これまでの「今日のコラム」(2015年12月分)


12月1日(火)   <レッグマジックという健康器具・・・>
レッグマジックという健康器具を持っている。スライドする台の上に足を乗せて両足を閉じたり開いたりする単純なトレーニングマシーンだ(=これ)。一時期ほとんど使わないこともあったが、最近は毎日の日課に取入れてウォーキングの補助としている。どういう訳か一セットの回数を110回とした。一回約1秒で開閉を繰り返し、2分足らずで一セットが終了する。110回を数えているうちに何となく自分の生きてきた年齢と結びつけることになってしまったのは何故だろう。初めの10回はほとんど無意識。12〜13回ころから自意識が目覚めて15回目、アア中学生で楽しかったなあ、あっという間に20回、大学生か、その内に卒業、就職、結婚、子どもが出来た・・気がつくと30回、その後の40回、50回は早い、60回から70回は結構充実している・・、直に今の年齢を追い抜かされて、80回、90回と数える頃には足に負担を覚えてくる、100回で止めようと思いながらおまけの10回を入れて110回となる。一年を一秒で数えると100年でも100秒=1分40秒だ。人生夢のごとし、人生朝霧のごとし、などと言うつもりはない。残された時間が10秒とすると1秒1秒を充実させなければとは思う。


12月2日(水)   <息子の月命日なので・・・>
息子の月命日なので、曇天の下、墓参りに行った。丁度、一年前のこの日は雲一つない晴天で、墓のあるお寺の境内が最高の紅葉だったことを思い出す(2014-12/02=ここ)。今日は雨が降りそうな雲行きではあったが、それでも境内の紅葉は十分に見応えがあった。墓のまわりの写真は撮らないことにしているが、墓にある満天星(どうだんツツジ)が見事な真っ赤。墓の周辺を掃除していると妻はニューヨークの娘家族とスカイプをはじめて、iPhoneのカメラで満天星を撮りながら、”今お墓の所にいるのだけれど、ほらドウダンがこんなにきれい”などといって映像を見せながら話している。今や海外に住んでいても一緒に墓参りに加わることもできる・・。
 
2015-12-02 @九品仏浄真寺(東京‐世田谷区)


12月3日(木)   <パソコンを使う際・・・>
パソコンを使う際、立って仕事をするように机を改造したことは前に書いた (11/29、30コラム= ここ)。そして、同時にキーボードをブラインドタッチで打つことにして練習をスタートさせた。今日はこの機会に新しく購入したキーボードとマウスが届き、早速使い始めている。キーボードはRealforceという高級品。マウスもLogicoolのワイヤレストラックボール。ワクワクしながら使い始めたのはよいが、まだ機能が分かっていない箇所も多く(このカッコ一つの変換が分からなかったり・・)、馴れていないので悪戦苦闘している。その上、ブラインドタッチに拘ると時間がかかってしようがない。こんな簡単な文章をタイプするのにいつもの3倍以上の時間がかかる。まあ、これもまたノートレの一つと考えて楽しもうか・・。


12月4日(金)   <同じことを何度も繰り返して話をする・・・>
同じことを何度も繰り返して話をするとボケてきたかと思われる。痴呆症までには至らないにしても老人が少し前に話したことを何度も繰り返して話をすることはよくある。他人事ではなく私なども妻から”同じことを聞いた”などと言われることがある。コミュニケーションというか意思疎通のためには、毎日同じような内容や話題を繰り返しても不自然ではないだろうが。大体、人が一度聞いたことを覚えているかどうかも分からないし、もし一度聞いたことを完璧に記憶していて二度と同じことを聞かないとすると日常会話が成り立たない。浄土真宗・本願寺中興の祖とされる蓮如は84歳で亡くなるまで何十年も同じ説教を繰り返したと何かの本で読んだことがある。どんな宗教家でも何千、何万回も同じことを繰り返して布教するが当然だ。このコラムにも同じような内容が綴られることもあるだろう。こうなると、書きたいから書くと開き直る。「繰り返し」が悪いとは限らない・・。


