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第十八回「毒を食らわば」
原作:「毒を食わらば」
   (『自来也小町』より)
脚本:丸山顕応
演出:片岡敬司
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[あらすじ]
 河豚を囲む四人。三人が箸を伸ばし、残りの一人がそれを見ながら言う。
「……本日は秘伝の技を用いて毒抜きした肝をご用意させて頂きました。ただし、
此度はたっての注文に従いまして、毒を少々残した肝を一かけらだけ混ぜておりま
す」客の一人が思い切って肝を口に入れた。続いてもう一人。
「どうか、お覚悟の上、ご賞味を」……。

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 質屋の富山屋四郎兵衛が死んだと松吉が辰へ知らせてきた。河豚にあたって死ん
だということだ。富山屋は最近、河豚料理屋の「ひげ新」で仲間と肝試しをしてい
た。毒抜きをした肝の中に、一切れだけ毒を僅かに残したのを入れ、それにあたる
か、途中でやめれば負け。勘定は負けた者がもつ。それでとうとう死んでしまった。
 富山屋の内儀は柳の幼なじみ。辰と柳とが富山屋へ行くと、遺体の前で男が話し
ている。内儀のすわと、鶴次と呼ばれたその男の前で辰と柳が悔やみを言っている
ところへ能坂が現れた。その後ろから「ひげ新」の主人が座敷へ入ってきた。「ひ
げ新」はすわの前に座ると、
「旦那さんはうちの河豚にあたったんじゃござんせんよ」と言った。この道三十年、
毒の加減を間違えたことはないという。これは河豚の毒に見せかけた殺しだと彼は
言った。
 富山屋と河豚を食べたのは本田屋の六郎次と鳶の現八。六郎次は富山屋に借金を、
現八は、富山屋からの仕事で無茶な値引きを強要されていたという。
 富山屋の裏庭で鶴次と富山屋の子供・佐吉が遊んでいる。鶴次は富山屋出入りの
植木屋。座敷では柳がすわを慰めている。と、佐吉が座敷に上がってきた。腕に痣
があった。
 長屋に帰った辰は鶴次のことを柳に訊いた。彼は柳やすわとは幼なじみで、もと
は大店の若旦那だったのだが、商売がうまく行かず、今は植木屋をやっているとの
こと。
「言うに事欠いて、殺しだなんて。おすわちゃん、かわいそう」という柳に辰は、
「ひげ新」のいう通り、富山屋は殺されたと言った。屍体の胸にはかきむしった跡
がある、河豚にあたって死んだのなら、胸をかきむしる訳がない。別の毒を盛られ
たということになる。

 翌日……。
 通夜の手伝いに富山屋へ来た柳は、裏庭ですわと鶴次が話しているのを見る。気
になった柳が富山屋の胸を見ると、かきむしった跡があった。
 柳がすわに訊いたところ、富山屋は、死ぬ前の晩に茄子を食べたという。茄子は
河豚の毒消しになるのだと、いつも富山屋は河豚を食べた後は生の茄子を食べてい
たという。そう教えたのは鶴次で、鉢植えの茄子を富山屋に持ってきていた……。

                   (以下原作のネタバレになるので省略)


[みどころ]
 ・今回、六郎次役で、シリーズの音楽を担当している本多俊之が出演。
 ・真犯人の告白と動機。辰の解決。「鬼女の鱗」と同趣向ではあるが、今回の方
  がくどくない分だけ、出来がよいと言える。


[原作との比較]
 原作での語り手は松吉。河豚を食べるのは富山屋と内田屋、神田伯馬、鳶の頭の
火焔山の現八。神田伯馬が質に入れた羽織のことで、伯馬、富山屋、内田屋が喧嘩
になる。それを現八が取りなし、仲直りの河豚を食べる。料理屋の「ひげ新」は夢
裡庵先生捕物帳「泥棒番付」(テレビ版第六回)で押し込みの入った店。テレビの
脚色で神田伯馬を外し、河豚の肝試しという設定にしたのは、「講釈連続殺人」
(原作「経師屋橋之助」)で、ああいう脚色をしたからであろう。原作では松吉が
活躍し、重要な証拠も見つけるのだが、テレビでは柳が活躍するため、彼に活躍の
場が与えられなかった。
 『宝引の辰』シリーズで、この話ほど脚色を必要とするものもないだろう。と、
いうのは、原作のトリックに科学的な誤りがあり、およそ実行不可能だからだ(真
似されないように、わざとああいうトリックにしたのかも知れないが)。だから、
今回の映像化でトリック部分がどういう形で処理されるのかと期待していた。結果
は原作通りで、科学的な誤りはそのまま踏襲されていた。今回の脚色も、基本的な
設定とメイントリック以外は全く別の話になっている。特に冒頭のロシアン・ルー
レット風の肝試しなど、嫌う人は多いかも知れない。だが、全体として今回の脚色
は成功だったのではないかと思う。原作は、いわばワン・トリックものであり、そ
のトリックが不可能であるだけに、あまり成功しているとは言えない。今回の脚色
では柳をメインに持ってきたことで、ゲストキャラクターが活きていた。犯人の動
機や最後の辰の解決などは、いわばパターンではある。だが、今回はそのパターン
が充分に活かされた脚色だったのではなかろうか。脚本家が変わるとこれだけ違い
が出るものなのだ。
 時代考証について。重箱の隅をつつくものを二つほど。頓鈍の科白のなかに「い
かした男」というのがあったが、これなどは明らかに現代語ではなかろうか? そ
れと、最後に犯人が辰に両手を差し出す部分。両手を前に出すのは手錠の輸入され
て以降。このころの日本にそんな慣習はない。これは僕もつい最近になって知った
ことなので、偉そうなことは言えないが。


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