- 江戸で初めての上水道をつくった男 -

お菓子な旗本 大久保主水


1.プロローグ


 家康の家臣に大久保藤五郎忠行という人物がいた。
 永禄六年(一五六三)の三河一向一揆の際に腰に銃弾を受け、戦の第一線から引退するのだが、江戸入城を前にして家康から水道を見立てるよう仰せつかる。
 このとき藤五郎は自力では歩けない身体障害者であったようなのだが、あえて藤五郎を江戸に派遣し、飲料水に相応しい流れを探させたのか、それはひとつの謎である。『天正日記』によれば藤五郎は三カ月という短期間のうちに水源を発見し、普請事業をやり終えた。これを小石川上水という。ちなみにこの『天正日記』は偽書であるといわれていて、三ヵ月というのも早すぎるのではないか、という疑問が呈されているのだが、ここではとりあえず追求しない。

 神田上水道の元になったともいわれる小石川上水の仕事を終え、藤五郎は家康から主水という名前を授かる。水は濁ってはいけないので、もんど ではなく、もんと と読むように、という話は、大久保主水を紹介する際によく引用される逸話である。
 さて、藤五郎はこの成果によって出世したのだろうか? 応えは否である。加増されたわけで、水道奉行を命ぜられたわけでもない。禄を返上して菓子屋を始めるのである。といっても、町人相手の菓子屋ではない。幕府の御用菓子司である。
 御菓子司大久保主水には屋号がない。「大久保主水」を店名に、十五代将軍慶喜の時代まで御用菓子司をつとめ、最後まで御用達菓子司筆頭の地位を降りることはなかった。

 なぜ御用菓子司になったのか。はっきりしたことは分かっていないのだが、何種類か存在する由緒書きなどを見ると、藤五郎はもともと菓子づくりが好きで、戦傷によって第一線を退いてからは、家康の陣に菓子を差し入れていた、などという話もある。そういう事実があったのか、のちのちつくられた逸話なのか、その辺りははっきり分かっていない。
 また、自らが武士として働けなくなったことに加え、実子がなかったことも、武士をやめたことの理由になっているのかも知れない。
 藤五郎の妻については、三河時代に既にいたような記述もあるし、小田原北条氏の家臣の娘であるような言い伝えもある。正確なことは分からないので、このあたりは想像に任せるしかない。

 話を戻そう。
 大久保主水の業績は、その資料性に問題があるといわれており、具体的になにをどうしたのか、はっきりとは分かっていない。そのせいか、大久保主水について詳しく書かれた書籍はない。また、人物の多面性ゆえか全体にスポットを当てて論じたものはなく、水道関係の本では「お菓子もつくった」と言及される程度であり、菓子関係の本では「神田上水の開設者としても知られる」といった案配である。同じ人物であるのに、その生涯全体に注目されていないのが物足りない。
 情報も少ない。本人が書き残したのかも知れない由緒書きが一通残されているだけど、第三者が主水について書き残した文章は残されていない。あるのは、伝聞や後の世の言い伝え、先祖を美化する由緒書きなどがあるだけである。
しかし、そういったものでも、つなぎ合わせていけば新しい視点が見えてくる可能性もあるのではないか。
 そう考えて、様々な史料にアプローチしてみた。参考にしているものの大半は、先人が渉猟したものばかりである。新発見は少ない。ただ、そうした先人の資料でも、そう簡単には閲覧できない。たとえ閲覧できたとしても、草書体で書かれた古文書も多く、そう簡単に読むことができなかったりする。なので、すべて読みこなした上での論考ではないのだけれど、それなりに集積することはできたのではないかと考えているところである。


(2018.05.xx)
(2019.03.22追記)
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