12月5日(土)   <来年の年賀状・・・>
来年の年賀状を考える時節となった。賀状というと私の周辺で”いい加減に義理の付き合いだけの賀状を止める”と宣言して自分からほとんど賀状を出さなくした人がいる。全部止めてしまうことはなくても年齢とともに大幅に減らす人は多い。「終活」などと同じで80歳を目前とするとそういう気分になるらしい。ところが私の知る範囲では賀状を止めると同時に活力が激減してくるから不思議だ。大体、親戚でも友人また部下や上司でも”義理の付き合い”を除くと誰が残るのだろう。出会いの縁こそが人の生涯を作り上げている。縁を切れば誰もいなくなる。歳を重ねるからこそ”付き合い”が貴重となろう。来年の申年をどんな賀状にするか絵のプランを始めると時間を忘れる。
12月6日(日)   <インターネットで不快になる・・・>
インターネットで不快になるのは他人を罵詈雑言する文章を読まされる時である。今日はたまたまある生物学者の名を検索していると同業の学者らしき人が口汚く相手を罵っているサイトに行ってしまった。部外者からみると本も沢山売れてテレビやマスコミで売れっ子になっている学者さんを妬んで好き勝手に吠えているようにしか見えない。専門バカという言葉があるが能力や狭い範囲の知識があっても人間性は全く別ものであることを改めて教えてくれる。人の顔が見えないところで無責任に欲求不満の落書きをするのは一昔前は公衆便所に決まっていた。ところが最近の公衆トイレは非常に綺麗になりほとんど落書きを見なくなった。トイレの落書きと同レベルの不浄なネット書き込みはどのようにしてなくなっていくのだろうか。

2015-12-06九品仏浄真寺をまた訪れた
12月7日(月)   <テニスの仲間がシルバー川柳・・・>
テニスの仲間がシルバー川柳の本を読んでいた。シルバー川柳も簡単なようで実は非常に難しいのでないか。自虐ネタや、老人臭さばかりでは面白くない。どこかに明るさが欲しいが、どうしても惨めさが残ってしまう。以下はネットで検索した事例。「白黒の ネクタイで足りる 定年後」は全く同感。「アンケート 六十までと 除外され」もその通り。似たような例を昨日経験した。ネットで買物をしようとしたとき、生年月日を記入する欄で1950年以前の選択が出来なかった。しようがないので何も書かずに月日のみをインプットするとエラーとなったので1950を入れて通過させた。川柳にする以前にネットのプログラマーのセンスを疑う。最後にもう一つ:「羨まし 喜寿でラケット 握る人 」。私の周辺では喜寿でラケットを握る人はまだ若造の部類で珍しくも羨ましくもないので念のため。

12月8日(火)   <表紙に陶芸作品「数式花器」・・・>
表紙に陶芸作品「数式花器」を掲載した。実に陶芸作品の新作は5ヶ月ぶりの紹介となる。この間、大作の制作過程で粘土がひび割れしてしまったとかアウトプットがでない特別の理由もあるのだが、制作意欲が停滞していたことは否めない。前からの制作仲間が辞めていくなどの事情もあるし、”何を作るか”のビジョンが固まらないせいもある。私の場合、お茶碗、お皿といった実用品は他の名人にお任せして、何か他人が作らない形に挑戦したい気はある。今回掲載した「数式花器」は数学が趣味の知人からヒントをいただいた数式から決定される形状の花器。底は円形。円の数式をベースとして高さ方向の数値の関数に応じて円の形状が変化する立体である。数式花器と名前を付けたが例えば円筒の花器、正方形の立体花器など数式と結びついた既存の形状はいくらでもあるけれども、今回できあがった形状の花器は見たことがないというところがうれしい。

12月9日(水)   <環境が変わると意外なこと・・・>
環境が変わると意外なことに気がつく。今住んでいるところは都内でも住宅地といえる。一年半ほど前にこの場所に転居する以前は更に都心の商業地区に住んでいた。隣には築地の市場に勤める人がいて毎朝5時前に自動車を出すのが当たり前だった。他に早朝から家の前を通る車の音が聞こえるのは都会の自然な音と承知していた。それが今の場所では早朝の音が全くない。普段は6時前に自主的に起きてトレーニングとかテレビ体操などをやるが、体調が悪い時には7時でも8時でも音に関係なくいくらでも寝ていることができる。今更ながら静かな環境を得たことには感謝感謝である。毎日環境が変わるのが旅。芭蕉、良寛、山頭火、みな旅を続けながら詩を詠んだ。旅をすれば毎日新しいテーマに遭遇したことだろう。しかしながら世の中には正岡子規のように何年間も病床に伏しながら俳句・短歌・随筆を書き続けた超人もいる。創作の源泉は環境でなくやはり感性か・・。


