還をした慶喜が大正2年まで生きたことを墓にある説明で初めて知った。これから毎月墓参のついでに谷中の散策をすると新世界に触れられそうで楽しみになって来た。これも義兄の有難いお導きと感謝・・。
 
2013-09-11 谷中霊園内徳川慶喜の墓       谷中霊園から見た東京スカイツリー

9月12日(木)  <今年はサンマに縁がない・・・>
今年はサンマに縁がないかも知れない。先の日曜日、8日に東京・JR目黒駅近く(品川区)で開催された恒例の「目黒のさんま祭り」にも行かなかった。例年は岩手県宮古市のサンマが提供されるが今年は異常気象のため宮古ではサンマが不漁なので北海道・根室で水揚げされたサンマが用意されたという。次の日曜日、15日には目黒区で「目黒のさんま祭」が開催されるが、こちらにも行く予定はない。昨年は家から歩いて祭りの会場まで行ってみたが余りの混雑に早々に退散した覚えがある。目黒区の「さんま」は気仙沼市(宮城県)とタイアップしているが今年はどうなるのだろう。ニュースでは昨日、例年の20日遅れで今季初のサンマが気仙沼港で陸揚げされたと報じられている。新サンマの価格は昨年の約2倍の高値とか。それにしても今日は30℃を超す残暑でありながら秋の味覚、サンマが話題になるようになった。秋はもうそこまで来ている。「秋」は大歓迎であるけれども、松茸にも栗にも秋刀魚にもそれほど執着がないのは、いいことか悪いことか。「味覚」がお粗末だと言われても反論はできないなぁ・・。

9月13日(金)  <「ハンバーガーと秋」・・・>
「ハンバーガーと秋」か「ハンバーガーと恋に落ちる」か知らないが「FALL in BURGER」の期間限定フェア真ただ中の店で巨大ハンバーガーを食べた。今日の昼、東京・新宿のJ.S.BURGERS CAFEという店でこれまで見たことのないほど大きなハンバーグを食べたのであるが、味やトッピングなど付属のサービス、価格などを含めたトータルでの満足度は申し分がなく”当たり”であった。最近はこのようなアメリカンスタイルの巨大バーガーを提供する店が多くなったようだ。後でチェックしてみると、J.S.BURGERS CAFEのJOUNAL STANDARD(J.S.)はファッションブランドの系統の店であり、本体はベイクルーズ・BAYCREW'Sという会社。全くの異業種がハンバーガー店を開く。私などマクドナルドしか縁がなかったが、この業界も凄まじく変貌している。時に外食をすると別の世界が見えて面白い。
今日の表紙に掲載した写真は陶芸作品「24面体」を植木鉢に乗せて庭で撮った。
<明日は陶芸仲間と小旅行のためコラム休みます>


9月15日(日)  <波の音で目が覚めた・・・>
波の音で目が覚めた日曜日。昨日から続いて千葉・館山の海沿いにある別荘で遊ばせてもらった。陶芸仲間数人と仲間の別荘にお邪魔して、海で泳ぎ、貝や海老をとり、またトランプ遊びをしたり、時には陶芸や芸術について議論したりとこれぞ非日常の贅沢三昧・・。陶芸の仲間であるけれども、女性は勿論、男性も皆そろって料理が上手であるのに驚かされる。それもただの料理でなく海で収穫した食材も含めて名人級の味を作る。誰もが他人の指示で動く待ちの人ではないし、また論評をするだけの評論家でもなく自分でやってみせる人であるのに大いに触発される。台風接近で波が高くなったものの、今朝強く降った雨が午後には上がり晴れ間も見えた。明日の敬老の日、台風はどう進むだろうか・・。
2013-09-15@館山・千葉県

