- 江戸で初めての上水道をつくった男 -
お菓子な旗本 大久保主水
2.大久保藤五郎忠行の出自について
大久保藤五郎忠行について分かっていることは少ない。その出自についても、あるのは、後世になって子孫が書いた由緒書きがあるばかりである。
生年も分かっていない。後代になって子孫が作成した由緒書き*によれば、大久保忠茂の五男となっているが、寛政時代に幕府によってつくられた大名・旗本などの家譜である『寛政重修諸家譜』の大久保氏の項目に登場しない。
『寛政重修諸家譜』によれば大久保忠茂の子供は、分かっているだけで男子が五人。順に忠平、忠俊、忠次、忠員、忠久で、本来なら第六子に当たるはずだが、家系図に書かれていない。
理由として考えられるのは、寛政時代に藤五郎は主水と名前を変え、しかも、武士をやめて菓子司になっていたことによるのかもしれない。しかし、長男の忠平については、太りすぎで戦に出ることができないので跡取りの地位を放棄して生まれ故郷の三河に戻って跡継ぎの立場を辞している云々と書かれているのであるから、藤五郎忠行(主水)について言及してもよいのではないかと思うのだが、なにも書かれてはいない。
*由緒書きは何種類かあるのだが、ここではとくに特定しない。
大久保藤五郎が青春時代を過ごしたのは、戦国時代のことだ。その当時の様子を簡単におさらいしてみよう。主に、主君である徳川家康の生い立ちについて見ていくことにする。