12月10日(木)   <猿の年賀状作りに励みながら・・・>
猿の年賀状作りに励みながら、一方、立ち机でキーボードのブラインドタッチの練習をする。パソコンをブラインドで操作すると宣言して一週間経ったが一向に上達しない。先ほどもネット上にある無料ソフトを使って練習したところ基礎段階で”不合格”。毎日ほとんど練習時間がとれていない上に、このコラムを書く時は絶好のブラインドタッチのチャンスであるのに、ついキーボードを見て打ってしまう。長年キーボードを見て打つ習慣が身に付いている。ブラインドだと10倍ほどの時間がかかるので耐えきれないのだ。今更、キーボードを見ながら打つ速度はブラインドで打つ人に負けないよなどといっても始まらない。ブラインドの上達法は、1)絶対に手元をみない、2)地道に練習、とあった。不合格、不合格でもめげずに、ただ練習あるのみか・・。


12月11日(金)   <最近LED照明2個の故障が・・・>
最近LED照明2個の故障が続いた。両方とも、Made in China。製造元に偏見を持ちたくないが、これまで経験したことのないトラブルなので品質を疑ってしまう。一つは卓上のLEDライトで点灯したままスイッチを押しても消灯しなくなった。電源の差し込みを抜けば消えるけれども、自分で別のスイッチを付けることになりそうだ。もう一つは共同玄関に設置した大型LED照明。これは購入して2ヶ月しか経っていないのに全く点灯しなくなってしまった。今日になってようやく踏み台を持っていき照明を取り外し、部屋で故障原因を調査。テスターを使って導通や電圧をチェックすると、予想に反してトランスの故障と判明した。100VからDC24Vに変換するトランスのアウトプットがない。2ヶ月でトランスが不良となる原因がよく分からないが、これはメーカーに保証を要求するつもり。LED本体は白熱灯より寿命が長く、その分高価でもあるので、周辺の部品の品質が安定しないことにはLEDの意味がなくなってしまう。
今日の天気は朝から大雨、大風、その後一挙に青空、気温上昇、夕刻には一転また暗雲