9月16日(月)  <敬老の日の台風来襲・・・>
敬老の日の台風来襲で予定を変えざるを得なかった人が多かっただろう。町内会で世話役をしている知人がお年寄りに記念品を配って歩くことができなくなると困っていた。日本列島を縦断した台風18号は今(16日午後5時半)は宮古から三陸沖を北上中か。東京では強い風も雨も夕方には収まって台風一過の夕焼け。今日は余り身体を動かしていないので夕方大風で飛ばされた道路上の雑物掃除を始めた。家の向かいに大きな姫リンゴの樹がある。ファッション関連の会社が所有している樹木であるが私が毎日早朝この樹木の下も掃除する習慣にしている。今日は休日で人がいないので遠慮せずに姫リンゴを掃除できた。このところ毎朝道路に散乱するかなりの数の姫リンゴを処分しているが今日はその何倍もの数の小さな林檎や引きちぎられた枝などがあり掃除のやりがいがあった。姫リンゴの小さな球だけであれば道路の片隅に転がっていても情緒があってよさそうに思えるが実際には自動車がリンゴ球を踏みつけて汚してしまう。都会の道路沿いの樹木というのは実や葉が落ちる時期にはゴミ発生機となるのが悩ましい。・・とこれは他人事でなく自分のこと・・。

9月17日(火)  <宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を英語に飜訳・・・>
宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を英語に飜訳した作家ロジャー・パルバースさんがニューヨークで野間文芸翻訳賞を贈呈されたというニュースをみた。ロジャー・パルバースさんは1944年ニューヨーク生まれ、ハーバード大学大学院を卒業後世界各地で活躍する作家、演出家(現在オースオラリア国籍)。日本とも縁が深く、東工大の教授、宮沢賢治賞も受賞した。パルバースさんの「雨ニモマケズ」は「Strongin the rain」(パルバースさんの英訳全文=ここ)。このリンクしたページにも説明があるが、「雨ニモマケズ」の英訳にはいろいろある。「Unbeaten by rain」とか「Notlosing to the rain」、「I will not give in to the rain」など。私には英語の微妙なニュアンスは分からないが、宮沢賢治の詩がこれほどまでに英語で紹介されているのが何か誇らしい。宮沢賢治(1896〜1933、37歳で没!)が今の岩手県花巻で産まれる2ヶ月前に三陸地震が、産まれた直後に陸羽地震が発生し賢治の母親は念仏を唱えながら赤子を守ったという逸話がある。東日本大震災の後に改めて宮沢賢治とその作品が注目されるのもむべなるかな。俳優の渡辺謙さんが震災に関連して「雨ニモマケズ」を英語と日本語両方で朗読する動画(=ここ)が感動的だ。また、それ以上に宮沢賢治の原文「雨ニモマケズ」を繰り返し読めば読むほど心に染み渡る。Such a person,I want become.
2013-09-17北沢川力緑道にて

9月18日(水)  <百歳以上に8万円の敬老祝い金・・・>
百歳以上に8万円の敬老祝い金が支給された群馬県高崎市で祝い金の是非について議論が交わされているという。一昨日の敬老の日には既に支給された訳だ。昨年度高崎市は100歳以上の201人分を含めて総額8400万円の「敬老祝い金」を支給したと記事にある。昨日亡くなったトヨタ自動車の最高顧問、豊田英二氏は100歳であったし、先週亡くなった灘校の名物教諭が101歳であったとか、百歳を超えて死去した人が報道されることも珍しくない。老人方から反発を食うことを覚悟でいうと超高齢化社会となりつつある今「敬老祝い金」は最早廃止すべきと考える。今や年齢を重ねたことは特別に祝うことではない。最近、認知症患者に関する本を読んだり、周囲が大変な思いをしながら老人を介護する実態に触れると老人問題はお祝いムードとはほど遠いとの思いが強くなる。むしろ迷惑老人が亡くなった時点が周囲にとって目出たくなるのが皮肉っぽい。老人は何のために生き続けるのかなどとは問うまい。老人が生きるために社会が既に相応の負担をしている。少なくとも老人はそれ以上に現役で働く世代の子どもたちに面倒をかけてはならない、負担を強いてはならない。老人が特別の存在ではない超高齢化社会では「敬老」は死語となると認識しておこう。

