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第八回「江戸桜小紋」
原作:「江戸桜小紋」
   (『鬼女の鱗』より)
脚本:松平繁子
演出:吉田雅夫
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[あらすじ]
 夜。満開の桜の下を娘が走ってきた。どうやら人を探しているらしい。
「善さん、どこなの?……あら、こんなとこにいたの」
 「善さん」と呼ばれた男は花の咲いていない木・咲かず桜のところにいた。彼は
なにかにとりつかれた様子で娘に、夫婦約束を無かったことにしようという。「私
をかついでるんでしょ」と、娘は男を連れて帰ろうとした。その時、咲かず桜に人
の姿が浮かんだ……。

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 咲かず桜。別名・首吊り桜ともいう。昔、誰かが首を吊ってから花が咲かなくな
ったといわれている。
 辰は、昔働いていた染め物屋と親交のあった染物屋「型万」に行った。彼は今人
気の杜若小紋を分けてくれと頼む。小紋の型付けをしているのは善吉という職人、
彼は「型万」の娘・光と祝言を挙げることになっていた。辰は挨拶がてら善吉の仕
事を見に行った。辰が杜若小紋を見ていると、兄弟子の利七が入ってきた。彼は善
吉の作っている型を捨ててしまう。
「型がずれてる。むらがある! 何年、型付けやってんでぇ! 完成した型を台無
しにする気か!」利七はそれだけいうと出て行った。
 その夜、善吉は咲かず桜に見入っていた。

 翌朝……。
 辰の家を利七が訪ねてきた。昨日渡した杜若小紋の型がずれているので、返して
欲しいというのだ。そこへ、桜並木の土手で、善吉が土左衛門で見つかったという
知らせが入った。死体には額に打った傷があった。
 光がいうには、ある夜咲かず桜で幽霊を見てから善吉の様子がおかしくなったら
しい。「あの幽霊が善さんを殺したんです! そうに違いありません!」
 辰は、光の祝言の相手を兄弟子の利七ではなく、弟弟子の善吉にした訳を訊いた。
腕からいっても順序からいっても利七ではあるが、光が気に入ったのが善吉の方だ
ったのだ。利七が入って来たので辰は、前夜何をしてしたのか訊ねる。疑われたと
思った利七は怒って部屋を出て行った。
 利七が霊厳島の石屋に地蔵を頼んだという。供養の積もりだろうか。そこへ愛染
さまの六福神が壊されたという話を、香具師の左五丈が持ってきた。壊された石で
小さな六福神を作って、売りだそうというのだ。石屋を訪ねた辰は、利七の注文し
た地蔵について訊いた。
「ああ、弁天様ですね。利七さんがいうには、愛染様の六福神は、どう考えても納
まりが悪い。別に弁天様を奉納して、きちんと七福神がそろうようにしたい」とい
うことだった。だが、その注文も愛染様の坊主に奉納を断られたので、とりやめに
なったそうだ。
 型万を辰が訪ねた。利七について訊こうと来たのだが、彼は昨夜出て行ったきり
戻ってこないという。だが型万では、舞台衣装に使う杜若小紋の見本を明日まで仕
上げなければいけない。辰は、その仕事を自分にやらせてくれと言った……。

                   (以下原作のネタバレになるので省略)


[みどころ]
 ・杜若小紋の型を作る辰。前回「辰巳菩薩」で辰が筆を持ったのも、このための
  伏線か? その後の利七の仕事振りも、その辰の後だけに、余計迫力がある。


[原作との比較]
 原作での語り手は松吉。彼が友達の元役者・門脇窓香と咲かず桜を見に行ったと
ころ、その咲かず桜が枯れている。枯れる前にその桜で首を吊った男がいた。その
男が善吉。そこへ愛染様の六福神が壊されたという話が来る。型万の娘の名前は原
作ではお絹。お光にしたのは天庵の下働きのお絹との重複を避けたためか。
 この話ほど映像化に向かないものもないだろう。「宝引の辰」というより捕物帳
版「亜愛一郎」という趣がある。そして、そういう話は活字の上でこそ説得力を持
つものであろう。そういう意味でこの話の脚色は致し方ないのかも知れない。が…
…。
 やはり文句になる。原作では窓香が役者をやめて衣装方になった理由がそのまま
話の伏線となり、最後のロジックに説得力を持たせている。それだけにそのエピソ
ードをまるまるカットしたのは不見識と言わざるを得ない。咲かず桜を怪談風にし
たのは何をかいわんや、である。原作では「なぜ咲かず桜を枯らせたのか」から職
人の自殺、壊された六福神という形でストーリィに沿って伏線を張っている訳で、
しかたないことではあるにしても、疑問の残る脚色であろう。
 時代考証について。放映当初から不思議に思うのは武家娘の茜。当時の、嫁入り
前の武家娘が、供も連れずに外出できるものだろうか? それと、最後に出てくる
大名行列。大名行列に対しては、普通、土下座はしません。脇によるだけで問題は
ない。この二点は、時代劇一般に見られることなので、一概に脚本家を責めるべき
ではないのかも知れないが。


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