2015-12-11 夕日と暗雲


12月12日(土)   <人は光を浴びると・・・>
人は光を浴びると輝く。昨日ストックホルムでノーベル賞の授賞式にのぞんだ大村さん(医学生理学賞)、梶田さん(物理学賞)は正に脚光を浴びて目映い。けれども、一方で、それほど名が知られていなくても、大村さん、梶田さんに負けず劣らず研究に没頭し成果を挙げている人は多いだろう。たまたま見える成果に恵まれなくても陰で貢献している人はまた数知れない。光を浴びる対象と真反対に光の陰で存在感を示すものは美しい。ノーベル賞の話ではなく、人の生き様もまた同じでないだろうか。直接光の当たらぬ暗い影であっても、すばらしく美しい姿となる。こんなことを考えたのは、今朝、日の出直後の風景が昨日夕方の景色と余りに対照的であったからである。下に双方の写真を並べてみる。同じ街が光と陰でどう変わったのか・・。
2015-12-12
12月13日(日)   <「知好楽」という言い方・・・>
「知好楽」という言い方がある。内容は昔から知る人ぞ知る論語の言葉:「子曰、知之者不如好之者、好之者不如楽之者」。つまり「知る者は好む者に如かず。好む者は楽しむ者に如かず」であるから一般的な解釈としては「「知っているだけの人は好んでやっている人にかなわない。好んでやっている人も楽しんでやっている人にはかなわない」となる。私も何をするにしても、この「知好楽」をモットーしたいと思うがそう単純でもない。知っています、勉強しました、成績がよかったとしても過去のこと、次には好きで内容が充実する、また楽しみの行動が更なるに活力を生む。過去の経歴だけで生きていても好きで楽しむ生活がなければ空しい。この際、論語の英訳例を掲載しておこう:「One who only knows it is no match for one who likes it. One who only likes it is no match for one who enjoys it.」<himazu blogさんより引用>。
12月14日(月)   <手鞠(てまり)の遊び・・・>
手鞠(てまり)の遊びなど今の子どもはやらなくなったのだろうが、手鞠、お手玉、羽根つき、おはじきなど昔の女の子の遊びには”数え歌”が付いた遊びが多かった。私自身は遊ばなかったが子どもの頃、女の子がゴムボールでまりつきをしながら、「あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ熊本さ・・」と遊んでいたことを思い出す。今になって改めて”数え歌”をみると名作が多いことに驚嘆する。例えば、「無花果(いちじく) 人参(にんじん) 山椒(さんしょ)に 椎茸(しいたけ) 牛蒡(ごぼう)に 無患子(むくろじゅ) 七草(ななくさ) 初茸(はつたけ) 胡瓜(きゅうり)に 冬瓜(とうがん)」。「一番はじめは一宮」から始まる日本中の神社仏閣巡りの歌詞もユニークだ。このような数え歌の文化を何かの形で後世に伝えたい。子ども向けのゲームの中に取り込むのはどうだろう。ゲームソフトの制作者さん、プログラマーさん、是非数え歌を活用してくださいよ・・。
12月15日(火)   <「初心忘るべらず」・・・>
「初心忘るべらず」は現代でも”人口に膾炙”(面白い言い方だ!)している。言うまでもなく室町時代の猿楽師(能楽師)世阿弥が能の奥義を記した「花鏡」の中にある言葉。世阿弥(1363~1443?)は1400年頃に「風姿花伝」を著し、その中にも初心について記述があるが秘伝書として伝えられ一般には存在も知られていなかったという。「花鏡(かきょう)」は風姿花伝から20年以上を経た世阿弥60歳頃の著作。そこでは「初心忘るべからず」に続いて三か条の口伝:「是非の初心忘るべからず、時々の初心忘るべからず、老後の初心忘るべからず」がある。恐らくは世阿弥が晩年になったので加えたであろう「老後の初心」を最近になって以前より納得するようになった。現代の高齢化社会でこそ「老後の初心」は肝要に思える。いくら年齢を重ねても十分な完成はない。チャレンジはいつまでも続く。そういえば、誰でもが、”初めて老人になる”・・。
12月16日(水)   <一日があっという間に・・・>
一日があっという間に終わる。美術館に行ったり、紅葉を見ながら散歩したり、また本を読んだりするゆとりがない。昨日今日やったことをみると年末の大修理と掃除片付けモード。大工さんか電気屋さんの代理仕事ばかりやっている。空調の室内ユニットを交換したところ天井に大きな穴が7個も残ったので、これを塞ぐ工事にも悪戦苦闘。今日は人感センサーの配置換えで思った以上に手こずった。今時、配線をつなぐのにハンダ付けはないだろうと思いながら接続用の部品がないので半田ごてを使う。やり方はともかく、こうした実務は時間がかかっても完了した後に何か形が残るところがいい。それにしても師走になるとどうしてやるべきことが次々にでてくるのだろう。
12月17日( 木)   <「断捨離」・・・>
「断捨離」という言葉が話題になったのは数年前か。従来の「もったいない」の観念から脱却して、不要な物を断つ、捨てる、物への執着から離れることは自分の居る空間を解放し生活を一変させる魅力があった。その後、整理整頓術に関する本がヒットしたり、ついには「ミニマリスト」と呼ばれる最小限の物しか持たぬ生き方まで提言される。Simple is best.の考えには私も同感であるが、実践は容易ではない。私たちは一年半程前に今の家に転居してきた。引越時にかなり思い切って物を処分してきたつもりだが、今周りを見るとシンプルとはほど遠く物が溢れている。自分のモノを細かく見ると、チューブの中がカチンカチンになった10年以上前の絵の具セット、使えない塗料や筆、書けないボールペンの束、削れなくなったヤスリ20本以上など切りがない。目立つ大物を処分するには決断がいるが、先ずは身の回りの”使えないもの”を処分することから始めるか。この師走のゴミ出しは忙しくなりそうだ。
12月18日(金)   <松尾芭蕉は・・・>
松尾芭蕉(1644~1694)は後世俳聖とまで称せられるほどに俳諧を完成させたが、生前もまた蕉門十哲をはじめ多くの門人をかかえる大先生中の大先生であった。そんな傲慢な天狗になってもおかしくない芭蕉が、「人の短を言う事なかれ、己が長を説く事なかれ」を座右の銘にしていたという。実際に芭蕉は門人の句を論評したり考え方を矯正することなく自らの実践のみを重視したと伝えられる。また、今もなお清貧で無欲な暮らしぶりに人気がある良寛(1758~1831)は親しみやすい詩歌や書で知られるが、そんな良寛がまた多くの「自戒の言葉」(戒語)を残している。他人に説教するのでなく”自戒”である。こちらが直にでも我が身を諌めるべき言葉が並ぶ。例:「人のもの言いきらぬうちにものを言う、わがことを強いて言いきかさんとする、人の話の邪魔をする・・、おのが意地を言い通す・・」(=ここ=参照)。芭蕉さん、良寛さんら達人、徳ある人たちの何と自らに厳しいことか。他人のことを言う前に先ず自分に言い聞かせるのは、言うは易く行なうは難し・・。
12月19日(土)   <表紙に「八球花器」の名で陶芸・・・>
表紙に「八球花器」の名で陶芸の新作品を掲載した。名前は花器でなくても何でもいいのだが、悪戦苦闘の末にようやく出来上がった作品である。構造の基本は八個の球体全てを一筆書きのように貫通する穴を通しているところ。初めと終わりの穴だけが外部から見える(写真の右上の二個)。一方の入り口から空気を通せば全ての球を順次通り最後の出口の穴からでる訳だが、何の目的で、どう使うのか問われても困る。水を半分入れた場合、下の四個分だけに水が溜まり、上部の四個には溜まらないが、満杯まで水を入れると花器として使用することが出来るので「花器」とした。音を通せばどうなるかなどはこれからの実験による。粘土の段階で一度割れてしまったり制作過程で色々反省点が多い作品だが、何事も経験と新作品を可愛がりたい。