9月19日(木)  <いつまでもあると思うな○と○・・・>
「いつまでもあると思うな○と○」の○に何を入れるか。諺(ことわざ)では言うまでもなく「いつまでもあると思うな親と金」、その後「無いと思うな運と災難」と続く。「親と金」は親と非常に親密でべったりと付き合っている人、お金を持っている人が実感するだろうが、私のように既に親がなくお金もなければ他のものを入れなければならない。考えてみるとこの世の全てが「いつまでもあると思うな」であることは間違いない。諸行無常である。このところ現在住んでいる家を手放し新たな行き先を探す事態となってから急に共同庭の手入れを頻繁にやるようになった。いつまでもこの庭と一緒でないと思うと俄然今のうちに世話をしたくなる。永遠でないから余計に愛おしくなる心理は全てに通じるのかも知れない。同じように、愛用するカメラ、パソコン、携帯電話などの物品は勿論、自分の持っている健全な目、耳、歯、身体、頭脳(頭髪はなくて元々)、やはり連れ合い、そして最後は我が命まで、何でもが「いつまでもあるものでない」と思うだけでこれまでになく無性に愛おしくなる。みんな大切にしなければならない・・。

9月20日(金)  <いつの間にか彼岸花・・・>
いつの間にか彼岸花が咲いている。そういえば今日はもう彼岸の入り。夕方、久しぶりに西郷山公園まで歩いて行った。以前、犬(コーギー)を飼っている時には毎朝犬を連れて公園まで散歩したが最近はほとんど行くことがない。途中で初めて見る新しい店舗や前に何があったか思い出せないマンションの工事現場の横を通って公園に着く。西郷山公園で今日一番目についたのがオシロイバナ。公園の中の至る所で自生しているので生命力が抜群に強いのだろう。一方、オシロイバナ(白粉花)は見れば見るほどユニークな花だ。一つの株から赤や白、さらに混ざった色の花を咲かせるのはどんな仕組みなのか、植物学者なら絶好の研究材料になりそうである。「白粉の 花落ち横に 縦にかな」(高浜虚子)。・・昨日が満月の中秋の名月であったので、一日遅れの今夜、お月さんの写真を撮ったがただの丸。望遠鏡を使わないと月の写真は面白くない。ひとまず「今日の月」をオシロイバナの写真に重ねてみた(下の写真右上)。
 
2013-09-20 彼岸花@代官山アドレス     オシロイバナ@西郷山公園(東京・目黒区)と今日の月

9月21日(土)  <今日、9月21日は「世界アルツハイマーデー」・・・>
今日、9月21日は「世界アルツハイマーデー」。「アルツハイマー病に関する認識を高め世界の患者と家族に援助と希望をもたらすこと」を目的として、1994年に「国際アルツハイマー協会」と「世界保健機関(WHO)が共同でこの日を制定したという。私はたまたまインターネットでこのことを初めて知ったが一般にはほとんど報道されていない。私なども知り合いに認知症の介護で苦労している人が何人かいるので他人事ではない。認知症にもいろいろとありアルツハイマー病はその一部(5割程度?)であるから、むしろ「認知症デー」とした方はいいのかも知れない。それにしてもやっかいな病気だ。病気である以上、原因があり、現時点では不十分でも将来は更に治療法や予防法が進化するだろう。だたし、脳の記憶や認識機能が正常になったとして老人の生き甲斐を医者が教えてくれる訳ではない。認知症が治ったとしても他の老化が進み今度はやることのない介護される老人ばかり増えるのでは社会として課題は残る。認知症にしても人間は正常な認知状態であるのが幸せなのか、現実と離れて、夢の中にいる方が幸せでないかと思わせるところもある。それでも人格まで変形してしまう認知症ではどうしようもない。・・認知症を取り上げると人間の脳の働き、人格とは何か、人の生きる意味など根源的な問題を考えさせられて際限がなくなる・・。

