- 江戸で初めての上水道をつくった男 -

お菓子な旗本 大久保主水


4.若き日の藤五郎について


家康の小姓だった藤五郎
 大久保藤五郎(? - 元和三年/一六一七)は若い頃から家康(一五四三 - 一六一六)に仕えていたと記録されている。たとえば 『荏土図説附録巻四 町人家譜之部』では、「元祖者藤五郎と号し、三州にて御小姓也」とつたえている。また、『東照宮御実記附録 巻六』では「菓子の事うけたまはる大久保主水といへるは。その祖大久保藤五郎忠行は左衛門五郎忠茂が五男にて。三州におはしませしころ小姓勤めしものなり」としている。小姓といえば前髪をとく前の職で、少年の頃から家康のそばで何かと世話をしていたと考えられる。家康が人質生活を送っている頃から小姓をしていたとすると、藤五郎は家康について駿河に行っていたのかも知れない。
 元康が人質生活を終えて岡崎に戻った永禄三年(一五六〇)以降にその役目を命じられたとすれば、元康よりも年下だったのかも知れない。元康にとっては何人かいた小姓の一人ではあろうが、日常的に近従として親しく接していたと考えられる。

大久保一族について
 大久保家は、元は下野国(栃木県)の住人で宇都宮と名乗っていたようだ。越前などを経て三河にやってきて名を宇津と改名し、家康の祖にあたる松平信元に仕えたと『藩翰譜』にある。三河一向一揆(次項以降で詳述)時代の長老は宇津左衛門五郎忠茂で、大久保藤五郎忠行はこの忠茂の子として三河の国に生まれた。生年は定かではない。
 忠茂には六人の男子がいたようだ。ようだ、というのは、すでに述べたように『寛政重修諸家譜巻七百一』によれば忠茂には五子あって、順に忠平、忠俊、忠次、忠員、忠久となっているが、長男の忠平については「忠平肥満して軍事に奔走することあたわず。故に嗣を辞し三河に退居す」となっており、次男の忠俊が父忠茂の跡を継いだ。なお、大久保と改姓したのは忠茂あるいは忠俊の代からといわれている。
 忠員には忠世以下、忠佐、忠包、忠寄、忠核、忠為、忠長、天下のご意見番として有名な忠教、忠元などの子があり、いずれも戦で活躍、または、討死にしている。なかでも忠世の子、忠隣は小田原城主にまでなった。
 さて、藤五郎は幕府が編纂した『藩翰譜』『寛政重修諸家譜巻七百一』には、既に述べたように登場しない。一方、家伝資料である『大久保惣系譜』には忠茂の子として忠俊、忠次、忠員、忠久、忠行(藤五郎・主水)の五子が記され、忠平が省かれている。幕府にとって大久保主水はすでに武士ではなく町人身分で、系譜に改めて記載する必要を認めなかったのかも知れないが、正確なところは分からない。
(2018.05.03)



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