12月20日(日)   <今年の漢字は・・・>
今年の漢字は「安」とか。2015年の世相を反映した漢字として選ばれたものだが何か政治絡みの匂いがして好きではない。昨年の漢字が「税」だったというから元より好き嫌いを言っても始まらない。世相の漢字とは関係なく、味わいの深い「一字名句」がある。一文字で人生や思想、心情を示す漢字だ。無、寂、空が少しさみしければ、清、風、愛、仁、心はどうか。天、玄、仏、命、運、吉、福もある。私の好みで言えば、美、香、薫、光、飛あるいは機もいい。年が明ければ、春、寿、宝など正月用の字。こうしてみると、一文字の漢字に恵まれて「豊」なのが本当に「幸」。
12月21日(月)   <今年も残り10日・・・>
今年も残り10日。テニスでは別れ際に”来年もよろしく”の挨拶を交わした。来週の月曜日にはテニス場はもう休みとなる。久しぶりに渋谷の街を歩くと今はクリスマスの飾りが目立つ。渋谷のスクランブル交差点には以前と比べて外人が随分多くなった。立ち止まって写真を撮っているのは大抵外人さん。確かに全方向から人並みが押し寄せて身体を接触させずに交差点を渡りきる”技”は見ていても気持ちがいい。外国の人から賞賛されて初めて日本人の技と行儀の良さを知った一つであろう。渋谷のセンター街を歩いていても日本語でない言葉が飛び交っている。渋谷だけでなく今は東京中、日本中でも同じ現象だろう。色々な国の人たちが街中で嬉々としてカメラを構えている姿を見ていると”平和”を感じる。平和で安全であるから観光ができる・・。
2015-12-21渋谷109ビル
12月22日(火)   <今日は冬至・・・>
今日は冬至。我家のある東京・目黒区の日の出が6時47分、日の入りが16時32分。これが福岡市では日の出7時19分、日の入り17時14分となる。東京は元より福岡でも昼の時間は10時間足らず。一年で最も昼が短い今日であるが、東京では日中気持ちのよい快晴が続き物干日和だった。。太陽の力が一番弱まったこの日であるからこそ余計に陽光の有難さを感じる。一陽来復とは言い得て妙。明日からまた太陽の力が強まる。
12月23日(水)   <2015年本屋大賞に選ばれた「鹿の王」・・・>
2015年本屋大賞に選ばれた「鹿の王」(上橋菜穂子著)を遅まきながら読み終えた。前に「精霊の守り人」を読んで以来、上橋さんの物語の世界にすっかり魅せられてしまった。「鹿の王」は大作ではあるが、それにしても時間をかけて熟読した。私にしては珍しく風呂の時間に限って少しずつ読み続けたけれども、その間決して飽きることも中断することもなかった。とにかくこの著者の物語はスケールが壮大だ。個々のミクロの世界がある一方で、人間の営み、人類の歴史、さらに生物、生命といったマクロのテーマがバックグラウンドとして描かれる。「鹿の王」では現代の医学でいう”免疫”が物語の根幹をなしているところが特に興味深かった。人が体内の細菌と共生する不思議は人間のみならず全生物の神秘にもつらなる。正に著者のいう「生き物はみな、病の種を身に潜ませて生きている」に同感。
表紙には「八球花器」の別アングル写真を掲載した。