9月22日(日)  <「善」であるかどうか・・・>
「善」であるかどうかは非常に判定が難しい。自分では「善」だと信じて疑わなくても他の人には「よいことではない」事例はいくらでもある。こんな時「善」の漢字の”成り立ち”を解説した本をみて納得した<「感じる漢字」高橋政巳著/扶桑社>。「善」の字は神の前で神の判断を問う神聖裁判の用語で神の下された決定(神の意志)が「善」つまり正しいことを意味するという。文字の上部の「羊」は神からの授かり物、神の代名詞であり、その下の左右に原告、被告が神の判断に沿うことを誓う様子を表している。神の判断した「善」の具体的な内容は何も表されていないので善には多くの人が是認する道徳的な価値が伴わなければならないのだろう。せいぜい「独善」にならぬように自戒しよう。・・「善」というと、西田幾多郎の「善の研究」があったことを思い出してインターネットで検索すると、即読むことができるので感激した。とても全てを精読できるものではないが、この明治44年(1911年)の哲学書を拾い読みするだけで大いに刺激を受けたのでリンクしてみる=ここ または ここ

9月23日(月)  <有朋自遠方来・・・>
「有朋自遠方来、不亦楽乎」(論語)。朋(=とも、友)あり遠方よりきたる、また楽しからずや。高校で共に学んだ友人が夫妻で家にきてくれた。”共に学んだ”と書いてしまったが、学んだ記憶は余りない。夏休みに一緒に奈良のお寺巡りをしたことが高校時代の一番の思い出だ。以後、約50年の空白を経て最近になってテニスを組んでプレーしたりお互いの家を行き来して家族で付き合うようになった。この友人との交流が復活したのは夫妻そろっての趣味と価値観が類似していたからだろうか。毎回会うたびによき刺激を受け元気をいただく。いくつになっても停滞することなく学ぶ姿勢があるところにも大いに触発される。冒頭に掲げた論語「友あり遠方よりきたる・・」の文章の前で孔子が言った言葉:「学んで時にこれを習う。また、よろこばしからずや」は、まさにその通り。孔子の言うところの”君子の交わり”ができる友人を有難く思う。

9月24日(火)  <国立新美術館の招待券・・・>
国立新美術館の招待券(新制作展)をいただいたので六本木まで出かけたら美術館の門が閉まっている。今日は休館日だった。それではと東京ミッドタウンへ廻りガレリア3階のサントリー美術館へ行くと、ここも今日は休館日。はじめは昨日の月曜日が休日だったので、今日の火曜日が振替休館となるのかと思ったが、そうではなくて国立新美術館もサントリー美術館も毎週火曜日が休館日であった。普通は美術館の休館日は月曜日であるのでまぎらわしいが事前に調べて置かなければならない。美術館にはいけなかったけれどもミッドタウンを一回りし散策をそれなりに楽しんだ。下に今日の写真を掲載する。(a)の休館であった国立新美術館の建築設計は故黒川紀章、(b)はミッドタウン内のデザイン展示場21_21DESIGN SIGHTで建築設計は安藤忠雄、(c)はミッドタウン、ガレリア3階サントリー美術館前の秋らしい飾り、(d)はミッドタウン、ガレリア入り口のデイスプレー、10mほど上からワーヤーを伝わって水滴が落下する仕組みで私はこれが大好きなのでミッドタウンに来ると必ずこれをしばし鑑賞する。
 
2013-09-24 (a)国立新美術館          (b)21_21 DESIGN SIGHT
 
(c)秋の飾り                  (d)東京ミッドタウン・ガレリア入り口にて

9月25日(水)  <彫刻やスペースデザインの展示物・・・>
彫刻やスペースデザインの展示物を見ながら思わず我が身を省みて苦笑してしまった。雨の中、国立新美術館の新制作展を見に行ってのことだ(9/30まで開催中)。数多くの彫刻やスペーズデザイン作品を鑑賞しながら、特別に意識した訳ではないけれど、自分が作者ならこうする、こうした方が好きだなどと勝手に考えていると、ほとんどの場合作者が一生懸命に付け加えたと思われるプラスアルファを取り外したくなる。例えば古木を集めてオブジェを作りそこに布のようなものを絡ませているときに布がない方が好みだと言う感覚だ。自分でも何か創作する時につい余計なものを付けてしまう。他人を批判するのは容易だがシンプルな美は至難の業だ。話は飛躍するが転居するために身の回りの持ち物を半減しようと余分なものを整理している真っ最中だが、なくても生活に支障のないものが山とある。「芸術」は生活とは別かも知れないが何もないのが美しいとなると美とは何か・・。次に絵画部門の作品を見ていると、若いカップルが”全般に暗いわね”と話しているのが聞こえた。そのとたんに、また生活の方に頭が向いた。今、身の回りに少しでも”明るい素材”を置きたいと明るいものを探している。なるほど、大量の絵画の展示物からハッとするような明るい色使いがほとんど目につかない。私の好きな佐野ぬいさんはこの新制作展でも出展していて元気の出る明るい色使いの作品であったが、これはむしろ例外的。日本人は、いや絵を描く日本人はまじめで暗い性格なのだろうか。小さな小さな絵でよいから明るくて見るだけで元気になる絵が欲しい。
下に掲載した「今日の写真」は帰路立ち寄った「六本木ヒルズ」風景。
表紙には陶芸作品「24面体」を台付きで撮影した画像掲載。

  
2013-09-25@六本木ヒルズにて、右は毛利公園

9月26日(木)  <自転車で家を出るとき・・・>
自転車で家を出るとき道路は乾いていたが、テニスコートに着くとコートが雨で濡れはじめていた。テニスは霧雨の中で乱打をしたけれども30分が限度。控え室で雲の動きを見ながら雨脚が遠のくのをしばらく待ってみたが雨は一向に止む気配がない。帰宅を決断してそのまま雨の中を自転車を走らせた。テニスウェアがいくら濡れても汗で濡れるのと同じと思えば気楽だ。テニスが思うようにできなかった分、家で雑物整理がはかどった。いくつもの大物の棚をゴミ処分できる大きさに分解して捨てる段取りもできた。作業の途中で「人生がときめく片づけの魔法」(近藤麻理恵著)という本をフムフムとうなづきながら読んでいた。この本は整理整頓の専門家と自称する若い女性が書いた本で、よく売れている評判の本であるらしい。勿論、妻が買ってきた本(妻はこれまで何冊の整理本を買ったことかなどとは言わない)。この本の中で私が気に入ったフレーズ(phrase)を一部挙げて見よう:「”ときめくモノ”だけを残す」、「部屋を片付けると、なぜかやりたいことがみつかる」。こんな調子で我が家ではこれから「片づけ」の結果を出さなければならない・・。

9月27日(金)  <新宿の高層ビル街の一角・・・>
新宿の高層ビル街の一角に所用で出かけたついでに西新宿の街を小一時間歩き回った。今日は台風一過、気持ちよい秋晴れ。しかも半袖シャツでは少し寒いほどの涼しさ。あの真夏の猛暑が時とともに確実に涼しい季節へ変化する自然の摂理に今更ながら驚嘆する。西新宿は今や超高層ビルが建ち並ぶ日本有数のオフィス街となっているが、少し前まで大きな淀橋浄水場がある地味なスペースで、新宿東口のような繁栄とは無縁な場所だった。それが浄水場を移転させて再開発された結果、見違えるような街に変身した。今日、改めて超高層のビル群を眺めながら歩いてみると、やはり“現代”の街にいるある種の興奮を覚えた。これは100年前の人は体験できなかった風景だ。それと同時に200年後の超高層ビル群の姿を想像したくない雰囲気。今だけならばよい、だだし先はどうなるのか考えると恐ろしくなる。先の時代に如何に朽ちるのか、人間が解決すべき知恵を出せるのか、いまは関知せずにビル群は林立する・・。
 