12月24日(木)   <今日のクリスマスイブ・・・>
今日のクリスマスイブ。クリスマス休暇でニューヨークから一時帰国している孫娘Mieuと父親(娘婿)、その母親(Mieuの祖母)、それに私たち夫婦がそろって会食をした。場所は東京ミッドタウン。ミッドタウンでは今クリスマスイルミネーションの真っ最中で、はじめにイルミネーションを楽しんだ後、スペイン料理の食事とした。私たちは去年のクリスマスイブに同じ場所でイルミネーションを見て感動したので、今回は案内役を買って出た次第。多感な孫娘がどう感じたかは分からないけれどもクリスマスイブの食事を共にする機会が何度もあるとも思えない。やはり、クリスマスイブは特別な日を演出する。

2015-12-24 東京ミッドタウンのイルミネーション


12月26日(土)   <昨日のクリスマス・・・>
昨日のクリスマスの一日は非日常があっという間に過ぎ去ったので、”コラムを書く”習慣まで忘れていた。今日もまたコラムを書かずに終わりそうなところを写真掲載で記録を残す。日本に一時帰国中の孫娘MIEU等と夕刻から「工場夜景ジャングルクルーズ」に参加した。横浜赤レンガ倉庫の埠頭から出航して主に京浜工業地帯の工場夜景を見て回るクルーズだ。写真がすべてを語ってくれるので細かい説明はなしとするが、約90分間のクルーズの間に日の入りから日暮れた後の夜景、そして満月の月の出まで内容が豊富だった。写真に撮ることが出来なかったが、港の海面から徐々に昇ってくる真っ赤な満月は人工の工場照明とは異なった宇宙・自然の神秘的な美しさを見せてくれた。

 2015-12-26 @横浜港&京浜運河


12月27日(日)   <東京新宿・末廣亭の寄席・・・>
東京新宿・末廣亭の寄席(夜の部)に行って先ほど帰ってきた。ニューヨークから帰省中の孫娘mieuと父親等の東京見物に今日も付き合ったのであるが、mieuにとっての寄席の初体験は面白かったに違いない。夕方5時から中入り(休憩)をはさんで夜の9時まで、10数人の芸人がそれぞれの芸をみせる。 落語以外に漫才や奇術、太神楽(曲芸)なども加わる。”付き合い”だけでなく、こちらも十分に楽しんだが、それにしても芸人の数の多さを再認識させられた。テレビでみる芸人はたまたまラッキーに名が知れて膨大な収入を得ているが多くの芸人は同等の能力があっても下積みで地味な生活なのだろうと勝手に推測する。そして当然でもあるが、落語家と言っても表現力も個性も人それぞれで皆異なる。高座で自由なトークを織り交ぜて話をすると、ひがみっぽい人、独りよがりの人など性格が見事に表れてしまうので、人前での話は恐ろしい。寄席は芸を笑って楽しむ他に人間観察としても面白い。