2013-09-27@西新宿にて

9月28日(土)  <この礼拝堂を見ずして・・・>
「この礼拝堂を見ずして、ひとりの人間が成しうる偉業を知ることは出来ない」とゲーテが言ったとされるのがバチカンのシスティーナ礼拝堂。この礼拝堂の天井にミケランジェロが描いた「システィーナ礼拝堂天井画」は人類至宝の芸術とまで言われる。今日最大の収穫は、最新鋭の4Kカメラで撮影されたこの天井画を4Kシアター(250インチ大型スクリーン)で見たことだ。4Kとはハイビジョンの4倍の高解像度の映像(ソニー製4KカメラでTBSが撮影)。実は国立西洋美術館で開催されている「システィーナ礼拝堂500年祭記念 ミケランジェロ展―天才の軌跡」で見たもので、4K映像はいわばオマケ。メインの展示物は当然のことながら習作やスケッチ、手紙類など小物ばかりでミケランジェロ作品の大迫力とはほど遠い。それを4K映像が十分にカバーしてくれた。私も以前バチカンのシスティーナ礼拝堂を訪れたことがあるが天井画をそれほど細かくは鑑賞できなかった。4K映像は信じられないほど鮮明に大画面で細かいところを見せてくれる。実物を何時間見ても及ばないほど細部をリアルに再現する映像に感動し最新の映像技術を改めて見直した。美術鑑賞の仕方もハイテクとともに変わる予感がする。国立西洋美術館まで足を運んだのは「ル・コルビュジエ」の展覧会を見るためだった。ル・コルビュジエ(1887−1965)は20世紀を代表する建築家として知られるが、絵画、彫刻、版画、タピスリーなど広い分野で活躍した芸術家であった。コルビュジエの作品も私の好きなタイプなので刺激されること大。そういえば、500年前のミケランジェロも彫刻家、画家、建築家、詩人などマルチな才能を発揮した天才だった。何百年経っても人間に元気を与え続けてくれる先人たちの遺産に感謝しつつ美術館を後にする・・。(国立西洋美術館案内=ここ

2013-09-28@国立西洋美術館にて

9月29日(日)  <NHKの朝の連ドラ「あまちゃん」・・・>
NHKの朝の連ドラ「あまちゃん」は昨日が最終回だった。朝の食事時の雰囲気がテレビの番組一つで明るく元気になったのは考えてみれば凄いことだ。この番組の評判が良かったのは専ら宮藤官九郎(1970年生まれ)の脚本の巧みさと言われるが私も同感。全般のストーリーの展開もすばらしいが、細かいところを視聴者が気がつけば更に面白くなるといったうまいネーミングが満載だった。あまちゃんの海女(あま)は勿論、天野 夏、春子、アキ(秋)の三世代に続く。潮騒のメロデイーの歌詞(宮藤官九郎作詞)にしても「三途の川のマーメイド」という刺激的な歌詞を鈴鹿ひろ美(薬師丸ひろ子)が「三代続いたマーメイド」と変えて歌う。それにしても名脚本のドラマに出演できた俳優は幸いだ<反対にどんないい俳優、演出家であっても脚本が悪いとどうしようもない。以前のNHK朝ドラ「純と愛」は直ぐにチャンネルを変えるほど見るに耐えなかった>。「あまちゃん」については脚本以外に音楽担当の大友良英のヒットも挙げなければならない。オープニングのテーマ曲は甲子園での応援歌になったし、テーマ曲に反応するニャンコ(猫)はネット上で大評判となった(実に面白い!、サンプル=ここ)。潮騒のメロデイーの作曲もまた大友良英さん。世界中で活躍する大友良英さん(1959年生まれ)のホームページをリンクしておこう=ここ

9月30日(月)  <息子の墓参りにいくと・・・>
息子の墓参りにいくと「麦とホップの黒ビール」が墓前に置いてあった。お花も新しく、恐らくは昨日の日曜日にでもお参りにきていただいたのか。私たちは月命日の2日にお参りするのが普通だが明後日の2日には来られないので今日の墓参とした。このお墓には父母も入っているが缶ビールが墓前にあると先ず息子のためと決まっているので分かり易い。これまでに何度缶ビールが置いてあったか数えきれない。お供えされた缶ビールは相応の期間をとった後に、こちらで”ご相伴(ごしょうばん)にあずかる”、つまり息子と一緒にビールを飲んだことにしてお腹の中に処分させていただいている。ただ、感謝感謝である。今日の写真(下)には今の時節らしい彼岸花と山門の風景と屋根の葺き替え工事が進む本堂の写真を掲載した。
<明日から小旅行のため コラム休みます>
 
2013-09-30 @九品仏浄真寺(東京・世田谷区)にて

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