12月28日(月)   <なんと、原宿の「カワイイ・モンスターカフェ」で・・・>
なんと、原宿の「カワイイ・モンスターカフェ」で昼食をした。きゃりーぱみゅぱみゅさんの美術や演出を担当した増田セバスチャン氏がプロヂュースしたカフェとして知る人ぞ知る。過激というか常軌を逸したというか表現し難いが今はインターネットで直に雰囲気が伝えられる(=ここ、カフェのサイト=ここ)。誰かと一緒でないと私たち夫婦だけでは決して入りきらない食事処ではあるが、あえてドギツイ化粧をしてハデ派手の服装をした”モンスターガール”さんやウェイトレスさんたちがとても礼儀正しく気持ちがよい。モンスターガールさんたちの特別ショウもあった。おとぎの世界に迷い込んで周りを見回しているうちに、あっという間に時間が過ぎた。満足感は言うことなしだから正にベストのおもてなし。また若い子と行ってみたいなぁ・・。

 2015-12-28 座った席からみたところ        モンスターガールさんのショウ


12月29日(火)   <冬の日は視界がよく・・・>
冬の日は視界がよく遠くがクリアにみえることを、この数日の好天気で実感している。霧や靄(もや)がないことはもちろんだが、今は自動車の排気ガスや工場による大気汚染が格段に少なくなっているのでうれしい。日本では河川の汚れなども含めて公害対策は確実に実績をあげた。放置した場合どうなるかの体験をしながら”為せば成る”ことを実証したのが大気や河川の汚染対策であろう。一方で今現在まだスモッグの公害に悩まされている中国・北京やイタリア・ミラノなどの状況を聞くと、地球規模では依然大きな課題が残っている。日本の卓越した公害対策技術をもっと世界に提供できないものか。
下の写真は約10km先の新宿方面を撮影。光と陰は時々刻々と変化する。諸行無常(最下は今朝の朝陽)。


12月30日(水)   <昨日に続いて早朝の風景・・・>
昨日に続いて早朝の風景を掲載する。今日は昨日と逆の西方向、つまり海側ではなく山の見える方向の景色である。何度も同じようなことを書くが、山も建物も街並も何でも個体はただ同じ形で存在しているだけであっても光の当たり具合で全く見栄えが変わる。空や雲の色や形、空気の透明度、光と陰の濃淡などそれぞれの条件が加味されて一つの個体は色々な姿に見えるが自らが変身した訳ではない。そしてその姿の善し悪しは見る人の感性で決まり絶対評価で良いとか悪いとは言えない。人間自身の見え方、評価についても同じであるといつも風景を眺めながら思う。絶対評価で善し悪しは言えないし、光の当て方や見る人の感性でどうにでもなる。一昔前、革新統一による東京都知事となった美濃部亮吉氏は穏やかなニコニコ顔で人気があったが”富士山のような人”とも評されたことが記憶にある。孤高だけではない、富士山は遠くで見ると美しいけれども、近くで見ると粗ばかり見える・・。・・もう一葉の写真は千代田区紀尾井町のホテルニューオータニ・ザ・スカイ(17F)からみた新宿方面の風景。私は新宿のビル群はすぐ側まで近づいても好きだなぁ・・。

2015-12-30早朝・二子玉川方面をみる

紀尾井町からみた新宿方面


12月31日(木)   <大晦日の今日も晴天・・・>
大晦日の今日も晴天。静かに年が暮れていく。”無事に”年末そして新年を迎えることができる幸いを思う。何か特別の”事”がある時には、自分でどれほど精進しようが、善行に努めようが、神仏にお願いしようが、運命には逆らえない。7年前に息子を病気で亡くした際がそうであった。一方で、今は身体が健康で、生活環境にも恵まれている。誰に感謝すべきか、多くの人と共にやはり神に感謝・・。年が明けると「後期高齢者」となる。最近、高齢化社会の現実を目の当たりにしながら、高齢者はただ生きているだけでなく、どんな些細なことでもよいから「他人のため」、「社会のため」の存在でありたいと思うようになった。私自身はまだやりたい事は多いが、それで誰かが喜んでくれればベスト。年を境に変わる気力を持ちたい・・。


これまでの「今日のコラム」(総括版)に戻る

 Menu + Picture + Ceramics + Gallery + Corgi + Special + Links